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あなたの心と魂を励ます[ちゃぷれんろごす]

メンタルケア心理士®・上級心理カウンセラーな県内初のチャプレンによる心と魂を励ますブログ

こんにちは、なぎさです。

 

 

去年の私の手帳にババっと走り書きしたのですが、

 

 

 

がん患者さんに多い精神疾患は

  1. 適応障害(32%)
  2. うつ病(6%)
  3. せん妄(4%)

 

緩和ケア病棟で多い精神疾患は

  1. せん妄(28%)
  2. 適応障害(8%)
  3. うつ病(3%)

 

とあります。

この%はどこから来たのか…参照元がメモしていなかったので申し訳ないです。

 

ということで、今回はがん患者さんと適応障害、これとどう付き合っていくのかという話です。

 

 

 

 

適応障害はザックリ説明しますと、ある特定の原因によってストレス過多になって、それに適応できず、日常生活に支障がでている状態です。

例えば気分の落ち込みや不安感、眠りづらくなった、イライラする、なんだかよくわからない焦る気持ちがある…などが現れて、普段通りの生活がしづらくなります。

 

治療方法としては【まずはストレスの原因になっている問題を取り除くこと】です。

取り除くことによって出ていた諸々の状態が急速に緩和します。

これは私たちでも出来そうなこともありますね!

 

 

私も経験がありますが例えば職場の人間関係で、〇〇さんにひどく高圧的な態度を取られる、侮辱される、除け者にされる…これらからくるストレスによって適応障害を起こす場合があります。

私は裏で看護師が患者さんを呼び捨てにして侮辱しながらクスクス笑っていたことや、無視されたり嘲笑されることに適応できませんでした。

 

普段私はがん患者さんと接しているのでこの側面から見た私の意見ですが、がん患者さんに多い適応障害はなぜ起きるのか?といえば、言わずもがな、がんに関連する諸問題かと思います。

 

例えばがんであることを告げられたストレス。

 

早期発見であればあまり適応障害を起こさないかもしれませんが、金銭的余裕がなく治療を受けるのに躊躇せざるを得ない場合など、放置していていいのか治療したほうがいいのか、治療したいけどする余裕がないなどのストレスに曝されます。

また治療をすることに家族がよい顔をしないケースもあります。

そうなると治療と自分の命を天秤にかけることになり、ひどいストレスとなります。

 

また余命告知を受けたというストレスも考えれます。

唐突に突き付けられた自分の人生の期限を、人はそう易々と受け止められません。

これだけでも強いストレスですが、さらに、これからどうするのか?どうなるのか?どうすればいいのか?を考えなければならない現実もあります。

 

 

さて、適応障害の治療法はストレス因(ストレッサー)を取り除くことでしたね。

過去の私のように職場の人間関係に適応できず適応障害になってしまった時、

 

ストレッサーを取り除く

  → 職場の人間関係と距離を置く、自分から切り離すことが必要

    → もうここに居続ける必要はない。や~めた!

 

で退職したところ、本当にあっという間に精神状態が安定しました。

 

では、がん患者さんの適応障害のストレッサーの引き離しとは何でしょうか?

病気の根治ですね。

確かに治ってしまえばストレッサーとさようならできます。

 

ですが、根治を望めない場合はどう引き離せばいいでしょうか?

 

 

 

私はとても難しいと思うのです。

 

手術で取り除いたり、抗がん剤や放射線照射でがん細胞を直接叩いたりしますが(標準治療といいます)、治療中も嫌でもがんと付き合って生きて行かねばなりません。

また再発が絶対にないなら治療終了でホッとできますが、実際は再発の可能性を考慮し定期的に数年間の経過観察をしなければなりません。

自分を肉体的に苦しめているがんによって精神的にも苦しめられている。この憎き対象はこの体の中にいる。コレからそう簡単には離れられないのです。

 

では、このようにストレッサーの切り離しが難しい場合どうすればいいのでしょう。

対症療法と、認知の変容、行動の変容が必要になってくるでしょう。

 

眠れない時は眠りやすくするお薬や眠りを持続させるお薬を処方してもらう。

気分の落ち込み、抑うつ気分によって生活に支障がでているのであれば抗うつ剤などで落ち込む気持ちを少しUPすることもあります。

ではこのお薬だけでがんに関わる諸問題は解決するでしょうか?しませんね。

がんはやっぱりまだ体の中にいるのです。

 

では認知(物事の受け取り方)を変えてみましょう…という場合、前提として「認知の歪みがある」というのがあります。※認知の歪みはそのうち記事で書きますね!

極端に言えば、人から「頑張ってるね」と言われて「ありがとう」「そうかなー、ヘヘ(n*´ω`*n)」でなく、「なにそれ嫌味?」「バカにしてんの?」「頑張ってないってホントは言いたいわけ?」と受け取るようなもの。

受け取り方おかしいでしょそれ…というものですね。

本人にとっては普通の受け取り方ですが、冷静に客観的に考えると、ズレた考え方や偏った考え方になっているものです。

 

 

 

がんだと分かりました。stageはⅣだった。肝臓、肺、リンパ節、脳など転移している…と突き付けられた現実が大きい時、

「私、死んじゃうの…?」

「どうしよう」

「やだ、まだ生きてたいのに…」

など苦しんでいる方の認知は歪んでいるのでしょうか。

私は歪んでいないと思うのです。

 

患者さんのその状況で、その環境で、突然のこの状態で、その認知になるのは当然ではないかと思うのです。

 

この状態で認知を変容しましょう、というのは少し違うのではないかと思います。

それよりも、そう認知していることをこちらが受容し共感することで患者さんは楽になるのでは?と。

 

しかし「私が昔門限も守らず遊んでたからバチが当たった」とか「定期検診してたけどそれだけじゃ足りなかった、もっと検診受けるべきだった」というのは認知が少し歪んでいます。

そこは「罰として病気になるのではないですよ」「検診と検診の間に進行することもあるんですよ」などの正しい情報の伝達によって認知の修正はされる必要があります。

 

 

では行動の変容を促しますか?

私はこれこそ避けたい。

 

既に患者さんは日々の生活で精いっぱいです。

ストレッサーを切り離せない状況で日常生活を送りつつ、倦怠感や疲労感、食欲不振、味覚障害、悪心(吐き気)、嘔吐、便秘、下痢など身体症状に苦しんでおられる方もいます。しかもこれらの症状が出ているけど家事をしなければならないと無理をしている方もおられます。

(休ませてあげてほしいです…本当に…)

1時間立っているのが辛かったり、横になっているだけでもシンドイ方だっておられる。

腹水や胸水で苦しくなる方もおられるのが現状です。

 

そんなストレスだらけの状態の患者さんに「こう行動してみましょう!」は酷です。

これ以上の負担をかける必要はないと思います。

 

ですから、指示的な心理療法はこのような患者さんには不向きですと私は言いたいです。

「この本を読んで来てください」とか「ストレスを感じる事に対してあなたがどう思ったかを紙に記録してきてください」とか「この用紙に回答してください」などの【宿題】は負担が大きいのです。

 

ただ、たまーに私の扱う実存的領域(スピリチュアル)ではなく、前世や守護霊やパワースポットやナントカカラーとかのスピリチュアルに傾倒される方もおられます。

この〇〇があるから病気が治るはずだから普通の治療は受けなくてもいいと思っているとか、実際に標準治療なんて絶対に嫌だ、〇〇をかざしたら治るって~~の△△先生が言ってた!みたいなことがあります…。

そういう方の場合、それによってQOL(生活の質)が維持できるのなら良いのですが、傾倒しすぎて妄信的になっている場合には行動の変容ができるようにもっていくことはあります。

 

 

ではでは、じゃあ何もせずに眠剤とかだけちょっとあればそれでいいのでしょうか。

あとはがんの治療頑張ってね、だけでいいのでしょうか。

何か困ったら緩和ケアの先生に相談してね、それで何か薬もらってね、でいいのでしょうか。

 

私は違うと思います。

患者さんが思いを全部吐き出せる場所が必要だと思います。

 

家では病気による痛い、苦しい、つらい、悲しいと言い出しづらい現実があります。

家族だから言えばいいと思う方もおられますが、実際に家族が病気になって「ごめんね、だるいから寝てるね」と言われたら「え?ごはんどうするの?」「誰が子供の世話するの?」とイラッとする人もいますし、「痛いとかだるいとか、そんな事言われても私には何もしてあげられないから、どうもしようがない」と気分が悪くなる人もいます。

この先のことや、体調を崩して入院することになったらどうするかとか、死について話をしようとしても「滅多なことを言わないで」「そんなこと言わずに!頑張って治療しないと!」「そういう話やめて…つらくなるから」と聞いてもらえない場合もあります。

 

このような、心の奥底にあるモヤモヤしたシンドイ気持ちを全部吐き出してもよい場所、全部聴いてくれる場所・人が必要なのです。

何度も同じことを繰り返し言っても「さっきも聞きました」と言わずに毎回聴いてくれる人が必要なのです。

 

 

 

私はフォーカシングという心理療法を一部改変して対話に適用しています。

「つらい」という思いに「何がつらいですか?」「何故つらいのですか?」と直接的に問わず、対話を通して患者さんから発せられたキーワードになる言葉から「今お話してくださった〇〇があなたがつらくなる理由のひとつですか?」のように尋ねます。

「つらい」の他の表現方法「さみしい」「せつない」なども対話の中から見つけていき、最終的に患者さんが「つらい」「苦しい」と思っているモノは何なのか、「私は〇〇が~~と感じるのか」と気付いていただけるようにもっていって、”ではこれから生きるためにその〇〇とどう向き合っていくか”を一緒に考えます。

 

ですから肉体的な負担はありません。

私はとにかく自然にこの流れを作るよう努力していますので、患者さんはお気持ちを全部吐き出せて「スッキリできた!」「モヤモヤしてたのがなんだかちょっとわかった!」になっていただけるのではないかと思います。私と話をしてなんだか楽になると言っていただけるのですが、これをしているからです。

 

具体的にご自身が何をどう苦しいと感じておられるのか、こう思ってたけど実はこうだったのかと気付く。

以前も書きましたが、「死ぬのが怖い」とご自身では思っていたのですが対話を通して「我が子と離れるのが淋しくて仕方がない」という感情だったと気付くようにです。「死そのものではなく、死によって自分が完全消滅すると思っているその消滅が怖い」と具体的に気付くような感じです。

このように具体的に”何か”がわかることによって、今、自分が何をしたいのか、何を優先させたいのかが明確になります。

 

確かに病気であること、これからのことには患者さんは闘病中ですから未だ適応できていません。

ですが、病状に無理をせず地に足を付けて生きられます。

 

 

 

そしてチャプレンとしては、何かに縋りたいという気持ちがおありでしたら、ぜひ超越者(神仏)に縋っていただければと思います。

薬に縋ると、その薬が効かなくなった時や副作用が出て中断せざるを得ない時に「もうダメだ」と絶望してしまいます。

先生に縋ると、積極的治療をしない判断がなされた時に「見捨てられた」と絶望してしまいます。

※頼ると縋るは違いますよ。

私たち人間は勝手に相手や物に期待して、勝手に高い要求をして、自分の理想にかなわない反応を示されると、自分勝手に絶望してしまうのです。

 

神様の場合、絶対的に裏切る事もありませんし見捨てることもありませんから、”藁をも掴む”心理的な危機的状況の時こそ、藁でなく命綱である神様を握りしめていてほしいなと思います。

 

 

ちなみに、職場外でカウンセリングもしていますが、この場合お引き受けする相談は主に職場や夫婦の人間関係です。この時はフォーカシングではなく交流分析や認知行動療法をチョイスしてクライアントさんの相談をお聴きしています。

こんにちは、なぎさです。

 

今回は「正しい人は誰一人としていないと聖書に書いてあるけど、それってホント?」というお話です。

 

新約聖書の「ローマ人への手紙」にこうあります。

 

では、どうなのでしょう。私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。

次のように書いてあるとおりです。

「義人はいない。一人もいない。

悟る者はいない。

神を求める者はいない。

すべての者が離れて行き、

だれもかれも無用の者となった。

善を行う者はいない。

だれ一人いない。」

─ローマ3:9-12

 

新約聖書でいきなり「次のように書いてある」と出てきましたが、これは何かを参照している表現ですね。

何かと言いますと、旧約聖書の「詩編」にある詩を参照しています。

 

愚か者は心の中で「神はいない」と言う。

彼らは腐っていて 忌まわしいことを言う。

善を行う者はいない。

主は天から人の子らを見下ろされた。

悟る者 神を求める者がいるかどうかと。

すべての者が離れていき

だれもかれも無用の者となった。

善を行う者はいない。

だれ一人いない。

─詩編14:1-3

 

愚か者は心の中で「神はいない」と言う。

彼らは腐っていて 忌まわしいことを言う。

善を行う者はいない。

主は天から人の子らを見下ろされた。

悟る者 神を求める者がいるかどうかと。

彼らはことごとく背き去り

だれもかれも無用の者となった。

善を行う者はいない。

だれ一人いない。

─詩編53:1-3

 

1行違うだけでほかは同じですね。

 

 

さてこの「義人はいない」は以前の翻訳では「正しい人はいない」になっていました。

 

この「正しい人はいない」という言葉に対し、こう反論できます。

 

正しい人いるじゃん!!

(↑実際にこういう反論がありました)

 

 

まず、この「正しい」って何基準なのか?というところを考える必要があります。

 

正しい人いるじゃん!という反論が成立するための「正しい」の基準は何でしょうか。

 

社会的な正しさ。

真面目で誠実で、一生懸命で、素直で、実直で、純粋で…。

 

確かに「正しい」人ですね。

しかしこの基準はあくまでも人間が基準になっています。

 

聖書で書かれている事の基準は常に神様基準になっています。

人間がどうなのか、社会的にどうなのか、政治的にどうなのか、立場的にどうなのか、…ここは関係なく基本的に「神にとってどうか」です。

 

ですからこの場合の「正しい」も、人間社会を基準にせずに「神様にとっての正しさ」が基準になります。

 

産まれてから一度たりとも嘘をついたことがない、誤魔化したこともない、常に神様を中心に考え、神様が示す「善」を遂行する者。

 

これが神様のいう「正しい人」です。

赤ちゃんですらわざと泣いてみたりするんです。0歳ですでに、です。

人生の最初から最後まで神基準で正しく生きるって、とんでもなく難しいんです。

 

では、神様が示す「善」…やるべき事ってなんだろう?

この言葉は詩編を参照されていますので、詩編の時代にさかのぼって考えましょう。

 

詩編の著者は、ダビデ像で有名なあのダビデの息子であり、イスラエル国の全盛期の王様であるソロモンです。

ソロモンが降って湧いたような良策でこの言葉を残したのではなく、その基礎にはここからさらにずーっと遡って、海を割ったあのモーセの時代にまで行きます。

 

モーセは神様から「十戒」と呼ばれる 守るべき戒め をもらいました。

 

  1. あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。
  2. あなたは自分のために偶像を作ってはならない。
  3. あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。
  4. 安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。
  5. あなたの父と母を敬え。
  6. 殺してはならない。
  7. 姦淫してはならない。
  8. 盗んではならない。
  9. あなたの隣人について、偽りの証言をしてあならない。
  10. あなたの隣人の家を欲してはならない。

─ 出エジプト20:3-17より抜粋

 

これをすべて守れる人が「正しい人」です。

 

 

 

…守れないんですよ、これ。

守るために細かい規定まで設けて紀元前からこれまでユダヤ教の皆さんは必死にこれを守ろうとしていますが、守れないのです。

人間にはこれが守れません。

 

前半は神様についてのお約束事、後半は人間社会で生きていくためのお約束事なのですが、前半もさることながら、10項目目の「いいなーうらやましいな~、それ欲しい」って消せますか。

いくら素晴らしい両親でも、状況によってはいつでも必ず敬い続けられますか。

これら一つでもできなかったら、全部できない認定されるのです。

 

まさに1か0かの世界。

10個のうち、10個完璧にできていないと「正しい人ではない」のです。

 

 

ですから神様基準で考えると、確かに「正しい人はいない。だれ一人いない。」なのです。

 

 

 

「じゃぁどうすんだ」と言えば、だから神様に「できないよーどうしよう、どうすればいい?」と愚痴るのです。

この愚痴は神様には祈りとして聞こえています。

 

 

 

 

聖書に書いてあることは字面だけで読むと全然意味が違ってしまいます。

誰が、誰に、何の目的で、何を基準に、どういう意図で書いているのか。

ここを抜いて、単純に実生活にだけ適用しようとすると、「~しなさい」「~しなければならない」という極端な強制力を持つメンドクサイ物になります。

 

こんにちは、なぎさです。

 

今回は、神学の本筋に戻ったようでちょっと脇道にそれた内容です。

 

ネフィリム(Nephilim)というものが旧約聖書で登場します。

このネフィリムってなんだろう?というお話です。

 

 

 

とてもざっくりと説明しますと、創世記にこうあります。

 

神の子らが人の娘たちのところに入り、彼らに子ができたそのころ、またその後も、ネフィリムが地にいた。彼らは昔からの融資であり、名のある者たちであった。

─創世記6:4

 

「神の子ら」と呼ばれる何者かが「人の娘たち」と関係を持って子をなしたということ。神の子と人の娘の間に生まれた者、それがネフィリムと言われているということになります。

 

聖書中で「入った」「知った」は肉体関係を指す場合もあるのです。

 

「人」の娘たちと敢えて「人」と使っているので、対照的に「神の子」と表現されているのでしょう。

人の娘はごく普通に人間の女性だと考えられます。

では神の子とは誰でしょうか。

 

聖書にはその答えは書いてありません。

なぜ書いていないのか、理由はいくつか考えられます。

 

まず、本当にわからない

わからないものは書きようがありませんね。

 

次に書く必要がない

聖書は神の神たることを一貫して書いてるものなので、ネフィリムの詳細は本筋から逸れるため書いていないと考えることもできます。

徳川家康の功績が載っている本に家臣の誰々について出自などを詳細に載せる必要がないのと同じです。

 

または、みんな知っていて当然の知識だから敢えて書かないというのも考えられます。

聖書中このように「読者にとっては常識だから書いていない」というのが多々あります。

例えば天使とはそもそもなんだ?ガブリエルって固有名詞の天使が突然登場しますが、彼はなんなのか?ダゴンというどこかの神らしきものが登場しますが、ダゴンって?アシュタロテって?という具合に、当時のその場所の人々なら知っていて当然の事は書いていないのです。

私たちは地域も違えば国や風習も違うのでまったくこれが分からず困ってしまうのですけど、異国民に知らせる目的で最初から書かれていませんから、分からなくて当然ですね。

 

 

 

 

前置きはこのくらいにして、ここでは「悪魔と悪魔学の事典」からネフィリムを見てみましょう。

 

 

天使と人間の女性との共棲(グリゴリ(※1)参照)によって生まれた巨人の一種。ネフィリムとは「堕ちた」、「堕ちた者」、または「投げ捨てられた者」の意味を持つ。時に、天使の親と同様ネフィリムも神の子らと呼ばれることがある。ネフィリムの長はヘレルである。彼らは神の不興を買った。

創世記6章4節には、神の子らが人間の女性と関係を持ったとき、ネフィリムがすでにこの世に存在していたことを示す次のような記述がある。「当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった」。このように天使と人間との交わりがもたらした堕落を見て、神はこの世に人間を創造したことを後悔(※2)した。神は人類のみならず、この世のあらゆる生物を一掃することを決意した。神はノアとその妻だけ(※3)をこの災難、すなわち大洪水から逃れさせ、新たな人類の祖とした。

ところが、すべてのネフィリムが死に絶えたわけではなかった。後の民数記の言及には、アナキム人、すなわちネフィリムの息子たちに関して次のような記述がある。「そこで我々が見たのは、ネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出なのだ。我々は、自分がイナゴのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない」(13章33節)。アナキム人は後に撃退される。

『第一エノク書』には、ネフィリムの巨大さにちて次のように詳しく描写した一節がある。

 

そして女たちは子を宿し、身の丈が3,000キュビト(※4)もある巨人を生んだ。これら(巨人)は人々の産物をことごとく食い荒らし、やがて人間か彼らに食物を与えるのを嫌がるようになった。すると巨人はこれ(人間)に襲いかかり、食い物にしようとした。そして彼らは鳥や野獣、爬虫類や魚を殺生するようになった。やがて彼らは互いの肉を共食いし、その血を飲んだ。やがて世界がこの迫害者に非難を浴びせた。(7章3-7節)

 

いっぽう、グリゴリは人間に、知ることを許されていない秘儀や魔術を教えこんでさらなる堕落を広めていた。天上からは、大天使ミカエル、ガブリエル、そしてスラファルがこの地上の惨劇と迫害を恐怖の目で眺めていた。彼らは巨人たちが地上に流血と迫害をもたらしていることを神に伝え、これを止めるよう嘆願した。神は地上に洪水をおこし、これらの破壊行為を罰することを宣言した神はガブリエルに対し、次のように言った。

 

人でなしどもや堕落した物、姦淫によって生まれた子供たちを処罰せよ。そしてその子らを破滅させ、グリゴリの子供たちを人々から隔離し、互いに闘わせよ。(そうすれば)彼らは数日のうちに戦いの中で破滅するであろう。彼らは何時にあらゆることを請い願うであろう──みずからの代わりに父親の命乞いをするであろう。なぜなら、彼らは永遠に生きることを望んでいるからだ。(彼らは)500年も生き続けることを願っているのだ。(10章9-11節)

 

ネフィリムはまた、「巨人の書」(4Q532)と呼ばれる死海文書の本文中(※5)でも言及されている。ネフィリムであるセムヤザ(グリゴリの長)のふたりの息子、アーヤとオーヤはとある庭園を訪れ、200本もの木々が天使たちによって切り倒されるという同じ夢を見た。ふたりは夢の意味がわからず、ネフィリムの評議会でその話をした。評議会は評議員のひとりであるハマワイを指名し、楽園にいるエノクに夢の意味を訊ねるよう命じた。マハワイは旋風のごとく宙に浮き、両手を羽ばたかせて鷲のように空を飛び、エノクの元にたどり着いた。エノクは、200本の木は来るべき大洪水で破滅させられる200のグリゴリの象徴である、と語った。

この死海文書では、マハワイはその後再び鳥に変身してさらなる旅に出たと記されている。彼は太陽にあまりに近づきすぎ、もう少しで灰になるところだった。だが天からエノクの声が聞こえ、死に急ぐでない、引き返せと呼びかけたために命拾いをした。

 

※1 天にいる人間の見張り役の天使たち総勢200体。シェミハザが代表する総勢200体は堕天したといわれているが、グリゴリという見張り役自体は存続している?堕天していないともいわれている。

※2 神学的には神は後悔するような方ではないため、ここは残念に思ったと解釈される。

※3 聖書的にはノアと妻、娘たち、つがいの各種動物たちも含まれる。

※4 1キュビト=約0.46m、3,000キュビト=1,350~1,380m

※5 クムラン第4洞窟から発見された死海文書のひとつ。

 

 

 

面白いですね!!爆  笑

 

ギリシャ・ローマ時代を超えても生き残ったユダヤに残されている文書で、このように受け継がれた話があるのですね。

 

エチオピア正教会では旧約聖書の1巻になっているとのことですが、現在のキリスト教ではこれを伝承していませんのでこの情報を知らないわけです。

しかし、上にも書きましたが「読者は知ってて当たり前の常識」としてこれがあるとしたら…。

 

私たちはこのように、ユダヤ文書や、初期キリスト教徒たちが愛読していたが現キリスト教が偽典・外典としている文書、教父文書などを読むと、当時の見えていた世界を少し垣間見れるのです。

 

もちろん、引用文はキリスト教教理や聖書とは描写が違う箇所もありますが、大筋で同じです。

 

 

まとめるとこうなります。

 

アダムとイブ(エバ)がエデンの園を出てから、天において人間たちを見張る役をしているグリゴリと呼ばれる大勢の天使たち。

彼らが地上を見ていると、見目麗しい人間の女性たちがいる。

グリゴリは天使ですから結婚をする必要もないのですが、人間のところに降りて関係を結んでしまった。

天使はとても巨大なので、その子ネフィリムたちも巨人となった。

暴虐の限りを尽くすネフィリムたちを大天使たちが見て、神に進言。

あまりの惨状にノア一家と動物たちを残し、神は大洪水を起こされた。

 

このような見方もできるのですね。

こういうのは実に面白いです。

 

 

 

 

 

「進撃の巨人」でネフィリムを知った人もおられるかもしれません。

または「青の祓魔師」でシェミハザやグリゴリ、ネフィリムは出てきます。

ネフィリムはユダヤの伝承に出てくる巨人なんですね!

 

 

こんにちは、なぎさです。

 

今回は、私のオフなブログに書いていた記事をこちらでも紹介したいと思います。

 

 

”あなたがたのところにいたとき、働きたくない者は食べるな、と私たちは命じました。
ところが、あなたがたの中には、怠惰な歩みをしてる人たち、何も仕事をせずにおせっかいばかり焼いている人たちがいると聞いています。
そのような人たちに、主イエス・キリストによって命じ、勧めます。落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。
(第2テサロニケ2:10〜12)”


新約聖書のこの箇所では、働かざるもの食うべからずな言葉が出てきました。
さてさてどういう意味でしょう。

たまに、「働かずに食う飯は美味いか?ん?ムカムカ」と聞きますが、これとは意味合いが違うのです。


「食うなら働け」という意味であれば、労働をして報酬を得ていない奴は食うなになります。
闘病中の人や主婦・主夫、学生などは餓死しろということになってしまいます。

世の中はお金を得るだけが「働き」ではないです。
聖書ではこちらの意味合いで使われていると私は思います。

専業主婦・主夫であれば家事全般をします。

たしかに報酬としてお金を月々もらうことはないですが、家事は立派な働きです。これが家族を支えます。


学生であれば、通学であれ通信であれ学習をするという働きです。
これは今ではなく将来において、自分や家族を支えていくことになります。


病気で仕事ができない人であれば、病気を回復させる・治療を受けるというのが働きです。
これは学生と同じく、将来的に自分も家族も周囲も支えていくことになるでしょう。


もちろん、生活していくにはお金は必要なのですけどね。


ここでいう「落ち着いて仕事をし」は、自分の領分を超えず、今与えられているこなすべき働きをしましょう、という事と私は受け取りました。


そして、その働きによって得た「ありがとう」などの言葉を素直に受け取ろう。
みことばの理解を得られたらそれを受け取ろう。
これが「自分で得たパン」ではないかしらと思うのです。

「働かない者は食べるな」ではなく「働けない者は食べるな」でもなく、「働きたくない者は食べるな」なのにも注目です。
できる状態にあるのに、できることが明らかなのに、それをやりたくないからやらない人は、です。



けない時は充電期間です。
働けるのに働きたくない者にならないように、なりたいものです。

こんにちは、なぎさです。

 

今回は神学的なお話と終末期の患者さんの気持ちに関する、私の見解のお話。

 

 

 

「死が差し迫った時、神様に祈るか祈らないかで救われるかどうかがわかれる。」

 

こういうのを目にして、私は疑問を持ちました。

 

死が差し迫った時、何を祈るのかは書かれていませんでしたが、これを推測ですが「自分の死を遠ざけてください」と祈るか祈らないかで「救い」に差が出ると仮定して話を進めていきます。

 

まず「救い」とはなんだ?というところからですが、これは以前、記事にしていますので 「そもそも救いってなんだ!?」 をご覧いただければと思います。

 
 

 

 

人は死が差し迫った時、ただ「死を遠ざけてほしい」とだけ祈るのでしょうか。

 

私は「こんなに苦しいから、もう死なせて」を聞いたことがあります。

ですので、「死を遠ざけてください」と祈るか祈らないかの二極ではないのが、これだけでもわかります。

 

自分が死なないようにしてくれと祈る人は救われて、そう祈らない人は救われないという極端なものだけでなく、息を引く事自体を神様に委ねる人もいれば、私が耳にしたことがある言葉にもあるように、苦痛から解放してほしくて死を願う場合もあります。

 

このような「もう死なせてほしい」と口にした方には何人かお会いしました。

ですから、二極ではなくこのテーマはスペクトラムに、幅広く0か1ではなく2の人も6の人もいるという考え方が必要だと私は思います。

 

 

 

未信者の死の間際にこう言う牧師がいます。

 

「今すぐ、イエス様を信じるって言いなさい!とにかく言えばいいから、言いなさい!」

 

私は実際にこれを、「こうやって言って”あげた”んだ。」と自慢のように言われたことがあります。

 

私は「宗教としてのキリスト教会の伝統的な教理信条」はもちろん神学校で学んでいますがこの行動がキリスト教の教理からして正しいのかどうか、牧師の職務として正当かどうかわかりません。

ですが、患者さんの魂の部分を大切にしたい私の立場から見ると、これは赦し難い行為です。

 

「信じていないのに無理やり『イエス様を信じます』と言わないと、私は地獄に堕とされるかもしれない」になってしまうからです。

これは死の間際に患者さんを恐怖をチラつかせて脅迫する行為。

カルト宗教に多くみられる「脱退したら地獄行き」という恐怖で縛る行為ですので、私はこれを心底嫌悪します。

 

私は、当人が心穏やかに最期を過ごして、穏やかに息を引けることが大切だと思うのです。

 

 

しかしここで「イエス様を救い主だととにかく言わせることで、当人が”救われる”んだから、言わせないと!言わせない人は”大宣教命令”を無視する反キリストだ!」となるかもしれません。

 

 

この言葉を砕いて説明すると、聖書にはこのようなことばがあります。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

─ローマ人への手紙10:9-10

ここから、とにかく言わせることが大切だとなるのです。

前半の「信じる」がスッポリ抜けているんですけどね…。

 

そして、

ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、

わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。

─マタイの福音書28:19-20

ここの箇所から、主イエスから命じられた宣教の指示と教理的に解釈します。宣教だけでなく、信仰告白があり、洗礼を受けるように促すというものです。

 

ですから、死の迫る方に「イエス様を私の救い主だと信じますと言わせる」になる。

そしてこの主イエスからの命令に背く者は、反キリストであると、こういう理屈になります。

 

 

ではここで、かの有名なマザーテレサの活動を見てみましょう。

 

 

 

彼女は敬虔なカトリックの方でシスターです。

シスターは自分のすべてを神に捧げている女性で、修道院で暮らしながら祈り、様々な活動をしています。なかなかできない凄い働きのひとつです。

修道院のシスターの中でさらにそのシスターたちを統べるほどに認められた人なので「マザー」と呼ばれています。

 

彼女はインドで「死を待つ人々の家」というホスピスを立ち上げ、そこで、人と扱ってもらえないほどの状況にいる死が近い人々を支え続けました。

これが功績と認められ、彼女は数々の表彰をされています。そして現在、カトリックでは聖人とされています。

 

場所はインドです。

…キリスト教徒だけではありませんよね。

Wikipediaさんによれば、バラモン教、仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教、イスラーム教、シク教、キリスト教、ゾロアスター教、その他ととても多くの信仰が混在しています。

当然「死を待つ人々の家」に運ばれた人々が全員キリスト教ではありません。

 

では死を待つクリスチャンではない人々にどうしたのか。

「〇〇教ではあなたは救われません。主イエスをあなたの救い主だと、信じますと今すぐ告白しなさい」とマザーは迫ったでしょうか。

そして洗礼を受けないと救われないからと、洗礼を授けていたのでしょうか。

 

 

違います。

 

神の話は聞きたくないという人には一切、神について言いませんでした。

 

他宗教の経典を読んであげることもあったと言われていますし、ただただ手を握っていてほしいと言われたらそのように手を握っていました。

彼らは心穏やかに最期の時を過ごせたのです。

 

 

あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、

わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』

 

すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。

─マタイの福音書25:35-36、40

 

あらゆる人に主イエスがおられる。

しかも最も弱っている死が迫る人ほど、そこに主イエスがおられる。

 

マザーはここをとても大切にして活動をしていました。

人に仕えることがイエス様に仕えることになる──マザーと同じように、私もこう認識しています。

 

ですから、その人が穏やかに最期を過ごせることを重要視します。

そこに慰めと心の平安があることが大切だと思うのです。

 

仏教徒の方が無理やり「地獄に行きたくないからイエス様を信じます!」と言わされるのではなく、観音様の救いに寄り縋っているのであれば、そこを大切にしたい。

神仏はどうでもいいけど、とにかく寂しいから息を引くまで手を握ってほしいと言われたら、神様のことは一切言わず私は手を握りたいのです。

心の中で「〇〇さんの魂を、主よどうぞ、あなたの御元で匿い、癒してください」と祈りつつ。

 

「イエス様を救い主だととにかく言わせることで、当人が”救われる”んだから、言わせないと!言わせない人は大宣教命令を無視する反キリストだ!」と言う人は、このマザーの働きは赦せないかもしれません。

 

これで、私が反キリストだと罵られてもかまいません。

お前はキリスト教徒ではないと言われてもまったくかまいません。

 

ですから、私の対話ではキリスト教を信じるようにと迫ることは絶対にありません。

必要な場合にイエス様による”救い”は説明しても、迫ることはしません。情報の共有のみです。

 

 

私は脅してまで信仰告白を迫るのではなく、マザーに倣いたいと思っています。