東方不死死 第48章 「不義の報い」


 いつになく大量の冷気を吐き出す霧の湖。湖面付近の気温はこれから暑くなる時節にもかかわらず、氷点下近くまで冷えており、寒さの好きな氷の妖精達が水を得た魚の様に元気に跳び回って、奇妙な軌跡の模様を描いている。
 ここ数日、眠るように活動を止めていた霧の湖はまた活動を活発化させていた。
 一定の周期で冷気を吐き出す霧の湖は、水面の水蒸気を冷やして霧に替え、それを繰り返すことで常に湖周辺は霧に覆われている。
 その霧が南からゆるく流れる風に乗って湖畔に建つ紅魔館を白いベールに覆い隠す。そして、幻想郷における重要な夜が明けた朝、藤原妹紅は霧の紅魔館の前にたたずんでいた。

 藤原妹紅は紅魔館の正門前で門番の紅美鈴と対峙していた。
「十六夜咲夜に用がある。会わせてくれないか?」
 ポケットに手を突っ込んで背筋を伸ばして立つ妹紅は、紅魔館の門の前で仁王立ちしている紅美鈴に不機嫌そうに申し出る。何故妹紅が不機嫌かと言えば、訪ねてきた妹紅の正面で強烈な闘志をむき出しにして、まるでこれから天王山にでも臨むかのような面構えでこちらを睨み付けているからである。来客に対してする態度ではないが、不審者と見られたのだろうか?
 妹紅は言い方や態度が悪くて門番の機嫌を損ねたのだろうか?
「(何なんだこいつ・・・。)」
 八雲紫の妹で思念体となって妹紅に中に存在する藍と交信する為に、十六夜咲夜の協力を得ようとここに来ただけなのに、どうしてこうなってしまったのだろうか?これは一戦交えなければならない雰囲気である。
 東洋系の顔だが、整った精悍な顔立ちをしており背も高いかなりの美形。髪の色は鮮やかな橙色に近い朱色で鶯色の衣服とのコントラストが映える。既視感のあるもみ上げの三つ編を見て、十六夜咲夜も同じ様なところを同じように編んでいたことを思い出す。紅魔館に仕える者はこうする規則でもあるのだろうか?
 バランスの取れた理想的な体型をしており、見るからに武術に長けている武闘派妖怪という佇まいである。激しく動くのには適さないと感じる丈が長く裾が狭い窮屈そうなスカートを履いているのが意外に見える。しかし、よく見ると腰の横で生地が割れており、脚は自由に動かせるようだ。
「おい?聞こえないのか?」
 問いかけても返事が無いので途方に暮れる妹紅。

 咲夜と内通している事、魅魔らの企みについて館の主であるレミリア・スカーレットに現時点では知られたくない妹紅としては、今朝方発生した紅魔館付近の濃い霧を見て、今なら気付かれずに館に近付いて咲夜とコンタクトが取れるのではないかと判断してここに来たわけである。
 紅魔館の主要人物の一人と思われる門番の妖怪にも当然それらの話は通っていると思っていたが、どうやらその予想は外れたようだ。
 なるべく静かに行動して事を穏便に済ませたい妹紅だが、門番はそれを許してくれそうにもない。もし、ここで一戦交える事になれば、館外の戦闘に気が付いて館の主も飛び出して来るだろう。
 魅魔の企みに応じた紅魔館のメイド長を務める十六夜咲夜もその辺は心得ているはずなのに、何故この門番を制止させないのかわからない。或いは取引の契約破棄という意思表示だろうか?いや、それはあり得ない。ここで契約を破棄すれば、咲夜は一生ドッペルゲンガーに悩まされる事になるのだから。もし、これが裏切りなら然るべき報いを与えなければならないだろう。

「(・・・見られているな・・・。)」
 妹紅は霧でシルエットしか見えない門番の後ろの紅魔館に目をやり、何者かの視線がこの状況を監視している事に気付く。
「なるほど、そういうことか。」
 十六夜咲夜は、門番をけしかけてこちらの実力を確かめようとしているのだろう。妹紅はそう確信した。
 魔理沙の家で会った時はドッペルゲンガーに遭遇して、そのショックからか生気が失われていた顔をしていたが、今は鋭気が回復して本来の姿に戻ったということだろう。
 咲夜の立場を考えれば、妹紅らの前で無様な姿を晒した手前、少しでも気概を見せて汚名を返上したいという思いがあってもおかしくはない。というより、そう思うくらいでないと吸血鬼の従者は務まらないのだろう。
 十六夜咲夜とは不死人狩りにおける戦闘が初対面で、吸血鬼の問題に関しても妹紅ではなく魅魔と咲夜の間の契約のようなもので、妹紅はこの件に関しては第三者という立場をとった。
 ドッペルゲンガーを倒す手伝いをする代わりに藍と交信する為に手間を取らせる約束で妹紅と咲夜は繋がってはいるが、これはお互いが手間を一つ出し合う取引であって、信頼関係を築こうとする思惑からの投資作業ではない。
 先日の咲夜らとの会見は、風見幽香に吸血鬼に深く関わるなと助言されていた後の事で、魅魔・パチュリー・咲夜らが同じ目的の為に良い関係を築こうとしている最中も一歩引いた位置にいた妹紅。その時は関わるなと言ってその通りにしていたが、昨夜は一転して全てを引き受けろと言った幽香。状況が変わったのだから仕方がないが、あの時彼女達の企みに魅魔と共に荷担する盟約を結んでいれば、この門番も、そして咲夜も歓迎してくれていたかもしれない。中々上手くいかないものである。

 妹紅としては、この異変に対して若干第三者気分でいたが、今は慧音を生かす為に幽香の言葉通り全てを思いのままに掌握しようとして積極的に動こうと決意した時である。その手始めとして、紫のスキマの巻物の有効利用を考え、その秘密に迫る為、紫の肉体を一度掌握した藍と交信し、スキマを開く座標情報を咲夜を経由して聞き出そうとしたのである。
 なるべく音便に事を済ませたい妹紅の思いとは裏腹に門番はやる気満々である。門番との戦闘は避けたいところであるが、それが叶いそうにない。
 この状況は十六夜咲夜が門番に命じてそうさせているのか、門番が勝手に始めた事かは現時点で何とも言えないが、とにかくここで戦闘が起こる事を歓迎している事に間違いはないだろう。
 妹紅の最大の懸念は館の主レミリア・スカーレットの存在である。ここで戦闘をすれば絶対に彼女に気付かれるだろう。十六夜咲夜は、レミリアに気付かせるためにこような茶番を演出しているのだろうか?それとも、レミリアに気付かれない状況が確保されている上での今の状況なのだろうか?例えば吸血鬼が紅魔館に不在といったように・・・。
 咲夜とて馬鹿ではないだろう。この異変を台無しにするような愚は冒さないはずである。妹紅は具体的にどうしたのかは分からないが、レミリアの件は解決済みの問題と判断し、ここでの戦闘を致し方なしと諦める事にした。

 妹紅はゆっくりと東から西に流れる霧の中で時々見える紅魔館の窓からこちらを伺う十六夜咲夜の気配に、一度視線を向け、何も反応がない事を確かめてから門番に向き直る。
「どうやらその気になったみたいですね。」
 妹紅の表情が変わったのを見て紅美鈴は、闘志を出しまくって挑発した甲斐があったとニンマリする。
 この時美鈴は咲夜に命じられて妹紅と交戦しようとしたわけではなく、強者とみて自発的に手合わせを望み臨戦態勢に入っただけである。
 この闘志むき出しの態度は妹紅に対する挑発ではなく、上司である十六夜咲夜に対する交戦許可を求めるアピールだった。これだけアピールしても咲夜が何も言ってこないという事は、戦闘許可が出たと判断していいだろう。久々の強敵に胸が躍る、咲夜の真意にまだ気付いていない美鈴だった。

「まさか向こうから訪ねてくるとは・・・。」
 紅魔館の窓から外の様子を窺うメイドが一人。紅魔館の全てを取り仕切るメイド長十六夜咲夜である。
 今現在、スカーレット姉妹は休眠中で、吸血鬼とはいっても10歳程度の子供である事に変わりはなく、1日に10時間以上は睡眠を取る必要があった。
 本来吸血鬼は夜行性だが、面白い事件は人間が活動し妖怪達が寝静まる昼間に起こる事が多く、退屈な日々を送るレミリア・スカーレットは事件や異変を体験しようと苦手な日中に活動する事もあり、丸一日起きていられない吸血鬼姉妹は昼寝て夜活動する日と夜寝て昼活動する日を定期的にシフトしている。そのシフトチェンジの際に強制的に活動を停止させて、体内時間のズレによる時差ボケを起こさないようにパチュリー・ノーレッジの魔法によって強制停止させているのである。
 そのスカーレット姉妹は、昨日まで昼型のタイムスケジュールだったが、今日から夜型のタイムスケジュールに変更したため、日の出の時間であるつい先程休止させたばかりなのである。起こすのは夕方になるだろう。
 咲夜はレミリアが完全停止する時間を利用して藤原妹紅と接触しドッペルゲンガーの退治の協力依頼をするつもりで、彼女をもてなす準備など今日一日の段取りを組んでいたが、思いも掛けず向こうから出向いてくれたというわけである。これも運命の導きという事だろうか?

 咲夜から見る藤原妹紅の印象は不死人狩りでは荒々しく圧倒的な火力で力攻めしてくる力に頼り思慮に欠けたタイプに見えたが、先日魔理沙の家で会った時には大人しく知的な雰囲気を持っていた。フランドール・スカーレットを大人しくさせたのも彼女によるもので、咲夜としては藤原妹紅の人物像がいまいち把握出来ないでいる。
 パチュリーの師である魅魔の関連で紅魔館に対してやや友好的な立ち位置にあると思われるが、完全な味方というわけではなく中立の立場を取ると思われる。いずれ敵対する可能性もありその時の為に妹紅の実力をしっかりと把握しておきたいという心情がどこかに存在していた。そして、それは正に今ではないかと直感したのだ。
 門番と突発的に起こった戦闘ということにしておけば、門番の非礼を咎めるるだけで済むはずだと、既にこちらの意図を見抜かれている事に気付いていない咲夜。
「さて、お手並み拝見・・・といきましょうか。」
 館の上階は霧が薄く、上から下は比較的見通しが良い。小さな窓から門前の二人の様子を楽しそうに見る目の前の利に目がくらむ咲夜。
 気力が充実し、悩みの種であるドッペルゲンガーを倒せる算段も付き、そのキーマンが向こうから来てくれた。この戦闘もまた歓迎の宴の余興と思えばいい。
 昨晩の食事の際、レミリア・スカーレットが活動時間のシフトを希望した時からドッペルゲンガー退治の計画を起こそうと目論んでいた。そして主が寝ている間、客人として藤原妹紅を招くつもりでいた。
 しかし今、何故か客人が招く前に現れた。何か良い流れが自分に来ていると思わずにはいられない。
 余りにも上手く進む状況に、全てが思いのままに捗るという錯覚に陥った咲夜は、藤原妹紅と交わした互いの協力関係を軽視し礼を失した。
 藤原妹紅の実力を確かめるチャンスとみてこのような行動に出てしまった十六夜咲夜は、この数分後に生涯最悪の罪を犯して痛烈な罰を受ける事になる。


「いざ、尋常に勝負!」
 仁王立ちの姿勢から左足と右手を上げる何かのポーズを取る門番。妹紅はそれを尻目に、咲夜のこの愚挙にどう落とし前をつけさせるか考える。一度契約した相手にこのような態度を取る事は、幻想郷や紅魔館のルールはともかくとして妹紅のルールの中に許せる道理がない。自分の身の丈を考えず執拗にちょっかいを出す躾の悪い犬同然の咲夜の行動にはそれなりの報いが必要である。
「来な、雑魚め。」
 この台詞は門番ではなくメイド長に言った言葉である。
 妹紅の冷ややかな、本来咲夜に向ける言葉と視線を浴び、明らかに下に見られた紅美鈴。雑魚と呼んだ事を後悔させてやると激しい怒りを純粋な闘志に換え燃え上がらせる。
 挑発に乗って相手の術中にはまるほど愚かではない美鈴は、両の脇を締めて拳を低く構え冷静にかつ大胆に突進する。妹紅はポケットに手を突っ込んだまま低い位置にある美鈴の頭に前蹴りで牽制するが、突進のスピードを数段上げた美鈴は、跳躍して膝を突きだし妹紅の顔面を襲う。
 前蹴りを空振って慌てて仰け反ってその攻撃をかわした妹紅は、残像を残して目の前から消える当たれば即死の攻撃に肝を冷やしつつ、相手がこちらが不死身だと知って手加減無しの全力で来ている事を理解する。
「(くそ!速えぇ!)」
 そのスピードとパワーに度肝を抜かれ、試合ではなく殺し合いだと理解する妹紅は、スイッチが切り替わり戦闘態勢になる。
「貴女も手加減無しで来て構いませんよ。じゃないと、雑魚に足元すくわれますよ。」
 挨拶代わりの初撃をかわされ妹紅を飛び越えた美鈴は、攻撃を一旦そこで切って互いに向き直り、構えた右手でちょいちょいと手招きして挑発する。
 正式な武術の型を持っていると言う事は、この妖怪がかつては人間の『前人妖怪』の可能性が高い。
 この門番の使っている武術は、妖力を呼吸と気を操作する一連のポーズを使って調整し、身体能力を飛躍的に向上させている様に見える。こうした技術は元々力の無い人間が力を増加させるために編み出したもので、最初から強い純粋な妖怪には見られない型である。
 彼女が前人妖怪なら妖怪になる為に何かを得て何かを失った可能性がある。これを捨得能力と言うが、そこに妖怪としての特徴や長所と弱点が見えてくるはずである。妹紅は強い妖怪と相対する時の様に、冷静に相手を分析しはじめていた。

 妹紅は美鈴の挑発には乗らず、見下した表情のまま分析を始める。この時の妹紅は紅美鈴が武器や魔法といった攻撃から無敵の身体を得た代償に、打撃に対する極度な脆弱性を負ってしまっている特殊な防御特性に気付いていない。
 体術を武器に闘う美鈴はその脆弱性を鍛錬と技術、気のコントロールでカバー出来るため、一定レベルまでは弱点を克服している。しかし、無防備なところに一撃貰えばかなり危険であることに変わりは無い。そんな美鈴にとっては攻撃こそが最大の防御であり、打ち合うという概念を持たない超攻撃的な型であるため全ての攻撃が相手の息の根を止める恐るべき必殺の一撃となる。
 美鈴は素早い出足で連続攻撃繰り出してくる。妹紅は必死に避けながら相手の力量を見る。カウンターを取ろうとするものの、明らかに向こうのスピードが速く、かえって大きな隙を与えて危険である。
 それにしても全く放出系の技を出して来ず、全て打撃による攻撃だけである。妖怪なので当然妖気はあるが、それらが全て身体能力の強化に回されているようである。体術が好きでそうしているのか、あるいは体術しかできないのか。この見極めが美鈴の弱点を暴く鍵になると目星を付ける妹紅。

 2、3発いい攻撃を貰い立て直す為に距離をとろうとする妹紅を執拗に追い回す美鈴。しかし、こちらの攻撃時間が長くなりリズムが単調になった事でカウンターを合わせられやすくなると察知した美鈴は一度間合いを取り利き手を逆にする型に換えてリズムを変える。思わず巧いと感嘆する妹紅だが、当然それは表情に出さない。
 見下した表情を変えない妹紅に対して美鈴はその表情を焦りにかえてやろうと再び突進する。利き手が変わって攻撃の出所が全く変わった美鈴の攻撃になす術なく回避一辺倒になる妹紅。
 唸りを上げる拳や蹴りの攻撃は、何れも当たれば致命傷になる威力である。にもかかわらず決して大振りにならずカウンターや反撃の隙が見えない。
 ポケットに手を入れたままかわしていく妹紅は、これでも美鈴がまだ本気ではない事を知りながら情報収集の為相手に攻めさせる。妹紅にとってこのポケットに手を入れるスタイルは、決して手を抜いているわけではなく、これが妹紅の一番動きやすく、カウンターを入れやすい型なのである。妹紅は初めから全力で避けており、余裕は全く無い。
「逃げているだけでは、私は倒せませんよ!」
 猛攻をかわし続ける別に勝つ気はない妹紅だが、その逃げる妹紅の癖も見切った美鈴の動きがどんどん良くなっていく。

「(そろそろか・・・。)」
 妹紅は美鈴の調子が上がってきた事を察知すると、ポケットから手を抜いて身構え、表情を見下した目から狩人の目に変え、流れのリズムを操作してみる。
「そうそう、その顔です。」
 妹紅の擬態である変化に気付かず満足げな表情をする美鈴。この動作は油断を引き出すためだけの行動ではなく、戦いの組み立てを変えるためのものである。
「(組み手の技術だけならこいつの方がはるかに上か・・・。)」
 腕力やスピードは常に相手が上の対妖怪戦を、妖の狩人と呼ばれていた時代から永遠亭まで戦いを続けている妹紅にとって、相手が強い状況で戦う事が当たり前になっている。
 久し振りに狩人の血が騒ぐ妹紅は冷静に相手を分析し、体術だけの勝負で勝ち目が無い事を知ると同時に何か別の攻略方法を模索しはじめる。
「次は貴女の番ですよ!」
 来いと手招きする美鈴に妹紅はここは素直に応じて突進する。カウンターの回し蹴りが唸りを上げて頭上に襲い掛かり、寸でのところで頭を下げてかわす妹紅。その時美鈴の脚が妹紅の髪の毛に巻き込まれる。
「!」
 妹紅はその時おかしな体験をする。髪の毛が美鈴の脚を避けるように勝手に動き、何も無い空間を空振りするように、抵抗なく回し蹴りが宙を切ったのである。
 髪の毛の束を妖術で束ねているのでそこを通過する脚のスピードが減衰することなく通過するわけがない。普通なら切り裂かれるか絡まるかするはずである。
 美鈴が妖術や魔術といった攻撃を完全に無効化する事を知らない妹紅は、ここに強い興味を持つ。
「(何か細工があるのか?)」
 何か妖術を使ったのだろうか?いや、彼女はそれらしきものは使っていない。疑問を顔に出さず分析する妹紅。
 分析に思考をとられた妹紅は、空振りした美鈴の回し蹴りの大きな隙に吸い寄せられる様に迂闊にもそのまま懐に飛び込んでしまう。
「隙あり!」
 妹紅は右の拳を下から突き上げ、回転して背を向けた美鈴の背後に攻撃しようとしたが、美鈴はそれをチャンスと見て大きな声を上げて、背後に妹紅をおいたまま見ずに、脇を締めてそのまま両の肘を後ろに突きだし身体ごと妹紅にぶつける。
 一瞬思考に気を取られて迂闊に飛び込んだ妹紅は、予測になかった美鈴の反撃をかわす事が出来ず、顔面に肘を喰らって吹き飛ぶ。
 5メートル以上飛ばされた妹紅は、粉々に砕けた顔半分を修復しつつ着地して態勢を立て直そうと顔を上げるが、そこに間合いを詰めた美鈴の遠心力を効かせた鋼鉄のハンマーの様な前宙返りの踵落としが妹紅の頭部めがけて落ちてくる。
 妹紅は避けられないと判断して咄嗟に両腕を交差させて十字防御で頭部を守るが、強烈なその一撃に両腕が爪楊枝の様に簡単に折れ砕けてダメージが頭部にまで貫通する。視界がぐにゃりと歪む。続けてもう片方の脚の踵がトドメとばかりにガードの崩れた妹紅の頭部を完璧に捉える。
 腕の骨と頭蓋の砕ける音、そして頭部の内部組織の一部が潰れる鈍い音が鼓膜の奥で反響し、目から火花が飛ぶ妹紅。
 攻撃が一瞬見え頭部の著しい損傷を予め予測できた為、喰らう瞬間から回復させる事が出来た妹紅は即死を免れる。
 半ば捨て身の攻撃だった美鈴は、勢い余って妹紅に覆いかぶさる様に身体を預け、どさっと折り重なって2人は地面に倒れる。
 衝撃で半分意識が飛んだ妹紅は霞んだ視界のまま頭で考えるよりも先に身体が動き、上に乗っている美鈴を追い払おうと無意識に炎を身に纏う。美鈴はその炎に対して身体を横にコロコロと地面を転げてゆっくり慌てず炎から逃れる。
 とりあえず頭の損傷を回復した妹紅は次の攻撃を警戒し本能的に身構える。しかし、美鈴は向かってこない。
「驚きました。あれを喰らって生きてるなんて・・・貴女本当に人間ですか?」
 確実に仕留めたと思った美鈴。不死人と言っても一応死ぬわけで、思惑通りならここで妹紅はリザレクションしていたはずであり、以前の妹紅なら間違いなく死んでいた。
 美鈴はそれを一本取った事にして後は土下座でもして非礼を詫びようとしていたが、どうやらそれが許される状況ではないことを知る。この時美鈴はとんでもないバケモノに手を出してしまった事を後悔しはじめていた。
「(咲夜さん、何をしているのですか?そろそろ止めてくださいよ!)」
「(十六夜咲夜は何をしているんだ?もう十分だろう?)」
 2人は同時に同じ人物の事を考えた。

 紅魔館の3階の窓から戦況を見下ろす十六夜咲夜は、美鈴の戦いぶりに一定の満足感があったが、それでも全てに満足していなかった。
「あなたの無敵の防御力を見せてやりなさい。妹紅の炎が効かない事を知らしめて、紅魔館に藤原妹紅の天敵ありと教えてあげなさい美鈴!」
 十六夜咲夜の能力は時間を止めることではなく思念界と現実の2つの世界を自在に行き来出来る能力である。これは時間を止めることと限りなく同義であるが、藍の思念体を身に宿す妹紅には効かない能力である。
 咲夜の能力はどんな相手にでも等しく有効で、相手を倒せる腕力は無くとも戦いにおいて圧倒的優位に立てる力である。しかし、藍という主を守護する思念体を身に宿している妹紅にだけはこの能力は効かないのである。
 実質能力的な天敵がいない十六夜咲夜の唯一の天敵が藤原妹紅というわけである。
 その様な目障りな力は存在するだけでストレスの種である。しかし、その妹紅に天敵がいたらどうなるか?少なくとも紅魔館に対して大きな顔が出来なくなるだろう。咲夜は美鈴を対妹紅の切り札と考えたのである。
 十六夜咲夜は今現在の自分の能力に関して特に体術面、飛行能力などは紅美鈴を師に仰ぎ教わって習得したものである。今でも美鈴に全く相手にされないほど実力に差があり、時々稽古をつけてもらっている状況である。
 藤原妹紅は本気で殺しにかかっている師匠である紅美鈴の猛攻を凌ぎ、一度も殺されず立っている。これを目の当たりにした咲夜の中で何か嫉妬にも似た黒い感情が湧いてきている事に本人は気が付いていない。
 この時咲夜は、客人として礼を尽くさなければならない藤原妹紅に対して、激しいライバル心が燃え上がっていた。

「(・・・。)」
 しばし無言で咲夜を待つ2人。
「(何故咲夜さんは止めに来ないのでしょうか?止めるならさっきのタイミングが理想的なのに・・・。)」
 美鈴は何故咲夜が止めないのかその意味を考える。
 咲夜が止めに来ない理由は、戦闘の続行を希望しているからであり、何かしらの結果を求めているからだろう。では一体どんな結果を求めているのだろうか?
「(そうか・・・私は藤原妹紅の能力の全てを出させていない。私の防御特性なら妹紅さんの炎は無効化出来るから妹紅さんに好きなだけ暴れてもらえる。咲夜さんはその妹紅さんの本気の力を見たいのですね。了解です咲夜さん。一芝居撃って妹紅さんを本気にさせますよ!その代わり、骨は拾ってくださいね。」
 美鈴は自分なりに咲夜の真意を理解した。ようするに自分だけ攻めすぎたのだ。しかし、自分が藤原妹紅の天敵として存在感を示すというところまでは気付いていなかった。
 結果が咲夜の思惑通りに進めばおのずと美鈴自身は妹紅に対する切り札となることを自覚するだろうが・・・。

「(こいつ、何かおかしいな。さっきの炎の時もゆっくりしていたし・・・。)」
 炎はほとんどの生き物が嫌う攻撃である。身体的に炎や熱の耐性はあっても、頭髪や衣服が焼けるのは嫌がるものである。美鈴はあの炎で何も焼かれていない。髪の毛の束の中を回し蹴りが素通りしたのも不自然だし、何か美鈴には大きな秘密がある。
 妹紅は美鈴の特殊な防御特性に気付き始めていた。
「藤原妹紅さん!」
「ん?」
 そんな中、突然名前を呼ばれる妹紅。美鈴は何故かにんまりとしている。余りにも脈絡が無く唐突なので一瞬戸惑う、こちらを怒らせる演技をしていることを知らない妹紅。
「妹紅さん、どうやら体術は私の方が上ですね。」
「そうだな。」
 素直に認める妹紅。事実なのだからしようが無い。
「でも、負けているわりに表情は余裕ですね。」
「そうだな。」
 美鈴の意図を図りかねて同じ言葉で返答する妹紅。
「それは恐らく他の分野においては自分が上だという自信があるから余裕でいられるというわけですね?」
「そうだな。」
 確かにそうかもしれない。
「ふふ、実は私、炎も妖術も、体術以外の全ての攻撃が効かないのですよ。」
「ほぉ?」
 素っ気無い表情で応じていた妹紅の表情が明らかに変わる。美鈴は挑発に乗ってきたと下手な作戦が成功したことを確信する。しかし、この無敵宣言は紅美鈴にとって、そして十六夜咲夜にとっての死刑執行のサインとなる禁断のキーワードだった。
「どうです?試して見ます?」
 ニヤニヤと妹紅を挑発するが内心冷や冷やしている美鈴。
「カスが、調子に乗ってるとマジで殺すぞ?」
 妹紅の表情が邪悪に変わる。本心では土下座して謝りたい美鈴だが、もう後戻り出来ないと腹をくくり、妹紅の力を引き出す為にとことんまで妹紅を挑発にかかる。
「残念ながら貴女の炎や妖術では私を殺す事は出来ませんよ。拳以外効きませんから。」
 美鈴のやけに丁寧な言い方が、余計に妹紅の怒りを誘う。
「分をわきまえろゴミが。格が違うことがわからないのか?」
 この恐ろしい妹紅の変身と怒気に身が竦みそうになるが、気を強く持って反論する美鈴。
「いいだろう。なら、お前を炎で殺してやる。」
「だから効かないと言っているでしょう?」
「ふん、自分より強い奴と戦った事がない雑魚がほざくな。」
 ポケットに手を入れ、先程までは背筋を伸ばしていた妹紅が少し猫背になって、顔を下からえぐるように睨み付ける。
「そうだな、仕上げはこの掌で軽く触れるだけで殺してやるか。」
 あまりにもこちらを小馬鹿にする妹紅の言いように、美鈴も腹が立ってくる。
「いい加減にしないと怒りますよ。そんなもので死ぬほど私は軟ではありませんから!」
 相変わらず言葉遣いは丁寧だが、その言葉尻に怒気が篭っているのは妹紅からもわかった。
 先程まで繰り広げられた高度な戦闘の応酬に美鈴は内心満足していた。しかし、これから始まる泥仕合はただ不毛な力のぶつかり合いになるだろう。少し残念であるが、これも咲夜のオーダーなのだから仕方がない。

 ここで美鈴は、心静かに襲い掛かる嵐を待ちながら、先程の妹紅の台詞を反芻していた。
「(自分より強い相手と戦った事がないか・・・確かにそうかもしれない。)」
 妹紅の言葉は確かにそうだった。紅魔館の住人になってずっと門の前に立ち続けていた。強い相手を求めて彷徨う事は許されなかった。藤原妹紅はどれだけの強い相手と戦い続けてきたのだろうか。彼女の言葉が本当なら自分はその炎に焼かれてしまうことになる。いや、そうはならない。咲夜の判断はきっと正しいはずだ!美鈴は咲夜を信じ気持ちを強く持ち身構えた。
「準備はいいか?カス!妖怪無勢がこの私にデカイ口を叩いた事、死を持って償わせてやる!」
 先程とは別人の怒りに身を焦がす妖の狩人に戻った藤原妹紅。妖術使いのスペシャリストである妹紅に投げた無敵宣言という挑戦状は、凄まじい化学反応を引き起こした。
 その妹紅の迫力に美鈴も流石に気圧される。本能がやばい逃げろと訴えている。冷や汗が止まらない。しかし逃げる事は出来ない。美鈴にも門番としての意地がある。
「こ、来い!」
 勇気を振り絞って気合を入れる美鈴だが不覚にも声が震えた。
「!」
 その時、妹紅から一瞬だけ爆発的な妖気が発生すると同時に、一瞬で周囲の霧が溶けてなくなる。
 悪鬼の如き形相で紅魔館に隠れている咲夜を睨む妹紅。その咲夜は魂を鷲掴みにされたように、背筋に冷たいものが走る。咲夜はやばいと感じたものの、美鈴を信じ状況をこのままにした。

 霧が無くなり視界が良くなった周囲に驚いて一瞬気を取られた美鈴だが、すぐに妹紅に向き直り身構える。しかし、妹紅は背後に建つ紅魔館に視線を向けたまま動く気配はない。隙だらけに見えるが危険を報せる本能が美鈴の攻撃行動を抑制する。
 やがて妹紅は美鈴に向き直ると徐々に口元が笑うように裂け、体内で燃えさかる炎が溢れ出して口から漏れ出しているかの様に、金色に輝く火の粉の粒を一つ二つと吐き出していく。
 既に攻撃が始まっている事に気づかない美鈴はただ固唾を飲んで待ちかまえるだけである。
 口から吐き出された火の粉は空へと舞い一定の高さまで昇ると、その一つ一つに意志がある様に美鈴の周囲に降りてきて漂い始める。まるで持ち場に配置されていくかの様に・・・。
「は!」
 ここで美鈴は身体に異変を感じた。体が動かない、いや動かせないのだ。
「これからが地獄の始まりだ。」
 妹紅のその言葉を聞いて既に攻撃されている事を理解する。美鈴はこの火の粉が妹紅の技の一つだという事に気付けなかった自分自身を呪い、同時に何故体が動かせないのかその疑問を率直に声に出して尋ねようとしたものの声が出せず愕然とする。
 まるで自分自身の体で作った型の型枠の中に閉じ込められたかの様に身動き一つ出来ない。金縛りという自分の身体に起こる症状ではなく、体に力が入るのに強い力で強制的に動きを止められている感じである。
「(何故体が・・・。)」
 身体は動かないが思考は働く美鈴。しかし、口も開かないし瞬きも眼球するら動かす事が出来ない。
 美鈴は自分の周囲に漂う小さな火の粉がこの状況を作ってる事は瞬時に理解出来たが、体を動かなくする原理が全く分からなかった。
「裏切り者の十六夜咲夜に捨て駒にされた可愛そうな門番。お前に恨みはないから冥土の土産にいい事を教えてやろうか。」
「(咲夜さんが裏切り者?何をいっているんだこの人は?)」
 自分の知らないどこかで妹紅と咲夜に何らかの因縁があることを今知る美鈴。もはや何がどうなっているのか分からない。ただ、彼女の言っている事が本当なら悪いのは咲夜で自分はその片棒を担いだということになるのだろうか?
 美鈴は妹紅が言った冥土の土産の話の事よりも裏切り者という言葉だけが胸に刺さる。自分達はやってはいけない不義を働いたのではないだろうか?正義の拳と堅く信じる美鈴は自分が悪者になっていると直感する。

 妹紅はゆっくりと歩み寄りながら死に行く美鈴に無慈悲に語りかける。
「炎が効かないお前の身体はどんな仕組みでそうなっているのか、理解していないだろう?」
 頷こうとしたが身体が動かない美鈴。確かにどういった仕組みで力を無効化しているのか知らない。妹紅はリアクションが取れない美鈴を無視して話を進める。
「お前の身体は打撃に対して脆いかわりに、打撃以外の力に対しては強い耐性を得た。違うか?」
 違わないと心の中で答える美鈴。
「前人妖怪特有の捨得能力の仕組みは、何かを失い、何かを得る事だ。お前は武器や魔法を無効化する代償に打撃耐性を捨てた。では、どうやって無効化しているのか?それは力に対して同じ力で反発して打ち消す対消滅反応の作用によるものだ。そしてその現象を引き起こす力の源がお前の失った打撃耐性ということだ。」
 美鈴にとって初めて効く言葉だったが理解することは出来た。
「1の力に対し、1の力で跳ね返して打ち消して0にする。2なら2、3なら3だ。」
 自分の防御は100に50を上乗せしたのではなく、打撃防御を0にして他防御を100にするバランスの調整でしかないのだ。
「仮にお前の身体が10だとしよう。9までの力ならお前は身体の自由は利く。しかし、これが20、30の力なら10のお前の身体は、莫大な応力とそれと同じ反力の狭間で身動きがとれなくなる。まぁ、普通は一瞬だから気にもしないだろうがな。」
 なるほど、それが今自分が置かれている状況かと身を持って知る美鈴。
「わかっただろう?千の力の狭間に無理矢理バランスをとらされているのさ、今のお前は。」
 この周囲に漂う小さな火の粉の一つ一つが、千の力を内包した彼女の力という事だろうか?常識の範囲を超えた凄まじい炎の使い手だった。試合はともかく純粋な殺し合いで勝てる相手ではなかったのだ。咲夜は見誤ったのだ。妹紅の真の実力を。

 動けない美鈴の顔を下から覗き込むようにして邪悪な笑みであざ笑う妹紅。フランドール・スカーレットのキレた表情よりも恐ろしく感じる。
 フランドールといえば、彼女の力は1億であっても単一方向から一瞬しか発動しないので対消滅が断続的に起こらない。しかし、妹紅の火は常に身の回りにあって全方位から力をぶつけてくる。だから身動きがとれなくなるのだ。恐らく特殊な防御耐性を持つ自分だから炎熱に焼かれずに済んでいるが、これが生身の人間ならとっくに消し炭になっているはずだ。
 話を聞いた後だと自分の皮膚の皮の一枚のところで物凄い力がぶつかり合って消滅している様子が何となくわかる。今までは特に気にも留めておらず、特殊防御が働いているだけだなと、他人事の様に感じているだけだった。
「私はさっき、掌で触れて倒すと言ったよな?」
 あ、っと心の中で叫ぶ美鈴。この絶妙なバランスの中で命を保たれている状況が崩れた時自分の身体は力の濁流に晒されて粉々に砕け散るだろう。
 外見上何も変わっていないが、恐怖心が滲み出る美鈴の様子を面白そうに見ながら妹紅は右手をゆっくりと前に差し出す。
 ゆっくりとゆっくりと近付いてくる手。死がはっきりとした形となって目前に迫ってくる恐怖。思わず息を大きく吐こうとして今の今まで呼吸をしていなかった、いや出来なかったことに気付く美鈴。妹紅が手を下さずとも酸欠で何れは死ぬという事か。もう、既に死んでいるのと同じ事かと悟る美鈴。
「(咲夜さん・・・予言書の通り貴女をここに導いた時点で私の役割は終わっていたのですね。敵にまわしていい相手とそうでない相手、わかりましたか?どうやら私はここまでのようです。お嬢様達の事をくれぐれも宜しくお願いします。貴女もいずれ役目を終えこっちにくるでしょうが、その時は覚悟していてくださいね。)」
 美鈴は全てを諦め心の中で遺言する。最後は咲夜に対する怒りのメッセージだった。
 気持ちが折れた事は妹紅も理解出来た。この時点で勝負有りであるが妹紅は手を止めない。今の妹紅に昨日までの慈悲はなかった。
 咲夜そうであるように自分にとって掛け替えのない存在の為に必死なのだ。紅魔館に遠慮をして異変を中途半端に収めるつもりはない。互いの信頼が崩れた以上、もはや力ずくで十六夜咲夜をねじ伏せるしかない。咲夜の能力は有用なので咲夜を殺す事は出来ない。だから、代わりこの門番の死を持って咲夜への罰とすることを決めた妹紅。妖怪を退治するのは何百年振りだろうか?虚しさと同時に狩人の本懐で高揚する妹紅。
「死ね。」
 冷ややかに言い放つ妹紅は、ついにその手を美鈴の左胸と鎖骨の間に置く。
 ほんの少し、コンマ数ミリの単位で動いた美鈴の身体は、激しい衝撃を受けて全身が小刻みに振動を始める。対消滅エネルギーが僅かだが美鈴の体の内部に注ぎ込まれ、体内組織に超振動が発生し、血液などの流体物の動きが加速し体が沸騰しはじめる。ほんの少しの力でも即死する程のエネルギー量である。
「あがががががががががが!」
 白目をむいて太鼓を連打するような周期の短い絶叫を上げる美鈴。
 すぐに身体が水風船のように膨れあがった美鈴の身体は、眼球が飛び出しかけ、あとほんの少しこのまま続ければパンと音を立てて弾け飛ぶ。
「恨むなら咲夜を恨むんだな。」
 妹紅がそう呟いたその時だった。妹紅の眼前に十六夜咲夜が突然現れ、そのかざした手を横にずらし美鈴から引き離した。門番の危機にようやく気付いて時間を止めて来たのだろうとすぐに理解する妹紅。

「早いお出ましだな。」
 全身を火傷したかのように真っ赤になった美鈴の膨れあがった身体は、妹紅の力場から解放された事で元の形に急速に萎んでいく。膝から崩れてシューという音と蒸気を上げて倒れ込む美鈴を咲夜は受けとめ妹紅の手の届かない自分の背後に静かに寝かせる。まだ死んでいない。良かったと胸をなで下ろす咲夜。妹紅はその様子を冷ややかな目で何もせず黙って見ていた。
 立ち上がった咲夜は悲痛な表情を妹紅に向ける。完全に状況を見誤った。過去に経験したことのない失態を犯してしまったと後悔する咲夜。
 昨日まで藤原妹紅を賓客として招き、悩みの種であるドッペルゲンガーの討伐を依頼するつもりでいたのに・・・。
 何故こんなことになってしまったのか、どこで間違えたのか。全てが自分の思い通りに運ぶと増長した結果がこの有様である。恥ずかしさと申し訳なさで妹紅の顔をまともに見る事が出来ない。
 今自分が出来る事、しなければならない事は全面的な謝罪だけだった。
「も、申し訳ありません。」
 妹紅に向き直った咲夜は腰が直角に曲がるほど頭を下げた。だが妹紅は何も反応しない。咲夜は頭を下げただけではダメだと思い、どうすれば謝罪を聞いてくれるか考える。幻想郷とその母体となっている日本と言う国の習わしとも言える土下座をするしかないと、意を決して膝を折って土下座しようとする。日本人である藤原妹紅なら受け入れてもらえるだろうと安易に考える咲夜。しかし、この咲夜の考え方と行動は妹紅を更に怒らせた。
 咲夜が膝を折ろうとしたその時、妹紅は咲夜の下がった頭を掴んで引き寄せそのまま膝を顔面に入れる。
 鈍い音と共に咲夜の下げた頭は妹紅の膝に当たり、反動で仰け反り衝撃で一瞬意識が飛ぶ。鼻が折れた咲夜は尻餅をついてそのまま仰向けに倒れる。直ぐに正気に戻って上半身を起こした咲夜だが、上げた顔は酷い有様で、綺麗な鼻筋が折れ曲がり、蛇口をひねったかのように曲がった鼻から血がとーとーと流れ落ちている。
 自分の身に何が起こったのか一瞬分からなくなった咲夜だが、恐ろしい形相で見下ろす妹紅を見え上げて状況を把握する。
「土下座というのは謝罪する時にするものじゃない。人にものを頼む時や服従する時にする礼の作法だ。」
 そう言うと妹紅は咲夜の胸ぐらを掴んで持ち上げ顔を引き寄せる。妹紅は背が低いので咲夜は立膝状態になる。
「私がこの世で一番嫌いな事は誰かに土下座される事だ。私のご機嫌を取りたいのなら気を付けることだ。」
「は、はい・・・。」
 咲夜の力のない弱々しい返事を聞いて気持ちが折れている事が見て取れる妹紅。完璧だと思った自分の策が全て裏目に出た精神的ショックは計り知れないだろうが、策士策に溺れるの典型で同情する気にもなれない。
「お前は土下座されて楽しい気持ちになるか?」
「・・・い、いえ。」
「土下座なんてされて気分が良くなる奴はゴミだ。」
「も、申し訳ありません。」
 咲夜は妹紅の話を聞いて確かにその通りだと思った。土下座はある意味される側の度量が試される行為で、謝罪での土下座は許してくださいではなく、ここまでへりくだっている俺様を許さないなんて相手は度量の小さいやつだと言っているのと同じである。
 身分の差がはっきりしている状況ならともかく、対等な力関係の間で交わされる土下座はされる側に負担が生じる。特に身分が上の者が下の者に土下座しようものなら、それは命令と同じである。
 妹紅は全てに於いて自分が最も位が低い生き物だと思っている。里にいる一番身分が低く貧しい者よりも遙かに自分は下等な生き物だと妹紅は思っている。だから咲夜に土下座されると言う事は身分の上の者に命令されているように捉えてしまう。この場合土下座をされたら強制的に相手を許した事になってしまう。妹紅は咲夜を絶対に許す気は無かった。だから土下座をさせなかった。

 妹紅は咲夜から投げ捨てるように乱暴に手を離す。地べたに座り込んで血が止まらない鼻を押さえながらうなだれる咲夜。血は自分だけではなく妹紅も汚してしまっていた。今の咲夜は全力で妹紅に詫びたい一心で、自分の曲がった鼻の事はどうでもよく、汚した衣服などを心配してしまう。
 ずっと頭の中で何故こんなことになってしまったのか、何故こんなことをしてしまったのかと、後悔の念がぐるぐると渦を巻いている。時は止めてられても巻き戻すことは出来ない。本当に大事な時に役に立たない力など意味がないと自身とその能力を罵る。しかし、いくら自分を罵っても妹紅の気が晴れるわけでもなく、だからといって妹紅に許される『何か』が全く見いだせず身動きが取れない。
 咲夜の生涯に於いてこれほどの失態は過去に経験したことがない。何を持って対応すればいいのか全く分からない。土下座が許されるのなら、それが最も安楽な方法だったろうが、妹紅は先にそれを牽制した。妹紅から絶対にこちらを許さないという強い意志が伝わってくる。
 この時の咲夜は自分の罪と受ける罰の事しか頭になく反省する余裕がなかった。

 咲夜がうなだれている横を通り過ぎ、仰向けに倒れて全身から湯気を出している紅魔館の門番に近づく妹紅。はっとなって後ろを向き美鈴を庇おうとするも、妹紅に足蹴にされる咲夜。
「こいつは私の獲物だ。放っておくと息を吹き返しそうだから今の内にトドメをさして星は頂いていく。」
 星というのは勝ち星の事で、紅美鈴という妖怪が自然死ではなく藤原妹紅が撃退したという実績を作ろうとする。
「ま、待って!」
 咲夜は妹紅を止めようと間に入るため時間を止める。しかし、それは思念体の藍に敵対行動と見なされしまい敢えなく撃退される。
 妹紅の目からは自分の背後にいた咲夜が一瞬で目の前に移動したように見えた。しかし、その咲夜は足下で苦しそうに身悶えており、恐らく藍の凝結攻撃を受けて全身が硬化して生体組織に深刻なダメージを受けたのだと理解する。妹紅も一度この攻撃を喰らった事があったが、あれは生物に対して絶大な抑止性がある。
「馬鹿め。お前の力は私には通用しない。大人しくそこで見ていろ。」
 妹紅に罵られた咲夜は絶望を見る。孤児だった咲夜はここに来るまで失うものなど何もなく、どんな酷い状況にいても絶望は感じなかった。しかし、幻想郷に来て紅美鈴と出会い、紅魔館に入って吸血鬼や魔法使いと出会った。たくさんの掛け替えのないものを得た咲夜は、それを失う事を受け入れる事が出来ない。
 師として尊敬し、姉として頼り、母として今の自分を育ててくれた大切な存在が今目の前で失われようとしている。誰のせいでもなく自分の不始末で。
 咲夜はこの時生まれて初めて神に祈った。正確に言うならそれは何か特定の神ではなく奇跡を呼び起こす非現実的な力の存在に対してだろう。
 暗殺マシーンとして心を削られ神の存在しない暗闇でただひたすら機械の様に人を殺し続けて来た咲夜。光に目を背け、神の恨み、自分を呪って生きて来た。しかし幻想郷に来て十六夜咲夜という名を与えられ魔性の世界で人間として生まれ変わる事が出来た。咲夜に神は必要無かった。愛する吸血鬼、魔法使い、妖怪だけあればよかった。しかし、それが今目の前で失われようとしている。
 全身に激痛が走り、体を全く動かす事が出来ない咲夜は立ち膝からそのまま前のめりに地面に突っ伏し腰だけ上に上がったみっともない姿のまま目だけで妹紅を追う。
「助けて!殺さないで!お願い!」
 声にならない声で絶叫する咲夜だが妹紅からは食肉になる直前の豚の悲鳴にしか聞こえない。
 妹紅は美鈴の横に立つと大きく足を上げて頭を踏み潰そうとする。普通の妖怪ならそれで潰れるほど柔ではないだろうが、美鈴は打撃耐性が無い。気を失っている状態なら子供でも踏み殺せるはずである。

 咲夜は心の中で叫んだ。自分の全てを捧げるからどうか美鈴を助けて欲しいと・・・。