京都の近代化の先駆け 明石 博高(あかし ひろあきら)

 

 

  明石 博高(あかし ひろあきら)

 

四条通堀川西入唐津屋町生まれ。
天保10年(1839)10月4日-明治43年(1910)6月20日 72歳

明治時代に京都において殖産興業・医療政策・救貧政策などを中心として近代文明の指導的役割を果たした。

 

2022.4.16~2022.6.5 京都府立京都学・歴彩館にて展覧会が開催された。

 

  明治初期の京都の近代化に大きな役割を果たした。

医師、明石博高(あかしひろあきら、1839~1910)

 

 銅駝(どうだ)美術工芸高校(京都市中京区)に京都舎密局(せいみきょく)跡、府立医科大学(京都市上京区)に療(りょう)病院碑、みやこめっせ(京都市左京区)に京都博覧会碑がある。

 

1839(天保10)年に京都の薬種商の家に生まる。

1860年(万延元年)山本章夫(山本亡羊の子)に入門。

1870(明治3)年、京都府の槇村正直参事(第二代京都府知事)に招集され出仕。

 東京遷都で衰退した京都の復興策として、槇村、府顧問の山本覚馬の下で、京都舎密(せいみ)局、療(りょう)病院を創設。


舎密局京都(理化学研究所)

  明治維新において京都の産業を振興する目的で、京都府が設立した理化学工業研

  究所 化学技術の研究・教育、および勧業のために作られた。

 

  明治2年(1869年)に開校した大阪舎密局でオランダ人化学者クーンラート・

  ヴォルテル・ハラタマに学び、明治3年(1870年)10月に京都府に出仕した

  明石博高が設立。

 

     受講生を募集し工業化学の研究と普及を進めた。当時は極めて貴重だった金属

  標本も集め、明石の旧蔵として残されたものが、今回展示された。

  舎密(せいみ)とは、オランダ語シェミーの訳語で「化学」を意味する。
  明治14年(1881)槇村知事の転任によって、勧業政策転換され廃止される。

  

  ※ドイツ人ゴットフリード・ワグネルらを招き受講生を広く募集し、京都の伝統

  産業である陶磁器、織物、染色の改良実験をはじめ、わが国初の石けんの製造、

  鉄砲水(ラムネ)等飲料の製造、七宝、ガラスの製造等、工業化学の研究と普及

  に努めた。
  また、本格的な理化学の講義は島津製作所創業者・島津源蔵ら多くの人材を育

  て、京都の近代産業の発達に大きな役割を果たした。

 

  建物は明治28年(1895)に焼失し、その後に「銅駝(どうだ)小学校」建てら

  れます。現在は「銅駝美術工芸高校」となっている。

 「島津創業記念資料館」から少し北上すると舎密局跡に出る。                   
 

療病院は、現在の京都府立医科大学付属病院(京都市上京区)の前身。

 (京都府では時期尚早とされ、明石本人が寺院さらに町衆に資金提供を募る。)

  1872(明治5)年に診療を始めた。療病院は京都の近代医学の拠点となる。

 

 

            京都府立医科大学・旧附属図書館

              ネオ・ゴジック様式

 

 

 

 療(りょう)病院碑

 

 療病院は府立医科大学附属病院の前身で、蘭学医 明石博高(1839~1910)らが資金を募って創設した。明治5(1872)年9月、木屋町二条に仮病院を開設しドイツ人医師らによる診療を開始、11月に青蓮院に移り診療と医学教育が行われた。同13年仮病院から本院に発展し、この地に開院した。同校の明治36(1903)年、京都府立医学校が京都府立専門学校(現京都府立医科大学)に改編された時に附属病院となった。この碑は療病院開院を記念するものである。

 

                    (2014年撮影 京りんたろう)

 

・1872(明治5)年 第2回京都博覧会の責任者になる。京都みやこめっせ(京都市左京区)に博覧会碑がある。

(日本最初で、三井八郎衛門(三井家)や小野善助(小野組)、熊谷直孝(鳩居堂)ら京都の有力商人により主催され、西本願寺を会場に1カ月間開催され入場者は約1万人。)

 

・1881(明治14)年 第三代北垣国道知事になり官僚を辞する。北垣知事は、これらの事業の多くを民間に払い下げ「琵琶湖疏水事業」に力を注ぐことになる。

 明石が書いた北垣知事宛ての「私立病院設立願」が厚生病院という名で、83年に認可を受け、明石が院長を務めた。

 明石は、診療費は患者の貧富があるので『その人の適宜に任す』とある。献身的な明石の人物像が伝わる。

 

 その他、西陣機業振興のためジャカード織機の輸入、物産引立会社の創設、

学校の設立、窮民授産所の設置など、その活動は多岐に及んだ。

 

『日本薬泉考』『化学撮要』などの著述がある。明治43年没。72歳。

                             (会員 林正)


◎リンク

 

※京都生まれ 現在の京都府立大学付属病院の前身の療(りょう)病院を開設。

 

※シーボルトが「日本のリンネ」と称賛

 

 ※江戸時代後期の医者、儒学者、本草学者

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ※「京都舎密局跡」のコーナーで明石氏のプロフィールが掲載されています。

 

※ヴォーリズを追って訪れた町々には、たくさんの素晴らしいレトロな洋館がありました。by gipsypapa 各県の近代建築の写真と記事が多く紹介されています。

 

 

※鳩居堂

 

 PDF

 小野善助

https://www.jstage.jst.go.jp/article/tja1948/25/3/25_3_177/_pdf

 

 

※島津源蔵(島津製作所)