G.ギュンスター著「ドイツ政治思想へのコミューンのインパクト」 | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

G.ギュンスター著「ドイツ政治思想へのコミューンのインパクト」

Grützner Günster, The Impact of the Commune on Political Thought in Germany

 

2種のコミューンの神秘についての直接的影響と出現

 政治思想へのコミューンの影響を研究してまず明らかになったことは、政治に関連する要素としてコミューンを際立たせるものが蜂起そのものの歴史的事実ではなくて、その周りで育まれた伝説のほうである。コミューンの発端から1871年春のパリの叛乱(ボルドーとヴェルサイユ保守的降伏派に対する愛国的・排外主義的謀反)はフランス政府の通信が直ちに誤報を流した事実により、国際政治上で重要な位置づけを与えられた。誤報によると、インターナショナルが革命運動を創始し、パリで権力を掌握したという。

 このアカ新聞の目覚ましい成功の必要な代理人として機能した少しばかりの真理は以下の単純な事実にある。つまり、国民衛兵が非常に不承不承に革命的行動に参加したのはインターナショナル・パリ支部の国家主義的なメンバーであったという事実がそれだ。じっさい、運動そのものはほとんど専らジャコバン派とブランキ派の精神により決定され、p.266 その要求はごく少数の誇張された宣言を例外としてパリの状況にのみ関連していた。コミューン議会選挙が終わると、蜂起で決定的役割を演じた労働者は議会で少数派を構成し、その少数派のまた僅かの半分のみがプルードン派のインターナショナル加盟員だったことが明らかになった。それにもかかわらず、インターナショナル社会主義について、果ては共産主義革命についての嘘がどこでも容易に受け容れられた。多くの異なった国々の階級意識をもつ労働者は自発的に賛成のデモを爆発させた。そして、とりわけドイツにおけるブルジョアジーに属する人々は1848年以来、日常茶飯事となっていたいわゆる「赤い妖怪」がもたらした恐怖により再び虜となった。パリ叛乱のこのような解釈から決定的な妨げを受けたのは、自由主義ブルジョアジーと初期プロレタリア運動の敵対的分離 ― フランスでも事情は同じで1848年6月まで遡るが ― その土着自由主義にもとづく革命意識の最後の迸りを消滅させたのは、パリの1871年の諸事件がドイツに与えた印象である。じっさい、フランスのコミューンの真っ先の明らかな影響のひとつは、それがヨーロッパの階級間の不均衡問題をそれまでになく悪化させたことである。

 こうした事実は当時のドイツの日刊紙に影響を与えた。パリの事件の評価において半官的・保守的、そして同時にカトリック的でもある諸新聞はいわゆる共産主義者の謀反をフランス革命思想の不可避的・自然的所産と見なすことにより、また、今やブルジョアジーがプロレタリアート活動の標的となったとの満足感を込めて指摘することにより、自由主義派を攻撃しはじめた。それらの新聞はフランスの首都での事件を、フランスに根づく道徳的腐敗の根本的に犯罪的な暴発と見なした。これとは対照的に、社会主義派の新聞はコミューンを、「赤い妖怪」の画期的勝利として祝福し、(諸紙が見込みのないと見なした)パリの労働者体制の敗北でさえ、一時的で短期の性質のものにすぎないとの見解を表明した。情熱を込めて推進されたその重要性に関する意見の相違は必然的に、さまざまな政治的党派の新聞において最も激烈な相互攻撃へと導いた。

 ドイツの2派の社会主義者、すなわち、ドイツ労働者総同盟と社会民主党の両党派はともに1870年中はフランス共和国の宣言を歓迎する点で同一だったが、今やすべてのブルジョア的・保守的政党によって最も激しい告発と批難を受けたコミュナールに対し、連帯と挨拶の宣言を送るようになった。p.267 土着の社会民主党の行為は非社会主義グループでは裏切り的かつ挑発的なものと受け止められたが、ドイツ大衆の政治的意識が大きなインパクトを受けたのはドイツ帝国議会での社会民主党議員ベーベル(Bebel)の演説だった。ベーベルは他の事がらにも言及したが、中でもブルジョア新聞による虚偽情報の宣伝を攻撃して次のように述べた。すなわち、ドイツではそのような状況下でもけっして実施されるようなことのない、特に高度な金融政策に向かっての大きな節制にコミューンが取りかかっていた、と。そのうえ、ベーベルはコミューンの「筋の通った核心」に関するビスマルクの解釈を嘲笑した。この核心こそ、歴史的にみて効果があり、ベーベルの言によるとプロイセン都市条例の確立を狙ったものであった。最後にベーベルはパリの運動を、今後数十年以内には全ヨーロッパに燃え上がるかもしれない、小さな「前哨での小競り合い」として特徴づけた。

 ベーベルの声明に端を発した新聞論争で表明された異常な激昂は、パリの血の1週間の諸事件が覚醒させたドイツの大衆感情が受けた徴候として理解された。一方、コミューンの敵は連盟兵による放火や人質処刑の大規模な実例に利用しうる確固たる証拠を見出したと考えた。これらの実例はコミューンの敵にとっては恐るべき社会的・共産主義的でさえある革命の最も典型的な顕われを究極的に示すものであった。他方、無能ぶりを露呈したフランス史における一時的エピソードであるにとどまったかもしれないコミューンは、ヴェルサイユ派兵士による限りなく行きすぎ行為、前例のない残虐行為によって真に悲劇的な偉大さの高みに到達した。政府軍が犯した驚くべき大虐殺の犠牲となったのがパリの職人と労働階級が大部分だったという事実は必然的にこの階層に対してプロレタリア的性格を与え、社会主義運動の枠内で不滅の名声を与えた。このような方法で醸成された感情はブノワ・マロン(Benoît Malon)により世界中で最も抗しがたい革命権力と特徴づけられる一種の「センチメンタリズム」を生みだす可能性があると見なされた。

 前述の相対立する2党派、すなわちコミューンに対しての神話的な悲観的態度と好意的神秘の態度において、現実的歴史事件の影響は原則的に己自身を露わにしたのかもしれない。フランスの首都における戦いの直後、コミューンを最も強く褒め称えた擁護説はドイツで表明された。歴史的インパクトを与える点で超えがたい作品であるカール・マルクスの『フランスの内乱』はパリの直近の事件からよく論議された革命の神秘をつくりだした。ここでマルクスは複雑な現象を単純化し、理想化するとともに、その現象に世界史の観点からみてp.268 重要な労働者革命と宣言することにより共通の歴史的公分母をもたらした。プルードンとバクーニンの思想に影響されたとはいえ、事実的にぞんざいで、かつほとんど偶発的に編集された連盟のコミューン綱領はマルクスの手放しの是認と称賛をかちえた。時を同じくしてマルクスの思想にまったく矛盾するこれらの思想の採用はマルクス主義の真の性格について引き続いて起こる不和の根源となった。だが、その時、いわゆるマルクスの『総評議会の檄』において彼が事実に反してコミューンをインターナショナルと同一視した。そのことによりインターナショナル組織 ― ドイツでも深く根ざしていたが ― にフランスの内乱に関して物議を醸し出す遺産を与えたことは遥かに重要なことだった。

 この結果として社会主義労働運動をフランスの叛乱と共謀させるという誤った見解は一般に受容された変造となり、それ自身が以後も歴史をもつことになった。

 

 

1914年までの発展におけるコミューンの重要性;社会民主主義を抑圧する議会の企図に対する影響

  パリの事件以来明白になった事実としてのインターナショナルの破壊的な力の存在に言及することでビスマルクはその外交政策面でオーストリアとの合意に達しようとした。1872年9月のベルリンで開催された3帝会議はこの目的だった。国内政策は抑圧策を執るうえで具体的な形をとった同じ概念に導かれた。

 ビスマルクは「帝国出版条例」により不快な社会主義的出版物を抑圧しようとつとめた。条例の起源と本文はパリの叛乱の余波を受けて味わった経験のインパクトを明瞭に反映している。帝国議会で法案が否決されたことは、法律の屁理屈的解釈を基礎にして政治的労働運動に対する切迫した法的手続きの始まりを意味した。たとえば、「コミューンを称賛する」罪に値する行為は階級憎悪の教唆の見出しのもとで一括された。労働者組織を社会主義労働党に統合するための最後の決定的要素となったのは、1874年の帝国議会の選挙ののち両党党員に対する同等条件で適用されることになる、抑圧のための切迫した法的手段であった。その選挙で社会主義者は相対的に勝利を収めていた。

 政府がきわめて驚愕したのは、この2つの労働者党の統合ののち、ビスマルクが刑法に修正を施すよう提案し、階級憎悪をより広範囲な基礎において扇動するという名目によりに起訴の可能性を与えることになった。p.269 討議のあいだ、パリの叛乱 ― 議会での相互の徴発の永続的対象となった ― が再び議論の的となった。そして、それはベーベルの1871年の有名な声明に常に言及するのが習わしとなった。

 同様に、社会民主党に向けられ、1878年のヴィルヘルム皇帝暗殺の2度の試みののち導入された緊急措置法に関する議論が続けられたのち、緊急措置法の賛否はパリ・コミューンの叛乱の発生から取った実例によって例証された。ここで、1871年のベーベルのコミューン檄文がビスマルクに、社会主義の危険およびそれとたたかうことの必要性を明示し、突然スポットライトを浴びせた、とビスマルクが述べたことでドイツの大衆を驚かした。つづく討議においてビスマルクは、コミューン暴動ののちインターナショナルがその実験的作戦をドイツに移動させたというような見解を明らかにした。

 緊急措置法が発効した12年間、社会民主党においてしだいに激しくなる憤激は社会民主党議員のハッセルマン(Hasselmann)が公然とニヒリズムを告白し、コミュナールと無政府主義者は真似する価値があると宣言した1880年、法の拡張に関する討議中における実例を提供した。この声明と新聞上での生きたコメントの題材は当然のことながら、投票にとって好ましからざる結果をもたらした。そして、内務大臣プットカマー(Puttkammer)は、反社会主義法はおそらく1871年のコミューンに比定すべきドイツの破局を阻止したと述べる。

 一般的に言って、社会民主党の根本的なムードはパリ暴動に、殊に重点が置かれた選挙ビラや非合法パンフレットに例証されるように、その頃クライマックスに達した。この態度は1884年以降、少なくとも帝国議会における扱いが変わる運命にあった。社会民主党議員リッティグンクハウゼン(Rittinghausen)がベーベル声明の引用や社会主義者に対するコミューンの例をしつこく利用するのをやめようと訴えてのちのことである。彼は言いつづける。社会民主党はコミューンに何ら関係がないばかりか、それから何も学び取っていない、と。続く数年間、社会主義者の代議士は一般原理としてフランスの叛乱がいつ、いかなる時に述べられても自分らは無関係であると述べ、非挑発的態度を維持した。

 しかし、右派は社会民主党をコミューンの亡霊と因縁づける試みを続行。緊急措置法の拡大に関して最終討論が続いているとき、その法案説明での政府は露骨なやり方でコミューン恐怖を煽った。政府は投票に影響を与える手段として捏造史料さえ使った。p.270 法案の最終的に否決されるいたる重要な要素は、社会民主党が公衆に対しコミューンに関する史実の偽造と巧妙な取り扱いを暴露することに成功した事実であった。

 コミューン協議が続いている間、社会主義者が示した比較的新しい態度はその政党の現実的態度に即応するものであった。パウル・カンプマイヤー(Paul Kampffmeyer)が言っているように、「社会民主党がコミューンを称賛したというあらゆる当てつけ行為はドイツ社会民主主義の典型を反映するものではない。コミューンはその根本的性格において暴力革命的なブランキの運動であり、したがって、明らかに合法的・社会民主主義的なものではない。」これとは逆に、パリ暴動の運命はドイツ労働者党の暴力行為に挑発されることのないよう緊急警報として役立った。

 

ドイツのブルジョアジーによる改革とコミューンの批判的評価における反面勢力についてのコミューンの役割

 帝国の根本的権威主義的性格と一致しない民主社会主義に対する政府の抑圧措置と並行し、社会改革手段によるこの驚くべき国内発展を維持する補完的努力が追求された。コミューンに関する謬見は「社会問題」を前面に押しだすことになったが、しかし、この社会政策の新コースは極めて躊躇いがちながら始まり、成功の見込みはほとんどなかった。社会立法のかたちで具体的成果が挙がったのは、社会民主党を狙い撃ちした緊急措置法の最中においてのみであった。

 だが、ドイツのブルジョアジーの中でもあちこちで社会改革の必要性を説く声が挙がった。政治経済学者のロドベルトゥス(Rodbertus)はドイツの新聞に叱咤してパリ暴動の悪弊という語を使わせた。彼の指摘によれば、歴史的見地からして、パリの暴動はドイツ帝国の基礎の上辺を示すものであり、ドイツがその国民的問題を解決すれば、その社会問題をも今や解決するであろうという神託によるヒントともなった。

 無神論を導く結果になった宗教の自由の抑圧の中にパリ暴動の究極的原因を看取した歴史家フォン・ジベル(von Sibel)はイギリスの例を引きあいに出しつつ、国家による社会立法を示唆し、パリ暴動でのバクーニンの役割に言及しながら労働階級の急進化の可能性について警告を発した。

 フランスの「壁新聞」は概して社会問題に関して夥しい数の作品を残した。そうした出版物はたいていの場合、社会革命の恐怖感を撒き散らした。p.271 1871年以降、社会政策の重要性を前々から力説していたいわゆる講談社会主義者たちは演説や出版物を使って頻繁に大衆にアピールするようになった。

 重要な探究はプロテスタントとカトリックによりコミューンとインターナショナルの歴史的背景に依りつつなされた。社会主義的・ジャコバン的という「2筋の流れ」が語られた。ルソーに始まりバブーフとブランキを通して伸びる思潮は1848年6月暴動へ、そしてパリの叛乱へと続くとされた。他の箇所でも「反社会的自然法国家と契約を社会原理に高めること、ヘーゲルの「歴史の神格化」はいうに及ばず、彼の社会急進主義の根幹としての「権力勝利の崇拝」についてのホッブスとルソーの原理などが認められた。これらの思想から発展してきた信念、すなわち人手でつくられたものは人手で修正できるという考え方がフランス革命の社会的実験・潮流の原因であった。だが、そのような性質をもつ社会モデルを立案し実施に移すとき、これら理論家が特に強調したのは人間の理想ではなく、現実の本性を考慮に入れることが特に重要であるということである。

 ベルリン大学の著名な講師オイゲン・デューリンク(Eugen Dühring)はコミューンに関する完全に異種の書物の著者であった。この著書は教養ある民によって広く読まれた。彼はコミュナールの一般に人道主義的行動を称賛し、明らかに激越さと荒々しさの点で並ぶ者なきヴェルサイユ派の残虐行為を告発した。彼は蜂起をパリの状況的所産と表現し、マルクスがインターナショナルにあまりにも大きな重要性を付与していると述べた。コミューンの尋常ならざる政治形態からデューリンクは、プロレタリアートが新たな異なる政治コースを見出さなくてはならなかったという推論を引きだした。独創的思想を多数掲げるこの種のコメントは社会民主党のサークルでもセンセーションを巻き起こした。

 しかしながら、それと同時にほとんどすべての社会階級に及ぶ読者はコミューンに対する新たな偏見に拍車をかけることになり、民衆作家ヨハネス・シェール(Jahannes Scherr)によって前々から実在する誤った解釈を強めることになった。シェールは当時の最多の読者をもつドイツ民衆雑誌『ガールテンラウベ(Gartenlaube)』での一連の連載記事という形でコミューン史の小説的・皮相的・完全な主観的解説を発表した。

 少々遅れて登場したアドルフ・ヘルト(Adolf Held)とアドルフ・ヴァーグナー(Adolf Wagner)両教授による2篇の出版物は付随的にパリ暴動の素晴らしく客観的にしてしっくりいく分析を含んでいた。特に両教授は、コミューンを社会民主党が称賛したことはプロパガンダの理由によって説明され、事実に照応するものではないことを指摘した。

 ドイツ皇帝の暗殺未遂事件の直後、トライチュケ(Treitschke)教授は有力月刊誌『プロイシシェ・ヤールブッヒャー(Preussische Jahrbücher)』とp.272 国民自由主義的週刊誌『グレンツボーテ(Grenzbote)』 においてパリの恐怖の日々の記憶をくり返し述べ、緊急措置法の採択を要求した。1878年の国内事情の危機的状況の一般的帰結として社会政策に関する出版物は強力な新たな弾みを獲得した。

 

【終わり】