こんにちは、なぎさです。
今回は神学的なお話と終末期の患者さんの気持ちに関する、私の見解のお話。
「死が差し迫った時、神様に祈るか祈らないかで救われるかどうかがわかれる。」
こういうのを目にして、私は疑問を持ちました。
死が差し迫った時、何を祈るのかは書かれていませんでしたが、これを推測ですが「自分の死を遠ざけてください」と祈るか祈らないかで「救い」に差が出ると仮定して話を進めていきます。
まず「救い」とはなんだ?というところからですが、これは以前、記事にしていますので 「そもそも救いってなんだ!?」 をご覧いただければと思います。
人は死が差し迫った時、ただ「死を遠ざけてほしい」とだけ祈るのでしょうか。
私は「こんなに苦しいから、もう死なせて」を聞いたことがあります。
ですので、「死を遠ざけてください」と祈るか祈らないかの二極ではないのが、これだけでもわかります。
自分が死なないようにしてくれと祈る人は救われて、そう祈らない人は救われないという極端なものだけでなく、息を引く事自体を神様に委ねる人もいれば、私が耳にしたことがある言葉にもあるように、苦痛から解放してほしくて死を願う場合もあります。
このような「もう死なせてほしい」と口にした方には何人かお会いしました。
ですから、二極ではなくこのテーマはスペクトラムに、幅広く0か1ではなく2の人も6の人もいるという考え方が必要だと私は思います。
未信者の死の間際にこう言う牧師がいます。
「今すぐ、イエス様を信じるって言いなさい!とにかく言えばいいから、言いなさい!」
私は実際にこれを、「こうやって言って”あげた”んだ。」と自慢のように言われたことがあります。
私は「宗教としてのキリスト教会の伝統的な教理信条」はもちろん神学校で学んでいますがこの行動がキリスト教の教理からして正しいのかどうか、牧師の職務として正当かどうかわかりません。
ですが、患者さんの魂の部分を大切にしたい私の立場から見ると、これは赦し難い行為です。
「信じていないのに無理やり『イエス様を信じます』と言わないと、私は地獄に堕とされるかもしれない」になってしまうからです。
これは死の間際に患者さんを恐怖をチラつかせて脅迫する行為。
カルト宗教に多くみられる「脱退したら地獄行き」という恐怖で縛る行為ですので、私はこれを心底嫌悪します。
私は、当人が心穏やかに最期を過ごして、穏やかに息を引けることが大切だと思うのです。
しかしここで「イエス様を救い主だととにかく言わせることで、当人が”救われる”んだから、言わせないと!言わせない人は”大宣教命令”を無視する反キリストだ!」となるかもしれません。
この言葉を砕いて説明すると、聖書にはこのようなことばがあります。
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
─ローマ人への手紙10:9-10
ここから、とにかく言わせることが大切だとなるのです。
前半の「信じる」がスッポリ抜けているんですけどね…。
そして、
ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。
─マタイの福音書28:19-20
ここの箇所から、主イエスから命じられた宣教の指示と教理的に解釈します。宣教だけでなく、信仰告白があり、洗礼を受けるように促すというものです。
ですから、死の迫る方に「イエス様を私の救い主だと信じますと言わせる」になる。
そしてこの主イエスからの命令に背く者は、反キリストであると、こういう理屈になります。
ではここで、かの有名なマザーテレサの活動を見てみましょう。
彼女は敬虔なカトリックの方でシスターです。
シスターは自分のすべてを神に捧げている女性で、修道院で暮らしながら祈り、様々な活動をしています。なかなかできない凄い働きのひとつです。
修道院のシスターの中でさらにそのシスターたちを統べるほどに認められた人なので「マザー」と呼ばれています。
彼女はインドで「死を待つ人々の家」というホスピスを立ち上げ、そこで、人と扱ってもらえないほどの状況にいる死が近い人々を支え続けました。
これが功績と認められ、彼女は数々の表彰をされています。そして現在、カトリックでは聖人とされています。
場所はインドです。
…キリスト教徒だけではありませんよね。
Wikipediaさんによれば、バラモン教、仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教、イスラーム教、シク教、キリスト教、ゾロアスター教、その他ととても多くの信仰が混在しています。
当然「死を待つ人々の家」に運ばれた人々が全員キリスト教ではありません。
では死を待つクリスチャンではない人々にどうしたのか。
「〇〇教ではあなたは救われません。主イエスをあなたの救い主だと、信じますと今すぐ告白しなさい」とマザーは迫ったでしょうか。
そして洗礼を受けないと救われないからと、洗礼を授けていたのでしょうか。
違います。
神の話は聞きたくないという人には一切、神について言いませんでした。
他宗教の経典を読んであげることもあったと言われていますし、ただただ手を握っていてほしいと言われたらそのように手を握っていました。
彼らは心穏やかに最期の時を過ごせたのです。
あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』
すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』
─マタイの福音書25:35-36、40
あらゆる人に主イエスがおられる。
しかも最も弱っている死が迫る人ほど、そこに主イエスがおられる。
マザーはここをとても大切にして活動をしていました。
人に仕えることがイエス様に仕えることになる──マザーと同じように、私もこう認識しています。
ですから、その人が穏やかに最期を過ごせることを重要視します。
そこに慰めと心の平安があることが大切だと思うのです。
仏教徒の方が無理やり「地獄に行きたくないからイエス様を信じます!」と言わされるのではなく、観音様の救いに寄り縋っているのであれば、そこを大切にしたい。
神仏はどうでもいいけど、とにかく寂しいから息を引くまで手を握ってほしいと言われたら、神様のことは一切言わず私は手を握りたいのです。
心の中で「〇〇さんの魂を、主よどうぞ、あなたの御元で匿い、癒してください」と祈りつつ。
「イエス様を救い主だととにかく言わせることで、当人が”救われる”んだから、言わせないと!言わせない人は大宣教命令を無視する反キリストだ!」と言う人は、このマザーの働きは赦せないかもしれません。
これで、私が反キリストだと罵られてもかまいません。
お前はキリスト教徒ではないと言われてもまったくかまいません。
ですから、私の対話ではキリスト教を信じるようにと迫ることは絶対にありません。
必要な場合にイエス様による”救い”は説明しても、迫ることはしません。情報の共有のみです。
私は脅してまで信仰告白を迫るのではなく、マザーに倣いたいと思っています。