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あなたの心と魂を励ます[ちゃぷれんろごす]

メンタルケア心理士®・上級心理カウンセラーな県内初のチャプレンによる心と魂を励ますブログ

こんにちは、なぎさです。

 

今回は神学のお話です。

 

 

 

新約聖書にあるマタイの福音書にはこうあります。

 

 

求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出せます。たたきなさい。そうすれば開かれます。

だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。

─マタイの福音書7:7-8

 

 

ここは結構有名な箇所です。

 

文語訳聖書のほうが有名かもしれませんね。

 

求めよ、さらば興へられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。

すべて求むる者は得、たづねる者は見いだし、門をたたく者は開かるるなり。

─文語訳聖書 マタイ傅福音書7:7-8

 

やっぱり趣があって文語訳は素敵。

 

 

さてこの御言葉、まさにこの文面の通りなのですが、誰に求めて探して叩くのか。その対象は誰なのか…というのが問題です。

 

 

ここだけ読むと、こう理解することも出来てしまいます。

 

 

欲しい物があったら駄々をこねてもいいから欲しがれ。

そうすれば仕方がないなと相手が折れてくれるから、欲しい物をGETできる!

 

諦めずに探し続けろ。

そうすればいつかそれが見つかる!

最悪、誰かが分けてくれるだろ。

 

誰かの家や心のドアがあったらとにかく叩きまくれ。

そうすれば相手が折れて、渋々でもドアを開けるから、そうしたらこっちもんだ!

 

 

…本当はどういう意味なのでしょうか?

 

ここの真意を知るには、7節8節だけではなく9~11節を知る必要があります。

 

 

あなたがたのうちの誰が、自分の子が案を求めているのに石を与えるでしょうか。

魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。

このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないということがあるでしょうか。

─マタイの福音書7:9-11

 

聖書は、その御言葉(聖句)だけを見ると意味を間違えて受け取ってしまいます。

文脈で読んで意図を汲み取るようにしましょう。

 

私は新改訳聖書(2017版)を使っているのですが、この聖書では1節ごとに改行されているだけでなく、文脈冒頭は2字下げして書かれているので、どこからどこまでが1つの文脈か分かりやすいです。

 

今回の箇所はまさに7:7-11までが1つの文脈ですので、この5節で考えていきます。

 

 

 

 

この文脈の後半部分からわかるのは、「悪者であっても、自分の子供には良いものを与える」ということです。

 

パンを食べたいという我が子に、石を拾ってこれを食べろと渡しません。

魚が食べたいという我が子に、毒蛇を生きたままポイと渡すことはしません。

 

やはり、パンを欲しがればパンを食べさせたいです。

朝ごはんにおにぎりを食べたいと言うなら、おにぎりを作って食べさせます。

それが親心というものです。

 

それならなおのこと天におられる神様は、ご自分にこれが必要なのです、助けてくださいと求める人たちに

「これでも食ってろ」

とか

「それはお前には贅沢だ、お前如きにはこれで十分だろ」

のように酷いことはせずに、必要なものを与えてくれるでしょう?ということなのです。

 

 

以前からこのブログでは、神様と自分の関係は親子関係ですよとお伝えしています。

 

神様は私たち一人ひとりを、まさに目に入れても痛くないほどに大好きで大好きで仕方がない思いでおられます。

 

実際に神様は、私のために、そしてあなた個人のために、まったく神様に背いたこともないイエス様に私の背きの罪を全部背負わせて、私の代わりに神に呪われる者として生贄という死に渡されました。

イエス様が全部背負ってくださったので、私たちはイエス様に免じて赦されているのですね。

 

私の罪を赦す対価としてイエス様が支払われ、私は赦される。イエス様を支払うことで私が買い取られる。……これを「贖い」 (あがない)と言います。

 

 

少し話が逸れましたがそれくらい私たちを愛している神様なので、神様に現状を打ち明けて辛さを訴えて、何がどう必要なのかを求めてください。

そうすれば、神様が私たち一人ひとり用に用意しておられる「良いもの」をちゃんと与えてくださるよ──というのが今回の箇所です。

 

 

なので、誰かほかの人にワガママ言っても大丈夫!ではありませんね。

相手が嫌がってでもとにかく騒げば、大声でゴネれば自分の思う通りになる!ではないのですね。

 

 

 

そしてこの後に、この一言が来ます。

 

 

ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。

─マタイの福音書7:12

 

これがイエス様の神学の本質です。

 

優しくしてほしいなら、まず自分が相手に優しくする。

褒めてほしいなら、まず自分が相手を褒める。

 

一方的に与えるだけではなく、一方的に受け取るだけでもないですね。

まさにgive-and-takeの関係。

 

 

 

 

神様は、ご自分に求めてくる人にはちゃんと与えてくれるのですね。

 

しかし求める人の思う通りにそっくりそのまま与えてくれるわけではありません。

 

これでは主従逆転してしまいます。

子供が王様のようになって親が渋々言う事を聞いてその通りにしてしまう関係と同じになってしまいます。

 

この主従関係が逆転した状態では、神様は創造主・全知全能の神ではなく、単に求める人の奴隷に成り下がってしまいます。

 

 

そうではなく、神様は求めてくるその人に応じてもっとも良いタイミングで、もっともその人のためになるものを与えられます。

 

こちらが望むものと違う場合もありますが、神様があなたに良いと判断されて与えたものは結果的に確かに良いものなので、その時の望み通りではなくても受け入れる謙遜さがこちらには求められるでしょう。

 

 

こんにちは、なぎさです。

 

今回は、私も含めて誰も陥りやすい考え方のクセ…【認知の歪み】というのはなんだろう?という内容です。

 

私たち人間は、ほとんどの人がそうなりやすい考え方のクセというか傾向があります。

極々まれにまったくない人もいるでしょうけれど、まずみなさんに該当すると思います。

当然私にも該当します。

 

このクセは、心の芯が強いとか弱いとか、性別とか国籍、年齢、人種など関係なく、本当に誰でもそうなりやすいものです。

 

 

 

 

このクセは9つあります。

 

  1. 二極論
  2. 過度の一般化
  3. 欠点だけが見えるフィルター
  4. マイナス化思考
  5. 結論の飛躍
  6. 誇大視と過小評価
  7. 感情的な決めつけ
  8. ~すべき思考
  9. レッテル貼り

 

 

 

1. 二極論

 

善か悪か、有りか無しか、1か0か、白か黒かという極端なものです。

ほんのちょっとでもダメだったら、これまでの全部がダメだと私たちは考えがちです。

これが二極論という考え方の歪みです。

 

世の中こんなに二極で結論出るものではありませんね。

例えば人によって使える治療法や薬剤が違うので手術で病巣切除を絶対にしなければ許されないというわけではありません。

 

人間が生きる上では物事はほとんどがグレーです。

真っ白に限りなく近いグレーもあれば真っ黒に限りなく近いグレーもあります。

極端な思考に捉われないように、考え方を柔軟にしていきたいですね。

 

 

 

2. 過度の一般化

 

小さなことを大きく解釈してしまうことです。

私とあの人が同じ意見だった、というものを「世の中の人はこう思ってます」と主語が大きくなるものですね。

 

この薬が「私には」合わなかった→「この薬ダメだよ!絶対効かないから!副作用酷いから!みんな使っちゃダメ!」

私は祈ったけど何も特に変化してない→「神様とかそんなんいないから!祈るとか愚かな行為やめとこ!」

 

こんな感じに小さなことを「全部そうなんだ」と一般化しすぎてしまう認知の歪みですね。

 

 

 

3. 欠点だけが見えるフィルター

 

欠点だけが見えるので上手くできた事や良かった事は見えなくなるフィルターでもあります。

 

例えばプレゼンをしたとして、全体的にわかりやすく興味を引く構成になっていて高評価をいただけたとします。

そんな時ある一人の方から「でもこれってどうなんですか?」と指摘されました。

するとこの指摘が気になって気になって、全体的な高評価を得た事が見えなくなり「ダメだった…」「ミスった…」となってしまうのですね。

これもよくありますよね。

 

 

 

4. マイナス化思考

 

上記のプレゼンで高評価だったことを無かったことにして、指摘されたから低評価なんだと思い込む。

ここから「たまたまプレゼンが上手くいっただけで次は失敗するんだ…」とか「指摘されたから、やっぱりこのプレゼンは失敗だったんだ」と解釈してしまいます。

 

これも本当によくありますよね。

自分なりに頑張って勉強してテストの点数が80点だった。

80点を取った事実を無視して、20点ぶんの回答をミスしたところだけに注目してしまい「あぁもうダメだ」「100点取れないなんて自分はなんてダメなんだ」と陥る感じ…。

 

 

 

5. 結論の飛躍

 

きちんとした証拠や根拠がないのに、勝手に自分の中で否定的な答えを出してしまうことです。

これには2つに分類できます。

  • 相手の感情を決めつける
  • 物事が悪化すると予想する

1つは「あの人に言ってもどうせ〇〇って言われるし…」と相手の感情を決めつけてしまうことと、もう1つは「どうせやっても失敗するんだから、だったら最初からやらないほうがいい」と物事は悪化するものだと決めつけてしまうことです。

 

これもよくありますねー!

「〇〇さんにこれお願いしようと思ってるけど、言っても~~って反応されるの分かり切ってるから頼むのやめよ…。」

が本当によくありますね。

職場内や家庭内で人間関係が上手くいっていないとコレになります。

そして言わないものですから余計反感買ってしまうのです…。

そう簡単に言えれば苦労しませんよね。

 

「〇〇の資格ほしいけど…合格率低いし、一発で受かる自信ないし…だったら最初から手を出さないほうがいいかも…」

と尻込みするのも結論の飛躍ですね。

この飛躍は私がこの数か月陥りやすい認知の歪みなので、これになった時は「いやいや、やって損はない!」と自分に言い聞かせています。

 

 

 

6. 誇大視と過小評価

 

失敗を大きく見過ぎて、成功を小さく見すぎることです。

過度の一般化のグレードアップといったところでしょうか。

 

1つの失敗で「もう挽回する余地はない…もう全部終わった…ダメだ…」となるのが誇大視。

一生懸命自分が頑張った〇〇があるのに、それを「どうせ私なんて〇〇程度だし…」と自分を実際よりも小さく、低く評価することが過小評価です。

 

過小評価の逆が過大評価で「〇〇が出来る私ほど優秀な者はいない!私は凄い!崇められるべき存在!みんな私の言う事は聞かないと!」なので、誇大視とは違うんですね。

 

 

 

7. 感情的な決めつけ

 

それはコレです、その根拠は私がそう思うから。というものです。

「私のようなダメ人間は早くいなくなったほうがいいんだ」の根拠は「私が私をダメなヤツだと思ってるんだから、私はダメ人間に決まってるでしょ?」となるのですね。

 

これもよくありますよね。

客観視する視点が無くなってしまって感情面だけで結論つけてしまいます。

「〇〇さんは絶対にこういうヤツだ。その分野はよく知らないけどあの人とかあの人がそう言ってるし、絶対そうだって!」もそうですね。

 

 

 

8. ~すべき思考

 

これは有名ですね。

この認知の歪みは、自分だけでなくて他人にも過度の責任を負わせようとしてしまいます。

 

「私は〇〇なんだから、これをすべきなんだ」

「子供は外で遊ぶべきだろ?なんでSwitchとかDSとかで遊んでるんだ!ダメだろ!」

「女はメイクして当たり前。ノーメイクで過ごすな。」

「結婚してんのに料理しないとか…嫁が台所に立つべきで、旦那は台所には足を入れるもんじゃない。」

というのもそうですね。

 

キリスト教界隈ですと

「信徒なら聖書読まないと!」

「礼拝は絶対に来ないとダメよ?」

「什一献金するのは当たり前。」

というもの。

 

「ホルモン療法じゃなくて絶対抗がん剤使わないとダメだって!」

「抗がん剤は絶対使っちゃダメよ!それより放置したほうがいいらしいから!」

「ダメダメ!それより〇〇食べたら治るって!標準治療とかやらずに〇〇すべきだって!」

「治したいなら〇〇の△△先生の所行って除霊してもらわないとダメだよ」

などなど、上げだしたらキリがないくらい出てきますね。

~すべき思考は本当に陥りやすいです。

 

 

 

9. レッテル貼り

 

あるひとつの事柄で相手の価値を決めつける考え方です。

これも私たちは陥りやすい認知の歪みですよ。

 

「あそこの中学で万引きした子が捕まったらしいよ。あの中学ダメだね~。」

「あの先生が出してくれた薬で副作用出ちゃった。あの先生、藪医者だよ。」

「あの人イラスト描くんだよね。オタクだよ。近寄ったら危ないから無視しよ~。」

「最近世の中がすごく便利になったよね。でも便利になりすぎ。今の世の中はダメだわ。昔が一番いい。」

「大事なプレゼンあるのに寝坊した…はぁ、自分は何やってもダメだ。」

「みんなが頑張れてる〇〇なのに私は出来なかった。どうせ私はダメ人間だし。」

というものですね。

 

 

 

 

それにしても、なぜ認知がこうも歪んでしまうのでしょうか?

それは自己肯定感が下がっているからです。

 

 

自己肯定感は自分に対する存在意義をヨシと認める感情です。

 

 

他者との接し方に【やっつけるメッセージ】というのがあります。

 

 

認知の歪みに出てきた内容がことごとく出ている言葉なのがわかりますか?

~すべき思考、欠点だけを見ている、3項目目は侮辱ですよね。

感情で決めつけているのが4つ目。

 

これらは否定的なメッセージで、これを受けると誰でも自分は非難された、低評価を下された、からかわれた、批判された、恥をかかされたと感じるのです。

 

この言葉を言われ続けると、こちらの認知が歪んできます。

 

そして、自分で自分をこんな言葉で否定し続けることになります。

自分で自分をイジメている状態ですね。

 

これは実に不公平です!

ですから、自分を褒めましょう!

 

私たちにはこう否定面ばかり思いやすい傾向があります。

だからこそ、それと違う良い面も認めてあげてほしいです。

 

5つ自分を否定したなら5つ自分を無理やりにでも褒めてください。

5つ褒めるのが難しかったら3つでもいいのです。

 

褒める内容な何でも構いません。

「朝頑張って起きれた!私偉い!頑張った!」

「買い物行った!」「料理作った!」

「仕事行けた!」「電車乗った!」

このレベルから褒めてください。

 

私の場合…今日の褒めることは…

今日も頑張って体操と筋トレできた!ダンベル

モスバーガー美味しい~~!!ハンバーガー

熱中症対策ちゃんとやった!カキ氷

ですね爆  笑

 

 

私たちは自分を褒め慣れていません。

ですから、少しずつ、小さなことから褒めていって認知が歪むのを少しずつ解消していきましょう!

こんにちは、なぎさです。

 

前回、カウンセリング心理学についてのお話を書きました。

今回はもう少しそこを掘り下げながら、クリスチャンカウンセリング(キリスト教的カウンセリング)という内容で考えていきたいと思います。

 

カウンセラーさん向けの内容になるかもしれません。

わけわからないよ!という方はスルーしてくださいませ。

 

 

 

まず、カウンセリングという行為ですが、これを行うには「カウンセリング理論」が必要になります。

そしてカウンセリング理論を導き出すには心理学が必要になります。

心理学を体系化するには人間学が必要になってきます。

 

つまり、

 

大きな土台として人間学があり、その人間学の上に心理学がある。

これらをベースとしてカウンセリング理論が成り立ち、その理論に基づいてカウンセリングを行う…と、こういう構造になっています。

 

 

■人間学

(1)人間学について

人間学は人格科学…つまり、人間を扱う科学ということになります。

 

では科学とはなんだ?になります。

  1. 非人格を扱う
    人間側が”それ”に働きかけて、実験と観察によって”それ”を知る事。
  2. 人格を扱う(人間学)
    人格である私から別人格である”相手”に働きかける。実験と観察だけでは知れない。

人間学では、こちらからの働きかけに対して相手が応答してくることを必要とします。

つまり、相手が主体的な決断で応答して自己開示してくれなければ知る事ができないのですね。

もう少し噛み砕くと、相手が自分のことを打ち明けてくれないと、こちらは何もわからないということです。

 

自分について打ち明けることを「自己開示」といいます。

自己開示は相手を信頼しなければなされることはありません。

信頼できない人に、人は自分の悩みや苦しみを言えないのです。

それはそうですよね。侮辱されたり嘲笑されるかもしれない相手に弱みは見せられません。

 

つまりカウンセリングは、自己開示がなされなければ成立しないのですね。

ということは、カウンセラーから何かを言わせるように相談者さんに強要することはないのです。

信頼関係を築き、そのうえで相談者さんからの自己開示を待つということになります。

 

 

 

 

人間学にはへブル的(聖書的)な「知る」とギリシャ的な「知る」があります。

  • ギリシャ的な「知る」
    =相手についての情報の収集をする
  • へブル的な「知る」
    =人格的な交わりを含めたもの、人格的関係性の中で知る・愛の関係性の中で知る

ギリシャ的思考とヘブル的思考は違います。

 

私たち日本人は元々へブル的思考をします。つまり情緒的感性が強いのです。

一方、ギリシャ的思考では議論に適した論理的思考になります。

現代の科学的根拠(エビデンス)に基づく社会構造や理解は、このギリシャ的思考によります。

 

具体的に何が違うのかと言いますと、例えば「黄色い歓声」という表現。

 

ヘブル的思考をすると「女の子たちが歓喜して叫んでる」と解釈します。

ギリシャ的思考をすると単なる黄色の歓声で、声は黄色ではありませんから何のことやらさっぱりわからない。声に色があるのか?女の子の声が黄色だと仮定し、では成人女性は何色の声なのか、男性は?と検証、実験をしていくことになります。

 

また、「炭坑節」という歌で考えてみますと、「月が出た、三池炭鉱の上に出た。あんまり煙突が高いから、さぞ月も煙たいだろう」をヘブル的思考では情景を思い浮かべて、夜空なんだな、満月なんだな、煙突から煙がもくもく出てるんだなと想像します。

ギリシャ的思考では、月は地球から384,400km離れているのだから、三池炭鉱の上に出ているわけではない。煙突が高くても月にまで煙は到達しない。そもそも月は有機生物ではないのだから煙たいとか思わない…と、こう考えていきます。

 

臨床心理学で扱う病理的personalityでは、脳内の神経伝達物質や神経、血流、栄養素などで様々に「この場合こうなっていく」という科学的な検証と実験を基礎としたエビデンスがあります。

ですからギリシャ的思考でカウンセリングを進めていくことになります。

 

一方、カウンセリング心理学に基づく個と個、個と環境の変化などで起きる、神経やホルモンなどの機能的・器質的・物質的な”精神”ではない【心の問題】は、流動的で変化が激しく、逐一状況が変化します。

この場合はヘブル的思考で、相談者さんと関わる必要が出てくるのですね。

 

 

 

さて、クリスチャンカウンセリングでは単に知的に相手を理解するだけでなく、神格(神様の人格みたいなもの)とカウンセラーの人格的な関係が成立していることを基礎として相談者さんを知るという考え方になります。

神様⇔カウンセラー という関係が成立している+これを基礎としてカウンセラーが相談を受ける─です。

 

人は意識できることが1/10、無意識は9/10と考えます。

この無意識の世界がカウンセリングで現れるのですね。

クライアントの傷ついている部分の保持は、この無意識領域にあるのです。

クリスチャンカウンセリングだけでなくカウンセリング心理学におけるカウンセリングもこの9/10の部分を対話を通して知る工程になりますね。

 

 

★カウンセラーのルール

  1. 相談者さんの問題点はその人の中にあるので、カウンセラーは価値観を押し付けたりしない。
  2. カウンセラーは相談者さん自身にある答えを一緒に見つけ出せるように伴走する。

カウンセラーはその人によってベースにしている理論や療法が違います。

論理療法や精神分析法などたくさんあると思いますが、この場合はそれ以前の軸の部分としてロジャーズのカウンセリング理論がある場合ですね。

 

そこを軸にカウンセリングをする場合、この2つはとても大切なことですね。

 

そうでないと、カウンセラーの中にある「普通」や「常識」と違う相談者さんを、カウンセラーが否定して説教することになってしまいます。

また、カウンセラーが「私が治してあげる」「私が治してあげた」と高慢になってしまいます。

 

カウンセリングは、言語的および非言語的コミュニケーションを通して、健常者の行動変容を試みる人間関係です。─出典:カウンセリング辞典p77r ,國分康孝, 誠信書房

具体的には①問題解決の援助と、②personality成長の援助のいずれかを主目的にした人間関係となります。─出典:カウンセリングの原理p14, 國分康孝, 誠信書房

 

ですから、価値観の押し付けではありませんし、問題解決をしてあげる・成長させてあげるではなく問題解決や成長の「援助」なので、カウンセラーが「私が治しました」「私なら治せます」というのはカウンセリングではないのですね。

 

 

 

さて、相談者さんはカウンセリングの最中にカウンセラーに依存することはあっても、最終的に自立していきます。

しかしカウンセリングが終了しても「先生がいないと生きていけない」という依存が起きている場合、カウンセリングは失敗していることになります。

 

クリスチャンカウンセリングであっても、相談者さんが自立するのが目的であり、相談者さんをクリスチャンにするのが目的ではありません。

これ、とても大切です。テストに出るくらい大切です。

 

クリスチャンカウンセリングは、信徒を増やす目的ではありません!

ですから、「対話をしたら勧誘される」ということはないのですね。

 

相談者さんが何かしらの信仰を持っていても、その中から問題解決のカギを一緒に探していきましょうというのがクリスチャンカウンセラーです。

自他の宗教観に左右されません。

 

チャプレン(臨床宗教家/病院付き牧師)はこの立場にいます。

 

ですから、患者さんがどの信仰を持っていても、どの宗教に属していても関係なく相談を受けられますし、勧誘(キリスト教的に言えば伝道)しないので教会行くよう促されたりするようなことは発生しません。

それやっちゃったら普通の伝道者や牧師です。

 

 

 

■一般的なカウンセリングとクリスチャンカウンセリングの対応の違い

「人間とは」「死について」という質問に対する答えが全く違います。

  • 一般的カウンセリングの視点からの回答
     人間はつまるところ、C(炭素)H(水素)O(酸素)P(リン)N(窒素)の集合体であり、肉体はすべて無に帰する存在である。
     =「人は必ず死ぬものである」ということであり、死を理解しようとするならば死ぬしかない。
     =生きている間は死を理解することができない。
    一般的カウンセリングによるアプローチ法
     →「生きている今、死を理解することができないのであれば、死を恐れる時間はもったいない。そこに時間を使わないで、生きる事に時間を使っていきませんか?」
     
  • クリスチャンカウンセリング視点からの回答
     人は人格的な存在である主によって創造されたものであって、このお方の御旨によって存在が保持されている。
     =主との関係が無関係にならない限り、私たちの存在は意味のあるものであり続ける。
     一度回復した主との個人的関係は絶対に破棄されないので、私たちは生きている間だけでなく死んでもなお、意味ある存在であり続ける。

 

「なぜ生まれてきたのか」「なぜ生きるのか」「生きる意味とは」「死とは」の心の部分の問いに関して、人間には答えることができないとされています。

肉体的な科学的な根拠はいくらでもありますが、心の問いに対して「こうだ」と断言できるソースがないためです。

これに答えることが出来るのは超越者(神仏)のみです。

ですから、特に死生に関わるこのあたりのデリケートな部分の悩みにはクリスチャンカウンセリングが適していると私は断言したいです。

 

 

 

一つの揺るぎない確信を持っている人は、心が安定します。

相談者さんはいわゆるメンタルが安定している人のところに相談をしにいきます。

それは、相談に対して対応が一貫しているからです。

 

一方、不安定な人のところに相談はしに行かないのです。

不安定なカウンセラーでは相談した内容は同じなのに、回答がコロコロと変わってしまいます。

 

ですから、カウンセラーはロジャーズの提唱する「カウンセラーの3条件」の自己一致が必要になるのですね。

 

カウンセラーをやりたい!という方は、まずご自分に揺るぎないモノを持ちましょう。

もし精神状態が不安定なのであれば、まずはそれを治してから!

安定してからにしましょう。

そうでないと、相談者さんの相談は決して軽い内容ではありませんから、重たい内容と相談者さんの感情に引きずられますよ。

抑うつ的な相談内容を聴いて自分まで抑うつになっては共倒れなのです。

 

 

 

■生きる責任に対する一般的解釈と聖書的解釈の決定的な相違点

私たちが暮らすこの実社会では、その人が主体的に「選んだ」行為に対しては必ず「責任」が発生します。

しかし、生まれた事自体を本人が主体的に選択していないため、生きる事に責任を負う事に抵抗を感じる場合があります。

「好きで産まれたんじゃない!」とか「産んでくれなんて頼んでない!!」というものですね。

 

聖書的には創世記で、人は主により創造されて、神様の世界を管理する責任(委託責任)を任命されています。ここでは、創造によって人間は命を委託された責任が出てくる。

つまり、私達人間は被造物として命を委託されている。

ですから選択責任はないのですが委託責任という預かっている命を管理・運営・運用する責任が発生していることになります。

 

 

 

 

■おまけ■

聖書的カウンセリングクリスチャンカウンセリングの違い──

  • 聖書的カウンセリング
    人生の問題はすべて聖書のみことばにより解決できるため、聖書を紐解き聖句に示されていることばを実践するよう指導する。
  • クリスチャンカウンセリング
    クリスチャンのカウンセラーが、カウンセリング理論と技法を用いて相談者さんの抱える問題の相談を受ける。

 

全然違いますからね。

 

例えば困っている内容について、

 

「聖書の〇〇に~~ってみことばがあります。だから祈りなさい。常に主を見上げて主に望みを置きなさい」

 

が聖書的カウンセリングです。

信仰に躓いて苦しんでいる人には本当に有効なものです。

 

カウンセリングと名前はついていますがカウンセリングのルールからは外れていますので、カウンセリングではありませんね。

聖書的指導とか指南になります。

 

悩みを相談して実社会的に自分はどう行動を変容すればいいのか、どう認知を転換すればいいのか、信仰とかではなくリアルにどう動けばいいのか悩んでいる場合は、聖書的カウンセリングは「押し付けられた」と感じるだけで、効果としては無効でしょう。

むしろ逆効果ですね。

勧誘された!とか、信徒さんであれば律法主義か!と感じます。

 

 

悩みによって対応の仕方は変わります。

カウンセラーは、自分はどんな領域のカウンセリングならストレスを感じないのだろうか、自分の得意分野は何かを知る必要があるのではないでしょうか。

それだけでなく、自分はどんなカウンセリングが苦手なのか、何ができないのかも知りましょう。

 

自分でできないケースはできる方にリファーする。

カウンセラーたちの横の繋がりで様々な人を幅広くチームのようにフォローできると、みんなが楽になりますね!

 

ということで、クリスチャンカウンセリングならお任せあれ。

私は一般的分野では、家庭(親子)・夫婦・職場の人間関係を得意としています。

また臨床では、がん患者さんの中でも特に死を意識して死について気持ちの整理が付けられない方の傾聴と実存的(スピリチュアル的)支援を得意としています。

このスピリチュアルは前世/先祖が~とか、なんとかカラーとか、どこどこのなんとかスポットとか、何から何かのなんとかパワーが、というオカルトスピリチュアルではなく生きる/死ぬという自分の実存に関わるものです。

私が扱うスピリチュアルはこちらです。

 

手を付けないのは精神障害者支援ですね。

この病理的パーソナリティに関与する場合、私は速やかに保健所と連携しバトンを保健師に回します。

また臨床であればそのまま主治医/担当医に報告します。医師の判断により精神科コンサルがなされます。

前職が精神科病院勤務ですので精神疾患は嫌いではなく、むしろとても興味深くて今でも学び続けている分野ですが、相談内容が私にはどうも重たく感じてしまうのです。

ですから手を出しません。

 

ご家族の支援はしていますが、こちらはメインとなる後見人を含めた今後の対応策を練ることや、病気の説明、家族教育などに協力いたします。

 

 

 

 

必要であればお声がけください。

 

 

こんにちは、なぎさです。

 

今回は「ドヤらない主イエス」という内容です。

ということで神学方面のお話。

 

 

イエス・キリストが行くところ行くところ、いつも人々がたくさんついて来ていました。

 

「ナザレのイエス(ナザレ地方出身のイエス)が今、このあたりに来てるらしい。あの人に触れると病気もたちどころに良くなるらしい。」

 

みたいな噂は各地域に駆け巡ったようです。

多くの人が主イエスの周りに集まります。

 

聖書中では色々な人が主の周りに集っています。

眼が見えない人、耳が聞こえない人、足に障害のある人、ツァラアトと呼ばれる現在でも謎の重たい皮膚病の人、長血と呼ばれる女性器からの不正出血の人、脳出血などで不随や麻痺の中風(ちゅうぶ)と呼ばれる人などが、なんとか治りたい必死な思いで主イエスに近寄り、

 

「せめてその服についてる房でもいいから触れたい!そしたら治る!」

「助けてください!」

 

と手を伸ばす。

そんな状況が起きたりしていました。

 

主イエスはそんな彼らの病気や障害を癒していきます。

 

このように主イエスは弱って困って苦しんで助けを求めている人に癒しを与えた時に、

 

「わたしがあなたを治しました」

「わたしがあなたを赦しました」

 

ドヤァニヤリしないのです。

 

「わたしが困ってるあなたを助けてあげました。だから、わたしを信仰しなさい」

 

とは言わず

 

「あなたの信仰があなたを救ったのです。」

 

と手を伸ばした苦しむ人々にその栄光を与えてくれています。

 

 

 

新約聖書(新改訳2017版)で見てみましょう。

 

イエスは振り向いて、彼女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、その時から彼女は癒された。

─マタイ9:22

 

イエスは彼女に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。

─マルコ10:52

 

イエスは彼女に言われた。「あなたの信仰ああなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

─ルカ7:50

 

イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

─ルカ8:48

 

それからイエスはその人に言われた。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」

─ルカ17:19

 

イエスは彼に言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました。」

─ルカ18:42

 

新約聖書では並行(へいこう)記事と呼ばれるものがあります。

ある1つの内容を4つある福音書(マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書)のうちいくつかの書で、同じ角度かまたは少し別の表現で描写されているものです。

 

単純にそれぞれの福音書を執筆したマタイさんやルカさんが書きたくてそう書いたというのではなく、聖書に書かれている事はすべてに何かしらの意味があると考えるので、並行記事にも何らかの意味があります。

 

この「あなたの信仰があなたを救った」ということばはとても重要なものだと思います。

 

 

このことばを理解するにはまず、救いとはなんだ?を知る必要があります。

↑のリンク先の私の記事を読んでいただけるとわかるのですが、キリスト教のいう「救い」とは「解放」を意味します。

 

ですから、あなたの信仰があなたを解放した、ということになりますね。

 

では主イエスにこう言われた人は何から解放されたのでしょうか。

 

病からの解放だけではありません。

病によって人々から、世間から人間以下の扱いを受けていた苦しみ、妬み、嫉み、苛立ち、絶望、孤独、罪責感など…これらから解放されました。

 

ではなぜ、彼らは解放されたのでしょうか。

 

それは「イエス様なら私を癒してくださるんだ」と信じたからです。

 

 

この舞台は2000年ほど前の中東にある現イスラエルの出来事なのですが、この頃は信仰心は極々当たり前の世界です。

 

日本は2020年、令和2年現在、皇紀2680年です。

皇紀(こうき)は日本独自の暦の読み方ですが、これは神武天皇即位からカウントスタートしています。

同じように日本でも昔は信仰心があるのは極々当たり前の世界です。

現代は随分と神仏に対する信仰心は薄れましたが…。

 

 

そこで疑問が出てきます。

どうやって信じればいいのでしょうか。

 

キリスト教では、信仰心…神様を信じる気持ちは、人間が自力で「よし!信じるぞ!!」と頑張って得るものではなく、神様から恵みとして与えられると理解しています。

 

癒してほしい、助けてほしいと苦難の中にある時に願うことはほとんどの方がそうであると思います。

その時に誰にそれを願うのか。

 

神様にそう頼る信仰心も、神様が与えてくださいました。

神様は全知全能。 完全で、欠けるところのない知能。すべてのことを理解し、あらゆることを行なうことのできる神の能力です。─出典:コトバンク

 

この神様が与えてくださった信じる気持ちが、苦しみから解放してくれる…ということなのですね。

 

 

主イエスは確かに人間として2000年くらい前に母マリアから産まれているのですが、人間であり、また完全に神なのです。キリスト教のいう「罪」がまったくない方です。

そして主イエスは人間としてこの世に現れる以前、世界を創造した神なのです。

 

結局、信じる気持ちも主イエスが与えているのですが、それなのにドヤァとしないのです。

ドヤァできる要素しかないのにしない。

 

優しすぎませんか。

 

私たちの子供がまだ幼いとしましょう。

我が子ができるようにすべてをお膳立てして、手取り足取りできるように誘導をして、なんとか不格好ながらもできた我が子に

 

「じょうずだね!すごい!!」

 

とか言うような感じです。

 

子供が料理の味見をしてくれただけなのに

 

「今日のご飯ね、〇〇ちゃんが味見してくれたからこんなに美味しいんだよ!」

 

と言うような感じです。

 

 

そんな優しさ、親の無条件な見返りを求めない愛、育てようとしている愛が主イエスにはあるのです。

だからドヤらないんですね。

 

イエス様、ホントに優しい方です。

そんな神様が私たち一人ひとりを知っていて大切に思っています。

こんにちは、なぎさです。

 

今回は私の備忘録的な心理学の内容になります。

 

カウンセリングなどで相談をお受けする立場の者は、まず、おおよそがカウンセリング理論や技能だけでなく何かしらの心理学を学んでいるはずです。

 

医療の分野だけでなく社会福祉や児童福祉、教育分野や司法・犯罪、産業・労働分野など、そのほとんどにおいては精神疾患領域の精神分析や心理検査、知能検査などが関係しているため、臨床心理学の履修は多くの人が学んでいることと思います。

 

心理学とはざっくりと2つに分かれます。

 

まずは【基礎心理学】。

これは ”人間の心ってなんだ?””人間のメンタルってどんな経過をたどるのか?””人間って何をするとどういう気持ちが出てるのか?”の部分です。

 

人間の体ってなんだ?になると解剖生理学になるでしょうし、科学的な目線で人間ってなんだ?になると人間科学になりますね。神様目線で人間ってなんだ?になると神学です。

…個人的に今の仕事を始めてから、人間科学を大学で学びたいです。照れ

 

具体的には

  • 認知心理学
  • 学習心理学
  • 行動心理学
  • 知覚心理学
  • 神経心理学
  • 生理心理学
  • 発達心理学
  • 人格心理学
  • 社会心理学

があります。

 

次に【応用心理学】。

これはある分野や領域により専門的にフォーカスした学問になります。

  • 臨床心理学
  • 犯罪心理学
  • 産業心理学
  • 教育心理学
  • 災害心理学
  • スポーツ心理学

があります。

 

私は基礎では行動心理士資格を持っているので行動心理学な人です。

例えばテーブルを挟んでお話をする時に両手を私に見せないようにしていたり、親指を隠して手を握っていたり、足をキチッと揃えていたり、または足を交叉させていたり、つま先が別の方向を向いていたり、腰に手を置く親指が上向きか下向きか、目線をどこにやっているか…などでどんな感情を持っているのか読み解けます。

嘘をおおよそ見抜けます爆  笑

 

逆に何をしたら好感を得られるのかもわかるので、患者さんとお話するときは必ず足先は患者さんのほうを向けて手を隠さないようにしています。患者さんのほうを向いて私が対話するのには行動心理学的な理由があるんです照れ

 

応用では…確かに臨床心理学はやってるんですけども…私はこの一覧にはない【カウンセリング心理学】な人です。

 

これは心理学者の國分康孝先生がよく著本でも明言されていた心理学で、私はこれに沿っています。私のカウンセリングの形を体系化しているのは國分先生の理論が大きいです。

 

さて、カウンセリング心理学ってなんだろうか?というのが今回の内容です。

少しややこしいかもしれませんので、気になる方だけどうぞ。

國分康孝先生のカウンセリング心理学入門からまとめていきます。

 

 

 

 

 

 

 

【カウンセリング心理学とは】

(1)日常生活で誰もが遭遇する問題にどう対処するかを研究・実践し、その結果をひとつの知識体系にまとめようとする心理学。

 

(2)カウンセリング心理学がとりあげる問題の特徴は個と個との関係、あるいは個と環境との相互作用を内容とすることが多い。いわゆるinter-personalな問題(対人関係の問題)、あるいはperson-environment(個と環境の相互作用)である。個体内(intra-personal)の問題に全く関与しないわけではないが、ウェイトは個と個、個と環境の相互作用におかれてる。心理学者クルト・レヴィンのいう「行動は個と環境の相互作用の結果である。」という考えにカウンセリング心理学は近い。

 

(3)カウンセリング心理学はpsychotherapy(心理療法)を拒否しているわけではない。ウェイトを病理的personalityの変容におくよりも健常者の思考・行動・感情の修正においている。つまり、personality changeよりはbehavior changeにウェイトをおいている。

 

(4)したがって、治療よりも予防・開発(教育)にカウンセリング心理学はウェイトがあるといえる。

 

(5)ということは、長期にわたり人格の深層部を探索するとか過去を遠くさかのぼる援助法ではなく、短期間の援助、面接回数の少ない(多くても15回前後)援助が主になるといえる。

 

(6)仮に病理的personalityを援助する場合でも、病理的側面に焦点を合わせるより、「この人は何ができるか」と健常な部分に焦点を合わせる傾向が強い。

 

 

 

理論としては次の6つの論議の総称となる。

  1. 人間観:人間とは何か、人間をどう見るか。
  2. 性格論:性格とは何か、それはどのように形成されるか。
  3. 問題発生:問題行動はどうして起こるか。発生の機制は何か。(医学でいう病理学)
  4. 援助目標:「治る」とは何か。健常とは何か。目的地はどこか。
  5. カウンセラーの役割:目標た生のためにカウンセラーは何をなすべきか。
  6. クライアントの役割:目標達成のためにクライアントは何をなすべきか。
  7. 限界:その理論が適用できない問題や対象は何か。

 

 

要するに…

カウンセリング心理学とは──

職場・学校・家庭(親子、夫婦)において

  • いかにより良い人間関係を築くか
  • いかに快適な社会生活を営むか

それをサポートするための学問です。

精神科領域の疾患にまつわる解析・解明・援助ではありませんから臨床心理学とは違うことがわかります。

 

 

カウンセリング心理学の視点からみる「人間関係をつくり、維持する原則」は──

  • 人の気持ちがわかる
  • 人を裁かない
  • give and take

となります。

 

 

カウンセリング心理学の諸理論・諸概念からみた「幸福な社会生活を営むのに最低限学習しておくに値する感情」は──

  1. 感謝、ありがたいという気持ち(内観法)
  2. 嬉しい、楽しいという気持ち(快楽原則※1、交流分析のFC)
  3. 勇気、正義感、楽しくはないがすべきだからするという気持ち(超自我※2、実存主義でいう「意味」の発見)
  4. 損得勘定(自我、交流分析のA)
  5. 恥ずかしい、申し訳ない、気の毒、可哀想という気持ち(超自我、交流分析のNP)
  6. 自信、自己肯定感(自己理論の「自己一致」)

となります。

このため、内観療法がどういうものか知るだけでなく、交流分析のエゴグラム解析やロジャーズの来談者中心療法は最低限できることが望ましいのではないかと思います。

 

※1 快楽原則: 食・性・睡眠・休息などの基本的欲求を満たしたい願望があること。対をなすのが現実原則で、したくなくともせねばならないルールや義理を行うこと。快楽原則に偏向すると①わがまま②遊び人③怠け者になる傾向があり、現実原則に偏向すると①常識人②遊び心に乏しい人③我慢一筋の人④そつのない人になる傾向がある。

※2 超自我: 上位自我、スーパーエゴ。俗にいう良心を指す。幼少期に父母のしつけ(禁止・命令)を取り入れて形成される。超自我が低いと厚顔無恥傾向になり、超自我が高いと自己懲罰傾向になる。

 

 

 

 

以上がざっくりとした説明となります。

ですから、私が扱う相談領域は「臨床心理士(公認心理師)がいればそれでいいんじゃないの?」という漫画の問いに対してあのような回答になるわけです。

 

ちなみに國分先生の論考では、このようなカウンセリング心理学が扱うカウンセリング領域は実に幅広く、一見簡単そうに見えるが実はとても必要とする社会知識の幅も広いことや、これらを病理的personalityを扱う臨床心理士が扱うのは違うだろうという指摘、また、臨床心理が上位にありカウンセリング心理学は取るに足らないもののように低く見られるのはおかしいとの指摘もあります。

どちらが優れているのではなく、別のものとしてそれぞれが重要であるとあります。

私もそれは強く思います。

 

精神科や心療内科においては病理的personalityに対するものですから臨床心理学が重要となりますが、身体疾患における緩和ケアになってくるとカウンセリング心理学も参入すべきではないかと考えています。

しかし、現状は臨床心理士と公認心理師以外は病院では心理職としてほぼ認められていませんので、参入の仕様がない。

カウンセリング心理学からカウンセリングが出来る者がいるにも関わらず、また患者さんが必要としているにも関わらず、その現場に入れない状況に私は何とかならないものかな…と思っています…。