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スチャラカでスーダラな日々

故・植木等氏の御冥福に因んでkeiのスーダラな日々を紹介します。故人の映画のようにスイスイと軽妙な人生を送りたいものです☆彡

水の力は100万ボルト ダム
まんがはじめて物語 ダム:クリックするとYoutubeが見られます

ダムにて モグタンと岡まゆみ多摩川第一発電所の発電機ダムは、水力発電や治水・利水、治山・砂防、廃棄物処分などを目的として川や谷を横断もしくは窪地を包囲するなどして作られる土木構造物。一般にコンクリートや土砂、岩石などによって築く人工物を指す。

大規模なダムで川を堰き止めた場合、上流側には人造湖(ダム湖)が形成される。また土砂崩れや地すべりによって川が堰き止められて天然ダムが形成されることもある。

北海に面した低地が多いオランダでは、河川の水位調整と海水浸入防止のためダムや堤防を築くことが多かった。ダムができるとその地点での渡河が容易となるため都市の形成へと繋がった。たとえばアムステルダムはアムステル川に、ロッテルダムはロッテ川にダムが設けられたことを契機として形成された街である。

ダムの建設目的は多岐にわたる。主なものとしては治水(洪水調節・不特定利水)と利水(灌漑用水や上水道用水、工業用水、消流雪用水の供給、水力発電、レクリエーション等)がある。治水を目的とするダムを治水ダムといい、利水を目的とするダムを利水ダムという。複数の利水目的を持つ利水ダムや、治水・利水両方を目的とするダムを多目的ダムという。

アーチ型ダム
フーバーダム:コンクリート製重力式アーチダム

コンクリートの壁で塞いだダム
コンクリートの壁で塞いだダム
浪岡ダムの湖面
浪岡ダムの湖面

浪岡ダム 空撮浪岡ダム 観測値浪岡ダムは青森空港から離陸する際に最初に見られる構造物で、機体の左側の窓側(A席)から見られます。弊ブログ管理者はそれを知っているので、帰京する際は必ずA席を指定して車窓風景を撮っています。浪岡ダムは何度か空撮したのですが、現地で撮影したことがありません。

一番上の浪岡ダムの湖面画像は、フリー素材から引用しました。浪岡ダムの赤い取水塔に陽が当たり、とても印象的な作品になっています。

浪岡ダムと青森空港の地図は国土交通省 川の防災情報から画面キャプチャーしました。浪岡ダムと青森空港が隣接していることが良く分かる地図です。浪岡ダムは青森空港の近くにある灌漑用ロックフィルダムで1982年竣工。大きなダムではありません。赤い取水塔が目立ちます。

浪岡ダムは秋も深くなると農業用水用のダムなので、冬場にかけて水を全部抜いてしまいます。晩秋の湖底が見える浪岡ダムに紅葉が鮮やか。

浪岡ダム 断面図
浪岡ダム 断面図

浪岡ダム 地図
浪岡ダム 地図

青森空港と浪岡ダムの地図
青森空港と浪岡ダムの地図
JAL 146便 青森→羽田行き

青森空港 建物青森空港 車窓風景2024年8月9日 15:25 の青森発 羽田行きに乗りました。明日仕事があるので帰京しなければなりません。青森空港を後にしてJALは飛び立ちました。眼下には浪岡ダムが水を湛えています。

お祭り三昧で日程も詰まっていた旅だったので疲れていたのかうたた寝をしてしまい、気がついたら機体がドスンと羽田空港の滑走路に着陸した時点でやっと目が覚めました。なので着陸前の映像はありません。

7月から始まったねぷた行脚もこの帰京編で終了です。2024年8月上旬はねぷた三昧でした。ちょうど8月8日に吉幾三さんが立佞武多の唄を唄われることを知ったのでこのようなスケジュールとなり、撮ったねぷたは全て掲載させて戴きました。明日から違うテーマを紹介させて戴きます。

青森空港 搭乗口
青森空港 搭乗口

浪岡ダム
浪岡ダムを空撮する

JAL 146便 到着口
JAL 146便 到着口
2024年 さかえ立佞武多

さかえ立佞武多 囃子方 さかえ立佞武多 囃子方・太鼓 さかえ立佞武多 前ねぷた 龍 2024年8月8日に五所川原市の焼肉牛亭前で撮影したさかえ立佞武多です。絵師は小山内 圭宵さん。鏡絵は遼来来。見送り絵は不明です。五所川原市長賞【第1位】を受賞しました。

2024年8月5日にもさかえ立佞武多を撮影したのですが、鏡絵の顔が反対方向を向いていて撮影場所を通るたびに急いで通るのでまともに鏡絵の顔を撮影できなかったです。

最終日は交差点のロータリーで回転してくれたので鏡絵の顔は撮れたのですが、長焦点のため画像が荒れてしまいました。

【2024 五所川原立佞武多 審査結果】

●五所川原市長賞:さかえ立佞武多『遼来来』

●五所川原商工会議所会頭賞:三振り會『行者武松』

●五所川原市観光協会会長賞:富士電機津軽セミコンダクタ『雷神』

さかえ立佞武多 前ねぷた 龍
さかえ立佞武多 前ねぷた 龍

さかえ立佞武多 鏡絵 遼来来
鏡絵 遼来来

さかえ立佞武多 遼来来
さかえ立佞武多 遼来来

さかえ立佞武多 見送り絵
さかえ立佞武多 見送り絵
2024年 五所川原高校

五所川原高校 囃子方 五所川原高校 真珠の夜光 五所川原高校 見送り絵 2024年8月8日に五所川原市の焼肉牛亭前で撮影した五所川原高校の立佞武多です。絵師は五所川原高校 立佞武多製作委員。鏡絵は 真珠の夜光。見送り絵は不明です。

毎年6月から立佞武多本体の紙貼りと立佞武多の高欄を制作しています。高欄とは立佞武多の土台となる四角い台座に描かれる装飾のことを言います。弘前の組ねぷたにも高欄があります。

毎年7月下旬に完成した立佞武多のパーツを組み上げる作業が行われます。組み上げた立佞武多はJR五所川原駅の南側にあるねぷた小屋に保管されます。

立佞武多運行は例年学年毎+同窓会で計4日参加します。前回撮影した8月5日はちょうど五所川原高校の立佞武多が運行を休んでいて、それ以外の運行日は全て出陣していました。

五所川原高校 真珠の夜光
五所川原高校 真珠の夜光

五所川原高校 見送り絵
五所川原高校 見送り絵

五所川原高校 鏡絵 真珠の夜光
鏡絵 真珠の夜光

五所川原高校 見送り絵 全体
見送り絵 全体
2024年 立佞武多 誠和會

誠和會 囃子方誠和會 囃子方・太鼓2024年8月8日に五所川原市の焼肉牛亭前で撮影した誠和會の立佞武多。絵師は長内 大さん。鏡絵は 茨木。見送り絵の絵師は松江 翔誠さん。

絵師の長内 大さんは大型立佞武多の絵師だった福士裕朗さんの弟子です。福士裕朗さんは青森ねぶたのねぶた師になりましたが、元々は五所川原出身で誠和會に在籍して立佞武多を描いていました。今でも誠和會の顧問として在籍中です。

ねぶた自主制作運行団体「誠和會」は今から26年前、立佞武多が有名になる前の五所川原市で結成。結成したのは地元のねぶたが大好きな小学生。元々は小学生が作った会なのです。

中心となった小学生3人は自分達のねぶたを作りたい。そんな気持ちで当時の大人を巻き込み自分達で拙いながらも手探りで1台のねぶたを作り上げ、実際にお祭りでの運行を成功させました。そこから少しずつ同世代の仲間が集まり、今の誠和會の土台が出来上がりました。

誠和會 鏡絵 茨木
誠和會 鏡絵 茨木

誠和會 見送り絵
誠和會 見送り絵
立佞武多 歌詞
立佞武多 歌詞

立佞武多 吉幾三立佞武多ポスター立佞武多の曲が出来るまで2000年夏
大正時代に途絶えた立佞武多が復活し、祭りとして運行が始まって三年目の夏だった。当時の五所川原市長だった成田守氏は立佞武多運行には歌が必要だと考えていた。そこで以前より吉幾三氏と交流のあった私に依頼が来たのが事の始まりであった。私は早速、市長の思いを吉幾三氏に伝えると快く承諾してくれたのだった。

2000年 8 月
現在の五所川原市本町にある、みちのく銀行の屋上で、私と吉幾三氏は立佞武多を観覧した。ビルの谷間から勇ましく意気盛んな立佞武多の姿が現れ、それを見た瞬間に吉幾三氏は思わずペンを放った。ふと私が覗くとスラスラと詞を書いている。歌詞が降ってくるとはよく聞くが、吉幾三氏はものの数分で書き上げてしまった。その詞は殆どそのまま曲の歌詞になっている。

2001年冬
祭りの雰囲気にあった曲も出来上がり。 歌詞と合わせ、後はレコーディングをして完成と思っていた矢先に私のもとへ五所川原市長から連絡が入った。二番の歌詞にあるいざめる立佞武多、この【いざめる】という言葉が祭りの歌詞にはふさわしくないので、歌詞を変更して欲しいという依頼だった。私はそのことを伝える為に吉幾三氏のいる東京に向かった。 前の晩、私の妻がいざめるに代わる言葉を幾つか提示し、それを持って東京のスタジオに入った吉幾三氏に歌詞のいさめるを替えてもらえないだろうか。

この言葉は人を殺める、ざらしめる、いじめるという意味だから祭りには使って欲しくないという市長の意向を伝えた。これを開いた吉幾三氏は大きな声で怒った。その瞬間、空気が張りつめたのを今でも覚えている。この詞は吉幾三氏自身が立佞武多の由来を元に考えたもの。スタジオにはスタッフや関係者が10名ほどいたが、誰もが沈黙のまま30分という時間が過ぎて行った。私の顔からは滝のような汗が流れていった。スタジオ代も時が過ぎるごとに増して行く。最初に口を開いたのは吉幾三氏だった。

私に「じゃあ半ちゃんどんな言葉がいいのかね!」と私は昨夏か考えた項目から勇壮壮大立佞武多が良いと思うのですが」と答えた。「勇壮も壮大も同じだろう。歌いにくいんだよな…」と吉幾三氏 歌ってみるか、やっぱり駄目だ。吉幾三氏を何とか説得しようと私自身の思いを伝えた。

「でも吉さん。 吉さんが書いた歌詞は立佞武多がある限り一生歌い継がれる。その詞(いざめる)が吉さんの書いた歌詞であることは一生残る。もう一度考えてみてはくれませんか。」とそれを聞いた吉幾三氏も「よし、分かった。」と納得し歌詞を変更してレコーディングを行うことにディレクターからのOKサインも出て、 ようやく立佞武多の歌が完成したのだ。

五所川原市の祭りごとは8月1日~8日までとあるが、観光地でもなく特に楽しい行事もない。ただ季節だけがはっきりと移り変わっていく、そんな街であった。 青森の短い夏に青森ねぶた、弘前ねぷたと並んで五所川原の立佞武多。吉幾三氏が立武多運行の初日と最終日に自身の作った「立佞武多」の歌を歌いなから参加するようになってからは、その噂は徐々に全国に広まり現在では吉幾三氏の出演が観客の動員数に大きく関わるようになった。夏になると五所川原市のあちこちから「立佞武多」の曲が聞こえてくる。やはりこの祭りには、吉幾三が欠かせない存在であるのだと感じる。

吉幾三ミュージアム 館長 半田秀美

立佞武多の曲が出来るまで
立佞武多の曲が出来るまで
2024年 吉幾三 立佞武多 熱唱

立佞武多 吉幾三2024年 立佞武多の最終日は吉幾三さんが2019年以来、5年ぶりに立佞武多会場で立佞武多の生歌を披露をしてくださいました。生歌を歌うだけで、これほどの集客力があります。

全国に知られている数少ない青森県出身の有名人目当てにものすごい人集りです。歌い終わっても2~3分はギュウギュウ詰めで動けないほど会場が混んでいました。超望遠レンズで撮ったのでカメラの手持ち映像では多少ブレています。

吉幾三ミュージアムにも事前に寄ったので、立佞武多の歌詞を展示していたのを撮らせていただきました。歌詞の最初に吉幾三さんが上手く歌えていなかったのですが、感動のあまり涙を流していたそうです。その間、お弟子さんの真田ナオキさんと吉永加世子さんが代役で歌いました。

吉幾三 立佞武多
吉幾三 立佞武多

立佞武多 歌詞
立佞武多 歌詞
真田ナオキ 吉幾三 吉永加世子
真田ナオキさん 吉幾三さん 吉永加世子さん

真田ナオキさん 吉幾三さん 吉幾三の立佞武多ハッピ 5年前の立佞武多は吉幾三さんが独唱していたのですが、2024年はお弟子さんを連れての登場です。お弟子さんのお名前すら分からなかったのですが、調べたら真田ナオキさんと吉永加世子さんと判明しました。

最初に五所川原市長の挨拶から始まって前フリが長かったのですが、10分後にやっと立佞武多の歌唱が始まりました。その様子は、明日のブログ記事でYouTubeの映像と共に紹介します。

一番下の写真は吉幾三さんが現れた時の会場の様子ですが、8月5日に立佞武多を見た時よりも3倍近くのヒトで埋まっていました。観客との間にスキマが無く、場所を移動するにもギュウギュウ詰めの状態です。

五所川原立佞武多に吉幾三 登場
五所川原立佞武多に吉幾三 登場
大型立佞武多 暫 近影
大型立佞武多 暫 近影

大型立佞武多 暫吉幾三ミュージアムを堪能してから場所取りを済ませて、お待ちかねの立佞武多会場前にある焼肉牛亭で舌鼓を打って英気を養います。

五所川原駅前に近い県道の交差点が立佞武多会場の起点となります。吉幾三さんが唄われる日は交差点を封鎖して立佞武多が三方に出陣して観光客と吉幾三さんとスタッフを見下ろします。

午前中から吉幾三さんを撮るために場所取りをしている強者もいるので、そう言った方々には適わないです。

すると大型立佞武多が交差点の前に3台も集まりました。18時近いのですが、真夏なのでまだ日が高く立佞武多にも夕陽が当たっています。

この間に3度も撮影場所を変更させられました。仕方がないので、Nikon Coolpix P1000の超望遠レンズで吉幾三さんを撮影します。

大型立佞武多 暫
大型立佞武多 暫

大型立佞武多 素戔嗚尊
大型立佞武多 素戔嗚尊

大型立佞武多 閻魔
大型立佞武多 閻魔

大型立佞武多 曳き手
大型立佞武多 曳き手