ベトナムから大阪に逆進出:ベトナムのタマヌオイル、ハーブティー、精油

ベトナムから大阪に逆進出:ベトナムのタマヌオイル、ハーブティー、精油

ベトナム、ホーチミンでタマヌ天然ハーブ、生薬を使用した化粧品作り&販売をしている人のブログ。オーガニック、天然、自然派の石鹸、化粧水、乳液、クリームなど。

現在は日本日本帰国をしてベトナムのプロダクトを日本で展開中です

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 Légumes 
40 Nguyễn Cừ, Thảo Điền, Q2

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こんにちは。


病気の方は下がっていた好酸球が上がったりなど…多分、前の移された風邪の反動もあるかもです。


ホントに厄介ですが対処法がわかった今は前とはかなり気持ちの面でも違いますね。


少し、調子良くなって家族が行きたい所に連れてちょっと遠出したら回復に2日掛かったり。


前みたいに1週間、何も動けない状態よりはマシですし対処しながらこまめにチェックしていくしか無いですね。


子供の件に関しても4年生になってからは先生の相性やクラスの相性が良かったのか去年からしたら相当、落ち着いています。


それだけでも色んな事をかなぐり捨ててサポートに徹した事が結果として出始めていて安心しました。


まあ、落ち着けば私の出番は少なくなっていくでしょうし結局は困った時にどうするかみたいな部分が一番大事なのでね…。



さて…1.2では日本に来てからの移り変わり等を書き記しました。


実際にMIDORIの方はと言うと…。


私として、経済的な動向なども交えて客観的に書いていきます。

正直、現状はポジティブな見解ではないので気は進みませんでしたが気休めを書いても仕方ないですからね。




まずはこの1年半くらい眺めてみましたが日本にベトナムの物や文化自体が全く浸透していない。


フォーやバインミーみたいなのは少し流行ってるみたいですが多分、認知度としてはその程度でしょう。


ベトナムの自然プロダクトのポテンシャルの高さはホントに凄いのですがそこに関しては余りにニッチなジャンルなのもあり…。


そこからプロダクトそのものに関してはまだ認知に至るまではかなり長い時間を要すると考えられます。


それか産地では無くて例えば、タマヌオイルなどプロダクトそのものにブランディングする手法もありますが出発点がベトナム産って感じでしたのでこれ自体も先の拡がりが無い。


仮にどれだけWebマーケティング等を駆使しても即効性があるものではなく例え、お金を掛けて比例や指数関数的に知名度の問題は解決できるようなものではない。



そして、間違いなく円安傾向が続くであろう昨今において輸送費、通関なども含めたら間違いなく価格転嫁として試算してるんですが…。


正直、145くらいまでは予想はしてましたがこれ程になるとは想定外で…。


145を上限として採算ラインを計算していたのでこれは本当に…頭を抱えました。


これが日本で果たして需要が生まれる価格になるのかな?と言うことが1つあります。


マーケティングや客単価、客層、ペルソナなども考えた場合にこのモノが溢れている日本でどれ程の需要が生まれるのか…。


そこの想定が予想通りならなんとか…って部分が完全に外れたのは遅れてる要因の1つではあります。


品質に関してはベトナム中から良品中の良品を探してきたのでまあ、分かる人には分かるんでしょうけど…。


ちなみに日本人にありがちな良いものなら宣伝とかしないでも売れる的な実質剛健みたいな幻想は私にはありません。


ベトナムではそれはある程度は成立しましたがそもそも国が違いますからね。


あちらのやり方をそのまま持ってきて行けるなどとは毛頭考えておりません。


これはストーリーライティングなどを駆使して考えたらそこら辺はまだやりようはありますが、


その労力に見合うだけの対価が得られるのか?と言う話です。


まあ、対価は売り上げとかもありますがそれ以前の話がありまして…書きたいことは2つで


①税制や規格の問題

②そもそもの展開に対しての社会貢献の有無


について書きます。


①については、以前に話した税制やビザの関係上でもこの国の税体制は本当に罰ゲームと言いますか…。


私としてはコンテンツを突き詰めたいのに謎解きゲームのような穴埋めゲームのような…しかも、無意味に穴を掘って埋めさせられるみたいな感覚があってそれを上手くやる事が賢いみたいなのってどうなんだろう…って思ったり。


勿論、知ってるに越した事は無いですし調べてやる事はやってますし今の時点でもそこのスキームに関しては脱税にならない範囲の法に則ったギリギリラインには相当、詳しい位には既に知識もあります。


ただ、こういう事を延々とやっていたら生産性みたいな所にはどれだけ効率を良くしても限界あるよなぁ…と。


効率云々以前の問題と言うか…知れば知るほど、豊かな暮らしみたいな認識ではなくて


答えを知ってる人勝ちの謎解きゲーム


みたいな認識になっていくのは何なんでしょうね…?


もっと言うと


美大生が変にこねくり回して変な理由付けをして必死に意味を見出そうとしてる珍妙で奇怪で難解な現代芸術?


例えば、食べ物を作る→買う。突き詰めたらこれだけで本来は成り立つものが税やら規格やらこねくり回されて本来、売り買いに必要ない珍妙な制度がくっついてソレそのものを作ってる側がその道の専門家ではないか現場を見てない人達の机上の空論みたいになってますよね。


こういう部分がこの無限穴掘り穴埋め感を感じさせる1番の要素でしょうね…。


ここらへんはしばらく外に出ていたから余計に感じるのかもですね。




②に関しては、ベトナムでは現地人の人間としての生きる力や逞しさの部分に感銘を受けてその中から生み出されるプロダクトをMIDORIを通じてそれをより感じていただけにそこに関しての気持ちの折り合いをつけるのは今でも中々、難しいです。


まあ、それは日本はそういう国だから仕方ないにしてももう一つ、根本的な問題がありまして。


これに関しては病に苦しんだのもありますがそれ以上に根源の話で。


私がMIDORIを日本でやるに至ってのそれ単体としての


社会貢献的な事があまり見いだせていないと言うのも大きいです。


あちらでは原産者に還元してその循環から始まり最終的には自然のプロダクトを通じて身寄りの無い子ども達等の学びの場みたいなモノを作ると言う相方にも言ってなかった最終的な目標みたいなのがあったんです。


ベトナム人の生きる力や逞しさなどを通じて最終的にそこに社会貢献としての意義を見出せていたからこそだから、頑張れた。


個人の夢としてコンテンツを形にして流通させてと言う夢は叶いましたが原産者への還元やその先と言う意味ではベトナムではそこまで持っていけなかった事だけは心残りですがね…それ自体は前回に書いた家族との在り方なども含めて、後悔はしてません。


日本でやるに至って、あちらでも表向きに抱えていた


「ベトナムの良いものを知ってもらいたい」


みたいなそれしか無くなってしまってる現状、それだけだと日本をステージにしたビジネスとして考えた時に現状では客観的に見て多分、弱いんですよね。


仮に勢いだけで形を出しても現状のMIDORI単体では長続きしないで持続可能なコンテンツとは言えなかったでしょう。


これは日本仕様にデザインをいじるやマーケティングを考えるや薄利多売でも数をこなすみたいな小手先のモノでどうにかなるわけではなくて…結局はそこまでして拡めたいみたいな強い思いや情熱が無いと無理です。


現地に住んでる時はその思いをダイレクトに反映する場がありましたが今は自己実現みたいな思いよりも他に思考が行ってるのもあり。


特に私は商社みたいな大量ロットではなくてニッチな物に絞り込んでますからね。


ニッチなモノと言うものはある意味では優位性はありますがそれに付随する認知度の付け方やコスト面や価格勝負には圧倒的に不利なので。


そこに持っていかない為の戦略として色々とシュミレーションをしてますがそれが今の所は様々な前途の要因が重なり難儀してると言う状態です。


後は今でこそ手に入りやすくなりましたが今までは瓶やその他の小物が手に入りにくいってのもありました。


ロット1000からとかならまだしもそれ以上を絞り込んでやろうとすると非常にやりにくい…。


注文しようにもやたらとフォームが細かい仕様になっていたり思いつけばFBメッセージなどで注文したらGrabでその日のうちに届いて気軽に入ったベトナムとはその辺りの勝手が違って戸惑いました。



そして、仮にそれを体現するなら地元みたいなド田舎でベトナムに通じるプロダクトを作りながらとか日本の自然のものと融合させる形を最初は考えていました。


しかし、子どもの教育や閉鎖性なども考えると田舎に留まるとそれは本質的にベトナムの時の状況と変わらなくなってしまう。


それでは国を移して生活環境自体を根本的に変えた意味がない。





色々と書きましたが今のままでは勝算としてはどれだけ自分寄りのフィルターを掛けて見ても50%位がそれより少し、低いか…って言うのが客観的な私の予測です。


これを今、家族にやってるサポートを全てかなぐり捨ててやれば+で20%位の上澄みは積めるでしょうけどそれも場所を変えただけで根本的にベトナム時代と在り方は変わらなくなってしまう。


ひとまずは融資などは考えずにコストを掛けずにホントに個人の小さな所から試し試しにやりながらと言う形になるのではないでしょうか。


その点はベトナムの時と同じようなやり方にはなりますがなんだかんだで最初はそれが確実なんですよね。


これに関しては仮にベトナムに残ったままでもあちらの経済状況などを見てもコロナの時にあれだけやらかした結果がインフラ系に現れ始めています。


中国に対して親米派を追い出したことにより親中が露骨になった事とそれに伴い中国産EVへの急激なシフトも相まっての電力不足など目に見える形でジワジワと出てきてます。


これはあのコロナ時にベトナムに居なかったら数字上ではわからないかもですがインフラ系がとにかく壊滅的にズタズタになったのでこういうメンテナンス不備などは数年後から10年後位に時間差で顕著に出るんです。


そうではなくてもドル高による為替差損もそろそろ出始めてくるでしょうしコロナの爪痕とダブルパンチで襲いかかるのでもうそろそろドカンと弾けるかもですね。


ベトナムに仮に身体が元気で残っていたとしても様々な要素で国全体が嗜好品にお金を掛ける余裕が無くなってる現状では多分、売り上げとかは下がっていたと思います。


そして、以前に二人で回せる事を前提に特化して組んでいましたのでそれ自体を変えるのも難しかったでしょうね…。


日本での意義を見つけるというここが無いと何とも…色んな要素が絡み合ってるんです。


私は勝算が無い場所に好きだからと言うだけで無謀に突っ込めるほど、元から夢追い人では無いですしベトナムの時はある程度、先の動向が読めてその勝算があったから始めた事業でした。


その反面では私がハンドメイド自体はそんなに好きではないと表現してたのも途中からは「ベトナムに対しての社会貢献など」そちらの方に私はより意義を感じていたと言う事です。


趣味の延長と言うよりもお金になるからとかでも無く…理念、意義、社会貢献などを加味して人生を掛けて良いと思って始めたのがこのMIDORIと言うプロジェクトでした。


だから、品質の拘りとかはそういうベトナムのプロダクトに対して社会貢献や理念を1番伝えたかったから拘って当たり前と言う考えでした。


だから、ここまで苦心しながら…でも此処から先にどうしたら良いのかを必死で考えています。


ここまでが問題点でしたが解決に向けて考えてる事は


もし、日本でやるにあたって可能性を感じる部分があるなら1つには私自身、最近は子どもの教育や日本で生きづらさを感じてる子供や増加系傾向にあるこちらに在住してるベトナム人達。


そちらの方に実は関心が高まってきているのもありそちらの方面と何とかMIDORIやベトナムの体験を通じて、物事を伝えたりと連動して出来ないかなーと考えています。


これは子供に限らずですけどね。


異国の文化を知る事は特に日本みたいな島国文化に取っては凄く良い体験になると思いますしね。


これはあくまで可能性の1つですけど。



最近、良く感じるのは私がベトナムの体験などを話すとあまりに壮絶だったからか「日本はぬるま湯で…」みたいに卑屈になる人が凄く多いです。


私はそういう風に捉えられる事はあまり本意ではなく…日本の環境に生まれてこれだけ治安が良い中で平和で過ごせること自体が他の国ではどれだけお金を持っていても中々、得られる事ではない。


だから、日本にずっと居るとそれが当たり前になり不満が溜まるようになるが自由と平和と言うのはそれだけで尊い事であると言うことを伝えたいのですけどね…。


そういう価値観自体はベトナム生活を経たから多角的な視野を得れた事ですので大切にしたいんですよ。


もう少しでそこに道標が出そうであと少し出ないもどかしい昨今。


纏めると


ただ、ここをやるにも浅い所から…って根付かせようとすると時間が掛かり過ぎる。


焦ってそこを削ると逆に刺さらない。


これは行動したらどうみたいな話は過ぎていてその先にって話ですね。


このジレンマを解決するあと一歩が…その何かが見えそうで見えない。


私が子供の教育系に力を今、入れてるのはここらへんがヒントになりそうと無意識に思っていたのもあるかもですね。


後はあまりにも闘病が辛かったのでまだそこまでやる気力が無いと言うか余力が無いと言うか…。


それと出稼ぎ感覚で数年やってまたベトナムに戻るみたいな感じならまたやり方も違っていたと思います。


…正直、帰った当初はそういう考えがあった事も否定できません。


しかし、現状は日本に根付く為の仕様に生活を整えているのと私が壊れた場合にどうしようも無くなってしまったのを痛いほど味わったのでその為にはベトナムの時みたいな勢いだけでやる手法を取るわけにはいかないのですよ。


それと病気が自分の中でこれをやれば大丈夫、戻るみたいなものが完全に想定外過ぎてそれどころでは無くなってしまった。


同時に文化の違いや色んな事を根本から変えざる得なくて手続きやらも加味して心身共に一定の折り合いを付けれたのがやっと最近。


ベトナムの時もなりふり構っていなかったですが、別の意味でこの1年半位はなりふり構ってられない位に色んな事が降りかかりました。



それがやっと解決して次に進める手筈の前の客観的かつ、現実的な分析が今回の記事でした。


ベトナムの時から最初は勢いだけでトンチンカンな事を言ったり行動してると思われても時が経てばそれが実はゴールから逆算して緻密に計算されていた。


と言うのが多分、私の持ち味なので今は理解されなくてもそれが後には実はこうだった…みたいな部分と今回関連の記事は見ておいてもらえれば幸いです。


人が何と言おうとも自分の気持ちは自分にしか分からないですし、自分ならもっと早く出来たと言う人も居るかもしれません。


ただ、私にとってはこれでも出来る限りを考えて振り絞って1年半位でこのラインまで戻れましたし付和雷同で従っていたら後悔しか残ってなかったでしょうからこれで良いんだと思います。



こんにちは。


身体は割と大丈夫になってきた矢先。


子供が一週間近く熱を出して…看病してやっと治ったらと思ったら次は私達が掛かりましてね…。


夫婦共に撃沈しました。


まあ…治療法は置いておいて。


そのせいなのか夫婦共に2週間近く頭が酔った状態みたいなフラフラが続いていてどれだけ厄介なものを持ち込んでくれたんだか…


これも私の場合は多分、患ってる病気の症状の一環もあると思うんですがホントに体の至る所に多種多様な症状が出るので厄介なもんです。





さて…今回は前回の話からの続きでベトナムの時と家族の在り方が少し変わってきたと言いますか。


まあ…洋服やスーパーの買い物とかは相変わらず一緒に行くので相変わらず仲が良いとは割と言われますが。


距離感は役割が多少、変わったので最初は慣れなかったのですが今はまた普通になりました。


どちらかと言うと子供の事に関してですかね。



これは国が変わったと言うよりも年齢的なモノもあるのかもしれませんしあちらでは任せきりだったのがいざ、自分が向き合うようになってから考えさせられる事が多いです。


私が子供に対して今、あれこれやっているのは思い直してみるとベトナム時代の罪滅ぼしみたいなものです。


あちらの時はあちらの時で年齢も小さかったし色んな自然や体験なども含めてお金では得られない様々な体験はさせてあげられたとは思います。


ただ…私は私の夢の為に子供の未来をすり潰してまで夢ばかりを追い掛けるわけにはいかない。


ベトナムに子供の未来が無いと言う訳では無いんですがあまりにもベトナムに特化しすぎていた為、何か合った時に1つしか選択肢がないのは避けたかったのです。 


それまではそういう考えは無かったのですがベトナムのコロナ地獄絵図でその認識を完全に改めました。


あそこで日本に戻るつもりが無かった人も考えを変えた人は多数、居たと思います。



だから、国を移して日本で最低限の生活の素養が出来るまではサポートはやる。


義務教育が終わってから再びベトナムで学びたいとなったら別にそれはそれで良い。


あちらに居た時はあれはあれで良いとは思っていましたし今の日本の教育の全てが正しいとは思ってはいません。


ただ、高度化していく社会において素養を身に着ける基礎としての日本の教育は平等性においても色んな福祉体制においては社会的弱者救済的な意味では私達の立場的にはかなり助けられています。


私が今、そこを重点的にやっているのも私の2年と子供の2年では全く意味合いが違いますし私は取り返しがつく事も子供には取り返しがつかないパターンに陥ると思ったからです。


それくらいに去年味わった文化の違いの根深さについては苦しみ深く考えさせられました。


だから最初の1年から2年くらいは私が全面的に様々な事に対応しつつ慣れる所までは徹底的にサポートに徹しようとやりました。


それがこれからは日本でしばらくはより良く生きていく為の未来への準備と土壌がやっと整った…って状態です。


子供には今は自分の幼少期にこんなサービスや福祉があれば使いたかった…みたいな事を率先してやってると言う感じですかね?


それに対しては本人も楽しんでいますし気分転換にもなってるみたいです。


ちなみに勉強面では


2年の3学期から入って(※それまではほぼ無勉強)いつの間にか4年生の算数に追いついていたみいで…。


皆が3年掛けてやってきたのを1年と3ヶ月位で追い付くとは正直、思ってなかったです…。


正直、今の段階で2桁の足し算引き算と九九くらい定着したら満点くらいに考えていたんですが。


しかし、分数や割り算や3桁×3桁の掛け算まで来ていてこっちが「…え?嘘でしょ?」ってなったし先生に引き継ぎとか確認してさせてる?って聞きましたがあっちも驚いていたらしいです。


ちなみに私は塾にやったりなどもしてませんしひたすら学校の宿題の反復のみです。


まあ…本人も初めての日本生活でしかもぶっつけ本番で何も知らない大阪の地に来てた訳ですからね。


そこで無理矢理、詰め込もうとしても潰れてしまう事になりかねなかったので…。



そういう事もありあのタイミングで戻ったのは私達にとってはあれよりも早くても遅くても難しかったギリギリで追い付けるここしか無いタイミングで戻れたようです。



話は変わって夫婦間もベトナムの時は離れる事が無いくらいにずっと四六時中、一緒に居たから最初は寂しかったのですが…。


今はとにかく日本の面倒くさい手続き等、日本の嫌な部分を私が全て受け持ってサポートする事。


子供の国籍や福祉関係やビザ関係もそうですね。

それに付随して色んな税金などは外国人であるが故に紐づけが上手くされていないのを税務署に行ってやったりなど…ですね。


偏った食事などではなくある程度の纏まった栄養が取れる食事であったり…。


まだ、完全に動けない私が出来ること…それは多分、外国人関係でも私しかわからない塩梅など。


本来なら税理士や行政書士に依頼する次元ですが私はそれを地力でやる事でより情報を得ていく。


私が今、考えて出来ることをやってサポートする。


それが異国から家族を連れてきた私がより日本に適合して生きる術。


それが私なりの家族への愛情ですかね。


最近はベトナムとは違った形で互いを支え合うみたいな言わば、日本式の家族の形が出来上がってきたのかな?


なんか、ベトナムの時は自分が気負ってやらないと…って感じだったので特に親族関係でかなりわがまま放題されて本気でキレたりはありましたが…。


今の方が互いに穏やかに過ごせているとは思います。


そういう意味で感情の起伏も無くなっていってるのかもですね。



こんな感じなので自己実現みたいなものには然程、興味が無いと言いますか…。


と言うよりもそれよりも今は優先度が高いものがあるからそちらにベクトルが向いてないのも大きいです。


まあ、やるならやるでキッチリビジネス面でも考えはしますけどね…それは次回にでも。


今までがこういう事すら考えられないほどズタボロだったのでやっとらしくなってきたのかなとは自分でも思いますね。

こんにちは。


先日、ドタバタでしたがなんとか気持ちを落ち着けて…。


少しずつ、日本に対してやっと俯瞰的に考えられるようになってきたのかな?


という気はします。

まあ、私は根っからの研究者気質みたいなのでやっと色んな状況が落ち着きつつある昨今、色々と昔と今を比較してどうだったのかなどを洗い出して居るんですが…。



少なくとも病んではいないからその点は多分、あの過酷な環境下での経験が精神を強靭にしたのかなとは思ってます。


私の内面心情を。


まあ…うーん…。


ベトナムの時はあれはあれで1つの形で成立してたものですしむしろ、ベトナムの環境は規制などが無い分だけ、本能的になれると言うか…今よりも感情の起伏もかなり激しかったです。


あれは間違いなく自分の内面を表していたしあの時は「これが本来の自分」って思ってたんです。


日本では帰国当初にそういう部分にフィルタを貼って行かないと成立しない感覚が本当に拒絶感が酷くてですね…。


折角、異国に出てさらけ出しても受け止めてくれる人を見つけて家庭も出来たのにまたなんで昔みたいに戻らないといけないのか…と思っていたんですけど。


ただ以前に日本を


「言葉と文化が分かる異国」


と表現した事がありましたがこれがやっと心から腑に落ちまして。


以前はベトナムに行く前は本能を全開にする機会も無かったからそれを経験して踏まえて日本に戻った自分は違うしそれは決して、日本しか知らなかった時に戻るわけではない。


ただ、処世術としてある程度は合わせないと行けない部分がありますが。


でも過去は変わらないし


日本しか知らなかった独身の自分


ベトナムので家族が出来た自分


今、ベトナムを知って日本に帰って家族が居る自分


どれも間違いなく自分であると言う事です。


彷徨っていた私のアイデンティティが日本の生活を経てやっと再確立しつつあります。


それと国が変わってインプットが変わってデザインそのものも変質するかもって書いたこれ自体も拒絶の対象だったんですよ。


実際にIllustratorを動かしてデザインをまた見返している時に手が動かなかった…今は少しずつ、動くようになっていますが。


これがMIDORIをやること自体に自分が拒否反応を示していたと勘違いしてましたがそういう訳ではなくて…。


日本に合わせないといけないベトナムの事を忘れないといけたいみたいにMIDORIを連動させて無意識に考えて動かそうとしてた時にメンタル的な葛藤から動いてなかったんだなって…。


デザインや表現物ってやってるとこういう内面が物凄くダイレクトに出るのでそれを辿ると分かりやすいですね。


その辺りの感覚が今、やって噛み合って来たと言いますか…どの時代も自分なので過度に美化したり卑下したりしない。


自分であることには変わりない。


なら、両方を経て再び、日本に戻った今の自分にしか出来ない事もあるのではないか?


と言うのは今までの苦悩も相まって、最近やっと腑に落ちました。


多分、アイデンティティの部分での整合性と言う部分が現地で完全にあちらに寄せていた分だけ反動も大きかったんでしょうね。


これは多分、あちらで生活しててもいずれは日本に戻る前提だった人にはピンと来ないと思います。


とにかくこのズレと言うか噛み合わなさと言うか…これが気持ち悪くてでも説明もできないし言語化も出来ないでずーっと、モヤモヤしてたんです。


まあ、こんな事をいちいち考えてるから変人と思われてるのは自覚していますし普通の人とは噛み合わないのも理解していますけどね。


どこか子供の事などや病気の事にも必死過ぎて自分に無理に言い聞かせようとしてたのかもです。


でもね…出来ないものは出来ないんです。


ベトナムから帰ってきた人達は多分、会った時に自分に何処か違和感を感じていたとは思いますがそれもあちらでは見せていなかったそもそもあちらでは見せる必要の無かった面をこちらでは見せているだけって事ですね。


きっとその環境に応じた振る舞いや性格などがあって私はそれを出来るだけ人よりもよりその住んだ国に最適化するように行動してるのが一面しか知らない人には違和感に映ったりする。


多分、これは家族すら感じていることだと思います…なぜなら、ベトナムの時の自分しか知らないから。


多分、それだけの事なんだと思います。


環境に対応する適応力の高さと言うのは高ければ高いほど良いと言うわけではなく…それが最適化する動きが強ければ強い程、こうした弊害も生じるのだなと言う新しい発見でした。

こんにちは。


子供の友達のお母さんがつい先日、亡くなりましてね…。


そこは他校で娘さんなんですがちょっと地域の繋がりで出たイベントでうちの子が一目惚れしてグイグイ行った流れでお母さんと連絡先を交換してその流れで子供同士を公園に遊びに連れて行ったりしてました。


癌の闘病中なのを聞いていたのと私もこちらに戻ってきてしばらくは闘病してましたのでお互いに頑張ろうってたまにラインで連絡を取ってました。




しばらくは連絡は取り合わないでいて最近どうしてるのかなー?と思っていた矢先に訃報を聞いた時はショックでした。


うちの子供も亡くなったのにはかなりショックだったみたいで一緒に告別式に行き、最後に顔を見て子供にも


「〇〇ちゃんのお母さんにバイバイって言って天国に行けるように祈りなさい」


と言う形で別れを告げました。


娘さんも良い子でしてね…うちの子の1つ上なんですがお母さんにお祈りをした後に会って色んな事をお話しました。


気丈ににこやかにしていましたが


「こうやって、お母さんのお別れを言いに来てくれただけでありがとう」


とニッコリ微笑んで居ましたが肉親を失った悲しみは…本当にこんなにも苦しいのかと私も味わいましたので娘さんの気持ちを考えるとね…。


「私も母も3年前に亡くなったんだよ。1ヶ月位は…ずっと泣いていた。大人だってそうなんだよ。悲しい気持ちは止めないで良いよ」


「時間が癒やしてくれるからその時まで精一杯、お母さんとの別れを悲しんで」


「立ち直れない自分がダメだとかそういう気持ちも湧くかもだけど思わなくて良い。それで当たり前なんだから」


私としても子供が学校で問題になっていて荒れそうになっていた時に子供と遊んでくれた子なのもあり…。


最後にお母さんの棺にお花を添えさせて頂きましたが娘さんと目が合いアイコンタクトで満面の笑顔で「ありがとう」って言ってくれてました。


この時の顔は最初の表情とは違い、本当に心からの笑顔でしたので私なんかでも役に立てたかなって…。



告別式に参加してきたんですが多少なりとも知ってる縁がある人の死は堪えますね…。

こちらに戻ってきて多くない知人の1人でしたので尚更。


御冥福をお祈りします。


私は…なんとか生き長らえた身ですしこの方の分まで少しでも日本でまだまだ頑張らないといけないですね…。

こんにちは。

一応…4月中にはMIDORI関連もある程度の目処はつけられるかなと言う所までは来ました。


やっと…待たせてしまった人達にも渡せる…。


4月1日は子供の誕生日でした。
この日に1つ、給付金に近い形のものが毎月、支給される事が決まりました。
4月2日に内容は伏せますが学校の管理部と話し合い、今後なども話し合ってこれでもかと言う位の根回しをしました。

どちらかと言うと学校と自分と言うよりはクライスメイト等の保護者に案外、海外帰りで全く違う文化圏で育ってる事を知られてない事やこちらや学校がやってる事が見えにくいので意識的にそこら辺を見せる動きをやる。

去年も色んなことは連携してやっていたんですがね…それでも見えないと言うなら見えるようにやるしか無いですね。

まあ…複数の保護者からも言われた事ですしね。

好意的、否定的、それぞれありましたが最終的には

「お子さんはどう対処されるんですか?」

みたいな事を言われたので

「あー…あれでも足りてないのか」

みたいな。

理解してもらうとか言ってもそもそもの価値観の違いもありますし。

そういう路線よりも踏み込み過ぎてモンペみたいにならないようにって事と有事の際に保護者としてどこまでのラインで介入して良いのかや「これ以上、何をしたら良い?」と言えるくらいまでは意識的に学校が納得済みの上で見えるようになるまでやる感じですかね。

良い意味で有無を言わせないようにもっていくと言いますか。

まあ、美辞麗句や綺麗事を体現するにはオフレコの話し合いや互いに同意を得た暗黙の了解などのある程度の組織政治力学や必要悪みたいな面は無いと只の口だけの理想主義者に過ぎませんからね。

光を際立たせようとすると裏にできる影も比例して濃くなる。

だから…

信念だけでも行動だけでも知識だけでもダメなんです。

色んな方が居ますので全てに理解される事は無理でも現実的に全方向にある程度の納得出来る落とし所さえ付けられればって感じです。


無論、学校側にも様々な面で利益はある事も説明して納得してもらってるので利害の一致があるように…ですね。

見せ方を間違うと周囲の後の誤解が厄介。
落とし所を納得出来る話し合いをしないと一歩間違えたらモンペ扱い。

その為に互いに合意済みで納得出来る形でどのラインまで行けるかを明確に聞いて話し合いをしたと言うことです。

周囲が特例措置だと思っても当事者同士は事前に納得済で学校組織の規範の範囲内で出来る事はこちらはギリギリまでやるって事です。

これは、ここまでしないと動きにくくて嫌。

ってのが1番大きいです。

私は今の現状では物質的な豊かさや体験どうこうよりも子供が今後、日本に住んでいく為により良い状況を作る事が今は大事だと判断してました。

それはお金では決して得られない事だと私は思いますしもし、お金で解決するなら方法を聞いてみたいです。

子供には表には理解されなくても後になってそれが分かるようになってくれればいいかな…と言う私からのささやかな誕生日プレゼントですね。



そして、これからまた再開するにあたっても余計な時間が掛かるのは避けたいので先に詰めれる所は詰めたと言うことです。


先日の記事で自分のこれまでの苦悩や誰にも言ってなかった事などを吐き出した事も相まってなんか、吹っ切れたと言うか…。

自分でもあれ…?って思うくらい心境が変わったのですが昨年度にずっと何を言われても理解されなくとも孤軍奮闘してきた事に一段落した事がメンタル面で相当、大きいんだと思います。

まあ…配偶者が外国籍と言うのは余計な事を知られないから言及されないから楽だった面と日本の文化を分からないで私がベトナム文化を理解してるからこそ共有したい時に分かり合えないし言うに言えないしんどい面の2つ。

この2つが相反しつつ、同居していたのでどちらが良かったとかこうだったら…みたいな気持ちはあまり無かったのは私にとっては救いではありました。

今後に関しては今まで、散々…準備はしてると言っても実例を挙げなかったので懐疑的な方もいらっしゃるかもですが






とまあ…一応、後はすぐ出したら行けるところまでは本当に出来てるんですよ?😅

今は1から全部、自前で作るよりも決済システムなども揃ってるEC作成サイトなども充実してきてるのでホントに便利な世の中ですね。

口だけではなく、ああいう状況でもいつでも出せるように調子が良い時にチマチマと準備は重ねてきました。

とりあえずは関税も通過して問題が無い精油、キャリアオイル、バーム(軟膏)、入浴剤みたいなものからすぐに出せるものから先に出して検査や審査がややこしい食品系は整い次第、後日…って感じですかね。



後は…デザインが日本に帰ってきてからインプットが変わって自分のデザイン感覚も変わってきた事により日本用に多少、変質するかもしれません。

今、データを眺めていて完全にベトナム市場仕様なので日本向けに…ですね。


そんなこんなで身体の事と手続き系で1年半かけて、ベトナムのツケをある程度は目に見える形で精算できたのがメンタルに良い方向に作用してるみたいです。

終わってみて、身体の事や子供の事など自分の認識以上に目の前にある現実と答えが見えない事を手繰り寄せていくのがかなり重くのしかかっていたのを再実感してます。

この時間は無駄だったと言う見方も出来ますが私の場合は仮に万全だったら日本の情報を長い間に渡り遮断していたこともあり多分、違う意味で取り返しがつかなくなってた。

何が正解か何が良かったのかは今はハッキリと分かりませんが私にとっては多分、これが現状の出来る限りの速度と解だったんでしょうね。

足掻いて藻掻いて抗って…でもそれも決して1人の力では無く、ベトナムの縁が様々な所で瀕死から決壊する前に様々な形で助けをくれた。

その事実が私は多分…人に多少なりとも幸せは与えられて来れたのではないかな?


と思うのと同時に他人に対してもまた目を向けられる余力が少しずつ出てくるとは思います。

10歳になった子供が

片方の親が日本で生まれ育ち、ベトナムのもい片方の親とベトナムで出会いベトナムの地で生を受けて育ち2つのルーツの中の一つに確かにある日本。

その地で健やかにより良く双方の良い部分を出しつつ未来がある子供が成長していく姿を必要な時は手助けをしながら見守ります。

私は私でそのベトナムの地で叶い培った夢と経験をまた日本へ降り立ち活かすように頑張ります。



こんにちは。


これらの記事は過去からチマチマと書き溜めたものになります。




病状の回復と手続きの目途がつきそうになってる昨今。

確定申告も無事に終わりe-taxの要領も控除関係も1年掛けてほぼ分かりました。

本日、フリースクール型のデイサービスも入所も決まり来年度からの目処も立ってきました。


なんか…突然、日本に戻って来て地元ではない場所で特に配偶者が外国人と言う事もあり全く分からない手続きをひたすら…。


体はここ2週間くらいは少し、悪かったですが決め打ちしたらなんとか4、5時間は動ける…ってなっただけ去年に比べてだいぶ、回復はしたんだと思います。


去年はホントに…なんであの状態で動けてたんだろう?って…。


あまりピンと来ない人に分かりやすく言うと


普通の人が100満点で


健康ラインが80点

調子悪いから大事を取って休むが60


位だとしたら私は現状で


1番良い時で60点

悪い時は30点


皆さんがちょっと調子悪いから休む時がMAXで無理矢理、動かないといけなかった位で動いていたのでそれが終わるとヘロヘロになって動けなかったと言う訳です。


場合によっては普通は寝込むレベルでも手続きや子供の事で動かないといけなかったりだったからこればかりはならないと家族でも分からないんですよ…。


これをたまに1番良くて70点で動けてるときに


「元気そうにしてるじゃん」


と言われたりするのが1番辛いんです。

そうじゃないんだよ…と言いたいんですが伝わらない感覚のもどかしさ。



さて…ある程度は目途がたった今で


MIDORIをどうしていこうかなー?


と考える際に色々と。


まあ、今まで手が出しにくかったのは配偶者ビザが大きく関わってまして…。


配偶者ビザは外国人側はかなり緩いのですが日本人側には


「記載漏れや申告漏れ等があったらビザ審査に影響する」


「安定した職業じゃないと評価は悪い(※実質的に正社員しか認めない。フリーランス、個人事業主、派遣等は実質、認めない)」


みたいなかなりしんどい制約が課されるんですよ…。


これはなんだかなぁ…と思うところも多く外国人が制限をなくす代わりに日本人には職業選択の自由は実質ないじゃん…みたいな感じなんです。


だから見切り発車で税金知識が無いままでやるには知らなかったでは済まされないですし次の年の税金などや配偶者ビザ関係でリスクが高過ぎて踏み込めませんでした。


これが自分だけで済まされる問題なら構わないでしょうし会社員であれば会社がやってくれますし自営でも当事者でないとピンと来ないかもしれません。


ずっと日本に住んでいて外国人配偶者を呼び寄せた人にも分からないと思います。


私は日本に戻るつもりが無く日本側の情報を遮断して現地の情報収集をしてた人間なので正にトレードオフと言いますか…。


あそこまでの現地の情報を得るにはそれくらいの犠牲が無いと不可能だったと言うわけです。


だから再度、日本の情報を得るのに四苦八苦して尚且つ、身体の事もありここまで時間を掛けないといけなかったのです。


そして、手続き関連をやっていて思うのは


日本人にとことん厳しく外国人に甘い


多くは書きませんが配偶者の都合上、日本在住のベトナム人達とも関わりが増えてきましたが日本人では絶対に見逃されないであろう事もかなり見逃されています。


そりゃあ…ここまで外国人に甘々ならこの円安でも日本に来たがるだろうなと思いました。



まあ、私はベトナムに長く住んでいたのであちらの文化を知ってるのとあそこはあそこで色々と恩恵もあるから受け入れてもらってますが。


日本人の感覚で義憤にかられてみたいな事をたまにやろうとする人も居るみたいですが私は辞めておいた方が良いと思います。


あくまでずっと日本に居ようと考えてない人が大半でそのコミュニティが荒れる要因になれば大半は普通の人ですが半グレみたいな人も混じってるので容赦無く牙を剥きます。


そこは日本人の感覚で警察などに言えばなんとかしてくれるみたいな感じでやると自分の身が本当に危うくなるだけなのであちらの感覚がわからないなら君子危うきに近寄らずです。


日本でも反社にわざわざ首を突っ込もうとしないと思いますが何故か外国人は大丈夫だと思う人がいらっしゃるみたいですがあちらの方が首を突っ込もうとするとある意味であちらは自分の国でない分だけ失うものが無いから危ないよって言う事です。



余談ですが最近、難民どうのこうのの問題が言われてますが


日本人と結婚してて「何故か配偶者ビザや特定技能を申請しないで難民申請を申請して通らない」から差別だ!!


みたいな声がよく聞こえますが仕組みを知ったらあれらの報道がきな臭くて仕方がないです。


不思議ですよね…?

特定技能ビザも拡大されて長く住めば定住者ビザなども取れますし永住権資格も得られるのに?


日本人が配偶者なら就労制限が無い配偶者ビザを何故、申請できないか不思議ですね。



ああいう輩と入れ知恵する日本人が居るから真面目に暮らしてる外国人や普通に暮らしてる日本人が割りを食うのは辞めて欲しいですね。




話は変わって…。


日本は本当に豊かで安全で穏やかな世界なのになんか人はピリピリしてて不平不満に溢れてますね。


比較って訳では無いですが


日本は「社会」として生きていくなら日本ほど豊かで安全な国はない。


「人」として生きていくならギスギスしてて常に法律の名のもとで如何にすり抜けるかみたいな茶番のような化かし合いが繰り広げられている。


ベトナムは「社会」として生きていくなら共産圏は脆く不安定で衛生面や安全面ではなかなか安定して暮らせない。


「人」として生きていくならそういう国だからこそ家族繋がりや「困ったらお互い様」の人の優しさの精神がローカルには根付いている。

それは日本在住のベトナム人界隈でも思います。


どちらにも長所短所はありますがまあ、どちらが良いかという話なだけなんですが。


ベトナムは正に昭和の日本って感じで人も大らかな面も残ってますが反面で昭和のような粗暴さもありますしそれが治安の悪さにも直結してます。


こちらに戻って来て思ったのが


自分は昭和の人間だからを自称する人って「粗暴さだけは昭和」で性格は現代で大らかさもなく過剰サービスを求め細かい所に気にして常にイライラしてるみたいなローブリッドの最悪の掛け合わせ


みたいな人が戻って来て凄く多いよね…って思いました。


前置きはこれくらいで。


私は元々が特に成長や拡大みたいなものはベトナム時代からあまり求めておらず好きな事を仕事として作り出してサプライヤーやお客さんと本音で話して仲良くなってその信用して頂ける過程が嬉しくて生活していけるだけで幸せな人でしたので…。


思い返してみるとベトナムでは2つ立ち上げて事業を展開しましたが元々はそんなに強い独立志向などは無かったのです。


ただ、あの地では他に日本人でやる人が居なかった。


結果として出来たからやった。


ってだけで出来るのと本来、向いてるか向いていないかは別の話でですね。


日本の家族ともあまり折り合いが良くなかったのですが私は今までは家族に基本的には否定される人生でしたので。


何をやってもどんな結果を残しても少しでも意に即わないと認めない。


思えばその反骨心があそこまでやれた大きい要素でしたね。


自分の家族が折り合いが悪いからせめてベトナム側だけでも上手くさせたいと本来はかなり苦手なのに無理して義妹を住ませたりしてサポートしたりとか。


性別を問わずに話しやすいと言われるので物凄い意外かもですが実は私は子供は大丈夫なんですが…


実は人に自分から触れる事がほぼ出来ないのですよ😅


事実、基本的に1m位は常に意図的に距離を離してたんですが私が気兼ね無く触れられていた人は性別を問わずかなり心を許してると思っていいです。


紆余曲折はありましたが義実家は色々と良い方向に行ったのですが代わりに先に母が亡くなってしまった。


本来は向いていないのに出来るから矢面に立って異国で頑張ってそれもただただ家族に認めてもらいたかっただけなのに…会えないまま逝ってしまって2年も墓参りすら出来なかったのは辛かったですね。


まー…それでもともと我慢してた難病が顕在化してどうしようもなくなって日本に戻って来てその中で原因が分からなかったのを探しながら10年のラグを埋める為にまた色々と頭抱えながら無理して動いて…。


やっと今に至ると言う形なんですが。


何でも出来るように見えるのも凡人が文字通り死にものぐるいで生きる為に考えて考えて知恵を振り絞ってなんとかして行くうちに結果として身についた術なのでね…。


あそこまで狂気的な感じでやっていたのは


悪魔に魂を売った代償


に近いのかもしれませんね😅


これから先、やっと色んな目途が付いたと思った時にどう展開していこうかと考えた時に成功云々よりも違う事が引っかかっていて。





先程、ベトナムの生活は幸せだったと書きましたがこれが独りよがりだったのではないかな…って考えてしまう事も今は多々あります。


子供にしろ家族全体に対してですもね


今は安心した環境で学校の友だちも増えて問題は多々ありましたが通っています。


家族全体も…自分がこれで良いし家族は幸せなはずだと思っていた事も日本に家族が馴染めば馴染むほど、独りよがりで可能性を閉ざしていた行為だったのでは…。


でも、ベトナムで出会ったもの、人は自分にとっては忘れられない掛け替えのないもの。


だから、否定したくない気持ちとその象徴であったMIDORIに対しても日本でやる事が本当に良い事なのかな…?


体調面で必死に足掻いた先に待ち受けていたのは嘘偽り無くこういう感情が堂々巡りです。


後は1番は自分の中では互いに納得してやってたと思っていた相方が


ベトナムの生活はずっと我慢してた。

安定しない生活は嫌だった。


みたいな事を言われた時にですね…本人は言い争いの中の他愛もない一言だったのかもしれませんが結構…頭を鈍器で叩かれるようなショックがありました。


本人も今、思い返したら日本に来て念願の憧れの海外生活に頭が茹だって出刃守になって無意識に自国下げをしていたんだとは思いますがね…。


それに関しては何回も言われたら流石にこちらも


「自分が海外に行って身体が擦り潰れるまで頑張ってやって来たことを馬鹿にしてるように聞こえるから辞めて」


「そこまで言うなら、今から日本で真っ白から事業を立ち上げてやってみて?それを真っ向から否定されたら誰だって物凄く嫌な気持ちになる」


「あの時は拡大していくかの話し合いで二人で出来る範囲でやっていこうって互いに納得してそういう結論になってたはず。だから、むやみに事業拡大路線はやらなかった。それを今更、蒸し返してこちらの責任みたいに言われるのはちょっと違う」


と言ったら流石に不味かったと思ったのか言わなくはなりました。


別にあちらで生きていく為にお金に困っていた訳でも無かったですしね。


過去の栄光や執着と言うよりも、人生の中でも大きなウエイトを占めてるだけにその言葉が自分の中ではその言葉自体は言わなくはなりましたが心に残ってはいます。


私は…10年近く、異国の地で必死でやってきた事が果たして良かったのかな?


とふと頭を巡る時もあります。


良い意味で捉えれば多分、そういう事を考えられるだけは回復したし日本は日常生活の負荷が軽いからそういう事も考えられると言う事ですかね。


まあ、あちらでは日常のリスクが大き過ぎて生きるだけでも精一杯でしたしね。


日本では1年くらいは三叉神経痛と頻脈と耳鳴りやグラグラがあった時はそんな事も考えられずに横になっても絶え間なく来る痛みに苛まれていたので。


そして地元でも無いので身内も居ない、誰も境遇を理解する人も居ない、むしろ手続きなどはその中でも自分が動かないといけない。


…とてもでは無いですが繰り返しますなんであの状態でも動けていたのか。


今までは子供を馴染ませる為に必死だったというのが大きいとは思います。


それにベトナムではあの場で朽ちても本望だと思っていましたが…


周囲に全力で生かされたと言うか…。


なんか、これは不思議なもので主治医に出会ったのも偶然ですし大阪でも本当にダメかも…って思う時に何かしらの助けが入ってなんとか延命してきてると言いますか…。


私は基本的には身体の事もあり用がある時しか出歩かないので基本的には1人で居ますし周囲に親しい友人なども居ないんですけどね。


ここらへんはホントに不思議ですが家族が居ると言うのは本当に大きな原動力になりますね。


ぶつかり合う時もありますがなんだかんだで助けてくれる人が居て真の意味で孤独では無い状況と言うのがいつもギリギリで踏み留まれた要因ではあります。


まー…4月中くらいはまた新学期が始まって環境が変わって四苦八苦はすると思いますが今、やっと平穏で過ごせてる日々を反芻してもう少し考えて行こうと思います。





こんにちは。

子供の学校が終わりを迎えてなんとか3学期は問題なく済みました。


これも…本当ににキツかったですね。


なんと言うか…日本はパーフェクトヒューマンを求めてると言うか、今の日本が少子化の理由はなんとなく分かりました。


発達障害など色んな事が出てますが日本の基準に当てはめたらベトナムの子供は8割くらいが何かしらの障害だと思います。


それに対して目くじらを立ててあまりに過敏すぎるなぁ…と。


日本人の言う「普通の子供」ってどれくらいの水準なんでしょうね?




こちらは4年生からがどうなるか…また3年二学期みたいな感じになると親も結構、キツいですね…。


二学期中は、週2回は学校で問題起こして迎えに行ったり毎日、掛かってくる電話に辟易したり…。


子供の放課後に全部、公園なども付きっきりで見てくれみたいな無茶振りを言われたりそれには「不可能です」と再三、行ったにも聞き入れてもらえず…怒涛の手続きでそれどころじゃないのに…。


なんでも放課後の事でクレームを再三、入れてくるモ○ペが居たらしくそこに直接、話すので電話番号を伝えてもいいからと言っても来ない。


他の子供達に聞いてみたらそのモ○ペの子供も散々、トラブルを起こしてると…。


その間もちょうどステロイド治療に入った過渡期で1番副反応が出てた時期で非常に難儀しました…。


その間もひたすら学校を介して電話は掛かってきて流石に我慢の限界が来ましたがそのまま話したら喧嘩になると思い…区役所の子育て相談に話を聞いてもらい非常に親身になってもらいました。

 


私から話した内容は学校の大方の対応は満足してるがこれだけは家庭が壊れるから辞めてほしい。


直接、言うと間違いなく自分の今の感情としても感情論の喧嘩になるし先生達にはお世話になってるから喧嘩はしたくないので間に入って欲しい。


それらの頼みを迅速にやって頂き、その後もこまめに連絡を入れてくれたり学校までうちの子供の様子などを見てきてくれたり非常に助けられました。


そこからの縁でデイサービス相談支援をツテで紹介して頂いたり(普通なら3ヶ月待ち)本当に親身に応えていただけました。


なんか、最近分かったのですが区役所の職員と言うよりは外部招聘で来たスペシャリストみたいな方だったみたいで偶然にもその方に相談できたのは転機でした。




その後は公園でモ○ペと鉢合わせになった時に


「こちらの事を良く言われたりしてたようですが学校からは私の連絡先は聞いてませんか?」


「こういう形で面と向かって言われるのが嫌でしたら放課後の事は学校ではなく私に直接、連絡してください」


「お宅の息子さんも見ていたら年上相手に煽ったりされてるようですのでお互い様では無いですか?私はどんなに悪い事をお宅の息子さんが私の子供に傷が付くくらいの事は数度はやられてますが子供の喧嘩程度で一切、クレームなど入れた事はありません」


「こういう風に言われるのは嫌と思いますが最初に引き金を引いたのはあなたですので、やるのであればこういう形で返される覚悟をお持ち下さい」


という形で。

まあ、言うなら公園で鉢合わせて言われることくらいは覚悟して欲しいです。

自分は仕掛けても相手から返されるのは嫌なんて我儘は通じないです。


学校にも


「子育て支援に相談したのは申し訳ないです。今回の件は体の事もありかなりしんどかったです…ただ、私が窓口を開いても連絡して相手が来ない事自体が対話を拒否されてるという事です」


「私も先生達には疲弊して頂きたくないですし放課後対応は学校は管轄外なので何かありましたら私の電話番号に連絡してくださいと言うだけに留めてもらえますか?それが本来の筋でしょうから」


「先生達は精一杯、どちらも立てようとされたんだと思います。しかし、あちらを立てた結果、私と先生方が共に嫌な思いをしてるのは相手へのゴネ得にしかならないですし私も先生達とはこんな下らない事で険悪にはなりたくないのです…」


という形で決着はしました。

 

子供の事で考えさせられるのはまあ、みんなしきりに「子供の為」と言いますけど。


ただ、その為に親や学校が擦り切れて擦り減ってまでやるのは違うと思ってて。


まあ、2学期で何回も血管が切れそうになるくらいには十分に擦り切れてましたが。


まずは子供を支える親や教師側が健全でないといけないけどに幸いにも学校はかなり熱心でマトモな人ばかりだからそこだけは救いでした。




自分は最近、良く子供の事に熱心だとお世辞も入っているでしょうが言われることが多くて「?」がつくことが多いです。


病気の事もありますがまずは自分が快適になる環境を作らないと人の世話をするのは無理でそういう過程が結果として今は子供の為になっていてそれを熱心と表現されるのかもですね。


なので、あまり子供の為ってのにピンときてなくて困惑する事もあってこれってズレてるのかな…と不安になったり。


願わくば自分とせめて周囲だけでも快適になるような環境づくりはしたいのでそれが今は子供にベクトルが行ってるのでしょうね。



子供は親の道具では無いですし親も子供の為の道具になることも無い。



なので、保護者と学校の対立等が良く取り上げられますが私は基本的には学校側の味方と言いますか…かなり手厚くやって貰ってる分、学校側の立場の方に立つことが多いです。



世話してくれるのは学校であって生徒の保護者ではないのでね…。



塩対応や差別してるとかならまだ分かりますが精一杯、対応してくれてるのにちょっとしたミスで責任がとか攻め立てたりするのは逆効果です…。


なので、管理職にも「うちの子が!!」みたいなのは私は無いので壁を作らずに客観的に自分の子供を問題を淡々と話が出来る強みはあります…実際に何日かは特に酷かった時は私の判断で登校停止にもしましたしね。


これはベトナムの時から変わって無くてMIDORIもそうで自分が快適になることで周囲もそうなってそこに結果として需要があったのでしょうね。


こういう境遇だから保護者とかとあまり親密にはなれなくて(※こちらが意図的に避けてた部分もあるしあちらが引いてた部分もある)孤軍奮闘みたいな感じで二学期中はキツかったです。


育った文化と育った環境の壁が余りにも根深くて。


そんな中でも子育て支援相談の方々には本当に助けられましたね…。


少しずつ地道にやってきた事を見てくれてた人も居て協力を申し出てくれる保護者や周囲の手助けもあり少しずつではあるが状況が好転しては来てます。


まずは敵ではない事だけ分かってもらえればそれで良いんだけど…。


最近、分かったのはうちの子が特別扱いされてるみたいに見てくる方もいらっしゃるんですよ…。


まあ…うちの子はクラスの子達の半数くらいからは嫌われてるらしいのでそれなのになんであそこだけ手厚く!?…みたいな?😅


まあ…大阪人ですら引くレベルのオープンマインドと拘りと我の強さと空気の読めなさなので嫌う子はとことん嫌うのは分かります。




見えないところで親はこれ以上、出来ないって位までには学校に協力してるからなんですが。


むしろ、そんなに自分の子が特別扱いされたいなら変わってあげたいくらいです。


日本という安全な環境で平和に普通に日常生活が送れることがどれだけ尊い事なのか…。


この尊い環境を普通で当たり前だと思うとそういう発想が出るんだなぁ…とつくづく思います。


とりあえずは敵は作らないように周囲だけでも快適になるように今年度中は努めます。


後は私は基本的にうちの子のせいで他の普通の子達が割りを食うような構図にはしたくないんですよ…それを当たり前だとも思いたくない。


毎週2回昼に迎えに行ってるんですがチビが学年問わずに突っ込んでいくので迎えに行くと


「あ、〇〇君の!!」


みたいな感じで複数人に話し掛けられて先生もビックリしていたり何より私が子供と遊んだり話したりが出来るので公園とかでもよく遊んてあげてるんです。


そんなうちに最初はうちの子を嫌っていた子も良く遊ぶようになったり良き理解者になってくれたりなど。


まあ、子供と同じ年の子達なので私にとってもなんか娘、息子みたいな感覚なんですよね。


だからチビが二学期に問題を起こして冬休みに話した事も


「〇〇が悪い事をしてる事がどうこうを怒るよりもそれでクラスの子達が傷ついてるのを見るのが辛いしそれ以上、傷付けるなら私が今の学校自体から引き剥がすから…」


ってかなり淡々と怒りを滲ませた話をしてから三学期には結構、辞めた部分もありました


基本的に私のメンタルが多分、子供なんでしょうけど😅


公園に居る子供の友達と最近、流行りのマッシュルダンスをたまにしたりしますからね(笑)


まあ、子供と接点を持っておくと先生達すら把握してない情報を聞き出せたり子供同士で上手く解決させたり話し相手になって溜飲を下げさせたりでここが他の保護者には無い強みなのかもです。


ちなみにクラスの子に「ねえ…最近、知らない子からも話しかけられるんだけど」って聞いたら


「〇〇君の親って3年生で知らない人居ないよ?」


「え…それホントに?😅どうして?」


「うん。優しいし一緒に遊んでくれるし目立つからね」


ってなんか凄い微妙と言うか…神妙な気分に。



話は変わって4年生からは最近、フリースクール型のデイサービスなるものが出てきたみたいで受給証と親の所得の範囲で受けられるみたいでここに通わせようと考えています。



色々とあった子供の日本の初学校生活一年は波乱は常に起き、でも仲良い友人も理解者も出来て非常に考えさせられましたが子供にとっては掛け替えの無い日本学校生活の第1年だったと思います。


願わくば、ベトナム生まれベトナム育ちの子供が日本を好きになってくれる事を願って。



こんにちは。


近況をまとめて報告します。

国籍が無事に受理されて晴れて子供は日本国民になりました。


めっちゃ苦労しましたがなんとか…同時に手帳の申請も受理されて受給証も通って新年度からはデイサービスなどにも行けます。


最近、フリースクール型のデイサービスが出てきて公的な援助を受けながら学校の代わりに行けてプログラミングなどもあるみたいでそこを新年度からは利用することになりそうです。


ついでに私は2ヶ月ほど本格的に治療して好酸球が29.0%から3.7%まで落ちて本格的に寛解状態に持っていけたのでこれからやっと動けることが出来ます。


ベトナムの時から含めると約5年くらい、最後の2年は闘病でしたがここまで行き着くのに本当に苦労しました…。


あんな辛い思いは二度としたくないですが同時におかげで色んな情報や知識も身に付けることが出来たので今は諦めないで良かったと思うばかりです。


一応、具体的な動きとしましてはプレドニンは10mgから5mgの隔日で行けるかなと言うくらいまでは減薬出来てます。


それに伴い、カルバマゼピンも1日一回から2回くらいで3回は飲まないで減薬中。


プレドニンのおかげでだいぶ、改善してきて今は1日4時間から5時間くらい決め打ちしたら毎日なんとか動けるってくらいにはなりました。


主治医の先生曰く


「この程度のプレドニンの量で改善したのは今まで人参養栄湯などを使いアレロック、セファランチン、たまにエペリゾンなどで改善と対症療法を地道にやってきた結果だと思う。普通はプレドニンを使ってもあの好酸球の値だと大病院でステロイドパルスを覚悟してた…」


それはならなかったから良いとしてしかし…身体の炎症、特に血管の炎症って数字上は寛解と出ても、まだ症状は出るので長引くもんだなとは分かって来て、此処から先は如何にコントロールして日常に戻すかと言うフェーズに突入しました。


今年欲しいものは?


どの問に


「健康な身体」


と即答でした。

まあ、異国の地で身を削るくらいやってきて壊れて1年半ほど苦しみましたが苦しんだからこそ


妻の更新ビザ申請

子供の国籍取得申請

子供の手帳関係


学校での異文化+特性によるトラブル続き。

確定申告でやっと税金要領が掴めてきた。


これらはむしろ、健康体でベトナムの感覚のまま最初から突っ走っていたら色々と人と対立し合って悲惨な事になっていたでしょう。


もう少し様子を見ることにはなりますがまだ体が若干、キツい日などはありますが去年に比べたらだいぶ、動けるようにはなってます。


それが終わったらやっとMIDORIも向き合えます。


この1年半、覚えた手続きはやり方は忘れないので日本に長く居る為の下地が整ったから向き合えます。


体力もコントロールさえ出来ればホントの意味のリハビリもして戻していけるとは思います。


今は来年度は好転して良い未来が徐々に描けて来てるのでもう少し、ぶり返さないように気を付けながらベトナムのツケの最後の締めを頑張ります。


それに際して、ベトナムの帰りの時から色んな意味で支援して下さった皆様方、ありがとうございます…。


後、本当にお待たせして申し訳ありません…。

私もここまで酷い病気だったとは想定外で生活の事や子供の事や日本での手続きの複雑さなども加えてどうにか合間を縫ってやろうにもその合間は体力の限界で倒れていて生きるだけで精一杯でした。


かなりの時間を要しましたがおかげで数値上は寛解に持って行けて手続き関係や子供の事も一段落しそうでやっと心から向き合えるようになってきました。


その時から一日も忘れていません…むしろ、早くやらないと…と焦っては全く体が動かず焦燥感、情けなさや悔しさと申し訳無さが混在した気持ちで過ごしていました。


これもあの時からの支援が無ければ私は今頃、日本でも治療も出来ず原因も分からず見つけ出す事も出来ずに自暴自棄になっていたかもしれません。


その支えを拠り所にして早くMIDORIに真剣に向き合いたいと言う目標の元にあと少しと言うところまで戻ることが出来ました。


これから先はやって頂いた事に対して感謝の気持ちは行動で必ずお返しします。


本当に長い間、待たせてしまった御縁がある方々にも多大なる感謝とそのおかげで私は今日まで生きられて復帰出来る前段階まで来れました。


あと少し、煩雑な手続きの最後の締めをが終わりましたら必ず連絡しますのでお待ち下さい。

明けましておめでとうございます。


新年早々、あまりの出来事に呆然としています…。


自分に出来ることは募金するくらいしか無いですが被災者の方が一日も早く日常を取り戻せるように祈っています。


少し、問い合わせがあった事への返答を。

前回の記事は別にベトナムの事や自然系を否定してるわけではありません。

それともし…医療関係者への冒涜と感じられる人がいたらすいません…。


私は基本的に自分の症状だけ詳しいだけなので幅広い知識が必要な医療関係者は尊敬しています。

そもそもの知識の幅や必要な求められる知能指数も根本的に違うので比べるのが事自体が失礼だと思ってます。


なので決して関係者を陥れる意図は無いです…だから、あまり薬系に関しては書くつもりは無かったのですが。


後はここの所、極端な二元論と言うか…自然か化学かみたいなそういう論調に持っていきたい人が多いですね。


とりあえず私が何を使ってるかを書くつもりはありませんでしたが書いておかないとさらなる誤解を生みそうなので書いておきます。


プレドニン(免疫抑制)


オロパタジン(アレルギー)

セファランチン(免疫調整)

メチコバール(神経損傷治癒)

カルバマゼピン(三叉神経痛止め)


人参養栄湯or補中益気湯


ここまでが日常で使うもの


エペリゾン(頓服)(筋弛緩)

ロキソニン(頓服)

ゾピクロン(頓服)(睡眠補助)

柴苓湯or小柴胡湯加桔梗石膏(頓服)

半夏瀉心湯(頓服)


ここまでが症状が特に酷い時の緩和剤



一つ一つは説明は長くなるので省きますが大体、医療関係者ならどういう意図で組み立ててるかはわかるとは思います。


カルバマゼピンに関しては副作用も強く賛否あるかと思いますがプレガバリンが効かずサインバルタが効かずこれがある程度は効いて抑えるために飲んでます。


さすがにトリプタノールみたいな三環系やトラマドールみたいなオピオイド系を使うよりはまだマシかなと…。


大体、こんな感じです。

エペリゾンは体全体が血管炎で激痛過ぎる時があってデパスを筋弛緩に使うくらいならこっちの方がマシと言う程度です。


日本に帰ってきて良かったなーと言うのはセファランチンですかね。


タマザキツヅラフジの抽出物で主にアルカロイド。


これは血管炎が分かる前から主治医から勧められて飲んでいたのですが造血や末梢神経や抗アレルギー作用もありある意味で結果としてかなりマッチしてたと。


ベトナムには無かったので自分でも処方されて調べてみて「ヘぇ~…こんなのがあるんだ」と。


こういうのが今の主治医が私が知らない部分をさりげなく補助してくれる部分なのです。


漢方の意図は柴胡剤を併用する時は人参養栄湯。



併用しない場合は補中益気湯。


人参養栄湯は遠志が入ってるので精神安定や安心作用もあるのでプレドニンを使い始めてからはこちらにほぼ切り替えてます…ほぼ補剤ですね。


私は漢方は証とかよりも単純に中の生薬の組み合わせとその生薬の化学組成で大体、こんな感じだろうとイメージして使ってるので東洋の考え方とは少し違うかもです。


まあ…後はこれは決して皮肉とかではないんですが自然系にハマる人の傾向や考え方の経緯や傾向などがありまして…アロマや漢方やアーユルヴェーダなどジャンルを問わずなんですが。


①化学に否定的な考えになる

➁少し特異な組み合わせ等を好んで使うようになる

➂なるべく西洋医学を使わずに治そうとして悪化してしまう

④日常医学と対症療法は別物として使い分けるようになる

⑤最終的には自然系も王道の組み合わせに戻る



大体はジャンル問わずにこんな経緯を辿るんですよ。

むしろ、➂で悪化せずに済む人は大体は割と普段から健康的なんです。


特異な組み合わせは漢方で例えると…そうですね。


加味逍遙散に女神散を使ったり。

十全大補湯を血府逐瘀丸やウチダの丹参製剤二号方を使ったり。

田七人参をいきなり使い始めたりなどちょっと人と違う事をステータスに感じたりが多いですかね。


千金内托散とかね…。


はい、私もなんですが自戒を込めてね…。


いや、別に悪いわけじゃあ無いんですがなんだかんだで王道が一番無難で良いなと日本に帰ってきてからはより私は感じるので。


例えば、神経痛が酷い時にリリカを使えば収まるものを疎経活血湯を使うのに拘ったり。


溶連菌でオーグメンチンかサワシリンを使えば良い所を十味敗毒湯や消風散を使ったり。


鼻炎とかでセレスタミンで収まるのに荊芥連翹湯を使ったり。


それが悪い事だとは言わないですが西洋医学で一気に鎮めて後の方に漢方を使ったり併用したほうが早く治って有効な場合もあるのです。



かと言って私は基本的にあまり西洋の風邪薬は使わないんですが軽い風邪の時は銀翹散。酷い風邪の場合は柴葛解肌湯(葛根湯+小柴胡湯加桔梗石膏)


これにトラネキサム酸かグルタチオン。


これでも治らない場合はセレスタミン+グレースビット(ニューキノロン系)※これはプレドニンと併用可能かは分かりません。


熱が酷い場合はロキソニンも併用。


ここまでして治らないならマイコプラズマやもっと危ないウイルス系を疑って総合病院行き。


とまあ…それぞれに長所短所があるのです。

ちなみに銀翹散は風邪のファーストチョイスでまず使うくらい効きます。


何故、葛根湯がファーストチョイスなのかと言うのと何故、銀翹散が保険適応では無いのか不思議なくらい万能なんですが…。


ドラッグストアには普通に置いてますので常備薬として置いておくとかなり良いですよ。


こんな感じです。

私自身もあまりここらへんは医療従事者では無いのであまり言うつもりは無かったです。

ただ、プレドニンみたいなステロイドだけ使うと出る不具合はここらへんを使えばある程度は緩和されながら治療できるかなー?と言う私がある程度は効果を実感してるので参考になれば。


ただ、基本は栄養ある食事と睡眠とストレスを如何に感じないかと紫外線を浴びない事などが基本だと思いますのでそれらがあっての薬の治療と言う事ですね。


まあ…ここらへんはあまり取り繕っていても仕方ないですしこれらである程度、治ってきたら今までやってきたベトナムの自然系が緩和治療として活かされる時が来る。


ボンヤリと幅広く薄っすらと効くものを使って肝心の不具合がボヤける事を避けていたと言うのもありました。


ベトナムの時はそれで肝心の病状が見えなくなっていて見落としていた点も反省材料としてあったので。


ここらへんが自分なりの拘りみたいな部分でした。


その地点に立つまで誤魔化しながら無理して展開する事をしたくなかったと言うのが去年まではありました。


今年はまだどうなるかは自分でも分かりません。為せば成るでどうにかなってるなら今頃は元気でしょうから。


それに気持ちの持ちようでどうにかなってるならそもそも日本に帰ってませんよ?


本当に苦しんでる人に健康な人が「薬は良くない」みたいな事を頭ごなしに言う事はそれだけで人を傷つける言葉になるので沈黙は金と言うか言わないほうが良いとはおもいます。


そんな事くらい本人が一番わかってるんですよ。


あくまでメリットとデメリットを天秤に乗せてメリットが強いと判断してるだけなので。


ただ、諦めてるわけでもなく嘆いてるわけでもなく現状の中で精一杯、抗ってみる。それでもダメならまた違う方法を試行錯誤して探すしか無いかなと。


自分事なのでこれが正しいのかどうかと言うのは分かりませんが少なくとも理屈的に正論や正しいだけでは人は動きません。


まあ…後は強いて言うならもし確定なら免疫グロブリンやヌーカラを使って一気に治したいのはあるんですが保険適応でも特にヌーカラは80000円くらいするので指定難病医に見てもらわないといけないので紹介状を書いてもらってそれで確定させます。


それで確定したら軽症でも軽症者特例の条件は満たしてるので難病助成も行けるかなと…。



日本はこういう福祉は充実してるのでその辺りを上手く使いながらやっていきます。





こんにちは。


早いもので日本に戻ってきて1年半位になります。


今年はまあ…自分がベトナムで目を逸らしてきた事が因果となり一斉に降りかかりそれを処理するのに精一杯でした。


病気の事。

子供の事。

手続きの事。

自分の一族の事。


全ては自分がそれで良いんだと目を逸らして後回しにしてきた事も思っていた事も結局はいつかは精算しないといけない…それが如実に出た1年でした。


しかし、あまり自分としては悪い方には捉えて無くてなんだかんだでジワジワながら処理出来たのと病気も無く順風満帆だったら出会わなかった人達にも会えた。


その過程で色んな知識も見識もまた身に付けることが出来た。


捉え方にもよると思いますが1度、海外で長く生活すると日本に戻ってきた際にそれは「日本では出来ない経験」よりも「日本では当たり前の事が出来ない」みたいなハンデを背負うという認識が自分は強かったです。


再び日本に適応してくると違いますが初期の方はそれがキツかったですね。


その際にそのハンデを埋める要素は知識を詰め込むしか無いと思っています。

それを知識を詰め込む事が出来る素養が備わるのと余地出来るのが海外のアウェイの生活が活きる所かなと。


ただ、どうしても海外で暮らすと


「自分は人には出来ない事をやってきた」


みたいな自負心みたいなものが大なり小なり滲み出るんですよ。

そこに折り合いをどうつけるかと言うのが難しいんですよ…無意識なだけに余計に。


ここに行き着くまでは辛かったですよ?


良く日本に帰ってきて感じる事はと聞かれる際に自分は


「物事をあまり考えなくなる」


と良く答えるんですが安全で便利で治安も良いし法律で守られてるって事はある意味でそんなに考えなくてもなんとなく生きていけるわけです。


ただ、ここまでだと前途の通りそれが滲み出るとタダの嫌な人ですよね。


それが悪いとかではなく日本で安全な環境でなんとなく生きて人生を終えられるのは世界の殆どで出来ないくらい幸せな事であると私は思います。


それに知識差や考える量の差でも別に今後のAI次第では人の持てる知識なんて一瞬で覆される可能性が高いわけで。


ただ、そのAIを活用する為に海外で生活してきた素養や知見と言うものは活かされる訳です。そのものを知らなければ答えを問おうにもその前提を調べようがないわけで。


そういう意味では見方によってはハンデであり見方によっては人が知ることが出来ない要素を知ることが出来た。


私の場合は海外で生活してきたから日本では知れない知識を知り文化を知り経験を得た。


家族が出来て守るものが出来た。


病気に掛かった等ベトナムでは自分で医学知識を調べる癖が付いたので日本でもそれを活かし調べて対処法を調べるうちに西洋医学にも詳しくなった。


家族が異文化だからこそ日本での生活もより真剣に考えた。


家族が異文化だからこそ日本に住む外国人側の心情にも踏み込んでいけた。


子供が異文化育ちで特性があったからこそ教育委員会や市議会議員など普通なら知り合えない人と知り合えた。


まあ…これらの要素は日本で普通に生活して普通に人生を過ごす分には全く要らない要素ですので正に人の捉え方次第になりますね。むしろ、平和に過ごしたい人からしたら足枷かもしれない。


MIDORIの件もそうですね。


この件で伝統医学や漢方について只管、勉強してた。だから、日本でもすぐに漢方も生薬構成からどれが効果的などすぐに分かって文献で調べて西洋学的なエビデンスがある漢方療法も日本ですぐに着手した。


ただ、これはベトナムで早い段階で見つけていたらこうなってなかったかもしれない。だから、自分がやった事は無駄だった


ある程度、漢方の素養や西洋医学の知識もあったからこそベトナムではなんとか延命出来ていた。


結果が全てと言いますがその過程と歩いてきた道、そし出解釈次第ではこういう風に捉える事は出来ます。


ただ、今の結果を見てると私が考えに考えて主治医の先生とも共有しながら1年やってきたからこそ、今までの薬は経口ステロイド剤を定期服用していくにあたり偶然にも


ステロイドの副作用を上手く潰してくれたり緩和される方向に適した処方だったみたいです。


だから、私は今までの経験は無駄ではないし全て繋がって今は良い方に行けるような道筋をやっと建てられる見込みが出来てきました。


自然系を扱っていて身も蓋もないのですが…自然系はあくまである程度とか日常には問題が無い人が嗜めば効果は使わないよりはあるくらいの嗜好品もしくは娯楽品でして…。


それそのものに少し不具合があるくらいの方は健康的になりますしそれを治ったとその方が認識されれればそれも正しい認識です。


ただ、私が今、行っているものは「治療」であって。


もちろん強い治療の副作用に耐えられる下地としての漢方はかなり有効でした。


それは強くて劇薬だけど強い作用がある薬に対してそれを軽減したり副作用を潰したり薬の補強としての効果がメインでして。


今の私はそういうのを使わないとまず日常にも戻れないくらいの状態です。


毒をもって毒を制すと言うかステロイドや神経痛止め言うエビデンスも臨床も確立されてる劇薬を用いてその出る薬の副作用を他の薬で片っ端から潰してその負担の軽減したり軽減したり全体をカバーする為の漢方や自然系。


正直…かなり強引なやり方で人にはオススメできないやり方ですがそうでもしないとやらなければいけない事すら身体が動かなくて出来ないんですよ。


ただ、ここまでやったから要因も見つけられて必要最低限の手続きは終わり生活もやっと慣れてきて誤魔化しながらのやり方にも終止符が打てる。


ベトナムでは得られなかった知見が得れたから今は良かったと思います。


そう思えるまでにはやらなければいけない手続きや子供の事や病気の中での作業は何回も言いますが気が狂う位、苦しかったです。


3歩進んで2歩下がる。


こういう感覚で正に進んでいた感じですかね。

遠回りしてるようで非合理に見えるようで私には総合的にこれが1番早い道でした。


良く言われるアウトプットで外注どうこうしたらみたいな方法論はありますが多分、今の私がそれをやったらそこの歯車が狂った時に全てが狂って立て直しがつかなくなる。


人によってはそれが最良な人も居ますし私はあくまで一か八かで出来ませんでしたでは済まされない状況だったのでこれが確実にこなせて前に進む方法だったというわけです。


MIDORIの方もちらほら、こちらでやらないのか?みたいな問い合わせもあるんですが…送らなければ行けない方も居てずっと待って頂けてるのに心苦しくて…。


今年一杯はホントに申し訳無いです。


これは私が今の状況でここを無理矢理やると今後、完全に心が折れて二度と踏み込まないくらいに離れてしまいそうで…完全に自分勝手な我儘だと理解してますし何を言われても覚悟して受け入れます。


帰った当初は数ヶ月あれば大丈夫と高を括ってまた無意識に無理なペースでやろうとして前みたいに戻らずに更にガタガタになり何回か救急搬送もされてたんです。


今は均衡を保ちつつ日本に適応していきつつ病気も対処しながらと言う薄氷を踏む感覚でやってたのでそれ以上を自分が受け入れたり踏み込む余地が全くありませんでした。


それくらいに専門家を通しても原因が全くわからない状態は私には恐怖でした。


言い訳にはならないと言われればそれまでですが複数回、本気でもうダメかもしれないと思いましたのでそれを元にコントロールしていたのに折れて唯一、心の支えとなっていたベトナムの縁を自ら放り出す結末になるとそれこそ自分はもう再起不能に陥るでしょうね。


それが1番怖いんです。


ここまで自分で分かってるからこそ迂闊に自分から声を掛けられないし周囲も気を使って眺めてくれてるのも理解しています。


今の自分に出来ることはその余地を作るために三歩進んで二歩下がりながらでも確実にやることです。


これが今年の心情と本音ですかね。


これ以上は何も書きようがないくらいにはかきました。

来年度は約2年掛けて要因を見つけ出し曖昧な部分も明確にしてベトナムでは物理的に出来なかった手続きなども8割位は終える事が出来ました。



来年になったからすぐにどうとは言えないですが確実に自分は前に進むつもりで必死に抗った。


これが来年には身を結べるようにと言うのが来年の目標です。

人それぞれ課題は違いますし問題が無い人間は居ないですし自分は自分ですが日本に戻ってきて良かったと思えるようにまた頑張りますのでよろしくお願い致します。