東方不死死 第52章 「妖夢捕物帖」


 小高い山の頂上にある幽明結界を出てそのまま高度を上げて東に飛ぶと、マヨヒガ、川縁の関所跡、そして人間の里がほぼ直線上に見える。
 魂魄妖夢はその幽明結界を出て東方を望み、希望に満ちた前途を疑っていなかった。
「・・・先ずは妹紅さんに会って謝らなくては・・・。」
 妖夢にとっての気掛かりは、やはり藤原妹紅であり、非礼に対するお詫びと助命に対する感謝から全てが始まるのだと考えている。
 それから、不死人狩りの時の無礼も詫びたいし、今回の件で八意永琳に助命の根回しをした理由も知りたい。兎に角ちゃんと向き合って話したい、一刻も早く藤原妹紅に会いたいと思う妖夢である。

 妖夢の主人は退屈と共に毎日を過ごしている為、その暇つぶしの付き添いで妖夢もまた幻想郷に訪れる。幻想郷に一人で来る時は幽々子が公務で身動き出来ない時などで、幻想郷に友人らしい友人がなく、更に主人から解放された事を喜び羽根を伸ばして遊び回る様な甲斐性もない妖夢としては、幻想郷に長居する理由もないので用事が済めば真っ直ぐ冥界に帰るだけだった。
 考えてみると、自分の用事で幻想郷に一人で来る事は初めてかもしれない。
 左斜め前方に見えるマヨヒガは博麗の里が『人間の里』と呼ばれるのに対して『妖怪の里』とも呼ばれている妖怪達の住処で、変温体質の妖獣や冬季に活動が鈍化する妖怪の越冬地としても知られている。
 川縁の関所跡は人間の里と妖怪の里のほぼ中間に位置し、川を挟んで人間と妖怪が交易を行う中継基地となっている。里まで行かなくてもここで要りような物は充分賄える事もあり、妖夢は人間の里よりも関所跡の方に来る頻度が高い。ちなみにマヨヒガは妖怪しかおらず幽々子が欲しい物は販売していないので妖夢としても訪れる理由があまりなく馴染みがない。

 マヨヒガより北と西は妖怪同士や天狗らといざこざが絶えない場所だが、マヨヒガより以東は比較的静かな場所である。しかし最近、人間の里で傭兵を募集している噂が関所跡やマヨヒガ以西まで伝わってしまい、西の荒くれ武闘派妖怪達が傭兵の話しに興味を示し、マヨヒガや関所跡に情報収集の為に一時的に駐屯したり、単身里に出向いて五人組を作って来るように門前払いを喰らって出戻り、仲間探しの為に停頓する者、更に野次馬や行商、それに群がる物乞いやこそ泥なども集まり、妖怪の数が平時の倍以上に膨れ上がっていたのである。
 そうした幻想郷の情勢を知らない、知ろうともしなかった冥界の住人である魂魄妖夢は、幽々子と別れた後幽明結界を出て取り敢えず妹紅に詫びをしようと思い、彼女が居そうな竹林に向かおうとしていた。

「ちょっと待ちな!お嬢ちゃん!」
 魂魄妖夢は幽明結界を出た後、真っ直ぐ東進して竹林に向かう途中、丁度左手にマヨヒガの建物群を見る位置に来た時、不意に妖怪の集団に取り囲まれてしまった。
「!」
 数は12人程、どれも小柄で単独ならそれほど恐ろしい相手ではないと感じる。しかし12人ともなると状況は大きく違う。妖夢は警戒しながら様子を窺った。
 スペルカードルールによる幻想郷の住人同士の決闘は一対一が原則であるが、西側の妖怪にはスペルカードは浸透しておらず、むしろ女子供の遊びとして軽蔑している感もあり、この状況はスペルカード戦を挑まれたわけではなく、明らかにこちらを害そうとする意図の待ち伏せだろうと思われる。
「(しまった!これだけの妖怪に囲まれている事に気付かないなんて・・・。)」
 気配を消して忍び寄るなど妖怪の十八番の様なものだが、妖夢レベルなら余程の隠密性を持つ強者でもなければ接近に気が付かない事はない。そして、気付く気付かない以前の問題として、発見されやすい高度のまま迂闊に飛んでしまった自分自身の浅はかさである。幽々子に送り出され後顧の憂いが無くなった事で浮かれてしまい、前途洋々の大らかな気持ちで気の緩みが出たのだ。強くありたいと願って修業の為に外に出たのに、出た早々油断して妖怪に取り囲まれるとはなんたる不覚。幽々子に会わせる顔がない。
 妖夢は唇を噛みしめ剣に手をかける。が、まだ抜かない。ここで抜いたらこっちから戦闘を仕掛けた事になる。流石に経験が生きる。
「通して下さい。私は争うつもりはありません!」
 周囲に気を配りながら一番強そうな、声を掛けてきたボスらしき妖怪と正対して、戦う意志がない事を伝える妖夢。
「こっちも争うつもりはない。その得物さえ大人しく置いていけば何もしない。」
 妖怪の要求は武器だった。こいつらは戦いを挑んできたのではなく数に物を言わせたただの強盗のようだ。
「この剣は私にとって宝、命より大切なもの。渡すわけにはいきません!」
 毅然と拒否の態度を示す妖夢。
「ふっ、命より高い剣とはな・・・それともお前の命が安いのか・・・。」
 妖夢の台詞を受けて鼻で笑うその妖怪。周囲の者達も一斉に笑いだす。
「何ぃ!」
 安い命とあざ笑う簡単な挑発に乗ってしまった妖夢は思わず剣を抜いてしまう。
 痩せ形の人型妖怪は一見すると体型的に人間にも見えるが、山嵐の様な棘状の頭髪で一目で人外と判断出来る。体格から腕力で勝負するタイプではないと判断出来、ならば飛び道具や策を弄するタイプとすぐに気が付かなければならないところだが、雑魚妖怪如きに策無しと見て油断する妖夢。
「抜いたな?この戦いは俺達の正当防衛だ!」
 妖怪の切り返しで自分に非があると擦り付けられ一瞬狼狽える妖夢。その言葉に対する返しがすぐに見つからず、後は子供の喧嘩の台詞しか出てこない。
「そっちから先に仕掛けてきたのでしょう!」
「俺達はあくまで交渉を持ちかけただけだ。」
「そ、そんなの・・・詭弁だ!」
 妖怪のふざけた態度にカッとなって斬りかかるがすぐに冷静になり、突撃がかわされる事を予め想定し、その突進スピードを利用して囲みを突破して逃げようと目論む妖夢。ここは逃げるが勝ちである。
「な!」
 しかし、妖夢の思惑とは裏腹にその妖怪は妖夢の剣を避けようともせず、自ら剣に当たりに来る。最初から猛スピードで突進した妖夢はそれを止める事が出来ず、剣を引くも間に合わず高速の突きが妖怪の腹に深々と刺さり背中に貫通する。この時妖夢は肉や内蔵を突き刺す手応えが無かった事で、その妖怪の特異な体質をすぐに見破るべきところだが、そこまで看破する経験や能力は今の妖夢には無く、剣が体に刺されば相手は死ぬと単純な思考にかならず、殺してはまずいと、妖夢は慌てて剣を抜こうとする愚を犯す。
 そんな妖夢の『しまった』という表情を見てニヤリとした妖怪は、棘の様な頭髪を妖夢の顔に向けて威嚇する。この棘に刺さると毒や麻痺など状態異常になるのではないかと、条件反射的にそれを嫌った妖夢は、棘を避ける為に突き刺したまますぐに抜けない剣をその手から離してしまう。
「よし!づらかれ!」
 その時、剣を刺した妖怪の号令で他の妖怪達が蜘蛛の子を散らす様に四散するのを妖夢は呆気にとられて見入ってしまう。剣を腹に刺した棘頭の妖怪も真っ先に下に地上の森の木々の中に紛れ込む。
「え?え?ええええええ?」
 妖夢はその状況を一瞬理解出来ず、ぽかんと口を開けて固まる。そして10秒程経って騙された事に気付く。
 剣撃が聞かない特異な体質を利用して身体に刺さった剣だけを奪い去る弱小妖怪達のしようもない作戦にまんまと引っかかって、大事な宝物を盗まれてしまった妖夢。
 あの頭髪の針も見せかけだけで毒も無く、そもそも棘に見えるだけで刺さりもしないかもしれない。
 おかしいとは思ったのだ。強い妖怪の接近ならもっと早く気付いていたはず。弱すぎて逆に気付かなかったのだ。逃げる妖怪達の逃げっぷりも見事で、連中は戦いも知らない文字通りの雑魚だったのだ。
「やられた!」
 下手に出て通してくれなどと言わず気迫で迫れば追い払えたのかも知れない。しかし、何を言っても後の祭りである。兎に角あの大事な剣を早く取り戻さなければならない。
「あいつは何処に?確か・・・向こうか!」
 剣を腹に刺したままのあのハリネズミ頭の妖怪が逃げた方向を確認し妖夢は追跡を開始した。

 取り敢えず剣を奪って逃げた妖怪の消えた辺りに着地した妖夢は木々の間に彼らの気配を探す。連中が単純な盗人妖怪なら追っ手を待ち伏せすることなどせず、すぐに安全な場所に逃げているだろう。恐らくこの近辺からは姿を消しているだろうと判断する妖夢。
 相手は10人以上いたと言う事は彼らは一つの共同体として行動するグループで、どこかに必ず集合する筈である。盗賊団を形成しているなら、『何とか団』のように名前があり、妖怪の界隈ではそれなりに有名かもしれない。ここから一番近い妖怪の集落はマヨヒガであるが、あそこは結構強い妖怪がおり、こそ泥の様な弱い妖怪は危なくて近寄らないと思われる。まともな妖怪はこそ泥の類は嫌いなのだ。
「だとすれば・・・関所跡か。」
 あの剣を彼らが自分達で使うとは思えない。盗んだ目的は売って酒代か何かにする為だろう。妖怪と人間双方向けの店が混在する関所跡なら盗品を売りさばくには便利な場所ではないだろうか?
「・・・でも。」
 このまま関所跡に飛ぶのもいいが、念のために目と鼻の先のマヨヒガで情報を収集してから行った方が良いかもしれないと判断した妖夢は、まずマヨヒガに向かう事にした。

 マヨヒガ。妖怪や妖獣など集落で、人間っ気が全くない純粋な妖の里である。妖物(あやかしもの)の越冬地としても知られ冬場はとても静かだが四季を通して沢山の妖怪が集まる場所である。
 マヨヒガより西側は妖怪同士で縄張り争いをして年中戦いが絶えない場所で、幽明結界からもほど近いので、そんな妖怪達の祝勝会や慰労会の会場に白玉楼が選ばれる事多々である。ライバル同士、戦が終われば次の戦までは休戦し、ここで互いに称え合い次の戦への糧にするのだ。
 無秩序な個人闘争から集団戦闘による陣取り合戦方式に戦いの様相が変わったのは、マヨヒガよりさらに西にある廃村、派閥から抜けた堕ち天狗が住まう『堕天の里』に逗留中の大天狗・大峯前鬼坊の勧めによるもので、時期を決めた集中的な陣取り合戦が単純な個々の優劣を決める戦闘ではなく策敵や伏兵など、強さの上下に関係なく状況に応じた様々な能力が必要とされ、様々な層の妖怪に幅広く広まって人気がでたのだ。
 そうした現役の兵隊の様な猛者達が人間の里で大規模な傭兵募集を行っている事を聞きつけ、その情報収集の為にマヨヒガに参集し、元々いる妖怪も含めてかなり数に膨れあがっていたのである。
 西側の妖怪は人間との関わりを持ちたくない者達ばかりで、傭兵募集の噂を聞きつけたものの直接出向く者は少数で、ほとんどの者は一旦マヨヒガか関所跡に駐屯している。傭兵を募集している妖酔乃瀧も里に大量の武装妖怪が来られてもまずいし、あまりこの事は大っぴらにしたくないので、人を派遣してマヨヒガと関所跡に出張所を設けて対応していた。
 妖夢はそんないつもと様子が違うマヨヒガに足を踏み入れていた。

「何だろう・・・この人だかりは・・・。」
 三賢者会議に参加した顔ぶれからして、妹紅や永遠亭に関わる異変が起こる事は想像していたが、小さな異変ではない事がこのマヨヒガの状況から伺えた。
「よう、庭師。こんなところに何の用だ?」
 名前は知らないが見覚えのある妖怪に声を掛けられる妖夢。妖夢自身はあまりマヨヒガには行かないが、マヨヒガの妖怪は宴会と称してよく白玉楼を散らかしに来る。庭師の妖夢としては彼らは招かれざる客であり、来る妖怪にしても小うるさい妖夢は煙たい存在だった。幽々子がいなければひと騒動どころが血の雨が降ったかもしれないが、その幽々子の人柄のお陰か、妖夢の煩い小言も笑って済まされていた。
「あ、どうも・・・。」
「どうした?さすがにこっちじゃ、大人しくしてるか?」
 ペコっと頭を下げて挨拶した口やかましい庭師の殊勝な態度に拍子抜けするその妖怪。妖夢が殊勝な態度に出るのは、所謂アウェーだからというわけではなく、先日の事件で心を入れ替えた所為である。
「どうしたんですか、これ?」
 妖夢は苦笑いしながらいつもは静かなマヨヒガのこの喧騒を腰低く尋ねる。
「人間の里で傭兵を募集しているんだとよ。西側は今オフシーズンだからってんで手が空いてる奴が多くて興味があるらしいのさ。」
 相手の腰が低いと妖怪は気が大きくなって饒舌になる。妖夢はそうした妖怪の習性を今初めて知る。
 目の前の上半身が異様に大きく腕の長さが足の倍以上ある外見的特徴がハッキリしているこの妖怪は確かに見覚えがあるが、互いに自己紹介をしたわけではなく妖夢は彼の名前を知らない。向こうはこちらが白玉楼の庭師として宴会で庭を散らかす度に大声で怒鳴っていた自分の事を良く知っているようである。
 友達ではないが顔見知りという事で向こうも馴れ馴れしく近付いてくるが、この状況なら剣を盗んだ犯人の情報をさりげなく聞き出せるのではないかと思い、さっそく聞いてみる。
「ところで、ハリネズミの様な頭の小柄な妖怪見ませんでした?もしかしたらお腹に剣が刺さってるかもしれないのですが・・・。」
 剣が刺さってると聞いて、その妖怪は妖夢の腰の空の鞘を見る。
「おめーまさか・・・剣を盗られたのか?」
 目聡い妖怪は妖夢の脈絡のない質問を不思議がり、主が留守にしている腰の鞘を見て妖夢の身に起こった災難を一瞬で言い当ててしまう。妖夢から見る妖怪達は、宴会で馬鹿騒ぎする間抜けな存在と、頭のどこかでそう見下していた。相手を過小評価していた妖夢は手痛いしっぺ返しを受ける事になる。
「ひ、平たくいえば・・・そう・・・です。」
 それを聞いて腹を抱えて大笑いをし出すその妖怪。そしてそれを聞きつけて何人かが集まってくる。どれもこれも皆白玉楼に騒ぎに来る妖怪達で、名前は知らないが皆顔を知っている者ばかり。この場合、面識があるだけに余計に恥ずかしい。
 妖夢は後悔した。自分では当たり障り無く他人事の様に言ってみたのだが、すぐに自分の事だとばれてしまった。集まった妖怪達の中心で赤面し下を向く。泣きたくなってくる。相手を見誤った自分の無能。つくづくである。穴があったら直ぐにでも潜り込みたい心境だ。

 普段冷たくあしらっているにもかかわらず彼らは妖夢に対する態度はネガティブなものではなかった。妖夢はそれがなぜか理解出来ていた。この妖怪達はこちらをただの子供だと思って全く相手にしてなかったのだ。子供のする事に一々腹を立てる程妖怪の度量は小さくないのである。
 妖夢の視点では子供と大人の扱いの違いという捉え方になるが、妖怪の視点では弱いか強いかの問題であまり年令は気にしていない。弱いほど良く吠えるの典型として彼らは妖夢を捉えていた。妖怪は弱者には寛大なのだ。
「なんだ、庭師じゃねーか。」
「おめー何昼間っから大声で笑ってるんだよ?」
「庭師がそんなに面白いのか?」
「あのこそ泥一味に剣を盗られたんだとよ。」
「庭師がか?」
 小さくなった妖夢に一斉に視線が向く。一瞬の静寂と共に爆笑が沸き起こる。
「あの雑魚は確か剣が効かなかったな。それを知らずに刺したのか。」
「刺したら抜けばいいだろ?」
「びびって手を離したか?」
「ったく、それにしても、あいつら最近うぜーな、そろそろ締めとくか?」
「まぁ、奴等に盗られたなら、競売に出るだろうな。」
「競売?それはどこに?」
 妖怪達の好き勝手な言葉の嵐の中にいくつか重要な情報が出た。あの連中はこの近辺でも煙たがられている盗賊団で、盗品は競売に流れるという。もはや自分を取り繕っても仕方がない妖夢は恥を忍んで競売について尋ねる。
「競売は川の方でやってる。人間の里じゃ盗品なんて取り扱わねーから、いかがわしい事は全部あそこだ。」
「盗品ってのは、盗った奴が直接競売にかけるわけじゃないわよ。仲介人が先に安く買い叩くのよ。」
「連中は足がつかないように速く手放してまとまった金が欲しい。仲介人はその盗人の弱みにつけ込んで安く買い叩く。そうした品々も含めてまとまった量になると競売を開いて一気に売りさばくのさ。」
「はぁ、なるほど・・・。」
 詳しく親切に教えてくれる妖怪達を意外に思いながら世間の、強いては裏社会の仕組みを学ぶ妖夢。
「しかし、あれだな、時期が悪いな・・・。」
「ああ、確かに・・・。」
「え?それはどういうことですか?」
「今傭兵集めてるだろ?武具の需要が高まってる。あの剣は恐らく名刀だ。高値で取引されるぞ?」
「ああ!」
 剣を取り戻す為には競売に掛けられる前、いや、仲介人の手に渡る前に何とかしなければならない。
 妖夢は取り囲んでいる妖怪達を掻き分けて囲みから抜け、急いで飛び立とうとするが、そこで立ち止まって妖怪達に振り向き一礼した。
「あの・・・色々と教えてもらって、有難う御座いました!」
 妖夢は振り向くとそう言って直ぐに飛び立った。
「・・・。」
 それを受けて妖怪達は絶句して周囲の者と顔を見合わせる。
「おいおい、あの庭師、俺達に礼を言ったぞ?」
「どうしちまったんだ?」
「何か悪いものでも食ったんじゃないか?」
「こりゃー明日は雪だな。」
「いや、槍だろう?」
「天変地異の前触れか・・・。」
 白玉楼で宴会をすることを良く思わず、いつもいつも小言を言ってわめき散らす小生意気な庭師の妖夢の思いもかけなかった謝意に面喰らう妖怪達。どこかむずがゆかったが、悪い気はしなかった。
 その妖怪達はこれからも白玉楼で宴会をする事になるが、魂魄妖夢が小言を言う庭師として彼らの前に立つ事は以後無く、彼女の姿も当分の間白玉楼から消える事になる。


 マヨヒガから飛び立った妖夢は、周辺の様子が明らかにおかしい事に気付く。傭兵を募集していると言っていたように武具などで武装した妖怪がマヨヒガ周辺で、何人かでまとまって訓練している。
「一体何が起こってるんだろう・・・。」
 三賢者会議で話し合われた内容は分からないが、その事と今のこの状況に関連がある事は間違いないだろう。
 しかし、今はそれを詮索している場合ではない。大恥をかいた代償に手に入れた手がかりである。有効に活用すべきである。
 妖夢は全力スピードで低く飛翔し川縁の関所跡へ向かった。

 魂魄妖夢が幻想郷の地理で最も詳しい場所と言えば、人間の里側の川縁の関所跡である。
 関所跡は川そのものを関として利用していたので、川を挟んだ双方に施設が別れている。川を渡るための渡し舟は無く、これは里側の人間がこれより西側に行かせない為でもある。物資等の輸送に関しては空を跳べる妖怪がいるので特に不便はない。
 妖夢がこの関所跡に地理があると言っても、他の場所に比べてであって、それも里まで行くのが面倒なのでここに寄るから比較的詳しくなっただけである。買い物をここで済ませる事が多く、特に飲食店の店員には顔がそこそこ効く。
 主人である幽々子の為に酒のお使いに何度か来た事がある妖夢は、いつもとは事情が違うものの、いつも通りの表情で暖簾が出て無ければ酒場とわからない普通の家屋の様な酒場の戸口に立つ。
「いらっしゃい。」
 昼間から開いているいつもお酒を買い出しに来る酒場の暖簾をくぐる妖夢。ちなみにこの酒場の主人は人間である。こちら岸の集落は里とは地続きの為人間も行商に来るし、ここに住みついて商売をしている人間も多いのである。
「こんにちわ。」
「いつものかい?」
「いえ、今日は・・・。」
 言葉を濁した妖夢はそのまま店内に入り店主の立つカウンターの前に進む。昼間だけあって客はほとんどおらず、カウンターにつっぷして寝ている客が一人しかいない。他の客に聞かれずに情報を聞き出せるチャンスである。
「あの・・・ちょっと聞きたい事が・・・。」
「酒場で何か聞きたい事があるなら先ずは注文するのが筋ってもんさ。」
 世間知らずの妖夢に酒場のルールを教える店主。
「あ、そうですね。すみません・・・じゃ、徳利1本を。」
「はいよ、毎度あり。」
 向こうの世界では『御銚子一本』と頼むと徳利が1本が来ると以前に紫と幽々子が話して笑っていたのを横で聞いた事があるが、こちらの世界では御銚子を頼めば御銚子が来る。御銚子は主に接待の時などに使い一人や親しい仲間内で飲む時は普通は徳利で頼むの一般的である。
 店主の目の前のカウンターに座ると、すぐに徳利と御猪口が出される。
「(うわ・・・私昼間からお酒飲もうとしてる・・・。)」
 夕餉に主人の付き合いで嗜む程度にお酒を飲む妖夢は、花見などの宴会以外での日中の飲酒は不謹慎な事の様に思えて罪悪感を覚える。他人がしてても気にならないのに不思議なものである。
「で、なんだい?聞きたいことって。」
 御猪口に口を付け落ち着かない様子で酒をすする妖夢を見て、逆に尋ね返す店主。妖夢は恥ずかしくてあまり言いたくはなかったが、順を追って今日の出来事を教え、盗賊団や競売について尋ねた。
「そりゃー災難だったなー。でも、ここじゃ盗まれる方も悪いで済まされる。自分で連中を見つけるか、競売で競り落とすしかないだろうな・・・。」
 同情する表情を見せる店主ではあるが、妖夢の問題に首を突っ込んで親切のただ働きをする気は更々無い様子。しかし、この近辺を荒らす盗賊団については良く思って居らず、彼らの居場所は追加注文を要求されることなく向こうから教えてくれた。上手くいけば退治してもらえると考えたからだろう。
 普段から人に親切にしたり真面目に働いていれば、こういう時に便宜を図ってもらえるのだろうかと考える、これまで与えられた事以外何もしてこなかった妖夢。
「競売はいつ頃やるんでしょうか?」
 盗賊団のアジトらしき場所を教えて貰い、つまみを数点注文してささやかな恩を返す妖夢は、ついでに競売についても質問した。
「ここいらじゃ、何かするっていったら夕刻からだな。今日やるかどうかは知らんが・・・。」
「そうですか・・・。」
 妖夢は気落ちして一度だけ口をつけただけの御猪口をカウンターに置き、今から酔ってはいられないので酒のかわりに食材が何か不明なつまみを口に放り込む。
「ちなみに競売所は里側で一番デカイ建物だからすぐにわかるさ。」
 言われて直ぐに気付く妖夢。大きく立派な家なので見たくなくても目に入るあの建物だ。
「仲介人という人もそこに?」
「ああ、狡賢い小物だが、因幡てゐの後ろ盾があって好き放題やってる。」
 妖夢はここで意外な人物の名を聞く。
「因幡てゐってあの悪戯兎?」
「あんたは何か悪戯でもされたのかい?」
「え?いいえ、特には・・・。」
「因幡てゐは人間の味方で妖怪の敵みたいな、里の慧音先生に近い存在だ。あんたはどっちか知らないが、俺達人間にはよくしてくれる。競売にしたって仲介人はともかくあの仕組みでいろんな奴が助かってる。世の中単純じゃない。」
 悪戯兎などと迂闊に口にした妖夢に苦言を刺すように諭す店主。
 妖夢はこれまで因幡てゐとは永遠亭で戦った事はあるが、これはどちらかというとこっちから向こうに攻め込んだものだし、それ以外では全てスペルカードによる弾幕戦闘である。考えてみると、悪戯兎という妖怪達の噂を鵜呑みにしてそう決めつけているだけで、自分は特に何かをされたわけではなかった。 
「すみません・・・。」
「こっちも済まない、大人げなかったな・・・。」
 素直に謝る妖夢に、店主も恥ずかしげに頭を掻いた。


 対岸に飛んだ妖夢は、酒場の主人から教えられた盗賊団のアジトと思われる家を見つけて、躊躇無くその家の戸を叩いた。
 評判の良い盗賊団があるのかどうか分からないが、周辺の話によれば妖夢を襲った連中の評判は悪く、彼らを懲らしめる大義名分は立つだろう。妖夢は強い意思を持って挑む決意をした。
 何も言わずドンドンと間を置かず戸を連打されたので、中の住人は煩くてかなわず不機嫌そうに戸を開けた。しかし、戸口に立つ相手を見て驚いて飛び上がる。
 戸が開いた瞬間に全開に戸を押し開き中に踏み込む妖夢。どこから見ても雑魚集団、怖いものなど一つもない。油断した自分が悪いとはいえ、こんな連中に大事な剣を盗られた事が許せず、自分も相手も滅茶苦茶にしてやりたい衝動に駆られる。
 その妖夢の恐ろしい気迫に完全にびびった妖怪達は、壁側に下がって少しでも妖夢から離れようとする。剣を腹に刺して逃走したこの集団のボスらしき者も酒を煽っていた欠けた杯を落とし、腰を落としたまま後ろに足を蹴って悲鳴を上げて下がる。
 完全に油断して逃げ遅れたそのハリネズミ頭の妖怪は突進して間合いを詰めた妖夢に胸ぐらを掴まれて完全に降参の姿勢を取る。
「わ、わわ悪かったよ!」
「剣はどこですか?」
「剣?そ、そんなのあったっけ?」
 とぼける妖怪に顔を近づけ凄い剣幕で睨む妖夢。
「あ、ああ!あの剣か!でもあれはお前が俺の腹に刺したんだろ?」
「剣はもう一本あります。これでその首を切り落としましょうか?流石に首と胴が離れればあなたも死ぬでしょう?」
「ま、待ってくれ!殺さないでくれ!お、お前等も謝れ!」
 周りにいる子分達に謝るように促すが、怖じ気づいた子分達はじりじりと後ろに下がりだし、一人が妖夢の開け放った戸から逃げると堰を切った様に次々と他の子分も家から逃げ出して行く。
「いい仲間を持って良かったですね。本当の友達なら絶対逃げたりはしないでしょうけど・・・。」
 本当の友達など妖夢にもいない。本当の友達とはどんなものなのだろうと自問しながら妖怪に迫る。
「剣はどこですか?」
「剣はもう売った!」
「誰に?」
「競売の仲介人だ。直ぐに現金にしてくれるから・・・。」
「いくらで売ったのですか?」
「300文だ。」
「さ、300文?た、たったそれだけですか?」
 妖夢は唖然とした。1000文=1貫で、兎丼が8文、鰻丼で17文、徳利1本で7文程度である。300文なら酒代としてはそこそこの額になるが、剣一本と釣り合う値段ではない。
 妖夢は怒りに震える。自分の命とも言える剣が300文で売られ、その銭で酒を手に入れ酒盛りをしているのだ。これが怒れずにいられるだろうか?
「許せない・・・。」
 妖夢はナワナワと肩を震わせ白楼剣を抜き妖怪の腹に突き刺す。普通なら死ぬ一撃だが、この妖怪が剣が効かない特殊な妖怪だということを知った上での攻撃である。
 妖夢は純粋な怒りが込められた復讐の剣を振るった。相手を殺す覚悟でやった。不死人狩りで妹紅を斬り、先日は八意永琳を斬った。幽々子に人殺しと罵られた。もう人を斬る事にためらいはなかった。幽々子の保護から離れ、独り身となったからには斬られる覚悟は出来ている。だからこそ斬る資格がある。
「この剣は迷いを絶つ剣です。あなたがもし、今の境遇に満足しておらず今の自分に迷っているならその迷いも無くなるでしょう。純然たる悪に染まるか、その逆か・・・。」
 白楼剣は実体の希薄な幽霊特攻の武器で、この世に未練を残す幽霊を斬って強制的に成仏させてしまうために、別名『迷いを絶つ剣』などと呼ばれている。
 殺傷力のある実剣の楼観剣とは違い、白楼剣は殺傷力の無い霊剣で、妖夢は実際にこの剣で人を斬った事がなく、その真偽は定かではなかった。
 妖夢が妖怪に対して迷いを絶つと高言したが、これは実際にそうなる事を想定したというよりは、復讐と同時に二度と自分に近付かないようにするための脅しでもあった。しかし、白楼剣で腹を貫かれた妖怪は楼観剣を腹に刺した時とは違い、かなり苦しそうに悶えている。実剣に対して無効でも霊剣は効くようだ。妖夢は実剣の効かない相手に対して白楼剣が有効な武器になることを学んだ。

 苦しそうにもがく妖怪から白楼剣を抜いた妖夢は、剣を抜かれて少し楽になったようにしている妖怪に背を向けて隠れ家の外に出た。これで少なくとも自分に絡んでくる事は無くなるだろう。
「次は競売か・・・。」
 酒場の主人の話によれば競売は不定期開催だが、時間は人間も妖怪も活動時間が重なる夕刻に行われるのが決まりらしい。妖夢が幻想郷に出たのは、小町に昼食をご馳走した後白玉楼で幽々子と会ってからで、妖怪に剣を盗まれて追跡の為にマヨヒガから関所跡に移動したのでかなり時間が経っている。陽もだいぶ傾きかけて来たがまだ日没にはまだ少し時間がある。今なら競売にかけられる前に何とか出来るかもしれない。
 妖夢は朱に染まり始めた幻想郷の空に向かって飛翔し、仲介人に会いに再び人間の里側の対岸に移動した。

「あの家か・・・。」
 酒場の主人に言われた通り一番大きな屋敷は、探すまでもなく直ぐに見つかる。ここに来るといつも目についたあの家が、仲介人の家、そして競売所の会場でもあるのだ。
 夕方になり、妖怪の数も次第に増え出す小さな集落。妖夢は足早にその屋敷に向かい門番に要件を伝える。盗品を返して欲しいと言っても恐らく門前払いを受けると妖夢でも容易に想像できたので、盗品の鞘を持っていると伝える。剣と鞘がセットになれば価値は上がるだろうし、そうなれば断る理由はないだろう。
 要件を屋敷の中の仲介人に知らせに言った門番は、一人の小柄な妖怪と思しき人物と共に屋敷の外に出てくる。この者が仲介人だろうか?
「ほほー、あの剣の鞘とな?どれ本当かどうか試してみろ!」
 小さな妖夢の胸の高さにも満たないその小柄で痩せ形の妖怪は、神経質でがめつい顔付きをしており、見るからに小悪党といった風貌である。衣服は非常に立派で指や腕にいくつもの貴石をあしらった貴金属製の輪をはめている。派手好きで財力を誇示したい性分が伺えた。
 門番が楼観剣を持っている事に気付き、奪い取りたい衝動にかられるも、その門番の隙のない挙動に、門番など警護にあたる者は斯くあるべきなのだろうと同じ門番である自分の未熟さを痛感する妖夢。
 妖夢から鞘を受け取った門番は、楼観剣をその鞘に収める。そしてそれがピタリとはまり装飾の統一感などから本物とわかると、主である仲介人と思しき小柄な人物にそれを渡す。受け取った小柄な男は嬉しそうに剣を少し抜いて満足げに眺める。妖夢はここで、この楼観剣は自分の宝物で盗まれたものだから返して欲しいと訴えに出る。
「これは競売の仲介人たる私が適切な金額で買ったものだ。それにだいたいこの剣がお前のものと証明出来るか?その鞘とて拾ったものだろう?嘘はもっと上手くうけ!このたわけめ!」
 甲高い声でピーピーとわめき散らす仲介人。妖夢も負けじと反論する。
「適切な金額?300文が適切な額と言うのですか?なら私も300文でそれを買取ます。」
 盗んだ連中の事情を知っている事を暗に教える妖夢。しかし、その程度でこの強欲な仲介人は動かない。
「ばかめ!仕入れ値と売値は違うのだ。安く仕入れて高く売る。商売の基本もわからぬのか!」
「ならいくらで売るつもりですか?」
「それを今から競って決めるのだ。」
 仲介人の言は最もで反論出来ない。
「では、その鞘返してください。むき身の剣など置き場所もなく、二束三文にしかならないでしょうし・・・。」
 実際問題として、片刃の細身の長剣である楼観剣は非常に折れやすく、刀身の再生機能が備わっている鞘はこの剣にとって無くてはならない存在なのである。剣よりもむしろ鞘にこそ価値があるのだ。
「うぐ・・・。」
 実際に武器として使う以外にも装飾品としての価値もある楼観剣は、保護管理維持の点から考えても鞘は必須であり、鞘が見つかったと門番から聞いて喜び勇んで自ら出向いた程に剣と鞘のセットは商品として重要だった。
 しばし剣と鞘を握っていた仲介人は、何かを決意して神妙な顔で妖夢に商談を持ちかける。
「この剣は3貫文から競りを始めようと思っていた。恐らく武装妖怪共に買われると思うが、連中は今オフシーズンで金がない。競ってもせいぜい10貫文がいいとこだ。」
「・・・。」
 10貫文と聞いて妖夢はそれでも安すぎると思う反面、手持ちの銭で何とかなる金額だと計算する。
 白玉楼の俸禄はそれなりに良く、銭の使い道のない散財しない妖夢は禄のほとんど貯め込んでいた。その貯金と幽々子からの餞別で貰った分を合わせると30貫文ほどが今手許にあるのだ。
「もし、その鞘を貸して貰えるなら、あんたが競り落とした時、支払時に3割値引いてやるがどうだ?」
 支払の算段が付き添うな考え込む妖夢の表情を見て、仲介人は妙な交渉を持ちかけてくる。妖夢はこの時、自分が競り落とすことを前提で物事を考えてしまっており3割引きはお得だという誘惑に正しい判断力が低下する。自分が競り落とせなかった時の事は考えずに、盗品を競りにかける仲介人のせめてもの情けと都合良く受け取ってしまったのである。
「わかりました。これは一時お預けします。」
 それを受けて、内心歓喜した仲介人は表情はさも有り難そうに振る舞い、競売の会場と時刻を知らせて門番と一緒に屋敷に入った。しかし、これは競売として不正な裏取引であり、ある意味悪魔との契約である。
「馬鹿め!あの小娘まんまとかかりおった!」
「お見事でした。しかし、こうも簡単に引っ掛かるとは・・・。」
「いいな!手筈通りお前は値を釣り上げろ。50貫文までいけるはずだ!」
「わかりました。あの娘には世間というものを教えてやりましょう。」
「くっくっく・・・あの小娘の青くなった顔が見物だ。」
 そんな意気揚々と走り去る妖夢を窓越しに見て仲介人はほくそ笑み屋敷の奥に戻った。
 そして、そんな妖夢を茂みの向こうから見るもう一つの存在がいた。
「(ふむ・・・しようがない、妹紅の頼みだ。助けてやるかの・・・。それに、あの馬鹿、やってはならぬことをしたな・・・。)」 

 仲介人の大きな屋敷の大部屋に面した中庭のような広い場所が競売の会場である。
 会場には大勢の人妖が集まりプリズムリバー三姉妹の演奏がその喧騒を煽るなか、開場時間の午後6時が訪れる。
 酒場に戻って腹ごしらえをした妖夢も会場に訪れ、競りに参加する旨を受け付けに伝えると参加者用の別室に案内され、今日出品される品々の下見をさせてもらう。その後、屋敷の中庭の参加者専用の椅子のある席に案内される。
 庭より一段高い屋敷の縁側に主催者側おり、その様子からあの仲介人が司会進行などもやるようだ。先程より派手な衣装を身に纏っている。
 開催時間は参加者の入り具合を見て決まるが、既に参加者が大勢席に座っており、見物客で広場全体が一杯になっている。
 今回の競売は武器関連が多く、それを目当てに傭兵志望の妖怪達が周辺から集まっている。珍品や実用品などに集まる面々とは明らかに異なった顔ぶれで、妖夢は場違いな所に来てしまったのではないかと不安になる。
 そう言えば時々幽々子がここに来て競りを見たり参加していたことを思い出す。妖夢は全く無関心だったので、幽々子をここに置いてどこかで暇を潰していた。今日の様な事もあり、何ごとも経験と幽々子と共に参加していれば、仲介人とも面識が得られて便宜を図ってもらえたかもしれないが、全ては後の祭りである。
 妖夢の隣の空いている席に人型の妖怪か人間らしき男が座り、一瞬目が合う。どこかで会った様な気がしてこの時、白玉楼に宴会に来る妖怪の一人と思い、『どうも』とだけ言って首を少し曲げる。
 会場の席がほとんど埋まると、何の前触れも無く仲介人が縁側の上に置いた台に乗って競売の開催を宣言し、プリズムリバー三姉妹の次女の奏でるファンファーレを合図に唐突に競りが始まった。
 様々な武器が競りにかけられるがどれも小幅な値動きで激しく競り合うような盛り上がるシーンは無く、淡々と競りが進む。妖夢はこの調子なら楽に落札出来るだろうと気持ちを楽にする。しかし、妖夢は知らなかった。競りに参加した者達大勢の狙いが楼観剣であることを・・・。

 数点の競りが順調に進み、やがて最後の出品物である楼観剣が会場に姿を見せると、静かなどよめきと共に張り詰めた緊張感が走る。
 妖夢はついにこの時が来たと生唾を呑んで体を強張らせる。
「近年では見られない最高の出物がここに御座います。今日を逃したら二度と手にする機会はないでしょう!」
 楼観剣をそう讃える仲介人が会場の武人達を煽る。妖夢としては楼観剣を評価してくれるのは嬉しいが、あまり凄いものと煽られるとライバルが増えてしまいそうで複雑な気分である。
 騙されている事に気が付いていない妖夢は、この期に及んでも仲介人との裏取引がそのまま現実になると思い込んでいた。しかし、現実はそんなに甘くはなかった。妖夢はそれをすぐに思い知らされる。
「では、10貫文から、レートは1貫文で始めます!」
 妖夢は目が点になった。話が違うではないか!妖夢は抗議の声を上げようとしたが、周囲から興奮した怒号の様な入札の声が鳴り響き、その熱気に圧倒され怖気づいて引き下がる。
 あっと言う間に20貫文に達した自分の剣は、それだけ高く評価されている事を意味しており、鼻が高いがこのままでは他人に落札されてしまうので喜んでいる場合ではない。
 ここで、話が違うと乗り込んで仲介人に問い詰め、競売そのものを止めさせる手もあるが、向こうはこちらを完全にはめる気で取り合わないだろうし、公平でなければならない競売で、裏取引に応じてしまった事を公言したようなもので、咎めを受けるのは自分なのである。仲介人も悪いがそれに荷担して騙された自分はもっと間抜けではないか。
「21!」
 妖夢は腹をくくって競売に参加し、21貫文と叫ぶ。しかし、隣の男が一気に値段を上げる。
「30」
 妖夢の出せるギリギリの値段に一気に跳ね上がり妖夢は驚愕する。その値を釣り上げた男はこちらを見下ろしニヤリと笑う。どこかで見たような、向こうはこちらを知っているような雰囲気だ。
「(誰だ?ま、まさか・・・)」
 先程仲介人と一緒にいた門番だ。あの時は兜を被って顔が全部見えなかったが顎のラインに見覚えがあった。この男は競売の雰囲気を見ながら参加者の懐具合を予測し、競売の値を操作する役目を果たしているのだ。
「31!」
「33!」
「35!」
「37!」
「40!」
 レートが1貫文から自然と上がっていき、すぐに妖夢には手が出せない金額になった。
「負けた・・・。」
 妖夢はぽつりと呟いた。それは単に競売に負けたという事ではなく、幻想郷という社会に負けたという意味だった。甘かった。剣の腕には多少の自身があったし、勉学もそこそこ出来る。上手く幻想郷に順応して順調に修業に励めると信じて疑わなかった。
 しかし現実はこうだ。他者を貶める様々な悪意が常にどこかで蠢いており、それから身を守っていかなければ幻想郷という社会で独り立ちできないのだ。
 がっくりと肩を落とした妖夢。既に値は50貫文に迫ろうとしている。自分の分身ともいえる千年連れ添った剣が今無常にも他人に売られようとしていた。妖夢の中にどす黒い感情が芽生える。復讐してやる。こいつらを全員皆殺しにしてやる・・・と。
 だが、その時ふと目を上げると、自分の膝に肘をついて頬杖してこちらを見ているつぶらな瞳に気付き、心を見透かされたと思いハッとなって黒い感情を追い払う。 
「因幡・・・てゐ?」
 それは妖夢も知っている顔だった。
 満面の作り笑いで妖夢を見上げると、背を向けてそのまま後ろに跳んで妖夢の膝に乗る。背の低い妖夢より更に一段背が低い無茶な事をするてゐを思わず膝に抱える妖夢。バランスが崩れるとついそれを安定させようとしてしまう。
 端から見ると仲の良い親密な関係に見えるが、妖夢は幽々子と共に永遠亭の調査に入りてゐ等永遠亭の面々と戦っている。不死人である八意永琳と蓬莱山輝夜は幽々子の天敵でもあり、妖夢としては妹紅も含めて彼女達を敵と認識していた。その子分でもあるてゐもまた敵であり、正直てゐのこの行動の意味を全く理解出来ず妖夢は戸惑っていた。
「50貫文!」
 となりの門番が50貫文まで値を釣り上げ、周囲にどよめきが起こる。参加した妖怪達はここで仲間内でいくらまで都合が付けられるかなど、ヒソヒソと打ち合わせを始めている。恐らくここからは小さな値動きで推移するだろう。
 懐事情のさぐり合いに入り、仲介人も様子を見ながら敢えて急かせずに様子を見守る。ここで誰かが一気に値を上げると勝ち目なしと見て周囲が手を引いてしまう可能性もある。主催側とグルである門番は50まで一気に上げたあとはレートを戻して小幅に対応し、相手の様子を見ている。
 足をばたばたさせて競売の様子を見ているてゐを抱きかかえながら、妖夢は周囲の状況を冷静に見る事が出来るようになっていた自分に気付く。
 一つの事に集中するあまり周囲が見れなくなる。そしてそこをつけ込まれる。全体を見ながら自分を顧みて客観的に状況を見ていれば、そもそも剣を盗られる事も無く、今ここに座って茶番に付き合う必要もなかった。全ては今更だが、幽々子の言いつけ通り妹紅を通していれば、紫の計略にはまる事もなく、今という時は存在していないはずなのだ。

 妖夢の予想通りレートは1貫文に戻り小幅な値動きで、競りの声も2名だけになった。レートを釣り上げた門番は既に手を引いたようだ。後はこの2名、いやこの2名の後ろ盾のグループの財力勝負であり、その駆け引きは見物といえる。
 久々の面白い競売に参加者以外の野次馬も熱気を帯び、この勝負で賭けに興じ始めている集団もいる。妖夢はそれも仲介人らの一味が煽ってやってることだろうと冷めた目で見る。感情がかさ付いて、何事も悪い方向にしか考えられない。ここにいる全ての者が不幸になれと心底そう思い念じる。
 そんな妖夢に変調が見える。
 妖夢は大きな敗北感に呼吸が自然に出来ない状態になっていた。意識して息を吸い、そして吐いていた。悔しさも悲しさも通り過ぎて涙も出なかった。何も考えられなくなっていた。世界中の全てが敵になったような凄まじい孤独感が妖夢を襲った。しかし、そんな妖夢をかろうじて現実に引きとめ、救ってくれた者がいた。
 膝の上の邪魔な妖怪兎、因幡てゐだ。
 何かに触れている、触れられているという事が安心に繋がり、なんとか平静を保つ支えになっていた。
 安心した妖夢はいつの間にかてゐをぎゅっと強く抱きしめ啜り泣いていた。
「(剣の事は諦めよう。今日の事を戒めにして二度とこんな惨めな目に遭わない糧としよう・・・でも・・・。)」
 千年連れ添った分身とも言える大切な剣である。簡単に諦められるものではない。

 妖夢は落札される瞬間を見届けたいと思うものの、それを見てしまうと完全に自分の物では無くなるという事実を受け入れる事にもつながり、それを恐れた妖夢はこの場を立ち去り、そして、いつまでも『無くし物』としておきたい衝動に駆られる。そうすればいつまでも希望が持てる。
 しかし、次の瞬間その考えが虚しく、無様な事に気付く。
 現実を受け入れるか受け入れないかは別として、どちらにせよこの場所から一刻も早く抜け出してどこか遠くに行きたいと思う妖夢。
 その一方で、膝の上に座って梃子でも動きそうにない不貞不貞しい態度の兎を置いて、このまま立ち上がったら、自分の心が砕け散ってしまいそうな不安が襲う。てゐから伝わってくる命の温もりが、妖夢の心のバランスを取っているのだ。妖夢はそれに気付いていた。
 しかし、妖夢の心はそれで保たれていても体はそうはいかない。
 胃が痛くなり、先程食べた物が戻って出てきそうな嘔吐感が押し寄せてくる。ストレスで心だけでなく内臓もおかしくなっているようだ。
 妖夢は自分ではどうすることもできない感情の底なし沼に嵌ってもがき苦しんでいた。
 そして、そんな妖夢を置き去りにするように、無常にも競売は進行していく。仲介人の思惑通り、とても順調に・・・。
東方不死死 第51章 「暴露」


 包みの中に入っていたのは、一枚の大きな少し厚めの紙を限界まで小さく折り曲げたものだった。
 パチュリーは中身を確認しつつそれに興味があるものの、もっと重要な案件を先に済ませる必要があると判断し、妹紅に向き直って真顔で正対する。
「どうして貴女がスキマを開けるの?」
 その質問はもっと早くにすべきところだったが、パチュリーがそれを問いに図書館に戻って妹紅の名を叫ぼうとした時、妹紅と咲夜が向き合って神妙な空気を醸し出していたので、引き下がったところに唐突にこの小包を渡された為、それに気が向いて重要な事を聞きそびれていた。
「その巻物は八雲紫が九尾の藍の行動範囲を広げる為に作った一方通行で一回ぽっきりのスキマを発生させる巻物を私がコピーしたものよ。」
「スキマをラーニングしたというの?」
「ラーニング?」
 聞き慣れない単語が出たので聞き返す妹紅。
「相手の技を盗んで自分の物にしてしまうことよ。」
「なるほど、盗むと言うならそうかもしれないけど、これはあくまで紫の作った巻物をコピーしたものでスキマ能力を盗んで自分の物にしたわけじゃないわ。あれはそもそも盗めるような類の力ではないし。」
「でも、限りなくそれに近いものよね。」
「幽明結界に行く為の巻物だから現状ではそこにしか行けないし、巻物を発動させる燃料の触媒も無限じゃない。」
「触媒?触媒というのはあの金糸のことね?あ、そうか、あれは八雲紫の髪の毛・・・。」
「何が一番大変かって、それを手に入れるところかしらね。どうやって盗ったかは教えないけど。」
 教えても別に構わなかったが、その経緯も説明するとなると物凄く面倒な作業になるので、機密事項として教えない事にした妹紅。ちなみにこの髪の毛は、博麗神社で紫と会見した後に起こった岩老刀の事件の際、霊夢に呼ばれて紫の救出作業をした時にくすねたものである。この時紫は昏睡状態だったので盗むのは容易だった。

 髪の毛は当人の生体情報が詰まった重要な触媒で、呪いなどにも使え本人の身代わりとして機能する優れた触媒の一つである。
「・・・。」
 パチュリーは妹紅の話を聞きながら力の差を見せつけられ押し黙る。
 見た物を正確にコピーする事は自分でも出来る作業かも知れない。しかし触媒が手に入らない以上、術を完全にコピーするのは不可能である。
 八雲紫の頭髪かもしくは同等の別の生体組織を手に入れなければならないが、盗人ならともかくただの魔法使いであるパチュリーには絶対に不可能な作業だろう。自然に存在するもので代用できる触媒を探して採取する以外今出来る事はないが、どんなに頑張っても八雲紫の力の代替品などこの世に存在はしないだろう。
 体術にしろ魔術にしろ、特化した得意分野では妹紅には負けないと自負する者は大勢いるだろう。実際に体術なら紅美鈴の方が上だし、魔法に関しては当然自分の方が優れているとパチュリーは自負している。まぁ、魔法に関しては妹紅には魔力はないので当然であるが。
 しかし、問題となるのは特化した分野におけるそれ同士の優劣ではなく、どんな状況においても対処できる総合力である。妹紅に魔力がなくても妖力等で充分補えるし、それ以外に体術、盗みの技術、巻物を作る技術、術を盗む技術などありとあらゆるあらゆる技能を有しており、まだ見せていない未知の技能もまだまだ沢山持っているのだろう。
 自分には魔法以外に他者に何か自慢できるものがあるだろうか?いくらでも本を読み続ける役に立たない技能とも呼べないものしか持っていないパチュリー。
 単身で生き抜き最後に勝利する技術に関して、藤原妹紅に遠く及ばないと痛感するパチュリーである。

 藤原妹紅がスキマを自在に使えるわけではない事が分かり何故か安堵するパチュリー。これだけ強いのにスキマまで使われたのではもはや手がつけられない。藍という守護を持ち咲夜の力すら無効化してしまうのだ。こんな万能生物がいては堪らない。
 パチュリーは妹紅と敵対する気は全く無く、万が一の事を考えて予防策を講じて失敗した咲夜と同じ愚を犯すような事もしない。しかし、敵対する気がないからといってそれで相手の強さに納得出来るかといえばそうではない。やはりこの反則的な力に釈然としないものを感じるのだ。
 取り敢えずスキマの力は限定的なもので、その恩恵にあやかれる立場にいる事で良しとして自分を納得させるパチュリー。そうでもしないと落ち着かず、もやもやした陰鬱な思考が止まらない。
「(あーもう!止め止め!)」
 気を取り直して頭を切り換え、贈り物に集中する作業に戻る。
「何かしらこれ・・・。」
 厳重な包装から中身を取り出し手に取ったパチュリーは、それが一枚の紙という事は理解出来たが中身が何かは折り畳まれているので分からない。
 気の利くルビーが丸テーブルの上のティーセットを片付けるのを見て、そこに広げてみようと歩み寄る。
 その紙は広げれば小さなテーブルよりもはるかに大きく、当然収まりきれない部分は天板の外にはみ出してしまう。テーブルクロスの様に端が折れ曲がって下に垂れ下がる為、全容がいまいち見えてこないがテーブルの天板の上の水平面は何が描かれているか確認は出来た。
「幻想郷の地図ですね。それもかなり精密な・・・。」
 それを見た咲夜がぽつりと呟く様に言い、チラっと妹紅の横顔を見る。妹紅の表情は渋く、指を顎に宛って何かを考えているようである。期待していたものとは明らかに違うといった表情である。
 咲夜は妹紅が想像しているものとは違う物が贈られたのではないか、つまり何かを間違えてしまったのではないかと自問し、先程、藍からこれを直接手渡された時の事を思い出す。一応言われた通りに手紙を渡しただけで、中身は確認していないので結局妹紅が何を要求したのか分からないが、藍はそれを理解したのか直ぐに包みを渡してきたので、少なくとも咲夜の行動に問題はないはずである。考えられるのが妹紅の書いた手紙が意味不明で藍が別の案件と勘違いしたという可能性はなきにしもあらずである。
「妹紅はこれが目当てだったの?」
 パチュリーとしても、壁に貼って飾るような大きなこの幻想郷地図にインテリアとしての価値があるとは思うものの、魔法使いとしてはさほど興味がある品物というわけではなく、少し落胆気味に妹紅に尋ねる。
「うーん、予想していたのとは少し違うな・・・座標情報が欲しかったんだけど・・・。」
 妹紅の言葉から座標情報というキーワードが出た。話の前後から推察すると、妹紅は座標情報を書き替えて幽明結界とは別の場所にスキマを開けないか知りたいのではないだろうか?
 パチュリーはそれを尋ねようとしたが、妹紅が真剣な顔で地図を動かして地図上の紅魔館の位置をテーブルの中央に移動させる様子を見て声を掛けるのを躊躇う。
 最初妹紅は紅魔館に用事があるように見えたが、そうではなく手前にある霧の湖に着目しているようである。地図を真上から見てみたり、斜めなど角度を変えて様々な方向から湖周辺を調べている。湖にスキマを開きたいのだろうか?
「何も描かれてないな・・・。」
 霧の湖を凝視していた妹紅だが、一旦諦めてテーブルから少し引いて溜め息をつく。
 パチュリーはその様子を見ながら考える。妹紅が藍に対して特定座標の情報を求め、その藍はこの地図を渡してその返答としている。しかし、この地図に妹紅が求めるものはなかった。いや、あるにはあるが見つけられないだけか・・・。
「(どこかに何かヒントがあるはずだわ・・・藍が間違えるはずないし・・・。)」
 藍と会った事もないパチュリーだが、思念体であり人口知能である藍は、感情がある生物よりも信用出来る存在だと思っている。
 何か細工があるのかと妹紅と入れ違いになるように地図に近付いて凝視し始めたパチュリーは、位置を少しづつずらしながら色々な場所を探る。そして地図の端の余白部分に到達した時、そこで何かを発見した。
「これは・・・魔法言語だわ・・・ねぇ、妹紅?」
「ん?」
「藍という人は魔法にも精通しているの?」
「いや、そこまでは分からない。でも藍と魅魔は仲間だったし、魔法について無知という事はないと思う。」
「そう・・・。」
「それがどうしたの?」
「ここに、パスワードを入力するスペースがあるの。それを説明している文字が日本語とか妖怪が使う類のものじゃなく私達が使う魔法言語なのよ。」
 妹紅はそれを聞いて、パチュリーの指し示す部分に顔を寄せる。
「どうやって入力するの?」
「ここの四角い部分に単語5文字指でなぞれって。」
「5文字?」
 見ると五つの正方形のスペースが余白に沿って並んでいる。
「この地図が妹紅さん宛てのものなら、妹紅さんが知っているキーワードではないでしょうか?」
 咲夜が後ろから声をかける。彼女の言は最もであるが妹紅は敢えて無視する。
 咲夜にヒントを与えられた妹紅は、試しに自分の名前ではないかとすぐに思い至り少し考えてみるが、『もこう』も『妹紅』も『ふじわら』も『藤原』も『藤原妹紅』も5文字には当てはまらない。
 他に父親の名前とか永遠亭の面々などではないかと頭を捻って考える。永遠亭の面々と考えたのは藍と話題を共通出来る数少ない知人になるからだ。
「わかったわ!」
 そこでパチュリーが一つ思いついて早速入力をする。
「やった!」
 パチュリーの入力した文字が認証され、入力部分の上に半透明に光るパネルが宙に現れる。妹紅はそれを見て永遠亭の月の技術に近いとふと思ったが、それはすぐに忘れ、パスワードを解いたパチュリーを素直に賞賛した。
 魔法言語で説明されているなら、魔法言語に当てはめればよい。妹紅の名前は魔法言語では5文字になり、魔法言語が使えるパチュリーにとっては簡単な謎解きだった。
「何々・・・え?エラーメッセージ?ここは適切な場所ではないって・・・適切な場所って一体どこよ?」
 パスワードを解いて興奮気味のパチュリーだが、エラーメッセージを見て落胆と同時に苛立ちを表にだして語気が荒くなる。妹紅には魔法言語は分からずそのパネルの文字は読めないが、咲夜はパチュリーから魔法を少し学んでいるので判読まで時間がかかるが何とか読めた。その咲夜はナイフの召喚をパチュリーから学び、飛行術を紅美鈴から学んでいる。
 パチュリーの言葉からするとこの地図は何処か決まった場所に置かないと機能しない仕組みのようである。
 3人はしばし思い思いの体勢で何処が適切な場所なのか考える。その様子をルビーが面白そうに見ながらパチュリーの背中を指でつついて、気付いて振り向いた主に魔法陣を指さす。
「なるほど!あそこに置けば!咲夜!端っこを持って!みんな手伝って!」
 魔法言語で説明されているということは、仕掛けがあるとしたらそれも魔力を動力源にしているはずである。簡単な答えだが、簡単過ぎて灯台もと暗しになっていた。
 これは自分の領分だと認識した途端、活きが良くなった紫色の魔法使いは周囲を仕切って大きな地図の四つ端をそれぞれに持たせて魔法陣まで移動させる。鼻息を荒くしたパチュリーは床の魔法陣に置かれた地図を得意げに見て、気の利くルビーから受け取った自分の杖で床をトントンと2回叩く。
 それがトリガーとなって魔法陣が起動し光を帯びると魔力が充填されていく。それに反応して折り目が強く残った紙の地図が一瞬で一枚の金属板の様に折り目無く完全な平面状になると、今度は床面から80センチほど上昇して宙に浮かぶ。
 地図の端の余白部分にあるパスワード入力部に出ていた半透明のパネルのエラーコードは消え、本来の機能として使える状態で完全に起動した。
「よし!」
 平面に描かれた地図は起動後、地中にある旧地獄も含めて半透明の立体映像が浮かび上がり、まるで幻想郷をそのまま小さくした模型の様なものに替わる。更に、立体地図の上下左右天地方向に等間隔で白い光の線が走り、幻想郷を細かいブロックに切り分けている。 
 パチュリーはエラーコードが出ていた先程のパネルに注目し、それがこの地図を動かすコンソールパネルだと気付き、仕組みを探りながら操作し始める。
「凄いわ・・・幻想郷の完全なミニチュアだわ・・・。」
 咲夜と妹紅は呆気にとられてその光景を見ている一方で、パチュリーは興奮気味に薄笑みを浮かべて、コンソールを両手の指で器用に叩きながら嬉しそうにそれを眺める。まるで世界を征服した支配者の様に・・・。

「なるほど・・・やっぱり空間密度にバラツキがあるのね・・・。」
 一人だけ理解を示してコンソールを叩き続けるパチュリー。声を掛けようとしたが聞く耳がなさそうだったので、妹紅はしばらく好きにさせる事にした。
 立体地図の空間を区切るように存在するブロックは、全てのエリアで共通の大きさではなく、あるエリアでは小さなブロックが密集しており、その事が非常に重要な意味を持っている事が理解できた。
「魔法の森はやっぱり複雑な空間になっているわね。」
 場所によって異なるブロックの大きさだが、そのブロックは一つ一つは全て密度が同じ事を意味しており、ブロックが大きい程低密度空間で、逆に小さなブロックほど高密度である事を示していると思われる。
 魔法の森は小さなブロックが集中して複雑に形成されているという事が地図を見れば一目瞭然で、それだけ狭い範囲に空間が凝縮されているという事を示している。
 物理世界では基本的に空間密度はほぼ同じといってよいが、幻想郷ではそれに大きなばらつきがあり、同じ10メートルの距離でも、紅魔館周辺エリアの10メートルと魔法の森の10メートルではその意味が違ってくる。
 単純に物理空間を歩くだけならどこも変わらないが、例えば魔法による相対跳躍は、始点と終点の距離を測量し空間をねじ曲げて始点と終点の距離を省いて跳ぶ仕組みだが、空間密度が安定していないと物理的な距離と空間内を移動する魔法的な距離との間に誤差が生じてしまい、目的の場所に跳べない事になる。
 実際問題として体力の無いパチュリーは魔法跳躍で移動する事を目的に、周辺地域を測量し物体を跳ばして魔法距離を測ったが事があるが、測量して割り出した距離と実験で飛ばした物体の出現位置に大きな誤差が生じてしまい、魔法で自由に幻想郷を移動する事を断念していたのだ。
 そうした魔法移動には様々な問題がある。テレポートアウトした場所が何かの物体の中であれば肉体と物体が分子結合して物質を形成する仕組みから逸脱しその時点で存在が完全に消失してしまうのである。つまり空間密度が不安定な幻想郷では魔法的な移動は非常に危険なのだ。ちなみにこれを利用して比重が近い物質同士を結合して高密度の金属を作る事が出来る。
 パチュリーは現時点では紅魔館周辺しか安全を確認しておらず、従ってその周辺でしかテレポートは出来ない。もっと離れた周辺空域を自在にテレポートしたいがそれが出来ないでいた。

 この地図のブロックの単位を仮に1とした場合、人間の郷から博麗神社、太陽の畑辺りの幻想郷南東部の平野はブロックが碁盤の目の様に綺麗に並び、空間密度は非常に安定している事が分かる。このエリア内なら自在に魔法跳躍も可能だろう。
 しかし、魔法の森は小さなブロックの集合体で複雑に構成されており、沢山の要素をこの森に圧縮して詰め込んだ形跡が見られ、ここを通過する相対魔法跳躍は非常に危険である。
 同様に妖怪の山なども複雑で、複数の土地が山中央に向かって圧縮されている様子がブロックの分布でその複雑さが見てとれた。パチュリーがここで気付いたのは北と西にある妖怪の山、南の魔法の森と紅魔館が空間密度の不安定地帯に取り囲まれているということだった。意図的にそうしたのかは不明だが、魔法使いの立場としては魔法による干渉が受けづらい場所である反面、こちらから対外的な魔法干渉が非常にしずらい場所だということが理解出来た。
 そしてさらに大きな発見があった。これまでは地理的な発見だったが、これは地図の機能的なもので、この地図の存在意味を示すものである。その発見とは、このブロックの一つ一つに認識番号の様な記号が全てにふられているという事である。
 この記号が具体的にどう読むのかわからないが、規則性があり数字やアルファベットに代用して数える事が出来、パチュリーが調べたところでは27種類の記号が確認出来、それを組み合わせて何通りもの記号配列を作っている事も判明したのだ。
 その記号をコンソールから打ち込むと指定ブロックがピックアップされ、それを更に拡大縮小が出来る。これで小さなブロックも大きく見る事が出来、これを作った藍は明らかに誰かに使われる事を念頭にして作成したと思われる。その誰かとはもちろん魔法言語が理解出来る魔法使いだ。
「(すごい!凄すぎるわ!幻想郷を完全に丸裸にしたわ!)」
 丸裸にしたのは藍であるが、魔法使いとして知りたい座標情報が全て手に入った事はパチュリーとしては大きな衝撃であると共に、これなら怖いものなしとする一種の無敵感が沸き起こる。

 有に1時間は過ぎただろうか?少し下がって雰囲気の変わったパチュリーの様子を黙って見ている妹紅の大きなあくびを見てルビーがそろそろ潮時とパチュリーの袖を引いて知らせる。
「あ、いけない!」
 完全に2人の事を忘れて研究に没頭していたようで、慌てて周囲を見渡し後方にいる妹紅を見つけて駆け寄り、すまなそうな表情で必死に謝り出す。
「いいわ、それより何か分かった?」
「ええ、これはただの立体地図ではなく、絶対地図よ。」
「絶対地図?何それ?」
 自分や自分の決めた基準点を中心に既存の地形を測量した地図を相対地図といい、それに対して自分で土地ごと創る際に図面として利用した地図を絶対地図という。土地を新たに創るなど普通の者には出来ない事なので一般的に使われない言葉だが、強大な魔法使いは世界を征服するとか、地下迷宮を作って自分の王国を築くといった創造作業をする者がいるので、魔法使いの業界ではそうした言葉が流通しているのである。
「この白いフレームで区分けされた一つのブロックは、それ一つ一つに座標情報が記されていてそのエリアに移動する際にその情報を使って跳べるようになっているのよ。つまり、これは幻想郷の創設者八雲紫の幻想郷設計地図であり、彼女のスキマ移動で使う座標情報よ。この見慣れない座標記号はきっと彼女専用の言語か、藍が分かるように組み替えた言語なのでしょう。」
「なるほど・・・紫の頭の中にある幻想郷が形になっているのか!」
 藍は紫の脳内の地図を他者が見て理解できる形にして提供してくれたが、恐らく紫本人はこれらを意識せず無意識に呼吸するのと同じように自在に座標情報を利用しているのだろう。
「でも、どうして藍が紫の情報を知っているのかしら?」
「藍は魂を紫に譲渡する際に、一瞬だけ紫を乗っ取り自分の物としているんだ。」
「へー・・・。」
 パチュリーはそうなる経緯にも興味があり詳しい事をもっと知りたいと思ったが、突っ込んだ話は今は後回しにして何の目的で乗っ取ったのかだけを質問した。
「藍の目的は私と長時間話をするためで、その時間が無為に経過しないために紫の能力を使って時間軸の異なる簡易的な幻想郷を創ったんだ。」
「なるほど・・・。」
 時間軸の異なる世界、それはつまり思念界と同じ理屈なのだろう。
「藍は既に亡くなり今は思念体としてしか存在しないけど、その時はまだ魂が残っていた。紫と融合したまさにその時、咲夜の様に世界を切り換え、私と2人きりになれた。この時間、私と会話をしている裏で様々な情報や品物を密かに準備して用意してくれていたんだ。何時か私が幻想郷の秘密を知ろうとする時の事を想定して・・・。」
 この話を聞くと双子の妹である藍は必ずしも紫の味方というわけではなく、完全に妹紅優先の生き方をしているようだと理解出来るパチュリー。それにしてもそこに至る経緯などのバックグランドはとてつもなく膨大なものだろうと興味が出てくる。しかし今はそれを問う状況ではない。この続きは次の機会にしようと思うパチュリー。
「妹紅は藍からこの幻想郷の秘密を聞くために今日ここに来たと?」
「うーん、それがちょっと違うのよね。私はある一つの情報だけを知りたかったんだけど・・・まさか全部よこすとは思わなかった。」
「ある一つの情報って・・・もしかして霧の湖の座標?」
「え?何でわかるの?」
 何も教えていない妹紅だが、先程特に霧の湖を重点的に調べていたのをパチュリーは見逃さなかった。
「さっき、湖を見ていたから・・・。」
「そうか、その通り。私は霧の湖の上空の座標を知りたかったの。幻想郷を掌握しているはずの藍なら、聞けばそこだけすぐに教えてくれると思ったのよ・・・。」
 パチュリーはそれを聞いて霧の湖の周辺に目をやりそのブロックに記される小さな記号を記憶する。
「妹紅、さっきの幽明結界の巻物の予備とかはある?」
「ないけど、その原版に使ってる『写し』はあるわ。」
 妹紅は九尾の藍から奪った視界映像を空の白呪符に焼き写していた物をパチュリーに手渡す。
「この巻物を事前に調べて何か分かった事はある?」
 写しを受け取ったパチュリーは他に知っている事など情報の提供を求める。
「キツネが使った巻物と同じ大きさにしないと呪文は発動しなかったわね。」
 妹紅は大きさに意味を持たせている理由が分からなかったが、とにかく元と同じにしなければならないことは何度か試して確認している。
「ふむふむ・・・。」
 パチュリーは受け取った簡易スキマの巻物の写しを見ながら、霧の湖からはるか南の幽明結界をピックアップし、そのブロックの座標情報を探る。
「なるほど。妹紅、この部分を見てみて。」
 パチュリーは写しの中にある文字列を指さし、そこに記されている記号と同じものが有名結界付近のブロックに浮かんでいる記号と一致していることを教える。
「なるほど、この地図と巻物の記号は連動しているのね。ということは・・・。」
「そう、巻物の判読できない紫の文字でも、座標情報が記されている部分は理解できるわ。あとは、その幽明結界の座標を霧の湖の座標記号に書き替えればそこに跳べるはず。理論的には・・・ね。」
 妹紅の一番知りたかった情報が出た。
「方角や天地の向きはどうなるのでしょう?」
 その時、2人の会話を後ろで聞いていた咲夜が盛り上がっている場に水を差すように冷ややかな口調で割り込む。
「それに、このブロックは大きすぎませんか?地図では小さくても実際の長さに換算するとブロックの一辺は有に100メールを越えそうですが・・・。」
「ふむ・・・確かに咲夜の言う通りね。」
 パチュリーは咲夜に振り返って面白くなさそうに一瞥を入れた後、向き直って小首を傾げて考え込む。
 その時ルビーが地図の角、地図上の方角的に北東に立って、そこにある一点をとんとんと指で叩いて何かを示す。パチュリーはすぐそこをピックアップし方角記号を発見した。そして、もう一度『写し』を見て、方角を示すであろう文字列を発見する。
「方角は分かったわ。写しにも同じ記号がある。確かさっき入ったスキマから出た時東を向いていたかしら?」
 パチュリーは『写し』の記号に地図の方角記号と同じ記号があることを確かめ、巻物の方角を記す場所を特定した。これでスキマを開く向きの問題は解決した。
「次は距離ね・・・。」
「同じ様な記号だけど、文字の大きさが違う。これに何か意味はある?」
 妹紅は巻物の大きさが一致していないと発動しなかった事を踏まえ、もしかしたら巻物自体のサイズではなく文字の大きさに秘密があると踏んでそれをパチュリーに提示した。
「!!」
 妹紅の言葉を聞いてパチュリーが何かを閃く。さっそく検証するためにコンソールをいじりはじめ、問題となる幽明結界ブロックを最大まで拡大する。そしてパンと両手を叩く。
「大きさよ!元と同じサイズでしか呪文が発動しないのは、記号文字の大きさに重要な意味があるからよ!」
 パチュリーはそう言ってメモ用紙になるようなものをルビーに持ってこさせ、それを地図の上に置いて計算しながら自分の理論を説明しはじめる。
 パチュリーの主張はこうだ。全体図として見える区画ブロックは大まかな位置を示すもので、これは巻物の中では大文字として記入する。そしてそのブロックは更に細かく区切られ、そのブロック内の座標を記号の形は同じでそれを小さく表記することで単位の切替をしているというわけである。
 例えば、基準点から東に5、北に9、天に3の位置にあるブロックを『050903』と大文字で記載し、その後ろにブロック内の詳細座標、東に18、北に27、天に6の位置を示す『182706』と大文字の半分の大きさで記載すればよい。更に細かく座標を指定するなら『182706』の後ろにこれと半分の大きさの文字で座標をしるせばいいのだ。
 パチュリーは最大倍率でブロックを拡大した時、そのブロック内に更に小さなブロックがある事に気付き、この理論を構築したのである。
 記号を羅列して大きさを記号の量で表すのではなく、単位の上げ下げを単純に文字の大きさで表現しており、数学的な観点ではなくある意味幼稚は発想による表現の仕方だ。だが、なるほどこれは意外に合理的な発想である。
「この地図に使われている記号の規則性だと、記号は27種類あるわね。そしてブロックを拡大すると小さな27のブロックが埋まっている事も分かった。つまりこの地図は恐らくは全て27の記号の組み合わせで座標を表現出来、単位の違いは文字の大きさで表しているのよ。そして・・・幽明結界のある小さな山、私達はこのあたりに出たわけだから・・・標高から考えても・・・そうね、この位置ね・・・。」
 パチュリーはこのわずかな時間で完全に記号配列とその法則性を理解し更に暗記までしており、メモに幽明結界の門前、実際にスキマが開いた辺りの詳細座標を拡大した立体地図だけを見て、写しを見ずに自力で書き記す。そしてそれを答え合わせをするように写しと見比べる。
「完全に一致したわ!」
「す、すごいな、おい!」
 妹紅はパチュリーがしていることを理解できなかったが、その結果を見て何をし、何を見つけたのかを理解し自分の欲しい情報を得られる手だてが出来たと喜んだ。
「その方程式を使えば霧の湖の特定の座標も導きだせますね?」
 咲夜も全て理解しパチュリーを賞賛し、妹紅の破顔した様子を自分の事の様に喜んだ。咲夜にしても今ここでパチュリーが解き明かしている幻想郷の座標が凄いものだということは充分理解出来た。
「妹紅、どの辺にどの方向にスキマを開きたい?」
「えーと、この辺でいいかな。向きは下に。」
 地図上霧の湖、紅魔館のすぐ前を指さして、一つ注文を付け加える。
「下?」
 意外な方向を示されて少し驚くパチュリーだったが、敢えてその意味を聞かずメモに必要な情報を書き記す。
「ねぇ妹紅、これで1枚巻物を作れないかしら?」
「実験してみるの?いいわ。」
 妹紅は先ずキツネの使った巻物の『写し』のコピー『写しの写し』を1枚作り、座標、方角等を表記する部分を消して、後から書き足せる基本台紙を作成する。そして、これを使って座標情報がない1枚の巻物を作成した。
 次に座標を表す27の記号パターンを正確に巻物に写し込めるように、立体地図のブロックをパチュリーに拡大してもらい表示されている記号を転写眼で網膜に焼き付けてから空呪符に1記号づつ記録し、方角を示す記号も同様に記録し、座標の27記号と四方と天地を合わせた方角6記号の計33個を33枚呪符としてデータベース化する。
 下準備が終わった妹紅はパチュリーが先程示した霧の湖の座標情報が書かれたメモを頼りに、テンプレートとなる巻物の空欄部分にメモと同じ記号をデータベースから探して一つづつ正確に写し込んで行く。
 その作業は約30分程かかり、この緻密で精確な作業を興味深く見ていたパチュリーらは妹紅の術師としての技能の高さを思い知らされ、これが本来の藤原妹紅で、戦士である以前に技術者であることを理解し認識を改める。
「出来たわ。」
 丸テーブルで作業をしていた妹紅は完成した巻物をテーブルに置いて一息つこうとしたが、パチュリーはそれを奪い取り、顔が巻物に触れる程近づけて凝視する。
「完璧だわ!さっそく実験してみましょう!」
 巻物の完璧な仕上がり具合に興奮したパチュリーは、巻物が完璧に発動し無事指定位置にスキマが開く事を確信する。
「わかったから、落ち着いて・・・。」
 妹紅は苦笑しながら巻物を発動させた。
 この時妹紅は油断していた。実験と言うので開いたスキマに何か放り込んで湖に着水させ、それを別所から観測るものとばかり思っていた。しかし!
「な!」
 スキマは妹紅の注文通り下向きに床の上に開く。そこまでは良かった。しかし、何を思ったかパチュリーは自らそのスキマに飛び込んでしまう。
「ぱ、パチュリー様!」
 咲夜もその予想外の行動に思わず悲鳴の様な叫び声を上げ、流石のルビーも驚いて一度躊躇ってから後を追った。
「あの、馬鹿!」
 妹紅はいくらなんでも軽率だろうと、スキマに消えた魔法使いを罵って後を追い咲夜もすぐに続いた。

 スキマは湖面から約7メートル上空、注文通りの位置に現れ、実験は一先ず成功した事は理解出来た。出口は下に向いて開いているので、入るままだと当然に重力の影響で落下する。妹紅はすぐに飛行モードになって自由落下状態から浮上するが、間髪入れずスキマに入った咲夜の不可抗力の蹴りを背中に食らう。しかし、咲夜の謝罪を無視してパチュリーの姿を探し目前に霧に浮かぶ紅魔館と魔法使いの姿を発見した。
「やった!成功だわ!完璧な成功よ!」
 スキマが現れた位置から少し離れた霧の湖上空で一人興奮するパチュリーを発見し後を追った3人は、安堵と共に脱力して溜め息をつく。
「パチュリー様、いくらなんでも突然過ぎるでしょう?」
「全く・・・最初は物で試すべきよ・・・。」
 飛び込む前に一応向こう側の景色を確認して後を追った妹紅だが、パチュリーは全く確認する様子もなく足からぴょんと飛び込んでいた。
「皆まで来る必要ないのに・・・。」
 そんな3人の心配を余所にキョトンとするパチュリー。妹紅は戒めの為にも少しお灸を据える必要有りと、拳を握って紫色の帽子にたたき込む。
「いくら何でも軽率だ。確信があっても自重しろ!」
「痛~、叩く事ないでしょう?」
 思い切り頭を叩かれたパチュリーは憤って妹紅を睨む。
「私の理論は完璧よ。しくじるはずはないわ。」
「私はお前の理論の事を言っているんじゃない。もし、飛び込んだ先に誰かがいたら?紫や藍が偶然いたらどうするつもりだ?」
「そ、それは・・・。」
 パチュリーは自分の理論の立証を優先しその先に誰がいるかなどを全く考慮しておらず、それを指摘されれば反論のしようがなかった。実際目の前に紫がいたらどんな顔をすればいいのだろうか?
「単に座標情報さえ貰えればそれで良かったんだが、こんな凄い物を手にするとは思ってもみなかった。これは、幻想郷の構造の秘密に迫る超機密事項だろう。こんなものが外にもれてスキマが利用されたなどと八雲紫が知ったらどうなる?」
「それは・・・間違いなく・・・。」
「間違いなく殺されるだろう。」
 強気だったパチュリーはそれを理解して急に怖じ気づく。
「スキマは使えないまでも、これまで自由に魔法移動できなかったわけだから、これを利用してある日突然お前が自在に幻想郷を跳び回ったら絶対怪しまれるだろ?これを取り扱うには細心の注意が必要だ。わかるな?」
「ええ・・・確かに軽率だった。ご免なさい。」
「取り敢えず戻ろう。この辺は妖精が多いし、魔理沙や人形使いの行動範囲の中だろうし、誰かに見られるかもしれない。」
 幸い霧が立ちこめて視界は狭く、誰かに目撃された形跡はない。
 妹紅の言葉を受けて落ち込む主の替わりにルビーが皆を集めて図書館に転送した。

「しかし、とんでもないものを手に入れてしまったな・・・。」
 図書館に戻った4人は未だ起動中の地図を取り囲む。
「これは・・・、これはきっと魅魔をあてにして作ったものなのでしょうね。」
 冷静になった少し落ち込み気味のパチュリーがぽつりと呟いた。
「そういえば咲夜は前に藍と交信した時、魅魔の件は伝えていたわよね?」
「はい。私が彼女に信任される際に、妹紅さんや魅魔など藍さんとの関係するキーワードは入力しています。」
「それで、藍はこの地図を与えたんだ。魅魔のキーワードがなければこれは渡さなかったと思う。私は魔法言語はわからないし、当然藍はパチュリーを知らないし・・・。」
 妹紅は落ち込むパチュリーに寄って肩にポンと手をおく。
「でも、これはもう、貴女のものよ。」
「でも・・・私には荷が重すぎるわ。」
 幻想郷の超機密事項と知り急に怖じ気づくパチュリーである。紅魔館の住人のプライベートを覗き見る程度は何とも思わないが、八雲紫のプライベートマップを密かに手に入れた重圧はパチュリーを苦しませた。
「魔法使いにとって、この座標情報は有益なものだろう?」
「それを使えば危険だと言ったのは貴女でしょう?」
「軽率な事をするなと言ったが、使うなとは言ってない。いいか?とっておきというのは極端な話し、人生で一回だけ、ここぞと言う時に使うものだ。この地図はそういう使い方をすべきだろう。この地図の存在はここにいる4人だけの秘密だ。レミリアにも魅魔にも内緒だ。」
「それに八雲紫と何らかの交渉をしなければならない時の駆け引きのカードにもなるかもしれません。」
 妹紅の後に咲夜が付け加え、それに一瞥入れただけの妹紅はパチュリーに向き直って咲夜に同意するように頷いて見せる。
「そうね・・・大事な地図だから・・・あの魔法使いに盗られないようにしなければね・・・。」
 パチュリーは冗談っぽく苦笑するが、妹紅が味方にいる事が心強く、その瞳に再び魔法使いとしての力が戻る。
 妹紅はそれを見て安心し話を変える。妹紅が知りたい情報は紫の異変に関する事で、この異変は現状では紅魔館には関係ない事だった。つまり、この案件は妹紅と紅魔館との同盟とは関係ないプライベートな案件だった。そして、これから話す言は同盟者としてこれから起こる異変について紅魔館へのアドバイスである。

 妹紅がパチュリーから離れ3人に向き直ると、その表情の変化に気付いて一堂背筋を伸ばす。
「私は吸血鬼と同盟を結んでいる。そして吸血鬼の案件は異変の後、魅魔が復帰した後の事で、お前達は直接今回の紫の異変に関わる必要はない。だが・・・。」
 妹紅はここで一旦言葉を切って3人を順に見る。
「だが、この異変後、魅魔が復帰するまでに吸血鬼が生き残っている保障は全くない。」
「!」
「ちょっと待ってください。それはどういうことですか?」
 妹紅に問い質したのは十六夜咲夜だった。
「今から説明する。これから起こる異変と吸血鬼がおかれている問題も含めて・・・。」
 妹紅は先日、風見幽香から吸血鬼の件は深入りするなと助言され、一歩引いた位置で傍観者を決め込もうとした。しかし、慧音や人間の里の問題、強いては博麗神社の問題も含めてこれまで見えてこなかったものが見え始め、命懸けの慧音を救うために自身が矢面に立たなければならない事を自覚し、全てを引き受ける決心がついた。
 今現在分かっている事は、妹紅の中に不死鳥が内包されており、その転生の力で幻想郷を焼き払おうとする事である。当然それを防がなければならないので霊夢らが結界を作って妹紅を隔離する段取りである。
 そして巨大な焼却炉となった幻想郷の空を、異変に荷担する側が利用し、紫は月面戦争敗戦時の報復に利用しようとしたスキマ爆弾の処分をし、この異変の騒ぎ自体を妖怪の山の天狗達に見せて変化を促す起爆剤とした。更に言えば、この異変で妹紅の功績を讃えて不死人狩りの不名誉を返上させようとしている。そして恐らくはこの異変を吸血鬼排斥に利用すると思われる。
 永遠亭側、八意永琳は本人にとっては失敗作である防御要塞の処分に不死鳥の火を使おうとして、紫はその要塞を異変に利用しようとしている。
 不死鳥の自爆を防ぐ霊夢の結界は守矢神社の神様達に補助をさせ、ついでに八坂神奈子という謎の神様の真贋の見極めに利用する。
 そして人間の里は、慧音の計略で博麗神社に人を集めて天変地異の如き異変を目の当たりにさせ『苦しい時の神頼み』をする事になっている。これには守矢神社が裏で繋がっており、洩矢諏訪子の伝を利用して諏訪の神様を幻想郷に呼び込む計画をしている。里周辺にいる落ちぶれた神様ではなく、本物の神様を人間達に見せる事で、信仰心を呼び戻そうとしているのだ。
 その守矢神社は八雲紫と人間の里と双方と同時に内通して上手く立ち回り自分達の発言権を高めようと画策している。
 複数の勢力が入り乱れてそれぞれの思惑が水面下で折り重なっている一方で、今現在紅魔館に何も役所がないというのが現状である。
 その紅魔館に関しては、紫が吸血鬼排斥に動き出す気配があり、何も対策を講じないまま放置すると魅魔が復帰する前に紅魔館が潰されてしまう可能性がある。
 妹紅は、自分を穢れの極みに堕とし羅刹に変えた張本人である不死鳥との決別を目論見、魔理沙や魅魔の復活、慧音の保護の為に必要な紫への対策も同時に画策している。その紫に関しては、紫が排斥を狙う紅魔館に肩入れしてそれを阻止し、逆撃でもって紫に痛恨のダメージを与える算段である。紅魔館に対する援助は魅魔との盟約の件だけではなく今は紫に対抗する妹紅の大きな武器になる可能性があるのだ。
 紫への攻撃で最も効果的な方法は、戦いなどの直接的なやりかたではなく、彼女の知略から生まれた様々な作戦を全て裏目にして失敗に追い込み、紫の思惑にある戦果以上の成果を上げて見せる事である。
 恐らく紫は慧音の計略に気付いていない。慧音の作戦は伏兵として有効で、成功すれば慧音の命と引換になるが会心の一撃になる。
 妹紅はこれを紫に対するトドメとして考え、その一方で罪を負う慧音の保身の為にあらゆる策を考えている。問題は自爆後消失した肉体がどのタイミングで復帰できるか分からない事で、それまでの時間紫には再起不能になってもらう必要があった。
 妹紅は決して紫を憎んでいるわけではない。この事が全て終わった曉には紫に自身の全てを与えてもいいと思っている。幻想郷には紫が絶対に必要な存在だし、そして慧音の様な人間の守護者も必要なのである。博麗神社の信仰は人間によるものでなければならない以上、幻想郷の維持には人間が必要で、妖怪と神社が馴れ合っては信仰の妨げにしかならないのだ。
 どっちも失ってはいけない。妹紅は例え自分が滅んでもこの2人は絶対生かさなければならないと心に決めた。その為なら何でも利用する。同盟者である魅魔も紅魔館も、それを切らなければ2人が助からないとするなら躊躇わず同盟者を切り捨てる覚悟が今は出来ている。

 妹紅はそれぞれの思惑の全てを知っているわけではなかった。それぞれの陣営も知っている事と知らない事があり、それぞれがそれぞれの思惑の成功を確信して前に突き進んでいる。
 話を聞く紅魔館の面々には吸血鬼戦争時からある吸血鬼の立場を知らせ、八雲紫が吸血鬼排斥の急先鋒である事を教えて注意を促した。その後、それを踏まえて異変に対する紅魔館の立ち回りを助言する。
「八雲紫は何らかの形で紅魔館に接触してくるはずだ。」
 実際問題として八雲紫は昨晩の永琳を交えた博麗神社での会議でレミリアについて議論し、紅魔館を罠に貶める策を講じていた。これについては妹紅の感知出来る範囲の外だったが、吸血鬼戦争にまつわる紫の立場や、魅魔との確執、この異変を廃棄処分祭りにしようとしている事なども踏まえると、この機に吸血鬼の問題を片付けようとするはずである。反吸血鬼派にしてみれば絶好の機会だ。
 この時点で妹紅は紫の思惑を看破しており異変に対するイニシアチブを取ったといえる。
「八雲紫の事だから自らが出向いて直接何かをする事はないと思うけど・・・。」
 スキマ妖怪の狡賢な性格からして、自分が関わったという痕跡は残さないだろうと予測するパチュリー。一見紫とは何の関係もない者を派遣すると予測出来るので、妹紅はそこでひとつの可能性を示す。
「うん、一応教えておくけど、八雲紫と永遠亭は同盟を結んでいる。その関係でもしかしたら永遠亭の関係者が接触してくるかもしれない。」
「永遠亭?意外ですね・・・にわかに信じられませんが・・・。」
「安心しろ同盟を結ばせたのは私だ。」
「一見すると接点がないから、ばれないと向こうは思っているかもしれないわね・・・。」
「なるほど・・・。」
 咲夜とパチュリーは同時に顔を見合わせる。
「つまり私達がすべきことはその策に嵌らないようにすればいいわけね?」
「いや、むしろその策にまんまと引っかかれ!」
「え?」
 妹紅の意外な言葉に2人は驚きの声を上げる。
「連中に全て自分達の思い通りに事が進んでいると思わせるんだ。安心しろ、始末は私がつける。」
 先程門番と戦っていた時の様に恐ろしい顔になる妹紅。しかし荒れ狂う炎に見えた先程の妹紅と違い、今は背筋が凍りそうな冷酷さを感じた。自分をボロボロに打ちのめした先程の妹紅よりも数倍恐ろしいと感じた咲夜は同時にそれを頼もしいとも思い、八雲紫に痛い目を見せられる貴重な体験が出来る期待感が膨らむ。
「この異変を進めているのは、レミリアの漠然とした変化・成長願望だ。ある意味でレミリアが異変を起こす張本人で、紫等がそれを利用しているという状態だろう。だから必ずこの異変でレミリアは祭り上げられる。そして、この異変を経験することでレミリアの心も成長出来る。子供の身体に押し込められている心はその呪いから逃れたいと願うはずだ。その時こそ予言の最終段階だ。」
 妹紅から予言の成就の時が近い事を告げられ、咲夜とパチュリーは突然の事で最初惚けていたが次第に色めき出す。
「ありがとう、藤原妹紅・・・どんなに感謝してもしきれないわ・・・。」
 妹紅の元に歩み寄ってパチュリーは手を差し出す。
「まだ、何も始まっていない。それに、私はボランティアでお前達に協力している訳じゃない。同盟者として出来る事はやる替わりに、同盟者として望む事はちゃんと提示した。行って来いのチャラだ。」
「いいえ、そんな事はないわ。最初のとっかかりが無ければ何も始まらなかった。貴女が来てくれたおかげて前に進めたのよ。」
 手を指しだしままのパチュリーにしばらく躊躇った後、表情を少しくずして握手に応じる妹紅。その結んだ右手同士に左手を重ねて両手で妹紅の手を包むパチュリー。
 パチュリー・ノーレッジと十六夜咲夜はこの数時間の間に劇的な変化を遂げた。2人は妹紅のお陰と感謝している。しかし、妹紅にしてみれば、これでようやく使える手駒になったというだけに過ぎない。せいぜい期待させて貰うというのが妹紅の正直な感想である。
 紫を再起不能にまで追いつめるにはまだ足りないが、風見幽香が正式に人間の里についたのはプラス要素になるだろう。慧音の計画する強行軍が早期に発覚すれば阻止される可能性が高い。傭兵団を統率するあの妖酔は、紫との対決を望んでいる節もある。戦を望んでいる可能性もあり無血で事が済むとも思えない。人間だけでも無傷で済めばいいが、そんな美味い話はないだろう。何かいい手だてはないだろうか。
 スキマの巻物を発動させる為の触媒、八雲紫の金色の頭髪は実験でだいぶ消費してしまったので残り3本。霧の湖上空に開くスキマは魔理沙用。残り一つは自分用に竹林周辺に出れるようにするとして最期の一本はどうするか?予備として残して置いた方がいいだろうか。
「(ふふ、身に覚えのないスキマが目の前で開いた時、どんな顔をするのか見物ね・・・。魔理沙、悪いけど貴女の命少し利用させてもらうわね。でも、そのかわり絶対助けてあげる。私に関わった全ての命、心、魂を救済してみせる!)」
 全部引き受けると誓った妹紅はパチュリーの魔力で起動する詳細な幻想郷の絶対魔法地図を眺めながら、他に自分が出来る事が無いか、何かを見落としていないかを確認する詰めの作業に入っていた。
東方不死死 第50章 「信頼」


 大きな水晶球に十六夜咲夜と紅美鈴とのやりとりが映し出されている。
 誰かのプライベートを覗き見る趣味は無い藤原妹紅だが、水晶球の所有者である魔法使いは特に罪悪感を感じている様子はなく、いつもの事の様に平然としている。実際パチュリー・ノーレッジは、紅魔館内のセキュリティーを管理しており、ルビーのコピーである七曜魔の視界を自由に使う事が出来、この映像は管内から現場を拡大望遠で見ている木属性碧のエメロードからのものである。
 このことは十六夜咲夜も、館の主レミリア・スカーレットも知らない。

 藤原妹紅は自分なりの視点で紅魔館の人間関係を予測していたが、この映像を見るにつけ、その予測が外れていた事を知る。
 紅魔館は、吸血鬼レミリア・スカーレット姉妹を頂点に、その下に忠実な僕でメイド長である十六夜咲夜が、館の実質的な運営者と見ており門番の紅美鈴の存在は気にも留めていなかった。
 メイド長の下に門番がいて美鈴は咲夜からあごで扱われる存在と思っていたのだが、意外な事に咲夜は全幅の信頼をこの門番に寄せており、魔性の力を持ちながらも何とか人間として踏みとどまっているのは、他でもないこの門番のお陰だったのである。

 深紅の悪魔に差し出された薄紅色の暖かい液体、紅茶とやらが入っている白いティーカップを正面のパチュリーにならって音を立てずに口を付ける妹紅。液体は直接飲まず唇についた液体を口の中の舌で確かめる。毒が入っているとも思えないが初めて口に入れる物はそうやって一応確かめる癖がついている。
 ルビーと目が合い、先程の駆け引きで見事に敗れた言を思い出す。妖酔の時もそうだが慧音の件以降、妹紅が得意としていた情報戦で連戦連敗中であり、この事は自分で思っている以上にショックで後に引きずりそうだ。
 この悪魔は、悪鬼となった妹紅よりも太古の昔から悪魔をしている根っからの悪魔である。人間に罪という概念を与えた悪の根源とも言える存在で妹紅とは年期が違う。妖酔も自分よりもはるかに年齢は上だろうと思うし、そう考えると自分はまだまだひよっ子なのだと思い知らされる。全てを会得し、あらゆる事象に対処出来ると自負し、それに誇りを持っていただけに尚更落ち込む。
 そんな見るからに元気がない妹紅をパチュリーは心配する。
 パチュリーはフランドールの件や魅魔の件以降、妹紅に対する印象は頗る良く、今回の件でも結果として咲夜の更生に繋がりそうで、図らずも理想的な展開になりつつある事に満足している。
 咲夜の取るべき具体的な行動に関しては、ルビーを経由して全て魅魔から聞いており、咲夜がセレーネ・スカーレットの思念界からアルカードの血晶石を持ち帰る際、その最強の力を目の前にして正気を保っていられるかが最大の問題点だった。
 これまでの咲夜なら、間違いなくその力を前にして欲望に屈してしまうだろう。しかし、大切な存在である美鈴との関係を終わらせる苦しみと悲しみを知った今の咲夜なら愚かな選択はしないだろう。

 パチュリーの造りだしたルビーのコピーのファミリアの一人、本日咲夜のサポートつまり副メイド長の任に就いているペリーの視界に水晶球の映像が切り替わる。
 メイドの控え室に隣接する洗面所で汚れた顔を洗って化粧を直し、血まみれのメイド服を着替える。それを手伝うペリーは、いつもと雰囲気が違う咲夜の様子を見て不思議に思う。
「もうすぐ咲夜が来るわ。」
 ペリーの視界から咲夜の身支度が整った事を知らせるパチュリー。
「そうか。」
 興味なさそうに答える妹紅。
「咲夜の事、許して貰えないかしら?」
 改めて咲夜の無礼を詫び頭を下げるパチュリー。
 妹紅としては咲夜の事はどうでもよく、今は落ち込んだ自分を振るい立たせる材料を探すのに手一杯だった。
「許すも何も、罪を犯したのは私の方だ。」
 この場合、妹紅に罪はない。しかし、妹紅は自分に罪があると言う。これは、謙譲心で言っている事ではなく本心でそう思っているようだ。
「どうして貴女は、そうやって自分を下に置こうとするの?」
 謙虚さは人間、いや日本人のみにとって美徳かもしれないが、少なくとも妖の社会では全く通用しない考え方である。パチュリーとしては、その力を認める数少ない存在の妹紅が悲観的になっている事が心配であると同時に、もう少ししっかりして欲しいとも思い珍しく食い下がる。
「人間と妖怪の違いは何だとおもう?」
「突然そんな事を言われても・・・。」
 パチュリーの数回にわたる問い詰めをはぐらかすように妹紅は逆に質問をする。そしてそれに咄嗟に答えられない自分に苛立つパチュリー。
「あんたも元は人間だったんでしょ?」
「人間時代の私は社会不適合者の烙印を押されたどうしようもない存在よ。そんな私が人間としての自分を語れるわけがないわ。」
 死ぬまで本と共にあればいいと公言し、そしてそれを実行して封印された禁書の牢獄に取り残された事がきっかけで魅魔と出会い今の自分になったパチュリーである。
「妖怪ってのは生きてこそ価値がある存在で、人間は死んだ時に価値が生まれる存在なの。」
「死んだ時に価値が生まれる?」
「そう、だから死ねない私に人間としての価値は全くないのよ。」
 自分が無価値だとさらっと言ってのける妹紅。こういう台詞は妖怪は絶対に言わないことである。
 この時パチュリーは、短命な先代、5代目パチュリー・ノーレッジの事を思い出した。彼女は6代目の自分が、目覚める10歳のレミリアと同世代の若干の年長者になるように、意図的に命を削って早死にしているのだ。
「善人として死ぬ者、悪人として死ぬ者、そして最初は善人として生き悪人で終わる者、その逆も然り。人間とは死んで初めて記録が後に継承され、継続する人間社会の規範となって歴史に積み重ねられる。だから死なないと本当の価値が出ない。」
 他の妖者が聞けば戯言にしか聞こえない妹紅の言葉もパチュリーは身に染みて分かった。今現在生きている自分に価値は見いだせない。しかし、初代から先代までの存在に価値があるのは歴然で、その流れに自分がいることを改めて知る。そう考えると自分は何をやって死ぬべきかと考えてしまう。この思考は人間特有のものだと、他人事の様に考えていたが、無意識にその思考に走っている自分も種族としての基礎的な部分は人間なのだと自覚する。
「私に気を遣う必要はないわ。」
 何も言い返せず押し黙るパチュリーを慰める様に言う妹紅。
 藤原妹紅の霊格は1300年間輪廻していないので非常に低い。生き物は高位の魂が宿る存在ほど霊格も高く、人間はそれを目に見えて感じる事は出来ないが、人間社会においては霊格が高いと自然に高位の地位を得たり尊敬されたりと人格に直接現れ、自然と霊格と地位が比例するものである。
 感覚の鋭い妖者は、霊格の高さを熱量で感じる事が出来、姿を見るだけでどの位強いのか理解出来る。
 妹紅の熱量は実際の強さに対してドが付く程低い為、相手は能力を見間違ってしまい油断する。妹紅と幽香の最初の闘いで幽香が千年振りにブチ切れてしまったのも余りにも格下に見えた存在が生意気な事を口にしたためで、八雲紫もあなどって予想外の行動に面を喰らい、永遠亭との戦闘に於いても八意永琳は終始妹紅を侮り続けて足元をすくわれたのである。そして何れも妹紅に対する態度を改めている。
 この妹紅の実際の強さと存在の大きさを表す霊格の食い違いは闘いに於いては相手の油断を引き出す武器になるが、対等に会話をしたがる相手にはストレスに感じる事が多く、それらをある程度理解している妹紅としては相手に無理をするなとしか言えないのだ。
「で、でも・・・。」
 パチュリーは不死人狩りで一度スペルカードルールで妹紅と対戦したが、この時、不死身の妹紅を利用してフランドールのストレス解消を思いつき実行した。この時のパチュリーは妹紅を人として見て居らず、犬猫以下に見えたのでそんなことを思いつき、躊躇いもなく実行したのだ。
 妹紅はこの連夜の夥しい死に嫌気が差してフランドールの破壊の衝動を抑える方法を刷り込んだが、結果としてフランドールは更生し紅魔館に平和が訪れた。
 これまでフランドールのストレス解消は主にファミリア達で、パチュリーは彼女達の犠牲に心を痛める毎日だった。
 パチュリーはファミリア達の代わりに妹紅を利用したわけだが、その相手に救われた結果となり紅魔館の住人の中でも特にパチュリーは妹紅に対する感謝の念が大きく、先日魔理沙の家で涙ながらに妹紅に謝罪と感謝の意を表明したばかりなのである。ルビーが妹紅に対して好意的なのも自分の子供ともいえるファミリア達が死なずに済んでいるのが妹紅のおかげだと分かっているからだろう。
 歴代パチュリー・ノーレッジの導師である魅魔のアドバイスのおかげで今の自分があると思っているパチュリーは、師として直接学んだ事は無いが、魅魔を師匠として仰ぎ尊敬している。その師が全幅の信頼を置いているのが妹紅である。
 そして、先程の咲夜の件。咲夜に人としての心が芽生え始めているのは、水晶球の向こうで身支度を整え、図書館に向かいつつある咲夜の表情を見ればわかる。今の咲夜なら安易な選択をせず、レミリアの予言成就に力を貸す頼れる存在になるはずである。
 どれもこれも藤原妹紅のお陰。しかし、彼女はそのことを全く自分とは関係のないことの様に思っており、そこに、自分と藤原妹紅との間に大きな壁があるようでこれ以上踏み込めず、もどかしい気持ちになる。
 霊夢や魔理沙の様に他人の家なのにずけずけと横暴に振る舞う様子もなく、あてがわれた席に大人しく客としての態度を演じてくれる。パチュリーとしてはこういうまともな人間と交友を持ちたいのだ。

 先程までの恐ろしい表情はどこへいったのかまるで別人の様に何だが元気がない妹紅。その原因を自分達が作り、それを詫びようとしても、逆に向こうが詫びてくる始末。初めての体験でパチュリーはどう話を切り出していいのかわからなかった。
 そんな時、ルビーの雰囲気が少し変わり、図書館に何者かの来訪を報せる。
 妹紅の様子も少し変わり、表情が硬くなり眉が少し上がる。
 普通の家であれば二階程の高さの位置にあるバルコニーに現れた咲夜は、無表情のままゆっくりと階段を降り、少し離れた位置で一旦立ち止まりパチュリーらに軽くお辞儀をする。その後、静かに妹紅の前に歩み寄る。
 妹紅は席を立って咲夜の前に自らも進み出て互いに手の届く位置に立つ。咲夜に殺気は無いが、妹紅は明らかに殺気を帯びており、先程の静かな会話とは打って変わって戦闘モードになっている。
 パチュリーはこれまでの妹紅の様子から事は穏便に済むかと思ったが、またしても予想がはずれる。思わず席を立つものの、2人の間に割り込めずおろおろするしかない自分に幻滅する。
「先程は申し訳有りませんでした。」
 気持ちを押し殺す様に敢えて感情を表に出さず無表情のまま頭を下げる咲夜。妹紅は顔が怒ったままポケットに手を突っ込んで少し身体を反って見下すように咲夜の謝罪を受ける。
「十六夜咲夜。」
 咲夜の名前を呼ぶ妹紅。それに応じてはいと返事をして顔を上げる咲夜。妹紅は咲夜の決意に満ちた表情を見て、人としての心の取り戻した事を知る。人間は一瞬で変わる。咲夜は明らかに変わった。しかし、妹紅はそんな咲夜に苦言を与える。
「お前が犯した罪は2つある。一つは紅魔館と私を戦争状態にしたこと。そしてもう一つは、私と咲夜の間で取り決めた個人的な信頼関係を壊した事だ。」
「・・・はい。」
 首を下に少し曲げて残念そうに同意する咲夜。
「私も大人げなく門番を殺そうとした手前もあるし、それを止めたあのもやしっ娘に借りがある。」
 パチュリーをもやし娘などと表したが、これはひ弱な者が虎穴に入った事に対する賛辞の裏返しである。最初これを聞いてパチュリーは内心ムッとしたが、すぐに妹紅の意を汲み取って機嫌を直す。そして、借りだらけのはずの妹紅が自分に借りがあるなどと嘯く態度に恐縮し歯がゆくなる。
「だから、お前が犯した2つの罪のうち、どれか一つは許してやる。どっちか選べ。」
 男口調になった妹紅は凄味を効かせて咲夜を睨む。咲夜は妹紅を直視出来ず首の下あたりに視線を置き、1つの選択をする。考える余地などない、紅魔館と妹紅との戦争状態を止めるのが先決である。
「紅魔館は貴女との戦争を望みません。」
 そう言って頭を下げる咲夜。
「分かった。紅魔館との抗争はこれで終いにしてやる。その代わり、私はお前個人を絶対に許さない。十六夜咲夜は永遠に私の敵だ!」
「・・・。」
 唇を噛みしめ悲しそうにうつむく咲夜。しかし、紅魔館の事を思えばこれは受け入れなければならない事だった。
「では、先にお前の用事を済ませてしまおう。」
「え?でも?」
 予想もしなかった妹紅の答えに戸惑う咲夜、そしてパチュリー。
「勘違いするな?個人的な約束事をこのまま残しておきたくないだけだ。互いに1回ずつ。これが済めば晴れて貸し借り無しだ。」
 パチュリーはこの妹紅の言葉で理解した。咲夜が現れてからの妹紅の態度が急に好戦的に変わったのを見て、やはり妹紅は咲夜を許す気がなかったと諦めた。しかし、妹紅は始めから咲夜を許す気でいた。それなのにこんな厳しい態度で咲夜に臨むのは敢えて敵対関係を維持する事で咲夜が暴走しないように抑止力であり続けようと自分の立場を明確にしたのだ。これは、予言成就にとって大変重要な事で、当人が口で言っている事とは裏腹に、実質藤原妹紅が紅魔館に完全に味方した事を意味した。
 許す事。感謝する事。謝る事。互いに親睦を深めるにはそれらの要素が架け橋になる。しかし、許さず、敵対することで互いを強く結びつけるという選択肢があったことをパチュリーは初めて知った。
 強者が互いに敵対しながらも互いに尊敬しあってバランスを保っている幻想郷の仕組みを今理解した。そして、自分も含めて紅魔館が幻想郷の一勢力として未熟だということも実感した。
 藤原妹紅に勝てない自分達がその上位にいる八雲紫や魅魔、天狗といった勢力と肩を並べる事など不可能なのだ。そして、藤原妹紅は先を見て紅魔館を八雲紫が一目置く様な勢力に引き揚げようとしているのだ。
 そこまで紅魔館を思っているからこそ、咲夜の裏切り行為が心底許せなかったのだ。
 パチュリーは、妹紅に関する感謝の気持ちと同時に戦慄を覚えた。そして大きな敗北感に打ちひしがれた。

「私の用件は無効で構いません。今は貴女の用件を先に!」
 一人落ち込むパチュリーを尻目に咲夜は先ずは妹紅の用件が先だと訴える。
「ドッペルゲンガーの件は紅魔館と同盟関係にある以上必ずやらなければならないことだ。どうせやるなら先に済ませた方がお互い清々していいだろう?違うか?」
 妹紅はそれで清々するだろうが、咲夜にしてみれば関係性を維持したい以上、自分の用件を先延ばしにして契約を継続させたいのだ。
「案内しろ。」
 咲夜に命令する妹紅。美鈴の言う通り、今は妹紅の言う事を聞いて彼女に報いなければならない。
「わかりました。」


「フランは?」
「お嬢様とご一緒です。」
「丁度良かったわね。」
 フランドールの部屋に移動したパチュリー、咲夜、ルビー、妹紅の4人。部屋の主であるフランドール・スカーレットが居ない理由を咲夜から聞いて納得するパチュリー。
「ここでドッペルゲンガーと接触しました。そして、あの壁に通路が開いていました。」
 世界を裏返せばすぐそこに現れるはずのドッペルゲンガーを見る様に咲夜は何もいない空間に声を向けた。
「ふーん。」
 妹紅は関心なさそうに、あの凶暴なフランドールの部屋の可愛らしい部屋を意外に思いながら眺める。
 壁にたくさんの手書きの下手な絵が貼られている。色使いから姉、咲夜、パチュリー、門番が区別出来る。門番と思しき緑とオレンジ色の絵が多い事から、あの門番はフランドールにだいぶ気に入られているとわかる。
「この前の続きから始まるとしたらここで始めるのは得策じゃないわね。」
 世界を裏返した時点で向こうから先手を打たれる可能性が高い。相手は一切交渉が効かない純粋な悪意なのだ。
「部屋の外から始めるべきだろうな。藍は基本私のいる場所から離れられないと思うから、ドッペルゲンガーを私のいる場所に誘い込むしかない。あちらさんも咲夜にしか関心なさそうだし、自慢のナイフで息の根を止めるだけの簡単な作業になるだろうよ。」
 妹紅はぶっきらぼうに言っているが、全くその通りだと思う咲夜。
「トドメは咲夜がしっかり刺すのよ。そうしないと何度でも蘇るわ。」
「藍の攻撃は身を持って知っただろ?3分もあれをやられれば確実に死ぬ。その前にお前がトドメをさせ。」
「わかりました。」
 確かに妹紅の言う通り簡単な作業なのだろうが、あの藍の攻撃は非常に危険で、咲夜自身軽いトラウマになっている。出来る事なら藍とはもう会いたくはないがここまで来たから腹をくくるしかない。
「いつでもいいぞ。」
 部屋を出て通路にもどって適当な場所に陣取る妹紅等3人。パチュリーとルビーは別にここにいる必要はないが、観察者としてドッペルゲンガーの最期に興味があるらしく妹紅の側についた。妹紅としてもただそこに立っているだけでいいので何の労力もいらず、協力するとはいっても実に楽なものである。

 時間を裏返した咲夜は先ず、予め妹紅が用意していた戦闘依頼状を藍に渡す。
 セピア色の世界に八雲紫と同じ姿の八雲藍がいる。攻撃してくる様子はなく一先ず安堵する咲夜。交渉の継続の為のパスワードを言い了承されると、人工的な知能として存在する藍の思念体に依頼状を渡して文章で仕事の内容を知らせる。全ての前準備が終わると、一つ深呼吸してフランドールの部屋にゆっくりと歩み寄る。
 予め部屋のドアを開けていたので、近付くにつれ部屋の中が見え始める。
「いる・・・。」
 あの時感じた純粋な殺意がフランドールの部屋の中に存在しているのがわかる。だが、こちらに気付いている様子はない。気配を殺しながら咲夜は一度振り向いて藍までの距離を測り、自分よりはるかに速いドッペルゲンガーのスピードも考慮してどの程度部屋に近づけるか計算する。
「この位置が限界か・・・。」
 これ以上近付くと藍の能力の有効範囲に戻れなくなると悟った咲夜はナイフを取り出して構え、押し殺していた気配を解放して自分の存在をドッペルゲンガーに知らせる。
 間髪入れず部屋から反応が現れ、入り口にあの白と黒のメイド服を着た純粋な殺意の塊が現れる。あの時は怖じ気づいた咲夜だが今は違う。心の準備は出来ているし勝てる算段もある。心の中で『よし!』と気合いを入れる。
 オリジナルである十六夜咲夜を発見した黒いメイドは、殺意を全開にして躊躇無く突進してくる。咲夜は下がりつつナイフの弾幕を張って突進のスピードを抑えようとするが、ドッペルゲンガーもまた無数のナイフを召喚して弾幕を弾幕で相殺する。召喚するナイフの数が圧倒的に向こうの方が多く、自分の弾幕をかいくぐったドッペルゲンガーの弾幕を手持ちのナイフと華麗なステップで下がりながら回避する咲夜。
 ナイフ同士が衝突する乾いた金属音が木霊する一本の細い通路。軌道が逸れて行き場を失ったナイフは背景に溶け込んで模様と化す。
 あっと言う間に間合いを詰められた咲夜は、前を向きながら後ろに下がっている体勢を改め、後ろに向き直って無防備な背中を晒しながら後方にいる藍がドッペルゲンガーから見えない様な位置取りで全力で逃げに入る。
 勝利を確信したかのように、殺意と歓喜が入り混じった表情のドッペルゲンガー。咲夜の背中にナイフを突き立てようとした瞬間、ドッペルゲンガーの視界が固定される。
 藍の領域に入ったドッペルゲンガーはその力で肉体の全機能を硬化させられ動きが強制的に止められる。痛みを感じないドッペルゲンガーは、何故動けないのか理解出来ず振り返って近付いてくる咲夜を苦々しく見つめる。
 咲夜は動きを止められたドッペルゲンガーが突き立てたナイフをその手からそっと奪い取る。
 数分間は死なないと思うが、このまま死ぬ前に自身がトドメを刺さなければならない。人を殺す事は簡単な作業である。死から逃れようと抵抗する小動物を狩るより人間を殺る方が簡単だと経験で知っている。
 しかし、咲夜はナイフをドッペルゲンガーの心臓に突き立てる簡単な作業を躊躇っていた。
「この人は・・・きっと・・・。」
 咲夜は封印した古い記憶が蘇っていた。時を止める力があることが判明し、研究の為にカプセルの中で自由を奪われ人体実験をされたあの時の記憶が・・・。
 あの時、ここから自分を出してくれる救世主の到来を信じた。自分を害する者達を殺戮する復讐の悪魔との契約を願った。絶望の中で死にたくとも死ねない自分を殺しに来てくれる死神を歓迎した。
 このドッペルゲンガーはあの時、自分の怨念によって生まれた幻影なのだ。
 人の心を取り戻した咲夜にとって自分から生まれた自分自身を申し訳なく思う。これは初めての感覚だった。
「ごめんなさい・・・。」
 苦しみ、悲しみ、絶望から救って欲しくて自らが作りだした幻に謝罪する咲夜。
「もう、私には必要ないの・・・苦しみを分かち合える仲間がいる。一緒に悲しんでくれる友がいる。行き場の無い負の感情を受け止めてくれる敵が自分にはいる。そしてこんな愚かな私でも受け入れてくれる幻想郷という居場所があるの・・・。」
 咲夜は自然と溢れる涙をそのままに、ナイフをドッペルゲンガーの胸に静かに埋めていく。肉を裂き、骨を砕く音がその手に伝わってくる。動けない身体となったドッペルゲンガーの断末魔の絶叫の代わりに全身の脈動が悲鳴となってナイフを伝わって咲夜の心に響く。
 やがてナイフは柄の部分まで胸に埋まり、真っ赤な瞳に宿った純粋な殺意の光が次第に褪せていく。
「・・・ごめんなさい。」
 咲夜はもう一度謝罪し、そして動けない自分自身の影に優しく抱擁した。
 絶命した事を受けて藍は術を解くと、抱擁した咲夜に幻影が重くのしかかる。霊的な存在ではなく、物理的に存在するそのドッペルゲンガーの不意に掛かる重みに耐えられずそのまま床に座り込む咲夜。
 抱きながら自分自身と同じ髪を優しくなでようとしたところで、すっとその場から宙に掻き消えてしまう。心にぽっかりと穴が空く。何か大切なものを失ってしまったと、咲夜の中で悲しみが込み上げ大粒の涙が止めどなく流れ落ちる。
 初めて命を奪った罪悪感が咲夜の心を締め付けた。

 現実の世界で事が始まった時と事後は同時で、立っていた咲夜が座り込んで号泣している姿に変わったのは一瞬だった。
「ど、どうしたの?咲夜?」
 咲夜の様子に驚いて側に歩み寄ろうとするパチュリーは、作戦が失敗したのかと疑う。
 妹紅はそんなパチュリーのか細い肩に手を置いて制止させる。抗議の目で振り向くパチュリーは、妹紅の穏やかな表情を見てハッとしてもう一度咲夜に向き直る。
「ドッペルゲンガーって、言ってみれば出来の悪い双子の妹みたいなものだろ?でも、どんなに出来が悪くても血を分けた姉妹だ。失って悲しまない姉はいない。違うか?」
「咲夜・・・。」
「咲夜の心にはぽっかりと大穴が空いただろう。でも、それはすぐに埋まる。でも、今はそっとしておこう。」
 妹紅がそういうと気が利かない主の代わりにルビーが二人の横に立ってそれぞれの肩に手を置き図書館に転送する魔法をかけた。


 図書館に戻った3人はテーブルに向かって歩き出す。妹紅は一仕事終えて足取りが軽かったが、何故かパチュリーはうなだれてとぼとぼと肩を落として歩いていた。
「咲夜の事を大事に思っているのに、どうして永遠の敵だなんて言うの?」
 席についた早々、パチュリーは疑問を口にする。
「あいつを暴走させないためには抑止力が必要だ。」
「でも、敵対してまで貴女が損を被る事はないでしょ?貴女に何の得があるというの?」
「損得は関係ない。信頼された以上、それに満点で応えるだけの話しよ。」
「それは、魅魔に咲夜の事を頼まれたから?」
「ええ。」
「魅魔だって別に昔からの友人というわけではないのでしょ?」
「今も別に友人というわけじゃないけど。」
「それなら尚更頼み事を聞く筋合いはないじゃない?その為に咲夜と敵対関係になるなんて、貴女に何の得があるのよ!」
 パチュリーの執拗な問いにさらっと答え続ける妹紅の態度に苛立ったのか最後は席を立ってテーブルを叩き、前傾姿勢で詰め寄るパチュリー。
 お茶を入れ直してきたルビーがティーカップを置く寸前で慌てて戻す。
「信任を得た以上、それに応えるのが道理だ。相手が誰であろうと・・・。」
「バカげているわ!魅魔の言いなりになって、事が済んだら掌を返されて捨てられて、裏切られるって事もあるでしょ?あの人は悪霊で、呪いを得意とするネクロマンサーよ?それをどうやって信じるのよ?」
 師匠として尊敬しているが、敢えて悪く言って妹紅の反応を見るパチュリー。ネクロマンサーという意味が分からない妹紅だったが、恐らく余り良いものではないだろうと容易に想像がつく。
「魅魔が私を信任する事と、私が魅魔の信任に応える事は、全く別の話よ。」
「そ、それは・・・。」
 鈍器で思い切り殴られた様な衝撃を受けて咄嗟に言葉が出ないパチュリー。崩れ落ちるように席に腰が落ちる。見返りを必要としない無条件の奉仕など、パチュリーには考えられないことだった。
「裏切られる事が怖くないの?心が痛むしょ?」
 それでも食い下がるパチュリー。何としても言い負かしたい心境になる。
「どうせ腹が減るからって何も食べなければ死ぬ。」
 裏切られる、心が痛むからと誰も何も信用しないのでは誰の信頼も得られないと遠回しに諭す妹紅。
「食べ物と同じにしないで、心の痛みは重要な問題よ。心をすり減らしてそれで死ぬ人だっている。」
「生憎と私は死ねないからね。」
 戯けて見せる妹紅だが、パチュリーは一向に下がらない。
「それでも、心は痛むしすり減るでしょ?」
「痛む程ご立派な心は最初から持ち合わせていないから、すり減る心配も無用よ。」
「やめてよ!そういうことを言うのは!」
 パチュリーは顔を両手で覆い、とうとう泣き出してしまう。パチュリーはフランドールの件から始まり、レミリアの件、咲夜の件など妹紅に助けられてばかりであり、それに対する感謝の念が大きい。しかし、妹紅はそれを何とも思っていないようでもどかしいのだ。
 何か礼をしたい。言葉ではなく、妹紅の苦労を和らげるような役に立つような事をしたい。しかし、今の自分に妹紅にしてやれることはない。それが悔しくてしかたがなく、その思いが涙となって溢れでた。
 妹紅はこの状況で真っ先にやったことは、主の傍らにいるルビーの顔を見る事だった。
 ルビーは妹紅に見られて、無言の相談を受けるが首を振って気遣い無用と返答した。饒舌な今日の主の様子はルビーも初めて見るもので、パチュリーにも変化が生じている事が伺え、良い傾向だと考えているのである。

 妹紅はテーブルに突っ伏して泣いているパチュリーの背中を優しく撫でる古の悪魔という不思議な光景を見る。この悪魔の方がよっぽど上なのに弱々しい主を大切に思って愛情を持って接している。
 パチュリーの涙の意味は分かる。少し意地悪し過ぎたかとも後悔する。ただ、妹紅は最初から魅魔の弟子であるパチュリーは信用しているところから事を始めているので、今更親睦を図る必要はないと思っている。
 ただ、パチュリー側からすれば妹紅の信用は魅魔を経由してのもので、自分自身が自力で得たものではないという自覚がある。紅魔館の知恵袋として妹紅の同盟者としてパチュリー・ノーレッジ個人の信用を得たいと思っているのだ。

 妹紅が紅魔館を訪ねたのは、ある用事の為である。
 パチュリーを最初から信用している妹紅としては、当然彼女に相談や協力を仰ごうと思っていた。
 今のパチュリーは与えられているばかりで自分から妹紅に対して出来る事が無く、信頼や信用は互いにイーブンであるべきというプライドの高い魔法使いらしい解釈をしているようで、だからこそ引け目のような感情が出てしまうのだ。
 妹紅としては、その気持ちが分からないでもないのだが、パチュリーがここまで人間的な思考を持っている事は想定外だった。もっと妖者らしく自分勝手で他人を気にしない者とばかり思っていたのだ。
 ルビーの視点からは、咲夜同様今日一日でパチュリーが別人になったかのように感情を表に出す主に戸惑いつつも良い事だと思って状況を注視している状態である。
「(信用はあくまで自分が相手に対するもので、相手から信用されるために何かをする、じゃないんだけどな・・・。)」
 妹紅は頭を掻いて面倒臭い状態になっているパチュリーを見る。
「(口で言っても分からないやつは、実際に体験させるしかないな・・・そうだ、あれをやらせてみるか。自分がやってみせるつもりだったが、こちらの願いを叶えた事でこいつも少しはふっきれるだろう。)」
 妹紅はここへ来た最大の理由をパチュリーを使って劇的に演出する事を思いついた。

「パチュリー、私は貴女を信用している。でも貴女は私を信用していない。」
 机に伏せて泣いているパチュリーはその言葉を聞いて、今度は頭を上げて怒りを表す。
「私は貴女を信用しているわ!」
 妹紅の予想通りの反応をするパチュリー。
「なら、これ食って見ろ。」
 妹紅はそういって、まっ黒の怪しい光沢のある小さな玉をテーブルに置いて見せる。そして、差し出された玉を注視するパチュリーを尻目に妹紅はルビーの目を一瞬見る。ルビーはそれに気付いてこれまでと様子の違いを感じ取る。
 これは、ただの飴玉で子供に言う事をきかせる時に使う道具でもある。紙の包みを見ればそれが里の和菓子屋のものとわかるので、予めポケットの中で包みを解いておいた。
 ただの飴玉も包みがないと得たいの知れない怪しい物に見えるから不思議である。それを知らない人にいきなり食って見ろと渡しても、はいそうでうすかとはいかない。
「え?」
 案の定疑問の声を上げて真意を探ろうと妹紅を見るパチュリーだが、ここでルビーがその玉をとってポイっと口に放り込んで美味しそうにコロコロと歯音を立てる。
 妹紅の気配を一瞬で読み取って行動するルビーに対して、何も知らず驚くパチュリー。
「どうやら貴女よりこの悪魔に信頼されてるみたいね。」
「ちょ、ちょっと待ってよ!今のはずるいわ!」
「これが飴玉と知ってればすぐに食べたといいたいの?じゃーこの悪魔はどうなの?彼女は飴玉かどうかはしらなかった。でも、信用をおいた者が差し出したものが何であれ、それが害となることはないと思って有り難くいただく。」
「信用というのはそうやって計るものではないわ。」
「そうかな?私が何を基準に誰を信用するかは、あくまで私の基準であって、貴女の基準じゃないでしょ?」
「そ、それは・・・。」
 またしても反論出来ないパチュリー。膝の上の服の生地をぎゅっと握りうつむく。
「貴女は頭が良いから、頼まれた依頼は出来るか出来ないかを先に判断してしまう。私は頼まれた時に出来る事かどうかはわからず全力で挑むだけ。」
「でも、それで失敗したら、貴女自身にも害になるし、頼んだ人の信頼も損ねてしまうわ。」
「私はね。物を頼む時失敗するリスクも考えるし、頼んだ人の命や家族の事も引き受けるつもりで、その人を信用してものを頼むわ。」
「!」
「パチュリー、貴女はそこまで考えて頼んだり頼まれたりしたことはないでしょ?」
 確かにパチュリー・ノーレッジの人生に於いて、他者の家族まで引き受けてまでも難しい依頼を誰かに出した事はない。そして依頼を達成出来る確率が低い案件は先に断るだろう。
「でも!その時が来れば出来るわ!」
 なおも食い下がるパチュリー。
「その時を今、貴女に与えてあげましょうか?大口叩くのだからその覚悟は既に出来てるのでしょう?」
「う、それは・・・。」
 口で強がりを言うものの、いざそれを与えられた時怖じ気づくパチュリー。『今度は大丈夫』は裏を返せば今その能力がない事を示している言葉である。自分で口にした今ではない『その時』を今妹紅に与えられようとしている。
「只とは言わない、私の依頼を受けてくれるなら、成否にかかわらず貴女にいいものをあげるわ。」
 更に、その信頼に応えた報酬も用意するという。予想外の展開に引くに引けなくなるパチュリー。
 藤原妹紅が今更こちらに不都合な事をけしかけてくる事はないだろう。しかし、そう考える一方で危険を警鐘する打算的な自分自身がいる。常に物事を合理的に考え無駄な作業をしない、極力動かないことをポリシーにしている自分がいるのだ。それだけに妹紅の信用を得るには正に生き方を変える選択に迫られる気がしてならない。それはパチュリーにとって未知の領域でとても恐ろしい事だった。

 妹紅はそんなパチュリーの内面を見透かす様に楽しそうにほくそ笑む。その馬鹿にしたような薄笑みが意外と負けず嫌いなパチュリーに火を付けた。
「与えて頂戴!私を試すというのなら受けて立ちましょう!」
 怖じ気づくかと思ったが、想像以上に負けず嫌いのようだ。妹紅も心を決めて、今日ここに来た本当の理由をこの動かない魔法使いを動かして行う事に決めた。
「お待たせして申し訳ありません。」
 パチュリーの心が決まったタイミングを計ったわけではないが、先程一人フランドールの部屋の前に置いてきた十六夜咲夜が再び図書館に現れるが、妹紅は無視し、パチュリーも闘争心に火が点いて咲夜どころではなくなっている。ルビーだけが向き直って軽く会釈し肩をすくめた。
「これは、お前を試す試験だと思って欲しい。だから、敢えて何も言わない。これから私がする事に対して自分で考えて適切に行動しろ。但し、時間はないぞ?10秒程だ。考えていたらあっと言う間に過ぎる時間だ。」
「・・・。」
 パチュリーは妹紅の出した試験の課題の意味が理解出来なかったが、先程の様に狼狽える事はしなかった。ムキになったパチュリーはどんな事でもやってみせるという強い意思があり、そして先程の飴玉の事ではないが、それに近い心理テストの様なものだと決めつけ、トリックにかからないように心の準備をする。
 妹紅は、そんなパチュリーの心理を見透かして、これから自分が見せるある事にびっくりして何も出来ず絶対失敗するだろうと確信する。だが、そう確信しつつも妹紅はここでパチュリーが失敗しないために策を講ずる。
 ルビーと呼ばれる賢い悪魔を信頼している妹紅は、一瞬ルビーの目を見て何かを伝え、ルビーも何かを受信して目を細めて心構えをする。お互いに具体的に何も伝えていない、ただこのアイコンタクトだけで十分何かは伝わった。これだけでいい。必ずこの悪魔は自分の予想通りに動く。
 妹紅は全ての下準備を整えると、モンペに手を突っ込んで細い巻物を取り出す。
 今来たばかりの咲夜は状況が掴めず階段を降りて2人から少し離れた場所で様子を窺う。
 お茶を飲んでいた丸テーブルの上にその巻物を開いて手を押しつけた妹紅は紙全体を満遍なく擦って、何かの呪文の様な紋印の絵柄をそこに描く。
 固唾を呑んで見守っていたパチュリーはそれが何かの呪文の巻物だとすぐに分かったが、それは模様が描かれているだけの紙で、魔力や妖力の類がそこに込められていない事を理解する。魔法として発動するのに必要な触媒がなければこの巻物は発動しないはずである。
 次に妹紅は、どこからともなく金色の細い糸を取りだし、紙に置くとそこに手を乗せて巻物に刷り込む。チリチリと焦げる匂いが僅かに周囲に立ちこめる。
 巻物はその金色の糸を練り込まれた途端に妖気を帯び、何らかの術が発動する本物の魔法の巻物に変わった。術を別の物に写す、魔法付与いわゆるエンチャントは高位の魔法使いしか使えなず、パチュリーには簡単な初歩的魔法にしか出来ない事だった。パチュリーはエンチャント出来る妹紅の実力を改めて思い知らされた。
「いくぞ?心の準備はいいか?」
 ルビーがパチュリーの直ぐ後ろに気付かれず移動した事を確認し、テストの開始のタイミングをパチュリーに委ねる。
 パチュリーはその巻物に込められた術が発動し、それに対処をすればよいと判断する。しかし、どんな術が発動するのか全く分からない。妹紅は適切に判断して行動しろと言うが、現状で何をどうすればいいのかわからず、ぶっつけ本番でいくしかなさそうである。
 パチュリーは意を決し、強く大きく頷いた。
「いくぞ!」
 パチュリーの合図で、即座に術を発動する妹紅。巻物はボンと音を立てて一瞬煙に包まれ、そしてその煙が消えるとそこに、にわかに信じられないものが現れる。
「!!!!!!」
 この時起こった現象に妹紅以外の3人は余りの衝撃に一瞬固まった。
 何と妹紅の横の空間に裂け目が開いているのである。これは八雲紫が使うスキマと同じである。
 パチュリーは思わずスキマを二度見して次に妹紅の顔を見る。その妹紅は右手を前に差し出して指を折って勝ち誇った顔で時を数えている。
「(ここに入れというの?無理よ、無理だわ、絶対に無理よ!)」
 有り得ない事が目の前で起こっている。藤原妹紅がスキマを使っている。
「(いや、これはきっと幻術か何かでそう見せられているのよ!?)」
 パチュリーは直ぐに気付く。これはテストだといった。自分を試すテストだと。ならここに飛び込むのが正解だ。どうせ飛び込んでもそこには何もないはずだ。簡単なトリック事だ。数歩前にでてこのスキマに飛び込めばいい!
「(出来ない!)」
 しかし、パチュリーは足が前に出なかった。万が一それが本当のスキマならどこに出るかも分からない次元のスキマになぞ入れるわけがないではないか!
 妹紅の指は刻一刻と時を刻み続け、5本の指が全て折れる。5秒が経過した事を示す。
 ごくりと生唾を飲んで怖じ気づいたパチュリーは前に出すはずの足を後ろに下げる。だが、その時、パチュリーは背中に強い圧力を受けてそのまま前につんのめり、自分の意志に反してその入りたくないスキマに飛び込んでしまう。
 きゃーという絶叫が図書館を騒がせたが、その悲鳴は直ぐに遠ざかる。まるで深い井戸に誰かが落ちたように・・・。
「ぱ、パチュリー様!」
 状況を見守っていた咲夜はルビーの予想外の行動に為す術もなく、一歩前に足を踏み出した状態のまま固まる。そこで自分は何をすべきなのか咄嗟に思いつかない咲夜。
 パチュリーを後ろから突き飛ばしたルビーは妹紅に向き直りニヤリとすると、そのまま主人の後を追ってスキマに自ら飛び込んでいく。
 妹紅は時を刻むのを止めそのまま両手を腰にあててやれやれと肩から力を抜く。そしてすぐにスキマは閉じる。
「こ、これはどういうことですか?」
 取り残された咲夜は妹紅に問い質すが、妹紅は完全に咲夜を無視し魔法陣の前に移動する。そして、斜め後ろにいる咲夜に一瞥を入れてまた前を向く。
 無視された咲夜は内心穏やかではなかったが、その妹紅を見て何かの合図かと思い背後に歩み寄る。
「これ、藍に渡して。」
 後ろに来た咲夜の気配を感じた妹紅はポケットから手紙を取り出し、咲夜を見ずに手紙を肩越しから後ろに差し出す。
「今日ここに来た理由がそこに書いてあるわ。これを藍に渡して。藍から口頭で説明されるかもしれないから、一言も漏らさず書き留めておいて。」
「・・・分かりました。」
 互いに一度づつの約束。自分の分の約束は既に果たされた。後は妹紅の約束で、その約束を果たす時が唐突に訪れた。
 咲夜は何も考えず、ただ妹紅の依頼を実行するために長い後ろ髪の間から飛び出ている手紙を掴んで抜き取り世界を裏返した。

 手紙が手から抜き取られた次の瞬間、手から消えた手紙とは別の物が手に挟まれている事に気付く妹紅。
 妹紅は驚いたが、戻ってきた咲夜がそのままの姿勢だった妹紅の手に藍からの返書を差し込んだのだと直ぐに理解した。
「戻りました。」
「どのくらい時間がかかった?無理な注文だったから相当時間がかかったでしょ?」
「いえ、先程の手紙を藍さんに渡したら直ぐにそれを手渡されました。」
「え?」
 妹紅は驚いて咲夜に向き直る。その時魔法陣が開いて興奮状態のパチュリーと、たんこぶをこしらえてトホホ顔のルビーの2人が帰還した。
「も!」
 妹紅の名前を叫ぼうとして、妹紅と咲夜が何やら神妙に話をしているの見つけて口をつぐむパチュリー。
「それは本当?」
「はい、嘘ではありません。予め準備していた感じでした。」
 妹紅は受け取った返書を改めて見る。外側を包み紙で厳重に封をされた状態で十字に太め糸で縛っていた。それなりに厚みがあり、中に手紙が入っているなら数十頁に及ぶ膨大な情報量が封入されていると思われる。
 これをすぐに渡したと言う事は、咲夜が言う様に予めそうする準備をしていたに違いない。妹紅はこうなることを予測して予め用意してくれていた藍に感謝した。
「ありがとう、助かったわ。」
「いえ、礼には及びません。」
 かしこまってお辞儀をする咲夜。
 妹紅は直ぐにパチュリーに向き直り、咲夜から受け取った小包をそのまま開封せずにパチュリーに差し出す。
「試験はどうやら合格のようね。これが試験に合格した貴女へのご褒美よ。」
 話が読めないパチュリーだが、この小包が藍から受け取った物だと言う事はこの時知らず、そのまま素直に受け取る。
「何が入っているの?」
「開けてみたら?」
 パチュリーは、色々な事を妹紅に問い詰めたかったが、取り敢えず多少反則気味でも試験に合格した事と、そのご褒美に満足し嬉しそうにそれを開封する。
「ふふふ。」
 その様子を見て妹紅は笑みをもらし、ルビーも声に出さずクスクス笑う。
「な、何よ!」
 笑われて照れくさそうに怒るパチュリー。
「さっきまでの貴女は、そんな怪しい封筒渡されても絶対に開けなかったでしょうね・・・。」
「あ・・・。」
 紐をハサミで切り、厚い油紙の包みを解体しながら、重要な事に気付くパチュリー。
「あれがまさか本当にスキマだとは思わなかった。幽明結界に出た時は本当に信じられなかった。でも、身を持って体験してしまえば、もう信じるしかないものね・・・。」
 これまで物事を頭だけで考え実践を疎かにしていたパチュリーは、ルビーの後押しでスキマをくぐった事で、未知への恐怖をその身でもって克服した。百聞は一見にしかずとはよく言ったもので、パチュリーは妹紅に対して完全なる信頼をおけるようになったのだ。それが、不意に渡された封筒を何の疑いもなく開ける態度に出たのである。
「話したい事は色々あるだろうけど、取り敢えずそれを開けて。今日ここにきた目的と答えがそこにあるはずよ。」
 パチュリーはそれを聞いて、この封筒が藍から貰い受けたものだと知る。
「わ、私が開けてもいいの?」
 もう外包みにハサミが入って中身が取れるところまで来て、重要な書類だと知って躊躇うパチュリー。
「そこまで開けたのなら最後まであけたら?」
 パチュリーは妹紅に言われて気まずそうに丸テーブルに移動して中身を取り出しそこに置く。自分で買った物や自分宛の物は、自分自身で開封するのがポリシーであるだけに、妹紅宛ての物を不可抗力とはいえ先に開けてしまったことに強い罪悪感を感じるパチュリーだった。

 包みの中に入っていたのは書面の様な文章で情報を伝えるものではなく、一枚の大きな紙を限界まで小さく折り曲げたもので、それは小さな丸テーブルでは収まらないほど大きな幻想郷の地図だった。
 それは、ただの幻想郷地図ではない。異なる空間密度が詰め込まれている複雑な座標情報が記された幻想郷の秘密を暴くとてつもなく重要な地図だったのである。

東方不死死 第49章 「人の心」


 十六夜咲夜にとってこの世で最も大切な存在である紅美鈴。
 その彼女は今正に悪鬼となった、いや、自身が悪鬼にしてしまった藤原妹紅に殺されようとしていた。
 助けたい。しかし、身体が全く動かない・・・。
 絶望的な状況の中で、咲夜は信じた事も願った事もない神に祈り奇跡に頼っていた。

 そして、その祈りは届いた。

 藤原妹紅の脚蹴りによる無慈悲なトドメの一撃が、昏倒し無防備になった紅美鈴の頭部に踏み下ろされる正にその時、残虐な炎の真横に強い魔力が集束し閃光と共に地面に魔法陣が開く。
 妹紅は一点から放射状に広がる魔法陣の光が自身の脚に掛かるのを嫌い咄嗟に身を翻してその場から飛び退き距離を取る。相手を拘束する罠陣と判断したからだ。
 地面に現れた魔法陣は一瞬で直径3メートルほどの真円を描き、スペルカード戦などで見た覚えのある紋様を見て、魅魔や魔理沙などと同じ魔法使いの影響がこの場に及んだ事を知る。
 そして、どんな状況にも対応できるように腕で顔を覆い光を直視しないように警戒体勢をとる。
 この咄嗟の回避行動によって獲物を取り逃がしたかたちになった妹紅。そによってひとまず一命を取り留める美鈴。
 地面に現れた魔法陣から照射される光の中から見覚えのある2つの影が現れ、この魔法陣が攻撃の為のものではなく転送の為のものだと知って、無駄な回避行動をとった自分を罵り露骨に不快な表情を見せる妹紅。
「藤原妹紅、その辺で勘弁してあげて。」
 魔法陣から現れたのは紅魔館地下に存在する魔法図書館の主であり、レミリア・スカーレットの親友でもあり、そして魅魔の弟子でもあるパチュリー・ノーレッジと、その僕のルビーと呼ばれるファミリアであった。
 この2人の登場は咲夜にとって正に天の助けのような絶妙なタイミングだった。
 しかし、ひとまず美鈴は殺されずに済み安堵はしたものの、今度は助けに現れたパチュリーらが妹紅の攻撃で二次災害に遭う危険性もある。咲夜はそうならない様に動けない身体のまま引き続き何かに祈り続けた。
「何の用だ?最高の見せ物だっただろ?今頃のこのこ現れて、特等席で最後まで見ていたらどうだ?」
 この状況を隠れて傍観していたと思われる図書館の魔法使いに皮肉を言う妹紅に対して怒気がそのまま人の形をしていると感じるパチュリー。
「あ、貴女、どうしてしまったの?」
 先日会った時とまるで別人の妹紅に驚きを隠せないパチュリーは、その事を率直に尋ねる。
「もう、猫をかぶるのは止めにしただけだ。これが私の本来の姿だ。」
「フランを更生させたのは貴女でしょ?」
 フランドール・スカーレットを更生させた事を例に挙げて、今の姿は本当の妹紅ではないと諭そうとするパチュリー。
「あのクソガキか?面倒くせーから大人しくさせただけだ。」
 妹紅のこの返答は嘘ではない。毎日の様にやって来ては殺しまくるフランドールを大人しくさせる事が第一の目的で、別にフランドールや紅魔館を気遣ってやったことではない。
「そ、そんな・・・。」
 恐ろしい形相で睨み付ける妹紅にたじろぐパチュリーは、もはや口先だけの説得は通用しない事を知る。
 パチュリーとしてはこの状況を監視しつつ最後まで傍観者でいるつもりでいたが、どうも妹紅の様子がおかしいので慌てて割り込んで来たわけである。妹紅が危険な殺戮マシーンに変身しているのなら自分も危険な状態といえるが、魅魔が信頼を置く妹紅なら、完全にそうなってはないと信じて勇気を出して妹紅の前に現れたのである。しかし、それはどうやら間違いだったようだ。迂闊な事を言おうものなら即漸される危険性がある。
「紅魔館は敵だ。図書館はどうする?なんなら魅魔とも戦争してもいいんだぞ?」
 敢えてパチュリーを図書館と例えて咲夜の属する紅魔館とを区別する妹紅。さらにパチュリーが魅魔の弟子である事を知っている妹紅は、その弟子を攻撃すれば師匠である魅魔とも敵対することをしっかりと理解しており、それを事前にしらせる事で魅魔を盾に下らない交渉に持ち込ませない様にパチュリーに対して先手を打つ。
 一見すると怒りに支配され我を忘れている様に見える妹紅だが、冷静な判断力が働いている事が伺える。つまり、人間としておかしくなっているのではなく、悪鬼が悪鬼として最も悪鬼らしい最高の状態になっているということである。
 ブチキレて我を忘れているわけではなさそうなので、まだ話が通じる余地はありそうだが、下手な駆け引きによって不快感を持たせて逆効果になるよりも、全面的な譲歩で状況の改善に糸口を見出そうと心に決めるパチュリー。
「ど、どうすれば、その怒りを収めてもらえるの?私達が全面的に悪かったわ。だから出来る事なら何でもする。貴女の望むものを言って。」
 こちらが全面的に悪いとパチュリーは無条件降伏の宣言とも取れる態度に出た。これは賢明な判断といえるが、その譲歩は傲慢で強気な今の妹紅を付け上がらせる材料にしかならなかった。
「誰かぶっ殺さないとおさまらねー!門番を生かしたいなら、お前の命を寄こせ!」
 妹紅はパチュリーに歩み寄り、胸ぐらを掴んで顔に引き寄せると鬼の形相で凄味を入れる。
 未だかつて経験した事が無い憤怒の視線と、噛みしめる歯の軋む音を聞かされたパチュリーは、恐怖のあまり金縛りの様に動きが止まり呼吸が出来なくなる。
 妹紅はこの時においても頭の中は冷静な悪鬼のままで、このパチュリーに対する精神攻撃に対して、僕であるルビーが何らかのリアクションを取ると予想し、その動きを牽制すべく完全にパチュリーの掌中にいれ人質にしたまま背後に視線を向ける。パチュリーさえ手中に収めれば、この危険な悪魔の動きを制する事が出来るという判断である。
 しかし、この時予測になかったルビーのリアクションに悪鬼の思考が一瞬飛ぶ。
「!」
 パチュリーの背後にかしこまっていたルビーは、主の危機にも平然としており、妹紅の牽制の視線を受けて面白そうな笑みを口元に浮かべ、まるで主の死を歓迎するかのようにせせら笑う。
「(殺せ!マスター気取りのクソ忌々しいパチュリーを殺せば私は自由になれる!)」
 妹紅はそんな声を聞いたような気がした。
 ルビーが、リリス族という最強クラスの魔族であり、魅魔が倒し名前を奪って僕にしている事を聞いている妹紅は、今現在ルビーのグランドマスターであるパチュリーを殺す事が、彼女を呪縛を解く鍵であることに気付いてしまう。
 咲夜がそうであったように、自分の思惑通りに事態が進むと人間は調子に乗って図に乗る。妹紅もまた悪鬼としてその思惑通りに進む展開に思考が浅はかになり、パチュリーを殺した後の事を考えていなかったのだ。
 ここで悪鬼としての自分の側面が、急に身体の中に押し戻されていく感覚を覚える。それと同時に本来の自分が前面に出てくる。
 咲夜の裏切り行為、そして美鈴の無敵宣言、さらにパチュリーの無条件降伏宣言が、妹紅の心に宿った負の感情という炎に次々と油を注いで成長させ悪鬼に変えてしまった。それが急に萎んで消えて無くなると、そこには罪だけを押しつけられ背負わされた本来の妹紅だけが一人取り残されてしまった。
 不死鳥に乗っ取られて人を殺し続けて、汚れの極みに達し羅刹となってようやく解放された妹紅は、身に覚えのない罪と穢れだけを背負わされ野に放たれた時と同じ心境だった。
 妹紅の鬼の形相は見る見る後悔と恐怖に駆られた弱い人間の表情になっていく。今の妹紅には全ての記憶はあるものの、この状況を作りだしたという実感が全く無い。
 パチュリーはそんな後悔の念に打ちひしがれ半ば放心状態の妹紅に胸ぐらを掴まれたまま、同じく恐怖で放心状態になっていた。
 ルビーは大切な物を慈しむ様に、肩にそっと手を回して優しく妹紅から主を奪う。
 悪鬼の中から抵抗なく抜け出せたパチュリーは、ルビーに身体を預けた態勢でようやく我に返る。

 最初に咲夜の裏切りがあった。彼女にはレミリアを成人させるという使命があり、その為にアルカードそのものといえる彼の血晶石を思念界から持ち帰る任務がある。しかし、今起こった事の様に目先の利益に目がくらむ様では絶大な吸血鬼始祖の魂ともいえる血晶石を前にして、最強の力が手に入るという誘惑を前に自制する事などできるだろうか?
 これでは魅魔の予想通りアルカードの力を奪い堕ちた咲夜を倒すしかないではないか!妹紅は、咲夜はそんな誘惑に屈しないだろうと根拠は無いがそう彼女を信用していた。
 勝手に信用した自分が悪いのだが、それだけに裏切られたショックは大きい。
 そして咲夜の次は、無敵宣言という狩人としての妹紅の本能を刺激した門番の言葉だった。咲夜の裏切りに対してマグマの様に腹の底で煮えたぎっていた怒りを激情に変え噴火させてしまった。
 慧音を救う為にあらゆる手を尽くそうとする強い想い。異変の中で大人の振る舞いを半ば自らに課し我慢していた妹紅を解放した幽香からの能力制限解除命令。
 解放された狩人としての自分と、異変を恙無く収めようとする自分の揺れ動く心の針が、様々な状況が重なった事で妹紅を狩人側に振り切らせたのだ。
 そしてトドメがパチュリーの無条件降伏である。
 既に妖怪の敵となっていた妹紅は、負い目の存在に対して容赦出来る寛容さは持っていなかった。徹底的に追いつめて、実力の差を見せつけ敗北と死を理解させた上で命を奪う。これが妹紅の妖怪を殺す際、怨霊を生まない為の決まり事なのだ。
 先程までの妹紅は、紅魔館に対して明らかに勝ちにいっていた。妖怪を殺す事に悦びを感じる、妖怪にとって悪鬼である妖の狩人時代の妹紅に戻っていた。
 あの場にいた全てが自分の下にひれ伏す存在だった。しかし、そこにあの悪魔が立ち塞がった。彼らの死によってあの悪魔が益を得ると知った時急に我に返った。自分の行った行為によって誰かが得をする。人間ならともかくこれが危険な悪魔を野放しにする重大な結果を招く危険性を理解出来た時、急に正常な思考に戻る事が出来た。
 その後の悪魔の行動を見るにつけ、あれは本心ではなく演技であり、妹紅はまんまと騙されたと理解出来たわけだが、一度冷静になった妹紅としては、その事に怒りは無くむしろ救われた心境だった。

 妹紅とパチュリーらのやりとりを横で見ていた咲夜は、状況を収めたのがルビーであることに気付かず、兎に角妹紅から怒気が消えて事に心底安堵していた。
 パチュリーは襟元を絞られて乱れた服装を整えつつ、急に妹紅が大人しくなったことを直ぐに理解出来ず、何かしたのかと訝しげにルビーに振り向き、背後の僕に目でその事を訴える。ルビーはしれっとして「どうかされましたか?」と言う目で微笑みを返すだけだった。
「くそ・・・咲夜の力を借りに来ただけだったのに・・・。」
 妹紅は唇と瞼をぎゅっと閉じながら何も見えない虚無を見上げた後、大きなため息をつき、そして肩を落としてそう呟いた。同時に妹紅から気が抜け張り詰めた周辺の大気の緊張が緩む。
 先程まで妹紅を避けていた東からの冷たい風が再び霧を乗せて流れてくる。
 咲夜はその妹紅の呻きを聞いて、そこで初めて妹紅の純粋な心情に触れ自分のした過ちを理解し後悔の念が湧き上がった。
 咲夜は妹紅を得たいのしれない存在、人の心が無い化け物のように無意識に思っていた。自分の能力が及ばない相手であり、永遠に相容れない存在だと決めつけていた。多少傷つけても妖怪の様に一々心を痛める事はないだろうと肩を括っていた。
 だが、それは間違いだった。妹紅は人間として同じ人間である自分を全面的に信用して頼って来ただけだったのだ。咲夜はその信頼をボロ雑巾の様に踏みにじってしまったのだ。
 涙が出た。
 咲夜は動けない身体のまま、折れ曲がった鼻から止まらない血と、涙と鼻水が混ざってぐちゃぐちゃになった顔を地面に擦りつけたままボロボロに泣いた。とんでもないことをしてしまったと心底後悔した。

 怒りが収まり、代わりに激しい自己嫌悪に陥った妹紅は、もう一度大きくため息をつき気持ち切り換えようとして失敗し、どうしていいのかわからずパチュリーに背を向け気持ちの落としどころを探すため、この場を立ち去ろうとした。
「ちょ、ちょっと待って!どこに行くの?まだ用事は済んでないのでしょ?」
 半ば状況が理解出来ず妹紅のすることをぼーっと見ていただけのパチュリーだが、ルビーに肘で小突かれて何をすべきか咄嗟に思い出し妹紅を引き留める。
「私は歓迎されていないようだ。」
 少し首を横に向けた妹紅は片方の目だけでパチュリーを見ながら呟くように言う。
 この状況ではもはや協力する気が失せているという妹紅の心情はパチュリーにも痛い程理解出来る。しかし、ここで妹紅をこのまま帰したら、金輪際彼女の協力が得られないという強迫観念にも似た意識が生じ、引き留めなければという強い衝動に駆られる。彼女の協力なくしてドッペルゲンガーの退治はありえない。そしてドッペルゲンガーを乗り越えなければ予言の成就はない。
「待って!」
 再び背を向けて立ち去ろうとする妹紅をこのまま帰しては行けないと体力のないパチュリーは必死に妹紅に腕にぶら下がる。ルビーも命じられてそうしているのではなく自発的にパチュリーが掴んでいるのとは逆の腕を掴んで引き留める。
 この状況ではもはやドッペルゲンガー退治の手伝いを妹紅に頼めないだろう。しかし、妹紅が訪ねてきた理由とその希望を叶える事は出来る。最低限これはやっておかなければならない。そして、それが終わった後に改めてドッペルゲンガー退治の手伝いを依頼するべきだろう。何にしてもここで彼女との関係を切ってはいけない。
 その場を立ち去ろうとする妹紅を慌てて追いかけて腕を掴むも引きずられるパチュリーとルビー。そんなパチュリーを迷惑そうに見ながら諦めて足を止める妹紅。その表情には既に怒気は無かったが、口を尖らせて少しいじけたような元気の無い表情をしている。
 妹紅としては、この場を客観的に眺めた時、紅魔館の2人が重傷で倒れており、段取りを間違えて悪者が正義の味方の紅魔館を倒してしまったという構図に見えてとても居心地が悪いのだ。
「咲夜の用事はいいから、貴女の用事だけでも済ませて行って。お願い!」
 喘息持ちのパチュリーは息を乱しながらこちらの身を案じて止まってくれた妹紅に謝意を込めて説得する。
「あいつが、応じるとも思えん。」
「そんな事はないわ。猛省してるし、もし拒否するなら私が無理にでもやらせるわ。」
 吸血鬼以外で唯一咲夜に命令出来る立場にいるパチュリーは、この際職権乱用もやむを得ないと判断する。いや、むしろ職権とはこういう時に行使すべきなのだ。
「・・・日を改めるよ。」
 パチュリーの熱の入った引き留めに、彼女の面目もあるから応じようと思う妹紅だが、咲夜の身体は思った以上にダメージがあるようで、とても今すぐにどうこう出来る状況ではないと判断する妹紅。
 妹紅の視線が背後の咲夜の方を見ている事に気づいたパチュリーは、妹紅が逃げないように手を掴みながら素早く後ろを振り返ってその状況を確かめる。確かに咲夜はおかしな格好のまま嗚咽をあげている状態である。あの様な窮屈な格好で泣いているということは、動かしたくても体が動かない酷い状態だからだろう。しかし、パチュリーは心を鬼にする。
「たとえ骨の1本や2本、内蔵の一つや二つ壊れててもやらせるわ。」
 今の咲夜に甘えは許されない。その話を聞いていた咲夜も自分は大丈夫だと言わんばかりに、身体を賢明に動かしてなんとか上体を起こそうとする。
 パチュリーは厳しく言ったものの、その咲夜の動きを見て思った以上に重傷だと診る。外傷は我慢できたとしても内蔵の損傷が激しく気力でどうにかできる問題ではないのだろう。このまま治療しなければ本当に死んでしまうかもしれない。ここはひとまず妹紅に帰ってもらい、医務室に連れて行くべきだろうか?迷うパチュリー。
「身支度する準備だけでももらえないかしら?それまで私のオフィスでくつろいでて。歓迎するわ。」
 パチュリーは一つの決断をする。妹紅を図書館に招いて時間を稼ぎ、その間に咲夜には自力で復帰してもらうのだ。
 パチュリーは気力が萎えて従順に従っている妹紅の気が変わらないうちに、手を離さず転送ゲートを開いて図書館に導こうとする。
「ここへ。」
 パチュリーに手を引かれ、ルビーから背中を押されて無理矢理魔法陣に連れて行かれる妹紅。妹紅は抵抗する気も失せており、為すがままになっていた。
 ゲートに消える直前にパチュリーは咲夜を見て頷く。時間をかせぐからなるべく早く来るようにという合図を受け取り、パチュリーの気遣いに感謝する咲夜だった。

 パチュリーらの姿が消えると、辺りは静寂に包まれる。
 地平線の無い幻想郷では日の出は博麗神社が建つ東部の山の稜線からしか見る事が出来ない。
 この季節、紅魔館の位置からは昇った太陽は本陣山のやや南から出るように見え、丁度その陽射しが山の端の木々の間から射し込み咲夜と美鈴を暖かく照らす。
 湖から流れてくる冷たい風で紅魔館周辺はひんやりと肌寒いが、陽が射し込んでほんのりと身体の表面が暖かくなる。しかし、同時に湖の湖面も暖められて水蒸気を発し、それが湖から湧き出る冷気で冷やされ霧を発生させすぐに陽射しを遮ってしまう。
 霧が立ちこめるまでの僅かな間に見える幻想的な光景は、息を飲むほどに美しく咲夜はしばし夢の中にいるような心地でそれを見みて気が遠くなる。
「咲夜・・・。」
 そんな今にも気を失いそうな十六夜咲夜は自分を呼ぶ声に我に返り周囲を見渡す。
 自分の名を呼んだのは仰向けに倒れたまま目を開けて空を見ている紅美鈴だった。咲夜は全身に走る激痛に耐え喘ぎながら必死で美鈴の側に這い寄る。
「めーりん!」
「ふふふ、こっぴどくやられましたね。お互いに。」
「しゃべらないで!」
「大丈夫ですよ私は。もう少し経てば立って歩けますから。それより咲夜の体の方が重傷みたいですよ。」
「ごめんなさい・・・めーりん・・・私のせいで・・・。」
「この落とし前は必ず付けさせてもらいますよ。でも、咲夜にはやらなければならない事があるんじゃないですか?」
 そう、今はここでおしゃべりしている場合ではない。しかし、体が思う様に動かない咲夜。
 仰向けに倒れている美鈴を上から覗き込むように見る咲夜の鼻が曲がっている事に気付いた美鈴はクスっと笑って、手を上げて咲夜の鼻に添える。
「綺麗な顔が台無しですね。」
 美鈴はそういって、人差し指と中指の間に咲夜の鼻を強く挟んで強引に真っ直ぐにし、気を注いで代謝を活性化させ元の整った美しい鼻筋に戻す。
 重体の体でそんな無茶をする美鈴に驚いて叱ろうとする咲夜だが、美鈴はそれを無視して咲夜の首の後ろに手を回し引き寄せ、背中に別の腕を回して強引に抱き寄せる。
「ちょ、めーりん!」
「じっとしていなさい咲夜。」
 今の2人の関係は、上司と部下の関係ではなく、出会いそして育んだ親子や姉妹の関係だった。
「や、止めてめーりん!それ以上は本当に死んでしまうわ!」
「こんな事で死ぬほど私は柔ではありませんよ。」
 本意で妖怪になったわけではない美鈴としては、心の中は今でも人間のつもりでおり、妖怪であるこの身を疎ましく思っている。しかし、そんな望んで妖怪になったわけではない美鈴も体が丈夫になって相当な無茶が出来る様になった事は良かったと思っている。人間のままでは正に命懸けでやらなければならない事が簡単にできてしまうからだ。
 美鈴は咲夜をがっちりと腕に押さえながら、その圧迫によって生じた全身に走る痛みに悲鳴を上げる咲夜を無視して、自身の肉体の損傷を回復させていた残りの気を振り絞って可愛い娘に注ぎ込む。
 気を注がれて雷に打たれた様に美鈴の腕の中で痙攣する咲夜。
「ふぅー。」
 大きくため息をついて腕が地面に落ち大の字になるやりとげたと言わんばかりの満面の笑みを浮かべる美鈴。大丈夫とは言ったが、本来自分が回復する分の気を全て咲夜に送ったのである。もはや腕を上げる力もない。
「めーりん!なんて無茶な事を!」
 美鈴の気は、咲夜の自然治癒能力を劇的に向上させ、特に臓器の損傷を回復させ、肉体的なダメージも痛み無く自由に動けるレベルまで回復させることに成功した。
 全快とまではいかないが、不自由なく身体を動かせるようになった咲夜。
「さぁ、行きなさい咲夜。こんなところで油を売っている場合じゃないですよ。」
「いや、めーりん!死なないで!」
 美鈴は全ての力を使い果たしてぐったりと横たわっている。この状態を命の危険と感じた咲夜は美鈴がこのまま死んでしまうのではないかと心配になり、彼女の行けという命令を拒否した。
「こんな事で死ぬわけないでしょう?いい加減にしないと怒りますよ?怒ったら本当に死んでしまうかもしれませんよ?」
 自分の命を盾にして脅しをかけるも、それでも嫌々をして言うことを聞かない咲夜にやれやれとため息をつく美鈴。
「この胸の鼓動をよく聞きなさい。」
 胸に覆い被さる咲夜の髪を優しく撫でながら語りかける美鈴。
「この鼓動が死を迎えようとする者が発する音に聞こえますか?元気ビンビンに動いているじゃないですか?弱くなっているのは妖怪の気、妖気です。でも大地から溢れる生命の力は無限です。こうやって大地に接していると気が自然と沸いてきます。起き上がれるまでの時間が少し長びいただけです。だから・・・。」
 それを聞いて納得したのか、ようやく上体を起こして美鈴から身体を離し、その両手を握る咲夜。
「めーりん・・・。」
 美鈴が言うように彼女の鼓動は今の自分よりも遙かに生命力に満ちている。しかし、頭では美鈴は大丈夫だと分かってはいるものの心配でこの場を去る勇気が出来ない。
 美鈴はそんな咲夜の温もりを心地よく感じながら、意識を自分ではなく妹紅に向けさせる為に、静かに諭すように語り始めた。
「私の知らないところで、咲夜と妹紅さんは何かの約束をしたはずですね?そして咲夜はそれを裏切ってしまった。」
 裏切りについては戦闘中に妹紅が直接口にした言葉であり、この時美鈴は客人を迎える余興のつもりで戦いを挑んだわけだが、自分の知らない因縁が2人に生じていた事をその時初めて知った。
 咲夜はその美鈴の言葉に辛そうに無言で頷いた。
「死ぬ寸前の私と妹紅さんの間に咲夜は割り込んできましたが、咲夜はあの場がどうなっていたか分かっていたのですが?」
 この美鈴の質問に対して咲夜はすぐに意味を理解出来ず困った表情をする。
「はやり何も知らずに無茶をしていたのですね。」
「どういうこと?」
 あの場は妹紅の作りだした炎と熱の灼熱地獄と化しており、人間だけでなく妖怪も一瞬で消し炭になる危険な場所だった。
 美鈴はあの時妹紅自身の口から直接説明された内容をそのまま咲夜に伝えて、咲夜の無事が奇跡のようなものだということを遠回しに伝える。
「え?」
 美鈴のその言葉と妹紅があの時とった行動は、紅魔館の3階の窓から見ただけでは理解できなかった。寝耳に水のように、にわかに信じられない真実を告げられた咲夜は頭が真っ白になる。
「咲夜が姿を見せる瞬間、いえ、恐らく来る事を予測していつでも止める用意をしていたのでしょうね・・・。妹紅さんは咲夜を何故助けたのか・・・理解していますか?」
 頷く咲夜。藍との交信役という役割があり、互いにこれを利用して利益を得る算段だった。
「妹紅さんがここに来た理由は咲夜に会いに来たのですね?それもとても重要な用事があって・・・。」
 更に頷く咲夜。
「それなのに何故こんなことをしてしまったんでしょうね・・・。」
「・・・私は・・・。」
 自分でも何故こんなことをしてしまったのかわからないし、何を言っても言い訳にしかならず、どんな言い訳をしても自分に正義の一欠片もないので、それ以上の言葉が続かない咲夜。
「私は今は妖怪ですが、昔は人間だったからわかります。人間は間違いを犯して、裏切られて、心を入れ替えても、また間違えてしまうのです。それで私は死んだのです。上手く行かない事ばかりですよね。本当は上手く行く選択肢はあったのに、ついつい自分に都合がいい道を選んでしまう。人間とはどうしようもない生き物なのです。」
 自分の事を棚に上げて苦笑いを見せる美鈴。
「・・・。」
「でも、咲夜は私と違って死ななかった。敵にしてしまったはずの妹紅さんからその命を惜しまれた。やっぱり咲夜は特別なんですよ、私と違って・・・。」
 咲夜は首を振って自分は特別な存在などではない、美鈴と同じだと訴える。
「咲夜、よく聞きなさい。藤原妹紅は信じるに値する人物です。17年しか生きていない咲夜には人物を見る目がまだないかもしれません。でも、その咲夜の代わりに私が保障します。私やお嬢様よりも藤原妹紅の言葉を信じなさい。」
 藤原妹紅を過剰な程高く評価する美鈴の言葉に違和感を覚える咲夜。当然である。咲夜にしてみればこの世で最も信頼出来るのが紅美鈴なのだから彼女を差し置いて妹紅を一番に信じる事は出来ない。
 美鈴の言葉を素直に聞こうとするものの、釈然とせず戸惑った表情をする咲夜を見て美鈴は話を続ける。
「身内だからと言ってそれが全て正しいとは限りません。近しいが故に辛い選択を先送りにしてしまったり、可哀相だと思ってきつく叱れない事もある。そして近しいが故に強い愛情は強い憎悪にも変わりやすい。信用するに足りないようなどうでもよい存在に裏切られたとして、心を痛める理由はないでしょう?強く相手も思うからこそ、苦悩が生まれるのです。」
「・・・。」
「咲夜は妹紅さんを裏切ってその信頼を失望に変え、私の生意気な言葉が怒りを殺意に変えさせてしまったのです・・・。なんだか最近幻想郷の様子がおかしい事も実は全部意味があって繋がっていて、恐らく今ここで起こった事も全部繋がっていたんですよね・・・もう少し私がしっかりしていれば・・・。」
 ここで咲夜は妹紅の怒りの本当の理由が分かったような気がした。自分のとった行動は、その時だけの快楽に価値を見出す妖怪など人外の存在がやるような態度であり、大局を動かす側から見ればこんなくだらないことで時間を浪費している場合ではなかったのだ。妹紅はその事にも怒り、そして自分がその大局を動かす側にキャスティングされている自覚がない事にも憤っていたのだ。そう、藤原妹紅は自分を高く評価していたのだ。
 妹紅の来訪の真意を理解し迅速に行動しなければならなかったのに、つくづく自分のとった行動が愚かだったと思い知らされる。
「(・・・まぁ、でも、今日の事は決して無駄ではないと思います。咲夜がひとまわり成長出来たはず・・・。)」
 美鈴は咲夜の後悔という後ろ向きの苦悩の表情から、悔しさとそれを挽回し取り戻したいという前向きな表情に変わっている事に気付き満足する。

 咲夜の心は美鈴から次第に妹紅へと向いてくると、美鈴を見守りたい想いとも鬩ぎ合いこの身を二つに割きたい衝動に駆られる。
 自分は妹紅の期待を裏切った。それは事実。しかし、それは自分に能力が無かったからではなく、自分の置かれている状況に気付いていなかったからだ。もう一度期待をされ役目を与えてくれるなら絶対に失望させないという自信が沸き起こる。もう一度、藤原妹紅に会いたい。会って詫び、もう一度自分に役目を与えて欲しい!
 咲夜の中に沸々とした熱い思いが芽生え始めたと同時に心が激しく動き始め、その初めての精神状態に戸惑い動揺する。
 対等な友人と呼べる人間が一人もいない咲夜は、化け物しかいない紅魔館で人間としての自分を捨て常に緊張感を持って業務にあたり、恩人でり親ともいえる唯一心を開いている美鈴に対しても、周囲から舐められない様にするため普段は呼び捨てで命令するという毎日を送り、人間らしい心を日々すり減らしていた。
 そうしたストレスをスペルカード戦などではらしていくうちに、いつしか妖怪と同じ精神構造になっていく。これは、人間である博麗霊夢や霧雨魔理沙も同じで、人間社会に依存しない独立した生活習慣を送るうちに社会性がなくなり人間同士馴染まない、馴染めない存在になってしまうのだ。
 十六夜咲夜もまたそうした人間としての心を失いつつあり、妖者に堕ちる下り坂をゆっくりとではあるが確実に下っている状態だった。美鈴はそれを理解して心配はするものの、咲夜に課せられた運命の成就の為には彼女は引き続き吸血鬼の僕でなければならない。だから、どうすることも出来なかった。
 予言書は基本的にレミリア・スカーレットに関しての事だけで、他の者の行く末についてその結末は何も記されていない。予言書通り、つまりレミリア・スカーレットがハッピーエンドを迎えたとして、妹のフランドールや、咲夜やパチュリーといった紅魔館ファミリーが同じハッピーエンドになるとは限らない。主が幸福なら僕がどんな結果になろうとそれに満足すべきであるという考え方もあるが、美鈴としてはそこまで深く物事は考えていない。自分が必要とされ、守りたい人がいる。美鈴はそれだけで充分だった。

 純粋な妖怪は自分で決めた事と結果に関しては責任を持ち、結果に対して後悔や罪悪感は基本的に持たない。持つとするならその妖怪にとっては非常に大きな問題で、必ず決着を付けようとする。
 一方人間は、社会という枠組みでしか生きていけないことを意識し、規範に沿って行動する。社会性がなくなると博麗霊夢や霧雨魔理沙の様に単独で行動する事を望むようになり、次第に妖怪化していく。当然、罪悪感も希薄になっていく。罪悪感が無くなればもはや妖怪であり人間ではなくなるのだ。
 紅魔館に入ってからの十六夜咲夜は無駄な殺生はしないまでも自衛か命令による殺人にはなんら罪悪感は無く、一応人間という種族でくくられているものの、周囲からは十六夜咲夜は吸血鬼の忠実な従者という肩書きの人外の生物として認識されている。そして、咲夜の美鈴に対する信頼と依存心は、人間としてのものではなく恩人に対して無限の信頼を差し出す妖怪特有の行動とほとんど同じなのである。
 その冷徹な人の皮を被った魔性の生き物十六夜咲夜は、藤原妹紅という本物の悪の極みを目の当たりにして、ようやく自分の身の丈を知り人間である事に気付いた。
 人としての罪悪感と、従者としての使命感、そして大怪我を負う恩人を守りたい気持ちと恩人の命令を聞かなければならないという板挟みにあって咲夜は激しく心を悩ましはじめている。
 それは普段見せない情けない顔とオロオロとする仕草となって表面化し、そんな咲夜を見て美鈴は楽しそうに微笑んだ。

 咲夜は初めての心の動揺に激しく戸惑い、無意識にしている呼吸を忘れ頭で考えながら思い出しながら深呼吸する。
 複数の事を時間を止めながらほぼ同時に進める事は咲夜にとって簡単な作業だった。しかし、今自分がしなければならない事は機械的にこなす作業ではなく、心からのお詫びとそして感謝の意であり、それは能力に頼らない一人の人間としての誠意であるべき事と考えていた。
 今までこんなことは一度も考えた事は無かった。自身の行動に対して、それが相手に失礼になるかも知れないだなどと思った事など一度もなかった。
 レミリアに対しても、ただ完璧に仕事をこなして、その対価として賞賛に浴する事に快感を覚えていただけだった。ようするに自分の事しか考えていなかったのだ。
 風邪を引かないようになどと心配しても、殺しても死なない吸血鬼の健康の心配などそもそも不要で、それらの表向きの気遣いも儀礼でしかないのだ。ただ、気遣う態度を忘れなければ、それは評価される。だから繰り返しやるだけの事なのだ。

 十六夜咲夜にとっての世界は美鈴と吸血鬼姉妹、そしてパチュリーなどの紅魔館の要人を中心とした非常に狭い世界だけだった。
 異変に出向いて解決屋の真似をしてライバルと競ったり、里に出て買い物をしたりなど、それなりに外部との接触はあったが、それはどれも機械的な作業と同じで、咲夜自身は紅魔館の要人以外に心を向ける事は一度もなかった。
 やる気があっても機会が無いということではなく、機会があってもやる気が無いだけで、外部との干渉に何ら意味を持っていなかったのだ。
 最初に妹紅を招いて協力を仰ごうとしていたが、これも機械的な完璧な型通りの礼を尽くせばそれで相手も満足するだろうという打算による演出で、真に妹紅を客として招くつもりなどさらさらなかった。
 だからこそ思い通りに進む状況に失敗のイメージが湧かず、結果として無礼となっても巫女を相手にするのと同じく小馬鹿にあしらっても構わないと思い込んでいた。
 本来なら盟友であり、礼を欠いてはいけない存在で、礼を欠けばそれは深刻な敵対関係に発展する事だった。
 スペルカードルールという安易な闘争解決法が推奨され、本物の闘争と闘争ごっこの区別がつきづらくなったという時世も手伝い咲夜は全てを安易に考えてしまっていたのだ。
 どうすれば許してもらえるか、咲夜はそれを必死に考えた。儀礼的に頭を下げれば済む問題かもしれない。今までならそれで済ませていただろう。しかし、不思議な事に今の咲夜はそれだけでは駄目だという想いが湧き上がって止める事が出来なくなっていた。
 自分に何か出来る事はないか?思念界との交信は当然として、それ以外に自分が出来る事は何か?混乱する頭で必死に考え探るも、何も思いつかない自分に愕然とする。
 そもそも誰かに本気で詫びた経験もなく、それらを予見して予習する必要すらなかった。

 咲夜の今にも泣き出しそうな表情を見て良い兆候だと美鈴は目を細めて喜び、それが実際に声になって表に出る。
 美鈴の吹き出す声に反応して、懇願するような目を向ける咲夜。
「めーりん・・・私どうすれば・・・。」
「妹紅さんは絶対咲夜を許しませんよ。」
「・・・。」
「でも、妹紅さんはまだ咲夜を信用しています。犯した罪とその人の能力とは別の問題です。咲夜が妹紅さんに対し常に信頼に足る行動を取り続けてさえいれば、必ず許して貰えます。」
 犯した罪の大きさは閻魔の様な第三者が決めるものではなく、自分が決める事である。人を殺しても何とも思わない者には殺人に罪を感じないが、些細な嘘に一生苦しんで罪を背負い続ける者もいる。全ては当人の心次第である。
 幻想郷という日常的に争いが行われる妖怪主体の世界において、相手の力量を試すような、つまり今回の咲夜が行った様な行為自体は妖怪の尺度でいえばなんら問題のない行為といえる。
 咲夜が妖怪としての尺度で物を考えているなら罪悪感など感じる必要はない。しかし、今の咲夜は人間の尺度で物事を判断している。そして、人間の尺度で物を考える事が咲夜にとって初めての感覚だった。
 非礼を詫びる時、償う時、それを戒めにする際には、例えば謝罪の手紙、贈り物、髪の切り丸坊主にするなど一定の態度をとったりする。しかし、十六夜咲夜は、その名前を与えられる以前からまともな人間社会の中で生活をした事がないのである。唯一、紅美鈴との交友が咲夜にとって人間性を養えた場所となったが、幼少時の基本的な躾などは施されておらず、美鈴もまたそこまでの躾が出来る程真っ当な人間生活は送っていなかった。生き残る力と、無駄に敵を作らない儀礼だけがこの世界の全てで、美鈴が教えられるのはそこまでだけだった。

 力の無い幼少時代の咲夜は、白い大地の赤い国の主に要人の暗殺を行う特殊機関で機械的に育てられ、大人の言われた通りに訓練を施されてきた。
 両親などの存在は不明で、本名すら知らずコードネームで識別された。訓練は厳しかったが生活自体は国が痩せているにもかかわず裕福な生活が出来、腹が満たされる事を第一に考え幼い咲夜はただひたすら大人に従いエージェントとして将来を有望視された。
 咲夜に時を止められる能力がある事が判明すると、この力を軍用に転用する案が持ち上がり、咲夜のクローン計画が進められ、能力が遺伝によって子孫に及ぶものなのかなど、咲夜は人体実験のモルモットにされた。
 エージェントとして育てられた時代は幼少ながらも好待遇で子供ながらにもその国の人間として国を守る存在として働く事に意義を見出していた。それはもちろん大人達の刷り込みの結果であるが、それでも咲夜は偽りの幸福に真の幸福を得ていた。
 それが一転して悲惨な人体実験にさらされ、時を止めて逃げられないように培養カプセルの中で強力な薬液漬けにされていたのである。
 咲夜はそこから逃げ出したい一心で、動けない体のまま自身の将来の理想的な姿を想像しながら自力脱出を夢見、それを諦めると誰かが自分を助けてくれる事を熱望し、さらに、それが叶わなければ誰かに殺して欲しいと切望するようになった。
 咲夜が幻想郷入りしたのはその時で、当初幻想郷を死後の世界だと思いつつも飢えの苦しみから逃れる為に訓練の成果をいかんなく発揮し、殺し奪い空腹を満たして生き延びた。
 9歳で幻想郷入りした人間であることを忘れた小さなエージェントは、美鈴と出会って人生が変わり、その美鈴の推薦で紅魔館のメイドに抜擢され後は頭角を表して僅か数年でメイド長に抜擢された。


 情けない顔の咲夜が美鈴に助けを求めている。
 しばらくそんな咲夜を楽しんだ美鈴は、気が充填されて身体の自由が利き始める。
 元気が戻ってきた美鈴はそんな咲夜の頭を両手で抱え込みまた自分の胸に抱き寄せる。咲夜はまた気を注がれると思って驚いてもがき抗議する。
「ま、また!私はもう大丈夫だから、もうやめて!」
「だったら早く行きなさい。恩人を待たせてるような不義はしてはいけません。」
「でも・・・。」
「どの面下げていけばいいかわからないのですね?でも咲夜にはその面しかないでしょう?今しなければならない事は客を待たせない事です。でも、2、3発ぶん殴られる覚悟だけはしていきなさい。」
 そう勇気付けニヤリとする美鈴。
「・・・そうね。今はそれしかないわね。」
 腹をくくったかの様に、表情が引き締まる咲夜。
「妹紅さんは咲夜を許さないでしょう。一生憎み続けるかもしれません。でも、だからといって妹紅さんを恨み返すのは筋違いです。どんなに憎まれても常に誠意を持って対応するのですよ。」
 頷く咲夜を見て美鈴は手を離す。解放された咲夜は美鈴の頬にキスをしてすぐに視界から消えた。
「妹様の件といい、咲夜の件といい、妹紅さんには感謝しかありませんね・・・。」
 そう言って美鈴は元気になった身体を起こそうと、背筋の力だけで跳び起きようとして失敗する。そこまで元気に動けるようになるには、もう少し時間が必要である。
 これほどまでにボロボロにされたにもかかわらず、美鈴の顔は幸せそうな表情をしていた。


 頭の中がもやもやする。振り上げた拳の下ろし所を探しているうちに何故拳を振り上げたのかわからなくなってくる。どうしてこんな事になってしまったのか自分でも分からない。いや、分かるのだが、もっとやりようがあったのではないかと自身の無能が恨めしく後悔の念しか出てこない。まるで自分ではない自分が勝手に悪さをしてその罪を元の自分に擦り付けられたような理不尽な思いである。
 藤原妹紅はパチュリー・ノーレッジのオフィス(図書館)に案内され、暗くて見えない天井の闇をぼーっと眺めながら悶々としていた。

 恐らくは長方形だろうその部屋の狭い方の壁面に大きな掛け時計があり、妹紅はその時計の正面に立って上を見上げていた。恐らくという表現になった理由は、もう片方の向こう側の壁面が暗くて見えないからである。
 時計の掛かっている壁面付近は少し広いスペースが確保されており、むき出しの石床に正方形の魔法陣の描かれた大きな絨毯が敷かれており、先程外から中に移動した際にここに出現した。
 魔法陣のある側のスペース以外全てが本棚で埋まっているような大きな部屋だが、唯一変化があるのが時計を正面に左側、3メートル程の位置に突き出した小さなバルコニーのような踊り場があり、それは図書館の建物構造とは明らかに年代が違う後から取りつけた新しい階段が降りている。恐らく図書館が紅魔館の地下に移設した際に、双方の施設を誰でも自由に行き来出来るよう作ったものだろう。
 時計の真下に主の体躯に不釣り合いな大きな机があるが、それがパチュリーの仕事場ということだろう。椅子は図書館全体を見渡せるように壁を背にしており、背後に人一人通れる程度しか空間がない。机の上は本の山が林立し広い机も作業できるスペースは椅子の前くらいにしかない程散らかっている。どこかでこんな机を見た事があるような気がしたが、人間の魔法使い霧雨魔理沙の机も身体に似合わないほど大きく程良く散らかっていた事を思い出し、魔法使いはそういうものなのだろうかとつい勘ぐってしまう。かく言う自分も、かつて妖術使いの郷で実質トップとして働いていた時は、あてがわれた自分の部屋も似たような状態で、こういうのは嫌いではなくむしろ安心する。魔理沙同様にパチュリーに対しても親近感が湧く妹紅である。

 妹紅が案内された場所は客間ではなく、机の横にある丸い質素なテーブルで、ルビーがそのテーブルに不釣り合いな立派なイスを持って来て妹紅を座らせる。そしてパチュリーは自分の椅子をひーひー言いながら重そうに持ってきて妹紅の正面に座った。
「もてなすとは言ったけど、ここは本来そういう場所じゃなくて・・・。」
 机の上はおろか、その周囲にも本の山がまるで賽の河原の積み石の様に林立している。早い話散らかった汚い部屋でとても客を招き入れる場所ではないということである。パチュリーとしは妹紅を引き留める為に必死だったので、部屋がどうなっていたかを今気付いて赤面している状態である。妹紅としては咲夜が復帰までの時間稼ぎだと言う事は最初から承知していたので気遣いは無用だった。

 ヴワル監獄図書館と呼ばれていた時代には、このような丸いテーブルはなく、魅魔と歴代パチュリー2人だけの小さなワインバーがあった。紅魔館と合併してからはそうした施設は全て館側に移り図書館は完全な仕事場になった。紅魔館側に一応自分の部屋があてがわれているが、基本的にあまり睡眠を取らない、取る必要がないパチュリーは大半の時間をここで過ごす。
 紅霧異変後外部との交流がなされるようになってから、時折招かれざる客が来るようになって、咲夜がいらない気を利かせて勝手にお茶が出来る環境を整えてしまったのが、この丸テーブルである。
「いや、いいよこれで。」
 申し訳なさそうにしているパチュリーだったが、妹紅としては客間に通されるより、仕事場の方が落ち着きむしろ都合がいいし、事前に魔理沙の部屋を経験して魔法使いの部屋には予め免疫があったので特に抵抗感もない。
「今日は本当にご免なさい。」
「いや、こっちこそ、あの門番をマジで殺すところだった・・・悪かった。」
「殺されても仕方がない事だわ。」
「私はもう誰も殺す気はなかった。不死人狩りの時もだし、そう思っていたからフランドールも殺さない方法で対処しようとしてあーしたんだ。それに・・・。」
「それに?」
「殺していたら、今こうしてあんたと話してはいないだろ?」
 美鈴が死ぬという実感がないパチュリーとしては、生死の問題を軽く口にしているが、よく考えてみるともし美鈴が目の前で殺されるのを見たら、こうして妹紅と対話出来る精神状態にはなっていないと思い至る。いや、妹紅が言いたいのはそれではなく、そもそも美鈴が死んでいる状況は、自分も死んでいるということだと理解し背筋に冷たいものが走る。
「それは確かに・・・そうかもしれないけど・・・止めましょう、その話は。」

 その後、ルビーが淹れた紅茶と茶菓子を振る舞われた妹紅は、パチュリーが取り出した水晶球に映る美鈴と咲夜のやりとりを見る事になり、紅魔館の意外な相関関係を知った。
東方不死死 第48章 「不義の報い」


 いつになく大量の冷気を吐き出す霧の湖。湖面付近の気温はこれから暑くなる時節にもかかわらず、氷点下近くまで冷えており、寒さの好きな氷の妖精達が水を得た魚の様に元気に跳び回って、奇妙な軌跡の模様を描いている。
 ここ数日、眠るように活動を止めていた霧の湖はまた活動を活発化させていた。
 一定の周期で冷気を吐き出す霧の湖は、水面の水蒸気を冷やして霧に替え、それを繰り返すことで常に湖周辺は霧に覆われている。
 その霧が南からゆるく流れる風に乗って湖畔に建つ紅魔館を白いベールに覆い隠す。そして、幻想郷における重要な夜が明けた朝、藤原妹紅は霧の紅魔館の前にたたずんでいた。

 藤原妹紅は紅魔館の正門前で門番の紅美鈴と対峙していた。
「十六夜咲夜に用がある。会わせてくれないか?」
 ポケットに手を突っ込んで背筋を伸ばして立つ妹紅は、紅魔館の門の前で仁王立ちしている紅美鈴に不機嫌そうに申し出る。何故妹紅が不機嫌かと言えば、訪ねてきた妹紅の正面で強烈な闘志をむき出しにして、まるでこれから天王山にでも臨むかのような面構えでこちらを睨み付けているからである。来客に対してする態度ではないが、不審者と見られたのだろうか?
 妹紅は言い方や態度が悪くて門番の機嫌を損ねたのだろうか?
「(何なんだこいつ・・・。)」
 八雲紫の妹で思念体となって妹紅に中に存在する藍と交信する為に、十六夜咲夜の協力を得ようとここに来ただけなのに、どうしてこうなってしまったのだろうか?これは一戦交えなければならない雰囲気である。
 東洋系の顔だが、整った精悍な顔立ちをしており背も高いかなりの美形。髪の色は鮮やかな橙色に近い朱色で鶯色の衣服とのコントラストが映える。既視感のあるもみ上げの三つ編を見て、十六夜咲夜も同じ様なところを同じように編んでいたことを思い出す。紅魔館に仕える者はこうする規則でもあるのだろうか?
 バランスの取れた理想的な体型をしており、見るからに武術に長けている武闘派妖怪という佇まいである。激しく動くのには適さないと感じる丈が長く裾が狭い窮屈そうなスカートを履いているのが意外に見える。しかし、よく見ると腰の横で生地が割れており、脚は自由に動かせるようだ。
「おい?聞こえないのか?」
 問いかけても返事が無いので途方に暮れる妹紅。

 咲夜と内通している事、魅魔らの企みについて館の主であるレミリア・スカーレットに現時点では知られたくない妹紅としては、今朝方発生した紅魔館付近の濃い霧を見て、今なら気付かれずに館に近付いて咲夜とコンタクトが取れるのではないかと判断してここに来たわけである。
 紅魔館の主要人物の一人と思われる門番の妖怪にも当然それらの話は通っていると思っていたが、どうやらその予想は外れたようだ。
 なるべく静かに行動して事を穏便に済ませたい妹紅だが、門番はそれを許してくれそうにもない。もし、ここで一戦交える事になれば、館外の戦闘に気が付いて館の主も飛び出して来るだろう。
 魅魔の企みに応じた紅魔館のメイド長を務める十六夜咲夜もその辺は心得ているはずなのに、何故この門番を制止させないのかわからない。或いは取引の契約破棄という意思表示だろうか?いや、それはあり得ない。ここで契約を破棄すれば、咲夜は一生ドッペルゲンガーに悩まされる事になるのだから。もし、これが裏切りなら然るべき報いを与えなければならないだろう。

「(・・・見られているな・・・。)」
 妹紅は霧でシルエットしか見えない門番の後ろの紅魔館に目をやり、何者かの視線がこの状況を監視している事に気付く。
「なるほど、そういうことか。」
 十六夜咲夜は、門番をけしかけてこちらの実力を確かめようとしているのだろう。妹紅はそう確信した。
 魔理沙の家で会った時はドッペルゲンガーに遭遇して、そのショックからか生気が失われていた顔をしていたが、今は鋭気が回復して本来の姿に戻ったということだろう。
 咲夜の立場を考えれば、妹紅らの前で無様な姿を晒した手前、少しでも気概を見せて汚名を返上したいという思いがあってもおかしくはない。というより、そう思うくらいでないと吸血鬼の従者は務まらないのだろう。
 十六夜咲夜とは不死人狩りにおける戦闘が初対面で、吸血鬼の問題に関しても妹紅ではなく魅魔と咲夜の間の契約のようなもので、妹紅はこの件に関しては第三者という立場をとった。
 ドッペルゲンガーを倒す手伝いをする代わりに藍と交信する為に手間を取らせる約束で妹紅と咲夜は繋がってはいるが、これはお互いが手間を一つ出し合う取引であって、信頼関係を築こうとする思惑からの投資作業ではない。
 先日の咲夜らとの会見は、風見幽香に吸血鬼に深く関わるなと助言されていた後の事で、魅魔・パチュリー・咲夜らが同じ目的の為に良い関係を築こうとしている最中も一歩引いた位置にいた妹紅。その時は関わるなと言ってその通りにしていたが、昨夜は一転して全てを引き受けろと言った幽香。状況が変わったのだから仕方がないが、あの時彼女達の企みに魅魔と共に荷担する盟約を結んでいれば、この門番も、そして咲夜も歓迎してくれていたかもしれない。中々上手くいかないものである。

 妹紅としては、この異変に対して若干第三者気分でいたが、今は慧音を生かす為に幽香の言葉通り全てを思いのままに掌握しようとして積極的に動こうと決意した時である。その手始めとして、紫のスキマの巻物の有効利用を考え、その秘密に迫る為、紫の肉体を一度掌握した藍と交信し、スキマを開く座標情報を咲夜を経由して聞き出そうとしたのである。
 なるべく音便に事を済ませたい妹紅の思いとは裏腹に門番はやる気満々である。門番との戦闘は避けたいところであるが、それが叶いそうにない。
 この状況は十六夜咲夜が門番に命じてそうさせているのか、門番が勝手に始めた事かは現時点で何とも言えないが、とにかくここで戦闘が起こる事を歓迎している事に間違いはないだろう。
 妹紅の最大の懸念は館の主レミリア・スカーレットの存在である。ここで戦闘をすれば絶対に彼女に気付かれるだろう。十六夜咲夜は、レミリアに気付かせるためにこような茶番を演出しているのだろうか?それとも、レミリアに気付かれない状況が確保されている上での今の状況なのだろうか?例えば吸血鬼が紅魔館に不在といったように・・・。
 咲夜とて馬鹿ではないだろう。この異変を台無しにするような愚は冒さないはずである。妹紅は具体的にどうしたのかは分からないが、レミリアの件は解決済みの問題と判断し、ここでの戦闘を致し方なしと諦める事にした。

 妹紅はゆっくりと東から西に流れる霧の中で時々見える紅魔館の窓からこちらを伺う十六夜咲夜の気配に、一度視線を向け、何も反応がない事を確かめてから門番に向き直る。
「どうやらその気になったみたいですね。」
 妹紅の表情が変わったのを見て紅美鈴は、闘志を出しまくって挑発した甲斐があったとニンマリする。
 この時美鈴は咲夜に命じられて妹紅と交戦しようとしたわけではなく、強者とみて自発的に手合わせを望み臨戦態勢に入っただけである。
 この闘志むき出しの態度は妹紅に対する挑発ではなく、上司である十六夜咲夜に対する交戦許可を求めるアピールだった。これだけアピールしても咲夜が何も言ってこないという事は、戦闘許可が出たと判断していいだろう。久々の強敵に胸が躍る、咲夜の真意にまだ気付いていない美鈴だった。

「まさか向こうから訪ねてくるとは・・・。」
 紅魔館の窓から外の様子を窺うメイドが一人。紅魔館の全てを取り仕切るメイド長十六夜咲夜である。
 今現在、スカーレット姉妹は休眠中で、吸血鬼とはいっても10歳程度の子供である事に変わりはなく、1日に10時間以上は睡眠を取る必要があった。
 本来吸血鬼は夜行性だが、面白い事件は人間が活動し妖怪達が寝静まる昼間に起こる事が多く、退屈な日々を送るレミリア・スカーレットは事件や異変を体験しようと苦手な日中に活動する事もあり、丸一日起きていられない吸血鬼姉妹は昼寝て夜活動する日と夜寝て昼活動する日を定期的にシフトしている。そのシフトチェンジの際に強制的に活動を停止させて、体内時間のズレによる時差ボケを起こさないようにパチュリー・ノーレッジの魔法によって強制停止させているのである。
 そのスカーレット姉妹は、昨日まで昼型のタイムスケジュールだったが、今日から夜型のタイムスケジュールに変更したため、日の出の時間であるつい先程休止させたばかりなのである。起こすのは夕方になるだろう。
 咲夜はレミリアが完全停止する時間を利用して藤原妹紅と接触しドッペルゲンガーの退治の協力依頼をするつもりで、彼女をもてなす準備など今日一日の段取りを組んでいたが、思いも掛けず向こうから出向いてくれたというわけである。これも運命の導きという事だろうか?

 咲夜から見る藤原妹紅の印象は不死人狩りでは荒々しく圧倒的な火力で力攻めしてくる力に頼り思慮に欠けたタイプに見えたが、先日魔理沙の家で会った時には大人しく知的な雰囲気を持っていた。フランドール・スカーレットを大人しくさせたのも彼女によるもので、咲夜としては藤原妹紅の人物像がいまいち把握出来ないでいる。
 パチュリーの師である魅魔の関連で紅魔館に対してやや友好的な立ち位置にあると思われるが、完全な味方というわけではなく中立の立場を取ると思われる。いずれ敵対する可能性もありその時の為に妹紅の実力をしっかりと把握しておきたいという心情がどこかに存在していた。そして、それは正に今ではないかと直感したのだ。
 門番と突発的に起こった戦闘ということにしておけば、門番の非礼を咎めるるだけで済むはずだと、既にこちらの意図を見抜かれている事に気付いていない咲夜。
「さて、お手並み拝見・・・といきましょうか。」
 館の上階は霧が薄く、上から下は比較的見通しが良い。小さな窓から門前の二人の様子を楽しそうに見る目の前の利に目がくらむ咲夜。
 気力が充実し、悩みの種であるドッペルゲンガーを倒せる算段も付き、そのキーマンが向こうから来てくれた。この戦闘もまた歓迎の宴の余興と思えばいい。
 昨晩の食事の際、レミリア・スカーレットが活動時間のシフトを希望した時からドッペルゲンガー退治の計画を起こそうと目論んでいた。そして主が寝ている間、客人として藤原妹紅を招くつもりでいた。
 しかし今、何故か客人が招く前に現れた。何か良い流れが自分に来ていると思わずにはいられない。
 余りにも上手く進む状況に、全てが思いのままに捗るという錯覚に陥った咲夜は、藤原妹紅と交わした互いの協力関係を軽視し礼を失した。
 藤原妹紅の実力を確かめるチャンスとみてこのような行動に出てしまった十六夜咲夜は、この数分後に生涯最悪の罪を犯して痛烈な罰を受ける事になる。


「いざ、尋常に勝負!」
 仁王立ちの姿勢から左足と右手を上げる何かのポーズを取る門番。妹紅はそれを尻目に、咲夜のこの愚挙にどう落とし前をつけさせるか考える。一度契約した相手にこのような態度を取る事は、幻想郷や紅魔館のルールはともかくとして妹紅のルールの中に許せる道理がない。自分の身の丈を考えず執拗にちょっかいを出す躾の悪い犬同然の咲夜の行動にはそれなりの報いが必要である。
「来な、雑魚め。」
 この台詞は門番ではなくメイド長に言った言葉である。
 妹紅の冷ややかな、本来咲夜に向ける言葉と視線を浴び、明らかに下に見られた紅美鈴。雑魚と呼んだ事を後悔させてやると激しい怒りを純粋な闘志に換え燃え上がらせる。
 挑発に乗って相手の術中にはまるほど愚かではない美鈴は、両の脇を締めて拳を低く構え冷静にかつ大胆に突進する。妹紅はポケットに手を突っ込んだまま低い位置にある美鈴の頭に前蹴りで牽制するが、突進のスピードを数段上げた美鈴は、跳躍して膝を突きだし妹紅の顔面を襲う。
 前蹴りを空振って慌てて仰け反ってその攻撃をかわした妹紅は、残像を残して目の前から消える当たれば即死の攻撃に肝を冷やしつつ、相手がこちらが不死身だと知って手加減無しの全力で来ている事を理解する。
「(くそ!速えぇ!)」
 そのスピードとパワーに度肝を抜かれ、試合ではなく殺し合いだと理解する妹紅は、スイッチが切り替わり戦闘態勢になる。
「貴女も手加減無しで来て構いませんよ。じゃないと、雑魚に足元すくわれますよ。」
 挨拶代わりの初撃をかわされ妹紅を飛び越えた美鈴は、攻撃を一旦そこで切って互いに向き直り、構えた右手でちょいちょいと手招きして挑発する。
 正式な武術の型を持っていると言う事は、この妖怪がかつては人間の『前人妖怪』の可能性が高い。
 この門番の使っている武術は、妖力を呼吸と気を操作する一連のポーズを使って調整し、身体能力を飛躍的に向上させている様に見える。こうした技術は元々力の無い人間が力を増加させるために編み出したもので、最初から強い純粋な妖怪には見られない型である。
 彼女が前人妖怪なら妖怪になる為に何かを得て何かを失った可能性がある。これを捨得能力と言うが、そこに妖怪としての特徴や長所と弱点が見えてくるはずである。妹紅は強い妖怪と相対する時の様に、冷静に相手を分析しはじめていた。

 妹紅は美鈴の挑発には乗らず、見下した表情のまま分析を始める。この時の妹紅は紅美鈴が武器や魔法といった攻撃から無敵の身体を得た代償に、打撃に対する極度な脆弱性を負ってしまっている特殊な防御特性に気付いていない。
 体術を武器に闘う美鈴はその脆弱性を鍛錬と技術、気のコントロールでカバー出来るため、一定レベルまでは弱点を克服している。しかし、無防備なところに一撃貰えばかなり危険であることに変わりは無い。そんな美鈴にとっては攻撃こそが最大の防御であり、打ち合うという概念を持たない超攻撃的な型であるため全ての攻撃が相手の息の根を止める恐るべき必殺の一撃となる。
 美鈴は素早い出足で連続攻撃繰り出してくる。妹紅は必死に避けながら相手の力量を見る。カウンターを取ろうとするものの、明らかに向こうのスピードが速く、かえって大きな隙を与えて危険である。
 それにしても全く放出系の技を出して来ず、全て打撃による攻撃だけである。妖怪なので当然妖気はあるが、それらが全て身体能力の強化に回されているようである。体術が好きでそうしているのか、あるいは体術しかできないのか。この見極めが美鈴の弱点を暴く鍵になると目星を付ける妹紅。

 2、3発いい攻撃を貰い立て直す為に距離をとろうとする妹紅を執拗に追い回す美鈴。しかし、こちらの攻撃時間が長くなりリズムが単調になった事でカウンターを合わせられやすくなると察知した美鈴は一度間合いを取り利き手を逆にする型に換えてリズムを変える。思わず巧いと感嘆する妹紅だが、当然それは表情に出さない。
 見下した表情を変えない妹紅に対して美鈴はその表情を焦りにかえてやろうと再び突進する。利き手が変わって攻撃の出所が全く変わった美鈴の攻撃になす術なく回避一辺倒になる妹紅。
 唸りを上げる拳や蹴りの攻撃は、何れも当たれば致命傷になる威力である。にもかかわらず決して大振りにならずカウンターや反撃の隙が見えない。
 ポケットに手を入れたままかわしていく妹紅は、これでも美鈴がまだ本気ではない事を知りながら情報収集の為相手に攻めさせる。妹紅にとってこのポケットに手を入れるスタイルは、決して手を抜いているわけではなく、これが妹紅の一番動きやすく、カウンターを入れやすい型なのである。妹紅は初めから全力で避けており、余裕は全く無い。
「逃げているだけでは、私は倒せませんよ!」
 猛攻をかわし続ける別に勝つ気はない妹紅だが、その逃げる妹紅の癖も見切った美鈴の動きがどんどん良くなっていく。

「(そろそろか・・・。)」
 妹紅は美鈴の調子が上がってきた事を察知すると、ポケットから手を抜いて身構え、表情を見下した目から狩人の目に変え、流れのリズムを操作してみる。
「そうそう、その顔です。」
 妹紅の擬態である変化に気付かず満足げな表情をする美鈴。この動作は油断を引き出すためだけの行動ではなく、戦いの組み立てを変えるためのものである。
「(組み手の技術だけならこいつの方がはるかに上か・・・。)」
 腕力やスピードは常に相手が上の対妖怪戦を、妖の狩人と呼ばれていた時代から永遠亭まで戦いを続けている妹紅にとって、相手が強い状況で戦う事が当たり前になっている。
 久し振りに狩人の血が騒ぐ妹紅は冷静に相手を分析し、体術だけの勝負で勝ち目が無い事を知ると同時に何か別の攻略方法を模索しはじめる。
「次は貴女の番ですよ!」
 来いと手招きする美鈴に妹紅はここは素直に応じて突進する。カウンターの回し蹴りが唸りを上げて頭上に襲い掛かり、寸でのところで頭を下げてかわす妹紅。その時美鈴の脚が妹紅の髪の毛に巻き込まれる。
「!」
 妹紅はその時おかしな体験をする。髪の毛が美鈴の脚を避けるように勝手に動き、何も無い空間を空振りするように、抵抗なく回し蹴りが宙を切ったのである。
 髪の毛の束を妖術で束ねているのでそこを通過する脚のスピードが減衰することなく通過するわけがない。普通なら切り裂かれるか絡まるかするはずである。
 美鈴が妖術や魔術といった攻撃を完全に無効化する事を知らない妹紅は、ここに強い興味を持つ。
「(何か細工があるのか?)」
 何か妖術を使ったのだろうか?いや、彼女はそれらしきものは使っていない。疑問を顔に出さず分析する妹紅。
 分析に思考をとられた妹紅は、空振りした美鈴の回し蹴りの大きな隙に吸い寄せられる様に迂闊にもそのまま懐に飛び込んでしまう。
「隙あり!」
 妹紅は右の拳を下から突き上げ、回転して背を向けた美鈴の背後に攻撃しようとしたが、美鈴はそれをチャンスと見て大きな声を上げて、背後に妹紅をおいたまま見ずに、脇を締めてそのまま両の肘を後ろに突きだし身体ごと妹紅にぶつける。
 一瞬思考に気を取られて迂闊に飛び込んだ妹紅は、予測になかった美鈴の反撃をかわす事が出来ず、顔面に肘を喰らって吹き飛ぶ。
 5メートル以上飛ばされた妹紅は、粉々に砕けた顔半分を修復しつつ着地して態勢を立て直そうと顔を上げるが、そこに間合いを詰めた美鈴の遠心力を効かせた鋼鉄のハンマーの様な前宙返りの踵落としが妹紅の頭部めがけて落ちてくる。
 妹紅は避けられないと判断して咄嗟に両腕を交差させて十字防御で頭部を守るが、強烈なその一撃に両腕が爪楊枝の様に簡単に折れ砕けてダメージが頭部にまで貫通する。視界がぐにゃりと歪む。続けてもう片方の脚の踵がトドメとばかりにガードの崩れた妹紅の頭部を完璧に捉える。
 腕の骨と頭蓋の砕ける音、そして頭部の内部組織の一部が潰れる鈍い音が鼓膜の奥で反響し、目から火花が飛ぶ妹紅。
 攻撃が一瞬見え頭部の著しい損傷を予め予測できた為、喰らう瞬間から回復させる事が出来た妹紅は即死を免れる。
 半ば捨て身の攻撃だった美鈴は、勢い余って妹紅に覆いかぶさる様に身体を預け、どさっと折り重なって2人は地面に倒れる。
 衝撃で半分意識が飛んだ妹紅は霞んだ視界のまま頭で考えるよりも先に身体が動き、上に乗っている美鈴を追い払おうと無意識に炎を身に纏う。美鈴はその炎に対して身体を横にコロコロと地面を転げてゆっくり慌てず炎から逃れる。
 とりあえず頭の損傷を回復した妹紅は次の攻撃を警戒し本能的に身構える。しかし、美鈴は向かってこない。
「驚きました。あれを喰らって生きてるなんて・・・貴女本当に人間ですか?」
 確実に仕留めたと思った美鈴。不死人と言っても一応死ぬわけで、思惑通りならここで妹紅はリザレクションしていたはずであり、以前の妹紅なら間違いなく死んでいた。
 美鈴はそれを一本取った事にして後は土下座でもして非礼を詫びようとしていたが、どうやらそれが許される状況ではないことを知る。この時美鈴はとんでもないバケモノに手を出してしまった事を後悔しはじめていた。
「(咲夜さん、何をしているのですか?そろそろ止めてくださいよ!)」
「(十六夜咲夜は何をしているんだ?もう十分だろう?)」
 2人は同時に同じ人物の事を考えた。

 紅魔館の3階の窓から戦況を見下ろす十六夜咲夜は、美鈴の戦いぶりに一定の満足感があったが、それでも全てに満足していなかった。
「あなたの無敵の防御力を見せてやりなさい。妹紅の炎が効かない事を知らしめて、紅魔館に藤原妹紅の天敵ありと教えてあげなさい美鈴!」
 十六夜咲夜の能力は時間を止めることではなく思念界と現実の2つの世界を自在に行き来出来る能力である。これは時間を止めることと限りなく同義であるが、藍の思念体を身に宿す妹紅には効かない能力である。
 咲夜の能力はどんな相手にでも等しく有効で、相手を倒せる腕力は無くとも戦いにおいて圧倒的優位に立てる力である。しかし、藍という主を守護する思念体を身に宿している妹紅にだけはこの能力は効かないのである。
 実質能力的な天敵がいない十六夜咲夜の唯一の天敵が藤原妹紅というわけである。
 その様な目障りな力は存在するだけでストレスの種である。しかし、その妹紅に天敵がいたらどうなるか?少なくとも紅魔館に対して大きな顔が出来なくなるだろう。咲夜は美鈴を対妹紅の切り札と考えたのである。
 十六夜咲夜は今現在の自分の能力に関して特に体術面、飛行能力などは紅美鈴を師に仰ぎ教わって習得したものである。今でも美鈴に全く相手にされないほど実力に差があり、時々稽古をつけてもらっている状況である。
 藤原妹紅は本気で殺しにかかっている師匠である紅美鈴の猛攻を凌ぎ、一度も殺されず立っている。これを目の当たりにした咲夜の中で何か嫉妬にも似た黒い感情が湧いてきている事に本人は気が付いていない。
 この時咲夜は、客人として礼を尽くさなければならない藤原妹紅に対して、激しいライバル心が燃え上がっていた。

「(・・・。)」
 しばし無言で咲夜を待つ2人。
「(何故咲夜さんは止めに来ないのでしょうか?止めるならさっきのタイミングが理想的なのに・・・。)」
 美鈴は何故咲夜が止めないのかその意味を考える。
 咲夜が止めに来ない理由は、戦闘の続行を希望しているからであり、何かしらの結果を求めているからだろう。では一体どんな結果を求めているのだろうか?
「(そうか・・・私は藤原妹紅の能力の全てを出させていない。私の防御特性なら妹紅さんの炎は無効化出来るから妹紅さんに好きなだけ暴れてもらえる。咲夜さんはその妹紅さんの本気の力を見たいのですね。了解です咲夜さん。一芝居撃って妹紅さんを本気にさせますよ!その代わり、骨は拾ってくださいね。」
 美鈴は自分なりに咲夜の真意を理解した。ようするに自分だけ攻めすぎたのだ。しかし、自分が藤原妹紅の天敵として存在感を示すというところまでは気付いていなかった。
 結果が咲夜の思惑通りに進めばおのずと美鈴自身は妹紅に対する切り札となることを自覚するだろうが・・・。

「(こいつ、何かおかしいな。さっきの炎の時もゆっくりしていたし・・・。)」
 炎はほとんどの生き物が嫌う攻撃である。身体的に炎や熱の耐性はあっても、頭髪や衣服が焼けるのは嫌がるものである。美鈴はあの炎で何も焼かれていない。髪の毛の束の中を回し蹴りが素通りしたのも不自然だし、何か美鈴には大きな秘密がある。
 妹紅は美鈴の特殊な防御特性に気付き始めていた。
「藤原妹紅さん!」
「ん?」
 そんな中、突然名前を呼ばれる妹紅。美鈴は何故かにんまりとしている。余りにも脈絡が無く唐突なので一瞬戸惑う、こちらを怒らせる演技をしていることを知らない妹紅。
「妹紅さん、どうやら体術は私の方が上ですね。」
「そうだな。」
 素直に認める妹紅。事実なのだからしようが無い。
「でも、負けているわりに表情は余裕ですね。」
「そうだな。」
 美鈴の意図を図りかねて同じ言葉で返答する妹紅。
「それは恐らく他の分野においては自分が上だという自信があるから余裕でいられるというわけですね?」
「そうだな。」
 確かにそうかもしれない。
「ふふ、実は私、炎も妖術も、体術以外の全ての攻撃が効かないのですよ。」
「ほぉ?」
 素っ気無い表情で応じていた妹紅の表情が明らかに変わる。美鈴は挑発に乗ってきたと下手な作戦が成功したことを確信する。しかし、この無敵宣言は紅美鈴にとって、そして十六夜咲夜にとっての死刑執行のサインとなる禁断のキーワードだった。
「どうです?試して見ます?」
 ニヤニヤと妹紅を挑発するが内心冷や冷やしている美鈴。
「カスが、調子に乗ってるとマジで殺すぞ?」
 妹紅の表情が邪悪に変わる。本心では土下座して謝りたい美鈴だが、もう後戻り出来ないと腹をくくり、妹紅の力を引き出す為にとことんまで妹紅を挑発にかかる。
「残念ながら貴女の炎や妖術では私を殺す事は出来ませんよ。拳以外効きませんから。」
 美鈴のやけに丁寧な言い方が、余計に妹紅の怒りを誘う。
「分をわきまえろゴミが。格が違うことがわからないのか?」
 この恐ろしい妹紅の変身と怒気に身が竦みそうになるが、気を強く持って反論する美鈴。
「いいだろう。なら、お前を炎で殺してやる。」
「だから効かないと言っているでしょう?」
「ふん、自分より強い奴と戦った事がない雑魚がほざくな。」
 ポケットに手を入れ、先程までは背筋を伸ばしていた妹紅が少し猫背になって、顔を下からえぐるように睨み付ける。
「そうだな、仕上げはこの掌で軽く触れるだけで殺してやるか。」
 あまりにもこちらを小馬鹿にする妹紅の言いように、美鈴も腹が立ってくる。
「いい加減にしないと怒りますよ。そんなもので死ぬほど私は軟ではありませんから!」
 相変わらず言葉遣いは丁寧だが、その言葉尻に怒気が篭っているのは妹紅からもわかった。
 先程まで繰り広げられた高度な戦闘の応酬に美鈴は内心満足していた。しかし、これから始まる泥仕合はただ不毛な力のぶつかり合いになるだろう。少し残念であるが、これも咲夜のオーダーなのだから仕方がない。

 ここで美鈴は、心静かに襲い掛かる嵐を待ちながら、先程の妹紅の台詞を反芻していた。
「(自分より強い相手と戦った事がないか・・・確かにそうかもしれない。)」
 妹紅の言葉は確かにそうだった。紅魔館の住人になってずっと門の前に立ち続けていた。強い相手を求めて彷徨う事は許されなかった。藤原妹紅はどれだけの強い相手と戦い続けてきたのだろうか。彼女の言葉が本当なら自分はその炎に焼かれてしまうことになる。いや、そうはならない。咲夜の判断はきっと正しいはずだ!美鈴は咲夜を信じ気持ちを強く持ち身構えた。
「準備はいいか?カス!妖怪無勢がこの私にデカイ口を叩いた事、死を持って償わせてやる!」
 先程とは別人の怒りに身を焦がす妖の狩人に戻った藤原妹紅。妖術使いのスペシャリストである妹紅に投げた無敵宣言という挑戦状は、凄まじい化学反応を引き起こした。
 その妹紅の迫力に美鈴も流石に気圧される。本能がやばい逃げろと訴えている。冷や汗が止まらない。しかし逃げる事は出来ない。美鈴にも門番としての意地がある。
「こ、来い!」
 勇気を振り絞って気合を入れる美鈴だが不覚にも声が震えた。
「!」
 その時、妹紅から一瞬だけ爆発的な妖気が発生すると同時に、一瞬で周囲の霧が溶けてなくなる。
 悪鬼の如き形相で紅魔館に隠れている咲夜を睨む妹紅。その咲夜は魂を鷲掴みにされたように、背筋に冷たいものが走る。咲夜はやばいと感じたものの、美鈴を信じ状況をこのままにした。

 霧が無くなり視界が良くなった周囲に驚いて一瞬気を取られた美鈴だが、すぐに妹紅に向き直り身構える。しかし、妹紅は背後に建つ紅魔館に視線を向けたまま動く気配はない。隙だらけに見えるが危険を報せる本能が美鈴の攻撃行動を抑制する。
 やがて妹紅は美鈴に向き直ると徐々に口元が笑うように裂け、体内で燃えさかる炎が溢れ出して口から漏れ出しているかの様に、金色に輝く火の粉の粒を一つ二つと吐き出していく。
 既に攻撃が始まっている事に気づかない美鈴はただ固唾を飲んで待ちかまえるだけである。
 口から吐き出された火の粉は空へと舞い一定の高さまで昇ると、その一つ一つに意志がある様に美鈴の周囲に降りてきて漂い始める。まるで持ち場に配置されていくかの様に・・・。
「は!」
 ここで美鈴は身体に異変を感じた。体が動かない、いや動かせないのだ。
「これからが地獄の始まりだ。」
 妹紅のその言葉を聞いて既に攻撃されている事を理解する。美鈴はこの火の粉が妹紅の技の一つだという事に気付けなかった自分自身を呪い、同時に何故体が動かせないのかその疑問を率直に声に出して尋ねようとしたものの声が出せず愕然とする。
 まるで自分自身の体で作った型の型枠の中に閉じ込められたかの様に身動き一つ出来ない。金縛りという自分の身体に起こる症状ではなく、体に力が入るのに強い力で強制的に動きを止められている感じである。
「(何故体が・・・。)」
 身体は動かないが思考は働く美鈴。しかし、口も開かないし瞬きも眼球するら動かす事が出来ない。
 美鈴は自分の周囲に漂う小さな火の粉がこの状況を作ってる事は瞬時に理解出来たが、体を動かなくする原理が全く分からなかった。
「裏切り者の十六夜咲夜に捨て駒にされた可愛そうな門番。お前に恨みはないから冥土の土産にいい事を教えてやろうか。」
「(咲夜さんが裏切り者?何をいっているんだこの人は?)」
 自分の知らないどこかで妹紅と咲夜に何らかの因縁があることを今知る美鈴。もはや何がどうなっているのか分からない。ただ、彼女の言っている事が本当なら悪いのは咲夜で自分はその片棒を担いだということになるのだろうか?
 美鈴は妹紅が言った冥土の土産の話の事よりも裏切り者という言葉だけが胸に刺さる。自分達はやってはいけない不義を働いたのではないだろうか?正義の拳と堅く信じる美鈴は自分が悪者になっていると直感する。

 妹紅はゆっくりと歩み寄りながら死に行く美鈴に無慈悲に語りかける。
「炎が効かないお前の身体はどんな仕組みでそうなっているのか、理解していないだろう?」
 頷こうとしたが身体が動かない美鈴。確かにどういった仕組みで力を無効化しているのか知らない。妹紅はリアクションが取れない美鈴を無視して話を進める。
「お前の身体は打撃に対して脆いかわりに、打撃以外の力に対しては強い耐性を得た。違うか?」
 違わないと心の中で答える美鈴。
「前人妖怪特有の捨得能力の仕組みは、何かを失い、何かを得る事だ。お前は武器や魔法を無効化する代償に打撃耐性を捨てた。では、どうやって無効化しているのか?それは力に対して同じ力で反発して打ち消す対消滅反応の作用によるものだ。そしてその現象を引き起こす力の源がお前の失った打撃耐性ということだ。」
 美鈴にとって初めて効く言葉だったが理解することは出来た。
「1の力に対し、1の力で跳ね返して打ち消して0にする。2なら2、3なら3だ。」
 自分の防御は100に50を上乗せしたのではなく、打撃防御を0にして他防御を100にするバランスの調整でしかないのだ。
「仮にお前の身体が10だとしよう。9までの力ならお前は身体の自由は利く。しかし、これが20、30の力なら10のお前の身体は、莫大な応力とそれと同じ反力の狭間で身動きがとれなくなる。まぁ、普通は一瞬だから気にもしないだろうがな。」
 なるほど、それが今自分が置かれている状況かと身を持って知る美鈴。
「わかっただろう?千の力の狭間に無理矢理バランスをとらされているのさ、今のお前は。」
 この周囲に漂う小さな火の粉の一つ一つが、千の力を内包した彼女の力という事だろうか?常識の範囲を超えた凄まじい炎の使い手だった。試合はともかく純粋な殺し合いで勝てる相手ではなかったのだ。咲夜は見誤ったのだ。妹紅の真の実力を。

 動けない美鈴の顔を下から覗き込むようにして邪悪な笑みであざ笑う妹紅。フランドール・スカーレットのキレた表情よりも恐ろしく感じる。
 フランドールといえば、彼女の力は1億であっても単一方向から一瞬しか発動しないので対消滅が断続的に起こらない。しかし、妹紅の火は常に身の回りにあって全方位から力をぶつけてくる。だから身動きがとれなくなるのだ。恐らく特殊な防御耐性を持つ自分だから炎熱に焼かれずに済んでいるが、これが生身の人間ならとっくに消し炭になっているはずだ。
 話を聞いた後だと自分の皮膚の皮の一枚のところで物凄い力がぶつかり合って消滅している様子が何となくわかる。今までは特に気にも留めておらず、特殊防御が働いているだけだなと、他人事の様に感じているだけだった。
「私はさっき、掌で触れて倒すと言ったよな?」
 あ、っと心の中で叫ぶ美鈴。この絶妙なバランスの中で命を保たれている状況が崩れた時自分の身体は力の濁流に晒されて粉々に砕け散るだろう。
 外見上何も変わっていないが、恐怖心が滲み出る美鈴の様子を面白そうに見ながら妹紅は右手をゆっくりと前に差し出す。
 ゆっくりとゆっくりと近付いてくる手。死がはっきりとした形となって目前に迫ってくる恐怖。思わず息を大きく吐こうとして今の今まで呼吸をしていなかった、いや出来なかったことに気付く美鈴。妹紅が手を下さずとも酸欠で何れは死ぬという事か。もう、既に死んでいるのと同じ事かと悟る美鈴。
「(咲夜さん・・・予言書の通り貴女をここに導いた時点で私の役割は終わっていたのですね。敵にまわしていい相手とそうでない相手、わかりましたか?どうやら私はここまでのようです。お嬢様達の事をくれぐれも宜しくお願いします。貴女もいずれ役目を終えこっちにくるでしょうが、その時は覚悟していてくださいね。)」
 美鈴は全てを諦め心の中で遺言する。最後は咲夜に対する怒りのメッセージだった。
 気持ちが折れた事は妹紅も理解出来た。この時点で勝負有りであるが妹紅は手を止めない。今の妹紅に昨日までの慈悲はなかった。
 咲夜そうであるように自分にとって掛け替えのない存在の為に必死なのだ。紅魔館に遠慮をして異変を中途半端に収めるつもりはない。互いの信頼が崩れた以上、もはや力ずくで十六夜咲夜をねじ伏せるしかない。咲夜の能力は有用なので咲夜を殺す事は出来ない。だから、代わりこの門番の死を持って咲夜への罰とすることを決めた妹紅。妖怪を退治するのは何百年振りだろうか?虚しさと同時に狩人の本懐で高揚する妹紅。
「死ね。」
 冷ややかに言い放つ妹紅は、ついにその手を美鈴の左胸と鎖骨の間に置く。
 ほんの少し、コンマ数ミリの単位で動いた美鈴の身体は、激しい衝撃を受けて全身が小刻みに振動を始める。対消滅エネルギーが僅かだが美鈴の体の内部に注ぎ込まれ、体内組織に超振動が発生し、血液などの流体物の動きが加速し体が沸騰しはじめる。ほんの少しの力でも即死する程のエネルギー量である。
「あがががががががががが!」
 白目をむいて太鼓を連打するような周期の短い絶叫を上げる美鈴。
 すぐに身体が水風船のように膨れあがった美鈴の身体は、眼球が飛び出しかけ、あとほんの少しこのまま続ければパンと音を立てて弾け飛ぶ。
「恨むなら咲夜を恨むんだな。」
 妹紅がそう呟いたその時だった。妹紅の眼前に十六夜咲夜が突然現れ、そのかざした手を横にずらし美鈴から引き離した。門番の危機にようやく気付いて時間を止めて来たのだろうとすぐに理解する妹紅。

「早いお出ましだな。」
 全身を火傷したかのように真っ赤になった美鈴の膨れあがった身体は、妹紅の力場から解放された事で元の形に急速に萎んでいく。膝から崩れてシューという音と蒸気を上げて倒れ込む美鈴を咲夜は受けとめ妹紅の手の届かない自分の背後に静かに寝かせる。まだ死んでいない。良かったと胸をなで下ろす咲夜。妹紅はその様子を冷ややかな目で何もせず黙って見ていた。
 立ち上がった咲夜は悲痛な表情を妹紅に向ける。完全に状況を見誤った。過去に経験したことのない失態を犯してしまったと後悔する咲夜。
 昨日まで藤原妹紅を賓客として招き、悩みの種であるドッペルゲンガーの討伐を依頼するつもりでいたのに・・・。
 何故こんなことになってしまったのか、どこで間違えたのか。全てが自分の思い通りに運ぶと増長した結果がこの有様である。恥ずかしさと申し訳なさで妹紅の顔をまともに見る事が出来ない。
 今自分が出来る事、しなければならない事は全面的な謝罪だけだった。
「も、申し訳ありません。」
 妹紅に向き直った咲夜は腰が直角に曲がるほど頭を下げた。だが妹紅は何も反応しない。咲夜は頭を下げただけではダメだと思い、どうすれば謝罪を聞いてくれるか考える。幻想郷とその母体となっている日本と言う国の習わしとも言える土下座をするしかないと、意を決して膝を折って土下座しようとする。日本人である藤原妹紅なら受け入れてもらえるだろうと安易に考える咲夜。しかし、この咲夜の考え方と行動は妹紅を更に怒らせた。
 咲夜が膝を折ろうとしたその時、妹紅は咲夜の下がった頭を掴んで引き寄せそのまま膝を顔面に入れる。
 鈍い音と共に咲夜の下げた頭は妹紅の膝に当たり、反動で仰け反り衝撃で一瞬意識が飛ぶ。鼻が折れた咲夜は尻餅をついてそのまま仰向けに倒れる。直ぐに正気に戻って上半身を起こした咲夜だが、上げた顔は酷い有様で、綺麗な鼻筋が折れ曲がり、蛇口をひねったかのように曲がった鼻から血がとーとーと流れ落ちている。
 自分の身に何が起こったのか一瞬分からなくなった咲夜だが、恐ろしい形相で見下ろす妹紅を見え上げて状況を把握する。
「土下座というのは謝罪する時にするものじゃない。人にものを頼む時や服従する時にする礼の作法だ。」
 そう言うと妹紅は咲夜の胸ぐらを掴んで持ち上げ顔を引き寄せる。妹紅は背が低いので咲夜は立膝状態になる。
「私がこの世で一番嫌いな事は誰かに土下座される事だ。私のご機嫌を取りたいのなら気を付けることだ。」
「は、はい・・・。」
 咲夜の力のない弱々しい返事を聞いて気持ちが折れている事が見て取れる妹紅。完璧だと思った自分の策が全て裏目に出た精神的ショックは計り知れないだろうが、策士策に溺れるの典型で同情する気にもなれない。
「お前は土下座されて楽しい気持ちになるか?」
「・・・い、いえ。」
「土下座なんてされて気分が良くなる奴はゴミだ。」
「も、申し訳ありません。」
 咲夜は妹紅の話を聞いて確かにその通りだと思った。土下座はある意味される側の度量が試される行為で、謝罪での土下座は許してくださいではなく、ここまでへりくだっている俺様を許さないなんて相手は度量の小さいやつだと言っているのと同じである。
 身分の差がはっきりしている状況ならともかく、対等な力関係の間で交わされる土下座はされる側に負担が生じる。特に身分が上の者が下の者に土下座しようものなら、それは命令と同じである。
 妹紅は全てに於いて自分が最も位が低い生き物だと思っている。里にいる一番身分が低く貧しい者よりも遙かに自分は下等な生き物だと妹紅は思っている。だから咲夜に土下座されると言う事は身分の上の者に命令されているように捉えてしまう。この場合土下座をされたら強制的に相手を許した事になってしまう。妹紅は咲夜を絶対に許す気は無かった。だから土下座をさせなかった。

 妹紅は咲夜から投げ捨てるように乱暴に手を離す。地べたに座り込んで血が止まらない鼻を押さえながらうなだれる咲夜。血は自分だけではなく妹紅も汚してしまっていた。今の咲夜は全力で妹紅に詫びたい一心で、自分の曲がった鼻の事はどうでもよく、汚した衣服などを心配してしまう。
 ずっと頭の中で何故こんなことになってしまったのか、何故こんなことをしてしまったのかと、後悔の念がぐるぐると渦を巻いている。時は止めてられても巻き戻すことは出来ない。本当に大事な時に役に立たない力など意味がないと自身とその能力を罵る。しかし、いくら自分を罵っても妹紅の気が晴れるわけでもなく、だからといって妹紅に許される『何か』が全く見いだせず身動きが取れない。
 咲夜の生涯に於いてこれほどの失態は過去に経験したことがない。何を持って対応すればいいのか全く分からない。土下座が許されるのなら、それが最も安楽な方法だったろうが、妹紅は先にそれを牽制した。妹紅から絶対にこちらを許さないという強い意志が伝わってくる。
 この時の咲夜は自分の罪と受ける罰の事しか頭になく反省する余裕がなかった。

 咲夜がうなだれている横を通り過ぎ、仰向けに倒れて全身から湯気を出している紅魔館の門番に近づく妹紅。はっとなって後ろを向き美鈴を庇おうとするも、妹紅に足蹴にされる咲夜。
「こいつは私の獲物だ。放っておくと息を吹き返しそうだから今の内にトドメをさして星は頂いていく。」
 星というのは勝ち星の事で、紅美鈴という妖怪が自然死ではなく藤原妹紅が撃退したという実績を作ろうとする。
「ま、待って!」
 咲夜は妹紅を止めようと間に入るため時間を止める。しかし、それは思念体の藍に敵対行動と見なされしまい敢えなく撃退される。
 妹紅の目からは自分の背後にいた咲夜が一瞬で目の前に移動したように見えた。しかし、その咲夜は足下で苦しそうに身悶えており、恐らく藍の凝結攻撃を受けて全身が硬化して生体組織に深刻なダメージを受けたのだと理解する。妹紅も一度この攻撃を喰らった事があったが、あれは生物に対して絶大な抑止性がある。
「馬鹿め。お前の力は私には通用しない。大人しくそこで見ていろ。」
 妹紅に罵られた咲夜は絶望を見る。孤児だった咲夜はここに来るまで失うものなど何もなく、どんな酷い状況にいても絶望は感じなかった。しかし、幻想郷に来て紅美鈴と出会い、紅魔館に入って吸血鬼や魔法使いと出会った。たくさんの掛け替えのないものを得た咲夜は、それを失う事を受け入れる事が出来ない。
 師として尊敬し、姉として頼り、母として今の自分を育ててくれた大切な存在が今目の前で失われようとしている。誰のせいでもなく自分の不始末で。
 咲夜はこの時生まれて初めて神に祈った。正確に言うならそれは何か特定の神ではなく奇跡を呼び起こす非現実的な力の存在に対してだろう。
 暗殺マシーンとして心を削られ神の存在しない暗闇でただひたすら機械の様に人を殺し続けて来た咲夜。光に目を背け、神の恨み、自分を呪って生きて来た。しかし幻想郷に来て十六夜咲夜という名を与えられ魔性の世界で人間として生まれ変わる事が出来た。咲夜に神は必要無かった。愛する吸血鬼、魔法使い、妖怪だけあればよかった。しかし、それが今目の前で失われようとしている。
 全身に激痛が走り、体を全く動かす事が出来ない咲夜は立ち膝からそのまま前のめりに地面に突っ伏し腰だけ上に上がったみっともない姿のまま目だけで妹紅を追う。
「助けて!殺さないで!お願い!」
 声にならない声で絶叫する咲夜だが妹紅からは食肉になる直前の豚の悲鳴にしか聞こえない。
 妹紅は美鈴の横に立つと大きく足を上げて頭を踏み潰そうとする。普通の妖怪ならそれで潰れるほど柔ではないだろうが、美鈴は打撃耐性が無い。気を失っている状態なら子供でも踏み殺せるはずである。

 咲夜は心の中で叫んだ。自分の全てを捧げるからどうか美鈴を助けて欲しいと・・・。