彼女の黒い瞳は宙に浮いたまま微動だにしない、その虚ろな瞳の中に輝いていたはずの生気の光は消失している。


彼女の小さい肩が小刻みに震えているのが分った。


季節は夏に入るとは言っても幾分かは寒さが残る。特に夜風があたればなお一層寒さを感じる微妙な季節であった。


しばらくすると彼女の頬を伝う一筋の雫が月夜に照らされてちらりと光る。彼女の長い睫毛は瞳から膨れる雫に濡れてぴんとした張りを失っていった。


いつもなら朱に染まる彼女の唇は灰色の影を感じさせるようにげんなりと血色を失っているのが見える。


そのようにして彼女の小さな身体は何かに怯え悲しみ、その負の感情が胸の中に溢れていく様子がまじまじと感じられた。


自分と言う小さな存在を自分で認識するために、誰かに存在を認めてもらうために、彼女はしがみつく。


しかしそのしがみ付いたものが空虚に消え去ったとしたら彼女は何を頼りにすればいいのだろうか。


いや頼れるものなど何一つ無い、はじめから彼女は分かっていたのだ。


自分と言う空虚で無いにも等しい存在、無いも同然なら消え去ってしまって何の問題が生じえようか、そう彼女は自らの生命を絶とうと言う想いが胸にふつふつと沸き起こっていた。


彼女と言う存在がなくなったとしても世界は当たり前のように周り、明日にはお天道様が暖かい日差しをこの地に届けてくれる、そうやって当たり前のことがただただ繰り返されるだけだの話だ。


彼女が事を起こすまであとほんの一歩の勇気を身体に起こさせるだけであった。




 青白い血管が見える彼女の首筋に顔をうずめると女の子特有のふわふわとした良い匂いがする。


「ひゃう……」


 そんな驚いたような声をあげる彼女もまた可愛らしい。


顔を戻して彼女の顔をじいっと見つめている。


「なによ?」


 突然じゃれだしたのが気に食わなかったのか吊目がちに言ってきた。


そんな不満を漏らす彼女の唇からは真っ赤な蛭のような艶やかさを感じた、思わず下唇に吸い付きたくなるような瑞々しさを持っている。


そんなぼくの視線に気づいたのか「ふんっ」と言って顔を横に向けてしまった。


すると白い産毛の生えた彼女の耳たぶに赤みが差しているのにぼくは気がついた。


なんだ照れているだけか、ぼくは彼女のか細い肩に手をかけるようにして彼女を抱きしめてやる……と言う夢を見た。



 目の前に立ちはだかる重厚な造りの扉に向かって麗子は両手を突き出した。


そのまま扉を押し開けるべく身体中の力を両手にこめる。


重い扉は振動と共に鈍い音をあげながら少しずつ開いていく。


 麗子は額から大粒の汗を噴出しながらやっとの思いで扉を開けきった。


「さあ、行くわよ」


 仲間である数人の男と共に屋敷に乗り込む。


 麗子が男たちの後ろに続いて屋敷の中に身体を入れた瞬間、ぬわあとした湿気とほこりに満ちた気持ちの悪い空気を肌に感じた。


何十年にも渡って人の手入れのされていないかび臭い匂いが鼻につく。


中に明りは無く、背後の扉から差し込む太陽の光だけが頼りだった。


ところが、あれだけ重厚な造りをしていた扉が音も無くすばやく閉じていった。


それと共に、背後から差し込む光が細くなり、あっという間に辺りは暗闇に包まれてしまった。


麗子はこれから起こる恐怖を予兆しているかのような不気味さを感じた。


 ……とここでぼくは目が覚めた。


明日はこの続きを見れるのだろうか、それとも……麗子達はそのまま帰らぬ人となってしまうのだろうか、なんだか胸の中が無性に落ち着かない気分がして朝から不快だった。





 深緑に染まる神田川、その石橋の上でぼくはぼんやりとしていた。


ちゃぽんと音を立てて鯉が顔をあらわせば、神田川の水面がゆらゆらと緩やかに波立つのが目に入る。


水中には大根のように丸々と肥えた黒艶やかな鯉が縦横無尽に泳ぎ回っている。幾匹もの鯉が重なっているため時に身体が触れ合い避けるように水面に顔を出す。


ふと顔を見上げれば、青々と茂る若葉にさんさんと輝く太陽の木漏れ日が透き通り黄金色を帯びているのが見えた。


近くでは少年野球の試合でもやっているのか、子供らしくわんぱくで元気溢れる甲高い掛け声が響いている。


かと思えば、負けじと小鳥の心地よいさえずりが空気を震わしている。


ゆらゆらと、のどかな時間が過ぎる休日の午後のひとときであった。






 広大な草原。


泣き叫ぶ少女。


なぜ泣き叫んでいるのかは分からないが、立ち尽くしたままわんわんと叫び声を上げている。


少女は愛くるしい長い睫毛を携えたまぶたを真っ赤に腫らして涙の粒を弾き飛ばしているのだ。


その叫び声は何の障壁も無い空気を伝って地の果てまで行き届くかのようであった。


ふいに少女の泣き叫ぶ声が止んだ。


「あたしって何のために生きてるの?」


 それだけ呟くと少女の小さい肩が弱々しく崩れ落ちた。


すうっと少女の姿が消えた。


しばらくして広大な草原には突風のごとく強い風が吹き抜けた。


野々の草が一瞬ざわめくように揺らぐ。


風が吹き止むと、ぬわっとした生臭い紅き匂いだけが漂い残った。