令和4年1月30日(日)

 

16日に続いての2度目の石鎚スキー場・・・

 を訪れる前に、またもや寄り道ですw

 

探訪日 2022年1月16日
 
そうそう、
 
旧石鎚村(千足山村)土居地区の諏訪神社と
 石鎚小•中学校前から石貝集落へと登るかつての生活道(往還)の確認に向かわねば(;^_^A
 

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こんにちは<(`・ω・´)

 

お立ち寄り頂きましてありがとうございます

 

河口(こうぐち)の分岐から右の加茂川沿いに

 県道142号石鎚伊予小松停車場線を遡ります

 

名前からして旧石鎚村とJR伊予小松駅を結んでいたと思われるこの県道

 起点を調べると、JR伊予氷見駅近くの国道11号線が起点になってる

 

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探訪日 2018年4月22日

 

現在のJR伊予小松駅は、

 1923(大正12)年5月1日に省線の延伸に伴って開業し、来年で百周年となります

 

元々は伊予小松駅から続いてた県道が

 昭和になって整備され、一部が現在の国道11号線になったのかもね

 

大正の初め、現在黒瀬ダム発電所のある兎之山から西条に行く黒瀬村の村道が開け、
 県道12号線(主要地方道西条久万線)となり
1923(大正12)年頃、大畑より黒瀬峠を越えて氷見に至る県道142号線(石鎚伊予小松停車場線)が繋がった

 

加茂川渓谷の垂直に切り立った岩稜を穿ちながら

 さらに奥へと道路が開鑿されていったけど

 

これらの県道は元から県道として伸びていった訳ではなく、

 千足山村など地元の村々が自ら開鑿に着手して、それを県道に昇格する様に働きかけたものと思われます

 

現在も供用中の河口1号隧道には吹付は勿論、

 ロックボルト、落石防止ネットの設置がこれでもかというほどに施工されてる

河口2号隧道と片洞門

 

昭和の終わり頃も、この辺りは大掛かりな工事をしていましたが

 5年ほど前にオーバーハングの片洞門の一部が落下するなど、峻険な地形故に維持管理も大変

 

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現在の三碧橋が昭和42年に竣工するまでは

 更に3号と4号隧道を抜けて河口橋で、左から加茂川に合流する河口谷(現在の地図ではこの川の表記も加茂川)を跨いでいました

現在も素掘りのままの廃トンネルと
 河口橋が河口谷に人知れず残ってます

 

河口の岩盤を貫いた隧道は
 1923(大正12)年から翌年にかけて完成し、1926(大正15)年に河口まで通じます

 

1929(昭和4)年に小松と河口との間に6人乗り小型バスが走り始め、

 西条~河口間のバスは1931(昭和6)年に開通しましたバスDASH!
 

この時期に石鎚山にお参りする人は殆どが徒歩で登拝しており

 バス利用が盛んになったのはもっぱら戦後になってから


戦前は、徒歩で松山方面より

 湯谷口、楠窪、天下峠を越えて虎杖橋に出て黒川道へ

 

小松の大頭から横峰寺へ登り、虎杖橋に出たり、

 小松からも横峰寺越えで虎杖橋に出て黒川道へ

 

若しくは黒瀬峠を抜けて来て今宮道ルートが一般的でしたが、

 バス路線が開通すると横峰寺越えをする人はいなくなる

 

因みに、加茂川沿いの河口隧道は1924(大正13)年に開通しますが

 

それまでの旧道は旧大保木村から山間部に分け入り、横峰寺からモエ坂を下り、虎杖を経て河口に至る車の通れない山道ルートでした

 

このルートの最高所で石鎚遥拝所でもある星ヶ森は旧千足山村の道路元標の設置場所に指定されており、1920(大正9)年当時は主要な交通路として認知されていたようです


バス終点の河口からは、今宮道、黒川道と

 現在の県道に沿うように西之川まで行って御塔谷を登る3つの表参道があり

 

河口までバスでやって来て今宮道を登る人が一番多かったそうですが

 

河口から横峰寺別院前を登っていくと虎杖からの黒川道と合流します

 下黒川にも上黒川集落にも季節宿があり、そこに宿泊する参拝者も多かったそうな


今宮道、黒川道沿いの集落では、夏に季節宿を営んでいた家が多く、

 昭和24年ごろの宿賃は、1人3食(1食は弁当)付きで120円
 

1951(昭和26)年に西条から西之川までのバス路線が開通し、

 さらに1968(昭和43)年に石鎚登山ロープウェイが完成すると、

 

登拝者の流れは一変し、今宮道、黒川道は衰退、集落も一気に廃村へと向かいます
 

現在、谷ルートの黒川道は荒れて廃道状態に、尾根ルートの今宮道は「石鎚山三十六王子社」が点在することもあってか、手入れされた部分も多く、成就まで行くことができます

 

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三碧橋を渡り、河口の分岐を右に折れると

 直ぐに旧大保木(おおふき)村と石鎚村の境界を跨ぎます

上の地図では下黒川集落から石鎚郵便局前に至るルートが黒川を越えず異なってるみたい

 

探訪日 2019年4月28日

 

この辺りが旧大保木村と旧石鎚村の境界かな?
 
旧石鎚郵便局跡の向かいに横峰寺別院があって、
 石段の登り口の石柱には石鎚山登山口と彫られてる

 

ドラレコの写真では判りにくいので補足すると
 敬神の石柱の後ろに石鎚山登山口の石柱が隠れてます(;^_^A

 

鳥居もあって、かつては、ここからも黒川道へ合流する事が出来ました
(現在は黒川に架かる橋が朽ちて渡れないみたい)
 
三碧橋を渡ってすぐの処には今宮道の鳥居があって、こちらは旧大保木村の領域になります
 
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虎杖(いたずり)にある県道142号の道路情報

 

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石鎚小学校•中学校跡を再訪です

 

正門跡の石柱が元の位置に建ってるかの検証を試みましたが・・・

(県道の改良工事で撤去される予定でしたが陳情により石柱のみ残された)

 

片方(石鎚小学校)の石柱が不安定な場所で倒れそう(鎖でガードレールに結んでる)

 

場所を移動したなら、もう少し安定した場所にすると思うのだけど・・・

 石柱間の幅が狭い気はするけれども何とも言えません

石貝集落への道は学校の正門付近にちゃんとありました

 

入口には十亀縫之進翁の頌徳碑もあった

磯貝集落に続く道には踏み跡も伺えたけど植林作業の為かも

 

磯貝集落は急傾斜地にあるそうなので道もかなり荒れていると思われます

【十亀縫之進翁頌徳碑 碑文】

 翁者本村字石貝産。明治31年より昭和22年に至る約50年間、本村書記・助役・村長等を歴任し、当初旧態依然たりし我村をして民心を作興し新文化を導入、革新的諸機構を創設完備して面目一新、現代的明朗平和なる楽土の建設に貢献したる功績は枚挙に遑あらず是実に翁が無私公正、至誠一貫永年に渉り不眠不休、献身的努力を以て村民を徳化し慈父の如き信望は能く和協一致の美風を訓致したるに依る者にして翁が此の終生の画策労苦と其の篤行は永久に本村の銘記すべき処たり。故を以て翁は昭和19年地方自治功労者として勲六等瑞宝章を授与され尚本県知事及県市町村長会長より数次の表彰を受けたり。茲に本村は翁の功を頌し碑に刻して以て記念とす矣
     頌曰
    献身村治五十年至誠一貫尽心血
    文化興産普全戸民風一新千歳春
 昭和30年3月 石鎚村建立
           現村長 曽我部政秋
            議長 亀山 亮生 

 

十亀縫之進氏は千足山村の書記・助役・村長を歴任し、

 昭和19年には地方自治功労者として勲六等瑞宝章を授与された功績の方で

 

昭和30年石鎚村が小松町に合併される際に

 村によって出身地の石貝集落の登り口に建立されたみたい

養魚場の生け簀前に建つ

 皇太子殿下御降誕紀念の碑

 

昭和十年三月

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加茂川沿いに県道を奥へと進みます車DASH!

 

前回、手前でUターンしたカーブを曲がると最初の廃屋が現れた

 ここら辺は旧石鎚村の土居地区のようです

 

すぐ左手に諏訪神社の鳥居があって

 駐車場の先には通行止めの看板がある

 

ここが県道142号石鎚伊予小松停車場線の終点で

 ここから先は林道折掛石鎚線となるみたい

 

諏訪神社の駐車場は私のパジェロで満車になりました

 

林道が通行止めなのでここに駐車して

 高爆(たかたる)方面へ登られてるのかな

 

 

林道折掛石鎚線の起点から少し先へ進むと

 商店跡と思われる廃屋があり、その奥から中村地区へと続く山道が続いてる

 

この山道を登った先にある中村集落に

 石鎚黒茶を製造されてた高齢のご夫婦が暮らしておられましたが

 

2014(平成24)年12月28日に山を下りられて

 旧石鎚村は湯浪地区を除いて無住となりました

 

コンクリートを使わず自然の石積みのみで作られた水路

旧石鎚村土居地区に鎮座する諏訪神社

 

千足山村の各地にあった神社のうち

 槌之川の梅本八幡神社、大平の石素神社、黒川の八妙神社の3つの神社が合社されています

 

 

千足山村には山間の標高が200~600m程の処に20余の集落があって

 明治時代、多いときで1,300人余りの人が暮らしていた

 

明治末期の神社合祀令で20を超える神社はいくつかの場所に纏められ

 千足山村が石鎚村と呼ばれるようになった昭和26年には

 

湯浪の尾崎神社、土居の諏訪神社、黒川の八妙神社、戸石の荒魂(あらたま)神社、途中之川の鎌足神社、槌之川の梅本八幡神社、大平の石素神社と7ヶ所に神社があったそうな

 

アールの写真日記 2018年11月11日投稿

 

鳥居をくぐり、禊橋で加茂川を渡り

 静かな渓流沿いの鎮守の森の中の拝殿に向かいます

アマゴがおりそうやね魚しっぽ魚からだ魚あたま

 

 

 

戦国時代より千足山と呼ばれていた千足山村は、

 1889(明治22)年の町村制施行で正式に千足山村となり、

 

1951(昭和26)年に石鎚村に改称しますが、4年後の1955(昭和30)年に小松町と石根村と合併して小松町となり、

 自治体としての歴史を閉じ、石鎚村と呼ばれた期間は僅か4年間でした

圧倒的に曽我部さんが目立つけれど・・・

 

「曽我部(そがべ)」は四国を平定した武将「長宗我部(ちょうそがべ)」の流れを組むもので「十亀(そがめ)」もそうなのだとか

毎年11月3日の秋祭り
 

本殿での神事が終わると、やがて境内で獅子舞が始まる

 

太鼓二張りに合わせて、

 子供四人が雌雄二頭の獅子を操りながら跳ね踊る

 

2015(平成27)年11月3日の獅子舞奉納

 

獅子舞奉納は過疎化の進行で途絶えがちになっていたのですが、1982年に復活し
 11月3日の秋祭りには旧石鎚村の出身者が集まって来るのだそうな

 

あのフクロウは何だろう?

 石鎚小学校・中学校の石柱の処にも転がってた

長州大工とは、山口県の周防大島から、
 愛媛、高知へ出稼ぎに出て、主に寺社建築に腕を振るった大工さん

江戸期から大正期まで、彼らの活動は200年余も続いたそうな
 
もし彼らがいなかったら、
 山間部の寺社は貧弱で、寂しいものになっていたかも知れません
 

 

ここにも十亀縫之進さんの碑が・・・

 旧石鎚村にとって余程の功績があり、村民から慕われたのでしょうね

 

 

この辺りに住む人は一人も居なくなったけど神社には電気が来ててホッとしたw

 

谷から何段にも積み重ねられた石積み

 いつ頃積まれたものだろうか?

 

禊橋は鉄骨アーチ橋なので丈夫そう

 

でも、あの石積みの橋台に食い込んでいる大岩が転がると崩壊は必至

 補強の後が伺えます

 

諏訪神社前の廃屋ですが生け垣は丁寧に刈り込まれてる

 

高爆(たかたる)方面に一度は行ってみたいものです

 今頃は落差132メートルの大瀑布が氷瀑になってるのかな

 

 

林道開設記念碑と林道折掛線の起点

 ここから林道折掛石鎚線のダートになる

 

ここに通行止めの標識が架かってます

 

ここから高爆登山口までは約10kmあるらしい

 

諏訪神社の駐車場には県外ナンバーの車もとまってるけど
 高爆まで片道約12キロで、登山口からは荒れた冒険路みたい
 
なかなか、しんどおますな
 
でも、苦行の後の絶景は何にも増して素晴らしかろな
 
私もいつか行ってみたいけど
 もっと修業を積まな無理っぽい
 

登山口から先の高爆自然研究路はかなり荒れており

 迷わなくても、この案内板の倍の2時間は悠にかかるらしい

 

そろそろ、Uターンして石鎚スキー場に向かおうスキー

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諏訪神社から河口までは約3km

 ロープウェイ方面に右折して石鎚スキー場へ向かいます

 

 
長くなりましたが、最後までご覧いただきましてありがとうございました
 
では、またバイバイ

 

次回へ続く