忘れないようにメモメモ(日本の歴史、近代史) -220ページ目

尼港事件2

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壁に残る断末魔の文字


 やがて氷雪の解ける頃、我国は求援軍を派遣したが、共産パルチザンは日本軍到着に先立つて五月下旬、収監中の日本人を悉く惨殺、更に尼港市民一万二千人中、共産主義に同調せぬ者約六千人の老若男女を虐殺、市街に火を放つてこれを焼き払つたのち遁走した。斯くして、石田副領事夫妻以下居留民三百八十四名(内女子百八十四名)、軍人三百五十一名、計七百数十名の日本人同胞が共産パルチザンによつて凌辱暴行された上、虐殺されたのであつた。
 事件から二週間後、我が従軍記者八名が虐殺の現場を視察した。「時事新報』(大正九年六月十三日付)が掲載したその視察記の抜粋を紹介しよう。
 南北一里半、東西二里半の尼港全市はペチカ(媛炉)の煙突のみ焼け残り、一望荒廃、煉瓦造りの家屋は爆破されて崩れ、木造家屋は跡方もなく焼失せり。電柱は往来に焼け落ちて、電線は鉄条網のごとく我等の足に絡み、焼け跡には婦人の服、靴、鍋、子供の寝台など散乱せり。監獄は市の北部にあり。余等は直ちに焼け残れる一棟に入る。まず異臭鼻を突くに、一同思はず顔を反けざるを得ざりき。中は八室に別れ、腐敗せる握り飯の散乱せる壁に生々しき血液の飛び散れる、女の赤き扱帯の釘に懸れるなど、見るからに凄惨を極む。最も落書の多かりしは二号室にて、「大正九年五月二十四日午後十二時を忘るな」と記し、傍らに十二時を指せる時計の図を描きあり。また「曙や物思ふ身にほととぎす」「読む人のありてうれしき花の朝」等数句の俳句を記し、また 「昨日は人と思へども、今日は我が身にかかる」「武士道」等の文字、白ペンキ塗りの壁に鉛筆を以つて書かれあり。特に悲惨なるは、赤鉛筆にて五月十九日より六月二十三日までの暦日を数字にて表に作り、最初より二十四日までは線を引きて消されあるも、二十五日以下は消されず。これ二十四日夜、百四十名は監獄より曳き出されて、黒竜河畔に連れ行かれ、ことごとく刺し殺して河に投じられたるなり。
 記者一行は同胞の呻吟せしこの獄内に暫し低徊の後、出でて黒竜江河畔に赴く。造船工場の前およそ二百坪の空地は一面に血潮に染められ、色既に黒し。これ皆我が同胞の血!縛めの縄にべつとり附着せる、また鮮血を拭ひたる縮みのシャツ等陸に引き揚げられ、舷におびただしき血潮の飛び散れるなど、眼も当てられぬ惨状なり。
 同胞が恨みを呑んで毒刃に斃れしこの汀!余等は一歩一歩同胞の血潮を踏まざれば進むを得ざるほどなり。余等はそれより津野司令官を訪ふ。津野少将は涙を浮かべ、「我が同胞は一名も残らずことごとく死にました。同情に堪へません。ただその中一人として卑劣な行ひもなく、最後までいさぎよかつたといふことだけは嬉しいです」と。
「明治大正国民史』を書いた白柳秀湖は尼港事件の項の結末に「七百の同胞は老幼男女を間はず、悪獣の如き共産パルチザンの手にかかり、永く黒竜江上の煩鬼と化した。この時、彼らが無辜のわが居留民にたいして加へた凌侮残虐の甚だしき、世界に人道の存する限り、いかなる歴史家も到底これを筆に上すに忍びないであろう」と記しているが、前出の海軍士官手記や従軍記者視察記と併せて読むとき、この事件の残虐性がわが国民に与へた衝撃の深刻さを窺ふことができよう。
 明治以来、近隣諸民族の革命運動にあれほど同情と支援を惜しまなかつた我国の民族派陣営(所謂「右翼」)が、共産革命に対しては厳しい警戒と否認の立場を取るに至つたについては、尼港事件が大きく影響してゐると考へられよう。政治史のみならず、日本人の精神史の上からも、この事件は大書して記録すべきものである。


共産侵略を洞察した日本

 尼港事件は「元寇以来の国辱」として我が国民感情を著しく激昂せしめた。当然ながら対ソ強硬論が高まり、我軍は事件解決まで北樺太を保障占領することになり、シベリア撤兵は大幅に遅れる結果となつたのである。
 先に紹介した歴史教科書の記述が、いかに出兵の歴史的意義を歪曲し、我国の侵略意図を印象づけようとする編集方針によつて書かれてゐるかが明らかになつたことと思ふ。ボルシェビキを"民主主義者"と信じ、北満・シベリアの門戸開放の名の下に日本の出兵を妨害した米国と、シベリアから満洲・朝鮮への共産主義の侵入を防止するために駐兵を続けた我国と、いづれに歴史への洞察力があつたかは論ずる迄もなからう。やがてシベリアより満鮮に共産主義が浸透し、遂に満洲事変、支那事変、そして大束亜戦争を導いた歴史の展開は今日掩ふべくもないからだ。
 見よ。シベリア、沿海州はあれから七十年を経た今日に於てさへ、米国をはじめ外部に対して完全に門戸を閉ざしてゐるではないか。日本の進出を阻止すれば、シベリアの門戸開放が実現すると信じきつてゐた米国の誤断はこれを以ても明らかであらう。タンシル教授は云ふ。「米国派遣部隊が達成した唯一の成果は、シベリア沿海州を赤露の無慈悲な支配のために取りのけておくことだけだつた」と。また長年、上海で「ファー・イースタン・レビュー』誌主筆を勤めたブロンソン・リーは次の如く断じ去る。
「もし日本がシベリアで単独行動を許されてゐたならば、共産主義のアジア征服計画は紙上のものに終つたであらう。米国のシベリア出兵はアジアを共産党の白由活動の地たらしめたのである」とー。

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尼港事件1

引用ーー(大東亜戦争への道 中村粲)


強姦、虐殺至らざるなし


一九二〇年初頭にはチェコ軍救出といふ出兵目的も達成されつつあり、我国も満鮮の直接防衛以外は守備戦を縮小し、速かに撤兵する方針を声明したのであるが、ここに思ひがけぬ惨劇、尼港事件の発生を見た。
 日本軍が行なつたと称される"蛮行"は、針小棒大に書き立てる我国の歴史学者、歴史教科書、新聞も、七百名を越える日本人が共産主義者に惨殺されたこの世紀の虐殺事件については、何故か口を緘して語らず、知らぬ風を装ひ、日本人の記憶と歴史の頁から事件を消し去らんと努めてゐるかの如くである。
 尼港(ニコライエフスク)は樺太の対岸、黒竜江がオホーツク海に注ぐ河口に位置する市邑である。一九二〇年初頭、ここに日本人居留民、陸軍守備隊、海軍通信隊計七百数十名が在住してゐたが、連合軍が撤兵するや、ロシア人、朝鮮人、中国人から成る四千名の共産パルチザンが氷雪に閉ざされた同市を包囲襲撃、守備隊との間に偽装講和を結んで同市を支配した。彼等は仮借ない革命裁判と処刑を開始したが、遂にロシア革命三周年記念の三月十二日、我軍と交戦状態に入り、我が守備隊は大半が戦死、居留民ら百四十余名が投獄された。
 この時、尼港にあつて事件を目撃した一人の我が海軍士官が、非常な辛苦の末、ウラヂオストックに脱出し、事件の手記をもたらしたが、その手記は共産パルチザンの蛮行を次の如く伝へてゐる(「大阪毎日」大正九年四月二十日付)。
「彼等過激派の行動は偶然の突発にあらずして、徹底的画策の下に実行されたものとす。すなはち左のごとし。
 第一段行動として、露国資産階級の根本的潰滅に着手し、所在資本階級者の家屋を包囲し、資産の全部を公然掠奪したる後、老幼男女をとわず家人ことごとくを家屋内に押しこめ、外部より各出口を厳重に閉塞し、これに放火し、容赦なく火中に塵殺し尽くしたり。
 第二段の行動として、親日的知識階級に属する官公吏と私人とを間はず、容赦なく虐殺、奪掠、強姦など不法の極を尽し、第三段行動として、獰猛なる彼等の毒牙は着々我が同胞日本人に及びたるなり。ここにこれが実例を指摘せんとするに当り、惨虐なる暴戻ほとんど言ふに忍びざるものあり、敢へてこれを書く所以のもの、すなはち犠牲者の尊き亡霊が全世界上、人道正義のため公言するものなり。深くこれを諒せよ。
 公然万衆の面前において暴徒悪漢群がり、同胞婦人を極端に辱かしめて獣慾を満し、なほ飽く処を知らず指を切り、腕を放ち、足を断ち、かくて五体をバラバラに斬りきざむなど言外の屈辱を与へ、残酷なる弄り殺しをなせり。
 またはなはだしきに至つては馬匹二頭を並べ、同胞男女の嫌ひなく両足を彼此の馬鞍に堅く結び付け、馬に一鞍を与うるや、両馬の逸奔すると同時に悲しむべし、同胞は見る見る五体八つ裂きとなり、至悲至惨の最期を遂ぐるを見て、悪魔は手を挙げ声を放ちて冷笑悪罵を浴びせ、群鬼歓呼してこれに和するに至つては、野獣にもあるまじき兇悪の蛮行にして言語に絶す。世界人類の公敵として天下誰かこれを許すものぞ、いはんや建国以来の民族血族においてをや。
 帝国居留民一同悲憤の涙を絞り、深く決する所あり。死なばもろとも、散らば桜と、一同老幼相携え相扶け、やうやく身を以つて領事館に避難し、その後市街における同胞日本人に属する全財産の掠奪は勿論、放火、破壊その他暴状至らざるなし。しかりといへども軍人と云はず領事官民と云はず飽くまで彼等と衝突を避くる事に注意し、切歯扼腕、堅忍自重す。然るに彼ら過激派はますます増長し、つひに領事館に向かって砲撃を加へ、我が領事館は砲火のため火災を起すに至り、もはや堪忍袋の緒も切れ万事休す。
 これまでなりと自覚するや、居留民の男女を問わず一斉にに決起して、自衛上敵対行動をとるに決し、男子と云ふ男子は総員武器を把つて護衛軍隊と協心戮力、頑強に防戦し、また婦人も危険を厭はず、敵の毒手に斃れんよりは潔く軍人の死出の途づれ申さんと、一同双手をあげて決死賛同し、にはかに活動を開始す。
 しかも全員いかに努力奮戦するも、衆寡敵すべくもあらず、刻一刻味方の減少するのみ、つひには繊弱なる同胞婦人に至るまで、戦死せる犠牲者の小銃、短銃を手にし、弾はかく込むるものぞ、銃はいかに射つものなるぞと教はりつつも戦線に加わり、無念骨髄に徹する敵に対し勇敢なる最後の抵抗を試み、ことごとく壮烈なる戦死を遂ぐ。かくてもはや人尽き、弾丸尽き、力尽き、人力のいかにすべきやうもなくなほ生存の健気なる婦人または身動きの出来る戦傷者は、なんすれぞ敵の侮辱を受くるものかはと、共に共に猛火の裡に身を躍らし、壮烈なる最期を遂げたり」

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上機嫌文化

引用ーー
『ジャポン1867年』

L・ド・ボーヴォワール 綾部友治郎訳

フランスの青年貴族である著者は一八六七年、世界一周旅行の途中で日本に立ち寄って、横浜から、江戸、箱根なとを見てまわった。明治維新前夜の世情と庶民の暮らしぶりが活き活きと描かれた、出色の見聞録だ。


 日本人の最大の贅沢は畳である。わらを編んでつくり、完全な長方形で三プース(約八センチ)の厚さ、さわると柔らかい、彼らは履物でこれを汚すことは決してせず、家の中を歩きまわるのは必ず素足である。
 家具はといえば、彼らはほとんど何も持たない。一隅に小さなかまど、夜具を入れる引戸つきの戸棚、小さな棚の上には飯や魚を盛る漆塗りの小皿が皆きちんと並べられている。
これが小さな家の家財道具で、彼らはこれで十分に、公明正大に暮らしているのだ。ガラス張りの家に住むがごとく、何も隠しごとのない家に住むかぎり、何ひとつ欲しがらなかったあのローマ人のように──隣人に隠すことなど何もないのだ。

 小店の中央に、どの階級においてもひろく用いられる二つの品物がある。「火鉢」と「煙草盆」すなわち火鉢と喫煙箱である。たいへんなお茶飲みで、煙草とおしゃべりが大好きな日本入は、この火鉢を前にして一日を過ごす。集まる人数は七、八人だが、茶瓶を囲んで正座しているのが見える。われわれのはいったどの店でも、彼らはわれわれの国では見られないような丁重さと、人を引き付ける愛想のよさとをもって応待した。
 商店街は「弁天通」とよばれたと思うが、それと平行する狭い通りへご免を被っていきなり飛び込んでみる。ここでは、甚だ奇妙な光景がくりひろげられていてわれわれを楽しませるが、このような経験ははじめてであっても、この国では珍しいことではないのだ。
 だが、憤慨するには及ばない。日本ではその生活に隠しごとがない。ここでは恥ずかしいこと、いや、むしろ恥ずかしくないことがどういうことかわかっていない。それは地上の天国のの天真爛漫さである。われわれの最初の先祖アダムとイヴの身なりも、今なお黄金時代にあるこの民族の感情をいささかも傷つけることはない。
 そうだ。この通り全体が湯浴みの通りなのである。日に二回、または三回も誰もがここへ体を洗いにやってくる。ここでは男も女も若者もも娘もすべてこちゃまぜで、大天使の衣装そのままに、一軒の店ごとに四十人から六〇人が、斜面になった床の上に、熱い湯を張った鋼のたがのたまった子桶のピラミッドに囲まれて、しゃがんだり、ぴょんぴょん跳ねたりしている。
こうした蛙人間は頭から足まで湯を浴び、ひとり残らず少しず海老色になる。こするわ、こするわ。人々は歩き回り、「外国のえらいお方」の所へ巻煙草を一本、うやうやしくもらいにくる。男の彫物の中で一番豪華なのが、賑やかなニンフたちのバラ色の中で輝いている。その肌をこの国公認のこすり手がせっけんで洗い、拭う。この律義者はそうしたことの一切を実に平然とやってのけ、一見何でもないことをしていると見えるほど至極自然である。「ショッキング」(けしからん)などと、いわばいえ。この公認のこすり手くんの社会的特権にケチをつけずに、われわれもひとつ仲間入りとゆくか。
われわれはすでに挨拶の言葉を話しはじめている.。「オハイオ」はボンジュール.「オメデト」はわたしはあなたを祝う。「イルーチ」はきれい、魅力的。「セイアナラ」はまたおめにかかりましょうだ。それにこの民族は笑い上戸で心の底まで陽気である。われわれのほんのわずかな言葉、ささいな身振りをたいへんに面白がる。男たちは前に述べたとおり、ちょっとしたものを身に付けただけでやって来て、われわれの時計をしらべ、服地にさわり、靴をしげしげと見る。そして、もしも彼らの言葉をまねて少々大胆すぎるほど不正確に発音すると、口火用に筋状に巻いた火薬に火をつけたように、若い娘たちの間から笑いがはじける。
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わたしは、日本人以上に白然の美について敏感な国民を知らない。田舎ではちょっと眺めの美しいところがあればどこでも、または、美しい木が一本あって気持のよい木陰のかくれ家が旅入を休息に誘うかに見えるところがあればそんなところにでも、あるいは、草原を横切ってほとんど消えたような小径の途中にさえも、茶屋は一軒ある。わらぶき屋根の、紙の間仕切りの手軽な小屋で、茶を沸かし米を炊く炉のまわりには柔らかくて清潔な畳が敷いてある。これまでそれを道に沿ってずっと見て来たが、この仙境には是非とも一軒必要であった。
 われわれが馬からおりるとすぐに、二、三人の娘がやさしく愛らしくお茶と飯を小さな碗に入れて持って来る。老婦人が火鉢と煙草をすすめる。他の小径を通ってやって来た日本人の旅人も、われわれと同じように歩みをとめる。彼らはわれわれに話しかけるが、たいそう愛想のよいことをいっているに相違ない。当方としては彼らの美しい国をどんなに愛しているかを伝えられないことが残念であった。しかし、古くから馴染んで日本人同然のランドウ氏は、彼らの丁寧に語ることをすべて通訳し、われわれの礼儀正しさを彼らに伝える。
  それから一同は再び出発し、湾の奥深い所に見える遠い村まで下りてゆく。ーーそこでは、これはどの道を通る場合も同じだが、その住民すべての丁重さと愛想のよさにどんなに驚かされたか・話すことは難しい。「アナタ、オハイオ」(ボンジジュール、サリュ)、馬をとばして通り過ざるわれわれを見送って、茶屋の娘たちは笑顔一杯に叫んだ。耕作している者はみな田圃の中へ熊手をおきざりにしたまま駆けつけるなり、畔道の上で微笑して、「オハイオ」といった。「オハイオ、オメデト」、これが道ですれちがう男女の旅人すべての言葉であった。思うに、外国人が田舎の住民によってどのように受け入れられ、歓迎され、大事にされるかを見るためには、日本へ来てみなければならない。地球上最も礼儀正しい民族であることは確かだ。
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 思い切りよく、積極的、大胆で同時に軽率な民族。愛想はよいが、子どものように素直で、ただの一回ひとつの物を見たら、すべてがわかると信じ、日本人は蒸気船による航海へ夢中になって乗り出した。彼らは沢山の船を買い込み、白分たちだけでそれを操船しようとした。ある時、彼らはデント商会へ大へん立派な船「ライモウン」を注文した。その船が碇泊地に朝着くと、昼には、彼らはヨーロッパ人の水夫と機関士全員を船から追い出し、小舟の親方数名だけで、全速力で錨地から出航し

た。甚だ愉快。だが止めようとする段になって、その方法が何としてもわからない。そこでこの無謀なおえら方は、舵を一方の舷にとり、救いを求めながらいつまでも円を描き続ける。碇泊地の乗組員は全員大喜びだが、しまいには、わが軍艦の一隻が気の毒に思い、機関士をひとり短艇に乗せて送り、狂気の機械を止めたのである。
ーー(ハイライトで読む美しい日本人 斉藤孝)


いいですな。著者は「上機嫌Tシャツ」まで作ったそうです。さらに「上機嫌の作法」という本まで書いています。街で歩いている時意味もなく不機嫌そうな人がいますが、同じ意味がないなら「上機嫌」がいいですな。