テーブルの前に腰掛けると麦が焦げたような香ばしいトーストの匂いがした。


さっそくトーストを皿の上から取り上げ、たっぷりと乳白色のバターを塗りつける。


香ばしさとバターの脂っぽい匂いが絶妙に溶け込み、よだれをそそるような旨みのある香りを放っている。


そのトーストに向かって大きく口を開けてかぶりつく。


舌の上で脂の旨みが広がると共に、喉の奥が水っ気に飢えたような渇きに襲われた。


すぐさま何か飲み物がほしくなり右手に置かれたコーヒーを手に取る。


カップを唇まで運ぶと珈琲豆の苦い香ばしさが鼻腔に漂う。


すうっと鼻から息を吸い込むと喉の奥に、苦味のある香ばしい空気を感じた。


そのままごくんとコーヒーを飲み込む。


うまい、朝はトーストと苦いコーヒーが一番好きだ。


「おはよっ」


 ふと顔をあげると、新妻が向かい側に座っているのが見える。


特段無視していたわけでは無かったのだが、腹が減っていたせいか食い物にばかり目がいってしまっていた。


「おはよう」


 おれは微笑を向けながら言った。


妻からは緑色した初々しい視線が朗らかな表情と共に送られてきた。


 うむ、わが人生に一生の悔い無し。


心の中でそう呟いたのであった。



 

小鳥のさえずりでぼんやりと目が覚めた。


ずっしりと重いまぶたを細々と見開くと眩しい太陽の輝きが差し込んでくる。


今日も気持ちのいい朝、日曜の午前中にゆっくりとした朝を迎えるような気分だ。


しかし今日は平日なのでこれから仕事がある。


最近早寝早起きが習慣になってきたこともあって朝も日の出と共に起きるので出勤まではまだまだ時間がある。


だから平日でものんびりと朝目覚めることができるのだ。


 そんな事を考えながら目も冴えてきたので上半身を引き起こして窓を見る。


窓のすぐそばにある青々とした樹木の葉がゆらゆらと気持ちよく揺れていた。


その樹木の細い枝にちょこんとした感じに小鳥が乗っているのが見える、可愛いやつめ。


身体を起こして窓に近付き窓を一杯に開け放った。


ほんのりと緑の香りがする空気が流れ込んでくると共に、小鳥が小枝から急いで飛び立った。 そんなに怖が

るなよ、無言でそう思いながらぼくはすうっと鼻から息を吸いこむと鼻の粘膜がつんとする。


腰に手をあてて牛乳を一気飲みするように胸を張った。


「おはよう地球!」


 思わずそう叫んでしまう気持ちの良い朝であった。




 長屋の内庭に設けられた井戸。


裏長屋に住む三人の若妻が寄り合って話しに華を咲かせている。


いわゆる井戸端会議である。


「ねえ、熊さんの奥さんって最近なになさってるのかしら?」


「やだあ、なにいってんだ、あの家には金も名誉も富みもあるださ。どうせ吉原にでも遊びにいってるんだろ」


「やだねえ、男ってのは」


 わいわいと盛り上がる。


上を見上げると青々とした空にふわっと浮かんでいる白雲が見える。


太陽のかんかんと照りつける日差しが眩しい。


もうすぐ昼だろうかとおもっていると、 時がねの鳴り響く音が聞こえた。


「あらやだ、もう昼飯時じゃないの。旦那が帰ってくるわ」


「急いで飯炊きしたいとね」


 三人はそれぞれの家に帰るように散っていった。


ご近所つながりとはいいものだ。


裏長屋十軒はひとつの集団家族みたいなものだ。




 花のお江戸は今日も活況を呈している。


おん歳二十二を数える八兵衛も大工職人として毎日を生き生きと過ごしていた。


今日は友人の又吉に連れられて江戸の不夜城の異名を取る吉原遊郭に足を運んでいた。


「なあ、又吉。吉原に銭持って来たはいいが、本当に大丈夫なんだろうな?」


「なに心配はいらねえだ、おれにとっておきの考えがあるだ」


 又吉はなにやら意味深い表情を顔に浮かべながら答えた。


八兵衛の胸中は不安と期待で零れ落ちそうであったのだ。


何しろ人生ではじめての吉原遊郭だ。庶民の少ない稼ぎを貯めてせいぜい数度行けるか行けないか位の場所である。


とっておきでなければ満足できないものも無理は無い。


そんな時、背筋をしゃんとのばしたお侍が通りかかる。祖度振り合うも縁のうち。


「のう、主らも吉原へいくのか?」

「そうですじゃ」


「やめとけやめとけ。最近の吉原はとんと良い娘が居ないというぞ」

「はあ」


「特に舞姫だけはやめておけ」


「どうしてですじゃ?」


「むう。いいからやめておくんだ!」


お侍は突然強い調子の声をあげた。


勘のいい八兵エはぴんときた、そしてにやついた表情を浮かべる。


「なるほどですじゃ。なるほどですじゃ」


「主、なんじゃ?」


「舞姫か、覚えておきますじゃ」


「むう」





 

 風呂上りの麗子はバスローブに身を包み火照った額を冷ますように手を仰いでいた。


麗子の肢体からは桃のような石鹸の匂いがほのかに漂う。


長い黒髪を頭頂部でひとまとまりにして麗子の細い首もとに見られるうなじに思わず目が行ってしまう。


女性らしいなんとも言いがたい可憐さを感じさせるうなじだ。


麗子が身体をくねらすとバスローブの下からはらりと生っちろい脚が確認できる。


なんとも情欲をそそられる光景であろうか。


ぼくは目をつむり、ひたすら念仏でも唱えるかのように自分を制したのであった。