黒田清隆の墓(中)、妻・清の墓(右)
黒田清隆
黒田清隆は、天保11年(1840)に薩摩藩士の家に生まれ、幕末には薩長同盟のため奔走します。戊辰戦争に際しては北越から庄内までの北陸戦線と、箱館戦争で新政府軍の参謀として指揮をとり榎本武揚らの助命を働きかけています。開拓長官として明治3年(1870)から2年間、北海道の開拓を指揮する一方、政府首脳として、明治9年(1876)に日朝修好条規を締結する等して活躍します。
大久保利通が暗殺されると薩摩閥の最大実力者となりますが、開拓使の廃止直前に開拓使官有物払下げ事件を起こして指弾されます。しかし、その後も薩摩閥の重鎮としての立場は変わらず、明治21年(1888)4月から伊藤博文の跡を受けて第2代内閣総理大臣に就任しました。
黒田内閣の時代は、大日本帝国憲法の発布が行われています。(憲法制定作業は前内閣で完了)。しかし、不平等条約改正交渉において交渉を主導した外務大臣・大隈重信が改正内容に反対したグループによる爆殺未遂事件で右足を切断するという事件が起こると、翌年、混乱が治まらない中、黒田は総理大臣を辞任します。その後は元老となり、枢密顧問官、逓信大臣、枢密院議長を歴任し、明治33年に脳出血のため死亡しました。
黒田清隆は酒乱として知られ開拓長官時代、商船に乗船した際に、酒に酔って船の大砲で面白半分に岩礁を射撃しようとして誤射。住民が亡くなり示談金を払うという事件を引き起こしています。
また、明治11年(1878)に病弱であった妻の清が亡くなっていますが。このとき、黒田が酒に酔って妻を殺したのだという噂が流れます。当時の大警視・川路利良は清の墓を開け、病死であることを確認しますが、この時、川路は検死官を呼んでおきながら棺を開けたとたんに病死であるとして埋め戻したともいわれています。真相は分かりませんが川路も薩摩出身で、大久保利通の意向により黒田をかばったと言われています。この出来事から間もなくして大久保利通が暗殺されたため、暗殺事件の遠因となったとも言われています。
黒田清隆の墓は青山霊園にありますが、隣りには清隆が殺害したと噂された妻・清の墓もあります。
墓所:東京都港区南青山 青山霊園 1-イ1-9~10 地図
撮影:2012.5.2
黒田清隆の墓は青山霊園にありますが、隣りには清隆が殺害したと噂された妻・清の墓もあります。
墓所:東京都港区南青山 青山霊園 1-イ1-9~10 地図
撮影:2012.5.2