(176)和歌山県那智勝浦 南紀唯一の前方後円墳
下里古墳
下里古墳は「大化の改新」で紀伊国に併合されるまでは熊野国と言われていた紀伊半島南部にある唯一の前方後円墳です。 小高い砂丘の上に築造されており、1600年前には近くまで海が迫っていました。
全長40m(30歩(ぶ)規格)で、後円部径や前方部幅は、説明書きがないので墳丘推定図から割り出すと、
後円部径は約23m、前方部長さ約17m、幅約11.5mで、後円部径の半分が前方部幅ということになり、前方部が細く発達していない様子から古墳時代前期の特徴があるといえます。
墳丘は、葺石(近くの天満海岸から運ばれた小石)が魚のうろこのように貼り付けられていました。
墳丘の周囲には、幅5mの周溝が巡っていますが、前方後円墳の特徴である「くびれ部」にそって周溝が曲がっていることからも前期古墳の特徴を持っているといえます。
埋葬施設は竪穴式石室で、埋葬時は多くの副葬品があった様ですが、現在は、回収された太型管玉などがわずかに残されています。これらからも古墳時代前期の後半の特徴がみられます。
この竪穴式石室は、長さが5.35m、幅は、東側95㎝、西側65㎝あり、40mの墳丘規模にしては非常に長く、大型石室と言われるものです。東枕であることから四国地域の影響を受けているようです。
こうした状況から築造時期は、AC375~425年ごろ(古墳時代前期の後半)で仁徳天皇陵よりも古く、卑弥呼の時代から120年後くらいと考えられています。
当時のヤマト政権は海洋政策を重要視しており、戦略的にも交易ルートとしての紀南熊野国との連携が必要と考えての海から見える前方後円墳の築造が許可されのではないでしょうか。
当時の熊野国唯一の前方後円墳とヤマト政権との関係を考えるうえで重要として国の史跡となっています。
なお下里古墳は、よく整備されていいて、墳丘は登ることができ、竪穴式石室の天井石が残っおり、周溝も見ることができます。
5台分くらいの駐車場もあり、わかりやすい明快な案内板が設置されています。
参考資料:現地案内板・那智勝浦町文化協会創立20周年記念文化講演会記念誌
「下里古墳からわかること」(岡山大学教授・清家章)