この短歌 千回詠めど 物足りぬ

   なお届かざる 思ひありけれ

 

 稲刈りが終わり,ホットしているのですが,今年の稲刈りは,数年前から毎年に依頼している,専業農家のコンバインの調子が悪く,

 

 刈り取った稲穂が,何とか脱穀機の入り口を通ったものの,脱穀したのかスルーして,コンバインカッターで稲穂が切り刻まれたのか不明であるところ,

 

 全体の三分の一の,刈り取りが過ぎて一休みした際に,小生において家に帰り,愛媛井関城南営業所へ電話して,不具合について聞いてみたら,

 

 修正方法を教えてもらい,その通りに(専業農家の人も,コンバインの取り扱い説明書を再確認)したら,コンバインの調子が良くなり,無事に稲刈りを終えたのでした。

 

 ところで,本日の一首についてですが,創作は,続けるほど感性が磨かれ,過去の自分の表現に満足できなくなり,常に「もっと良く出来るのではないか」という思いがつきまとうらしく,

 

 物足りなさは,創作の欠点ではなく,むしろ創作を続ける力の源とも言え,短歌のように,限られた音数で詠むものは,どうしても言い切れぬ余白を残し,全ての気持は届かないところ,

 

 その余白こそ,読み手の心を揺さぶり,共鳴や想像を呼び起こすのだと考えていたのです。

 

 そんなことで,今の気持ちを大切にして,何時まで続けられるか分かりませんが,これまで通りに,続けてみたいと思っているのです。

 

 2025/9/8 AM11:45 追記

 米の収穫量が,気になっていたのですが,18アールの水田から,昨年は30kg×26袋でしたが,今年は30kg×29袋の玄米が穫れて,3袋も多かったので,何はともあれ,安心しているのです。

 

 諺の 岩をも通す 一念は

   夢を叶ふる 力となりぬ

 

 台風が過ぎ去って,秋風が心地よく,空気の澄み渡った一日でした。

 

 水田では,稲刈りを始める頃となったのですが,我が家の田畑は,台風の影響を免れたものの,

 

 稲が倒れている水田を目にすると,自分も同じような稲を刈り取ったときの大変さを思い出しておりました。

 

 我は雑鳥が千回目となり,何を投稿すべきか迷っていたところ,最近は理屈っぽい内容が続いていたので,今回はスッキリとしたものを考えていたのですが,千回まで続けられたので,これらと似た一首を詠んでみました。

 

 「一念岩をも通す」という諺には,強い意志や集中力があれば,大きな障害をも乗り越えられるという意味が込められておるところ,

 

 実際には「念じる」だけで夢が叶うわけではなく,そこから生まれる「持続する力」「行動へ向かう原動力」があってこそ,夢に近づくと考えられているようです。

 

 つまり一念そのものが,夢を叶えるのではなく,一念が,努力を続ける力や工夫する心を生み出すからこそ,結果として夢を叶える力になり,人生訓として今も大切にされているのでしょう。

 

 さて,「夢を叶える 力となりぬ」の箇所は「夢へと続く 道を拓かん」ともしていたのですが,一念があれば,道は必ず拓けてゆくと思われたのです。

 

 念ずれば やがて花咲く 時もある

   願いを込めて 時を過ごすや

 

 以前には,こんな一首を,残しておりました。

 

 正しさを 胸に抱きて 歩む道

   たとえ嵐も 真理を求め

 

 苦しみも 生きてこそ知る 重みなり

   命あればこそ 味わえるもの

 

 正しさを胸に抱くということは,自分なりの信念や倫理観を失わずに生きることであり,他人の評価や世の中の流れに左右されず,心の中心に軸を据える姿勢であると考えられ,

 

 たとえ嵐の中でも,揺るぐことなく,真理を求めるべく,探求を続けて歩む姿勢こそが,生きる力になると思えたのです。

 

 また,苦しみというものは「生きている証」とも言えそうで,重荷のように思える時もあるのでしょうが,

 

 その重み自体が「存在の確かさ」を示しており,命があればこそ,痛みも喜びも味わえるものであると感じられたのです。

 

 秋風が 吹きたる朝も 昼間には

   光まばゆく 青空ひろし

 

 今日から9月となり,早朝は,涼しい風が吹いて,秋が近づきつつあると感じていたところ,

 

 日中は,夏を思わせるような強い日差しが降り注ぎ,陽光が眩しくて,青空が広がる一日でした。

 

 大自然の移ろいは,夏から秋へと,変わりつつあり,松山地方では,黄金色の稲を刈り取る季節となり,

 

 我が家でも,9月7日に,稲刈りを予定しており,明日には落水し,水田の周囲の草を取り除き,当日は,無事に収穫が終わることを,今から願っているのです。

 

 風に揺れ 花は散りても 種残し

   土に眠りて 春を迎える

 

 野菜を育てていると,スイカ・カボチャ・ブンドウ豆・そら豆・インゲン豆・オクラ等は,種を採って,翌年に蒔いているのですが,

 

 その一方で,自生している野菜もあり,今年は,メロン2本とマクワウリ8本が,畑の片隅にて育っていたので,植え替えしたところ,苗物店で購入した苗と同じに育ったのでした。

 

 それも,昨年の秋に,メロン・マクワウリの実に傷が付いていたのを,畑の一角に放置していたら,今年の春に芽が出ているのを発見した時には,命の循環を強く感じ,

 

 人生においても,価値観は,時代とともに,変わりながらも,命は絶えず生まれ変わり,道理はそれを貫く法則として,永遠に存在しているのだと,ふと思ったのです。

 

 種落ちて 自然に生えた スイカ苗

   立派に育ち 大玉付ける

 

 以前には,こんな一首を,残しておりました。

 

 浮き世では 何があろうと 受け流す

   目標あれば 辛い事なし

 

 苦しみを ただ嘆くより 問い直し

   何を学びて 次に進まん

 

 今回においても,未熟ではありますが,農作業の途中で,ふと思い付いたので,投稿しみたい。

 

 最初の一首は,人間関係において,まともに受け止めすぎない姿勢こそが,心を守る上で大切であると考えられ, 

 

 なお,目標があると,嫌な出来事に意識を奪われにくくなり,辛い出来事も「目標達成のための試練」と捉えれば,耐えやすくなると思われたのです。

 

 次の一首は,苦しみを,単なる嘆きで終わらせず,むしろ問い直し,学びへと転じるという姿勢が,人生においては大切であると思われ,

 

 苦しみを,どう生かすか,という人生観を,端的かつ力強く表現してみました。

 

 試練こそ 心を磨く 砥石なり

   光を帯びて 力となりぬ

 

 錆び付いた 心の垢を 落とすには

   自分で決めた 修行あるのみ

 

 閉じ込めた 心の曇り 拭い去り

   過去に別れを 静かに告げて

 

 人の心を「器」や「流れ」にたとえるなら,日々の生活や出来事の中においては,心の垢や曇りが出来ていることがあり,それを雑念・執念・怨念・はからいの心に例えてみれば,

 

 雑念とは,本来集中すべきことから心を逸らす小さな波。

 

 執念とは,必要以上に固執し心を縛ってしまう力。

 

 怨念とは,過去の出来事にとらわれ恨みとして残るもの。

 

 はからいの心とは,計算や打算にとらわれ本心を曇らせるもの。

 

 のようであり,これらは必ずしも「悪」や「無駄」ではなく,人間らしい感情の一部であるところ,放っておけば心を曇らせてしまい,清らかな流れを濁してしまうことがあるようです。

 

 禅や修験の世界では,心の垢や曇りを「雑草」「雲」「塵」などに例えることがあり,それを無理に取り去るのではなく,気づき,手放し,また澄ませることを,説いているので,

 

 これに習うならば,日々の暮らしの中においては,その心の働きに気づき,静かに向き合いながら,澄ませていくことが,大切であると思われるのです。

 

 積もる塵 払ひし後に 鮮やかな

   もとの姿に 澄む心あり

 

 追記

 思い付いたままに,書き並べたのですが,心の垢や曇りを取り除くには,家の中の埃を掃除することで,心もスッキリすることもあり,最近では,小まめに室内の清掃を行っているのです。

 

 畑へと 小川の恵み 注ぎ入れ

   やすらぐ心 大地に宿り

 

 せせらぎに 映りて揺れる 影涼し

   赤とんぼ舞い 季節は移ろい

 

 前回に引き続き,土と向き合う作業の中で得た閃きを,言葉にして紡いでみました。

 

 本日においては,乾ききった畑に,小川から水を引き入れるべく,作業を行っていたのですが,

 

 潤いを得た土はやわらぎ,作物の根もいっそう,息づくように感じられたのです。

 

 また,水を注ぐせせらぎの上には,数匹の赤とんぼが舞い,その影が水面に揺らめいて,涼を運んでおり,

 

 田畑に水を引き入れる営みの中で,季節の移ろいと自然の恵みを実感するひとときになりました。

 

 秋近し 汗をぬぐいて 鍬を振る

   田畑を守る 日々の営み

 

 残暑なお 肌を焦がせど 稲の穂は

   風にそよぎて 秋を告げをり

 

 午前中は,曇り空で過ごしやすかったのですが,午後からは,残暑が厳しいと感じられた一日でした。

 

 この天気でしたが,終日を田畑にて過ごし,水田には穂水を入れて,畑では草刈り機で雑草を刈り取った後に,里芋の畝に生えた草を,草削り鍬で取り除いておりました。

 

 里芋の畝には,マルチを被せているのですが,追加で植えた場所は,手を加えておらず,一株を掘ってみたら,雑草の根がびっしりと張り,これでは芋が育たないと気付き,鍬を振るっていたのです。

 

 作業中には,東から吹いてくる微風が心地よく,ふと目をやると,畑の横で育つ稲の穂が,風にそよいでおり,その揺れに秋の訪れを,予感しておりました。

 

 和を願い 交渉の卓 囲むれば

   涙を超えて 誓い新たに

 

 収束を 祈る声こそ 風となり

   芽吹く未来の 道をひらかん

 

 終結の 日を待ち望む 民の声

   未来をひらく 道となりゆき

 

 ロシアとウクライナの戦争が,ようやく停戦から終結へと向かうべく,歩みを始めたようであり,

 

 平和を願い,交渉の卓を囲む,トランプ大統領・ゼレンスキー大統領・EU・NATOの首脳らの思いは,涙を超えて新たな誓いとなりそうで,

 

 戦争の収束を祈る声は,風となって,未来を芽吹かせ,

 

 そして,戦争終結の日を待ち望む,民の切なる声こそが,平和への道を,開いてゆくのだと,想像していたのです。

 

 久々の百姓の寝言になりました。

 

 それにしても,一日も早く,全世界に平和な日々が訪れて欲しいと,願うばかりなのです。