大河では 町人文化 華やかも

   光る君へロス 今も引きずり

 

 華やぎの 大河を観ても なお胸に

   光る君への 余韻離れず

 

 真夏日の一日でした。

 

 この暑さでしたが,午前中は昨日に引き続き畑での除草(草刈り機にて)を行い,午後からは身体を休め,夕方になり施餓鬼会のめ西林寺へ出掛けておりました。

 

 西林寺では,本尊の十一面観音菩薩像を安置しており,その周囲の段(コの字型)には,檀家の方々の名札が掲げられており,小生の名前が本尊のすぐ横にあったのには驚かされました。

 

 ところで,今年の大河ドラマ「べらぼう」は,最初の3回までは熱心に,視聴していたのですが,その後は,民放のコマーシャルの合間に目にする程度になっており,

 

 前回の「光る君へ」の時のように,日曜日の夜8時を心待ちにする気持ちは薄れてしまったのです。

 

 「光る君へ」は,平安時代中期の貴族社会を舞台に,紫式部という一人の女性が,どのようにして『源氏物語』を書くに至ったのかを描く作品で

 

 当時の世の中の移り変わりも表現されており,その余韻はいまも心に強く残っており,新しい大河を観ても「光る君へ」を忘れられずにいるのです。

 

 これはあくまで,自分自身の感じ方であり「べらぼう」というドラマを批評する意図はなく,前作「光る君へ」の余韻が,心に残っているだけなのです。

 

 洗濯を 干せば香りが 風に舞い

   無心のままに 空を見上げる

 

 帰省していた子や孫が,本人の居住地へ帰り,部屋の掃除や,洗濯・布団乾燥とかで,忙しく働いておりました。

 

 今年は,2家族が8月5日~8日と8月12日~15日と,それぞれ3泊4日を我が家で過ごしており,本人たちにとっては,ゆっくり羽を伸ばせた,夏休みであったようなのです。

 

 我は雑鳥が990回目となり,今日は何を詠もうかと,考えていたら,嫁が2階ベランダで,洗濯ものを干しているのを見て,何となく思い付き,今回の一首にしてみました。

 

 幾たびも 昔のことを 思い出し

   夢の如きに 時は流れて

 

 懐かしき 記憶は幾度も よみがえり

   時はめぐれど 色あせもせず

 

 懐かしむ行為は,自己の歩みを振り返り,今の自分を確かめるための自然な営みであり,

 

 人は,自分にとって意味のあった場面や感情が伴った出来事を,何度も心の中で噛み砕き,確認したくなる傾向があるようなのです。

 

 また,匂い・音・景色などの何気ない刺激は,過去の経験と強く結びついており,無意識に記憶を呼び起こし,

 

 こうして事ある毎に,ふと蘇る記憶は,感受性の豊かさと,脳の働きや心の習慣がもたらす万華鏡のようなものなのでしょう。   。

 

 今日の二首は,墓参りをしたり,仏壇にお供え物をていた際に,何となく閃いたのです。

 

 孫のため 我が身を律し 生きる日々

   何があっても こころ騒がず

 

 子や孫が帰省するというので,部屋の掃除とか,布団乾燥などで忙しく働いていた一日でした。

 

 今日の一首は,窓と網戸を絞った雑巾で拭いていた際に,閃いたのですが,

 

 孫のためとは,やがては代が替わり,お爺さんは,こんな人であつたと,他人から聞かされた時に,

 

 困難な時でも,何とか切り抜け,それなりに辛抱強く生きていた人であったと,知って欲しく,何があっても,こころ騒がずとしてみました。

 

 何事も 言わぬが花と 心得て

   こころ静かに 日々を歩むや

 

 「言わぬが花」とは,語らぬことにこそ美しさや深みが宿るという,日本独特の間や余白の文化であると思われ,

 

 それを実践して,こころ静かに日々を送るというのは,単なる沈黙ではなく,自己を律し,周囲との調和を重んじる姿勢ではなかろうかと考えていたのです。

 

 しかしながら「言わぬが花」を貫くには,孤独や誤解と向き合う覚悟も必要であり,この生き方は,ただ控えめなだけではなく,内に深い成熟を秘めたもののようでもあると, 思い巡らせておりました。

 

 何やら,大袈裟に書いてしまいましたが,家庭内でも,話が嚙み合わないことは多くあり,それならばと,余計なことは口にしないように,心掛けているのです。

 

 冷蔵庫 パタンと音たて 閉めるのは

   冷気の漏れを 防ぐためかな

 

 最近の事なのですが,冷蔵庫の扉が時折わずかに開いていることがあったので,物の入れ過ぎかなと思い,棚やドアポケットの中を整理整頓したところ.

 

 何とか,閉まるようになったものの,

 

 時々にドアが5mmくらい開いており,

 

 これはまずいと思い,冷蔵庫のドアを閉める際には,パタンと音を立てて閉まったのを確認しているのです。

 

 最近はブログネタが尽きており,今日は取り合えず,冷蔵庫で詠んでみました。

 

 熱い湯も 時間が経てば 冷めてくる

   無心で居れば 何かが見える

 

 夏晴れの一日であり,今日は子供や孫の帰省に備え,食料品の買い物に出掛けたり,布団の乾燥や部屋の掃除とか,台所や風呂場の掃除に追われ,慌ただしく過ごしておりました。

 

 今日の一首は,そんな時間の中で,何となく閃いたので,メモ用紙に書き留めていたのですが,

 

 熱い湯も,時間が経てば,冷めてくるという状態を,心の熱(高ぶりや執着)から離れて,無心で居ることと結びつけ,

 

 心においても,あるがままに任せれば,何かが見えてくると思われたのです。

 

 何事も 力まずそっと 向き合えば

   有りの儘こそ 強さとなりぬ

 

 今日一日も,事故なく病気なく過ごせたことは有り難く,何時ものとおり,パソコンの前に座り,キーボードを叩き始めました。

 

 我は雑鳥が,あと少しで,1000回になると思いつつ,ブログを更新しているのですが,短歌を詠むのは慣れてきたものの,自分なりのコメントを入れるのに暇がかかる時もあり,

 

 そんな時には,何事も力まず,有りの儘にて向き合えば,そこに知恵が出る時もあるのではなかろうかと,考えていたのです。

 

 蝉時雨 空をつらぬく 声の束

   時を刻んで 夏は深まり

 

 今日から8月となり,水田では,稲穂が出る頃となりました。

 

 この出穂に対しては,穂水が必要になるので,2日に1回は,水田に水を入れており,

 

 畑では,スイカ・メロン・マクワウリ・白瓜・ナス・トマト・キュウリ・ネギ等が育っている畝に水を施しながら,毎日を過ごしているのです。

 

 今日の一首は,今朝のこと何となく閃いたのですが,蝉時雨の束が空間を揺さぶっているようでもあり,

 

 その声が,時を刻むようにも聞こえ,夏が深まっているのが感じられたのです。

 

 瀬戸際を その場凌ぎの 言い訳で

   押して通すは 見事なりけれ

 

 言い訳は すればするほど 見えてくる

   言葉の陰に 未熟な弱さ

 

 人生においては,様々な問題に立ち向かわねばならぬ時があるところ,本人の過去について問われた際には,不都合と思われる内容は忘れたことにして,その場を凌ぐ術があるらしく,それがまかり通る世界もあるのには驚き,本日の二首にしてみました。

 

 しかしながら,言い訳と思っていたことが,実は切実な背景や正当な事情だったというケースもあるので,一概に言い訳は悪とは言えず,伝え方やタイミング,そして受け手との関係性によって,言い訳が理解に変わることもあると考えていたのです。

 

 さてさて,金庫の中で保管するくらい重要な品物なら,本物であると思われるのですが,これが偽物であったなら,今までの努力が無駄になってしまうのでしょう。