M. ソーワー著「コミューンのソヴィエト的イメージ」(その2) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

M. ソーワー著「コミューンのソヴィエト的イメージ」(その2)

 

 レーニンは『共産主義者』(ジュネーヴ、1913年刊)においてパンネケックの『プロレタリア階級の帝国主義Imperializm i zadachi proletariata』を公刊し、以前におけるパンネケックによるパンフレットの一つを好意的に論評したことがあるが、しかし、それが1916年にブハーリンによって再度取りあげられるまでp.250 パンネケックの批判を本気で取りあげなかった。ブハーリンは1916年にこう書いている。軍国主義的資本主義の発展に伴い、プロレタリアートの本務はブルジョアジーの膨れあがった国家機構を文字どおり潰すことである、と。レーニンがマルクスの国家概念と革命観 ― 四月テーゼでもって始まる1917年の彼のすべての綱領的発言に彩りを添える ― を探究する動機となったのは、1918年12月に公刊されたブハーリンの『帝国主義的盗賊国家』という論文であった。

 すでに二月革命以前からレーニンは官僚制国家を完膚なきまでに潰し、それに取って代えて官僚制の否定としてのプロレタリア民主制を置くことの必要性を唱えるという点でパンネケックに近い地平に到達していた。しかしながら、パンネケックがプロレタリアート的実践の新しい条件に関連して、いかなる古典的文献にも言及することなしにマルクス理論を発展させることに関心を寄せたのと対照的に、レーニン自身の左への旋回はブハーリン、特にパリ・コミューンに関するマルクスとエンゲルスの見解を論駁するために彼のマルクスの再検討から生まれたのであった。

 最初、1917年1~2月のレーニンはチューリッヒにいたが、1905~06年のソヴィエト運動をコミューン型の諸制度を含むという理由で評価していた。つまり、そこでは直接民主制が代表ブルジョア的形態、立法と行政の分離、選挙に依らざる官僚制、司法等々に取って代わった。すでに四月テーゼの中でレーニンはコミューン国家を要請していた。そのコミューン型国家では警察・常備軍・官僚制が廃止され、ソヴィエトによって選出され、労賃と支給され、いつでも罷免されうる官吏によって取って代わられるものだった。ソヴィエトはレーニンによれば、「マルクスとエンゲルスが1871年、1872年、1875年にパリ・コミューンの体験について、そして、プロレタリアートが必要とする国家の種類について語ったもの」を思い起こせば、革命政府のありうる唯一の形態を代表した。半分代置された、より高度の形態からブルジョア議会共和政への回帰はプロレタリアートによって用いられるべき道具として認めていたことを引っ込めるという事実を証明するためにレーニンはパリ・コミューンを用いたのである。したがって、カウツキーからプレハノフにいたる第二インターナショナルの指導者らはプロレタリアートのエネルギーを議会にふり向けさせた点で誤ったことになる。彼らはパリ・コミューン ― 階級構成を無視し、それ自体が抑圧的なブルジョア国家を撃破する必要があるとともに、それの代わりに異なったタイプの公権力制度を置く必要があった ― の教訓を学びとらなかたためにプロレタリアートを誤らせてきたというのだ。

p.251   レーニンが提起したこのような命題は二重権力に関する命題と連結される。これこそ彼がパリ・コミューンの検討から導きだした命題である。前に引用したように、パンネケックはすでに1912年に二重権力の概念、すなわち忠誠をめぐって大衆と争う二者択一的な権力構造の概念を予示していた。レーニンはこう論じている。ソヴィエトの要求はソヴィエトより高度の民主主義を代表する事実に基礎を置くものである、と。そこにおける行政機構は人民から引き離され、本質的に非民主的な特権をもつ選挙に依拠しない官吏が構成することはもはやない。それどころか、ソヴィエトは社会的決定の形成や執行に対する大衆の参加を奨励した。ソヴィエトは「パリ・コミューンによって進展させられた国家のタイプを再生するのだ。

 こうして、ソヴィエトは臨時性と協力するよりもむしろ、その異なった階級構成を基礎とするのみならず、民主主義的合法性に対するソヴィエトの優越権を基礎として臨時性と争わねばならなくなる。ちょうどパリ・コミューンが人民の意思をより直接的に責任を帯びる代表を通してヴェルサイユ政府の合法性に従属してしまった弊に嵌らないためにも。

 レーニンが実際に1917年8~9月に『国家と革命』を執筆したとき、彼はマルクスとエンゲルスの著作に、彼のチュリッヒノートからより細かな参照をつけ加えた。しかし、それ自身は何ら斬新なものではない。重点はブルジョア国家機構の破壊に割かれている。ブルジョア国家は過渡的国家に取って代わられるのだが、その国家では公権力は完全に人民のコントロールの従属下に置かれる。この国家が後景に退くと、旧制度により特権を付与された少数派の威圧の必然性は終わりを告げる。

 『国家と革命』はレーニンの1917年前後の作品と較べて非常に優れた特質をもつ。後者の作品においては政党の役割は僅か3回しかふれられていない。そのうち2回は付随的であり、1回のみが実質的に ― とはいえ、間接的手法で ― 述べられた。それは、この困難な時機におけるレーニンに対する左翼の影響と、パリ・コミューンに対する人民的イニシアティブについてのマルクスの評価の影響の残滓である。しかしながら、レーニンが1917年の彼の左翼的位置と、政党の性格および役割に関して彼の組織的信条の間の緊張をけっして解消しなかったという事実はソヴィエト社会における作戦概念としてのパリ・コミューン後の萎縮を容易にした。

 パリ・コミューンは1917年におけるレーニンの行動を導くうえで決定的に重要であったが、それは工業のみで労働者のコントロールについてのレーニンの支持を見よ。それは権力 ― 後になると正当な神秘以上のものではなくなってしまう。このことは政党に対して行使されるべき「自発的」な人民支配に関するレーニンの不信と、内乱の最中とその後における厳格な現実 ― 古い官僚的形態の保持を要求するように思われる ― とによっている。コミューンはまさにロシアにおけるブルジョア議会の破壊における重要な作戦概念であったが、p.252 新しい権力機関に関する人民支配を継続する道具ではなかった。1921年という年は、人民支配の重要な機関としてのソヴィエト的目標と前衛党の指導下に官僚国家資本主義の必要性に対しレーニンが承認を与えたことを標すものとなった。彼は依然として官僚主義的な行きすぎへの警戒を維持していたが。

 しかし、革命の初期段階ではパリ・コミューンは参加者にとって永遠に存在する現実であった。そして、1871年のドラマを再演していると自ら自覚したのはボルシェヴィキのみではなかった。ソヴィエト議会の執行委員会の会合でメンシェヴィキのM.I.リーベル(Lieber)は毒気を含んだ長弁舌を奮った。そこで彼はボルシェヴィキの暴力的抑圧を要求した。マルトフが座っていたベンチから突然叫び声が挙がった。‘Versalets!’これは直ちにリーベルによって提案された抑圧策がパリ・コミューンに対するティエールの行為に等しいことを意味するものと理解された。

 ジノヴィエフはその有名な論文『何をなすべきか』の中でこう警告した。ペトログラードの状態は1871年のパリの状況に酷似し、同じタイプの蜂起を誘発したが、兵士と労働者はコミュナールの実例を真似てはならなかった。たとえ状況が類似していても、実例を真似すればコミューンと同じ運命に遭わなければならなかった。

 すでに指摘したように、パリ・コミューンはレーニンにとって、状況が異なっていれば知られないままになったような状況において参照の恒久的なフレームを提供した。さらに、レーニンはコミューンが権力を継承することに失敗したにもかかわらず、コミューンの名称を継承した。1918年1月、レーニンはすでに宣言することができた。ソヴィエト政府はパリ・コミューン以上に5日間も長く存続し、そして測り知れないほど強固な基盤をもっている、と。左翼社会主義革命勢力と同盟したボルシェヴィキはコミューン、「フランスの幹部候補生、メンシェヴィキ、右翼社会主義革命カレディニト」を潰した力を巧妙に行使した。

 ボルシェヴィキ革命は具体的経験の相続者であり、そしてより重要になるようコミューンの栄誉ある継承者でもあった。レーニンは彼の晩年においてロシア革命がじっさい、1871年に示された道を辿っているかどうか迷うようになったのだが、この自称コミュナールがコミューンの旗の下で彼の死後を覆い隠されたということはなおまだまったく正当であった。ロシアの経験を西ヨーロッパの革命的経験に繋げたのはシンボリズムの役割でもあった。

 ソヴィエト革命の存続とそれのパリ・コミューンとの同一化は、コミュナールが失敗したものをなぜボルシェヴィキが成功したかという問いを発することに導く。今日にいたるまでの全期間でのソヴィエト修史によって与えられる答えは2つの根本問題の周りを回転する。p.253 つまり、政党の役割と農民の関係がこれである。

 すべてのレーニン主義的修史は必然的にボルシェヴィキの成功をレーニンのマルクス主義の発展、「新タイプのマルクス=レーニン主義政党」の欠如に求める。コミューンの失敗は1871年における労働者の運動が未だ自然発生的であり、無自覚的性格をもっていた事実に起因する、と彼が書いたときの1903年、『イスクラ』でこうした線での論議を初めておこなったのは、皮肉なことにプレハノフだった。「現秩序の擁護者との闘争においてプロレタリアートが勝利するチャンスはその同じ程度に社会民主主義のプロレタリアの運動に対する移管が大きくなる。プロレタリアの運動はその体系的活動とともに無意識的歴史過程の意識的表現として役立つ。」

 プロレタリアートの政治組織に体現される科学的プロレタリア的意識性への要求はむろん、レーニン主義の要石である。コミューンの重要な教訓は「革命の勝利のためには労働者の革命政党が必要であること」だった。換言すると、「プロレタリアートの独裁は共産党による以外は不可能である」ことになる。

 レーニンが1921年、遂に非政党的プロレタリア組織に近づいたとき、彼はただ共産党のみが「プロレタリアート全体のすべての結合された活動を先導し、したがって、それを政治的に指導し、そのことを通して労働人民の全大衆を指導できると述べた。「これなくしてプロレタリアートの独裁は不可能である。」レーニンのこの態度を支持してトロツキーが書いているように、「コミューン史の1ページ1ページが同じ教訓を明らかにするであろう。指導する政党がなくてはならない。」ところで、彼は別の箇所で述べているように、「労働階級の権力を政党の権力に代えることにおいて、そこには何も偶然の要素はなくなり、そしてじっさい、代替は皆無である。共産党は労働階級の根本的利害関係を表現する。」

 コミューンから教訓を学び取り、熟考された革命政党を創成したのち、レーニンはプロレタリアートの独裁の最初の試みが生じた国家に、彼の経験の恩典を渡す位置にあった。「革命的マルクス主義政党の存在しなかったことはパリ・コミューンの失敗の理由の一つであった。フランスで、偉大な十月革命の勝利の直接的影響下に展開された新タイプのマルクス=レーニン党の創造のための闘争は共産主義インターナショナルの支持とV.I.レーニンの支持とともに1920年12月に完成した。」パリ・コミューンはロシアの革命伝統の一部となっただけでなく、p.254 ボルシェヴィキ革命はフランスの革命的伝統の一部ともなった。

   コミューンの2番目の欠陥は労働階級と農民の同盟の欠如にあった。これもまた、コミューンのソヴィエト史の解決できない部分となった。前述したように、レーニンは早くも1905年と1906年においてプロレタリアートと農民の間の革命的同盟の必要性に対して特に重点を置きはじめていた。「ロシアのプロレタリアートが1917年10月に勝利することができたのは農民問題の正しい解決」のためであった。

 スターリンは問題を次のように要約した。「1848年と1871年のフランスの革命は農民がブルジョアジーの側に立ったことを主な原因として破滅した。十月革命は、それがブルジョアジーから農民を取りあげことに成功したがゆえに、そして、それがこれらをプロレタリアートの側につけるのに成功したがゆえに、さらに、プロレタリアートがこの革命において町と村の労働人民の何千万という者の唯一の指導者としてたち現れたがゆえに勝利したのである。」

 パリのコミュナールは農民とのこのような同盟を確立することを、それが決定的に重要であることを意識しなかっただけに、試みなかった。フランスの社会主義者は農民層全体が反動勢力であったという「誤った」見解 ― じっさい、ブランキやプルードンのものとされているが、マルクスもそう考えていた ― に染まっていた。すなわち、コミュナールは搾取された貧農・中農の大部分と少数の富農の間のレーニンが区別した利点をもつことがなかった。農民の理解についての欠如はコミューンと地方のあいだにある壁を強化するのに作用した。

 幾人かのソヴィエトの歴史家は1871年における農民層の支持を取りつけるのにプロレタリアートが失敗したことを、レーニンが批判したコミューンの愛国主義的・防御主義的幻想と結合させた。ナポレオンの失脚ののち、都市のプロレタリアートと小ブルジョアジーは共和政を擁護することを望んでいた。一方、闘いの矢面に立った農民は「通常のビジネス」への回帰を望むブルジョアジーの平和主義に幻惑された。