M. ソーワー著「コミューンのソヴィエト的イメージ」(その3) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

M. ソーワー著「コミューンのソヴィエト的イメージ」(その3)

 

 農民の潜在的革命性に関し、レーニン主義路線に背いたソヴィエトの唯一の有力歴史家はM.N.ポクロフスキー(Pocrovsky)である。彼の述べるところによれば、農民層はその階級的本性からして反動的であり、それらは1871年において圧倒的に反革命の力となったというマルクス主義の位置づけの立場を採った。ポクロフスキーは1920年に東方に向かい強化された農民層の潜在的革命性のスターリン的再評価に代表される潮流に逆らって泳ぐ。この時期、バクーニンでさえ農民賞賛の面で傑出していた。というのは、1870~71年においてプロレタリアートと農民層間の利害関係の相克を調整しようと努力していたからだ。

p.255   そうこうするうちに1918~20年の内戦はもう一つの問題すなわちテロリズム正当化の必要性をもたらした。テロリズムに関する大論争は、1918年に公刊されたパンフレット『プロレタリアートの独裁』でカール・カウツキーが展開しはじめた。このパンフレットは根本的に、レーニン採用の独裁に反対して、社会主義が到達すべき民主主義的(議会主義的)手段を擁護するためのものだった。カウツキーは特に、ボルシェヴィキがその独裁の正当化のためにパリ・コミューンを利用したことを批判した。

 じじつ、カウツキーにしてみれば、ソヴィエト体制はパリ・コミューンを超克しての前進というよりも、むしろそれからの大きな後退を意味した。パリ・コミューンが普通選挙と、あらゆる政治的傾向の自由参加にもとづく選挙を通して直ちに自らを合法化したのに対し、ボルシェヴィキ体制はクーデタによって樹立され、あらゆる他の社会主義政党の弾圧と力の行使を通して権力の維持を図った。ボルシェヴィキは武力を必要とした。というのは、彼らは人民大衆の民主主義的に表明された支持を享有しなかったからだ。(カウツキーの見るところ)パリ・コミューンは武力行使の必要はなかった。なぜというに、全プロレタリアートの事業であったからだ。

 マルクスが解釈したように、カウツキーは、コミューンの幾つかの特徴を無視した。マルクスの解放というのは代表民主主義というよりもそこに直接民主主義を見出し、立法権と行政権の分離の廃止を見た。カウツキーはソヴィエト国家機構よりも、議会制度をそこに求めてプロレタリアによる支持の正当化のためにコミューンを利用するために、こう見たのである。彼もまた、唯一政党のみがプロレタリアートの利害と真に共通項をもつことができるというレーニン仮説への批判 ― それはマルクス的用語でより有効である ― を展開した。レーニンは、唯一ボルシェヴィキ党のみがプロレタリアートの歴史的利害を代表すること、他のすべての政党はプロレタリアートの利害に客観的に見て敵対的であり、したがって抑圧されなければならないという議論とともに一党支配国家に向かって彼の理論を正当化しつつあった。

 カウツキーの攻撃は『プロレタリアートと背教者カウツキー』(1918年)というパンフレットの形でレーニンの即答を引きだした。ここでレーニンは以下の伝説、すなわち、パリ・コミューンは、ブルジョアジーの政党が普通選挙に基礎を置くところのブルジョアジーの精粋がヴェルサイユへ逃亡していなくなったときの普通選挙から生まれたという伝説を嘲笑している。

 コミューンが犯した誤謬はあまりにもブルジョア民主形態を尊重しすぎたことに起因する。そのことは階級敵に対して執るべき積極的行動を妨げたというのだ。

 カウツキーは1919年の『テロリズムと共産主義』において彼の批判をいっそう発展させた。トロツキーは1920年に彼の有名な軍事列車の車中で書いた同じ名のパンフレットでもって答えた。トロツキーの20ページに亘る回答はパリ・コミューンが「民主主義的合法性」の原理に従うかぎり、これはそれの帳消しであることを示すのに貢献した。10日間の致命的な日々が選挙の準備と実施のために失われた。p.256 さらに、「センチメンタルな人道主義」とコミューンの敵に対する「寛大さ」が事実的に流血惨事に責任を負うべきであった。「高度の人道主義が高度のエネルギーが革命に必要である。」しかし、改組されたコミューン指導は政治的な小心さにもかかわらず、闘争の論理はプロレタリアートの敵に対する強く独裁的措置の採用に導いた。

 民主主義的合法性の外観への執着は始めから一つの矛盾に頼りきっていた。つまり、コミューンは農民フランスに対する労働階級のパリの独裁を、すなわち、農民のフランスに支えられた政府に対する軍事作戦を代表したという事実に。

 コミューンから導きだされた根本的教訓は旧秩序の支持者が扇動した不可避的な「白色テロ」と戦うための「赤色テロ」の必要性であった。このことは「コミューンの否認を意味するのではない。というのは、コミューンの諸々の伝統はけっして無力さに在るのではなくて、その事業を達成するためにわれわれは強くなったのである。だが、コミューンは壊滅した。われわれはコミューンの死刑執行人に対し幾たびも打撃を加えているのだ。われわれはコミューンの仇討ちを引き受け、それを成し遂げるであろう。」

 パリ・コミューンはじっさい形式民主主義に基礎を置かず、そして、他方でその指導者の民主主義的幻想がその敗北の主因である ― という議論が1920年代を通してのコミューンに関するソヴィエト研究界で依然顕著であった。

 ところで、スターリン独裁体制の確立とともに一つの体制が形式的合法化された。コミューン観も変わる。そこではどんな種類の生きたインスピレーションはもはや存在しなくなった。歴史編纂上の重点の移動は、それらが正当化を企図した政治路線での変化を随伴した。

 こうしてスターリンの一国社会主義観の発展とプロレタリアート独裁期の国家権力の規模と範囲拡大の発展に伴い、コミューンのソヴィエト的イメージもまた潮目の変化の影響を受けた。国家を破壊し、質の異なる過渡的国家 ― すぐに後退していくことを宿命づけられたのだが ― に代置するという考え方は、それが1917~18年にもっていたような重要な論点を失った。それはまた、内戦期における恐怖の適用の問題でもなく、プロレタリアート国家のより積極的、より強力な役割に関する問題でもなくなった。

 スターリン主義的見地を支持するかのように見える有用な一つの声明はエンゲルスの書簡中に見出され、しかもこの時期に頻繁に利用された。「しかし、プロレタリアートが勝利したのち、勝利した労働階級の唯一の組織は国家である。それは新しい機能への適合を必至とする。しかし、このようなとき、p.257 それを破壊することは、勝利した労働階級が新規に獲得した権力を行使したり、その資本主義という敵手を打倒したり、社会の経済的革命 ― それがなければパリ・コミューン後の労働階級と同様に全体的勝利は敗北のうちに幕を閉じ、労働階級の大虐殺に集結するであろう ― を実行したりできる唯一の機構を破壊するに等しいであろう。」

 こうした論点からコミューンの敗北は主として「その国家機構の弱体と中央集権化の欠如」に起因するというスターリン主義の観点が導きだされる。モロクによれば、コミューンの敗北に含まれるもう一つの要素は、国際環境がその当時「一国家社会主義」の勝利に不都合であったことである。モロクは他のソヴィエトのコミューン歴史家よりも長く生き永らえた。その問題に対する彼の最初の業績は1922年に発表された。彼は常に自分自身を現下の政治的要求に適合させていた。1952年、モロクはスターリンをコミューンの偉大な解説者と褒めたたえる。スターリンの作品はその歴史的重要性、その破滅の原因、その政治的教訓に対して「光明」を投げかけたというのだ。「パリ・コミューンについてスターリンがうち立てた見地はわが祖国の歴史においてさまざまな期間を生き永らえ、その労働階級のすべての敵(主にトロツキストやバクーニン主義の裏切り者、ファシストのスパイに対する)に対するわが党の闘争史に奥深く結合されている。」

 コミューンのもう一人の有力なスターリン主義歴史家はP.M.Kerzhentsevである。彼はコミューンにおけるスパイ、裏切り、破壊活動の問題に重点を置いた。そして、コミューンの敗北から学び取るべき教訓というのは、これらの現象を処置するうえでの警察の在り方と関わりが深い。

 コミューンの解決は現実の状況に対しては「あまりにもシンプル」と見なされていたが、スターリン時代は時おり官僚主義の限定された批判においてコミューンの使用を体験した。レーニンの『国家と革命』における規定に光を当て、ソヴィエト官僚制を徹底的に批判したのはトロツキーのペンから生まれた。トロツキーの論議によると、USSRで社会主義を達成したというスターリンの出張はつねに国家権力を強化しなければならないスターリンの必要性によって完全に反駁された、と。じじつ、所与の革命後の社会において「社会主義的構造の深さと効力の最上の指標」は国家解体の程度であった。トロツキーもまた、革命の官僚制的変質を阻止するためのプロレタリアートの独裁を確立したのちに、補助的革命が要請されるという中国の考え方(これはもちろん毛沢東によって否認されなかったが)を予示した。「後進国のプロレタリアートは最初の社会主義革命を達成するという宿命を負っていた。この歴史的特権のゆえに、あらゆる証拠によれば、プロレタリアートは官僚絶対主義に反対する第二次的補助革命をおこなわねばならない。」

p.258   今日、ソ連においてパリ・コミューンは体制の合法化としてその象徴的重要性を帯びている。パリ・コミューンの精神的権威への訴えは国内での成層と政治的特権の実在を曇らせる効果をもつ。このようにして1970年のLeonid Brezhnev。「1871年のパリのコミュナールが戦いに倒れた大義、プロレタリアート革命、プロレタリアート独裁の大義、社会主義的原理に従って世界を再編成することはわが国ソ連の他国民において権利をもって達成された。社会主義と共産主義の偉大な理想がわが惑星の全体に対して勝利する時が訪れるであろう。」

 しかしながら、ソ連は、パリ・コミューンが作戦概念として遥かに重要であるように思われる偉大な社会主義権力の興隆によって今や脅威を受けている。文化大革命以降の中国は、自ら隷属状態から大衆の主人への自己変革を成すために、プロレタリアート独裁下において国家組織を変えようとする傾向に対する解毒剤として継続的革命の必要性を力説した。

 パリ・コミューンは1965年以来、反官僚的・平等主義的政策のモデルとして中国において幾たびもくり返し利用されてきた。コミューンの教訓は、真実のプロレタリアートの独裁は国家権力の「根本的否認」でなくてはならないということである。

 こうした挑戦に対するソヴィエトの回答はパリ・コミューンから導きだすべきもう一つの教訓、すなわちプロレタリアートの国際的団結の必要性にしだいに重点をおくことであった。パリ・コミューンはその存在を「第一インターナショナルが指導的役割を演じた1860年代の国際的労働階級の運動の発展」に負っていた。コミューンはその構成においてもその行為においてもともにその国際主義を披瀝し、そして、その代わりに国際的労働階級運動の全面的支持を受けた。レーニンと第三インターナショナルは第一インターナショナルで具現されたプロレタリアート国際主義の原理を再生させた。一方、ソヴィエト体制はより持続的状態でのコミューンの再生を代表するものである。その暗黙のメッセージとはこうだ。中国革命そのものもまたその存在を、ソ連により指導された国際的労働階級の運動に負っていること、しかし、中国革命は今や、ソ連に対するドグマティズム、セクト主義、闘争を通して国際的プロレタリアートの団結を妨げているというもの。

 国際連帯の必要に関わるコミューンの教訓はパリ・コミューンのソ連での百年祭でつねにくり返された。プロレタリア国際主義への忠誠は「共産主義者と労働者の政党による共同行動の効力を正しい方向づけにとって欠くべからざるものであり、それはその歴史的ゴールに到達するための保証である」として祝福された。

p.259   パリ・コミューンは中国の軍国主義、「鉄砲から権力が生まれる」と見なされるものに対するソヴィエトの批判としても利用されてきた。ソヴィエトの作家はパリ・コミューンもボルシェヴィキ革命のどちらも、長期に亘る革命戦争の結果から生まれたのではなく、内乱は後から、しかも外部の援助を得て発生したのであり、革命的プロレタリアートの政策(の実現)というものではなかった。

 そのほか、1971年に現れたパリ・コミューンに関するソヴィエトの著作はコミューンと今日のソ連の現実との間の関係の形式を反映する平板さと反復主義により特徴づけられる。マルクス、エンゲルス、レーニンを常に引用することは1871年と1917年の革命の間の関係を真に評価に代替することになり、その結果としてコミューンのソヴィエト的イメージは今日のソ連の発展を支持するために歪められる傾向をもつことになる。一方、ソヴィエトの現実に対するもっと大きな歪みはコミューンの相続人としての正統性へのコミューンの要求の支持をも生みだす。

 たとえ短期間であるにせよ、コミューンが密接な関連をもつとすると、それは単なる権威ある先祖であるにすぎない。この先祖に向かって正しい、しかも空しい敬意が払われるだけのことにすぎない。ソ連がずっと長い間、身にまといつづける。コミューンから借用した精神的権威はコミューンの旗がモスクワで保存されているほどに薄っぺらなものになっていくのだ。

 

【終わり】