東方不死死 第49章 「人の心」
十六夜咲夜にとってこの世で最も大切な存在である紅美鈴。
その彼女は今正に悪鬼となった、いや、自身が悪鬼にしてしまった藤原妹紅に殺されようとしていた。
助けたい。しかし、身体が全く動かない・・・。
絶望的な状況の中で、咲夜は信じた事も願った事もない神に祈り奇跡に頼っていた。
そして、その祈りは届いた。
藤原妹紅の脚蹴りによる無慈悲なトドメの一撃が、昏倒し無防備になった紅美鈴の頭部に踏み下ろされる正にその時、残虐な炎の真横に強い魔力が集束し閃光と共に地面に魔法陣が開く。
妹紅は一点から放射状に広がる魔法陣の光が自身の脚に掛かるのを嫌い咄嗟に身を翻してその場から飛び退き距離を取る。相手を拘束する罠陣と判断したからだ。
地面に現れた魔法陣は一瞬で直径3メートルほどの真円を描き、スペルカード戦などで見た覚えのある紋様を見て、魅魔や魔理沙などと同じ魔法使いの影響がこの場に及んだ事を知る。
そして、どんな状況にも対応できるように腕で顔を覆い光を直視しないように警戒体勢をとる。
この咄嗟の回避行動によって獲物を取り逃がしたかたちになった妹紅。そによってひとまず一命を取り留める美鈴。
地面に現れた魔法陣から照射される光の中から見覚えのある2つの影が現れ、この魔法陣が攻撃の為のものではなく転送の為のものだと知って、無駄な回避行動をとった自分を罵り露骨に不快な表情を見せる妹紅。
「藤原妹紅、その辺で勘弁してあげて。」
魔法陣から現れたのは紅魔館地下に存在する魔法図書館の主であり、レミリア・スカーレットの親友でもあり、そして魅魔の弟子でもあるパチュリー・ノーレッジと、その僕のルビーと呼ばれるファミリアであった。
この2人の登場は咲夜にとって正に天の助けのような絶妙なタイミングだった。
しかし、ひとまず美鈴は殺されずに済み安堵はしたものの、今度は助けに現れたパチュリーらが妹紅の攻撃で二次災害に遭う危険性もある。咲夜はそうならない様に動けない身体のまま引き続き何かに祈り続けた。
「何の用だ?最高の見せ物だっただろ?今頃のこのこ現れて、特等席で最後まで見ていたらどうだ?」
この状況を隠れて傍観していたと思われる図書館の魔法使いに皮肉を言う妹紅に対して怒気がそのまま人の形をしていると感じるパチュリー。
「あ、貴女、どうしてしまったの?」
先日会った時とまるで別人の妹紅に驚きを隠せないパチュリーは、その事を率直に尋ねる。
「もう、猫をかぶるのは止めにしただけだ。これが私の本来の姿だ。」
「フランを更生させたのは貴女でしょ?」
フランドール・スカーレットを更生させた事を例に挙げて、今の姿は本当の妹紅ではないと諭そうとするパチュリー。
「あのクソガキか?面倒くせーから大人しくさせただけだ。」
妹紅のこの返答は嘘ではない。毎日の様にやって来ては殺しまくるフランドールを大人しくさせる事が第一の目的で、別にフランドールや紅魔館を気遣ってやったことではない。
「そ、そんな・・・。」
恐ろしい形相で睨み付ける妹紅にたじろぐパチュリーは、もはや口先だけの説得は通用しない事を知る。
パチュリーとしてはこの状況を監視しつつ最後まで傍観者でいるつもりでいたが、どうも妹紅の様子がおかしいので慌てて割り込んで来たわけである。妹紅が危険な殺戮マシーンに変身しているのなら自分も危険な状態といえるが、魅魔が信頼を置く妹紅なら、完全にそうなってはないと信じて勇気を出して妹紅の前に現れたのである。しかし、それはどうやら間違いだったようだ。迂闊な事を言おうものなら即漸される危険性がある。
「紅魔館は敵だ。図書館はどうする?なんなら魅魔とも戦争してもいいんだぞ?」
敢えてパチュリーを図書館と例えて咲夜の属する紅魔館とを区別する妹紅。さらにパチュリーが魅魔の弟子である事を知っている妹紅は、その弟子を攻撃すれば師匠である魅魔とも敵対することをしっかりと理解しており、それを事前にしらせる事で魅魔を盾に下らない交渉に持ち込ませない様にパチュリーに対して先手を打つ。
一見すると怒りに支配され我を忘れている様に見える妹紅だが、冷静な判断力が働いている事が伺える。つまり、人間としておかしくなっているのではなく、悪鬼が悪鬼として最も悪鬼らしい最高の状態になっているということである。
ブチキレて我を忘れているわけではなさそうなので、まだ話が通じる余地はありそうだが、下手な駆け引きによって不快感を持たせて逆効果になるよりも、全面的な譲歩で状況の改善に糸口を見出そうと心に決めるパチュリー。
「ど、どうすれば、その怒りを収めてもらえるの?私達が全面的に悪かったわ。だから出来る事なら何でもする。貴女の望むものを言って。」
こちらが全面的に悪いとパチュリーは無条件降伏の宣言とも取れる態度に出た。これは賢明な判断といえるが、その譲歩は傲慢で強気な今の妹紅を付け上がらせる材料にしかならなかった。
「誰かぶっ殺さないとおさまらねー!門番を生かしたいなら、お前の命を寄こせ!」
妹紅はパチュリーに歩み寄り、胸ぐらを掴んで顔に引き寄せると鬼の形相で凄味を入れる。
未だかつて経験した事が無い憤怒の視線と、噛みしめる歯の軋む音を聞かされたパチュリーは、恐怖のあまり金縛りの様に動きが止まり呼吸が出来なくなる。
妹紅はこの時においても頭の中は冷静な悪鬼のままで、このパチュリーに対する精神攻撃に対して、僕であるルビーが何らかのリアクションを取ると予想し、その動きを牽制すべく完全にパチュリーの掌中にいれ人質にしたまま背後に視線を向ける。パチュリーさえ手中に収めれば、この危険な悪魔の動きを制する事が出来るという判断である。
しかし、この時予測になかったルビーのリアクションに悪鬼の思考が一瞬飛ぶ。
「!」
パチュリーの背後にかしこまっていたルビーは、主の危機にも平然としており、妹紅の牽制の視線を受けて面白そうな笑みを口元に浮かべ、まるで主の死を歓迎するかのようにせせら笑う。
「(殺せ!マスター気取りのクソ忌々しいパチュリーを殺せば私は自由になれる!)」
妹紅はそんな声を聞いたような気がした。
ルビーが、リリス族という最強クラスの魔族であり、魅魔が倒し名前を奪って僕にしている事を聞いている妹紅は、今現在ルビーのグランドマスターであるパチュリーを殺す事が、彼女を呪縛を解く鍵であることに気付いてしまう。
咲夜がそうであったように、自分の思惑通りに事態が進むと人間は調子に乗って図に乗る。妹紅もまた悪鬼としてその思惑通りに進む展開に思考が浅はかになり、パチュリーを殺した後の事を考えていなかったのだ。
ここで悪鬼としての自分の側面が、急に身体の中に押し戻されていく感覚を覚える。それと同時に本来の自分が前面に出てくる。
咲夜の裏切り行為、そして美鈴の無敵宣言、さらにパチュリーの無条件降伏宣言が、妹紅の心に宿った負の感情という炎に次々と油を注いで成長させ悪鬼に変えてしまった。それが急に萎んで消えて無くなると、そこには罪だけを押しつけられ背負わされた本来の妹紅だけが一人取り残されてしまった。
不死鳥に乗っ取られて人を殺し続けて、汚れの極みに達し羅刹となってようやく解放された妹紅は、身に覚えのない罪と穢れだけを背負わされ野に放たれた時と同じ心境だった。
妹紅の鬼の形相は見る見る後悔と恐怖に駆られた弱い人間の表情になっていく。今の妹紅には全ての記憶はあるものの、この状況を作りだしたという実感が全く無い。
パチュリーはそんな後悔の念に打ちひしがれ半ば放心状態の妹紅に胸ぐらを掴まれたまま、同じく恐怖で放心状態になっていた。
ルビーは大切な物を慈しむ様に、肩にそっと手を回して優しく妹紅から主を奪う。
悪鬼の中から抵抗なく抜け出せたパチュリーは、ルビーに身体を預けた態勢でようやく我に返る。
最初に咲夜の裏切りがあった。彼女にはレミリアを成人させるという使命があり、その為にアルカードそのものといえる彼の血晶石を思念界から持ち帰る任務がある。しかし、今起こった事の様に目先の利益に目がくらむ様では絶大な吸血鬼始祖の魂ともいえる血晶石を前にして、最強の力が手に入るという誘惑を前に自制する事などできるだろうか?
これでは魅魔の予想通りアルカードの力を奪い堕ちた咲夜を倒すしかないではないか!妹紅は、咲夜はそんな誘惑に屈しないだろうと根拠は無いがそう彼女を信用していた。
勝手に信用した自分が悪いのだが、それだけに裏切られたショックは大きい。
そして咲夜の次は、無敵宣言という狩人としての妹紅の本能を刺激した門番の言葉だった。咲夜の裏切りに対してマグマの様に腹の底で煮えたぎっていた怒りを激情に変え噴火させてしまった。
慧音を救う為にあらゆる手を尽くそうとする強い想い。異変の中で大人の振る舞いを半ば自らに課し我慢していた妹紅を解放した幽香からの能力制限解除命令。
解放された狩人としての自分と、異変を恙無く収めようとする自分の揺れ動く心の針が、様々な状況が重なった事で妹紅を狩人側に振り切らせたのだ。
そしてトドメがパチュリーの無条件降伏である。
既に妖怪の敵となっていた妹紅は、負い目の存在に対して容赦出来る寛容さは持っていなかった。徹底的に追いつめて、実力の差を見せつけ敗北と死を理解させた上で命を奪う。これが妹紅の妖怪を殺す際、怨霊を生まない為の決まり事なのだ。
先程までの妹紅は、紅魔館に対して明らかに勝ちにいっていた。妖怪を殺す事に悦びを感じる、妖怪にとって悪鬼である妖の狩人時代の妹紅に戻っていた。
あの場にいた全てが自分の下にひれ伏す存在だった。しかし、そこにあの悪魔が立ち塞がった。彼らの死によってあの悪魔が益を得ると知った時急に我に返った。自分の行った行為によって誰かが得をする。人間ならともかくこれが危険な悪魔を野放しにする重大な結果を招く危険性を理解出来た時、急に正常な思考に戻る事が出来た。
その後の悪魔の行動を見るにつけ、あれは本心ではなく演技であり、妹紅はまんまと騙されたと理解出来たわけだが、一度冷静になった妹紅としては、その事に怒りは無くむしろ救われた心境だった。
妹紅とパチュリーらのやりとりを横で見ていた咲夜は、状況を収めたのがルビーであることに気付かず、兎に角妹紅から怒気が消えて事に心底安堵していた。
パチュリーは襟元を絞られて乱れた服装を整えつつ、急に妹紅が大人しくなったことを直ぐに理解出来ず、何かしたのかと訝しげにルビーに振り向き、背後の僕に目でその事を訴える。ルビーはしれっとして「どうかされましたか?」と言う目で微笑みを返すだけだった。
「くそ・・・咲夜の力を借りに来ただけだったのに・・・。」
妹紅は唇と瞼をぎゅっと閉じながら何も見えない虚無を見上げた後、大きなため息をつき、そして肩を落としてそう呟いた。同時に妹紅から気が抜け張り詰めた周辺の大気の緊張が緩む。
先程まで妹紅を避けていた東からの冷たい風が再び霧を乗せて流れてくる。
咲夜はその妹紅の呻きを聞いて、そこで初めて妹紅の純粋な心情に触れ自分のした過ちを理解し後悔の念が湧き上がった。
咲夜は妹紅を得たいのしれない存在、人の心が無い化け物のように無意識に思っていた。自分の能力が及ばない相手であり、永遠に相容れない存在だと決めつけていた。多少傷つけても妖怪の様に一々心を痛める事はないだろうと肩を括っていた。
だが、それは間違いだった。妹紅は人間として同じ人間である自分を全面的に信用して頼って来ただけだったのだ。咲夜はその信頼をボロ雑巾の様に踏みにじってしまったのだ。
涙が出た。
咲夜は動けない身体のまま、折れ曲がった鼻から止まらない血と、涙と鼻水が混ざってぐちゃぐちゃになった顔を地面に擦りつけたままボロボロに泣いた。とんでもないことをしてしまったと心底後悔した。
怒りが収まり、代わりに激しい自己嫌悪に陥った妹紅は、もう一度大きくため息をつき気持ち切り換えようとして失敗し、どうしていいのかわからずパチュリーに背を向け気持ちの落としどころを探すため、この場を立ち去ろうとした。
「ちょ、ちょっと待って!どこに行くの?まだ用事は済んでないのでしょ?」
半ば状況が理解出来ず妹紅のすることをぼーっと見ていただけのパチュリーだが、ルビーに肘で小突かれて何をすべきか咄嗟に思い出し妹紅を引き留める。
「私は歓迎されていないようだ。」
少し首を横に向けた妹紅は片方の目だけでパチュリーを見ながら呟くように言う。
この状況ではもはや協力する気が失せているという妹紅の心情はパチュリーにも痛い程理解出来る。しかし、ここで妹紅をこのまま帰したら、金輪際彼女の協力が得られないという強迫観念にも似た意識が生じ、引き留めなければという強い衝動に駆られる。彼女の協力なくしてドッペルゲンガーの退治はありえない。そしてドッペルゲンガーを乗り越えなければ予言の成就はない。
「待って!」
再び背を向けて立ち去ろうとする妹紅をこのまま帰しては行けないと体力のないパチュリーは必死に妹紅に腕にぶら下がる。ルビーも命じられてそうしているのではなく自発的にパチュリーが掴んでいるのとは逆の腕を掴んで引き留める。
この状況ではもはやドッペルゲンガー退治の手伝いを妹紅に頼めないだろう。しかし、妹紅が訪ねてきた理由とその希望を叶える事は出来る。最低限これはやっておかなければならない。そして、それが終わった後に改めてドッペルゲンガー退治の手伝いを依頼するべきだろう。何にしてもここで彼女との関係を切ってはいけない。
その場を立ち去ろうとする妹紅を慌てて追いかけて腕を掴むも引きずられるパチュリーとルビー。そんなパチュリーを迷惑そうに見ながら諦めて足を止める妹紅。その表情には既に怒気は無かったが、口を尖らせて少しいじけたような元気の無い表情をしている。
妹紅としては、この場を客観的に眺めた時、紅魔館の2人が重傷で倒れており、段取りを間違えて悪者が正義の味方の紅魔館を倒してしまったという構図に見えてとても居心地が悪いのだ。
「咲夜の用事はいいから、貴女の用事だけでも済ませて行って。お願い!」
喘息持ちのパチュリーは息を乱しながらこちらの身を案じて止まってくれた妹紅に謝意を込めて説得する。
「あいつが、応じるとも思えん。」
「そんな事はないわ。猛省してるし、もし拒否するなら私が無理にでもやらせるわ。」
吸血鬼以外で唯一咲夜に命令出来る立場にいるパチュリーは、この際職権乱用もやむを得ないと判断する。いや、むしろ職権とはこういう時に行使すべきなのだ。
「・・・日を改めるよ。」
パチュリーの熱の入った引き留めに、彼女の面目もあるから応じようと思う妹紅だが、咲夜の身体は思った以上にダメージがあるようで、とても今すぐにどうこう出来る状況ではないと判断する妹紅。
妹紅の視線が背後の咲夜の方を見ている事に気づいたパチュリーは、妹紅が逃げないように手を掴みながら素早く後ろを振り返ってその状況を確かめる。確かに咲夜はおかしな格好のまま嗚咽をあげている状態である。あの様な窮屈な格好で泣いているということは、動かしたくても体が動かない酷い状態だからだろう。しかし、パチュリーは心を鬼にする。
「たとえ骨の1本や2本、内蔵の一つや二つ壊れててもやらせるわ。」
今の咲夜に甘えは許されない。その話を聞いていた咲夜も自分は大丈夫だと言わんばかりに、身体を賢明に動かしてなんとか上体を起こそうとする。
パチュリーは厳しく言ったものの、その咲夜の動きを見て思った以上に重傷だと診る。外傷は我慢できたとしても内蔵の損傷が激しく気力でどうにかできる問題ではないのだろう。このまま治療しなければ本当に死んでしまうかもしれない。ここはひとまず妹紅に帰ってもらい、医務室に連れて行くべきだろうか?迷うパチュリー。
「身支度する準備だけでももらえないかしら?それまで私のオフィスでくつろいでて。歓迎するわ。」
パチュリーは一つの決断をする。妹紅を図書館に招いて時間を稼ぎ、その間に咲夜には自力で復帰してもらうのだ。
パチュリーは気力が萎えて従順に従っている妹紅の気が変わらないうちに、手を離さず転送ゲートを開いて図書館に導こうとする。
「ここへ。」
パチュリーに手を引かれ、ルビーから背中を押されて無理矢理魔法陣に連れて行かれる妹紅。妹紅は抵抗する気も失せており、為すがままになっていた。
ゲートに消える直前にパチュリーは咲夜を見て頷く。時間をかせぐからなるべく早く来るようにという合図を受け取り、パチュリーの気遣いに感謝する咲夜だった。
パチュリーらの姿が消えると、辺りは静寂に包まれる。
地平線の無い幻想郷では日の出は博麗神社が建つ東部の山の稜線からしか見る事が出来ない。
この季節、紅魔館の位置からは昇った太陽は本陣山のやや南から出るように見え、丁度その陽射しが山の端の木々の間から射し込み咲夜と美鈴を暖かく照らす。
湖から流れてくる冷たい風で紅魔館周辺はひんやりと肌寒いが、陽が射し込んでほんのりと身体の表面が暖かくなる。しかし、同時に湖の湖面も暖められて水蒸気を発し、それが湖から湧き出る冷気で冷やされ霧を発生させすぐに陽射しを遮ってしまう。
霧が立ちこめるまでの僅かな間に見える幻想的な光景は、息を飲むほどに美しく咲夜はしばし夢の中にいるような心地でそれを見みて気が遠くなる。
「咲夜・・・。」
そんな今にも気を失いそうな十六夜咲夜は自分を呼ぶ声に我に返り周囲を見渡す。
自分の名を呼んだのは仰向けに倒れたまま目を開けて空を見ている紅美鈴だった。咲夜は全身に走る激痛に耐え喘ぎながら必死で美鈴の側に這い寄る。
「めーりん!」
「ふふふ、こっぴどくやられましたね。お互いに。」
「しゃべらないで!」
「大丈夫ですよ私は。もう少し経てば立って歩けますから。それより咲夜の体の方が重傷みたいですよ。」
「ごめんなさい・・・めーりん・・・私のせいで・・・。」
「この落とし前は必ず付けさせてもらいますよ。でも、咲夜にはやらなければならない事があるんじゃないですか?」
そう、今はここでおしゃべりしている場合ではない。しかし、体が思う様に動かない咲夜。
仰向けに倒れている美鈴を上から覗き込むように見る咲夜の鼻が曲がっている事に気付いた美鈴はクスっと笑って、手を上げて咲夜の鼻に添える。
「綺麗な顔が台無しですね。」
美鈴はそういって、人差し指と中指の間に咲夜の鼻を強く挟んで強引に真っ直ぐにし、気を注いで代謝を活性化させ元の整った美しい鼻筋に戻す。
重体の体でそんな無茶をする美鈴に驚いて叱ろうとする咲夜だが、美鈴はそれを無視して咲夜の首の後ろに手を回し引き寄せ、背中に別の腕を回して強引に抱き寄せる。
「ちょ、めーりん!」
「じっとしていなさい咲夜。」
今の2人の関係は、上司と部下の関係ではなく、出会いそして育んだ親子や姉妹の関係だった。
「や、止めてめーりん!それ以上は本当に死んでしまうわ!」
「こんな事で死ぬほど私は柔ではありませんよ。」
本意で妖怪になったわけではない美鈴としては、心の中は今でも人間のつもりでおり、妖怪であるこの身を疎ましく思っている。しかし、そんな望んで妖怪になったわけではない美鈴も体が丈夫になって相当な無茶が出来る様になった事は良かったと思っている。人間のままでは正に命懸けでやらなければならない事が簡単にできてしまうからだ。
美鈴は咲夜をがっちりと腕に押さえながら、その圧迫によって生じた全身に走る痛みに悲鳴を上げる咲夜を無視して、自身の肉体の損傷を回復させていた残りの気を振り絞って可愛い娘に注ぎ込む。
気を注がれて雷に打たれた様に美鈴の腕の中で痙攣する咲夜。
「ふぅー。」
大きくため息をついて腕が地面に落ち大の字になるやりとげたと言わんばかりの満面の笑みを浮かべる美鈴。大丈夫とは言ったが、本来自分が回復する分の気を全て咲夜に送ったのである。もはや腕を上げる力もない。
「めーりん!なんて無茶な事を!」
美鈴の気は、咲夜の自然治癒能力を劇的に向上させ、特に臓器の損傷を回復させ、肉体的なダメージも痛み無く自由に動けるレベルまで回復させることに成功した。
全快とまではいかないが、不自由なく身体を動かせるようになった咲夜。
「さぁ、行きなさい咲夜。こんなところで油を売っている場合じゃないですよ。」
「いや、めーりん!死なないで!」
美鈴は全ての力を使い果たしてぐったりと横たわっている。この状態を命の危険と感じた咲夜は美鈴がこのまま死んでしまうのではないかと心配になり、彼女の行けという命令を拒否した。
「こんな事で死ぬわけないでしょう?いい加減にしないと怒りますよ?怒ったら本当に死んでしまうかもしれませんよ?」
自分の命を盾にして脅しをかけるも、それでも嫌々をして言うことを聞かない咲夜にやれやれとため息をつく美鈴。
「この胸の鼓動をよく聞きなさい。」
胸に覆い被さる咲夜の髪を優しく撫でながら語りかける美鈴。
「この鼓動が死を迎えようとする者が発する音に聞こえますか?元気ビンビンに動いているじゃないですか?弱くなっているのは妖怪の気、妖気です。でも大地から溢れる生命の力は無限です。こうやって大地に接していると気が自然と沸いてきます。起き上がれるまでの時間が少し長びいただけです。だから・・・。」
それを聞いて納得したのか、ようやく上体を起こして美鈴から身体を離し、その両手を握る咲夜。
「めーりん・・・。」
美鈴が言うように彼女の鼓動は今の自分よりも遙かに生命力に満ちている。しかし、頭では美鈴は大丈夫だと分かってはいるものの心配でこの場を去る勇気が出来ない。
美鈴はそんな咲夜の温もりを心地よく感じながら、意識を自分ではなく妹紅に向けさせる為に、静かに諭すように語り始めた。
「私の知らないところで、咲夜と妹紅さんは何かの約束をしたはずですね?そして咲夜はそれを裏切ってしまった。」
裏切りについては戦闘中に妹紅が直接口にした言葉であり、この時美鈴は客人を迎える余興のつもりで戦いを挑んだわけだが、自分の知らない因縁が2人に生じていた事をその時初めて知った。
咲夜はその美鈴の言葉に辛そうに無言で頷いた。
「死ぬ寸前の私と妹紅さんの間に咲夜は割り込んできましたが、咲夜はあの場がどうなっていたか分かっていたのですが?」
この美鈴の質問に対して咲夜はすぐに意味を理解出来ず困った表情をする。
「はやり何も知らずに無茶をしていたのですね。」
「どういうこと?」
あの場は妹紅の作りだした炎と熱の灼熱地獄と化しており、人間だけでなく妖怪も一瞬で消し炭になる危険な場所だった。
美鈴はあの時妹紅自身の口から直接説明された内容をそのまま咲夜に伝えて、咲夜の無事が奇跡のようなものだということを遠回しに伝える。
「え?」
美鈴のその言葉と妹紅があの時とった行動は、紅魔館の3階の窓から見ただけでは理解できなかった。寝耳に水のように、にわかに信じられない真実を告げられた咲夜は頭が真っ白になる。
「咲夜が姿を見せる瞬間、いえ、恐らく来る事を予測していつでも止める用意をしていたのでしょうね・・・。妹紅さんは咲夜を何故助けたのか・・・理解していますか?」
頷く咲夜。藍との交信役という役割があり、互いにこれを利用して利益を得る算段だった。
「妹紅さんがここに来た理由は咲夜に会いに来たのですね?それもとても重要な用事があって・・・。」
更に頷く咲夜。
「それなのに何故こんなことをしてしまったんでしょうね・・・。」
「・・・私は・・・。」
自分でも何故こんなことをしてしまったのかわからないし、何を言っても言い訳にしかならず、どんな言い訳をしても自分に正義の一欠片もないので、それ以上の言葉が続かない咲夜。
「私は今は妖怪ですが、昔は人間だったからわかります。人間は間違いを犯して、裏切られて、心を入れ替えても、また間違えてしまうのです。それで私は死んだのです。上手く行かない事ばかりですよね。本当は上手く行く選択肢はあったのに、ついつい自分に都合がいい道を選んでしまう。人間とはどうしようもない生き物なのです。」
自分の事を棚に上げて苦笑いを見せる美鈴。
「・・・。」
「でも、咲夜は私と違って死ななかった。敵にしてしまったはずの妹紅さんからその命を惜しまれた。やっぱり咲夜は特別なんですよ、私と違って・・・。」
咲夜は首を振って自分は特別な存在などではない、美鈴と同じだと訴える。
「咲夜、よく聞きなさい。藤原妹紅は信じるに値する人物です。17年しか生きていない咲夜には人物を見る目がまだないかもしれません。でも、その咲夜の代わりに私が保障します。私やお嬢様よりも藤原妹紅の言葉を信じなさい。」
藤原妹紅を過剰な程高く評価する美鈴の言葉に違和感を覚える咲夜。当然である。咲夜にしてみればこの世で最も信頼出来るのが紅美鈴なのだから彼女を差し置いて妹紅を一番に信じる事は出来ない。
美鈴の言葉を素直に聞こうとするものの、釈然とせず戸惑った表情をする咲夜を見て美鈴は話を続ける。
「身内だからと言ってそれが全て正しいとは限りません。近しいが故に辛い選択を先送りにしてしまったり、可哀相だと思ってきつく叱れない事もある。そして近しいが故に強い愛情は強い憎悪にも変わりやすい。信用するに足りないようなどうでもよい存在に裏切られたとして、心を痛める理由はないでしょう?強く相手も思うからこそ、苦悩が生まれるのです。」
「・・・。」
「咲夜は妹紅さんを裏切ってその信頼を失望に変え、私の生意気な言葉が怒りを殺意に変えさせてしまったのです・・・。なんだか最近幻想郷の様子がおかしい事も実は全部意味があって繋がっていて、恐らく今ここで起こった事も全部繋がっていたんですよね・・・もう少し私がしっかりしていれば・・・。」
ここで咲夜は妹紅の怒りの本当の理由が分かったような気がした。自分のとった行動は、その時だけの快楽に価値を見出す妖怪など人外の存在がやるような態度であり、大局を動かす側から見ればこんなくだらないことで時間を浪費している場合ではなかったのだ。妹紅はその事にも怒り、そして自分がその大局を動かす側にキャスティングされている自覚がない事にも憤っていたのだ。そう、藤原妹紅は自分を高く評価していたのだ。
妹紅の来訪の真意を理解し迅速に行動しなければならなかったのに、つくづく自分のとった行動が愚かだったと思い知らされる。
「(・・・まぁ、でも、今日の事は決して無駄ではないと思います。咲夜がひとまわり成長出来たはず・・・。)」
美鈴は咲夜の後悔という後ろ向きの苦悩の表情から、悔しさとそれを挽回し取り戻したいという前向きな表情に変わっている事に気付き満足する。
咲夜の心は美鈴から次第に妹紅へと向いてくると、美鈴を見守りたい想いとも鬩ぎ合いこの身を二つに割きたい衝動に駆られる。
自分は妹紅の期待を裏切った。それは事実。しかし、それは自分に能力が無かったからではなく、自分の置かれている状況に気付いていなかったからだ。もう一度期待をされ役目を与えてくれるなら絶対に失望させないという自信が沸き起こる。もう一度、藤原妹紅に会いたい。会って詫び、もう一度自分に役目を与えて欲しい!
咲夜の中に沸々とした熱い思いが芽生え始めたと同時に心が激しく動き始め、その初めての精神状態に戸惑い動揺する。
対等な友人と呼べる人間が一人もいない咲夜は、化け物しかいない紅魔館で人間としての自分を捨て常に緊張感を持って業務にあたり、恩人でり親ともいえる唯一心を開いている美鈴に対しても、周囲から舐められない様にするため普段は呼び捨てで命令するという毎日を送り、人間らしい心を日々すり減らしていた。
そうしたストレスをスペルカード戦などではらしていくうちに、いつしか妖怪と同じ精神構造になっていく。これは、人間である博麗霊夢や霧雨魔理沙も同じで、人間社会に依存しない独立した生活習慣を送るうちに社会性がなくなり人間同士馴染まない、馴染めない存在になってしまうのだ。
十六夜咲夜もまたそうした人間としての心を失いつつあり、妖者に堕ちる下り坂をゆっくりとではあるが確実に下っている状態だった。美鈴はそれを理解して心配はするものの、咲夜に課せられた運命の成就の為には彼女は引き続き吸血鬼の僕でなければならない。だから、どうすることも出来なかった。
予言書は基本的にレミリア・スカーレットに関しての事だけで、他の者の行く末についてその結末は何も記されていない。予言書通り、つまりレミリア・スカーレットがハッピーエンドを迎えたとして、妹のフランドールや、咲夜やパチュリーといった紅魔館ファミリーが同じハッピーエンドになるとは限らない。主が幸福なら僕がどんな結果になろうとそれに満足すべきであるという考え方もあるが、美鈴としてはそこまで深く物事は考えていない。自分が必要とされ、守りたい人がいる。美鈴はそれだけで充分だった。
純粋な妖怪は自分で決めた事と結果に関しては責任を持ち、結果に対して後悔や罪悪感は基本的に持たない。持つとするならその妖怪にとっては非常に大きな問題で、必ず決着を付けようとする。
一方人間は、社会という枠組みでしか生きていけないことを意識し、規範に沿って行動する。社会性がなくなると博麗霊夢や霧雨魔理沙の様に単独で行動する事を望むようになり、次第に妖怪化していく。当然、罪悪感も希薄になっていく。罪悪感が無くなればもはや妖怪であり人間ではなくなるのだ。
紅魔館に入ってからの十六夜咲夜は無駄な殺生はしないまでも自衛か命令による殺人にはなんら罪悪感は無く、一応人間という種族でくくられているものの、周囲からは十六夜咲夜は吸血鬼の忠実な従者という肩書きの人外の生物として認識されている。そして、咲夜の美鈴に対する信頼と依存心は、人間としてのものではなく恩人に対して無限の信頼を差し出す妖怪特有の行動とほとんど同じなのである。
その冷徹な人の皮を被った魔性の生き物十六夜咲夜は、藤原妹紅という本物の悪の極みを目の当たりにして、ようやく自分の身の丈を知り人間である事に気付いた。
人としての罪悪感と、従者としての使命感、そして大怪我を負う恩人を守りたい気持ちと恩人の命令を聞かなければならないという板挟みにあって咲夜は激しく心を悩ましはじめている。
それは普段見せない情けない顔とオロオロとする仕草となって表面化し、そんな咲夜を見て美鈴は楽しそうに微笑んだ。
咲夜は初めての心の動揺に激しく戸惑い、無意識にしている呼吸を忘れ頭で考えながら思い出しながら深呼吸する。
複数の事を時間を止めながらほぼ同時に進める事は咲夜にとって簡単な作業だった。しかし、今自分がしなければならない事は機械的にこなす作業ではなく、心からのお詫びとそして感謝の意であり、それは能力に頼らない一人の人間としての誠意であるべき事と考えていた。
今までこんなことは一度も考えた事は無かった。自身の行動に対して、それが相手に失礼になるかも知れないだなどと思った事など一度もなかった。
レミリアに対しても、ただ完璧に仕事をこなして、その対価として賞賛に浴する事に快感を覚えていただけだった。ようするに自分の事しか考えていなかったのだ。
風邪を引かないようになどと心配しても、殺しても死なない吸血鬼の健康の心配などそもそも不要で、それらの表向きの気遣いも儀礼でしかないのだ。ただ、気遣う態度を忘れなければ、それは評価される。だから繰り返しやるだけの事なのだ。
十六夜咲夜にとっての世界は美鈴と吸血鬼姉妹、そしてパチュリーなどの紅魔館の要人を中心とした非常に狭い世界だけだった。
異変に出向いて解決屋の真似をしてライバルと競ったり、里に出て買い物をしたりなど、それなりに外部との接触はあったが、それはどれも機械的な作業と同じで、咲夜自身は紅魔館の要人以外に心を向ける事は一度もなかった。
やる気があっても機会が無いということではなく、機会があってもやる気が無いだけで、外部との干渉に何ら意味を持っていなかったのだ。
最初に妹紅を招いて協力を仰ごうとしていたが、これも機械的な完璧な型通りの礼を尽くせばそれで相手も満足するだろうという打算による演出で、真に妹紅を客として招くつもりなどさらさらなかった。
だからこそ思い通りに進む状況に失敗のイメージが湧かず、結果として無礼となっても巫女を相手にするのと同じく小馬鹿にあしらっても構わないと思い込んでいた。
本来なら盟友であり、礼を欠いてはいけない存在で、礼を欠けばそれは深刻な敵対関係に発展する事だった。
スペルカードルールという安易な闘争解決法が推奨され、本物の闘争と闘争ごっこの区別がつきづらくなったという時世も手伝い咲夜は全てを安易に考えてしまっていたのだ。
どうすれば許してもらえるか、咲夜はそれを必死に考えた。儀礼的に頭を下げれば済む問題かもしれない。今までならそれで済ませていただろう。しかし、不思議な事に今の咲夜はそれだけでは駄目だという想いが湧き上がって止める事が出来なくなっていた。
自分に何か出来る事はないか?思念界との交信は当然として、それ以外に自分が出来る事は何か?混乱する頭で必死に考え探るも、何も思いつかない自分に愕然とする。
そもそも誰かに本気で詫びた経験もなく、それらを予見して予習する必要すらなかった。
咲夜の今にも泣き出しそうな表情を見て良い兆候だと美鈴は目を細めて喜び、それが実際に声になって表に出る。
美鈴の吹き出す声に反応して、懇願するような目を向ける咲夜。
「めーりん・・・私どうすれば・・・。」
「妹紅さんは絶対咲夜を許しませんよ。」
「・・・。」
「でも、妹紅さんはまだ咲夜を信用しています。犯した罪とその人の能力とは別の問題です。咲夜が妹紅さんに対し常に信頼に足る行動を取り続けてさえいれば、必ず許して貰えます。」
犯した罪の大きさは閻魔の様な第三者が決めるものではなく、自分が決める事である。人を殺しても何とも思わない者には殺人に罪を感じないが、些細な嘘に一生苦しんで罪を背負い続ける者もいる。全ては当人の心次第である。
幻想郷という日常的に争いが行われる妖怪主体の世界において、相手の力量を試すような、つまり今回の咲夜が行った様な行為自体は妖怪の尺度でいえばなんら問題のない行為といえる。
咲夜が妖怪としての尺度で物を考えているなら罪悪感など感じる必要はない。しかし、今の咲夜は人間の尺度で物事を判断している。そして、人間の尺度で物を考える事が咲夜にとって初めての感覚だった。
非礼を詫びる時、償う時、それを戒めにする際には、例えば謝罪の手紙、贈り物、髪の切り丸坊主にするなど一定の態度をとったりする。しかし、十六夜咲夜は、その名前を与えられる以前からまともな人間社会の中で生活をした事がないのである。唯一、紅美鈴との交友が咲夜にとって人間性を養えた場所となったが、幼少時の基本的な躾などは施されておらず、美鈴もまたそこまでの躾が出来る程真っ当な人間生活は送っていなかった。生き残る力と、無駄に敵を作らない儀礼だけがこの世界の全てで、美鈴が教えられるのはそこまでだけだった。
力の無い幼少時代の咲夜は、白い大地の赤い国の主に要人の暗殺を行う特殊機関で機械的に育てられ、大人の言われた通りに訓練を施されてきた。
両親などの存在は不明で、本名すら知らずコードネームで識別された。訓練は厳しかったが生活自体は国が痩せているにもかかわず裕福な生活が出来、腹が満たされる事を第一に考え幼い咲夜はただひたすら大人に従いエージェントとして将来を有望視された。
咲夜に時を止められる能力がある事が判明すると、この力を軍用に転用する案が持ち上がり、咲夜のクローン計画が進められ、能力が遺伝によって子孫に及ぶものなのかなど、咲夜は人体実験のモルモットにされた。
エージェントとして育てられた時代は幼少ながらも好待遇で子供ながらにもその国の人間として国を守る存在として働く事に意義を見出していた。それはもちろん大人達の刷り込みの結果であるが、それでも咲夜は偽りの幸福に真の幸福を得ていた。
それが一転して悲惨な人体実験にさらされ、時を止めて逃げられないように培養カプセルの中で強力な薬液漬けにされていたのである。
咲夜はそこから逃げ出したい一心で、動けない体のまま自身の将来の理想的な姿を想像しながら自力脱出を夢見、それを諦めると誰かが自分を助けてくれる事を熱望し、さらに、それが叶わなければ誰かに殺して欲しいと切望するようになった。
咲夜が幻想郷入りしたのはその時で、当初幻想郷を死後の世界だと思いつつも飢えの苦しみから逃れる為に訓練の成果をいかんなく発揮し、殺し奪い空腹を満たして生き延びた。
9歳で幻想郷入りした人間であることを忘れた小さなエージェントは、美鈴と出会って人生が変わり、その美鈴の推薦で紅魔館のメイドに抜擢され後は頭角を表して僅か数年でメイド長に抜擢された。
情けない顔の咲夜が美鈴に助けを求めている。
しばらくそんな咲夜を楽しんだ美鈴は、気が充填されて身体の自由が利き始める。
元気が戻ってきた美鈴はそんな咲夜の頭を両手で抱え込みまた自分の胸に抱き寄せる。咲夜はまた気を注がれると思って驚いてもがき抗議する。
「ま、また!私はもう大丈夫だから、もうやめて!」
「だったら早く行きなさい。恩人を待たせてるような不義はしてはいけません。」
「でも・・・。」
「どの面下げていけばいいかわからないのですね?でも咲夜にはその面しかないでしょう?今しなければならない事は客を待たせない事です。でも、2、3発ぶん殴られる覚悟だけはしていきなさい。」
そう勇気付けニヤリとする美鈴。
「・・・そうね。今はそれしかないわね。」
腹をくくったかの様に、表情が引き締まる咲夜。
「妹紅さんは咲夜を許さないでしょう。一生憎み続けるかもしれません。でも、だからといって妹紅さんを恨み返すのは筋違いです。どんなに憎まれても常に誠意を持って対応するのですよ。」
頷く咲夜を見て美鈴は手を離す。解放された咲夜は美鈴の頬にキスをしてすぐに視界から消えた。
「妹様の件といい、咲夜の件といい、妹紅さんには感謝しかありませんね・・・。」
そう言って美鈴は元気になった身体を起こそうと、背筋の力だけで跳び起きようとして失敗する。そこまで元気に動けるようになるには、もう少し時間が必要である。
これほどまでにボロボロにされたにもかかわらず、美鈴の顔は幸せそうな表情をしていた。
頭の中がもやもやする。振り上げた拳の下ろし所を探しているうちに何故拳を振り上げたのかわからなくなってくる。どうしてこんな事になってしまったのか自分でも分からない。いや、分かるのだが、もっとやりようがあったのではないかと自身の無能が恨めしく後悔の念しか出てこない。まるで自分ではない自分が勝手に悪さをしてその罪を元の自分に擦り付けられたような理不尽な思いである。
藤原妹紅はパチュリー・ノーレッジのオフィス(図書館)に案内され、暗くて見えない天井の闇をぼーっと眺めながら悶々としていた。
恐らくは長方形だろうその部屋の狭い方の壁面に大きな掛け時計があり、妹紅はその時計の正面に立って上を見上げていた。恐らくという表現になった理由は、もう片方の向こう側の壁面が暗くて見えないからである。
時計の掛かっている壁面付近は少し広いスペースが確保されており、むき出しの石床に正方形の魔法陣の描かれた大きな絨毯が敷かれており、先程外から中に移動した際にここに出現した。
魔法陣のある側のスペース以外全てが本棚で埋まっているような大きな部屋だが、唯一変化があるのが時計を正面に左側、3メートル程の位置に突き出した小さなバルコニーのような踊り場があり、それは図書館の建物構造とは明らかに年代が違う後から取りつけた新しい階段が降りている。恐らく図書館が紅魔館の地下に移設した際に、双方の施設を誰でも自由に行き来出来るよう作ったものだろう。
時計の真下に主の体躯に不釣り合いな大きな机があるが、それがパチュリーの仕事場ということだろう。椅子は図書館全体を見渡せるように壁を背にしており、背後に人一人通れる程度しか空間がない。机の上は本の山が林立し広い机も作業できるスペースは椅子の前くらいにしかない程散らかっている。どこかでこんな机を見た事があるような気がしたが、人間の魔法使い霧雨魔理沙の机も身体に似合わないほど大きく程良く散らかっていた事を思い出し、魔法使いはそういうものなのだろうかとつい勘ぐってしまう。かく言う自分も、かつて妖術使いの郷で実質トップとして働いていた時は、あてがわれた自分の部屋も似たような状態で、こういうのは嫌いではなくむしろ安心する。魔理沙同様にパチュリーに対しても親近感が湧く妹紅である。
妹紅が案内された場所は客間ではなく、机の横にある丸い質素なテーブルで、ルビーがそのテーブルに不釣り合いな立派なイスを持って来て妹紅を座らせる。そしてパチュリーは自分の椅子をひーひー言いながら重そうに持ってきて妹紅の正面に座った。
「もてなすとは言ったけど、ここは本来そういう場所じゃなくて・・・。」
机の上はおろか、その周囲にも本の山がまるで賽の河原の積み石の様に林立している。早い話散らかった汚い部屋でとても客を招き入れる場所ではないということである。パチュリーとしは妹紅を引き留める為に必死だったので、部屋がどうなっていたかを今気付いて赤面している状態である。妹紅としては咲夜が復帰までの時間稼ぎだと言う事は最初から承知していたので気遣いは無用だった。
ヴワル監獄図書館と呼ばれていた時代には、このような丸いテーブルはなく、魅魔と歴代パチュリー2人だけの小さなワインバーがあった。紅魔館と合併してからはそうした施設は全て館側に移り図書館は完全な仕事場になった。紅魔館側に一応自分の部屋があてがわれているが、基本的にあまり睡眠を取らない、取る必要がないパチュリーは大半の時間をここで過ごす。
紅霧異変後外部との交流がなされるようになってから、時折招かれざる客が来るようになって、咲夜がいらない気を利かせて勝手にお茶が出来る環境を整えてしまったのが、この丸テーブルである。
「いや、いいよこれで。」
申し訳なさそうにしているパチュリーだったが、妹紅としては客間に通されるより、仕事場の方が落ち着きむしろ都合がいいし、事前に魔理沙の部屋を経験して魔法使いの部屋には予め免疫があったので特に抵抗感もない。
「今日は本当にご免なさい。」
「いや、こっちこそ、あの門番をマジで殺すところだった・・・悪かった。」
「殺されても仕方がない事だわ。」
「私はもう誰も殺す気はなかった。不死人狩りの時もだし、そう思っていたからフランドールも殺さない方法で対処しようとしてあーしたんだ。それに・・・。」
「それに?」
「殺していたら、今こうしてあんたと話してはいないだろ?」
美鈴が死ぬという実感がないパチュリーとしては、生死の問題を軽く口にしているが、よく考えてみるともし美鈴が目の前で殺されるのを見たら、こうして妹紅と対話出来る精神状態にはなっていないと思い至る。いや、妹紅が言いたいのはそれではなく、そもそも美鈴が死んでいる状況は、自分も死んでいるということだと理解し背筋に冷たいものが走る。
「それは確かに・・・そうかもしれないけど・・・止めましょう、その話は。」
その後、ルビーが淹れた紅茶と茶菓子を振る舞われた妹紅は、パチュリーが取り出した水晶球に映る美鈴と咲夜のやりとりを見る事になり、紅魔館の意外な相関関係を知った。
十六夜咲夜にとってこの世で最も大切な存在である紅美鈴。
その彼女は今正に悪鬼となった、いや、自身が悪鬼にしてしまった藤原妹紅に殺されようとしていた。
助けたい。しかし、身体が全く動かない・・・。
絶望的な状況の中で、咲夜は信じた事も願った事もない神に祈り奇跡に頼っていた。
そして、その祈りは届いた。
藤原妹紅の脚蹴りによる無慈悲なトドメの一撃が、昏倒し無防備になった紅美鈴の頭部に踏み下ろされる正にその時、残虐な炎の真横に強い魔力が集束し閃光と共に地面に魔法陣が開く。
妹紅は一点から放射状に広がる魔法陣の光が自身の脚に掛かるのを嫌い咄嗟に身を翻してその場から飛び退き距離を取る。相手を拘束する罠陣と判断したからだ。
地面に現れた魔法陣は一瞬で直径3メートルほどの真円を描き、スペルカード戦などで見た覚えのある紋様を見て、魅魔や魔理沙などと同じ魔法使いの影響がこの場に及んだ事を知る。
そして、どんな状況にも対応できるように腕で顔を覆い光を直視しないように警戒体勢をとる。
この咄嗟の回避行動によって獲物を取り逃がしたかたちになった妹紅。そによってひとまず一命を取り留める美鈴。
地面に現れた魔法陣から照射される光の中から見覚えのある2つの影が現れ、この魔法陣が攻撃の為のものではなく転送の為のものだと知って、無駄な回避行動をとった自分を罵り露骨に不快な表情を見せる妹紅。
「藤原妹紅、その辺で勘弁してあげて。」
魔法陣から現れたのは紅魔館地下に存在する魔法図書館の主であり、レミリア・スカーレットの親友でもあり、そして魅魔の弟子でもあるパチュリー・ノーレッジと、その僕のルビーと呼ばれるファミリアであった。
この2人の登場は咲夜にとって正に天の助けのような絶妙なタイミングだった。
しかし、ひとまず美鈴は殺されずに済み安堵はしたものの、今度は助けに現れたパチュリーらが妹紅の攻撃で二次災害に遭う危険性もある。咲夜はそうならない様に動けない身体のまま引き続き何かに祈り続けた。
「何の用だ?最高の見せ物だっただろ?今頃のこのこ現れて、特等席で最後まで見ていたらどうだ?」
この状況を隠れて傍観していたと思われる図書館の魔法使いに皮肉を言う妹紅に対して怒気がそのまま人の形をしていると感じるパチュリー。
「あ、貴女、どうしてしまったの?」
先日会った時とまるで別人の妹紅に驚きを隠せないパチュリーは、その事を率直に尋ねる。
「もう、猫をかぶるのは止めにしただけだ。これが私の本来の姿だ。」
「フランを更生させたのは貴女でしょ?」
フランドール・スカーレットを更生させた事を例に挙げて、今の姿は本当の妹紅ではないと諭そうとするパチュリー。
「あのクソガキか?面倒くせーから大人しくさせただけだ。」
妹紅のこの返答は嘘ではない。毎日の様にやって来ては殺しまくるフランドールを大人しくさせる事が第一の目的で、別にフランドールや紅魔館を気遣ってやったことではない。
「そ、そんな・・・。」
恐ろしい形相で睨み付ける妹紅にたじろぐパチュリーは、もはや口先だけの説得は通用しない事を知る。
パチュリーとしてはこの状況を監視しつつ最後まで傍観者でいるつもりでいたが、どうも妹紅の様子がおかしいので慌てて割り込んで来たわけである。妹紅が危険な殺戮マシーンに変身しているのなら自分も危険な状態といえるが、魅魔が信頼を置く妹紅なら、完全にそうなってはないと信じて勇気を出して妹紅の前に現れたのである。しかし、それはどうやら間違いだったようだ。迂闊な事を言おうものなら即漸される危険性がある。
「紅魔館は敵だ。図書館はどうする?なんなら魅魔とも戦争してもいいんだぞ?」
敢えてパチュリーを図書館と例えて咲夜の属する紅魔館とを区別する妹紅。さらにパチュリーが魅魔の弟子である事を知っている妹紅は、その弟子を攻撃すれば師匠である魅魔とも敵対することをしっかりと理解しており、それを事前にしらせる事で魅魔を盾に下らない交渉に持ち込ませない様にパチュリーに対して先手を打つ。
一見すると怒りに支配され我を忘れている様に見える妹紅だが、冷静な判断力が働いている事が伺える。つまり、人間としておかしくなっているのではなく、悪鬼が悪鬼として最も悪鬼らしい最高の状態になっているということである。
ブチキレて我を忘れているわけではなさそうなので、まだ話が通じる余地はありそうだが、下手な駆け引きによって不快感を持たせて逆効果になるよりも、全面的な譲歩で状況の改善に糸口を見出そうと心に決めるパチュリー。
「ど、どうすれば、その怒りを収めてもらえるの?私達が全面的に悪かったわ。だから出来る事なら何でもする。貴女の望むものを言って。」
こちらが全面的に悪いとパチュリーは無条件降伏の宣言とも取れる態度に出た。これは賢明な判断といえるが、その譲歩は傲慢で強気な今の妹紅を付け上がらせる材料にしかならなかった。
「誰かぶっ殺さないとおさまらねー!門番を生かしたいなら、お前の命を寄こせ!」
妹紅はパチュリーに歩み寄り、胸ぐらを掴んで顔に引き寄せると鬼の形相で凄味を入れる。
未だかつて経験した事が無い憤怒の視線と、噛みしめる歯の軋む音を聞かされたパチュリーは、恐怖のあまり金縛りの様に動きが止まり呼吸が出来なくなる。
妹紅はこの時においても頭の中は冷静な悪鬼のままで、このパチュリーに対する精神攻撃に対して、僕であるルビーが何らかのリアクションを取ると予想し、その動きを牽制すべく完全にパチュリーの掌中にいれ人質にしたまま背後に視線を向ける。パチュリーさえ手中に収めれば、この危険な悪魔の動きを制する事が出来るという判断である。
しかし、この時予測になかったルビーのリアクションに悪鬼の思考が一瞬飛ぶ。
「!」
パチュリーの背後にかしこまっていたルビーは、主の危機にも平然としており、妹紅の牽制の視線を受けて面白そうな笑みを口元に浮かべ、まるで主の死を歓迎するかのようにせせら笑う。
「(殺せ!マスター気取りのクソ忌々しいパチュリーを殺せば私は自由になれる!)」
妹紅はそんな声を聞いたような気がした。
ルビーが、リリス族という最強クラスの魔族であり、魅魔が倒し名前を奪って僕にしている事を聞いている妹紅は、今現在ルビーのグランドマスターであるパチュリーを殺す事が、彼女を呪縛を解く鍵であることに気付いてしまう。
咲夜がそうであったように、自分の思惑通りに事態が進むと人間は調子に乗って図に乗る。妹紅もまた悪鬼としてその思惑通りに進む展開に思考が浅はかになり、パチュリーを殺した後の事を考えていなかったのだ。
ここで悪鬼としての自分の側面が、急に身体の中に押し戻されていく感覚を覚える。それと同時に本来の自分が前面に出てくる。
咲夜の裏切り行為、そして美鈴の無敵宣言、さらにパチュリーの無条件降伏宣言が、妹紅の心に宿った負の感情という炎に次々と油を注いで成長させ悪鬼に変えてしまった。それが急に萎んで消えて無くなると、そこには罪だけを押しつけられ背負わされた本来の妹紅だけが一人取り残されてしまった。
不死鳥に乗っ取られて人を殺し続けて、汚れの極みに達し羅刹となってようやく解放された妹紅は、身に覚えのない罪と穢れだけを背負わされ野に放たれた時と同じ心境だった。
妹紅の鬼の形相は見る見る後悔と恐怖に駆られた弱い人間の表情になっていく。今の妹紅には全ての記憶はあるものの、この状況を作りだしたという実感が全く無い。
パチュリーはそんな後悔の念に打ちひしがれ半ば放心状態の妹紅に胸ぐらを掴まれたまま、同じく恐怖で放心状態になっていた。
ルビーは大切な物を慈しむ様に、肩にそっと手を回して優しく妹紅から主を奪う。
悪鬼の中から抵抗なく抜け出せたパチュリーは、ルビーに身体を預けた態勢でようやく我に返る。
最初に咲夜の裏切りがあった。彼女にはレミリアを成人させるという使命があり、その為にアルカードそのものといえる彼の血晶石を思念界から持ち帰る任務がある。しかし、今起こった事の様に目先の利益に目がくらむ様では絶大な吸血鬼始祖の魂ともいえる血晶石を前にして、最強の力が手に入るという誘惑を前に自制する事などできるだろうか?
これでは魅魔の予想通りアルカードの力を奪い堕ちた咲夜を倒すしかないではないか!妹紅は、咲夜はそんな誘惑に屈しないだろうと根拠は無いがそう彼女を信用していた。
勝手に信用した自分が悪いのだが、それだけに裏切られたショックは大きい。
そして咲夜の次は、無敵宣言という狩人としての妹紅の本能を刺激した門番の言葉だった。咲夜の裏切りに対してマグマの様に腹の底で煮えたぎっていた怒りを激情に変え噴火させてしまった。
慧音を救う為にあらゆる手を尽くそうとする強い想い。異変の中で大人の振る舞いを半ば自らに課し我慢していた妹紅を解放した幽香からの能力制限解除命令。
解放された狩人としての自分と、異変を恙無く収めようとする自分の揺れ動く心の針が、様々な状況が重なった事で妹紅を狩人側に振り切らせたのだ。
そしてトドメがパチュリーの無条件降伏である。
既に妖怪の敵となっていた妹紅は、負い目の存在に対して容赦出来る寛容さは持っていなかった。徹底的に追いつめて、実力の差を見せつけ敗北と死を理解させた上で命を奪う。これが妹紅の妖怪を殺す際、怨霊を生まない為の決まり事なのだ。
先程までの妹紅は、紅魔館に対して明らかに勝ちにいっていた。妖怪を殺す事に悦びを感じる、妖怪にとって悪鬼である妖の狩人時代の妹紅に戻っていた。
あの場にいた全てが自分の下にひれ伏す存在だった。しかし、そこにあの悪魔が立ち塞がった。彼らの死によってあの悪魔が益を得ると知った時急に我に返った。自分の行った行為によって誰かが得をする。人間ならともかくこれが危険な悪魔を野放しにする重大な結果を招く危険性を理解出来た時、急に正常な思考に戻る事が出来た。
その後の悪魔の行動を見るにつけ、あれは本心ではなく演技であり、妹紅はまんまと騙されたと理解出来たわけだが、一度冷静になった妹紅としては、その事に怒りは無くむしろ救われた心境だった。
妹紅とパチュリーらのやりとりを横で見ていた咲夜は、状況を収めたのがルビーであることに気付かず、兎に角妹紅から怒気が消えて事に心底安堵していた。
パチュリーは襟元を絞られて乱れた服装を整えつつ、急に妹紅が大人しくなったことを直ぐに理解出来ず、何かしたのかと訝しげにルビーに振り向き、背後の僕に目でその事を訴える。ルビーはしれっとして「どうかされましたか?」と言う目で微笑みを返すだけだった。
「くそ・・・咲夜の力を借りに来ただけだったのに・・・。」
妹紅は唇と瞼をぎゅっと閉じながら何も見えない虚無を見上げた後、大きなため息をつき、そして肩を落としてそう呟いた。同時に妹紅から気が抜け張り詰めた周辺の大気の緊張が緩む。
先程まで妹紅を避けていた東からの冷たい風が再び霧を乗せて流れてくる。
咲夜はその妹紅の呻きを聞いて、そこで初めて妹紅の純粋な心情に触れ自分のした過ちを理解し後悔の念が湧き上がった。
咲夜は妹紅を得たいのしれない存在、人の心が無い化け物のように無意識に思っていた。自分の能力が及ばない相手であり、永遠に相容れない存在だと決めつけていた。多少傷つけても妖怪の様に一々心を痛める事はないだろうと肩を括っていた。
だが、それは間違いだった。妹紅は人間として同じ人間である自分を全面的に信用して頼って来ただけだったのだ。咲夜はその信頼をボロ雑巾の様に踏みにじってしまったのだ。
涙が出た。
咲夜は動けない身体のまま、折れ曲がった鼻から止まらない血と、涙と鼻水が混ざってぐちゃぐちゃになった顔を地面に擦りつけたままボロボロに泣いた。とんでもないことをしてしまったと心底後悔した。
怒りが収まり、代わりに激しい自己嫌悪に陥った妹紅は、もう一度大きくため息をつき気持ち切り換えようとして失敗し、どうしていいのかわからずパチュリーに背を向け気持ちの落としどころを探すため、この場を立ち去ろうとした。
「ちょ、ちょっと待って!どこに行くの?まだ用事は済んでないのでしょ?」
半ば状況が理解出来ず妹紅のすることをぼーっと見ていただけのパチュリーだが、ルビーに肘で小突かれて何をすべきか咄嗟に思い出し妹紅を引き留める。
「私は歓迎されていないようだ。」
少し首を横に向けた妹紅は片方の目だけでパチュリーを見ながら呟くように言う。
この状況ではもはや協力する気が失せているという妹紅の心情はパチュリーにも痛い程理解出来る。しかし、ここで妹紅をこのまま帰したら、金輪際彼女の協力が得られないという強迫観念にも似た意識が生じ、引き留めなければという強い衝動に駆られる。彼女の協力なくしてドッペルゲンガーの退治はありえない。そしてドッペルゲンガーを乗り越えなければ予言の成就はない。
「待って!」
再び背を向けて立ち去ろうとする妹紅をこのまま帰しては行けないと体力のないパチュリーは必死に妹紅に腕にぶら下がる。ルビーも命じられてそうしているのではなく自発的にパチュリーが掴んでいるのとは逆の腕を掴んで引き留める。
この状況ではもはやドッペルゲンガー退治の手伝いを妹紅に頼めないだろう。しかし、妹紅が訪ねてきた理由とその希望を叶える事は出来る。最低限これはやっておかなければならない。そして、それが終わった後に改めてドッペルゲンガー退治の手伝いを依頼するべきだろう。何にしてもここで彼女との関係を切ってはいけない。
その場を立ち去ろうとする妹紅を慌てて追いかけて腕を掴むも引きずられるパチュリーとルビー。そんなパチュリーを迷惑そうに見ながら諦めて足を止める妹紅。その表情には既に怒気は無かったが、口を尖らせて少しいじけたような元気の無い表情をしている。
妹紅としては、この場を客観的に眺めた時、紅魔館の2人が重傷で倒れており、段取りを間違えて悪者が正義の味方の紅魔館を倒してしまったという構図に見えてとても居心地が悪いのだ。
「咲夜の用事はいいから、貴女の用事だけでも済ませて行って。お願い!」
喘息持ちのパチュリーは息を乱しながらこちらの身を案じて止まってくれた妹紅に謝意を込めて説得する。
「あいつが、応じるとも思えん。」
「そんな事はないわ。猛省してるし、もし拒否するなら私が無理にでもやらせるわ。」
吸血鬼以外で唯一咲夜に命令出来る立場にいるパチュリーは、この際職権乱用もやむを得ないと判断する。いや、むしろ職権とはこういう時に行使すべきなのだ。
「・・・日を改めるよ。」
パチュリーの熱の入った引き留めに、彼女の面目もあるから応じようと思う妹紅だが、咲夜の身体は思った以上にダメージがあるようで、とても今すぐにどうこう出来る状況ではないと判断する妹紅。
妹紅の視線が背後の咲夜の方を見ている事に気づいたパチュリーは、妹紅が逃げないように手を掴みながら素早く後ろを振り返ってその状況を確かめる。確かに咲夜はおかしな格好のまま嗚咽をあげている状態である。あの様な窮屈な格好で泣いているということは、動かしたくても体が動かない酷い状態だからだろう。しかし、パチュリーは心を鬼にする。
「たとえ骨の1本や2本、内蔵の一つや二つ壊れててもやらせるわ。」
今の咲夜に甘えは許されない。その話を聞いていた咲夜も自分は大丈夫だと言わんばかりに、身体を賢明に動かしてなんとか上体を起こそうとする。
パチュリーは厳しく言ったものの、その咲夜の動きを見て思った以上に重傷だと診る。外傷は我慢できたとしても内蔵の損傷が激しく気力でどうにかできる問題ではないのだろう。このまま治療しなければ本当に死んでしまうかもしれない。ここはひとまず妹紅に帰ってもらい、医務室に連れて行くべきだろうか?迷うパチュリー。
「身支度する準備だけでももらえないかしら?それまで私のオフィスでくつろいでて。歓迎するわ。」
パチュリーは一つの決断をする。妹紅を図書館に招いて時間を稼ぎ、その間に咲夜には自力で復帰してもらうのだ。
パチュリーは気力が萎えて従順に従っている妹紅の気が変わらないうちに、手を離さず転送ゲートを開いて図書館に導こうとする。
「ここへ。」
パチュリーに手を引かれ、ルビーから背中を押されて無理矢理魔法陣に連れて行かれる妹紅。妹紅は抵抗する気も失せており、為すがままになっていた。
ゲートに消える直前にパチュリーは咲夜を見て頷く。時間をかせぐからなるべく早く来るようにという合図を受け取り、パチュリーの気遣いに感謝する咲夜だった。
パチュリーらの姿が消えると、辺りは静寂に包まれる。
地平線の無い幻想郷では日の出は博麗神社が建つ東部の山の稜線からしか見る事が出来ない。
この季節、紅魔館の位置からは昇った太陽は本陣山のやや南から出るように見え、丁度その陽射しが山の端の木々の間から射し込み咲夜と美鈴を暖かく照らす。
湖から流れてくる冷たい風で紅魔館周辺はひんやりと肌寒いが、陽が射し込んでほんのりと身体の表面が暖かくなる。しかし、同時に湖の湖面も暖められて水蒸気を発し、それが湖から湧き出る冷気で冷やされ霧を発生させすぐに陽射しを遮ってしまう。
霧が立ちこめるまでの僅かな間に見える幻想的な光景は、息を飲むほどに美しく咲夜はしばし夢の中にいるような心地でそれを見みて気が遠くなる。
「咲夜・・・。」
そんな今にも気を失いそうな十六夜咲夜は自分を呼ぶ声に我に返り周囲を見渡す。
自分の名を呼んだのは仰向けに倒れたまま目を開けて空を見ている紅美鈴だった。咲夜は全身に走る激痛に耐え喘ぎながら必死で美鈴の側に這い寄る。
「めーりん!」
「ふふふ、こっぴどくやられましたね。お互いに。」
「しゃべらないで!」
「大丈夫ですよ私は。もう少し経てば立って歩けますから。それより咲夜の体の方が重傷みたいですよ。」
「ごめんなさい・・・めーりん・・・私のせいで・・・。」
「この落とし前は必ず付けさせてもらいますよ。でも、咲夜にはやらなければならない事があるんじゃないですか?」
そう、今はここでおしゃべりしている場合ではない。しかし、体が思う様に動かない咲夜。
仰向けに倒れている美鈴を上から覗き込むように見る咲夜の鼻が曲がっている事に気付いた美鈴はクスっと笑って、手を上げて咲夜の鼻に添える。
「綺麗な顔が台無しですね。」
美鈴はそういって、人差し指と中指の間に咲夜の鼻を強く挟んで強引に真っ直ぐにし、気を注いで代謝を活性化させ元の整った美しい鼻筋に戻す。
重体の体でそんな無茶をする美鈴に驚いて叱ろうとする咲夜だが、美鈴はそれを無視して咲夜の首の後ろに手を回し引き寄せ、背中に別の腕を回して強引に抱き寄せる。
「ちょ、めーりん!」
「じっとしていなさい咲夜。」
今の2人の関係は、上司と部下の関係ではなく、出会いそして育んだ親子や姉妹の関係だった。
「や、止めてめーりん!それ以上は本当に死んでしまうわ!」
「こんな事で死ぬほど私は柔ではありませんよ。」
本意で妖怪になったわけではない美鈴としては、心の中は今でも人間のつもりでおり、妖怪であるこの身を疎ましく思っている。しかし、そんな望んで妖怪になったわけではない美鈴も体が丈夫になって相当な無茶が出来る様になった事は良かったと思っている。人間のままでは正に命懸けでやらなければならない事が簡単にできてしまうからだ。
美鈴は咲夜をがっちりと腕に押さえながら、その圧迫によって生じた全身に走る痛みに悲鳴を上げる咲夜を無視して、自身の肉体の損傷を回復させていた残りの気を振り絞って可愛い娘に注ぎ込む。
気を注がれて雷に打たれた様に美鈴の腕の中で痙攣する咲夜。
「ふぅー。」
大きくため息をついて腕が地面に落ち大の字になるやりとげたと言わんばかりの満面の笑みを浮かべる美鈴。大丈夫とは言ったが、本来自分が回復する分の気を全て咲夜に送ったのである。もはや腕を上げる力もない。
「めーりん!なんて無茶な事を!」
美鈴の気は、咲夜の自然治癒能力を劇的に向上させ、特に臓器の損傷を回復させ、肉体的なダメージも痛み無く自由に動けるレベルまで回復させることに成功した。
全快とまではいかないが、不自由なく身体を動かせるようになった咲夜。
「さぁ、行きなさい咲夜。こんなところで油を売っている場合じゃないですよ。」
「いや、めーりん!死なないで!」
美鈴は全ての力を使い果たしてぐったりと横たわっている。この状態を命の危険と感じた咲夜は美鈴がこのまま死んでしまうのではないかと心配になり、彼女の行けという命令を拒否した。
「こんな事で死ぬわけないでしょう?いい加減にしないと怒りますよ?怒ったら本当に死んでしまうかもしれませんよ?」
自分の命を盾にして脅しをかけるも、それでも嫌々をして言うことを聞かない咲夜にやれやれとため息をつく美鈴。
「この胸の鼓動をよく聞きなさい。」
胸に覆い被さる咲夜の髪を優しく撫でながら語りかける美鈴。
「この鼓動が死を迎えようとする者が発する音に聞こえますか?元気ビンビンに動いているじゃないですか?弱くなっているのは妖怪の気、妖気です。でも大地から溢れる生命の力は無限です。こうやって大地に接していると気が自然と沸いてきます。起き上がれるまでの時間が少し長びいただけです。だから・・・。」
それを聞いて納得したのか、ようやく上体を起こして美鈴から身体を離し、その両手を握る咲夜。
「めーりん・・・。」
美鈴が言うように彼女の鼓動は今の自分よりも遙かに生命力に満ちている。しかし、頭では美鈴は大丈夫だと分かってはいるものの心配でこの場を去る勇気が出来ない。
美鈴はそんな咲夜の温もりを心地よく感じながら、意識を自分ではなく妹紅に向けさせる為に、静かに諭すように語り始めた。
「私の知らないところで、咲夜と妹紅さんは何かの約束をしたはずですね?そして咲夜はそれを裏切ってしまった。」
裏切りについては戦闘中に妹紅が直接口にした言葉であり、この時美鈴は客人を迎える余興のつもりで戦いを挑んだわけだが、自分の知らない因縁が2人に生じていた事をその時初めて知った。
咲夜はその美鈴の言葉に辛そうに無言で頷いた。
「死ぬ寸前の私と妹紅さんの間に咲夜は割り込んできましたが、咲夜はあの場がどうなっていたか分かっていたのですが?」
この美鈴の質問に対して咲夜はすぐに意味を理解出来ず困った表情をする。
「はやり何も知らずに無茶をしていたのですね。」
「どういうこと?」
あの場は妹紅の作りだした炎と熱の灼熱地獄と化しており、人間だけでなく妖怪も一瞬で消し炭になる危険な場所だった。
美鈴はあの時妹紅自身の口から直接説明された内容をそのまま咲夜に伝えて、咲夜の無事が奇跡のようなものだということを遠回しに伝える。
「え?」
美鈴のその言葉と妹紅があの時とった行動は、紅魔館の3階の窓から見ただけでは理解できなかった。寝耳に水のように、にわかに信じられない真実を告げられた咲夜は頭が真っ白になる。
「咲夜が姿を見せる瞬間、いえ、恐らく来る事を予測していつでも止める用意をしていたのでしょうね・・・。妹紅さんは咲夜を何故助けたのか・・・理解していますか?」
頷く咲夜。藍との交信役という役割があり、互いにこれを利用して利益を得る算段だった。
「妹紅さんがここに来た理由は咲夜に会いに来たのですね?それもとても重要な用事があって・・・。」
更に頷く咲夜。
「それなのに何故こんなことをしてしまったんでしょうね・・・。」
「・・・私は・・・。」
自分でも何故こんなことをしてしまったのかわからないし、何を言っても言い訳にしかならず、どんな言い訳をしても自分に正義の一欠片もないので、それ以上の言葉が続かない咲夜。
「私は今は妖怪ですが、昔は人間だったからわかります。人間は間違いを犯して、裏切られて、心を入れ替えても、また間違えてしまうのです。それで私は死んだのです。上手く行かない事ばかりですよね。本当は上手く行く選択肢はあったのに、ついつい自分に都合がいい道を選んでしまう。人間とはどうしようもない生き物なのです。」
自分の事を棚に上げて苦笑いを見せる美鈴。
「・・・。」
「でも、咲夜は私と違って死ななかった。敵にしてしまったはずの妹紅さんからその命を惜しまれた。やっぱり咲夜は特別なんですよ、私と違って・・・。」
咲夜は首を振って自分は特別な存在などではない、美鈴と同じだと訴える。
「咲夜、よく聞きなさい。藤原妹紅は信じるに値する人物です。17年しか生きていない咲夜には人物を見る目がまだないかもしれません。でも、その咲夜の代わりに私が保障します。私やお嬢様よりも藤原妹紅の言葉を信じなさい。」
藤原妹紅を過剰な程高く評価する美鈴の言葉に違和感を覚える咲夜。当然である。咲夜にしてみればこの世で最も信頼出来るのが紅美鈴なのだから彼女を差し置いて妹紅を一番に信じる事は出来ない。
美鈴の言葉を素直に聞こうとするものの、釈然とせず戸惑った表情をする咲夜を見て美鈴は話を続ける。
「身内だからと言ってそれが全て正しいとは限りません。近しいが故に辛い選択を先送りにしてしまったり、可哀相だと思ってきつく叱れない事もある。そして近しいが故に強い愛情は強い憎悪にも変わりやすい。信用するに足りないようなどうでもよい存在に裏切られたとして、心を痛める理由はないでしょう?強く相手も思うからこそ、苦悩が生まれるのです。」
「・・・。」
「咲夜は妹紅さんを裏切ってその信頼を失望に変え、私の生意気な言葉が怒りを殺意に変えさせてしまったのです・・・。なんだか最近幻想郷の様子がおかしい事も実は全部意味があって繋がっていて、恐らく今ここで起こった事も全部繋がっていたんですよね・・・もう少し私がしっかりしていれば・・・。」
ここで咲夜は妹紅の怒りの本当の理由が分かったような気がした。自分のとった行動は、その時だけの快楽に価値を見出す妖怪など人外の存在がやるような態度であり、大局を動かす側から見ればこんなくだらないことで時間を浪費している場合ではなかったのだ。妹紅はその事にも怒り、そして自分がその大局を動かす側にキャスティングされている自覚がない事にも憤っていたのだ。そう、藤原妹紅は自分を高く評価していたのだ。
妹紅の来訪の真意を理解し迅速に行動しなければならなかったのに、つくづく自分のとった行動が愚かだったと思い知らされる。
「(・・・まぁ、でも、今日の事は決して無駄ではないと思います。咲夜がひとまわり成長出来たはず・・・。)」
美鈴は咲夜の後悔という後ろ向きの苦悩の表情から、悔しさとそれを挽回し取り戻したいという前向きな表情に変わっている事に気付き満足する。
咲夜の心は美鈴から次第に妹紅へと向いてくると、美鈴を見守りたい想いとも鬩ぎ合いこの身を二つに割きたい衝動に駆られる。
自分は妹紅の期待を裏切った。それは事実。しかし、それは自分に能力が無かったからではなく、自分の置かれている状況に気付いていなかったからだ。もう一度期待をされ役目を与えてくれるなら絶対に失望させないという自信が沸き起こる。もう一度、藤原妹紅に会いたい。会って詫び、もう一度自分に役目を与えて欲しい!
咲夜の中に沸々とした熱い思いが芽生え始めたと同時に心が激しく動き始め、その初めての精神状態に戸惑い動揺する。
対等な友人と呼べる人間が一人もいない咲夜は、化け物しかいない紅魔館で人間としての自分を捨て常に緊張感を持って業務にあたり、恩人でり親ともいえる唯一心を開いている美鈴に対しても、周囲から舐められない様にするため普段は呼び捨てで命令するという毎日を送り、人間らしい心を日々すり減らしていた。
そうしたストレスをスペルカード戦などではらしていくうちに、いつしか妖怪と同じ精神構造になっていく。これは、人間である博麗霊夢や霧雨魔理沙も同じで、人間社会に依存しない独立した生活習慣を送るうちに社会性がなくなり人間同士馴染まない、馴染めない存在になってしまうのだ。
十六夜咲夜もまたそうした人間としての心を失いつつあり、妖者に堕ちる下り坂をゆっくりとではあるが確実に下っている状態だった。美鈴はそれを理解して心配はするものの、咲夜に課せられた運命の成就の為には彼女は引き続き吸血鬼の僕でなければならない。だから、どうすることも出来なかった。
予言書は基本的にレミリア・スカーレットに関しての事だけで、他の者の行く末についてその結末は何も記されていない。予言書通り、つまりレミリア・スカーレットがハッピーエンドを迎えたとして、妹のフランドールや、咲夜やパチュリーといった紅魔館ファミリーが同じハッピーエンドになるとは限らない。主が幸福なら僕がどんな結果になろうとそれに満足すべきであるという考え方もあるが、美鈴としてはそこまで深く物事は考えていない。自分が必要とされ、守りたい人がいる。美鈴はそれだけで充分だった。
純粋な妖怪は自分で決めた事と結果に関しては責任を持ち、結果に対して後悔や罪悪感は基本的に持たない。持つとするならその妖怪にとっては非常に大きな問題で、必ず決着を付けようとする。
一方人間は、社会という枠組みでしか生きていけないことを意識し、規範に沿って行動する。社会性がなくなると博麗霊夢や霧雨魔理沙の様に単独で行動する事を望むようになり、次第に妖怪化していく。当然、罪悪感も希薄になっていく。罪悪感が無くなればもはや妖怪であり人間ではなくなるのだ。
紅魔館に入ってからの十六夜咲夜は無駄な殺生はしないまでも自衛か命令による殺人にはなんら罪悪感は無く、一応人間という種族でくくられているものの、周囲からは十六夜咲夜は吸血鬼の忠実な従者という肩書きの人外の生物として認識されている。そして、咲夜の美鈴に対する信頼と依存心は、人間としてのものではなく恩人に対して無限の信頼を差し出す妖怪特有の行動とほとんど同じなのである。
その冷徹な人の皮を被った魔性の生き物十六夜咲夜は、藤原妹紅という本物の悪の極みを目の当たりにして、ようやく自分の身の丈を知り人間である事に気付いた。
人としての罪悪感と、従者としての使命感、そして大怪我を負う恩人を守りたい気持ちと恩人の命令を聞かなければならないという板挟みにあって咲夜は激しく心を悩ましはじめている。
それは普段見せない情けない顔とオロオロとする仕草となって表面化し、そんな咲夜を見て美鈴は楽しそうに微笑んだ。
咲夜は初めての心の動揺に激しく戸惑い、無意識にしている呼吸を忘れ頭で考えながら思い出しながら深呼吸する。
複数の事を時間を止めながらほぼ同時に進める事は咲夜にとって簡単な作業だった。しかし、今自分がしなければならない事は機械的にこなす作業ではなく、心からのお詫びとそして感謝の意であり、それは能力に頼らない一人の人間としての誠意であるべき事と考えていた。
今までこんなことは一度も考えた事は無かった。自身の行動に対して、それが相手に失礼になるかも知れないだなどと思った事など一度もなかった。
レミリアに対しても、ただ完璧に仕事をこなして、その対価として賞賛に浴する事に快感を覚えていただけだった。ようするに自分の事しか考えていなかったのだ。
風邪を引かないようになどと心配しても、殺しても死なない吸血鬼の健康の心配などそもそも不要で、それらの表向きの気遣いも儀礼でしかないのだ。ただ、気遣う態度を忘れなければ、それは評価される。だから繰り返しやるだけの事なのだ。
十六夜咲夜にとっての世界は美鈴と吸血鬼姉妹、そしてパチュリーなどの紅魔館の要人を中心とした非常に狭い世界だけだった。
異変に出向いて解決屋の真似をしてライバルと競ったり、里に出て買い物をしたりなど、それなりに外部との接触はあったが、それはどれも機械的な作業と同じで、咲夜自身は紅魔館の要人以外に心を向ける事は一度もなかった。
やる気があっても機会が無いということではなく、機会があってもやる気が無いだけで、外部との干渉に何ら意味を持っていなかったのだ。
最初に妹紅を招いて協力を仰ごうとしていたが、これも機械的な完璧な型通りの礼を尽くせばそれで相手も満足するだろうという打算による演出で、真に妹紅を客として招くつもりなどさらさらなかった。
だからこそ思い通りに進む状況に失敗のイメージが湧かず、結果として無礼となっても巫女を相手にするのと同じく小馬鹿にあしらっても構わないと思い込んでいた。
本来なら盟友であり、礼を欠いてはいけない存在で、礼を欠けばそれは深刻な敵対関係に発展する事だった。
スペルカードルールという安易な闘争解決法が推奨され、本物の闘争と闘争ごっこの区別がつきづらくなったという時世も手伝い咲夜は全てを安易に考えてしまっていたのだ。
どうすれば許してもらえるか、咲夜はそれを必死に考えた。儀礼的に頭を下げれば済む問題かもしれない。今までならそれで済ませていただろう。しかし、不思議な事に今の咲夜はそれだけでは駄目だという想いが湧き上がって止める事が出来なくなっていた。
自分に何か出来る事はないか?思念界との交信は当然として、それ以外に自分が出来る事は何か?混乱する頭で必死に考え探るも、何も思いつかない自分に愕然とする。
そもそも誰かに本気で詫びた経験もなく、それらを予見して予習する必要すらなかった。
咲夜の今にも泣き出しそうな表情を見て良い兆候だと美鈴は目を細めて喜び、それが実際に声になって表に出る。
美鈴の吹き出す声に反応して、懇願するような目を向ける咲夜。
「めーりん・・・私どうすれば・・・。」
「妹紅さんは絶対咲夜を許しませんよ。」
「・・・。」
「でも、妹紅さんはまだ咲夜を信用しています。犯した罪とその人の能力とは別の問題です。咲夜が妹紅さんに対し常に信頼に足る行動を取り続けてさえいれば、必ず許して貰えます。」
犯した罪の大きさは閻魔の様な第三者が決めるものではなく、自分が決める事である。人を殺しても何とも思わない者には殺人に罪を感じないが、些細な嘘に一生苦しんで罪を背負い続ける者もいる。全ては当人の心次第である。
幻想郷という日常的に争いが行われる妖怪主体の世界において、相手の力量を試すような、つまり今回の咲夜が行った様な行為自体は妖怪の尺度でいえばなんら問題のない行為といえる。
咲夜が妖怪としての尺度で物を考えているなら罪悪感など感じる必要はない。しかし、今の咲夜は人間の尺度で物事を判断している。そして、人間の尺度で物を考える事が咲夜にとって初めての感覚だった。
非礼を詫びる時、償う時、それを戒めにする際には、例えば謝罪の手紙、贈り物、髪の切り丸坊主にするなど一定の態度をとったりする。しかし、十六夜咲夜は、その名前を与えられる以前からまともな人間社会の中で生活をした事がないのである。唯一、紅美鈴との交友が咲夜にとって人間性を養えた場所となったが、幼少時の基本的な躾などは施されておらず、美鈴もまたそこまでの躾が出来る程真っ当な人間生活は送っていなかった。生き残る力と、無駄に敵を作らない儀礼だけがこの世界の全てで、美鈴が教えられるのはそこまでだけだった。
力の無い幼少時代の咲夜は、白い大地の赤い国の主に要人の暗殺を行う特殊機関で機械的に育てられ、大人の言われた通りに訓練を施されてきた。
両親などの存在は不明で、本名すら知らずコードネームで識別された。訓練は厳しかったが生活自体は国が痩せているにもかかわず裕福な生活が出来、腹が満たされる事を第一に考え幼い咲夜はただひたすら大人に従いエージェントとして将来を有望視された。
咲夜に時を止められる能力がある事が判明すると、この力を軍用に転用する案が持ち上がり、咲夜のクローン計画が進められ、能力が遺伝によって子孫に及ぶものなのかなど、咲夜は人体実験のモルモットにされた。
エージェントとして育てられた時代は幼少ながらも好待遇で子供ながらにもその国の人間として国を守る存在として働く事に意義を見出していた。それはもちろん大人達の刷り込みの結果であるが、それでも咲夜は偽りの幸福に真の幸福を得ていた。
それが一転して悲惨な人体実験にさらされ、時を止めて逃げられないように培養カプセルの中で強力な薬液漬けにされていたのである。
咲夜はそこから逃げ出したい一心で、動けない体のまま自身の将来の理想的な姿を想像しながら自力脱出を夢見、それを諦めると誰かが自分を助けてくれる事を熱望し、さらに、それが叶わなければ誰かに殺して欲しいと切望するようになった。
咲夜が幻想郷入りしたのはその時で、当初幻想郷を死後の世界だと思いつつも飢えの苦しみから逃れる為に訓練の成果をいかんなく発揮し、殺し奪い空腹を満たして生き延びた。
9歳で幻想郷入りした人間であることを忘れた小さなエージェントは、美鈴と出会って人生が変わり、その美鈴の推薦で紅魔館のメイドに抜擢され後は頭角を表して僅か数年でメイド長に抜擢された。
情けない顔の咲夜が美鈴に助けを求めている。
しばらくそんな咲夜を楽しんだ美鈴は、気が充填されて身体の自由が利き始める。
元気が戻ってきた美鈴はそんな咲夜の頭を両手で抱え込みまた自分の胸に抱き寄せる。咲夜はまた気を注がれると思って驚いてもがき抗議する。
「ま、また!私はもう大丈夫だから、もうやめて!」
「だったら早く行きなさい。恩人を待たせてるような不義はしてはいけません。」
「でも・・・。」
「どの面下げていけばいいかわからないのですね?でも咲夜にはその面しかないでしょう?今しなければならない事は客を待たせない事です。でも、2、3発ぶん殴られる覚悟だけはしていきなさい。」
そう勇気付けニヤリとする美鈴。
「・・・そうね。今はそれしかないわね。」
腹をくくったかの様に、表情が引き締まる咲夜。
「妹紅さんは咲夜を許さないでしょう。一生憎み続けるかもしれません。でも、だからといって妹紅さんを恨み返すのは筋違いです。どんなに憎まれても常に誠意を持って対応するのですよ。」
頷く咲夜を見て美鈴は手を離す。解放された咲夜は美鈴の頬にキスをしてすぐに視界から消えた。
「妹様の件といい、咲夜の件といい、妹紅さんには感謝しかありませんね・・・。」
そう言って美鈴は元気になった身体を起こそうと、背筋の力だけで跳び起きようとして失敗する。そこまで元気に動けるようになるには、もう少し時間が必要である。
これほどまでにボロボロにされたにもかかわらず、美鈴の顔は幸せそうな表情をしていた。
頭の中がもやもやする。振り上げた拳の下ろし所を探しているうちに何故拳を振り上げたのかわからなくなってくる。どうしてこんな事になってしまったのか自分でも分からない。いや、分かるのだが、もっとやりようがあったのではないかと自身の無能が恨めしく後悔の念しか出てこない。まるで自分ではない自分が勝手に悪さをしてその罪を元の自分に擦り付けられたような理不尽な思いである。
藤原妹紅はパチュリー・ノーレッジのオフィス(図書館)に案内され、暗くて見えない天井の闇をぼーっと眺めながら悶々としていた。
恐らくは長方形だろうその部屋の狭い方の壁面に大きな掛け時計があり、妹紅はその時計の正面に立って上を見上げていた。恐らくという表現になった理由は、もう片方の向こう側の壁面が暗くて見えないからである。
時計の掛かっている壁面付近は少し広いスペースが確保されており、むき出しの石床に正方形の魔法陣の描かれた大きな絨毯が敷かれており、先程外から中に移動した際にここに出現した。
魔法陣のある側のスペース以外全てが本棚で埋まっているような大きな部屋だが、唯一変化があるのが時計を正面に左側、3メートル程の位置に突き出した小さなバルコニーのような踊り場があり、それは図書館の建物構造とは明らかに年代が違う後から取りつけた新しい階段が降りている。恐らく図書館が紅魔館の地下に移設した際に、双方の施設を誰でも自由に行き来出来るよう作ったものだろう。
時計の真下に主の体躯に不釣り合いな大きな机があるが、それがパチュリーの仕事場ということだろう。椅子は図書館全体を見渡せるように壁を背にしており、背後に人一人通れる程度しか空間がない。机の上は本の山が林立し広い机も作業できるスペースは椅子の前くらいにしかない程散らかっている。どこかでこんな机を見た事があるような気がしたが、人間の魔法使い霧雨魔理沙の机も身体に似合わないほど大きく程良く散らかっていた事を思い出し、魔法使いはそういうものなのだろうかとつい勘ぐってしまう。かく言う自分も、かつて妖術使いの郷で実質トップとして働いていた時は、あてがわれた自分の部屋も似たような状態で、こういうのは嫌いではなくむしろ安心する。魔理沙同様にパチュリーに対しても親近感が湧く妹紅である。
妹紅が案内された場所は客間ではなく、机の横にある丸い質素なテーブルで、ルビーがそのテーブルに不釣り合いな立派なイスを持って来て妹紅を座らせる。そしてパチュリーは自分の椅子をひーひー言いながら重そうに持ってきて妹紅の正面に座った。
「もてなすとは言ったけど、ここは本来そういう場所じゃなくて・・・。」
机の上はおろか、その周囲にも本の山がまるで賽の河原の積み石の様に林立している。早い話散らかった汚い部屋でとても客を招き入れる場所ではないということである。パチュリーとしは妹紅を引き留める為に必死だったので、部屋がどうなっていたかを今気付いて赤面している状態である。妹紅としては咲夜が復帰までの時間稼ぎだと言う事は最初から承知していたので気遣いは無用だった。
ヴワル監獄図書館と呼ばれていた時代には、このような丸いテーブルはなく、魅魔と歴代パチュリー2人だけの小さなワインバーがあった。紅魔館と合併してからはそうした施設は全て館側に移り図書館は完全な仕事場になった。紅魔館側に一応自分の部屋があてがわれているが、基本的にあまり睡眠を取らない、取る必要がないパチュリーは大半の時間をここで過ごす。
紅霧異変後外部との交流がなされるようになってから、時折招かれざる客が来るようになって、咲夜がいらない気を利かせて勝手にお茶が出来る環境を整えてしまったのが、この丸テーブルである。
「いや、いいよこれで。」
申し訳なさそうにしているパチュリーだったが、妹紅としては客間に通されるより、仕事場の方が落ち着きむしろ都合がいいし、事前に魔理沙の部屋を経験して魔法使いの部屋には予め免疫があったので特に抵抗感もない。
「今日は本当にご免なさい。」
「いや、こっちこそ、あの門番をマジで殺すところだった・・・悪かった。」
「殺されても仕方がない事だわ。」
「私はもう誰も殺す気はなかった。不死人狩りの時もだし、そう思っていたからフランドールも殺さない方法で対処しようとしてあーしたんだ。それに・・・。」
「それに?」
「殺していたら、今こうしてあんたと話してはいないだろ?」
美鈴が死ぬという実感がないパチュリーとしては、生死の問題を軽く口にしているが、よく考えてみるともし美鈴が目の前で殺されるのを見たら、こうして妹紅と対話出来る精神状態にはなっていないと思い至る。いや、妹紅が言いたいのはそれではなく、そもそも美鈴が死んでいる状況は、自分も死んでいるということだと理解し背筋に冷たいものが走る。
「それは確かに・・・そうかもしれないけど・・・止めましょう、その話は。」
その後、ルビーが淹れた紅茶と茶菓子を振る舞われた妹紅は、パチュリーが取り出した水晶球に映る美鈴と咲夜のやりとりを見る事になり、紅魔館の意外な相関関係を知った。