石鎚村の石素神社跡を探して | ア-ルの写真記

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四国の山間(主に石鎚山系)で「人と自然」をテーマに
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石鎚山系山間にある生活道や、役目を終え傷んだ古道を歩きながら、人が暮らす風景や人が暮らした集落跡などを写真で記録している。名の知れた山の頂を目指し、整備され安全なお決まりの登山道を行くのもいいが、道としての役目を終え、人から忘れられた古道を歩くのも、途中で何に巡り会えるかかわからない期待やスリルがあって、面白い。

集落跡などを歩くと、遠い昔に使っていた見覚えのある湯たんぽ、丸いこたつ、石臼、発動機、脱穀機などなど、民具や農具などが置き去りで在ることがしばしばある。

昔、使った覚えのある懐かしいそれらを見ると、当時のことが甦ってくる。

色々なものが残っていて、さながら民俗博物館に来たような、と思うときがある。

 

四国の石鎚山系山間にあった千足山村は、藩政時代にはすでに千足と呼ばれていたようだ。

そして長い間、千足とよばれ続けてきたが、昭和26年に千足山村は村名変更により、石鎚村となった。

しかし、それもつかの間で、4年後、小松町との合併で小松町石鎚となる。

現在はさらなる合併で西条市小松町石鎚となっている。

明治時代、千足山村には1300人ほどの人たちが暮らし、昭和30年の小松町との合併時でも1200名足らずの人たちが暮らしていた。そして今日、千足山村と呼ばれた地域には、数名の人たちが暮らすのみとなってしまった。

 

藩政時代、千足の集落内それぞれに複数の神社があったようだが、明治の神社合祀令で、神社の数はいくつかの場所に合祀という形でまとめられている。

かつて、千足山村と呼ばれた時代、多い時で20余りの集落が村内にあった。

千足山村が石鎚村と呼ばれるようになった昭和26年には、湯浪の尾崎神社、土居の諏訪神社、黒川の八妙神社、戸石の荒魂(あらたま)神社、途中之川(とちのかわ)の鎌足神社、槌之川の梅本八幡神社、大平(おおなる)の石素神社と7ヶ所に神社があった。

尾崎神社と諏訪神社、荒魂神社は今も祭り日に神事が行われている。

現在、戸石にあった荒魂神社は北川の石鎚団地内に祀られ、石鎚団地住人の氏神としてある。

その他の神社は、廃集落により尾崎神社や諏訪神社に合祀している。

石鎚村内に7ヶ所ある神社や神社跡を、石素神社以外は訪れて確認し、撮影を済ませた。

石素神社は、大平集落と成藪集落の氏神のようで、国土地理院の地図を見ると、神社のマークが大平の集落内に記されている。

その印のところにたどり着けば、石素神社跡があると安易に思っていた。

ところが行ってみると、神社印のある場所に、神社ではなくお堂があった。

近くにありはしないかと、あたりをくまなく探し回ったけど、その日はついに見つけることが出来なかった。

後日、再度行き範囲を広げ探したがそれらしき物はなかった。

どうもお堂が建つ場所に神社マークを表記しているようだ。

 

子供のころ、石素神社の祭日に獅子舞奉納を見に行ったことがある、という知人に出会い、神社の位置を尋ねた。

聞くと、どうも地図に表記されている位置よりかなり離れた場所に石素神社跡はあるようだ。

「成藪入り口あたりの林道から山上を見ると、ひときわ背が高くて抜きんでている大きな広葉樹が見える。そこに神社はある」と教えてくれた。「三度目の正直、今度こそは」という思いで山中の林道を車で走り行った。

 

岩のような大きな石がたくさん転げる谷川に架かる橋は、長年の豪雨による落石や大量の土砂の流出などで欄干などがズタズタになり傷んでいる。

橋より少し上流に「御来光の滝」と呼ぶ滝があるようだ。

あたりの木丁度紅葉する時期に訪れたので、絶景が迎えてくれた。

このあたりの標高は550mほど。

谷川の下流方向を向いて山の方を見回すが、教えてくれたような一段と高く成長した木は見当たらない。

植林した周りの木も年々大きくなっていることだし、、。

 

 

 

一段と背が高いという大木を見つけられないままに、そこら辺をうろうろしていると、山上に向かって続く古道を見つけ、登って行った。

古道は林の中にはいって行きだんだんと薄く暗くなっていった。

植林した山林は、その後、間伐や枝打ちを長い間されてないところが多いようだが、ここもそのようだ。

放置林はお天気の良い日中でも薄暗い。そんな古道をゆっくり探しながら行った。

 

少し陽の当たる場所にお茶の木が生えている。

この村では茶の葉を発酵させて作る「黒茶」と今は呼ぶお茶の製造が藩政時代より盛んだったようだ。

 

上の方にゆっくり上がって行くが、神社らしきものは見あたらない。

あたりを探す、、。

知らず知らずのうちに、山上に向かって行っていたようだ。

「あまり上の方ではないよ」と聞いていたので途中で引き返す。

探しながら下り、石像があった所まで帰り、今度は谷に沿って行ってみる。

ここは間伐した木材を切り倒した跡があるが、倒した木はそのまま放置しているようだ。

 

道が続いている。前方に行ってみる。

 

 

谷を渡り、消えかけた古道を進んで行くと、見覚えのある場所に出た。

前回大平に来たとき見つけた崩れかけの石積みの跡だ。

石鎚村でよく見る石を積み上げて造った石灯籠(野灯)のようだ。

いや石灯籠に違いない。

今度、湯浪に住んでいる人に聞いてみよう。

知っているかもしれない。

 

石積み跡を通り抜けて行くと、大平集落のメイン通り?に出た。

きれいに作られた石段。

古道の上の方の両脇には石垣群がある。

まるで要塞のようだ。

石垣の上に崩れかけた家が何軒かまだ残っている。

集落名が大平というだけあって、緩やかな傾斜が広がっている。

耕作には適した場所のようだ。

家が何軒もあり、たくさんの人が住んでいた頃は、このあたり一面に畑が広がっていたのだろう。

 

聞いた話からすると、このあたりではないようなので、一度下山して林道に下りることに。

 

再度、最初登り始めた所から、あたりに気を配りながら再度行く事にした。

登る途中、道に水たまりのような所があった。イノシシが泥を浴びる沼田場のようだ。

 

 

そこを通り越しゆっくりとまた上がって行った。

はや昼になった。

歩き疲れたし、ここらで一休みして昼飯に。

N氏はあたりをうろつきはじめ、消えていった。

それからしばらくして、「あったぞ~」とN氏の声が遠くから聞こえてきた。

声が聞こえた方に向かってゆっくり行くと、枯れて久しい樹齢何百年とも思える大樹の根元がいくつもある。

その下方に広がる境内に、崩れ落ちた社の棟が上に被さっているのが見えた。

 

50年ほど前までこのあたり一帯は、いくつもの巨木で覆われた鎮守の森だったのだろう。

しかし、今、ほとんどの巨木は切り倒されたり枯れたりている。

 

この朽ちた樹の直径は2m位はあるだろうか。いや、もっとありそうだ。かなり太い。

神社跡あたりに、枯れて朽ちた根元や切り株がいくつも残っている。

大樹の切り株から神社の歴史を想像させてくれる。

 

大きな岩の上に木が生えている。

その木の根が岩の割れ目に食い込んでいる。

岩の長さは4~5mはあるだろうか?

高さは高いところで2m位だろうか?

この岩と樹にみとれてしまう。

 

 

社は完全に潰れてしまってる。

これは社務所?倉庫?のような物がなんとか倒れず残っていた。

この建物に似たのが、途中之川の鎌足神社にも残っていた。

 

 

少し下に参道があり、鳥居が見えてきた。

本来はここから上がって来て神社に行くのだが。

鳥居の下に石積みの台が左右に一対ある。

台の上は平たくなってるが、その上には何もない。

何かあったと思うけど、、。

狛犬が鎮座していたのだろうが、、、。

左側には石素神社と刻まれた石碑が建っている。

 

 

石素神社と彫られた細長い石碑の長さは、大人の身長程度の160~170cm位。

石碑の裏に「大平、成藪氏子中 23戸」と刻まれている。

たった23戸の氏子の数でこの神社を立派に維持していた。

すごいと思う。

 

 

やっと目的の石素神社跡を見つけることができた。

ネットで見る国土地理院地図では、神社記号が別の場所に表記してあったので、探すのにちょっと手こずった。

しかし、山中をあちこち散策しながら思いもよらない珍しい物も見えて、今日は充実した一日だった。

「思いもよらない珍しいものが見える」山間の古道歩きの醍醐味でもある。

 

石素神社跡をやっと見つけて、石鎚村と呼ばれた時代に村内に7ヶ所あった神社を全て訪れる事が出来た。

鳥居をくぐり、参道をゆっくりと下っていくと、陽も傾きかけてきたので、そろそろ帰ることに。

途中、木に巻き付くかずらや腐った木の根などの造形が美しかった。

木や葉にあたる陽光。

絶妙な当たり具合が目を楽しませてくれたり、心を和ませてくれた。

 

 

谷沿いに残る古道を歩き、小さな谷を渡って帰るが、道の路肩は崩れ、谷川の護岸用に積み上げた石垣も崩れかけだった。

「もう直す人はいないだろう」

遠く向こうに見える高い山々は三ヶ森山系だろう。

あの山の尾根を越えて下りていけば丹原の桜樹地区があるはずだ。

成藪から山を越え、櫻木地区の明長寺あたりを結ぶ山道が古い地図には記されている。

今は行き来する人もおらず、道はほとんど消えていると聞いた。

「一度行ってみたいと思うけど。もう無理やろ」そんなこと思いながら下った。

 

石鎚中村に住んでいた方が『平家之里 千足山村 中村之跡』と石に刻み、その石碑を中村の地に建て、山をおりた。

中村に住んだ人は、千足山の中村集落は平家の落人集落だったという。

又ある人は、天正時代に逃れてきた兵たちが、敵が攻めてきても、いつでも四方に逃れることが出来るようにと、成藪の山上にある稜線近くの池ノ窪という所に隠れ住んでいたともいう。(行ったことはないが、それらしき形跡があるという)

そして、だんだんと世の中が平穏になっていくと、水の便が良く、耕作しやすい下方の成藪地区へと、落人たちは移動し住み始めた。次第に人口は増えていき、耕作面積を増やすため、平らな地を求めて、下方の大平地区にも人が住みはじめたという。

 

神社境内に多くの大樹があった痕跡を見て、この集落の歴史は古いと思った。

枯れてはいるが大樹の根元の大きさから想像できる。

諏訪神社の大樹よりも大きいと思った。

 

石素神社のあった大平集落や成藪集落跡は、石鎚村では加茂川の最も上流にある集落。

その集落のまだ上に、城師(じょうし)というところがあり、原生林を切り出していた事務所(今の住友林業)が一時期あったようだ。

その事務所跡で、汽車のレールの下に敷く枕木や、糸巻きに使う木製のしんなどを作り、生活していた一家があった。

その家族の一員として子供のころ住んだという、新居浜在住の山内氏は「土場にあった石鎚小学校に、片道2時間かけて山道を通学し、雪道の通学は大変だった」と電話越しに話してくれた。

氏は石鎚村を書いた「秘峡石鎚山麓 消えた村に光を」という本を2009年に出版している。