(177)和歌山県西牟婁郡すさみ町  熊本地方の石室に酷似

 

上ミ山(かみやま)古墳


本土最南端の横穴式石室を有する古墳で、周参見(すさみ)湾の標高81mの丘陵の山頂に築かれており、とても見晴らしの良い場所です。

車では、NAVIでホテル跡の入り口付近に駐車するしかなく、荒廃した山道を徒歩で登るしか到達できません。
途中には広い太陽電池パネル畑の横を渡りますが、最後の登り入口にある古墳の方向を示す小さな立て看板を見つけるまでは、到達に不安がありました。急な山道をロープ伝いに這い上がると突然開け、円墳が姿を現します。

もともとは直径40m・高さ4mの大型円墳と推定されていますが、墳丘の土はほとんど失われているようで、裏側に回ると立派な東側の横穴式石室が開いています。




Wikipediaによると埋葬施設は以前、東西の横穴式石室2基と中間に箱式石棺1基があったようですが、現在は東側の石室しか現存していません。

 

石室は右片袖式で、長さ2.3m、幅2.1m、高さ1.5mで南に開口しています。

側壁は割石積みの上に板石5段で持ち送りし2枚の天井石がのっています。

また床には石が引き詰められ、遺体を安置する屍床が、奥壁から板石で3区画に区切られています。

 


この石室や屍床の構造から九州の熊本地方の石室との類似性が指摘されています。
また屍床が、いずれも東枕であることから近畿よりも四国地域の影響があるようです。

副葬品としては石室からは特に日本海側で取れる水晶玉、碧玉のほか岩手や千葉で算出する琥珀玉や埋木など各地の宝石が豊富に見つかっています。

なお葺石・埴輪は確認されていません。

築造時期はAC500年~600年ごろの古墳時代後期と推定されています。

参考資料:わかやま古墳ガイド(第5章 紀南の古墳)・Wikipedia

(176)和歌山県那智勝浦 南紀唯一の前方後円墳

 

          下里古墳

下里古墳は「大化の改新」で紀伊国に併合されるまでは熊野国と言われていた紀伊半島南部にある唯一の前方後円墳です。 小高い砂丘の上に築造されており、1600年前には近くまで海が迫っていました。



全長40m(30歩(ぶ)規格)で、後円部径や前方部幅は、説明書きがないので墳丘推定図から割り出すと、

 

後円部径は約23m、前方部長さ約17m、幅約11.5mで、後円部径の半分が前方部幅ということになり、前方部が細く発達していない様子から古墳時代前期の特徴があるといえます。

墳丘は、葺石(近くの天満海岸から運ばれた小石)が魚のうろこのように貼り付けられていました。

墳丘の周囲には、幅5mの周溝が巡っていますが、前方後円墳の特徴である「くびれ部」にそって周溝が曲がっていることからも前期古墳の特徴を持っているといえます。

埋葬施設は竪穴式石室で、埋葬時は多くの副葬品があった様ですが、現在は、回収された太型管玉などがわずかに残されています。これらからも古墳時代前期の後半の特徴がみられます。

この竪穴式石室は、長さが5.35m、幅は、東側95㎝、西側65㎝あり、40mの墳丘規模にしては非常に長く、大型石室と言われるものです。東枕であることから四国地域の影響を受けているようです。

こうした状況から築造時期は、AC375~425年ごろ(古墳時代前期の後半)で仁徳天皇陵よりも古く、卑弥呼の時代から120年後くらいと考えられています。
当時のヤマト政権は海洋政策を重要視しており、戦略的にも交易ルートとしての紀南熊野国との連携が必要と考えての海から見える前方後円墳の築造が許可されのではないでしょうか。

当時の熊野国唯一の前方後円墳とヤマト政権との関係を考えるうえで重要として国の史跡となっています。



なお下里古墳は、よく整備されていいて、墳丘は登ることができ、竪穴式石室の天井石が残っおり、周溝も見ることができます。

5台分くらいの駐車場もあり、わかりやすい明快な案内板が設置されています。


参考資料:現地案内板・那智勝浦町文化協会創立20周年記念文化講演会記念誌
「下里古墳からわかること」(岡山大学教授・清家章)

(175)日本武尊(倭建命)の墓は、

 

     三重県の能褒野王塚古墳か白鳥塚古墳か?

記紀(日本書紀・古事記)に登場する英雄、第12代景行天皇の皇子の日本武尊・倭建命(ヤマトタケル)は、ヤマト朝廷の支配を広げるために東国征討の任につき、その帰路に伊勢国の能褒野(能煩野・ノボノ)でなくなり、能褒野陵に葬られたと記されています。

能褒野の地の墓を巡って、地元の三重県には、いくつかの古墳がヤマタケルの墓として祀られています。有名な古墳は次の二基

一つは、

 

能褒野王塚古墳(亀山市田村町・能褒野古墳群) 

別名・丁子塚(ちょうじづか)

前方後方墳で、全長90m、前方部は前方部は1段築成で長さ40m。幅40m、高さ5m、後円部は2段または3段築成で直径54m、高さ8.5mで三重北部で最大。

墳丘表面からは鰭付円筒埴輪・器財埴輪などが確認されています。

埋葬施設は、未確認で、時代的に竪穴式石室の可能性があります。

現在は宮内庁により「日本武尊御墓」(明治12年治定)として管理されています。

築造は、AC350-400年ごろ(古墳時代中期初頭・4世紀末)の築造と推定されています。


二つ目は、

白鳥塚古墳 (鈴鹿市加佐登町・白鳥古墳群)

 

 加佐登神社の北西約200m

江戸時代中期の国学者である本居宣長や平田篤胤らによって、平安時代の延喜諸稜式に記される日本武尊の「能褒野墓」と考えられていた古墳で、加佐登神社(旧・御笠殿社)の境内から山道を登った先に祀られています。


ホタテ貝型前方後円墳で、墳長78m、前方部長さ16.4m、幅27m、後円部径67m・高さ9mで、基壇の上に2段築成されています。

埋葬施設は確認されておらず、墳丘の荒廃もあって円筒埴輪が複数出土するにとどまっています。

築造時期はAC400-450年ごろ(古墳時代中期の5世紀前半)と推定されています。

景行天皇はが4世紀後半だと能褒野王塚古墳の築造時期と重なる
記紀の年代を西暦に直すと日本武尊(倭建命)が亡くなったのはAC111年ごろということになりますから古墳の築造時期とは大きく異なります。しかし実在したであろうと考えられている第10代崇神天皇の時代を3世紀後半とすれば三代後の景行天皇は4世紀後半ということになり能褒野王塚古墳の築造時期と重なることになります。


参考資料:現地案内板・加佐登神社HP・亀山市観光協会HP・Wikipedia
 

(174)福岡県朝倉郡筑前町 希少な前方後方墳 

 

 

    焼ノ峠(やきのとうげ)古墳

焼ノ峠(やきのとうげ)古墳は国指定の史跡で、九州最大の前方後方墳。
城山(じょんやま)の北、標高56mの丘陵上にあります。

山道を車で登っていくと、孤立した丘陵の高台に突然その神々しいほどの墳形が現れます。

古墳は、復元して美しく、駐車場や木道を完備、見晴らしも良く、是非訪問することをお勧めします。


遠くからはとても巨大に見えますが、全長は40.5ⅿ。

 

 

前方部は地山を削り長さ17m、幅12m、高さ2mに、

 

後方部は地山を削り出した1段目の上に土盛りして2段築成に、一辺23.5m、高さ4.5mです。


周溝が一部確認されておりその幅は約2mです。

周溝からは、二重口縁壷(にじゅうこうえんつぼ)や広口壷(ひろくちつぼ)が出土しています。

なお古墳の埋葬施設は、後方部中央に墓壙が確認されていますが発掘は行われていません。


築造時期は、土師器の壺などからAC250-300年(古墳時代前期の3世紀後半)ごろとみられていあます。

だとすると。この古墳も卑弥呼がなくなった248年から程ない時期に当地を治めていた首長が亡くなり造られた墓と言えます。

3世紀の時代は、前方後円墳という形が整い始めた時期にあたり、福岡にあるこの焼ノ峠(やきのとうげ)古墳がなぜ前方後円ではなく前方後方で造られたのか謎です。

なぜなら前方後方墳は、前方後円墳の約4700基に比べるとおよそ5%の約250基程度しかなく、しかも分布上は出雲や東日本の初期の古墳に多いもので九州では数奇しかなく極めて珍しいからです。

当時のしきたりで、位が低く前方後円墳を造ることができなかったという説は九州では当たりません。なぜなら身分が低いもの方が多くいたはずなので、後方形が希少なのはありえません。とすると出雲系や東日本の豪族にゆかりのある者の墓だったのではないかということになりますが。


参考資料:現地案内板・福岡県観光web・文化遺産データベース・Wikipedia 



 

(173)徳島市国府町 奈良の纏向型前方後円墳

 

 

         宮谷(みやたに)古墳

 

 

徳島市の西にそびえる気延山の尾根に宮谷古墳は築造されています。

発掘調査の結果、古墳の周辺から大量の壺形土器、前方部斜面から三角縁神獣鏡が3面、

 

 

後円部中央には東西を向く竪穴式石槨があり、小型重圏(じゅうけん)文鏡(模倣鏡)や玉類、鉄製武器などが出土しました。

全長は37.5mで、前方部長(12.5m)に対し後円部径は25mで、1:2の比率となっており、

 

ちょうど奈良県の箸墓古墳よりも古い3世紀初頭に築造されたとされる纒向石塚古墳(下図)と同じ平面上の比率となっています。


(纒向石塚古墳・復元平面図)

纒向石塚古墳は全長96mで、前方部長32mに対し後円部径64mの1:2

 

(纒向石塚古墳・後円部左側から右が前方部)

 

さらに宮谷古墳の前方部は1段づくりで東を向き、端に近づくつれ少しづつ幅広となって撥型に近いものとなっています。

(後円部頂より前方部を望む)

 

なお後円部高さは3m、盛り土と葺石による2段築成です。

(宮谷古墳の後円部から撮影)




こうしたことから築造時期は、卑弥呼がなくなった248年からさほど経過していない、古墳時代前期で、3世紀末ごろと考えられています。すでに畿内との密接な交流があったのでしょう。  


 

 

参考資料:現地案内板・徳島県HP・徳島市HP・奈良市教育委員会編(ここまでわかった箸墓古墳・配布資料)

 

 

(172)鹿児島県南さつま市 14000年前の縄文草創期

 

         栫ノ原(かこいのはら)遺跡

 

栫ノ原(かこいのはら)遺跡は、鹿児島県南さつま市加世田の薩摩藩の外城として栄えた武家屋敷群に囲まれた標高30mの丘陵の頂部分にあります。

発掘の結果、後期旧石器時代から中世までの複合遺跡であることが分かったのですが、特に注目されたのは縄文時代草創期の遺構・遺物が豊富に出土したことです。
縄文草創期は、狩猟移動生活の旧石器時代から定住が始まったとされる約14000年前の時代をさし、当地は全国でも非常に価値のある遺跡となりました。

約1500坪の遺跡からは、南九州に見られる舟形に石を配置した炉,

 

集石遺構,

 

 

煙道付き炉穴(イノシシなどの薫製施設)などの遺構のほか

 

 

縄文土器の始まりの頃の隆帯文(りゅうたいもん)土器片、石鏃・石斧・磨石・石皿などが多量に出土し、軽石製品(人面石偶)も一点出土しています。

 

縄文時代草創期の隆帯文(りゅうたいもん)土器の模様の特徴は、土器の口縁部や胴に粘土で帯状の突起を回し、その上に貝などで模様をつける、簡素ながら大胆なデザインであることです。下写真の真ん中の土器や左下の土器に見ることができます。



(南さつま市郷土資料館・展示物より)

 

なお当遺跡が縄文草創期である14000年前ものであるとい決め手(鍵層)となったのが、1万3000年前に、桜島の初期の北岳の巨大噴火で噴出された軽石(Sz-S・P14・桜島-薩摩テフラ)層で、遺跡はその層の下から発掘されたからです。

 

(HP日本の活火山・産業技術総合研究所・地質調査総合センター)

 

桜島Sz-S巨大噴火で、南九州全体が軽石で埋没し、最大1m、当地(矢印)でも50㎝程度が降り積もったとされ、草創期の定住生活に移行しつつあった縄文人の生活に致命的な被害を及ぼしたと思われます。

縄文人は移住を余儀なくされ、人が住めなくなった当地の草創期の土器文化は途絶してしまいました。

そうした事象は、この鍵層を挟んだ上下の層から出土した遺構や遺物の違いから説明することができます。


<当地の縄文草創期は次第に気候が温暖化>
さらに地層に含まれる花粉やプラントオパールを分析した結果、当地の縄文草創期は次第に気候が温暖化し、コナラ科、クスノキ科、ススキ属、クマザサ属が茂っていたことがわかりました。


<南九州の縄文人は、幾多の火山噴火の脅威に翻弄されていた>
縄文草創期には南九州ですでに、植物を主食とするような定住文化がはぐくまれていたものの、14000年前の桜島のP14噴火によって壊滅し、縄文時代中期に栄えた上野原遺跡などの土器文化もまた、7300年前に起こった屋久島沖の喜界カルデラの破局噴火(K-Ah・アカホヤ噴火)の火砕流によって埋没し断絶してしまいました。

南九州の縄文人が、幾多の火山噴火の脅威にいかに翻弄されてきたかわかります。

<残念!南さつま市郷土資料館が、今時珍しい写真撮影禁止>
なお残念だったことがあります。この遺跡から出土した隆帯文土器片などが南さつま市郷土資料館に展示してあると現地案内板で知りフラッと立ち寄ったのですが、公費で発掘し広く遺跡の価値を広めるべく展示してあるはずの公共の遺産が、今時写真撮影禁止!。「事前に写真撮影の許可を本庁に取ってくだい」といわれても、まれに遺跡近くに該当する資料館を見つけて入ることの方が多く、それが休日だったりすると本庁はお休みで許可の取りようがないわけで・・。
せっかくの貴重な遺物です。ぜひオープンにして全国に広めましょうよ!

参照資料;現地掲示板・鹿児島県上野原縄文の森HP(栫ノ原遺跡PDF132)・Wikipedia・HP日本の活火山(産業技術総合研究所・地質調査総合センター)・南さつま市郷土資料館展示物

皆様お久しぶりです。2023年2月2日以来1年半ぶりのブログ更新となりました。

今回ご紹介するのは、考古調査士仲間7人で訪れた福岡県八女市山内にある古墳群です。八女市というと岩戸山古墳や石人山古墳と言った筑紫の君磐井に関係する前方後円墳が有名ですが、見どころという点では、今回の古墳群も負けてはいません。

 


童男山古墳群(どうなんざん)は八女丘陵の尾根上にAC550~600年ごろ(古墳時代後期)に築造された直径48mの大型円墳をはじめとする27基の円墳が集合する県の指定史跡です。

筑紫の君・磐井の乱が鎮圧されたAC528年からほどなくして築造された古墳群とのことです。

八女市山内の地元では秦の始皇帝の命により徐福が不老不死の霊薬を求めて3000人の童男草女を率いて来たが当地で亡くなった伝承から一帯を童男山というらしいです。毎年1月20日を「童男山ふすべ」として火をたく行事があります。


まじめな話し、秦の始皇帝が生きた時代はBC210年以前なので、徐福が日本に来て八女市に立ち寄ったとしても、当時はまだ弥生時代!古墳の築造時期とはおよそかけ離れてはいますが、歴史ロマンとして楽しみたいと思います。


童男山1号墳
それはさておき、この古墳群の主墳は1号墳ですが、直径48m・高さ6.7mの円墳。

横穴式石室はすでに盗掘され開口(南西方向)しています。

手前の巨石は入り口をふさいでいた閉塞石なのでしょうか?

 

石室は九州に多い複室構造で、羨道を通って前室、そして玄室に至ります。全長は推定18mにもおよび、奈良の石舞台古墳の石室長19mに匹敵するほどです。

 

 

 


羨道を通り、前室に入ると玄室の入り口には、両袖石(そでいし・支柱)の上に楣石(まぐさいし・リンテル)がのせてあり、さらに天井石との間に窓状の空間が設けてあります。

 

私の想像では、玄室で灯りをともして儀式を行った際、祈りをささげる前室の天井にも灯りが揺らいで見える演出があったのではないか、あるいは煙が玄室にとどまらないように工夫したのではないかと思います。




玄室(遺体安置室)の奥の壁には、凝灰岩製の巨大な石の屋形(赤色顔料あり)と、くり抜き式の石棺、左右の壁にも、くり抜き式石棺があったと推定されており、コ字形に遺体を安置していたようです。


玄室は奥行き4.3m、奥幅4m、手前幅2.4mの台形で、

 

高さは持ち送りで石を積み上げ、4mあります。

最天井部は、1500年の間に墳土が流失し、天井石も一部はがされて穴が開いています。


副葬品は盗掘により見つかっていないようです。

 

童男山22号墳

 

そしてこの古墳群の次の見どころは、直径15mの22号墳。

道からそれて竹林の奥、見つけにくい場所にあるりますが、存在感は半端ないのです。



三俣の巨木の根に包まれた、まるでトトロの森の入り口のように石室が南向きに開口しています。
この巨根にいつか押しつぶされるのではないかと心配になりますが、石室も巨石で作られているので、そう簡単ではないでしょうが、一部側壁が内側に押されつつあります。



石室はここも両袖式で前室があり奥に玄室がある複室構造で、奥壁側にくり抜き式の石棺の底部が残っています。

 

床には平らな割石が敷き詰めてあります。。

天井までは持ち送り状に巨石が積み上げられており、これにより巨根の圧力に耐えてこれたのでしょう。

玄室は実測してはいませんが、奥行きが2m、幅1.8m、高さ3mほどと思われます。


他にも2号

3号

25号

など石室が開口しており中を観察することができます。

 

訪問する際は必ず照明器具を持参しましょう。虫や雑草の少ない秋がおすすめ。


参照資料;現地掲示板・Wikipedia・八女市観光HP