「正しい人はいない。一人もいない」って本当? | あなたの心と魂を励ます[ちゃぷれんろごす]

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こんにちは、なぎさです。

 

今回は「正しい人は誰一人としていないと聖書に書いてあるけど、それってホント?」というお話です。

 

新約聖書の「ローマ人への手紙」にこうあります。

 

では、どうなのでしょう。私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。

次のように書いてあるとおりです。

「義人はいない。一人もいない。

悟る者はいない。

神を求める者はいない。

すべての者が離れて行き、

だれもかれも無用の者となった。

善を行う者はいない。

だれ一人いない。」

─ローマ3:9-12

 

新約聖書でいきなり「次のように書いてある」と出てきましたが、これは何かを参照している表現ですね。

何かと言いますと、旧約聖書の「詩編」にある詩を参照しています。

 

愚か者は心の中で「神はいない」と言う。

彼らは腐っていて 忌まわしいことを言う。

善を行う者はいない。

主は天から人の子らを見下ろされた。

悟る者 神を求める者がいるかどうかと。

すべての者が離れていき

だれもかれも無用の者となった。

善を行う者はいない。

だれ一人いない。

─詩編14:1-3

 

愚か者は心の中で「神はいない」と言う。

彼らは腐っていて 忌まわしいことを言う。

善を行う者はいない。

主は天から人の子らを見下ろされた。

悟る者 神を求める者がいるかどうかと。

彼らはことごとく背き去り

だれもかれも無用の者となった。

善を行う者はいない。

だれ一人いない。

─詩編53:1-3

 

1行違うだけでほかは同じですね。

 

 

さてこの「義人はいない」は以前の翻訳では「正しい人はいない」になっていました。

 

この「正しい人はいない」という言葉に対し、こう反論できます。

 

正しい人いるじゃん!!

(↑実際にこういう反論がありました)

 

 

まず、この「正しい」って何基準なのか?というところを考える必要があります。

 

正しい人いるじゃん!という反論が成立するための「正しい」の基準は何でしょうか。

 

社会的な正しさ。

真面目で誠実で、一生懸命で、素直で、実直で、純粋で…。

 

確かに「正しい」人ですね。

しかしこの基準はあくまでも人間が基準になっています。

 

聖書で書かれている事の基準は常に神様基準になっています。

人間がどうなのか、社会的にどうなのか、政治的にどうなのか、立場的にどうなのか、…ここは関係なく基本的に「神にとってどうか」です。

 

ですからこの場合の「正しい」も、人間社会を基準にせずに「神様にとっての正しさ」が基準になります。

 

産まれてから一度たりとも嘘をついたことがない、誤魔化したこともない、常に神様を中心に考え、神様が示す「善」を遂行する者。

 

これが神様のいう「正しい人」です。

赤ちゃんですらわざと泣いてみたりするんです。0歳ですでに、です。

人生の最初から最後まで神基準で正しく生きるって、とんでもなく難しいんです。

 

では、神様が示す「善」…やるべき事ってなんだろう?

この言葉は詩編を参照されていますので、詩編の時代にさかのぼって考えましょう。

 

詩編の著者は、ダビデ像で有名なあのダビデの息子であり、イスラエル国の全盛期の王様であるソロモンです。

ソロモンが降って湧いたような良策でこの言葉を残したのではなく、その基礎にはここからさらにずーっと遡って、海を割ったあのモーセの時代にまで行きます。

 

モーセは神様から「十戒」と呼ばれる 守るべき戒め をもらいました。

 

  1. あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。
  2. あなたは自分のために偶像を作ってはならない。
  3. あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。
  4. 安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。
  5. あなたの父と母を敬え。
  6. 殺してはならない。
  7. 姦淫してはならない。
  8. 盗んではならない。
  9. あなたの隣人について、偽りの証言をしてあならない。
  10. あなたの隣人の家を欲してはならない。

─ 出エジプト20:3-17より抜粋

 

これをすべて守れる人が「正しい人」です。

 

 

 

…守れないんですよ、これ。

守るために細かい規定まで設けて紀元前からこれまでユダヤ教の皆さんは必死にこれを守ろうとしていますが、守れないのです。

人間にはこれが守れません。

 

前半は神様についてのお約束事、後半は人間社会で生きていくためのお約束事なのですが、前半もさることながら、10項目目の「いいなーうらやましいな~、それ欲しい」って消せますか。

いくら素晴らしい両親でも、状況によってはいつでも必ず敬い続けられますか。

これら一つでもできなかったら、全部できない認定されるのです。

 

まさに1か0かの世界。

10個のうち、10個完璧にできていないと「正しい人ではない」のです。

 

 

ですから神様基準で考えると、確かに「正しい人はいない。だれ一人いない。」なのです。

 

 

 

「じゃぁどうすんだ」と言えば、だから神様に「できないよーどうしよう、どうすればいい?」と愚痴るのです。

この愚痴は神様には祈りとして聞こえています。

 

 

 

 

聖書に書いてあることは字面だけで読むと全然意味が違ってしまいます。

誰が、誰に、何の目的で、何を基準に、どういう意図で書いているのか。

ここを抜いて、単純に実生活にだけ適用しようとすると、「~しなさい」「~しなければならない」という極端な強制力を持つメンドクサイ物になります。