偏屈な親父による「デジタルカメラ」ぶらり日記 -630ページ目

「ひたちなか海浜鉄道」株式会社

【ひたちなか海浜鉄道・中根駅】

駐車場・トイレもない無人駅です。駅周辺に路駐は小生のみ。カメラ片手の「鉄ちゃん」が20人程、駅周辺で撮影していました。JR勝田駅から電車に乗って中根駅で降りたと言う事なのだろう。目的の電車に乗って、目的の電車を撮影する。流石「鉄ちゃん」、心意気が違う。何故か全員若者でした。
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●ひたちなか市と茨城交通㈱が出資する第三セクター。

■2008年4月1日、茨城交通㈱から湊線を引継いで開業。

◆JR常磐線勝田駅から阿字ヶ浦駅までの14.3km。
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昔は良かった【茨城交通湊線】①

海水浴シーズンの日曜日、国鉄上野駅から勝田駅を経由して、阿字ヶ浦駅往復の直通急行が一日に何便かありました。
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昔は良かった【茨城交通湊線】②

昭和40年代、小生は高校へ通学するのに湊線を利用しました。那珂湊市から勝田駅周辺の日立製作所五工場への通勤もこの電車でした。確か七両編成でホームから電車がはみ出していたのを記憶しています。偏屈な親父による「デジタルカメラ」初老日記

昔は良かった【茨城交通湊線】③

那珂湊港に水揚げされた魚の運搬にも湊線が利用されていました。貨物列車が走っていたなんて現状からみて信じられません。
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常磐道とつながる東水戸道路が写真(2・3枚目)に写っています。GW大型連休中に「ひたち海浜公園」へ向かう車で大渋滞でした。チューリップ・ネモフィラが満開と色々なテレビ番組で放送されました。毎年のことですが、常陸那珂港地区には近づけません。

瓜連城址「常福寺」の八重桜

茨城県那珂市(旧瓜連町)常福寺」本堂。このあたりが「瓜連城」の本丸があった場所と言われている。
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【瓜連城】

●築城時期は鎌倉時代と推定される。

■鎌倉時代に那珂台地の支配者だった那珂氏関連の城か?

◆那珂台地の最北に位置し、棚倉街道に面した交通の要衝。

★鎌倉時代の佐竹氏勢力範囲は久慈川以北で、那珂台地に及ばない。

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【南北朝の争乱】

●北朝方(足利尊氏)…佐竹貞義・義篤の父子

■南朝方(後醍醐天皇)…楠木正成の甥・楠木正家

◆延元元年(1336年)瓜連城が落城し、北朝・佐竹氏が勝利した。

★南朝方の瓜連城へのこだわり…南朝方の有力な荘園があったから。

※佐竹氏は、不遇の鎌倉期を耐え忍び、室町期に大躍進する。
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「常福寺」の北側一面に「瓜連城」の遺構が残っている。土塁の斜面に遅咲きの「八重桜」が咲き乱れていた。

瓜連城址に建つ「常福寺」

「常福寺」は、旧瓜連町(那珂市)にある浄土宗の寺です。混沌とした南北朝の時代である延元元年(1336年)に開山した。北朝足利方の佐竹貞義が南朝後醍醐天皇方の楠正家に勝利した。瓜連城跡である現在の地に移ったのは応永12年(1405年)です。佐竹氏躍進の遠因である場所で手厚い保護を受けて繁栄した。江戸期に入り、佐竹氏秋田移封後の領主である徳川宗家と水戸徳川家との関係も良好だった。徳川家康と水戸藩初代・頼房の庇護を受けた。波乱万丈の歴史に揺れた常陸国寺社の中でで恵まれた環境にあった。

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【山門】
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【唐門から蓮華院と本堂】
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【唐門から本堂】
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【開山堂と鐘楼】
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【本堂】
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