こんにちは、なぎさです。
今回は、私のオフなブログに書いていた記事をこちらでも紹介したいと思います。
”あなたがたのところにいたとき、働きたくない者は食べるな、と私たちは命じました。
ところが、あなたがたの中には、怠惰な歩みをしてる人たち、何も仕事をせずにおせっかいばかり焼いている人たちがいると聞いています。
そのような人たちに、主イエス・キリストによって命じ、勧めます。落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。
(第2テサロニケ2:10〜12)”
新約聖書のこの箇所では、働かざるもの食うべからずな言葉が出てきました。
さてさてどういう意味でしょう。
たまに、「働かずに食う飯は美味いか?ん?」と聞きますが、これとは意味合いが違うのです。
「食うなら働け」という意味であれば、労働をして報酬を得ていない奴は食うなになります。
闘病中の人や主婦・主夫、学生などは餓死しろということになってしまいます。
世の中はお金を得るだけが「働き」ではないです。
聖書ではこちらの意味合いで使われていると私は思います。
専業主婦・主夫であれば家事全般をします。
たしかに報酬としてお金を月々もらうことはないですが、家事は立派な働きです。これが家族を支えます。
学生であれば、通学であれ通信であれ学習をするという働きです。
これは今ではなく将来において、自分や家族を支えていくことになります。
病気で仕事ができない人であれば、病気を回復させる・治療を受けるというのが働きです。
これは学生と同じく、将来的に自分も家族も周囲も支えていくことになるでしょう。
もちろん、生活していくにはお金は必要なのですけどね。
ここでいう「落ち着いて仕事をし」は、自分の領分を超えず、今与えられているこなすべき働きをしましょう、という事と私は受け取りました。
そして、その働きによって得た「ありがとう」などの言葉を素直に受け取ろう。
みことばの理解を得られたらそれを受け取ろう。
これが「自分で得たパン」ではないかしらと思うのです。
「働かない者は食べるな」ではなく「働けない者は食べるな」でもなく、「働きたくない者は食べるな」なのにも注目です。
できる状態にあるのに、できることが明らかなのに、それをやりたくないからやらない人は、です。
働けない時は充電期間です。
働けるのに働きたくない者にならないように、なりたいものです。