(175)日本武尊(倭建命)の墓は、

 

     三重県の能褒野王塚古墳か白鳥塚古墳か?

記紀(日本書紀・古事記)に登場する英雄、第12代景行天皇の皇子の日本武尊・倭建命(ヤマトタケル)は、ヤマト朝廷の支配を広げるために東国征討の任につき、その帰路に伊勢国の能褒野(能煩野・ノボノ)でなくなり、能褒野陵に葬られたと記されています。

能褒野の地の墓を巡って、地元の三重県には、いくつかの古墳がヤマタケルの墓として祀られています。有名な古墳は次の二基

一つは、

 

能褒野王塚古墳(亀山市田村町・能褒野古墳群) 

別名・丁子塚(ちょうじづか)

前方後方墳で、全長90m、前方部は前方部は1段築成で長さ40m。幅40m、高さ5m、後円部は2段または3段築成で直径54m、高さ8.5mで三重北部で最大。

墳丘表面からは鰭付円筒埴輪・器財埴輪などが確認されています。

埋葬施設は、未確認で、時代的に竪穴式石室の可能性があります。

現在は宮内庁により「日本武尊御墓」(明治12年治定)として管理されています。

築造は、AC350-400年ごろ(古墳時代中期初頭・4世紀末)の築造と推定されています。


二つ目は、

白鳥塚古墳 (鈴鹿市加佐登町・白鳥古墳群)

 

 加佐登神社の北西約200m

江戸時代中期の国学者である本居宣長や平田篤胤らによって、平安時代の延喜諸稜式に記される日本武尊の「能褒野墓」と考えられていた古墳で、加佐登神社(旧・御笠殿社)の境内から山道を登った先に祀られています。


ホタテ貝型前方後円墳で、墳長78m、前方部長さ16.4m、幅27m、後円部径67m・高さ9mで、基壇の上に2段築成されています。

埋葬施設は確認されておらず、墳丘の荒廃もあって円筒埴輪が複数出土するにとどまっています。

築造時期はAC400-450年ごろ(古墳時代中期の5世紀前半)と推定されています。

景行天皇はが4世紀後半だと能褒野王塚古墳の築造時期と重なる
記紀の年代を西暦に直すと日本武尊(倭建命)が亡くなったのはAC111年ごろということになりますから古墳の築造時期とは大きく異なります。しかし実在したであろうと考えられている第10代崇神天皇の時代を3世紀後半とすれば三代後の景行天皇は4世紀後半ということになり能褒野王塚古墳の築造時期と重なることになります。


参考資料:現地案内板・加佐登神社HP・亀山市観光協会HP・Wikipedia