「減速せよ。自由に生きよ。」

時代の若者の合言葉だった。

 

しかし男には減速が分からなかった。

いかに速く、遠くまで行けるかに取り憑かれていた。

 

速く、遠くまで行くために、地に足をつけることをやめた。

家を捨てた。家を持つことは、減速を意味した。

身体は軽くなった。

 

次に、不安を質に入れ、想像力を買った。

速く、遠くまで行くことは、危険と不可分だった。

不安のブレーキが効かない旅では、想像力は代えがたい勇気となった。

身体はますます軽くなった。

 

最後に、愛を捨てた。

男はひとりぼっちになった。

 

帰る場所も、不安も、愛もない、自分だけの速度。

 

「加速せよ。自由を越えよ。」

 

何度も唱えながら、消失点へと向かった。

男には色彩がわからなかった。

 

白と黒がもっとも苦手だった。

男は母に頼み、家の中の白いものに印をつけてもらった。

 

これは白、あれも白。

 

男は誰かに会うたび、白について尋ねた。

 

10年後、男は数百の白を理解した。

 

次に、男は家の中の黒いものに印をつけてもらった。

 

これは黒、あれも黒。

 

また10年をかけ、男は黒をおおよそ理解したが、

ただ一つ、白の印と、黒の印が2つ書かれている花瓶が不可解だった。

 

「あれは白なのか、黒なのか。」

「あなたにはどう見えますか。」

 

大きな波が押し寄せる力強い海のような、

いつか街で聞こえた騎馬隊の音楽のような、

若き青春の燃えたぎる情熱のような、

全てを失った暗い未来のような。

男には、とても複雑な色に見えていた。

 

「あの花瓶は、死んだ夫がプレゼントしてくれたものなのです。」

 

男にはそれがわかるような気がした。

花瓶を持ち上げると、喜びと悲しみが混ざり合う、愛の重みがあった。

 

色彩のことはもうよい。

男にとっての最大の関心は、愛になっていた。

男は数学者を夢見ていた。

皆、到底無理だと言った。

何せ男は学校に通ったことがない。

 

男は足し算の勉強を始めた。

同時に、庭に花を植えることにした。

左手には3つの、右手には4つの種があった。

夏には7輪のひまわりが咲いた。

 

次に、男は引き算の勉強を始めた。

秋口、ひまわりはしおれ始めた。

7輪咲いたうち、4輪は枯れた。

しかし、3つの大きなひまわりが、いまだに空を照らしていた。

ひまわりはなぜか、冬まで咲き続けた。

 

次に、男は掛け算の勉強を始めた。

珍しい冬に咲くひまわりを見た老爺は言った。

「このひまわりを1輪2シリングで譲ってくれないか。」

男はひまわりが6シリングになることを理解した。

6シリングで、母親と、離れた甥に毛布を買った。

余った金で、たくさんの花の種を買った。

 

次に、男は割り算の勉強を始めた。

春には、たくさんの花が庭を彩った。

「しかし、割り算はどうすればいのだ?」

 

美しく咲く花に、男は満足していた。

男は花を数えながら思った。

 

「幸せは、数学できるのだろうか?」

男は思い立った。どこかにあると言われる国境を目指してみよう。

男の街に、国境を見たものは誰もいなかった。

国境を見てみたい。男は早速荷物をまとめ出発した。

 

すすめや、すすめ。国境へ。

 

最初の街に着いた。男は髪の長い女に聞いた。

「ここに国境はありますか。」

「いいえ、国境はもっと先です。私たちはあなたを音楽で歓迎します。」

ムジカという小さな街だという。

広場では老若男女が集まり、見たことのない楽器で、聞いたことのない音楽を奏でていた。

知らない音楽だが、楽しい音楽だった。

音楽は夜遅くまで続いた。焚き火の炎は夜空を赤く染めていた。

 

「しかし国境はどこだ。」

男は出発した。

 

すすめや、すすめ。国境へ。

 

次の街に着いた。男は杖をついた老爺に聞いた。

「ここに国境はありますか。」

「いいえ、国境はもっと先です。私たちはあなたを食事で歓迎します。」

メラという川沿いの街だという。

夕方、通りには方々の家からいい香りが漂っていた。

知らない香りだが、愛情のこもった料理であることはわかった。

「星のかけら」というスープは、食べたことのない、優しい味がした。

 

「しかし国境はどこだ。」

男は出発した。

 

すすめや、すすめ。国境へ。

 

次の街に着いた。男は、長靴を履いた猫に聞いた。

「ここに国境はありますか。」

「いいえ、国境はもっと先です。私たちはあなたを言葉で歓迎します。」

ロゴスという港町だという。

猿の言葉や、羽虫の言葉、海の生き物言葉、さまざまな言葉が行き交っていた。

猫は人間の言葉を勉強したという。

猫が朗読してくれた詩は、ところどころ意味が取れなくとも、勇敢な詩であることはわかった。

「言葉なんて、形式的なものですけど。」と猫は言った。

 

「しかし国境はどこだ。」

男は出発した。

 

すすめや、すすめ。国境へ。

 

次の街に着いた。それはそれは大きく、高く広がる壁の前に、集落があった。

男は、片目のない少年に聞いた。

「ここに国境はありますか。」

「今、目の前に見えている壁が、国境ですよ。」

ボルデルという、国境を越える人の宿場町だという。

広い道の両脇に、ボロ屋が点々とたっている。

街は寂しい空気で、壁は重々しく、思っていた国境と違った。

国境について何も知らなかった男は、勝手な想像をしていた。

 

「国境を越えて戻ってきた人は誰もいません。」

「国境の向こうには何があるのか。」

「とてつもない幸福か、あるいは戻れない仕組みがあると言われています。」

 

男は怖くなった。

国境は見た。しかし越える勇気はなかった。

 

男は音楽が恋しくなった。

温かい食事と、不思議な言葉にもう一度触れたくなった。

 

男はボルデルを、出発した。

 

「そういえば、俺の街には名前がないのか。戻って、街に名前をつけよう。」

専業運営になる前、IT企業でいわゆるサラリーマン生活をしていた。いい会社だったし、人も良かったし、働きやすい職場だった、が、致命的に「社会人」的な生き様、感性に向いていなかった。

 

早起きも、スーツやネクタイや革靴も、通勤電車も、満員電車で「この人すぐ降りそうだな」と前に陣取るレーダーが発達することも、朝礼も、決められた時間に向かう社食も、徹夜で眠すぎてトイレでとる5分間の仮眠も、飲み会も、二次会のカラオケも、吐きながらの帰り道もすべてがつまらなく意味不明だった。出世、結婚、出産、持ち家、投資といった同期との話題も何一つ興味がなかった。

 

部署の余興で「幹部社員入り乱れてのローション相撲」を提案した時は場が凍りついたし、プロジェクトを抜ける時ラップ調の挨拶メールを100人にばら撒きこっぴどく怒られたし、会社生活が長くなるほど「珍獣」としてアンタッチャブルな存在と化していった。僕のふざけたマインドは会社的には許されないものだったのだ。

 

一番しんどかったのは生活から文化性が消滅したことだった。元々ずっと音楽が好きでサブカルチャーに慣れ親しみ、分かりやすく文系的な生き方をしてきた。仕事は文化とは無関係で、疲れた休日は読書する気力も無くなった。就活当時は自分の趣味や好きなものが仕事になるという発想がなく、就職するなら安定した会社という、凡庸な考え方だったのが良くなかった。ふざけたマインドのサブカル脳人間が、一般企業でうまくいくはずがなかったのだ。

 

アイドル運営は天職だと思っている。変わった思考や感性が運営感覚と地続きに繋がっている。大好きな音楽で仕事をし、辛い社畜時代に自分を救ってくれたアイドルカルチャーに恩返しをしたいと燃えてもいる。

 

もう一つ、特別大きいのは、誰かの幸せ、とまでは言わなくとも、喜びや楽しみにつながっているのがよくわかることだ。思い返せば、大きな会社組織の中で僕は歯車の一つで、自分の仕事と誰かの幸せや喜び楽しみが一致するような感覚はなかった。

 

ファンのみんなの嬉しそう、楽しそうな表情を見てもっと頑張るぞと思うし、当然メンバーやスタッフにも幸せになってもらわないといけないので、もっともっと頑張るぞと思う。

 

音楽と、カルチャーと、少しでも誰かのためになっているなら、社会で「珍獣」だった僕にも居場所や、やれること、やるべきことはあるなと燃えている。まだまだアイドル運営を辞める予定はない。