北海道の名付け親 松浦 武四郎(まつうら たけしろう)

松村武四郎 

文化15年(1818) -明治21年(1888)

 

 琵琶湖疏水を企画・完成させた第3代京都府知事 北垣国道は、1892年~1896年北海道庁長官に就任し、田邉朔郎も、1896~1900年(明治29~33年) 北海道庁長官を務めていた岳父・北垣国道に請われ、北海道庁鉄道部長として北海道官設鉄道の計画・建設に当たる。
 このように京都と北海道は運命のような不思議な結びつきを感じる。世紀の偉業を成し遂げた人物には、また新たな使命と挑戦が待ち受けているようだ。

 

 蝦夷地(えぞち)から北海道と名は変わるが、著しく自然環境の厳しい地に、各時代背景でやむなく移住した者、あるいは積極的に未知の地へ探検した者たちの活躍により、今の発展の歴史がある。

 今回、北海道に関する先駆者の活躍にもスポットを当ててみたいと思います。

 

松村武四郎 文化15年(1818) -明治21年(1888)

 伊勢国一志郡須川村(現在の三重県松阪市小野江町)にて郷士・松浦桂介の四男として生まれる。(松浦家は、肥前国平戸の松浦氏の一族といわれている。)また山本亡羊に本草学を学び、早くから諸国をめぐった。

 天保9年(1838年)に平戸で僧となり文桂と名乗るが、弘化元年(1844年)に還俗。

 

 江戸時代末期(幕末)に、蝦夷地がロシアに狙われていると伝え聞き。アイヌの道案内をつけ蝦夷地を探検する過程で、原住民であるアイヌが和人(松前藩および商人)に強制的に連れ去られ、劣悪なる条件下で働かされている事実を知る。

 

 江戸に戻り、アイヌの窮状を広く江戸庶民に知らせるため見聞録を出版するとともに、幕府に蝦夷地のロシアからの防衛が急務であること、またアイヌの窮状の改善を強く訴えた。その功があり蝦夷地は幕府直轄領となり、武四郎も幕府の調査員に引き立てられ、さらに奥部の探索は進んだが、一向にアイヌの窮状改善は進まなかった。幕末の倒幕の気配がある世情不安の時期でもあった。

 

北海道の歴史について

先住民アイヌ

 この島を居住地の一つとするアイヌの言葉(アイヌ語)では、「アィヌモシㇼ」(ainu mosir、「人間の住む土地」)または「ヤウンモシㇼ」(ya un mosir、「陸地の国土」) と呼ばれる。

 

 日本人(和人)は古代には渡嶋(わたりのしま)、近代に至るまでアイヌを蝦夷(えぞ)、その土地を蝦夷地(えぞち)もしくは北州、十州島などと呼んでいた。

江戸時代
 ロシアの進出に伴い、江戸時代末期になると「異民族の住む地」を意味する「蝦夷地」のままではいけないという意見がみられたものの改称は実現しなかった。

   
明治時代
 武四郎は明治新政府から「蝦夷地開拓御用掛」の仕事として、幕府時代より優遇され、そして蝦夷地に代わる名称を考えるよう依頼されました。

 

「道名選定上申書」を提出し、その六つの候補の中から「北加伊道」が取り上げられます。「北加伊道」案はアイヌが自らを「カイ」と呼んでいることから考案したと説明している。

 

 明治政府は「北加伊道」を基本とし「加伊」を「海」に改めた「北海道」とすることを決定。明治2年8月15日太政官布告により「蝦夷地自今北海道ト被稱 十一ヶ国ニ分割國名郡名等別紙之通被 仰出候事」と周知された。

 

 しかし、期待した新政府(内務卿 大久保利通)、第二代開拓使 東久世長官 においても、武四郎のアイヌとの信頼関係の構築、公正な取引の法律化の訴えも無視され、アイヌへの差別偏見、酷使の状況は一向に改善されないまま、武四郎は新政府に反発して、ついに職を自ら辞する。

 

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