文系・理系  - 時代錯誤なカテゴリに対する的を得たアンチテーゼな投稿 | プロムナード

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およそ2年ぐらい前に、理系と文系についてブログに書いたことがあった。

http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11477067683.html

それに対して、学生時代に臨床心理学を専攻したという女性から、大変興味深いコメントを頂戴したので記しておく。

「今、もう一度やり直したいことは何か?」と聞かれたら、大学に戻って基礎からもう一度勉強したい。

「鈴懸の木の道で「君の微笑みを夢に見る」と言ってしまったら僕たちの関係はどう変わってしまうのか、僕なりに何日か考えた上でのやや気恥ずかしい結論のようなもの」 -秋元康, AKB48


以下、赤が彼女の意見、黒が小生のコメ。

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文系と理系、私も、もはや分ける必要はないのではないかと思っています。というのも、物事って色々な視点から見ることが必要だと思っており、文系・理系で分けていたら視点が偏ると思うからです。

ミリ波: 小生も同意で、今日の様に様々な要素が互いに影響しあう時代にあっては、明治時代かそれ以前じゃあるまいし、学問を文系・理系というカテゴリで分別することは、いささか時代錯誤だと考えています。
尤も、最近になって大学教育でも理系なのか文系なのか一目見ただけでは釈然としない学部も多数生まれてきている様だが、若者に媚びたり、或いはビジネスとしての大学経営的「戦略」ということだと、ちょっと違うかな、という気もしています。

それに、学問的にも心理学なんていい例ですが、文系・理系の知識がないと対応できないものが多いと思います。心理学は哲学がベースにあるからなのか、基本文系にカテゴライズされていますが、調査・実験をするときには統計の知識や、論理的思考はMUSTです。それに、もはや心の話は脳の話や遺伝子の話とは切り離せなくなっているので、そのへんのバックグラウンドもないと厳しい。

ミリ波: 小生は学問として心理学を勉強したことがないので詳しいことは分からないが、心理学では様々な実証実験が行われるらしいですね。そういえば各種論文などをみると、実際にサンプリングして調査した結果が述べられているものをよく見ます。即ち、「観察し、仮説を立て、実証実験を行い、仮説を立証していく」といったプロセスを踏んでいるということなのだろうが、
これはまさしく真理を追究する科学的な手法であり、心理学ではそういう理系的な手法も教育しているということなのでしょう。

理系とは、何も暗算が速いとかそういうことではない。物事の真理を、「観察することによって客観的な説明が出来る能力」を持つことや、理解できないことに直面した場合、「考察することによって、仮説を立てて立証していく能力を持つこと」であって心構えやセンスだと思います。

http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11522482574.html

大学で心理学をやっているときにはそんなことも思わず「へらへら~」とやっていて呑気なものでしたが、卒業して本をよく読むようになって、そんなことを感じる日々です。  もちろん専門を持つことは必要です。でも、それにとらわれないで、偏らないで、いろんな視点を持てること、そして自分と違う見方の人の話に出会ったら、それを知ろうとすることがベストだな~とか感じています。

ミリ波: 異業種との交流や全く異なる仕事をしている人との会談は非常に刺激的です。

十人十色とか、人生いろいろとか、或いは一期一会とか様々な言い方があるが、話の内容のみならず、物事の見方や今後の見通しといった推測については、想像を超える意見が得られることも多々あります。
物事を違った視点で見るということは大切なことだと思います。似たような境遇で価値観も同じといった同胞同士で語っているだけでは、違った視点は望めない。視点の角度を思い切って変えてみるためには、自分と違う意見に当たるということは大切なことだと思います。視点を変えると、世の中の動きや他人、他国の事情や思惑が見えてくる。とかく小生も自分の範疇を超えられない事が多いので、これは今後の大きなテーマでもあります。

http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11480096493.html

森鴎外が文学博士と医学博士両方を持っている、それってステキなことだと思います。確か、たけしのコマ大数学科という、以前やっていた深夜番組に出ていた竹内薫さんとか、アハ!の脳科学者の茂木健一郎さんとかも、いわゆる文系の学問と理系の学問の両方をかじっていたような。

結局のところ、引き出しをいっぱい持っている人は、私にとってはすごく魅力的です。

ミリ波: 古いところでは、我国最初のノーベル物理学賞を授与された湯川秀樹博士は、「素粒子の研究にギリシャ思想は全く役に立たないが、仏教には多くを教えられた」と語ったそうです。何かオカルトな感じのする発言にも聞こえるが、仏教思想にヒントがあった様です。

そういえば、多くの物理学者が東洋思想に傾倒していると聞くが、超人たちは事象を別の角度から客観的に見ることができるということなのかもしれません。まして脳科学ともなれば、脳の成分の定性定量分析だけでは何もわからない。神経の働きをプログラム(ソフトウェア)として研究しないとサルと人間の脳の違いは解明できない。

このプログラムの分析こそ心理学の分野なのでしょう。まさに文理一体となった研究が必要と考えます。

http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11572645102.html

人は他人と自分を差別して自分のアイデンティティを確立していくというのは、全くその通りかと。人間の性というか、深いところに根付いているものなので、それを取り払うことは不可能に近いと思います。それに、ホントにみんなが平等だったら社会は成り立たないと思うし…その差別があることを認めたうえで、どうするのかというところが難しいところですよね…。

ミリ波: 平等を目的とする計画経済政策が破綻した様に、文化文明が進む原動力は良し悪しは別として、やはり競争であり差別意識です。人間とはそういう動物であることを理解しておく必要がある。ただし、問題はそれを悲観的に捉えるかどうかであって、悪いことばかりではないと見て差し支えないと思います。

「個々のアリは知能が高いとは思えないが、コロニーとしては驚くべき知能をもつ」。かつて昆虫学者が提唱した集団的知性説の如く、個々の人間はバカであっても事故が発生しない限り、人類自ら自滅の道を歩むということは考えにくい。この集団的知性という概念など、まさしく文系・理系の両方からのアプローチで生まれた考えであって、その考えに至った理由は、観察、仮説、実験といったプロセスを踏襲したからに他ならないでしょう。

ところで、この集団的知性についてですが、こんにち、各種センサーを持ち、独自判断によってインテリジェントに処理(処分といった方がいいかもしれません)する能力を持つ端末まで含めれば、既に想像を絶する数量のコンピュータがネットワークを構築しているためいずれはコンピュータも集団的知性を持つようになって人類を排除するというSF的なドラマが起きないとは言い切れない気もしますね。

血液型は心理学では「よっ、来ました!」の話題です。世の中によくある血液型診断の話で、あれは科学的に正しいのか?っていう(笑)実際授業でもそれ取り上げられて、教授いわく、血液型診断の科学的根拠はないと(´・ω・`)
私もあの手の本は純粋な興味で見たりする時ありますが、本に「O型のあなたは~な性格です」とか書いてあると、「あ、そういえば…」なんて、そんな性格を表すようなエピソードを思い出して、納得させようとしている自分がいると感じることがあります。

ミリ波: 霊長類の進化のかなり古い時代からA・B型遺伝子は共存していたが、人類以外の霊長類、例えばチンパンジーにはB型遺伝子がなく、ゴリラにはA型遺伝子がないそうです。また、ブラジルの先住民はすべてO型であるにもかかわらず、様々な性格の人間がそこに存在している。これらのことから、血液型による性格判断は殆ど意味がないかもしれません。

血液型が分かれた過程としては、バクテリアやウィルスの攻撃から防御すべく変異したという仮説があるそうですが、そうであれば性格云々での性格差別に奔走するよりも、感染症に対する抗体という意味での研究を進めるべきだと考えています

それが人類に与えられた宿題でしょう。生きたいと思うすべての生命を救うために。