立佞武多の曲が出来るまで | スチャラカでスーダラな日々

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故・植木等氏の御冥福に因んでkeiのスーダラな日々を紹介します。故人の映画のようにスイスイと軽妙な人生を送りたいものです☆彡

立佞武多 歌詞
立佞武多 歌詞

立佞武多 吉幾三立佞武多ポスター立佞武多の曲が出来るまで2000年夏
大正時代に途絶えた立佞武多が復活し、祭りとして運行が始まって三年目の夏だった。当時の五所川原市長だった成田守氏は立佞武多運行には歌が必要だと考えていた。そこで以前より吉幾三氏と交流のあった私に依頼が来たのが事の始まりであった。私は早速、市長の思いを吉幾三氏に伝えると快く承諾してくれたのだった。

2000年 8 月
現在の五所川原市本町にある、みちのく銀行の屋上で、私と吉幾三氏は立佞武多を観覧した。ビルの谷間から勇ましく意気盛んな立佞武多の姿が現れ、それを見た瞬間に吉幾三氏は思わずペンを放った。ふと私が覗くとスラスラと詞を書いている。歌詞が降ってくるとはよく聞くが、吉幾三氏はものの数分で書き上げてしまった。その詞は殆どそのまま曲の歌詞になっている。

2001年冬
祭りの雰囲気にあった曲も出来上がり。 歌詞と合わせ、後はレコーディングをして完成と思っていた矢先に私のもとへ五所川原市長から連絡が入った。二番の歌詞にあるいざめる立佞武多、この【いざめる】という言葉が祭りの歌詞にはふさわしくないので、歌詞を変更して欲しいという依頼だった。私はそのことを伝える為に吉幾三氏のいる東京に向かった。 前の晩、私の妻がいざめるに代わる言葉を幾つか提示し、それを持って東京のスタジオに入った吉幾三氏に歌詞のいさめるを替えてもらえないだろうか。

この言葉は人を殺める、ざらしめる、いじめるという意味だから祭りには使って欲しくないという市長の意向を伝えた。これを開いた吉幾三氏は大きな声で怒った。その瞬間、空気が張りつめたのを今でも覚えている。この詞は吉幾三氏自身が立佞武多の由来を元に考えたもの。スタジオにはスタッフや関係者が10名ほどいたが、誰もが沈黙のまま30分という時間が過ぎて行った。私の顔からは滝のような汗が流れていった。スタジオ代も時が過ぎるごとに増して行く。最初に口を開いたのは吉幾三氏だった。

私に「じゃあ半ちゃんどんな言葉がいいのかね!」と私は昨夏か考えた項目から勇壮壮大立佞武多が良いと思うのですが」と答えた。「勇壮も壮大も同じだろう。歌いにくいんだよな…」と吉幾三氏 歌ってみるか、やっぱり駄目だ。吉幾三氏を何とか説得しようと私自身の思いを伝えた。

「でも吉さん。 吉さんが書いた歌詞は立佞武多がある限り一生歌い継がれる。その詞(いざめる)が吉さんの書いた歌詞であることは一生残る。もう一度考えてみてはくれませんか。」とそれを聞いた吉幾三氏も「よし、分かった。」と納得し歌詞を変更してレコーディングを行うことにディレクターからのOKサインも出て、 ようやく立佞武多の歌が完成したのだ。

五所川原市の祭りごとは8月1日~8日までとあるが、観光地でもなく特に楽しい行事もない。ただ季節だけがはっきりと移り変わっていく、そんな街であった。 青森の短い夏に青森ねぶた、弘前ねぷたと並んで五所川原の立佞武多。吉幾三氏が立武多運行の初日と最終日に自身の作った「立佞武多」の歌を歌いなから参加するようになってからは、その噂は徐々に全国に広まり現在では吉幾三氏の出演が観客の動員数に大きく関わるようになった。夏になると五所川原市のあちこちから「立佞武多」の曲が聞こえてくる。やはりこの祭りには、吉幾三が欠かせない存在であるのだと感じる。

吉幾三ミュージアム 館長 半田秀美

立佞武多の曲が出来るまで
立佞武多の曲が出来るまで