プロムナード -29ページ目

プロムナード

古いこと、新しいこと
いつでも、どこでも
思いつくまま、気の向くまま

小生、正月明けは毎年ラスベガスで開催されるCES(国際家電見本市)に例年参加するのだが、今回、時間をみて「サーカスサーカス」という名前のホテルに立ち寄った。


このホテルは、文字通りサーカスがウリとなっていて、ドーム型をしたアトラクションホールで30分おきくらいに無料でサーカスを見ることができるホテルだ。

なにしろ無料なので、出演者が「研究生レベル」であるものの、サーカスそのものは決して子供だましのサーカスではなく、空中ブランコなども本格的なものなので大人も子供も十分に楽しめる、いわばサーカス入門編みたいなものだ。しかも、かなり間近で見ることができるので迫力も大きい。

さて、このサーカスイベント会場には、更に興味深いものがある。それは、サーカス会場を取り巻く様に各種のゲーム機が取り揃えられているゲームコーナーだ。何が面白いかというと、

このゲームコーナーにあるゲームが昔の花やしきの様な遊園地にあった、ちょーレトロなゲームばかりなことだ。

写真は、現代の日本では既に絶滅しているとおぼしき、競馬や子供向けのパチンコ。

    


中でも圧倒的に面白そうなのは、鳥の丸焼きを鍋に放り込むゲーム。鳥の丸焼きのモックをセットして梃となっている鉄板の上に乗せ、反対側をトンカチでたたくと、離れたところにある鍋に向かって丸焼きが放物線を描いて空中を舞い、うまく鍋に入れば景品がもらえるというゲーム。ゲームとしては単純明快この上ないのだが、空中を舞う丸焼きがバーチャルなものでななく、現物(もちろんプラスチック系ではあるが)なので、そこが何とも笑えるのだ。


懐かしくないですか?こういうアナログなゲーム機器。

昨今のゲームセンターにあるゲームは殆どすべてが液晶ディスプレイに表示されたデジタルものが大半で、遊園地のゲームコーナーでも、このような手作り的なゲームはほとんど見られない。

サーカスサーカスのゲームコーナーは子供たちで大賑わいで、普段テレビゲームに毒されているはずの彼等にとっても、この手のアナログゲーム(以下、テレビゲーム系以外のゲームをアナログゲームと呼ぶ)は決して面白くないゲームではない様だった。というよりむしろアナログ的な感覚を楽しんでいる様でもあった。

良く考えてみれば、テレビゲーム系の場合、対象物はディスプレイ上に描画されたバーチャルなものであって触ることができない、つまり皮膚感覚に乏しいわけだから、

ゲームに参戦しているという感覚はアナログゲームの方がずっとリアルだろう。


それともう一つ大きな違いは、アナログゲームの場合、ゲームをリセットしたりセットアップするために各ゲーム機器毎に必ず担当者が必要であることだ。しかし、

ゲーム参加者とこの係員との会話も、実はゲームの醍醐味の一つなのだ。

もちろん係員の人柄によるだろうが、楽しい係員に遭遇できれば、それこそ一生忘れない楽しい思い出すらできるのだ。


実際、小生の場合、子供の頃だが、近所のお祭会場にあったこの手のゲームを担当していた係員との会話を今でも覚えている。
つまりゲーム機という機械のみならず、オペレータとも生のコミュニケーションが可能となるのだ。

一方、付っきりで係員を配備するとなると、テレビゲームばかり並べておく場合よりも人件費は大きなものとなるだろう。しかし、それでなくてもメディアを通じてしか会話できないコミュ障が溢れているのだから、こういうインタラクティブなゲームは貴重だ。

ラスベガスのカジノは未成年の入場はご法度となっているので、いきおい、子供連れが行けるところは限られてくる。その点このゲームセンターは子供OKとなっている。従って、ゲームで勝っても換金はできず景品との交換となるのだが、景品は子供向けのものとなっているから、要は子供用のゲームセンターとなっているわけだ。

こういうところが、これからも残っていると良いのだが。

「情報量が多い」という意味を、履き違えている人が大変多いと思う。

情報が溢れているとか良く言うけど、自分にとって役に立たない情報は情報じゃありません。それは単なる雑音、いわゆるノイズ。

情報が多いということは、選択肢が多い中で「自分に有益な選択肢を提供してもらえること」を言うわけだから、単に選択肢がたくさんあるという状態は情報が多いわけではなく、単にノイズが多いだけ。

その中で「あなたに必要な選択肢はこれですよ」と指針してくれる情報こそ「情報量」なのだ。

つまり、

情報とは、ある事象が起きるとした場合にその事象がどれくらい起き難いかを表すもの、ともいえる。


それが、針の穴であればあるほど情報量は多い。つまり、情報量が多いということは、種々雑多な雑音が満ち溢れている中で、自分にとって本当に有益な指針が得られると言うこと。今の世の中、ネットで得られる情報、実は単なるノイズなのだが、それが多すぎる気がする。

例えば、あるレースで馬券が当たる確率が頗る低いとした場合、もしも買おうとしている馬券が当たるということが事前に分かったとしたら、それは情報として極めて大きな情報なわけだ。

色々なデータ(あえて情報とは言わず)があると、情報が多いという人が多い。10個のデータよりも100個のデータが並んでいる方が情報が多いと勘違いする。しかし、情報量が多いというのは、その中の当たりくじを指し示すことであって、全体のデータ数のことを言うのではない。すなわち、10個の中の1つよりも100個の中の1つを示してもらえるのであれば、外れの多い中での当たりを知ることができるから情報量が多いというのだ。

要は起き難い事象の情報量ほど、情報量としての数字は大きなものとなる。

そう考えると、世の中、無駄なデータが多いだけなのに、「多くの情報があるのに何でうまくいかないのだろう」なんて、悩んでいる輩も多そうだ。

「河童も溺れる」というおどろくべき情報が読み取れる看板
トンデモない劣悪環境で生きている生物というのがいる。草津などの温泉で、熱い湯が流れる岩肌に生えている藻類を見た人も多いと思う。

群馬県草津町湯畑

あの藻類は温泉藻(hot spring algae)と云い、世界各地の温泉中に好んで生育するイデユコゴメ科の単細胞性の特異な紅藻で、温泉の源泉付近や流路、浴槽などに棲息し、一般的な生物であれば生育に支障をきたす 50-80 ℃の環境に適応した極限環境微生物である。

なかには80℃の高温の温泉から採集された記録もあるというから、驚くべき生命力だ。


草津温泉の湯畑の場合、泉温が高く、しかも硫黄成分を豊富に含むPH2.0という強酸性の泉質にも拘らず健気に生育しているイデユコゴメを見ることができる。PH2.0といえば、1円玉だと1週間で溶解、 鉄クギは9日間でボロボロ、大腸菌は10分で死滅という強酸性の泉質。

恐らく、好き好んでその地を選んだというより、天敵が近づけない環境下で奇跡的に順応できたことにより、繁栄したのだと思うが、生命体が生き抜こうとする「種の本能」には改めて驚かされる。

限定的な環境であっても、そこに適応さえできれば天敵の脅威に晒されることがないということなのだろう。例え生息圏が限定的であれ、天敵の脅威がないか少なければ、多少窮屈であっても、ある意味天国である。

熱帯雨林にいくと、樹冠に棲息する昆虫などが多くみられる。かつてボルネオのジャングルを歩いたことがあったが、地上数10メートルといった樹木の上に様々な樹冠が存在し、空中庭園を形成しているのを見た。樹冠は、そこに水が溜まって小昆虫のプールの様になっており、行動範囲が狭いということを除けば、器となる植物から栄養は接種できるし、地上からはるか上空だから天敵も少ない、いわば天国。彼等はそこで生まれ育ち、一度も地上に降りることはないという。
彼等にとってはその場所だけが世界であり、井の中の蛙などと言うなかれ、天国にいるのだから余計なお世話なのである。

ボルネオのジャングルにて

こういう限られた環境でひっそりと生活を営む生物は、写真の様に意外と見付けることができる。

神田駅付近のJRガード下

要は環境に順応できるかどうかだろう。生き抜くためには四の五の言って自分が置かれた環境から逃げることばかり考えずに、逸早く順応することを考えた方が良いということかもしれない。


以前、なぜフェイスブックの投稿にご飯の写真が多いのかという論旨を読んだことがある。それによると、「我々の日常で、日々明確に変化があるのは、ご飯ぐらいしかないからだ」という。

幸いというか、小生のフェイスブックのタイムラインに投稿された記事の場合、ご飯投稿が比較的少ないのだが、フェイスブック全体から見ると圧倒的に多いらしい。

なるほど、と思った。ご飯を日々の行動における変化点として抽出し、それをフェイスブックに記録する。あり得ることだ。ただし、「ご飯ぐらいしかない」というところは、日々の生活をする上で如何なものかとは思う。

ところで、小生はこのブログのプロファイルにも書いてある通り、

必ず1日最低一つ、「初めてする」をする。

を実行している。

それと同時に、

「初めてを記録する」様にもしている

のだが、続けてもう、かれこれ数年になる。これを続けていると、いつしか一日一回は何か新しいことをしなければならないと考える様になり、自ずから行動に積極性が伴うという効果が生まれてくる。

何も大がかりなことでなくてもいい。通勤経路を少しずつ変えてみたり、休日など、ずっと家にいてコンビニに行くぐらいしかしていないとしても、通る道をわざと変えてみたりすればよいのだ。そういう行動を取ることによって、「この家に大きな犬がいた」とか、「道路脇に珍しい花が咲いていた」とか、新たな何かが発見できることがある。この行動を能動的に変化させるということが、後述する様に食事内容を超えて生活に大きな効果をもたらす。

 それと、

その「新しい行動」を記録するということは、記憶のリマインダにもなるのだ。

以前のブログにも投稿した通り、人間の脳の記憶容量を計算してみると膨大な容量であり、しかも記憶にあたっては連想記憶という方法などで記憶することが可能なので、恐らく見たことや聞いたことはすべて記憶していると考えて差し支えないだろう。

しかし、問題はそれらの記憶を引出のどこにしまったか、それを思い出せないことだ。結果として記憶していないということと同等となるのだが、決して記憶していないのではない。思い出せないだけだ。

http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11697200390.html

画像データの容量に比べれば、行動データなど微々たるデータ容量なので、忘れるわけなどない。ところが、人はそれを思い出せないのだ。

そこで、初めてしたことを文章として記録する。これは人類だけが持ち得る能力だ。それが奏功し、記録を紐解くことで行動を思い出すことが可能となる。つまり、初めてしたことは「す」では思い出せなくても、記録を見れば思い出すことが可能となるのだ。

実際、小生の場合、この数年の記録を見ると、その記録に記載されているすべての行動を全部覚えていることに気付く。だが、この記録を見なければ思い出せない。というか、思い出そうとすらしない。日々の行動は、こうして記憶の中に埋没されていくわけだ。

この「行動の変化点を抽出する」という方法は、工学的に云うとデータの圧縮に見られる技術だ。

膨大なメモリやそれを演算処理して描画する動画再生も、1フレーム前のデータとの差分をとり、差異のある部分以外はそのままとして差異のみを新たなデータとすれば、大容量の画像データも、小容量化(つまり圧縮)が可能となる。差分には、「相対称差分(symmetric delta)」と「方向的差分(directed delta)」がある。相対称差分は次のように表される。ここで、v1 と v2 は2つの連続するバージョンを表す。



これがいわゆるデータ圧縮技術であり、DVDやブルーレイ、或いはデジタル放送などで使用されているMpegやH.26xなどの圧縮方式は、みなこの差分をデータとして用いる方式のバリエーションなのだ。これをコーデックという。
この圧縮方式を機械だけに使用していては、もったいないだろう。初めてしたことを記録するという行動をとることにより、人間は人生体験をも圧縮して記憶することが可能となる。更に、人間は連想記憶が可能なので、この記憶は多分に可逆的だ。
人は行動の記憶をすべて思い出すことは不可能だろう。

しかし、日々の行動における変化情報を圧縮して記録しておけば、思い出すことが可能であり、人類の持つ偉大な記憶再生能力が活かされると考える。

Maker Faireという展示会が、お台場で開催された。この展示会についてはWeb等で色々と紹介されているので、ここでは割愛するが、とにかく個人企業の如何を問わず、作ったもの(作ってみたもの)を持ち寄って意見交換を行うという、損得勘定抜きのヲタクの祭典として、まことに興味深い展示会だ。

今回、この展示会でLCDレベルメーターなるものを見つけた。このメーター、左右のステレオ信号を小さなLCDパネル上にオシロ風の波形やVUメーター風、或いはバーグラフ表示、更には電圧レベルなどを表示するというスグレモノで、モジュール単体価格が2000円であり、悩む値段でもないためにソッコーで調達した。

このモジュール、電源電圧として+5Vを供給、3.5φのステレオミニプラグを挿せばパネルに表示されるものなのだが、電源スイッチは付いていないので、ケースに入れてスイッチを付ければ簡易式のレベルメーターとして使用可能となる。

入力レベルはラインレベルかヘッドフォンレベルかをジャンパで選択。また、ケースに入れる場合などは電源供給端子を別に設けることになるのだが、その場合にモジュールに搭載されたジャックからの電源供給とかち合わないようにジャンパで切り分ける様に設計されている。細かいところまで配慮された逸品だ。

さて、これに電源を投入してみたのだが、大きな問題が発生した。

それは、波形が二重に描画されてしまうという現象だ。それがこの写真。左がPCからの正弦波信号入力、右が観測波形。

       


見た目、オシロで観測する際にグランドが浮いている時の様な波形となっている。展示会のデモでは綺麗な波形が出ていたから、これは何か理由があるはず、とはいえモジュール化されていてファームウェアなどブラックボックス状態だから手の出しようもない。となれば、やることと言えばハンダ不良の確認ぐらいなのだが、どこも問題はなさそう。ということで、しばらくは放心状態だったのだが、ふと試しに電源をACアダプタではなく、定電圧電源で駆動してみたところ、なんと期待するきれいな波形が描画されたのだ。

なるほど。。。電源、侮るなかれ。

+5V出ていればいいというデジタル的な世界ではなく、電源にのるハムノイズがもろに影響されていたということなのだ。そこで、別のACアダプタに変更してみた。今度はうまくいった。つまり、最初に使った+5VのACアダプタだけがダメ品だったということになる。

その後は順調に動いており、拙宅のステレオアンプの上に置き、AC電源を連動させた上でプリアンプ出力を接続し、VUメータとして稼働させている。このモジュールの赤いLEDがかなり輝度が高いので、アンプ電源の切り忘れ防止としても重宝している。

小生は、写真の様に透明なアクリルケースに入れてみたところ、なかなかカワイイ出来となった。


通常、ACアダプタで気を付ける点と言えば電圧と許容電流、センタープラスかマイナスか、だけしか考えていなかったのだが、測定器などの電源として用いる場合には平滑された直流電圧にリップルが乗っているかどうかも、実は大きな選択肢となるということが分かった。

これは盲点だった。いい勉強になった。


およそ2年ぐらい前に、理系と文系についてブログに書いたことがあった。

http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11477067683.html

それに対して、学生時代に臨床心理学を専攻したという女性から、大変興味深いコメントを頂戴したので記しておく。

「今、もう一度やり直したいことは何か?」と聞かれたら、大学に戻って基礎からもう一度勉強したい。

「鈴懸の木の道で「君の微笑みを夢に見る」と言ってしまったら僕たちの関係はどう変わってしまうのか、僕なりに何日か考えた上でのやや気恥ずかしい結論のようなもの」 -秋元康, AKB48


以下、赤が彼女の意見、黒が小生のコメ。

----------
文系と理系、私も、もはや分ける必要はないのではないかと思っています。というのも、物事って色々な視点から見ることが必要だと思っており、文系・理系で分けていたら視点が偏ると思うからです。

ミリ波: 小生も同意で、今日の様に様々な要素が互いに影響しあう時代にあっては、明治時代かそれ以前じゃあるまいし、学問を文系・理系というカテゴリで分別することは、いささか時代錯誤だと考えています。
尤も、最近になって大学教育でも理系なのか文系なのか一目見ただけでは釈然としない学部も多数生まれてきている様だが、若者に媚びたり、或いはビジネスとしての大学経営的「戦略」ということだと、ちょっと違うかな、という気もしています。

それに、学問的にも心理学なんていい例ですが、文系・理系の知識がないと対応できないものが多いと思います。心理学は哲学がベースにあるからなのか、基本文系にカテゴライズされていますが、調査・実験をするときには統計の知識や、論理的思考はMUSTです。それに、もはや心の話は脳の話や遺伝子の話とは切り離せなくなっているので、そのへんのバックグラウンドもないと厳しい。

ミリ波: 小生は学問として心理学を勉強したことがないので詳しいことは分からないが、心理学では様々な実証実験が行われるらしいですね。そういえば各種論文などをみると、実際にサンプリングして調査した結果が述べられているものをよく見ます。即ち、「観察し、仮説を立て、実証実験を行い、仮説を立証していく」といったプロセスを踏んでいるということなのだろうが、
これはまさしく真理を追究する科学的な手法であり、心理学ではそういう理系的な手法も教育しているということなのでしょう。

理系とは、何も暗算が速いとかそういうことではない。物事の真理を、「観察することによって客観的な説明が出来る能力」を持つことや、理解できないことに直面した場合、「考察することによって、仮説を立てて立証していく能力を持つこと」であって心構えやセンスだと思います。

http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11522482574.html

大学で心理学をやっているときにはそんなことも思わず「へらへら~」とやっていて呑気なものでしたが、卒業して本をよく読むようになって、そんなことを感じる日々です。  もちろん専門を持つことは必要です。でも、それにとらわれないで、偏らないで、いろんな視点を持てること、そして自分と違う見方の人の話に出会ったら、それを知ろうとすることがベストだな~とか感じています。

ミリ波: 異業種との交流や全く異なる仕事をしている人との会談は非常に刺激的です。

十人十色とか、人生いろいろとか、或いは一期一会とか様々な言い方があるが、話の内容のみならず、物事の見方や今後の見通しといった推測については、想像を超える意見が得られることも多々あります。
物事を違った視点で見るということは大切なことだと思います。似たような境遇で価値観も同じといった同胞同士で語っているだけでは、違った視点は望めない。視点の角度を思い切って変えてみるためには、自分と違う意見に当たるということは大切なことだと思います。視点を変えると、世の中の動きや他人、他国の事情や思惑が見えてくる。とかく小生も自分の範疇を超えられない事が多いので、これは今後の大きなテーマでもあります。

http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11480096493.html

森鴎外が文学博士と医学博士両方を持っている、それってステキなことだと思います。確か、たけしのコマ大数学科という、以前やっていた深夜番組に出ていた竹内薫さんとか、アハ!の脳科学者の茂木健一郎さんとかも、いわゆる文系の学問と理系の学問の両方をかじっていたような。

結局のところ、引き出しをいっぱい持っている人は、私にとってはすごく魅力的です。

ミリ波: 古いところでは、我国最初のノーベル物理学賞を授与された湯川秀樹博士は、「素粒子の研究にギリシャ思想は全く役に立たないが、仏教には多くを教えられた」と語ったそうです。何かオカルトな感じのする発言にも聞こえるが、仏教思想にヒントがあった様です。

そういえば、多くの物理学者が東洋思想に傾倒していると聞くが、超人たちは事象を別の角度から客観的に見ることができるということなのかもしれません。まして脳科学ともなれば、脳の成分の定性定量分析だけでは何もわからない。神経の働きをプログラム(ソフトウェア)として研究しないとサルと人間の脳の違いは解明できない。

このプログラムの分析こそ心理学の分野なのでしょう。まさに文理一体となった研究が必要と考えます。

http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11572645102.html

人は他人と自分を差別して自分のアイデンティティを確立していくというのは、全くその通りかと。人間の性というか、深いところに根付いているものなので、それを取り払うことは不可能に近いと思います。それに、ホントにみんなが平等だったら社会は成り立たないと思うし…その差別があることを認めたうえで、どうするのかというところが難しいところですよね…。

ミリ波: 平等を目的とする計画経済政策が破綻した様に、文化文明が進む原動力は良し悪しは別として、やはり競争であり差別意識です。人間とはそういう動物であることを理解しておく必要がある。ただし、問題はそれを悲観的に捉えるかどうかであって、悪いことばかりではないと見て差し支えないと思います。

「個々のアリは知能が高いとは思えないが、コロニーとしては驚くべき知能をもつ」。かつて昆虫学者が提唱した集団的知性説の如く、個々の人間はバカであっても事故が発生しない限り、人類自ら自滅の道を歩むということは考えにくい。この集団的知性という概念など、まさしく文系・理系の両方からのアプローチで生まれた考えであって、その考えに至った理由は、観察、仮説、実験といったプロセスを踏襲したからに他ならないでしょう。

ところで、この集団的知性についてですが、こんにち、各種センサーを持ち、独自判断によってインテリジェントに処理(処分といった方がいいかもしれません)する能力を持つ端末まで含めれば、既に想像を絶する数量のコンピュータがネットワークを構築しているためいずれはコンピュータも集団的知性を持つようになって人類を排除するというSF的なドラマが起きないとは言い切れない気もしますね。

血液型は心理学では「よっ、来ました!」の話題です。世の中によくある血液型診断の話で、あれは科学的に正しいのか?っていう(笑)実際授業でもそれ取り上げられて、教授いわく、血液型診断の科学的根拠はないと(´・ω・`)
私もあの手の本は純粋な興味で見たりする時ありますが、本に「O型のあなたは~な性格です」とか書いてあると、「あ、そういえば…」なんて、そんな性格を表すようなエピソードを思い出して、納得させようとしている自分がいると感じることがあります。

ミリ波: 霊長類の進化のかなり古い時代からA・B型遺伝子は共存していたが、人類以外の霊長類、例えばチンパンジーにはB型遺伝子がなく、ゴリラにはA型遺伝子がないそうです。また、ブラジルの先住民はすべてO型であるにもかかわらず、様々な性格の人間がそこに存在している。これらのことから、血液型による性格判断は殆ど意味がないかもしれません。

血液型が分かれた過程としては、バクテリアやウィルスの攻撃から防御すべく変異したという仮説があるそうですが、そうであれば性格云々での性格差別に奔走するよりも、感染症に対する抗体という意味での研究を進めるべきだと考えています

それが人類に与えられた宿題でしょう。生きたいと思うすべての生命を救うために。

ここ暫く巷では、女子高校生を「JK」云々と呼び、はなから蔑む輩が多い様だが、なんのなんの、思いっきりサイエンスな女子高生だって頑張っている。

先日、海浜幕張で開催されていたSEMICON JAPANという半導体製造装置や計測機器の展示会の会場では、

なんと、女子高校生が自分たちの科学研究を発表していたのだ。



この展示会、相当に硬派な展示会で、ムサいおじさんたちがたむろする展示会なのだが、高校の制服をまとった女子高生が、紅一点というか健気に大奮闘していたことは、来場者に強烈なインパクトを与えた様だ。そりゃそうだ、自分の娘か、ヘタをすれば孫の様なオンナの子がサイエンスなテーマで研究発表をしているのだから。

発表タイトルは「家庭用風力発電機の作成」と「オーロラの形成と実験機の製作」。

お題目的には高校文化祭での科学クラブの展示の様だが、風力発電機の発表では、数ある風車の中から家庭用というカテゴリに絞って形状を選定し、その風車と回転盤も自作している。電力発生メカニズムは旧来の電磁誘導型だが、CDの上にネオジム磁石を並べた自作の回転盤がなんともカワイイ。また、Microchip製PICマイコンの10BitADCを用いて精度0.02Vの電圧計まで作っていた。

一方、オーロラの方は、ちょっと時間がなくて聞けなかったのだが、極地に行かなくても実験室で作れないかという動機で始めた研究らしく、真空ポンプを用いて気圧を抜き、様々な材質で実験しているらしかった。

最初は物珍しそうに覗き込んでいたオッサン達も、彼女たちのマジに触れてからというもの、技術的な質問もさかんに飛び出したのだが、くだんの彼女たち、そんなオッサン達の様々な質問にもきちんと答えていたから大したもんだ。

とはいえ、仏頂面して朴念仁しているわけでもなく、オトナたちを見下すような上から目線でもなく、「これからもがんばってね」という激励に、ニコリと微笑み返す時の顔はごく普通の女子高生だった。

後に調べてみたのだが、この高校は茨城県立水戸第二高等学校といい、元々サイエンス系に注力している高校だそうで、公立共学の高校なのだが現時点で男子生徒がいないため、実質上女子高となっているらしい。もしかするとその方が集中できるということなのかもしれないが、科学の芽を養っている高校として、素晴らしいことだと思う。

こういうサイエンスガールたちが日本にもいるということは我国としても自慢すべきであり、

彼女たちの能力を十分に発揮できる体制、更にそのモチベーションを維持させてあげられる体制などを確立したいものだ。

果てることなき「不毛の議論」である原発の是非論は、ついぞ前首相による「MEIGEN」として光臨(笑

わずもがな小生だって、原発には断固反対です。これ以上増やす必要は全くない。

しか~し、今すぐ廃止せよというから、ことは穏やかではない。

今すぐ止めてどうするの?
第一、止まらないし。
止めた後の電力需要はどうするの?
電気の素(もと)である燃料は慈悲深い海外から売って頂くわけ?
売るのやめたって言われたら、冬寒い・・ 温暖化に期待している、みたいな?
その間、CO2はどうするの?
大気汚染は?
まさか我国から放射能のみならずPM2.5も、花咲ジイサンよろしく太平洋に花と散らすの?


とまぁ、言いたいことはたくさんあるわけだが、冗談はさておき最も懸念すべき問題は福島にいる「怪物」を今後ずうっと封じ込めなくてはならないということなのだ。手をこまねいていたり、或いは目を背ければソッコーで暴れるわけです。誰が怪獣を管理し制御するのか?


廃炉に向けた原子力発電所事故対応のためのロボットおよび遠隔操作機器技術


今日び、理系を志す若人がどんどん減り、

聞くところによれば電子、金属、土木工学は絶滅危惧学科だそうだ。

となれば原子力なんぞ、いまや将来何の保証も得られない学科として人気凋落もアタリマエ。こんだけボコボコにされた原子力工学、かつては尊敬される学問が、いまや鼻ツマミ。

さて、問題は「ずうっと」という長いスパンで鑑み、誰に後継してもらえるかということ。これは本当にヤバイ

東京大学 大学院工学系研究科精密工学 浅間一教授がセミナーの最後に言っていた、
「Transform the bitter experience to the chance for the technological advancement by developing more depenedable and demnded technology for safe and secure society. Develop young fuman resources and keep the knowledge and technology beyned the generation.」

安全で安心できる社会にとって必要で、尚且つ信頼される技術を開発すべきという、この過酷な経験である今の機会を次世代へ伝達すべきです。若い人的資源を発育させ、世代を越えて知識と技術を開発してください。

全く仰るとおり。

要は、

- 若い世代に対し、日本の将来を託すべく、原子力に関する知識を科学的にきちんと学べ、社会に出てからの就職難問題から解放させること。
- 現在稼働している原発、アジアだけでも韓国23基、中国17基、台湾6基、更に建設中のものまで含めれば32基、71基、8基にもなるのだから、我が国が原発を撤廃したとしても、これら東アジアにある原発での事故は決して他人事では済まないため、それらをきちんと管理する指導力を発揮すべきであること。

それを実践できる環境を国はきちんと用意すべきだ。
AKB48の、「48」ってなんだろうと考えてみた。
そこで、まず公約数を調べてみた。指し当たって1~48の公約数を列挙してみよう。

  
この表で明らかな様に、48という数字は公約数の数が10個あり、それ以下の数字に比べて公約数の数が最も多い。

この様に、自然数の中でそれ未満のどの自然数よりも約数の個数が多い数字を高度合成数という。48以下では36,24,12,6が高度合成数となる。

この高度合成数、実は実生活で結構使われている。例えば1ダースとか時間単位の60などがそれだ。なぜ12とか60とかいう数字が使われているかというと、その様な数字は割り算しやすいからだ。

「1ダースって10じゃなく、なんで12なんだろう」と考えた人も多いんじゃないかと思うが、理由はそういうことだ。

AKB48の「48」という数字は、公約数の数が多いために、

幾つかに分割する場合、割り切れる数が多いということになる。

これ、ユニットで分ける場合を考えると、2つ、3つ、あるいは6つでも8つでも、チームに分けた場合に同じ人数で分けることができるということを意味しているわけだ。因みに48よりも上の数となると、高度合成数は60となる。

よって、48人とすればユニット仕分けが簡単にできるのだ。では、なぜ30としなかったのか。30でもよかったかもしれないが、30人じゃインパクトが小さいとか、発音上の響きが良くないとか、

別の理由がありそうだが、それはナゾ。

写真の整理をしていると気付くのだが、カメラがデジタル化してからというもの、撮影する枚数は圧倒的に増えたが、逆に捨てることは頗る減った気がする。


銀塩フィルムの時代、フィルムは1本あたり最大36枚までだったし、撮影に失敗しても現像するための印画紙代はかかるから、36枚撮影したのち、写真屋で現像してもらうと、たとえクソ写真ばっかりだとしても大体1000円近くの出費があった。しかし、失敗写真は無駄以外の何物でもなく、文字通り金を屑箱に捨てるようなもの。従って撮影に当たっては無駄な出費を防ぐために、それこそ一撮入魂で撮影する必要があった。

こんにち、カメラがデジタル化し、画像を保管する記録媒体のビット単価がずいぶんと安くなってきているために、撮った写真をわざわざ捨てる必要もあまりなくなってきた。

そこで、考えてみた。

必要ない写真は捨てた方がいいのかどうか。それは、断捨離なのだろうか。


人間は生まれてから死ぬまで、見たものはすべて記憶しているという。それが本当かどうか調べる術もないが、物理的に可能かどうかは計算で求まる。

人間、100年生きたとしてその間に目で見る視覚情報量は、毎秒60kbitだそうだ。テレビで描画する伝送帯域は、ハイビジョン映像で毎秒1920x1080x24x60だから、約3Gbit。60kbitそれに比べるとずいぶん少ない気がするが、人間の場合には画素そのものを記録するのではなく、輪郭線抽出などの手法+連想記憶などの抽象化されたアルゴリズムで記録されるから、ベタの記憶に比較すると大幅に少ないメモリで記憶することが可能なのだそうだ。

これを前提とすると、生涯100年間に於ける視覚からの総記録量は120TBitになるという。一方、脳細胞の概数は140億といわれているので、これらのシナプス連結を鑑みて計算すると140TBit。まぁ、この数字の信憑性については門外漢なので言及しないが、とにかく膨大な数であり、視覚を通じてインプットされた情報は問題なく格納できそうだ。

であれば、「人は見たものをすべて記憶しているか」という問いに対して、上に示す数字から「記憶できる」とみて差し支えなさそうだ。問題は、それを再生できるかどうか。

よく、「歌は世につれ、世は歌につれ」というが、人間は連想で記憶を再生させる能力を持っている。写真も同様。自分が撮影した行為などとっくに忘れていても、写真を見ると自分が撮った時のことを思いだすことはよくある。しかも、カメラのファインダーを覗きこんで見えた画像までが記憶としてよみがえることだって多々あることだ。

即ち、脳には撮影した行為や見た景色が記憶(記録)されているということなのだろう。問題は、それを思い出せない(再生できない)ということ。

それを考えると、

写真を捨てるということは、記憶を再生させるトリガーを捨てることになる気がするのだ。

これを捨てたら、おそらく一生思い出せないだろう。


従って、小生の結論としては、失敗写真や記憶から消したい(メモリから消去したい)写真(情報)、バレるとヤバい写真以外は全て保管することにした。

しかも、今は何の役に立たない写真だと思われても、何十年か経ってその写真が貴重な資料になるとか、或いは未来の人類にとって重要な布石や指南がその写真に写っているかもしれないし。

いずれにせよ、「人は見たものをすべて記憶(記録)している」とすれば、写真はそれを再生させる(思い出させる)最も有効な手段の一つだろう。その手段は捨てないでおいた方がよさそうだ。

というか、残す捨てるという整理をするのが面倒、というのもホンネでもあるわけだが。