引っ越し後の荷物整理をしていて、8〜9年程前に買ったアロマオイルを発見。

その頃は、実家のある鹿児島市にいた。

 

このアロマオイルは、沖縄の精神科医、越智啓子先生にお会いした時にクリニックで買ったもの。

希少なアロマオイルで高価なものだった。

「ヤロー」

怒り、苛立ち、苦しみを解放する香り。

そして直感力を高める香り。

 

当時の苛立ちを思い出した。

 

 

当時は、訪問看護というやったことのない領域の仕事を始め、

同時に、看護師の仕事以外のことをやりたくて、新しいことを学んでいた。

 

実家の椿の木などの保存、有効活用を考えていた。

地元鹿児島の農政課の方々に相談したりもしていた。

父親が定年退職をする前は、果樹の研究などをしていたため、私にとっては父は頼りになる存在だった。

 

けれど、家族全般、私の思いに反して否定されてしまった。

今思えば、私個人がとっても嫌味なイヤな人だったからだろうと思うけど。。

 

「血が繋がっている家族なのになぜこんなに理解されないのだろう」

「社会貢献にも繋がることなのに、それがわからないなんて、残念な人たち!」

と、悲しみを通り越して怒りを抱えていた。

 

そんな時、以前読んだ、越智啓子先生の本のことを思い出した。

「こんなに辛いのは過去世の因縁だから?」と思ったのです。

 

沖縄まで先生に会いに行った。

 

前世を見て頂き、今起きていることを紐解いて頂き、

ギクシャクしていた家族との関係性に気づきがあった。

先生のセッションでは

 

ボイスヒーリング

笑い

ハグ

クリスタル

アロマ

 

を使う。

 

悲しみと喜びが混じった涙。

その涙には怒りはもうない。

 

私が世界は怒りがでる場所だと見てしまうなら

世界は怒りを呼び起こす世界になってしまう。

私がそのように見るのなら。

 

楽しくて笑顔になれるセッション。

パッチアダムスと癒しの世界ツアーをした先生のセッションは貴重な体験でした。

 

結婚を考えていた彼氏との別れ。

失恋して私がしたこと。

 

先ずは、職場の同僚と食事に行ったり、飲みに行ったりした。

独りになる時間をあまり作らないようにした。

 

そして色々なお稽古を楽しんだ。

生け花。お料理。ピラティス。ボーカル。

一週間の休みのどこかにこれらのどれかお稽古に行っていた。

そのため、当時は結構、お稽古代にお金を使っていた。

 

でも当時はそれで良かったのだと思える。

気持ちを紛らわすことができるのなら、お金はあまり気にしなかった。

結果的に気持ちは豊かになった。

新しいことを、新しい人たちと知り合って学ぶことが出来たから。

 

いろいろやった中で、最も良かったと思えるのはTM瞑想。

瞑想することで静寂の海に深く深く潜っていくような体験。

それは睡眠をとる以上に身心を休息させているという研究結果もある程。

私自身がそれを体感した。

 

習って、数回のチェッキング中の期間、

瞑想をしていない時間に、不思議なシンクロニシティの体験があった。

 

瞑想の教師にそのことを質問したら、そのことにはとらわれないように言われた。

確かに、これまでとは違う現実と未来、時間軸を超えた

不思議な感覚の体験だった。

 

そしてレイキヒーリング。

習って即、体感が得られた。

暖かいエネルギーで身体の芯から癒されていく。

 

レイキヒーリングは、セルフでも、対相手にも効果的な癒しの体験ができる。

自分の心、身体はもちろん、患者さんが辛い時に行って差し上げた。

 

この二つの癒しはとても効果的だった。

救われた。

そう言ってもよい程の体験だった。

 

癒しについていろいろ探した結果、

癒しの学びとして当時の私が選んだのはこの二つだった。

 

 

今現在も継続して実践しているけれど、

その恩恵は計り知れない。

この二つを習得したあとも、

精神科病院でのハードワークは

その後も約5年続いた。

失恋を癒したのは、時間であり、仕事であり、仲間であり、趣味であり、

私にとっての癒しのツールであるTM瞑想とレイキヒーリングだった。

 

私を支えてくれたこれらは、今の私にはなくてはならないものになっている。

 

30代半ば、約20年前のこと。

当時付き合っていた彼氏と別れた。

桜が散って葉桜になる頃だった。

4月の終わりだった。

 

そんなことがあって間もなく、

病院内の移動の時期に伴い、精神科の急性期病棟へ配属された。

 

ハードで緊張感のある職場に配属されて、ある意味良かったのかもしれない。

失恋の痛みに浸る時間が短縮しただろうと思えるから。

 

病棟に入院してくる方々は、

失恋程度ではない、複雑な事情で心が壊れてしまった人や、

病気の発症でご家族も困惑して、

その方自身も生活に支障がでる程に辛い状態になってしまった方々ばかりだった。

 

そんな患者さんの、涙や怒りを受け止めながら、

患者さんは、まるで私の内面を映し出す鏡のような存在でした。

「私も同じ。」

「私も辛い。」

「私はわかってもらえない。」

「みんな楽しそう。けれど私はそうじゃない。」etc...

 

毎日、心の中でそう思っていた。

辛い中でも、一緒に笑ったり、些細な出来事を話したり。

今わかることは、

私より大変な体験の渦中にある患者さんから

私は教えて頂き

気付かされたことがあったのです。

お手伝い必要としている人。

お手伝いをしたい私。

その関係がここにある。不思議なご縁。

 

お手伝いをしてあげていたのではない。

その人の人生の場面で、

その人の人生の中に現れた登場人物の一人、

それが私だった。

 

懐かしい人たち。

幸せをお祈りします。

 

 

20年も前のことだけど。

一緒に時を過ごした患者さんの泣き顔、笑い顔、怒った顔を覚えている。

一緒に歌を歌ったり。

体操をしたり。

工作を作ったり。

お料理を作ったり。

面会に来たご家族の方のお話をお聞きしたり。

担当のドクターの噂話をしたり。

 

当時別れた彼氏のことは考えないようにしていたけれど、

こうやって当時を思い出すと、胸のチクチクした痛みと、

浅い呼吸になって、

何も手につかないくらいに落ち込んだことを思い出せる。

 

今も私は独り。

失恋後、恋愛以外の人生にも山あり谷あり。

 

一つ言えるのは、

「全てを受け入れる覚悟が出来た。」

 

「痛みは覚えている。でも、今を生きることを諦めてはいない。」

そう言えるまでには長い時間がかかったけれど。

 

 

 

 

昨日、ココナッツオイルを使った試食会を開催しました。

ゲストが7名ほどの会となり、皆さん、その美味しさに発見と感動があり、

開催側の私たちもとても楽しく嬉しいひと時でした。

 

講師の前川先生との出会いは一昨年。

友達が主催したココナッツオイルを使った試食会だった。

それはただの商品説明と販売されるだけの会ではなかった。

私たちが日頃食している食事、食品、油についての話。

私たちは、知らず知らず身体に悪い油を摂取し続けていたことにより、

それが身体に蓄積され、病気の原因にもなっていたこととを知った。

看護師を20年以上やってきたけれど、

知らないことを沢山聞いて、ショックだった。

これまで学んできた栄養学も古くて更新されていたことが衝撃だった。

そして更新されていることを知らない人も未だに沢山いる。

 

ココヤシは「神様からの贈り物」と聖書にも記され、古代より人々は神聖な植物として特に大事にしてきたのだという。

その汎用性の広さ、万能薬と言われるほどの効能にも驚かされる。

食すと美味しく、身体を健やかにする。

正倉院にも納められているほど、はるか昔から日本人とも縁がある植物だったのだと知った。

 

そして今回の試食会でも、前川先生のお話を聞き、食の大切さを考えさせられました。

 

亡くなった母は食材へのこだわりを持っていた。

お味噌も手作り、マヨネーズも手作り。

マヨネーズを作るときは、油とお酢を乳化させるため、

母が卵の黄身を泡立て器で泡立てているところに油とお酢を少しづつ流しいれるのが小学生の私のお手伝いでした。

 

こだわっていたとはいえ、どの油を使ったら良いのか、母は良くわかっていなかったのでしょう。私の家庭で使われていた油は市販のサラダオイルでした。

食材に気をつけている主婦でも無知で使ってしまう。それくらい、日本人の私たちは市販の油のことについて正しい情報を知らなかったといえる。

学校給食に採用されている栄養学が模範だと思ってしまうように。

 

生活科学研究会のココナッツオイルに出会って、

40年以上ぶりに手作りのマヨネーズを食べ、

食べて生かされていることの意味に思いを馳せて、食を楽しむことの素晴らしさに感動している。

 

 

 

 

 

 

高3の夏休みに、小学校以来行っていなかったキリスト教会に行った。

キリスト教会に行かなくなった理由はこちら。

 

それは子供の頃に通っていたカトリック教会ではなく、プロテスタントの教会だった。

通っていた学校の近くで見かけた教会の案内を見て一人で行った。

教会のチラシに書いてあった聖書の言葉に惹かれるものがあったのだけど、

聖書のどの言葉だったのかは覚えていない。

 

賛美歌の美しさ、集う人たちの優しさに癒されていくのがわかった。

聖書の言葉を読み、聞くことで、頑なな心が柔らかく変化していくのがわかった。

神様はいる。

私のことを見放したのではない。

聖書のどの言葉だったか思い出せないけれど

周囲のいろいろなことに反抗する気持ちが和らいでいくのがわかった。

 

 

 

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反抗期が酷くなったのは中学2年生頃から。

高校卒業するまで激しい反抗期が続いた。

「学校がつまらないのも、勉強ができないのもお母さんのせい」

そして「お父さんに言ってもわかってもらえない、お父さんもお母さんもおかしい」となり、

おばあちゃん、おじいちゃん、親戚のおばさんにも訴えた。

けれど、それは私にとっての淋しさの解決にはならなかった。

高校は寝てばかりいるから成績は振るわず、面白くないから学校を辞めたいと本気で思った。

 

一番苦しく辛く感じたのは、

母が実家にしょっちゅう帰ってしまうこと。

食事の準備はしてあるけど、家にいない。

一つ下の妹と夕食後に一日交代でお茶碗、皿洗いをする。

大家族だから喧嘩もするしテレビを見ている子、お風呂に入っている子ワイワイガヤガヤ。

父が帰って来る頃には母も帰って来る。

母には話しかけても話を聞いてもらっていると思えない。

そのうち、私と話をしたくないんだなと思った。

台所の掃除をしても「しないで」と言われる。

私の中に母に対する諦めたくないという気持ちと、

何度も気持ちを挫かれるうちに「何を言ってもダメ。私は嫌われているんだ」

という思いが事実のように膨らんできた。

 

 

兄、私、妹、弟がいっぱい居て、兄弟姉妹喧嘩は日常茶飯事の賑やか、うるさい家庭でした。

 

母が亡くなった小学生の頃は、下の妹、弟たちは幼く、うるさいけど、あれこれ面倒を見るのが好きだった。

 

反抗期の頃、中学から高校卒業までは、静かな時間が好きなので

みんなで食事する部屋にはご飯を食べる時だけ。

それ以外は自分の部屋で音楽聴いたり、本を読んだりして過ごしていた。

 

喧嘩もいっぱいしたけれど、

母が亡くなった時にミルクを飲んでオムツをしていた弟も40代の立派なおじさん。

今は兄弟姉妹が沢山で良かったなと思えます。

 

両親への反抗は酷かったけれど、とりあえず皆んな元気に生きている。

結婚して子供が生まれた兄、妹、弟。

まだ結婚しないでいる私、妹、弟もいる。

 

そんな環境で、私は人と関わることを学び、失敗し、悲しみ喜びを体験してきた。

それが今の仕事に生かされている。

 

 

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高校卒業時、両親が嫌いで、早く実家を出たくて、卒業と同時に実家を出て寮付きの職場に就職した。

京都の着物の染色の会社。 

絵を描いたり、陶芸をしたり、手芸が好きだったので自分に合っていると思って決めた。

故郷の鹿児島を出て、京都の会社に決めたのは、京都に憧れていたから。

初めての社会人。

見るもの体験することが新鮮で楽しかった。

はんなりした京都弁や和の美しい、可愛らしいもの。景色。

そこら中に京都の風情があった。

同期の友達もできた。

 

仕事は最初は楽しかったけれど、大変なこともある。

やり甲斐もあった。

そんな中、一年経つ前に、他の仕事をしてみたいという思いが出て来た。

 

伯母に話を聞いてもらった時に、

「看護師の勉強をしたら」と言われた。

 

そうはいっても、すぐにはそう思えず、

21歳で准看護師の学校に進学し、その後、正看護師の資格を取るために専門課程に進学した。

以来ずっと看護師の仕事を続けている。

 

私がやりたいこと。

笑顔を創ること。

1日を過ごす中で。

遊んだり、仕事をする中で。

誰かに笑顔を与えてもらうこともある。

そして自分の笑顔を創ることは、私にしかできない。

目の前の人の笑顔を創ることも。

それをやりたいと思っています。

 

現在の私は、両親に感謝と尊敬の念を感じている。

建前ではなく、本音でそう言えるようになったのは、数年程前のこと。

40台後半にして。やっと。

 

時にイラっとくることはあります。

けれど、「私はお父さんとお母さんを愛しています」そう言葉にできるのは、何故なのか。

私が「私はお父さんとお母さんを愛しています」と言葉にして言うからです。

両親がこれをしてくれたから、という理由ではない。

 

実の所、両親は沢山の愛を私にくれました。

同時に、子供だった未熟な私は悲しんだこともあった。

私は両親がくれた愛に対して、どの位のことができたのだろう?

花びらが舞う頃は、聖子ちゃんの「櫻の園」が頭の中でBGMで流れることがある。

隠れた名曲の一つ。

この曲は神田さんと別れて、歯医者さんと結婚した後に出した「永遠の少女」(1999年)というアルバムに入ってます。

 

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反抗期の頃は、ザ・ベストテン全盛期。

80年代の音楽は、何十年たっても歌える歌がいっぱいある。

あの頃は音楽に癒されていた。