こんにちは。
メンタルケア心理士®でチャプレンのなぎさです。
今回もチャプレンな立場から、キリスト教の「救い」ってそもそもなんだろう?というお話です。
普段、ギリギリセーフ的な事や危機的状況から脱出できた時などに、私たちはしばしば「救われた」と言います。
キリスト者も「救われる」という言葉をよく言うのですが、同じ意味なのでしょうか。
キリスト教では「救い」は「解放」を意味します。
では何から解放するのか?何が起きるのか?
- 罪の赦し
- 最後の審判における無罪獲得
- 聖霊による永遠のいのち
- 聖霊による神様との親子関係
- 聖霊による生涯を通した信仰を通したきよめ(聖化)
なんだかよくわかりませんね。
この救いの解説のためには、まず「罪」「最後の審判」「聖霊」「永遠のいのち」「聖化」ってなんだという話もしなければなりません。
4の神様との親子関係は何度もこのブログでは出てきているので、ご存知の方は多いかもしれませんから、そこは端折ります。
<ざっくり解説>
■罪とは
各国が制定する法や国際法を犯す犯罪のことではありません。ですから、この罪があるからといって逮捕監禁されることはありません。
聖書のいう罪とは神様との関係が断たれた状態を指します。
神様に背を向けて親しい交流を断ってしまっている状態。神様を無視すること。
こういうのを日本語では「罪」と翻訳されて使われています。
(この翻訳がしっくり来るかというと、それはまた別のお話になります…。)
ですから、「私たちは罪人(つみびと)だ」となるのです。
信者だから、元罪人で現在は罪がないパーフェクトな人になれる!ではありません。
信じていてもやっぱりすぐに神様のほうを向かなくなってしまいます。
これは最初の人間アダムとエバがエデンの園を追放される時から、現在も人間にずーっと残っている性質です。
なので放置するとすぐによそ見しちゃうのです。
例えば、私たちが結構な勢いでグルグル回る表面がツルツルの円盤の上に立っていると考えてみてください。
最初は円盤の中心あたりにいるのですが、遠心力であっという間に円盤の端のほうまで中心から離れてしまうのです。
元々は円盤の外にいて、それから信じるという円盤に乗るのですが、気を抜くとすぐ中心という神様から遠く離れてしまう。
私たちはこんな性質があります。
なので意識して中心部に戻ろうとしないと、そのままポーンと円盤の外に飛び出そうになるのです。
円盤の外側に行ってしまう=神様から離れてしまう。これが罪と呼ばれるものです。
■最後の審判とは
主イエスが人間の形でうまれた事をイエス・キリストの初臨と表現しています。この時の主イエスは人類の罪を取り除く神の子羊という立場でした。
そして現在は天(創造主のいるところ)で、創造主の右に座しておられるとキリスト者は理解しています。
右に座すとは創造主の全権を委任されるという栄誉ある立場になっている表現です。
日本でいうと「〇〇は△△の右腕」と同じです。
これから先の未来、いつなのかは私たち人間にはわからないのですが、再び主イエスが地上に姿を見せるという再臨が約束されています。
この時の主イエスは裁きの全権を創造主から委託された裁き主として現れるとされます。
この裁きが最後の審判の時です。裁き主イエスによって、私たちは有罪か無罪かの判定を下されます。
■聖霊とは
神の第三格位です。
神は第一格位が創造主(父なる神)、第二格位がイエス(子なる神)、第三格位が聖霊(聖霊なる神)とキリスト者は理解しています。
この三位はひとつでもあるので、有名な三位一体という理解になります。
実は、三位一体という言葉自体は聖書のどこにも出てこないのです。
ですから三位一体って嘘じゃないの?3人の神々(多神)なんじゃないの?という意見も出てきますが、例えば「人を我々の形に似せて造ろう」の時、主語は複数形ですが動詞は単数形という、文法的には「?」な事が起きています。英語でいうと we are ではなく we am なのですね。
これを理解するのに助けになりそうな様々なたとえがありますが、正当ではないとされるものも多く表現が非常に難しい。
なにせ書かれていないものですから…。
ですが、それぞれ別の働きをするけど同一のものでもあるという理解をしないとまとまらないのです。
世界のすべてを創造をした神と、私たちのために神とは何かを見せてくれてことばを残し、創造主に執り成してくれて、すべての人類を救うのがイエス、そのイエスが昇天する時に同格の助け手として人に送られたのが聖霊。
これら3つは違う働きをするけど、同一である。難しい!
聖霊は信じた人の心に永久に内住します。
気付きを与えられ、心のうち・願い・祈りを天に届けてくれる働きをされます。
■永遠のいのちとは
現在の肉体のままで不死になることではありません。
原語では ゾーエー・アイオーニオン = 時間にとらわれない”いのち”を指します。
日本語でいのちと翻訳されている原語のコイネーギリシャ語の単語は3つあり、それぞれ意味が違います。
ゾーエー → 神がもっている命
ビオス → 生物学的な命
プシュケー → 人間として持っている心、魂を含む命
ビオスとプシュケーは私たちが認識できているものなので理解がしやすいのですが、ゾーエーは神様しか持っていないもので人間はその本当のトコロを理解することができません。
ゾーエーは「触れると得られる」という命。つまり、神の個人的な関係が構築されると得られるものです。
アイオーニオンは「永遠の」と翻訳される単語です。
ビオス・アイオーニオンになると、永遠に生命活動が行われている命。いわゆるこの肉体での不死になります。
プシュケー・アイオーニオンでは、魂が永遠に生き続けるというものになります。
私たち生物がもっている生物学的な生命は「プシュケー」「バイオス(ビオス)」なので、細胞など寿命を迎えると活動を停止します。
一方「ゾーエー」は永遠を生きる神のいのちなので、活動停止はありません。
■聖化とは
聖なる者と変化していくことです。
背きだらけのところから信仰はスタートします。
そこから少しずつ少しずつ、神様の「聖(きよ)さ」に向かって、神からの恵みによって変えられていくというものです。
私たちの自力で変化はしません。このあたりは完全に恵みなので、神様から一方的に(対価なし)与えられるものです。
これらプラス、このブログで何度か出てきている神様と親子関係になる、があります。
さて、これら5つが順番や優劣なく、信じた瞬間に、一生に一度だけ起きます。
この瞬間、神様に背いていた事(罪)を無かったことにしていただけます。
私たち一人ひとり用の紙に、これまでの罪が油性ペンで全部羅列してあると考えてください。
それを帳消しにするのではなく、上から真っ白のペンキで油性ペンの字を全部キレイに塗りつぶしてもらえるということです。
こういう意味で「無かったことにされる」ので、最後の審判の時に「罪状なし」としてもらえます。
信仰生活をしていても、やっぱり罪人には違いありません…。ですが、罪があるけどその都度塗りつぶしていただけている状態です。
聖霊は信じたその瞬間にあなたの心に内住します。
信じた瞬間に親子関係に入ります。
信じて人生を歩んでいくとき、少しずつ聖い者に変化をさせてもらえる。
これらが起きます。
どれか一つだけ起きるのではなく、これらは全部パッケージです。
これら全部与えられます。
解放という目線でこれを表現するなら、
- 罪からの解放
- 最後の審判での有罪からの解放
- 生物学的命からのみからの解放(聖霊による)
- 神様との関係断絶からの解放(聖霊による)
- 生涯を通して悪に染まることからの解放(聖霊による)
となりますね。
そして「救い」は現状からの解放でもあります。
- 理想と現実のギャップによる苦悩からの解放
- 病からの解放
- 貧困からの解放
などが人によって様々な苦しみが挙げられますが、これは苦悩がきれいさっぱりなくなるとか、病気が完全に癒されるとか、裕福な暮らしが出来るという解放…と言いますか…これらがないとは言いません。
レアケースですが、本当に完全に癒された方はいます。
神は全能なので何でもできる方ですから可能です。
しかし多くは、
- 苦悩の中でも「良かったこと」を見出せることによる絶望感からの解放
- 闘病中ではあるけれど、患う前には気付けなかった家族の絆、他者の愛情に触れることができるなどの孤独感からの解放
- 貧しい生活においても自己卑下をすることが減るなどの心の貧困からの解放
などがリアルで実社会を生きる上での「救い」と言えると思います。
本来、真理は自分を自由にします。
真理は自分をガチガチに縛り付けているものから解放(救い)してくれるものです。
ですから真理は心が平穏になり、また時には心を熱く燃やします。
しかし、真理ではないもの、人から出るもの(人が考え出したもの)は、自分をガチガチに縛ろうとしてきます。人から出るものは不信感を増やし、心が不穏になり、また心を折ります。
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
─ローマ人への手紙10:9-10
心に信じた瞬間、神様から「あなたを善しとする」と認めていただけます。
そして、口に出して私はイエスを救い主だと信じてると言えたその瞬間、解放という救いが起きる──ということですね。
ちなみに、私は・・・言えませんでしたよー。
なかなか口から出てこなかったです。
イエスが神だと思ったけど、救い主だとどうにも口から出てこなかったのです。
しかしある日、ポロっと口を突いてその言葉が出て自分で物凄くビックリしました。
こういう事もありますから、頑張らず、口にできる時を神様に委ねればいいのだと思います。
全人類に「救い」は既に提示されています。
後は私たちがそれをもらうだけです。
もらう条件はお金でもなく奉仕作業でもなく、ただ「イエスは私の救い主なんだ」と信じるだけです。
わーい!ありがとうございまーっす!と受け取るだけなのですね。
救いというのはこういう世界です。