51-60枚目までのテーマ:子ども時代の気持ち
前回、前々回の探究で出てきた
「我慢しろ!」「あつかましい」に
匹敵する父の言葉に、
「許されると思うな」がある。
私はこの3つを「呪いの言葉」だと
思っていたのだけれど、
こうして取り組んできたおかげか、
先の2つについては、
「へ〜、そうなんだ」と思うくらいにまで
無効化されている。
なので、この最後の砦も
サクッと見ていこうと思う。
~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~
許す立場と許される立場
~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~
実は、この「許されると思うな」は、
これまでにも何度か話題にしてきた。
元々は、父に叱られて泣いたときに、
「泣いたからって許されると思うな!」
とさらに叱られたというエピソードが
きっかけだ。
また、小学6年生だった私が
「左利きのままでいく宣言」をした後、
父が親戚の前で、
「『左利きを許してください』
と泣いて謝るから許してやった」
と事実無根のことを言ったときも、
「許す」という言葉が出てきた。
こうして見てみると、どうやら父は、
自分を「許してやる立場」、
娘である私を「許してもらう立場」に
置きたかったらしい。
そして、私自身が無自覚のうちに
「許してもらう立場」に
自分を置いていたことが、
苦しい現実を作り出していたのだと思う。
~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~
軸を変えてみる
~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~
私は私の意志で、自分の利き手を
優先する選択をしただけ。
そもそも親だからといって、
「許す・許さない」とジャッジする
ような話ではない。
以前の私だったら、このように
「私」を軸にして話すのではなく、
「相手」のやり方や考え方を批判していた。
今回であれば、
「作り話をしてまで優位になりたいのか」
というように。
そして、そんな相手に憤りを、
それを止めることができない自分に、
怒りと無力感とを感じていた。
けれど、今はもう、その必要はない。
「私は誰かから許されなければならない
立場ではない」という感覚があるからだ。
~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~
相手の立場を考えてみる
~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~
父の生い立ちを考慮すると、
「我慢しろ!」と同様、
この「許されると思うな」も、
親から虐待に近い躾を受けた父が、
私に幼少期の自分を重ね合わせ、
間接的に弱い自分を責めたのでは
ないかと思う。
そうしたら、「許してもらう」立場から
「許してやる」立場に自分を格上げできる。
自分ばかりが「やられる立場」に
ならなくてすむ。
そうなるのは理解できる。
ただ、それは私には関係ない。
娘である私が父の痛みを肩代わりする
ことはないのだ。
これが、現時点での私の見解だ。
しかし、そうやって境界線を
引けるようになるまでは、
同じようなことが人生の中で
繰り返し起こっていた。
~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~
裁かれる自分
~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~
社会人になりたての頃、
勤めていた会社の社長から、
電話越しに
「お前、一生、覚えてろよ!」
と怒鳴られたことがある。
何かのことでお説教を受けていて、
最後に社長が「いいっすか?」と言ったとき、
私は「はい」という返事と共に、
フッと笑ってしまったのだ。
それまで怒っていた社長が、
急にフランクな話し方になったことが、
ちょっとおかしかったというのもあるが、
それ以上に、緊張の糸が解れた安堵の笑い
だった。
しかし、社長からしたら、
自分の話を軽く扱われたように
感じたのだろう。
「一生覚えてろよ!」と怒鳴って、
社長は電話をきった。
あの時、笑ってしまったのは、
良くなかったとは思うけれど、
決して話を軽く聞いていたわけではなく、
むしろその逆で、
極度の緊張感があったからだった。
それだけ、自分を「裁かれる立場」に
置いていたのだろう。
そうすると、実際に相手が怒ったときに
「怒られた」と感じ、必要以上に
傷ついたり、ショック受けるのだ。
私も長らく、このことを引きずっていた。
~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~
視点を変えてみる
~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~
けれどもし、
「相手が勘違いをして勝手に怒っているだけ」
と捉えたとしたら、どうなるだろう?
「自分はそんなつもりじゃないのに、
怒りを向けられるなんて、はた迷惑だ」
と思うかもしれないが、
少なくとも、
「許す/許される」「怒る/怒られる」
といった関係性からは離れられる。
そもそも、感情は本人の持ち物だ。
けれど、以前は、
「相手が勝手に怒っている」なんてことは
不遜な考えだと思っていたし、
そんなことを言う人は、
「自分の非を認めない我の強い人」だと
少し軽蔑すらしていた。
しかしそれは、
「相手の意図を勘違いして怒っている」
というケースは考慮していない。
つまり、
怒られる=非がある=(認めないのは)悪い
という公式が私の中にあったことがわかる。
そんな考えを持ちながら
怒りっぽい親の元で育つということは、
非を認めて「罪人」になるか、
認めないで「悪人」になるかの
どちらかだ。
そして長らく、私は「罪人」の方を
選んできた。
それが謙虚なことだとすら思っていた。
~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~
疑われる自分
~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~
「疑われること」にも、
「許す/許さない」と同様の匂いを感じる。
「泣いたからって許されると思うな!」
と父から言われたとき、
「許しを乞うために嘘泣きをしている」
と「疑われた」と感じた。
その感覚は、
「ズルい人間だと思われないように」
という対策を作り、自分に向けて常に
「自分はズルい人間なのではないか?」
という嫌疑をかけてきた。
また、以前にも書いた
「お前を遊ばせるために仕送りなんて
したくない」という言葉からは、
「遊んでいると思われないように」
という対策と、
「自分は遊んでいるのではないか」
という嫌疑とを作り出した。
この「自分で自分に嫌疑をかける」
ということ。
以前はそういった姿勢を
「ストイックであること」
「自分を甘やかさないこと」
のように「良いこと」だと思っていた。
でも、それは大間違いだった。
自分への疑いは、「自己信頼」を妨げる。
「自己信頼」の欠如は、世界を怖いものにする。
そう気づいたのだ。
~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~
身体と心がボイコットした
~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~
裁かれる自分は、自分で自分を裁く自分を
疑われる自分は、自分で自分を疑う自分を
作り出し、自己信頼を邪魔してきた。
そりゃそうだろう。
悪くないのに裁いてくる相手や、
やたら疑ってくる相手に対して、
人は信頼を寄せない。
人生の途中から、
自分の思うように動けなくなって、
堕落なのか、老化なのかと思ったことも
あったけれど、
それは自分の身体と心が、
「こんなにつらくて大変な思いをさせる
あなたの判断は信じられない」
と、ボイコットを起こしたのだと、
今では思う。
前にも書いたけれど、改めて
人の言葉をむやみに自分と結びつけるのは
危険だということがわかった。
~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~
「許される立場」をおりてみたら
~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~
私は誰かから「許されなければならない立場」
ではない。
そう自覚し始めたら、
ずっとあった「自己弁護はいけない」
という考えが、揺らぎ始めた。
これはもともと、「裁く父」に、
心から賛同しなければいけないという
ものだった。
怒られる=非がある=(認めないのは)悪い
と思っていたのだから、
「怒られても自己弁護はいけない」と
なるのは当然だろう。
だからこそ、自分が怒っているときに
誰かが何かを言おうとすると、
「言い訳だ」と不快に感じていた。
でも、それは違う。
弁護しなければならないような
自分なんて、そもそもいない。
私は「許されなければいけない立場」
ではないのだから。
~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~
アートについて
~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~
出てきた言葉は、聡明さ。
相手にのまれないでいること。
自分はただそこにいるということ。
いろんな刺激によって
影響を受けることはあっても、
誰にも侵されない場所はある。
~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~
ヒーリング曼荼羅アートを
描いてみたいという方へ。
体験会のご案内です 🔽
ミカヅキ🌙さと子
読んでいただきありがとうございました💖
よかったら、⏬の「いいね」ボタンを
押していただけると、励み💓になりますので、
よろしくお願いします😊