大内義隆供養塔 龍福寺 | 墓守たちが夢のあと

墓守たちが夢のあと

歴史に名を残した人物の墓所データベースです。

イメージ 1

龍福寺本堂

 

 

 

 山口は室町時代に、ここを拠点に中国地方から九州地方にかけてを勢力下に置いた大内氏が、京都を模して整備したため「西の京」と呼ばれていました。
 山口市大殿大路の龍福寺は、建永年間(1206~1207)に白石の地に、18代大内満盛が創建した寺院だそうです。
 絶大な勢力を誇った大内氏も天文20年(1551)に重臣・陶晴賢の謀反により、31代大内義隆が自刃に追い込まれ滅亡しますが龍福寺もこの時に焼失しています。弘治3年(1557)義隆の七回忌に際して、大内氏に代わり中国地方の覇者となった毛利元就の嫡男・毛利隆元が大内氏の館跡である現在地に寺院を再建し義隆の菩提寺としました。
 龍福寺の本堂は明治14年(1881)に焼失したことから、明治16年(1883)、大内氏の氏寺である山口市大内御堀の興隆寺にあった釈迦堂を移設して本堂としています。
 なお、大内氏の館があった頃にはキリスト教布教のため天文19年(1550)に来日したフランシスコ・ザビエルが大内義隆に接見し布教の許可を得たそうです。
 
イメージ 2
大内義隆供養塔
 
 龍福寺境内には大内義隆の供養塔があります。建立は平成12年と新しく、義隆450回大遠忌にちなみ、長門市大寧寺にある義隆のお墓を原寸大に複製したものだそうです。
 
イメージ 3
大内義隆辞世の句碑
 
境内には、他に義隆辞世の句碑があります。
               
  「討つ者も 討たるる者も 諸ともに 如露亦如電 応作如是観」
                         
討った者も、討たれる自分も、どちらの命も、露のように儚く、雷のように短いという意味だそうです。事実、義隆を自刃に追い込んだ陶晴賢も、その4年後には毛利元就との戦いに敗れて自害しています。
 
山口市大殿大路119番地
撮影日:2012.11.15