尼港事件2 | 忘れないようにメモメモ(日本の歴史、近代史)

尼港事件2

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壁に残る断末魔の文字


 やがて氷雪の解ける頃、我国は求援軍を派遣したが、共産パルチザンは日本軍到着に先立つて五月下旬、収監中の日本人を悉く惨殺、更に尼港市民一万二千人中、共産主義に同調せぬ者約六千人の老若男女を虐殺、市街に火を放つてこれを焼き払つたのち遁走した。斯くして、石田副領事夫妻以下居留民三百八十四名(内女子百八十四名)、軍人三百五十一名、計七百数十名の日本人同胞が共産パルチザンによつて凌辱暴行された上、虐殺されたのであつた。
 事件から二週間後、我が従軍記者八名が虐殺の現場を視察した。「時事新報』(大正九年六月十三日付)が掲載したその視察記の抜粋を紹介しよう。
 南北一里半、東西二里半の尼港全市はペチカ(媛炉)の煙突のみ焼け残り、一望荒廃、煉瓦造りの家屋は爆破されて崩れ、木造家屋は跡方もなく焼失せり。電柱は往来に焼け落ちて、電線は鉄条網のごとく我等の足に絡み、焼け跡には婦人の服、靴、鍋、子供の寝台など散乱せり。監獄は市の北部にあり。余等は直ちに焼け残れる一棟に入る。まず異臭鼻を突くに、一同思はず顔を反けざるを得ざりき。中は八室に別れ、腐敗せる握り飯の散乱せる壁に生々しき血液の飛び散れる、女の赤き扱帯の釘に懸れるなど、見るからに凄惨を極む。最も落書の多かりしは二号室にて、「大正九年五月二十四日午後十二時を忘るな」と記し、傍らに十二時を指せる時計の図を描きあり。また「曙や物思ふ身にほととぎす」「読む人のありてうれしき花の朝」等数句の俳句を記し、また 「昨日は人と思へども、今日は我が身にかかる」「武士道」等の文字、白ペンキ塗りの壁に鉛筆を以つて書かれあり。特に悲惨なるは、赤鉛筆にて五月十九日より六月二十三日までの暦日を数字にて表に作り、最初より二十四日までは線を引きて消されあるも、二十五日以下は消されず。これ二十四日夜、百四十名は監獄より曳き出されて、黒竜河畔に連れ行かれ、ことごとく刺し殺して河に投じられたるなり。
 記者一行は同胞の呻吟せしこの獄内に暫し低徊の後、出でて黒竜江河畔に赴く。造船工場の前およそ二百坪の空地は一面に血潮に染められ、色既に黒し。これ皆我が同胞の血!縛めの縄にべつとり附着せる、また鮮血を拭ひたる縮みのシャツ等陸に引き揚げられ、舷におびただしき血潮の飛び散れるなど、眼も当てられぬ惨状なり。
 同胞が恨みを呑んで毒刃に斃れしこの汀!余等は一歩一歩同胞の血潮を踏まざれば進むを得ざるほどなり。余等はそれより津野司令官を訪ふ。津野少将は涙を浮かべ、「我が同胞は一名も残らずことごとく死にました。同情に堪へません。ただその中一人として卑劣な行ひもなく、最後までいさぎよかつたといふことだけは嬉しいです」と。
「明治大正国民史』を書いた白柳秀湖は尼港事件の項の結末に「七百の同胞は老幼男女を間はず、悪獣の如き共産パルチザンの手にかかり、永く黒竜江上の煩鬼と化した。この時、彼らが無辜のわが居留民にたいして加へた凌侮残虐の甚だしき、世界に人道の存する限り、いかなる歴史家も到底これを筆に上すに忍びないであろう」と記しているが、前出の海軍士官手記や従軍記者視察記と併せて読むとき、この事件の残虐性がわが国民に与へた衝撃の深刻さを窺ふことができよう。
 明治以来、近隣諸民族の革命運動にあれほど同情と支援を惜しまなかつた我国の民族派陣営(所謂「右翼」)が、共産革命に対しては厳しい警戒と否認の立場を取るに至つたについては、尼港事件が大きく影響してゐると考へられよう。政治史のみならず、日本人の精神史の上からも、この事件は大書して記録すべきものである。


共産侵略を洞察した日本

 尼港事件は「元寇以来の国辱」として我が国民感情を著しく激昂せしめた。当然ながら対ソ強硬論が高まり、我軍は事件解決まで北樺太を保障占領することになり、シベリア撤兵は大幅に遅れる結果となつたのである。
 先に紹介した歴史教科書の記述が、いかに出兵の歴史的意義を歪曲し、我国の侵略意図を印象づけようとする編集方針によつて書かれてゐるかが明らかになつたことと思ふ。ボルシェビキを"民主主義者"と信じ、北満・シベリアの門戸開放の名の下に日本の出兵を妨害した米国と、シベリアから満洲・朝鮮への共産主義の侵入を防止するために駐兵を続けた我国と、いづれに歴史への洞察力があつたかは論ずる迄もなからう。やがてシベリアより満鮮に共産主義が浸透し、遂に満洲事変、支那事変、そして大束亜戦争を導いた歴史の展開は今日掩ふべくもないからだ。
 見よ。シベリア、沿海州はあれから七十年を経た今日に於てさへ、米国をはじめ外部に対して完全に門戸を閉ざしてゐるではないか。日本の進出を阻止すれば、シベリアの門戸開放が実現すると信じきつてゐた米国の誤断はこれを以ても明らかであらう。タンシル教授は云ふ。「米国派遣部隊が達成した唯一の成果は、シベリア沿海州を赤露の無慈悲な支配のために取りのけておくことだけだつた」と。また長年、上海で「ファー・イースタン・レビュー』誌主筆を勤めたブロンソン・リーは次の如く断じ去る。
「もし日本がシベリアで単独行動を許されてゐたならば、共産主義のアジア征服計画は紙上のものに終つたであらう。米国のシベリア出兵はアジアを共産党の白由活動の地たらしめたのである」とー。

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