僕が音楽を熱心に聞き出したのは2003年頃です。高校時代はレコード屋やレンタル店に通って名盤と呼ばれる音楽を手に取るいわゆるアナログな生活をしていましたが、自分のPCを手に入れたタイミングが丁度音楽配信サービス(サブスク前史)の黎明期と重なっていたこともあり徐々にデジタルな聞き方に流れていきました。デジタル・サブスクの出会いから音楽の聞き方が劇的に変わりました。

 

いつでも・どこでも・定額で、みたいな部分が強調されがちなデジタル・サブスクですが、僕にとって大きかったのは「音楽が文脈から切り離されること」と「圧倒的な量」です。この二つはつながっています。

 

アナログの持つスローなスタイルには、音楽雑誌やライナーノーツを読み込んで音楽史的、バンド史的な文脈を踏まえたうえで聞き込む態度、がしばしば含意されます。その盤を咀嚼した次は、記事の中で紹介されるほかの盤を聞くことで音楽体験が紡がれていく、ようなスタイルです。このプロセスには雑誌編集者、レビュー執筆者、ライナーノーツ執筆者等、情報を整理するキュレーターの存在が介在しているわけですが、無数の音楽が何らかのポイントにより選別・整流されリスナーに届けられることがこのスタイルの一つの特徴です。執筆者、編集者といった権威でなくとも、音楽に詳しい知人からおすすめされる情報が重要になるような、世界線です。

 

一方デジタル・サブスク時代はというと、こうしたキュレーションのフィルターがなく直接音楽そのものへリンクします。キュレーターが不在なので、かつては選別されていた音楽が無限に並列する、というのがサブスク時代の世界線です。とはいえデジタル・サブスクにも、選別・整流機能はあり、ただしそれは人間ではなくアルゴリズムです、人間の理性的な話法から音楽が語られるのではなく、無数のアクセス履歴から類似を提案される機械的なキュレーターです。音楽史、バンド史などから脱線するだけでなく、曲単位での視聴が可能なため、「盤」というフレームからも脱線します。気になる曲からアルゴリズムのレコメンドに従い、付加情報が少なく、限りなく無文脈に近い音楽体験が紡がれていく、これがデジタル・サブスク時代のファストなリスニングスタイルです。

 

(少し脱線しますが、いわゆるキュレーション的な文脈と異なる情報整流機能がmyspaceというすでに閉鎖した音楽配信サイトにはありました。人為によるキュレーションによらずとも、音楽のまとまり方は例えば「シーン形成」という形があり得ます。方向性を同じくするアーティストによる音楽コミュニティが形成され、そのシーンに飛び込むことで、音楽的広がりを得るような形です。こうしたシーンは国内外問わず無数に存在しますが、特に海外についてはなかなか可視化されません(それこそキュレーターによる紹介が窓口になる)。ですが、myspaceにはフレンド機能があり、シーンのバンドのアカウントを界隈的に表示することができました。偶然見つけた海外のバンドのページから、そのバンドが属するシーンが見えるようになっていた。この機能がとてもよくて、海外のミニマムなシーンを発見する材料になり、僕はそうした世界中の色んなシーンを発見するのが楽しみでした。)

 

またデジタル・サブスク時代は、情報量が膨大になります。膨大な情報量を前にしたとき一つのアクションは再びキュレーターを求めることですが(事実、音楽に限らずありとあらゆる分野でキュレーションの必要性が再認識されています)、もう一つはファスト化に適応する聞き方で、例えば速聴です。アナログと違い、デジタルは簡単にコマ送りができますし低コストなこともあり、多量を迅速にさばく処理に適合的な形態をしています。とはいえ、速聴だけしている人はまれなはずです。僕もそうですが、おそらく速聴のふるいにかけ、ひっかかる音楽だけ深度のある聞き方をしている。よくデジタル・サブスクのファスト性が批判されますが、ファストとスローは同居しえます。

 

また「いつでもどこでも」はデジタルの強みの一つです。ここまでデジタル時代の脱文脈性を書いてきましたが、多数に共有された正史的文脈が脱落する代わりに、個人的な文脈を付与しやすくなるのがこの「いつでもどこでも」です。実際僕の思い入れのある盤は、その当時ポータブルプレイヤーで聞いていた場所風景などが必ず想起されます。そのバンドや盤の「正統な」文脈はいまだによくわからないままですが、大きな影響を受けた音楽経験であることは間違いなく、またこの影響は「いつでもどこでも」によって音楽へ刻印されたパーソナルな場所性、文脈性に彩られていると思います。「いまここ」性が強く、また常にすでに文脈が書き込まれてしまっているアナログ文化ではなかった音楽の身体化だと思います。

 

僕はデジタルで育ったデジタル派なので、ここまでデジタルに肯定的に書いてきましたが、一方で限界も感じます。あまりにファストすぎるコンテンツは現時点での人間の認知的限界を超えるという点においてです。音楽が無限に存在することは、音楽を無限に身体化できるという事とイコールではありません。例えば、街のことをよく理解するには、車では速すぎ、自転車でもまだ速くて、徒歩くらいがちょうどいい、というような話に似ています。過剰なファスト性は、(人間の認知機能上限界であるような)適切な音楽の血肉化とバッティングする。ですが、すでに書いたようにファストとスローは同居しうるもので、車で走ることはそれなりの情報受容が、自転車で走ることはそれなりの情報受容がありうるわけで、徒歩がすべてというわけではありません。徒歩で散歩もいいよ、という話がありつつ、他に聞き方の選択肢が増えた。

 

多分、現代に必要なリテラシーはデジタルかアナログかの二者択一ではなく、車で走ったり、徒歩で散歩したりを往復する柔軟性なのだと思います。

先日、こうツイートしたところ、多くの方から様々なご意見、アイデアをいただきました。

 https://twitter.com/good_smell_unko/status/1140474988543168512?s=21

 

頂いたコメントを整理しながら、少し自分の考え方を書いてみます。

 

 

まず、古典的な問題設定として「アイドルをバカにするバンドマンの自意識をなんとかせんといかん」というものがあります、ツイートへのコメントでもいただきました。「アイドルなんてニセモノでしょ」、的なやつで、ホンモノ≒アーティストとしての自己と対極にアイドルを設定する自意識です。アイドルはある種「ホンモノ主義」へのカウンターカルチャーなので、当然バッティングする部分です。

 

この辺の話題は昔ブログに書いたことがあります。

 

バンド/アイドル問題、古くて新しいテーマ ①アートフォーマットの違い

https://ameblo.jp/melonlovewatermelon/entry-12385436660.html

 

簡単にまとめると、

・バンド(アーティスト)がアイドルを劣位に見る構図は根強い

・一方、勘のいいバンド(アーティスト)側の歩み寄りは10年くらい前から徐々に進んできた

 ・とはいえ両者の壁はまだ厚い、なぜか、そもそも表現のフォーマットが違うからではないか

というようなことを書いてます。この感覚は大枠では今も同じですが、これを書いた1年前より両者の歩み寄りは着実に進んでいる実感があります。でもやっぱりどうしてもまだ「交わってない」感覚、「接近」「接続」は進んでも「融合」はまだまだだみたいな感覚があって、もっとできることあるんじゃないかという思いで、最初の質問ツイートに至っています。

 

僕が「フォーマットの違い」を気にしているのは、アイドルをバンドに(逆にバンドをアイドルに)「寄せる」というやり方は確かに効果はあれども、限界があると感じているからです。両者を「接近」「接続」するところまでは持って行けても、「融合」レベルのブレイクスルーには、「寄せる」以上の何かが必要なのではという感覚です。例えばバンドの生演奏やコラボ、玄人にも通じる音楽性の高い楽曲などは定石で、僕もこうした所作を強く意識してはいますが、落とし穴も結構あります。バンド生演奏はお金的にも準備時間的にもコスト高で特殊な機会でないと実践しづらいとか、またアイドル楽曲はしばしばDTMなので生演奏で「再現」することが難しい(場合によってはグレードダウンしますし、そもそも「再現」じゃなくて「グレードアップ」しないと最大効果は出ないのでは?みたいなことも)とか、バンドセットはどうしてもステージが狭くなるので(ワンマンクラスならまだしも対バン形式のイベント会場だと)動き回るパフォーマンスが難しくなるとか、機動力と多動性をウリにするアイドルフォーマットとバッティングする部分があったりします(潤沢な資金がありお抱えバンドがバンド対バンの度に登場するとか、理想ですが難しいです)。また、アイドルフォーマットは、物販などを通してアイドル本人をよく知ることでライブの魅力がより増幅する面白さがあると思っていますが、いい楽曲を在宅で聞いてもらっても、そうした双方向コミュニケーション的な強度をライブで体験するまでのハードル(アイドルのフォーマットを十全に体験するまでのハードル)はかなり高いです。

 

また「寄せる」型の思考は、「○○(主にアイドル側)には○○が欠けている」というマイナスの思考に行きがちで、例えば「アイドルはバンドに比べて歌がヘタ(その裏返しとして、歌がうまくなればいい)」とか、生演奏についても「アイドルには生演奏性が欠けている(その裏返しとして、生演奏しようぜ)」とか、穴を埋める補てん型の物言い、またはソフト面の話になりがちです。穴を埋める加算型の思考ではなく、すでにアイドルが持っている魅力を増幅したり、届けやすくしたり、乗算型・拡張型の思考で考えられないかなぁとか。また、ソフトの問題はある1グループが力を入れてなんとかできても業界全体に簡単に展開できる話ではないので、いったんソフト面を離れてハード面(設計)から考えたほうが、全体効果を期待できたりするのでは、とか思ったりします。

 

RAYでは、コンテンツ(ソフト)レベルではいい曲いいパフォーマンスを絶対的な目標に定めつつ、設計(ハード)レベルではとにかくPV、ライブ映像、サブスクなど公開コンテンツを惜しみなく出していく(まだできていませんが汗 これは極めて身体性の高いライブアイドルフォーマットをどれだけ身体性(ライブ体験)抜きに強度を維持したまま発信できるかという観点でもあります)とか、チェキ未体験の人チェキ無料( https://r-a-y.world/for-audience )とか、アイドルフォーマットを楽しんでもらうための導入口構築を目指して、まだまだですが少しずつ準備を進めています。こういう流れで、今回いただいたコメントで参考になったのは、一見小手先に見えるけど確かにそういうの大事だよなみたいな意見でした。バンドファンはアイドルに対して、アイドルファンはバンドに対しての「何者?」という状況を事前告知でしっかり解消してほしいとか、バンドファンはそもそも特典会が何なのか(すると当然レギュレーションも)分からないし説明が必要とか、特典会への参加ハードルが高いなら無料ハイタッチ会、握手会をするとか、導入口まで来てもらうためのアクションに重要性を感じました。すぐできることなので、早速やります。

 

「フォーマットの違い」の話に戻りますが、バンドとアイドルは一見地続きなように見えて(つまり「寄せる」ことで橋渡しできるように見えて)、実はそもそも楽しみ方が全く違い、アイドル特有のライブの楽しみ方をいかに理解、体験してもらうかが重要なのでは、みたいなのがここで書きたかったことです。「ホンモノ主義」とは別の楽しみ方をするものだ、という観点、そしてそのハードルをいかに下げるか、みたいな話です。アイドル本人をよく知ることでライブがめちゃくちゃ楽しくなる、というアイドル特有の体験を1度でいいからバンドファンの方に感じてもらえたらなぁとか。推しとまではいわなくとも、気になるメンバーが1人でもいれば、ライブ体験が新鮮なものになるのではとか。もう一つ、推しのライブで頭のネジが100本くらい外れてしまう、という体験がアイドルフォーマットの楽しいとこだ、というようなコメントもいただき、このネジがぼろぼろ外れる体験というのも、どうにか感じてもらえないかとも思います。愛すべきオタク諸氏においては、すごい数のネジが外れていらっしゃるので、一気にそこまでは難しくとも、数本ネジが外れるような体験をしてもらってアイドルライブの楽しさを感じてもらいたいなぁとか。

 

というようなことは、「寄せる」型の思考とは別の、アイドルが持つ魅力をそのまま楽しんでもらうには型の思考です。一方僕自身、歌やダンスは当然うまいにこしたことはないと思っているし、生演奏ライブもとても楽しいことを知っているので、こうしたことをあきらめたり、おざなりにするつもりは全くないです。歌やダンスの技術練度は当然パフォーマンスの強度に直結しますし、完成度の高い生演奏ライブはやはりドキドキします。その意味ではアイドルにも「ホンモノ主義」的な部分が当然あります。

 

「ホンモノ主義」を考えるうえで参考になるのが欧米のミュージシャン観です(この話題もコメントでもらったのでご紹介)。一般論レベルの話ですが欧米は「一流のパフォーマーが一流のパフォーマンスを見せる」こと、「コンテンツの完成度」を消費する文化とよく言われます。一方日本は、パフォーマーとして未熟であってもそれが「成長」していく様であるとか「物語」を消費する文化として対置される、というような話題です。アメリカのアイドル枠といえば、ジャスティンビーバーやマイリーサイラスがぱっと思い浮かびますが、どちらもコンテンツ総体として完成度が高く、歌唱力や表現力も持ち合わせているので、アーティストとして受け取ることも全然難しくないです。K-POPがアメリカでウケたのも同じような文脈な気がします。バンド/アイドル問題もここまで話題を広げると、どうカウンターしていくか(カウンターでなくとも渡り合っていくか)というのはとても難しいなと感じます。

 

 

とりとめない感じの文章になってしまいました。これからもいろんな方のアイデアを取り入れつつ、少しでもアイドルの魅力を多くの人に知ってもらえるように頑張っていきたいなと思っています。よろしくお願いします。

Gallery AaMoで開催中の「櫛野展正のアウトサイド・ジャパン展」に行ってきた。いわゆる「アウトサイダーアート」の定義を拡大する内容で、めっちゃ面白かったです。


アウトサイダーアートは、いわゆる正統な芸術教育等を受けていない制作者による「生の芸術」、みたいなのが定義的なところですが、内包/実態としては名のある/多くの制作者が精神病患者であるような形で数十年展開してきたシーンです。今回の展示が面白かったのは、展覧会の副題に「ヤンキー人類学から老人芸術まで」とあるように、アウトサイダーアートの定義を「生の芸術」に戻し、精神病患者の作品というフレームから解放した点にあります。


日本のアウトサイダーアートシーンは10年ほど前に大きな流行があり、大小さまざまな美術館、ギャラリーで展示がされていましたがここ最近は鳴りを潜めていて、こうした定義拡張的な展覧会により大規模にアウトサイダーアートが再興されるのはある種必然性があるというか、新しい形で戻ってきたなぁという気がしています。櫛野さんの今までのワークス(ヤンキー、老人、死刑囚等)の集大成的な表現だとも思いました。


こうした展覧会の意味づけ的な部分だけでなく、個々の展示作品もとても面白かった。アウトサイダーアートは正統な美術史から外れているという点に加えて、しばしば「健常者」からは理解が難しいロジックにより制作されているので、鑑賞者による語りを強く拒絶する部分があるのですが、濃い作品がたくさん集まっていることで、自分の中でその整理が少しできたような気がしました。


アウトサイダーアートはしばしば以下のような要素を持ちます。

①(一般性から極めて離れた)独自の論理・表現構造を持っている

②強迫的な反復をモチーフにした表現

③異常なまでの多作性

④表現は手段ではなく目的である(人に見せる事や評価されることが制作意欲に直結しない)


これら抽象的な印象を各展示作品を通して具体的に感じることができた。


①(一般性から極めて離れた)独自の論理・表現構造を持っている

ストレンジナイトの作品がとても面白かった。以下キャプション。

「人前に出るときは常に自作の仮面をかぶり、人目を避けマスクマンとして生活していた。創作仮面館の館内には、廃材などを使って制作した仮面やオブジェ、絵画などが多数展示され、建物全体も仮面や人形でおおわれている。…生年や本名は非公開で、その呼称が示す通りストレンジ(風変わり)で孤独な人生を演じていた「かつては海外の美術展にも入選するなど美術業界の渦中にいたが、『静かなところでゴミ(作品)をつくろう』と、20年ほど前に都心」を離れ、縁もゆかりもない栃木県で創作仮面館をオープン。天涯孤独の身であり、毎朝、新聞配達の仕事をしながら、自宅で保護した20匹ほどの猫と暮らし、作品制作を続けてきた」と生前語っていたが、他界後、その多くが虚構であり、みずからの人生さえも「創作」していたことが判明した。」






②強迫的な反復をモチーフにした表現

③異常なまでの多作性

④表現は手段ではなく目的である(人に見せる事や評価されることが制作意欲に直結しない)





めちゃくちゃ面白かったのでオススメです。


「櫛野展正のアウトサイド・ジャパン展」

 2019年4月12日(金)~5月19日(日)

 Gallery AaMo(ギャラリー アーモ)

 https://www.tokyo-dome.co.jp/aamo/event/kushino2019.html



5/1お披露目になる「RAY」の楽曲ディレクターを担当します。アウトプットされる音がすべてなので、お披露目前にあれこれ書くのも野暮ったいのですが、僕がアイドル楽曲ディレクションにかける熱意とか、野望みたいなものをちょっと書いてみます。
 
アイドル楽曲がいわゆる「キラキラかわいい」みたいなイメージを抜け出してすでに久しいです。マイナーをルーツにもつアイドル楽曲がたくさん生まれ、僕が・・・・・・・・・(通称ドッツトーキョー)の楽曲ディレクションを始めた頃にはすでに先人たちによって豊かな土壌が切り開かれていました。僕のディレクション感覚も、かなりの部分がこの土壌に育まれています。
 
基本的な考え方は「マイナー音楽を、アイドルフォーマットを通して、メジャーな感性に変換する」というものです。「楽曲派」界隈ではオーソドックスな感性だと思います。「アイドルフォーマットを通すと不思議とポップになる」という、しばしば「化学反応」とか呼ばれるような発想です。ただこれも見境なくやっても形にならないので、「どのマイナージャンルを選ぶか」、「どうメジャーな感性に変換するか」がディレクションの勘所だったりします。・・・・・・・・・でいうと、シューゲイザー、ローファイ、ギターロック、90semo、ドラムベース、テクノ、変拍子、ノイズから、他にも演劇的パフォーマンスや、インプロ生演奏などかなりマイナーに振れた展開をしてきましたが、マイナー性ゴリ押しではなくどれもゆるやかに一般性を持ちうるようディレクションしていました(のつもり)。
 
以前、こんな話をしたことがあります。マイナージャンル系アイドル楽曲のディレクションには2方向あって、一つはアイドル楽曲の平面に立ちながらマイナー楽曲を下から引っ張り出し平面に乗せる「引っ張り上げる型」、もう一つはマイナー楽曲側に立ってそこからアイドル楽曲平面へ力技で突き上げる「突き上げる型」、というような話です。マイナー性の純度、メジャー(アイドル楽曲)性の純度のバランス差異というか。両者は良し悪しではなくスタンスの問題でしかないのですが、・・・・・・・・・がどうだったかというと、後者です。(一方、・・・・・・・・・の盟友tipToe.さんは前者的で、両組の親和性はこうしたコインの表裏性にあったのだと僕は思っています)
 
一般性ということを考えた場合、おそらく前者的戦略のほうがよさげと、なんとなく感覚します。ですが、僕がやりたいのは、あくまで後者的なマイナー性ベースのスタンスを堅持しつつ、しかし一般性を決してあきらめない、というようなディレクションです。マイナーでありながらメジャー、噛むほど味が出るけどファーストバイトでも十分おいしい、何らかに特化した感性を持った人もごくごく普通の人も楽しめる、そういうことをやりたい。豊かな土壌に咲く花を、花だけではなく、その土壌ごと多くの人に知ってもらいたい。
 
プレスなどでRAYの楽曲方向性について「全方向型楽曲展開」というような表現がされています。一つはシンプルに多方向のマイナージャンルに開けていくことですが、もう一つは「一般性」に関わります。一般性(一般層)というのを少し言い換えて、「これまでアイドルに興味がなかった層」、「アイドルには興味があったが現場には足を運ばなかった層」、「アイドルを楽しむ感性はあるはずなのにこれまで接点がなかった層(他カルチャー界隈)」、こうした人、界隈へ届けるための感覚として「全方向型」という言葉を考えています。これまでアイドルという要素を持たなかった人や界隈にとっての、特異的なアイドル枠になりたい。実際どうやるのか走り出してみないとわからない部分も多いですが、とにかくこういう思いを持っています。
 
一見アイドルファンを通り越しているようですが、アイドルファンに満足してもらえるようなものを作るというのは、大前提の上です。僕自身アイドルファンとして過ごした時間が長く、モノ作りの目線がそこをベースにしているのと、そうした目線から見てのアイドルフォーマットに親しみと敬意を持っているからです。
 
しかし、言うは易し。こう宣言したからには、ちゃんと形にして、皆さんに納得してもらえるような結果を残していきます。RAYはここで書いた以外にもたくさん仕掛けが用意されています。ぜひ、ご期待ください。
 
■お披露目ライブ情報
2019/5/1(水・祝・昼)
①昼公演:RAY001 the beginning of the dream
会場:渋谷CHELSEA HOTEL
時間:開場/開演 12:00/12:30
料金:無料(1Drinkのみ) ※予約不要
出演:RAY

2019/5/1(水・祝・夜)※SOLD OUT
②夜公演:RAY002
会場:渋谷CHELSEA HOTEL
時間:開場/開演 17:30/18:00
料金:前売/当日 1500円/2000円(+1Drink)
出演:RAY、tipToe.、nuance

■RAY
HP: https://r-a-y.world/
Twitter: @_RAY_world
2019/2/25 産経新聞の記事(すいませんネットで拝借したものです)
 

 
いわゆる「地下アイドル」の運営をしていると「成功」の問題は意識せざるを得ない、難しい永遠のテーマです。
 
難しい理由は「成功」の定義が実は極めてあやふやな業界だからです。この新聞記事が「成功する可能性はほとんどゼロに近い」というときの「成功」とはなんでしょうか?
 
こうした文脈では、「成功」はおおよそ2つの意味で使われます。一つはグループとしての成功、もう一つは個人としての成功です。そして両者が持続すること、これが「成功」の内包するところだと思います。
 
ですが、いずれも「地下アイドル」では困難が伴います。まず、ゼロからスタートしたグループが武道館のような大きなステージ(=わかりやすい「成功」)を目指すことは、シンプルにいばらの道です。なのに、そのような大きな公演が叶ったとして、その後もグループや個人の活動が保証されるかといえば、必ずしもそうではない。あるコメンテーターは「いわゆる芸能界と地下アイドル界は別の世界で、両者には断絶があると考えたほうがいい」といったことを言います。上の新聞記事が「成功する可能性はほとんどゼロに近い」というとき、それはよほどの努力と才能を持ち合わせていない限り、芸能人として持続的な活動をすることは難しいという端的な事実を指してもいます。
 
以上が「成功」の意味ならば、地下アイドルとして活動することは確かに「夢も希望もない」のかもしれませんが、僕はそうは思いません。「成功」の定義はもっと広くていいはずです。
 
地下アイドルはしばしば高校野球に例えられます。高校球児の大半はプロ野球選手にはなれません、甲子園に出たからと言って将来を保証されるわけではないです。だからと言って甲子園を目指して3年間を野球にささげることをバカにする人がどれほどいいるか、と言ったとき、それは少数派ではないでしょうか。甲子園を目指して得られるものはなにも野球のスキルだけではなく、全力で一つのことに打ち込むことは人生にとって代えがたい貴重な経験になり得ます。こうした面で、高校野球と地下アイドルを相似に語り、「成功」ではなくとも「代えがたい貴重な経験」を大切にするような目線です。高校野球でなくとも、学生時代たくさん勉強した人が結果としてごく普通のサラリーマンになったとして、きっとたくさんの勉強は人生を豊かにしているだろうと思います。
 
ですが、この「成功」の考え方はまだ狭い、ですしなんだか無責任です。そこで、「大成功」でなくとも「中成功」や「小成功」という考え方があってもいいのではないでしょうか。
 
最近、ある地下アイドルさんが、ある服屋さんの店長に就任しました。まだ高校生です。もともとサブカルチャーや服飾に造詣のあるセンスのいい方だったので納得感がありましたが、何か地下アイドルの新しい生き方を見たような気持ちがしました。ここからは想像になりますが、店長業とアイドル業の掛け持ちはおそらくとても大変です。上で書いた高校野球のように一つに打ち込むのとは少し違い、自分の時間やリソースをどう両者に割いていくかということを戦略的に考えていかなければならないはずです。そこには「一つに全力で打ち込む美学」のようなものはもしかしたらないのかもしれません。ですがなにか彼女の未来がぱーっと開けたような感じがし、とてもうれしくすがすがしい気持ちでした。たぶん、彼女自身が開けたことと、業界の「成功」問題が少し開けたような気がしたことと、そのどちらもです。うまく伝えられませんが、いわゆる「ソロ活動」とは少し違うベクトルの、開け方を感じました。
 
彼女の例は、彼女の生き方の方向性と多分マッチしていてその後の人生にもつながりそうなかなり「成功」寄りの事例に思いますが、ここで僕が言いたいのはグループ活動だけ、と考えず、多接続的にいろんな分野にコミットする活動こそが、実は「中成功」や「小成功」の積算で、結果として本人の人生にとっては「大成功」となることがあり得るのでは、といった発想です。モデルでも、ユーチューバーでも、イラストレーターでも、二足の草鞋、三足の草鞋は履けないものか、という。
 
誤解なきように言い添えておきたいのは、グループ活動以外に満足や成功を求めろと言っているのでは決してない、ということです。僕も含め、グループアイドルの運営人にとって、大きくなる、売れる、といった最初のカギカッコつき「成功」を志向することは、最も基本的な命題です。これを放棄する運営はいないと思います、とても大事な大人の責任です。メンバー個人の幸せも当然、願い考えています。しかし、いわゆる「成功」以外にも、活動がメンバーの人生に寄与するような設計があっていいのではないか、というような視点が、業界を持続可能なものにするためにもこれから大事なっていくのでは、というような話です。
 
じゃぁお前はどこまで実践できてるんだ、と言われると、頼りない答えになってしまうかもしれません。運営を始めた当初からこうした問題意識は持っていましたし細部には生きているかと思いますが、いち運営、いちグループだけで解決できるような話ではないというのが正直な気持ちで、業界全体として前例やモデルケースをバンバン作り、フォーマットが作られていくような流れにできれば、少し新しい「成功」の形が見えるのでは、など思っています。