本邦髙等女学校之濫觴 女紅場址(にょこうばあと)石碑 

                 

[北]

  本邦髙等女                  西九十三米
    女紅場址   従是
 学校之濫觴                      南九十米

 

[西]
女紅場ハ京都府立京都第一高等女学校
創立当初ノ名称ニシテ明治五年四月十
 四日旧九条家河原殿ニ開設セル者ナリ 

 

[東]
昭和七年十月
 

[南]

為母校創立六十周年記念建之
                            京都鴨沂会

 

       当地には、旧京都中央電話局上分局が建っています。

       (2023.1.31現在 スーパーフレスコが営業)

       

中庭から撮影

 

丸太町橋より鴨川上流を見る

 

丸太町橋より鴨川下流を見る

           2023.1.3 現地にて撮影(会員 林正)

 

女紅場(にょこうば、じょこうば)

 

  明治初期に存在した「女紅」と呼ばれた女性の手仕事(裁縫・手芸など)の教育機関。
 女子教育機関(女学校)。明治5(1872)年、京都府によって九条家河原町別邸内に設けられた。

 英学と女工(手芸・手工)の二科を置き、「英国人イーバンス夫妻」を教師に招き、新英学校女紅場と呼ばれた。

 

 1872年に「女紅場」(新英学校及女紅場)がその最初の事例で、学校教育制度が整備されるまでの時期(おおむね1870年代)に、関西地方などを中心として一部地域で広がった。「裁縫所」「縫製所」、あるいは「女工場」「女紅伝習所」などの名称も用いられた。

 女紅場は学制に規定されない学校であり、中等教育機関(のちの高等女学校)に相当するものや、初等教育機関相当のもの、貧窮者のための授産・教育施設から、遊廓の女性のための教育施設まで、対象も内容もさまざまな教育が「女紅場」の名の下で行われた。

 

 学校教育制度が整備されるにつれて「女紅場」は解消され、あるいは名称も廃れていくが、「女紅場」の名は遊廓の女性たちを対象とする教育施設に残った。

 

◎リンク

 

 

 

 第一回京都博覧会 PDF

  明治初期京都の博覧会と観光 工藤 泰子 氏

https://core.ac.uk/download/pdf/268296885.pdf