「南禅寺界隈の別荘群」について紹介されているサイトの紹介
琶湖疏水事業の“副産物”「南禅寺界隈の別荘群」について
◎リンク
◎京都経済同友会 (一般社団法人)
京都再発見 京都・近代化の軌跡
第12回:琵琶湖疏水のたまもの(その2)
※なぜ南禅寺界隈に別荘が営まれるようになったのかを探ると、琵琶湖疏水による「水車動力」利用計画が、「水力発電所」建設(電力利用)に変更されたことが背景にありました。
工場団地として整備される予定であった南禅寺周辺の土地の活用が新たな課題になります。これを受けて、疏水による水車動力利用の権利を取得していた近江出身の実業家、塚本与三次(つかもと・よさじ、京都商事社長)が構想したのが高級別荘地への転用(分譲)でした。
京都市もまた、1895(明28)年、疏水沿いの地域を含む東山一帯を風致保存地区にする方針を打ち出すとともに、宅地化を誘導していきます。
南禅寺のかつての境内・寺領で、塔頭(たっちゅう)のほか、畑地や緩衝林として使われていました。南禅寺は徳川幕府とつながりが深かったので、こうした広大な土地を寄進され、所有が認められていたのでした。
しかし“ご一新”で、明治政府が1871(明4)年と1875(明8)年の2度にわたり上知令を発布したため、一転、全国および京都の大寺院の所有地ともども召し上げられてしまいます。
この地にいち早く別荘を計画したのは時の権力者、山縣有朋(やまがた・ありとも 1838(天保9)~1922(大正11)でした。
山縣は長州藩士のころ京都で諜報活動に従事したことがあり、また明治になってからは琵琶湖疏水工事を認可した内務大臣、完工時には総理大臣として竣工式に列席するなど、京都および琵琶湖疏水と因縁浅からぬ軍人政治家です。
造園好きとして知られ、東京・目白の本宅(現在の椿山荘)のほか、出身地山口県の下関や大磯、京都、小田原に次々と別荘を造っては譲渡していきました。
そのうち京都では、最初 1891(明24)年、木屋町二条の旧角倉邸を購入し「無鄰菴(むりんあん)」と称します。現在は料亭 「がんこ高瀬川二条苑」
次に、1894(明27)年に旧南禅寺領の一角(現 草川町)3,100平方メートルを購入し、新たな別荘(現在の無鄰菴)の造営に着手します。
このとき作庭を任せたのが、七代目小川治兵衛(おがわ・じへえ、1860(万延1)~1933(昭8)、屋号は植木屋治兵衛・略称「植治」)でした。
完成は1896(明29)で、建物は数寄屋造りの母屋と茶道藪内流の「燕庵(えんなん)」を模した茶室、それに煉瓦造り二階建て洋館1棟(洋館は1898年完工)にとどめ、敷地の大半を庭園にしています。
それは東山を借景に、明るい芝生に浅い流れを配した開放的な池泉廻遊式庭園で、日本の近代庭園の先駆けとなりました。それまで、庭園に水の流れをつくるのは、水の確保や排水などから容易なことではなかったのですが――その代わり、白砂を水に見立てる枯山水の庭園様式が発達しました――無鄰菴は琵琶湖疏水を引き込み、これを実現しました。
琵琶湖疏水の利用目的に“個人宅への水供給”はありませんでしたし、まして庭園に流すためと言うと市民の反発も予想されたため、このときは「防火用水」として京都市当局の許可を得ています。山縣は、相応の金額を市に寄付したということです。
以来、南禅寺界隈に用地を確保し、趣向を凝らした邸宅と「植治」による庭園を造営する―その庭には疏水から水を引き入れる―ことが財界人の憧れとなり、ステイタスにもなりました。
こうして明治末期から昭和に至るまでの期間に、「対龍山荘(たいりゅうさんそう)」、「何有荘(かいうそう)」、「洛翠(らくすい)」、「流響院(りゅうきょういん、旧織宝苑)」、「碧雲荘(へきうんそう)」、「清流亭(せいりゅうてい)」、「有芳園(ゆうほうえん)」、「真々庵(しんしんあん)」 など、今に残る名邸・名園がこの地域に築かれたのです。
琵琶湖疏水建設時、もし当初計画どおり動力源の水車が設置され、それを利用する工場が一帯に建設されていたなら今に伝わる日本の近代庭園文化は生まれておらず、それどころか、この地域だけでなく東山山麓の環境が影響を受けていたかもしれません。 (一部抜粋紹介)
注) 現在、無鄰菴は京都市が所有・管理し、対龍山荘は株式会社ニトリの保養所・宿泊施設に、何有荘は米国オラクル社のCEOラリー・エリソン氏の所有、洛翠は日本調剤株式会社の施設、碧雲荘は野村證券グループが管理、流響院は真如苑の所有、清流亭は大松株式会社の所有……などとなっています。無鄰菴以外は非公開です。
(2013/10 現在)
【南禅寺界隈の別荘関連年表】
1890(明23)4月 琵琶湖疎水竣工式
1890(明23)4月 鴨東運河完工
1891(明24)11月 蹴上インクラインが電気運転を開始(12月26日営業開始)
1892(明25)7月 北垣国道知事が北海道開拓使長官に転任
1894(明27)山縣有朋が旧南禅寺領の一角を購入し「無鄰菴」造営に着手
1895(明28)2月 京都電気鉄道・伏見線(伏見町油掛~七条)開業
1895(明28)平安遷都千百年記念祭・第4回内国勧業博覧会開催(会場は岡崎)
1895(明28)京都市が疏水沿いの地域を含む東山一帯を風致保存地区に
1896(明29)「無鄰菴」が完成し、庭園に琵琶湖疏水の水が引き込まれる
1896(明29)薩摩藩出身の伊集院兼常が旧南禅寺領分譲地に自邸と庭園(後の対龍山荘)建設
1901(明34)初代市田弥一郎が伊集院兼常邸を譲り受け増改築に着手(このとき名称を対龍山荘に)
1903(明36)4月 21日に無鄰菴で、元老山縣と政友会総裁伊藤博文・総理大臣桂太郎・外務大臣小村寿太郎が「無鄰菴会議」を行い、日露戦争開戦後の日本の対外政策などを協議
1905(明38)稲畑勝太郎が旧南禅寺領分譲地の民間人宅を購入し「和楽庵」(後の何有荘) 建設
1912(明45)5月10日に第2琵琶湖疏水通水
以上
ソフトウェア会社 米オラクル(Oracle Corporation)創業者
2014年 会長兼CTO(最高技術責任者)に就任。
フォーブスのランキング 世界5位の大富豪である。
2019年現在はマイクロソフトに次ぐ第2位。
第5節 琵琶湖疏水で結ばれた岡崎・南禅寺界隈 庭園群の成立
日本庭園研究センター所長、 日本イコモス国内委員会理事
尼﨑 博正 (あまさき ひろまさ 1946~ )
◎ 尼崎博正 - Wikipedia 京都造形芸術大学教授
疏水からの引水は防火用,あるいは噴水など公共施設の修景用として始まった。
円山公園の噴水池計画は、田辺朔郎に委嘱され, 明治 24 年(1891)に設計方針が決定,末端では 八坂神社本殿の防火用水として利用できるように なっていた。
明治 26 年(1893)円山公園噴水池へ引水。明治 28 年(1895)には無鄰庵と第4回内国勧業博覧 会場へ疏水の水が引かれ,そのバルブ室から平安神宮神苑まで鉄管が延長された。
東本願寺の防火用として蹴上船溜の貯水槽から三条通を西進して、 白川右岸を南下するルート,約 4.6km に鉄管が 埋設されたのもこの年である。
◎・小川治兵衛 (おがわ じへえ)万延1年(1860)~昭和8年(1933)
近代日本庭園の先駆者とされる作庭家、庭師。植治(屋号)
平安神宮、円山公園、無鄰庵(山縣有朋別邸)、清風荘.(西園寺公望別邸)、対龍山荘(市田弥一郎邸)など国の名勝に指定されたものも多い。
日本建築学会計画系論文集 第79巻第698号、2014年
・小野 芳朗 (京都工芸繊維大学, その他部局等, 理事・副学長)
・西寺 秀 (2021年度:◎建設局左京土木事務所)
・中嶋 節子 (2022年度: 京都大学, 人間・環境学研究科, 教授)
水力使用権は、灌漑用水のような慣行水利権では無く、京都市に使用量と料金を申請する契約水利権であった。ただし寄付にあたる冥加金や漏水使用という自由使用のような慣行水利権の実態もあり、整理されるのは大正以降になる、、、(一部抜粋要約)
南禅寺界隈別荘(なんぜんじかいわいべっそう)は、明治新政府が召し上げた臨済宗南禅寺の敷地を開発した後に建つ、15邸の広大な別荘。
- 碧雲荘(へきうんそう)
- 何有荘(かいうそう)(旧稲畑勝太郎邸)
- 対龍山荘(對龍山荘)(たいりゅうさんそう)
- 流響院(りゅうきょういん)(旧織寶苑(しょくほうえん))
- 清流亭(旧塚本與三次邸)
- 有芳園(旧住友友純別邸)
- 真々庵(旧染谷寛治別邸)
- 無鄰菴(むりんあん)(旧山縣有朋別邸)
- 居然亭(きょぜんてい)(第4代中井三郎兵衛別邸)[1][2]
- 清風荘(旧西園寺公望邸)
- 智水庵(旧横山隆興別邸)
- 怡園(いえん)(旧細川家別邸)
- 旧上田秋成邸(現:料理旅館八千代)
- 旧藤田小太郎邸(洛翠)
- 旧寺村助右衛門邸(現:料理旅館菊水)
南禅寺界隈別荘群マップ
◎リンク
地下鉄東西線の蹴上駅で下車し、出入口1から出ます。
進路 AーBーCーD 順に沿って歩く・・・
◎Yagiken Web Site 「時空繊維」
一部庭園の写真あり。
以上