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あなたの心と魂を励ます[ちゃぷれんろごす]

メンタルケア心理士®・上級心理カウンセラーな県内初のチャプレンによる心と魂を励ますブログ

こんにちは、なぎさです。

 

今回は死生観について。

 

 

 

 

死生観(しせいかん)とは、Wikipediaさんによると「死と生に対する見方をいう。」となっています。

ネットでググると、こちらの老人施設サイトでは死生観についてこう記しています。

●死生観の定義
死生観とは、生きることと死ぬことに対する考え方、または判断や行動の基盤となる生死に関する考えのことです。
誰にでも死は訪れるものですが、死後の世界は未知の世界でもあります。そのため、人の死に対する考え方や価値観などは個人で異なります。
死について考えるきっかけも人それぞれです。

 

コロナ禍で、スウェーデンでは寝たきりの人がいないというのが話題になりました。

なぜ寝たきりの人がいないのかをざっくり説明しますと、スウェーデンでは自分で食事が出来なくなったら死を迎えるということを受け入れている死生観がある国だからです。

なので「生き長らえようとしない」し「生き長らえさせようとしない」のです。

 

なぜこのように死を受け入れるのかといいますと、その背景にはキリスト教信仰があります。

 

 

 

 

キリスト教では、死は自分の最後ではありません。

 

人は神様のおられる天に元々いました。

そして人として神に喜ばれ生を受ける。

この世で人生という旅をする。

そして肉体の死をもって、元々の故郷である天に帰るのです。

ここには輪廻転生はありません。

一度きり、天で霊の状態で存在し、地上に人として生まれ、人生を進み、霊となり天に帰るのです。


死ですべてが終了するのではなく、その先があるので、死が不浄であらゆる面においての絶望的なものではないのです。

死の先に天での安寧が約束されており、神様のすぐそばで誰からも事件・事故・病など何からも攻撃されない約束があります。

そこで安心して休むことができるのです。

 

なので「安らかにお眠りください」であり、帰天(天に帰る)・召天(天に召される)と表現します。完全終了ではないのです。

 

亡くなる時は家族や友人などを家に招き、傍にいて、自然に息を引き取る時まで過ごす。

これを何代も繰り返しているので、自分の番が来た時に「あぁ私もそろそろか。〇〇こっちにおいて、いいかい、〇〇するんだよ」のような遺言を残し、逝けるのです。

このような生活習慣ですから、どうにかして生き続けなければならないという死生観ではないので、死を受け入れているのですね。

 

これを死が不浄のもので忌避すべきものだとする視点から考えると、彼らの考えは異常と感じます。

 

呼吸が止まっても人工呼吸器を使えば心臓は動き続けるのに。

食事がとれなくなったなら胃瘻で栄養与えれば生きられるのに。

点滴で栄養送れば。

長生きしないと。

医療機器と医療技術で延命できるのに、やらないなんて人命(人権)を侵害している。

高齢者や傷病者を見捨てている。優しくない。

 

色々な考え方ができます。

 

 

 

 

死は誰にでも訪れます。

私にもあの人にもこの人にもあなたにも。

生きているものはすべていずれ、その細胞の活動を停止させます。

形あるものはいずれ、風化し、崩れていきます。

 

私は、死を忌避しないでほしいと思います。

ですが、死に憧れ、死を美化するのは危険だと思います。

自殺はおススメしません。

職業柄、縊死(首吊り)やoverdoseの方など見ていますが、本当に…。

 

私たちの命は貴重です。

私たちはみんなが一人しかいない、絶滅危惧種のようなものです。

ですから簡単に命を消してはなりません。

あなたの存在は神が尊いと見ておられれるくらい貴重なものです。

 

単純に、私たちはいずれ死を迎える者であることを自覚し、だからこそ今を生きることを大切にしてほしいですし、どうやって死を迎えたいかも考えてよいのだと思います。

 

 

 

 

死を意識したことがないから何とでも言えると言われてしまうかもしれません。

ですが私も死を意識したこと…というか、死にかけたことがあります。

 

血圧が40/(測定不能)mmHgに落ち、意識レベルはJCS(ジャパンコーマスケール)だとⅢかそれくらいでしょうか。

もう疲れて眠いのです。声も出ない。

そして「聞こえますか!」とか「手を握ってください!」とか声をかけてほしくない。

周囲で看護師や医師が私の血圧がどれくらいだ、反応がどうだとバタバタしているのです。

つまりこの状態でも耳は聴こえています。

私はこの時「なるほど私の血圧はいまそれくらいなんだ。」「じゃぁもうアレかな。眠いし、もう静かしてくれてもいいのに」と思っていました。

手を握られていたりした感覚はありませんでしたが、誰が何を言ったのかは覚えています。

 

また、私は現在は寛解中ですが膠原病と思わしきなんだかよく分からない状態を持病で持っていて、数年に一度ひどい倦怠感と筋肉と関節痛、長期微熱に悩まされますが、寝たきりにまでなった時はさすがに死を意識しました。

食事ができず、箸が重たく感じて持てない。体中の痛みに泣いて過ごしていました。

幸い命に係わるものではなかったのですが、「もうやだ、ホントにもう嫌だ。こんなに痛いならもう死にたい。死ねば痛いのから解放されるのに」と思っていました。

 

現在の私の死生観でも、いざ大病を患えばやはり怖いです。

死のその先があるのはわかっていても、怖いのです。

いえ、怖いではないですね…今の私は死を意識したら、寂しいと感じます。

 

今、触れ合っている人と、この体で直接的に触れられなくなる。これがたまらなく寂しいのです。

なぜこう寂しいのかというと、私が大切に思う人たちが周囲にいるからです。

いないと、寂しとは思わないのです…。

 

 

この寂しい、切ない、孤立している気分になるというのを否定しない。

 

そう思っていいのです。

そう思うご自分を受け入れてください。

自分はこう感じてるんだなと受け入れてください。

私にはこれほど離れがたい大切な人たちがいるんだなと。

 

その上で、死をどう迎えるかを考える。

だからこそ、どう生きるのかを考えるのです。

 

死ぬために考えるのではなく、生きるために死を考えるのですね。

そして生きることで、落ち着いて死に向き合うことができることにもなります。

 

一人ひとり、死生観を考えるタイミングも違えば状況も違います。

健康体で考えるのと闘病中に考えるのでは内容は全然違います。

それでいいと思います。

ご自分のタイミングで、ご自分なりの死生観をもって、生きましょう。

 

メメントモリmemento moriです。

「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」、「死を忘るなかれ」

というラテン語です。

 

死を意識するからこそ、懸命に生きられます。自堕落になっていられないのです。

 

 

 

怪我や病で死を意識しておられる方々が、意識しておられるからこそ生きられますように。

しかしくれぐれも、頑張らずに生きることです!

体は100%ですでに生きて頑張っていますからね。

心は手抜きしすぎ?と思うくらいで丁度良いですよ。

 

こんにちは、なぎさです。

 

 

夕べ、新約聖書「ガラテヤ人への手紙」の自分ノートを見返していて、聖霊が与える「実」と聖霊が与える「賜物」についての箇所が目に留まりました。

 

聖霊が与える「実」とは、物凄くざっくり言いますと「長所」や「良い人格」になります。

 

これは3系統に分かれ、1系統に3つずつ、合計9個あります。

 

  1. 愛 → 喜び → 平和
  2. 寛容 → 親切 → 善意
  3. 誠実 → 柔和 → 自制

 

この系統には優劣はありません。

 

1系統は他者への愛があり、その愛が喜びをもたらし、他者にも他者間に争いが減る(平和になる)。

2系統は他者が自分と違うタイプでもそれはそれとして受け止めることができる。これによって他者に親切にすることができて、それは善意による。

3系統は他者に対して途中で放り投げず誠実であること。これがトゲトゲしさのない柔らかな態度を示すことになり、そのために自分の怒りや衝動をコントロールできる。

 

このような流れですから、例えば3系統の人に1系統をしろと言うのは酷な話です。

テキスト構築が得意な方に化学反応図を作れというようなもの。

私に微分積分しろというようなもの。できません。

 

もちろん、すべての系統を網羅している方もいますが、人によって系統もどの「実」かも違うので、一概に全部を求めるのは無茶ぶりだとご理解ください。

 

 

そして、聖霊が与える「賜物」というものがあります。

「賜物」とは、神様から賜った物、いただきもの。

 

この賜物も3系統で、1系統に3つずつ、合計9つあります。

 

  1. 言葉に関する 預言・異言・異言の解釈
  2. 識別力に関する 知恵のことば(健全な判断力)・霊を見分ける力(良い霊と悪い霊の識別)・知識のことば(聖霊による知識)
  3. 信仰の力に関する 癒し・奇跡・賜物としての信仰

 

これも優劣はありません。

 

「実」と同じく、全部を持っていて当たり前ではありませんので、例えば1系統の言葉に関する賜物をお持ちの方に3系統の癒しを起こせというのは酷です。

 

 

 

集団において、リーダーになる人は2系統の賜物を授かった人に多いと言われています。

 

1系統のうち「預言(神様からことばを預かって人に語る)の賜物」がある人は、まま自分の思いを預言に組み込んで、人をコントロールしよとすることが多いので注意が必要です。

このような人は「この先〇〇は~~になる!」と言い、「それを回避するために(語る人の目論見)をするといい」と繋げるということですね。

「カリスマ」と呼ばれたりしますので、弁が立つ人にはご注意を。

 

 

ところで、「賜物診断」でググってみたところとあるキリスト教団体さん賜物診断のガイドライン(pdfファイル)を作っていました。

質問事項は125問。

賜物を25に細分化して、数字化した回答の合計が高いものが、自分に与えられた賜物だというものです。

 

私もやってみたところ、私の賜物がわかりました。

 

  1位 教師(聖書のことばについて説明をする者)の賜物

  2位 宣教師(国を跨いで福音を宣べ伝える者)の賜物

  3位 慈善の賜物

      勧めの賜物

  5位 知識(語る側はわからない神様だけが知っている事を人に示す)の賜物

 

となりました。

 

 

みなさんはどうお感じになるでしょうか。

 

私には牧師の賜物がないのは物凄く自覚しています。

そして説教を作ることよりも、みことばの意味をまとめて説明するほうが好きです。

ですから、神学校で説教演習が辛かった・・・!

しかし、聖句の分解や講解は大好きでした。

 

 

ちなみに最下位は3つあり、異言の賜物・異言の説き明かしの賜物・悪魔祓いの賜物でした。

たしかに私は異言というのに触れたことがありませんし、エクソシストにはなれそうもありません。

 

 

さて、教会では五役者(ごえきしゃ)と言われる伝統的な重要な働きがあります。

 

  • 使徒
  • 預言者
  • 伝道者
  • 牧師
  • 教師
               ─エペソ4:11-18

牧師と教師が一緒になっている箇所もあるので、四役者で表現することもあります。

 

使徒は主イエスと行動を共にして直接「使徒」と任命された者。または幻において主イエスから任命された者です。

この使徒は初代教会の時代以降、存在しません。使徒的な役割の人はいます。

 

預言者は神のことばを預かり、それを民衆に伝える者です。最後の預言者が主イエスに洗礼を授けた「洗礼者ヨハネ」ですからこれも初代教会以降いないとされます。

こちらも預言者的な役割の人はいます。

 

となると、「的な」ではない役割で現代いるのは「伝道者」「牧師」「教師」という残りの三役者になります。

 

 

どのような役割なのでしょう?

「パーティを開く」という状況に例えるとわかりやすいです。

 

 

 

使徒・宣教師の役割を担うAさんが「パーティをしよう!」と発案します。

預言者の役割を担うBさんが「それならパーティにはクラッカーがあるといいね。何時くらいにしようか」と段取りを考え提案します。

伝道者の役割を担うCさんが「「みんなに知らせないとね、連絡しとくよ」と行動を起こします。

牧師の役割を担うDさんが「連絡漏れてる人いる?その人に伝えておくね」とフォローに入ります。

教師の役割のEさんが「クラッカーっていうのはこういうのでね」と知らない人向けに分かりやすく解説をします。

 

 

それぞれ役割を担う人たちがそれぞれの働きをするのでパーティがうまくいきます。

そしてこれがポイントですが、それぞれが違う働きなので、自分以外を「良し悪しだ」と裁く必要はまったくありません。

この五役者に優劣、順位はありません。ここ重要です。

牧師が偉いわけでもなく使徒が偉いのでもないです。みんな横一列で同等です。

 

使徒的発想をするAさんは

「あそこでもパーティしたいな」

「パーティやるの必要だな」

と新しい場所を切り開く、宣教/伝道の発想があるのですが、牧師・教師的発想の人にはそれはありません。

牧師・教師は開拓者ではないのです。

 

それぞれの役目があり、そのような賜物があることを理解する必要が出てきます。

つまり、一人がすべてをこなすものではありません。

全部できるのは主イエス以外誰もいませんので、先に書いたように他の賜物もやれというのは酷です。

 

 

イエス様はこのような「チームで動く」発想で教会を建て上げられているのですが、多くの教会には牧師しかいないため、教師・伝道者・使徒性のある人や預言者的な人が眠っている状態にあります。

一極集中的になっているのは賜物以外のものをやって当たり前になっているので負担が大きく問題があるのですね…。

 

ということで、今回は賜物のお話。

私の賜物は聖書教師ということですので、より一層、分かりやすく言葉を噛み砕いて解説できるように勉強していきます!

(この神学の勉強がなにより楽しいです)

 

信仰生活が長く敬虔な方には退屈で、当たり前のことだったりしますが、私はアメブロ前(Yahoo!ブロガーでした)から「分からない人が分かる言葉で解説する」を最重要視していますので、そこは生暖かく、草木の影や建物の裏からこっそりと見守っていてくだされば幸いです。

こんにちは。

メンタルケア心理士®でチャプレンのなぎさです。

 

んー、最近はチャプレンな記事が多いので、チャプレンのなぎさです、でも良さそうな・・・。

 

 

さて今日は詩篇から見る祈り方というお話です。

 

 

 

 

神に対する祈りは大きくわけると2つあります。

まずは、主をほめたたえる賛美の祈り。ハレルヤ!というのですね。

もうひとつが嘆きの祈り。どうかお助けください、お救いください、癒してくださいというものです。

 

旧新約聖書の丁度真ん中に位置する詩篇は祈りだらけです。

ここを読むと「自分がどう祈っていいのか」がわかるとうちの教会牧師から聞いたことがあります。

 

自分の中で勝手に「神様像」という枠組を作ってしまうと「こう祈るのはダメなんだろう」とか、祈り方に制限かけてしまうのですね。

しかし詩篇を見ると、実に大胆に、全力で、こんなズケズケと(笑)祈ってもいいんだ!と気付かされるのです。

 

 

 

詩篇の祈りは6つに分類することができます。

  1. 賛美
  2. 感謝
  3. 嘆願
  4. 信頼
  5. 教訓
  6. 王詩篇

 

このうち嘆きにあたる嘆願の祈りが多い多い、本当にそれはもうすごく多いです。

それほど私たちは切実な状況に陥りやすいのがわかりますし、その時どう祈ればいいのかの手本がこうして出ているのはありがたいことです。

 

詩篇は本来、歌詞で全部音階があるんですね。

なので正確には嘆願の「歌」ですが、これは構成パターンがあります。

 

1. 呼びかけ
「主よ」「わが神よ」と二人称で主を呼ぶ。

2. 嘆き
窮地に陥っている状況の描写。
「敵は」「私は」「あなた(主)は」

3. 訴え
具体的な祈願。
「聞いてください」「救ってください」「助けてください」など

4. モチーフ
主が訴えを聞かれ叶えようとされるための動機付け。
主の救済の必然性を主に訴える。

5. 信頼の告白 
なぜこう祈っているのか?主を信頼しているからだということの告白。
新約時代はここで「十字架と復活」による救いと贖いがあるという告白になる。

6. 祈りが聞かれたことの確信
主が自分の祈りを聞かれた確信を歌う。
「主は私の嘆きを聞いてくださった」

7. ほめたたえの誓い
主が私に良くして(あわれんで)くださったから、その感謝を表す。

 

これは私たちの嘆きの祈りでも通じる構成です。

 

例として

 

「主よ、○○は~~です。どうか~~~~してください。

御言葉にはこうあります。

主は必ず~~されるではないですか。

主は十字架と復活によって○を~しました。

○○です。

こうして主は私の声に耳を傾けてくださることを感謝します!ハレルヤ!」

 

となっていく感じですね。

 

の「信頼の告白」がキーポイントです。

ここで自分がどのように主を信頼しているのかを告白する祈りをすることで、さっきまでの嘆きが賛美に変わるのですね。

 

 

 

 

ところで、賛美感謝は何が違うんでしょうか?

 

【賛美の祈り】は、主の創造のみわざを褒め称える祈り。

【感謝の祈り】は、主による救いを祈ります。

 

賛美では創造なので、自然が対象になります。

 

「主よ、今日のこの素晴らしい晴天をありがとうございます!」

 

みたいなものですね。

一方感謝は、自分という歴史に関わる主の救いをほめたたえるという特徴があります。

 

この違いが分かると、祈り方も一味変わりそうですね。

 

 

私たちは嘆きの祈りが多い。

神様に、こうです・こう苦しいです・助けてください・かえりみてくださいと祈り、「しかし」神様はこれこれこうです本当にすごいです・こんなこともしてくださる・こういう約束をしてくださる感謝です!と繋げる。

この「しかし」がポイントです。

こんにちは。

メンタルケア心理士®でチャプレンのなぎさです。

 

今回もチャプレンな立場から、キリスト教の「救い」ってそもそもなんだろう?というお話です。

 

 

普段、ギリギリセーフ的な事や危機的状況から脱出できた時などに、私たちはしばしば「救われた」と言います。

キリスト者も「救われる」という言葉をよく言うのですが、同じ意味なのでしょうか。

 

 

キリスト教では「救い」は「解放」を意味します。

では何から解放するのか?何が起きるのか?

  1. 罪の赦し
  2. 最後の審判における無罪獲得
  3. 聖霊による永遠のいのち
  4. 聖霊による神様との親子関係
  5. 聖霊による生涯を通した信仰を通したきよめ(聖化)

 

なんだかよくわかりませんね。

 

この救いの解説のためには、まず「罪」「最後の審判」「聖霊」「永遠のいのち」「聖化」ってなんだという話もしなければなりません。

4の神様との親子関係は何度もこのブログでは出てきているので、ご存知の方は多いかもしれませんから、そこは端折ります。

 

<ざっくり解説>

■罪とは

各国が制定する法や国際法を犯す犯罪のことではありません。ですから、この罪があるからといって逮捕監禁されることはありません。

聖書のいう罪とは神様との関係が断たれた状態を指します。

 

神様に背を向けて親しい交流を断ってしまっている状態。神様を無視すること。

こういうのを日本語では「罪」と翻訳されて使われています。

(この翻訳がしっくり来るかというと、それはまた別のお話になります…。)

 

ですから、「私たちは罪人(つみびと)だ」となるのです。

信者だから、元罪人で現在は罪がないパーフェクトな人になれる!ではありません。

 

信じていてもやっぱりすぐに神様のほうを向かなくなってしまいます。

これは最初の人間アダムとエバがエデンの園を追放される時から、現在も人間にずーっと残っている性質です。

なので放置するとすぐによそ見しちゃうのです。

 

例えば、私たちが結構な勢いでグルグル回る表面がツルツルの円盤の上に立っていると考えてみてください。

最初は円盤の中心あたりにいるのですが、遠心力であっという間に円盤の端のほうまで中心から離れてしまうのです。

元々は円盤の外にいて、それから信じるという円盤に乗るのですが、気を抜くとすぐ中心という神様から遠く離れてしまう。

私たちはこんな性質があります。

なので意識して中心部に戻ろうとしないと、そのままポーンと円盤の外に飛び出そうになるのです。

 

円盤の外側に行ってしまう=神様から離れてしまう。これが罪と呼ばれるものです。

 

■最後の審判とは

主イエスが人間の形でうまれた事をイエス・キリストの初臨と表現しています。この時の主イエスは人類の罪を取り除く神の子羊という立場でした。

そして現在は天(創造主のいるところ)で、創造主の右に座しておられるとキリスト者は理解しています。

右に座すとは創造主の全権を委任されるという栄誉ある立場になっている表現です。

日本でいうと「〇〇は△△の右腕」と同じです。

 

これから先の未来、いつなのかは私たち人間にはわからないのですが、再び主イエスが地上に姿を見せるという再臨が約束されています。

この時の主イエスは裁きの全権を創造主から委託された裁き主として現れるとされます。

この裁きが最後の審判の時です。裁き主イエスによって、私たちは有罪か無罪かの判定を下されます。

 

■聖霊とは

神の第三格位です。

神は第一格位が創造主(父なる神)、第二格位がイエス(子なる神)、第三格位が聖霊(聖霊なる神)とキリスト者は理解しています。

この三位はひとつでもあるので、有名な三位一体という理解になります。

 

実は、三位一体という言葉自体は聖書のどこにも出てこないのです。

ですから三位一体って嘘じゃないの?3人の神々(多神)なんじゃないの?という意見も出てきますが、例えば「人を我々の形に似せて造ろう」の時、主語は複数形ですが動詞は単数形という、文法的には「?」な事が起きています。英語でいうと we are ではなく we am なのですね。

これを理解するのに助けになりそうな様々なたとえがありますが、正当ではないとされるものも多く表現が非常に難しい。

なにせ書かれていないものですから…。

 

ですが、それぞれ別の働きをするけど同一のものでもあるという理解をしないとまとまらないのです。

 

世界のすべてを創造をした神と、私たちのために神とは何かを見せてくれてことばを残し、創造主に執り成してくれて、すべての人類を救うのがイエス、そのイエスが昇天する時に同格の助け手として人に送られたのが聖霊。

これら3つは違う働きをするけど、同一である。難しい!

 

聖霊は信じた人の心に永久に内住します。

気付きを与えられ、心のうち・願い・祈りを天に届けてくれる働きをされます。

 

■永遠のいのちとは

現在の肉体のままで不死になることではありません。

原語では ゾーエー・アイオーニオン = 時間にとらわれない”いのち”を指します。

 

日本語でいのちと翻訳されている原語のコイネーギリシャ語の単語は3つあり、それぞれ意味が違います。

 

 ゾーエー → 神がもっている命

 ビオス → 生物学的な命

 プシュケー → 人間として持っている心、魂を含む命

 

ビオスとプシュケーは私たちが認識できているものなので理解がしやすいのですが、ゾーエーは神様しか持っていないもので人間はその本当のトコロを理解することができません。

 

ゾーエーは「触れると得られる」という命。つまり、神の個人的な関係が構築されると得られるものです。

アイオーニオンは「永遠の」と翻訳される単語です。

 

ビオス・アイオーニオンになると、永遠に生命活動が行われている命。いわゆるこの肉体での不死になります。

プシュケー・アイオーニオンでは、魂が永遠に生き続けるというものになります。

 

私たち生物がもっている生物学的な生命は「プシュケー」「バイオス(ビオス)」なので、細胞など寿命を迎えると活動を停止します。

一方「ゾーエー」は永遠を生きる神のいのちなので、活動停止はありません。

 

■聖化とは

聖なる者と変化していくことです。

背きだらけのところから信仰はスタートします。

そこから少しずつ少しずつ、神様の「聖(きよ)さ」に向かって、神からの恵みによって変えられていくというものです。

私たちの自力で変化はしません。このあたりは完全に恵みなので、神様から一方的に(対価なし)与えられるものです。

 

 

 

これらプラス、このブログで何度か出てきている神様と親子関係になる、があります。

 

 

 

 

さて、これら5つが順番や優劣なく、信じた瞬間に、一生に一度だけ起きます。

この瞬間、神様に背いていた事(罪)を無かったことにしていただけます。

 

私たち一人ひとり用の紙に、これまでの罪が油性ペンで全部羅列してあると考えてください。

それを帳消しにするのではなく、上から真っ白のペンキで油性ペンの字を全部キレイに塗りつぶしてもらえるということです。

こういう意味で「無かったことにされる」ので、最後の審判の時に「罪状なし」としてもらえます。

信仰生活をしていても、やっぱり罪人には違いありません…。ですが、罪があるけどその都度塗りつぶしていただけている状態です。

 

聖霊は信じたその瞬間にあなたの心に内住します。

信じた瞬間に親子関係に入ります。

信じて人生を歩んでいくとき、少しずつ聖い者に変化をさせてもらえる。

 

これらが起きます。

どれか一つだけ起きるのではなく、これらは全部パッケージです。

これら全部与えられます。

 

 

 

解放という目線でこれを表現するなら、

 

  • 罪からの解放
  • 最後の審判での有罪からの解放
  • 生物学的命からのみからの解放(聖霊による)
  • 神様との関係断絶からの解放(聖霊による)
  • 生涯を通して悪に染まることからの解放(聖霊による)

 

となりますね。

 

 

そして「救い」は現状からの解放でもあります。

 

  • 理想と現実のギャップによる苦悩からの解放
  • 病からの解放
  • 貧困からの解放

 

などが人によって様々な苦しみが挙げられますが、これは苦悩がきれいさっぱりなくなるとか、病気が完全に癒されるとか、裕福な暮らしが出来るという解放…と言いますか…これらがないとは言いません。

レアケースですが、本当に完全に癒された方はいます。

神は全能なので何でもできる方ですから可能です。

 

しかし多くは、

 

  • 苦悩の中でも「良かったこと」を見出せることによる絶望感からの解放
  • 闘病中ではあるけれど、患う前には気付けなかった家族の絆、他者の愛情に触れることができるなどの孤独感からの解放
  • 貧しい生活においても自己卑下をすることが減るなどの心の貧困からの解放

 

などがリアルで実社会を生きる上での「救い」と言えると思います。

 

 

本来、真理は自分を自由にします。

真理は自分をガチガチに縛り付けているものから解放(救い)してくれるものです。

ですから真理は心が平穏になり、また時には心を熱く燃やします。

 

しかし、真理ではないもの、人から出るもの(人が考え出したもの)は、自分をガチガチに縛ろうとしてきます。人から出るものは不信感を増やし、心が不穏になり、また心を折ります。

 

 

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

─ローマ人への手紙10:9-10

 

心に信じた瞬間、神様から「あなたを善しとする」と認めていただけます。

そして、口に出して私はイエスを救い主だと信じてると言えたその瞬間、解放という救いが起きる──ということですね。

 

ちなみに、私は・・・言えませんでしたよー。

なかなか口から出てこなかったです。

イエスが神だと思ったけど、救い主だとどうにも口から出てこなかったのです。

しかしある日、ポロっと口を突いてその言葉が出て自分で物凄くビックリしました。

 

こういう事もありますから、頑張らず、口にできる時を神様に委ねればいいのだと思います。

 

 

全人類に「救い」は既に提示されています。

後は私たちがそれをもらうだけです。

もらう条件はお金でもなく奉仕作業でもなく、ただ「イエスは私の救い主なんだ」と信じるだけです。

わーい!ありがとうございまーっす!と受け取るだけなのですね。

 

救いというのはこういう世界です。

 

こんにちは。

メンタルケア心理士®でチャプレンのなぎさです。

 

今日は新約聖書にある「ヤコブの手紙」という書のお話。

 

 

 

 

聖書は旧約聖書39巻、新約聖書27巻の合計66巻を1冊にまとめたものです。

新約聖書を掲載順に読んでいくと、「ヤコブの手紙」までの19巻まで一貫して信じるだけで救われるという内容で書かれています。

しかし、この「ヤコブの手紙」ではまるで行動をしないと救われないとしか読めないような聖句が出てくるのです。

 

人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことが分かるでしょう。

─ヤコブの手紙2:24

 

これはいったいどういうことでしょう?

信じたら救われるという初期設定ではあるけど、結局は、信者になったらキリスト教が決めている数々の規定とかを実行しないと本当は救われないのか?という疑問が出てきます。

 

 

 

新約聖書で掲載されている順序は、それぞれの書が執筆された年代順ではありません。

新約聖書で信じるだけで救われる(信仰義認)を明確に書いている書の多くをパウロという人物が手掛けていますが、そのパウロさんの書いた書簡よりも「ヤコブの手紙」の執筆時代は古く、西暦48~49年頃だと推定されています。

※「ローマ人への手紙」57~58年頃、「コリント人への手紙第一」55年頃、「コリント人への手紙第二」56~57年頃、「ガラテヤ人への手紙」52~55年頃、「エペソ人への手紙」61年頃、「ピリピ人への手紙」50年代後半~60年代初め、「コロサイ人への手紙」57年頃、「テサロニケ人への手紙第一」50~52年、「テサロニケ人への手紙第二」第一執筆の数か月後、「テモテへの手紙第一」66年頃、「テモテへの手紙第二」67年頃、「テトスへの手紙」67年頃、「ピレモンへの手紙」60年頃、「ヘブル人への手紙」95年頃?─出典:新実用聖書注解、Wikipedia

 

 

 

 

 

そしてこの「ヤコブの手紙」を書いたヤコブさんは、主イエスの実弟です。

 

主イエスは30歳で公生涯と呼ばれる宣教活動に入りました。ということは、それまで実家で家族と共に暮らしていたということです。

ヤコブさんは主イエスと一緒に生活をしていたのですね!

同じ家で生活し、同じ言語で喋って、同じ社会環境で育っていました。ですから、会話の内容も兄弟ですから共通項が多いです。

 

ここから、この「ヤコブの手紙」に書かれている言葉の意味は、主イエスが幼少期から公生涯を終えるまで使っていた言葉…すなわち、福音書で主イエスが語った原語と同じ意味を持つことがわかります。

 

 

 

「義と認められる」の「義」はδικαιοσυνην(dikaiosyninディカイオシニン)という単語が使われています。δικαιοωディカイオーという単語の受動態です。(70人訳聖書ではλογιζομαι(logizomai)=勘定される→みなされるという予定的な意味の単語を使用)

 

パウロのいうδικαιοσυνηνとこの書の著者、ヤコブのいうδικαιοσυνηνは意味が違います。

 

主イエスとヤコブはこの言葉を「神様に喜ばれる」とか「神様に受け入れられる」という意味で使っています。

これは当時の一般生活で極々普通に使われていた用語の意味なのだそう。

 

一方、パウロさんは、「ヤコブの手紙」よりも後の時代に自分の書簡の中でこの単語を使用しています。

新約聖書でパウロさんがよく使う「義と認められた」の「義」は、ヘレニズム文化(ギリシャの原語や文化、世界観など)をベースにした「正義」「誠実」「正しさ」を指します。

これは、パウロが主イエスとヤコブの言う「神に喜ばれる」という一般用語の意味を「神様に義と認められる=救われる」という宗教的な専門用語に昇華させたのですね。

 

「ヤコブの手紙」ではこの2章24節は躓きやすい箇所だと言われています。

ここをパウロ的に解釈せずヤコブ的に解釈した表現をすると

 

人は行いによって神様に喜ばれて受け入れられるのであって

 

になります。パウロは義認論で「義」を使っていますが、ヤコブは義認論とかそういうのは毛頭にもなく、単純に喜ばれるかどうか嬉しいと思ってもらえるかどうかなのです。

 

つまり、

 

「イエス様を信じたし、もう私は救われたんだから、今更何かしなくてもいいや~」

 

ではなく、信じた結果に出てくる無償の愛の行動、隣人愛があると神様は喜んでくださるよ──ということになるのですね。

 

『主イエスを信じて生活してたら心が少し楽になった、苦しみをどん底と思わなくて少し光が見えた。ほんのちょっとだけど困ってる人に手を差し伸べてあげられそう。』

例えばこういう行動があったとして、パウロ的に解釈すると、「困ってる人に手を差し伸べない人は救われない」になってしまうのですが、主イエスとヤコブの言う意味で解釈すると「手を差し伸べられる時に差し伸べてあげられたら、それって神様が喜ぶよね!」になるということです。

 

 

 

パウロさんの数々の書簡は「どうしたら救われるのか?」がテーマになっています。

そのテーマのまま「ヤコブの手紙」を読むと信じるだけで救われる(信仰義認)なのか?行動をしないと救われないのか(行為義認)?と矛盾を感じるのですが、この「ヤコブの手紙」は「信仰生活はどうやって送っていくんだろう?」というテーマです。

 

 

テーマが違うこと、こういうテーマだというのを押さえて読むと、矛盾せずにスッキリ理解することができます。

 

 

この箇所で信じる事に躓いてしまう人はおられると思います。

あ、そうなんだ!となってくだされば幸いですニコニコ