やせ我慢という美学

やせ我慢という美学

夢はきっと叶う ひとつだけきっと叶う
そのために何もかも失ってかまわない
それほどまでの夢なら叶う
一生にひとつだけ
夢はきっと叶う 命も力も愛も
明日でさえも引き換えにして きっと叶う

1,小学校4年生の時というから1970年。

金竹(地名)の散髪屋へバスで行った帰りに6年生だった兄貴が通称「ジーやん」という店で「肉まん」を買ってくれた。初めてそれを帰りのバスの中で食べた。衝撃だった。こんなうまいものが日本にあるなんて・・・。

2,それを前後して黒田(地名)の立花良文君の家に遊びに行った。おばあさんが台所から砂糖のまぶしてある「フライアンパン」を持ってきてくれた。食べた。衝撃だった。えええっ、こんなうまいものが世の中にあるなんて。驚きのうまさだった。

3,昔、そう、小学生の頃、バナナは結婚式の引き出物の中でしか、巡り合わない高価で貴重なほぼ幻ともいえるような食べ物だった。きょうだいでバナナを争奪した。

4,小学校の6年生頃、延末のいとこの安田まさしちゃんの家に泊まりに行った。そこで今でいう「あんぽ柿」を食べさせてもらった。これが絶品だった。世界中の食べ物の中で一番おいしいと思った。ずっと好きだ。ご飯の代わりに毎日あんぽ柿でいいと今でも思っている。

 

今やどれもこれも代価を支払えばいつでも食べられる。辛抱することなく欲求が満たされるという不幸な時代に我々は暮らしている。

大好きなものを毎日食べるなんてとても下品なことだし、不幸なことだ。

大好きなものがいつしか大好きでなくなってしまう危険な行為だ。

 

今日、一番食べたいものは何だろう、と考えていたら、そういうものが頭の中に浮かんでこない。ないのだ。

「最後の晩餐」に何食べる?って聞かれてもなんだろうなあ?と思い浮かばない。困ったもんだ。ないんだ。

食欲なんて下品だ。ぼくは他の欲に飢えている。

食べたいのは、食欲以外の欲をそそるもの。食べ物とは全く別のもの。

 

昨日まで相撲をしていた。ニュースでチラ見するぐらいで実況は見ない。いつの頃からかモンゴル出身の力士が台頭しだして、国技である相撲の精神世界を破壊しだしたあたりから嫌になりだした。あの人たちは「勝てばいいだろう」「強い者がすべて正しい」とでも思っているようだ。ケンカみたいな取り組みはもう見ていられない。様式美と言う概念がないから相撲道なんてものを貴乃花が説いても一切わからないんだ。朝青龍や白鵬の傍若無人さにほとほと嫌気が差していた。引退してくれてよかった。

外国人力士が幅を利かすようになると「まわし姿が恥かしい」とか「髪型を自由にしろ」とか「ちゃんこばかり食えるか」とか言い出すのではないか、と心配している。

中にはヒール役に徹して回しの間にフォークを隠し持って相手を刺す、とかする奴が出てこないとも限らない。オーバーアクションが増えて、マイクパフォーマンスする力士、軍配が間違っているといっては行事を投げ飛ばす力士、勝負のついた後場外乱闘したり、口から火を吐いて場内ヤンヤンの大拍手・・・って。そういうことにならないか心配している。

特に「ちょんまげは廃止しようぜ」という流れが出てきそうな予感がする。「もうちょんまげのウイッグでいいじゃないか」という話しになって取り組み中、外れるはズレるはでもう大変・・・。禿げてきたら引退しないといけない、という今のルールもこのウイッグ路線で解消されるから案外、力士には受けるかもしれない。

けど、ぼくは昔ながらのぬるーい大相撲が好きだ。

相撲ファンの多くは「強い」ということを本気で魅力的だと思っているんだろうか。

ぼくは荒瀬のがぶり寄り、陸奥嵐や立浪のつり出し、増位山の上手出し投げ、旭国の下からのあてがい、長谷川と北の富士のにらみ合い、富士桜と黒姫山のぶつかり合い、玉ノ海の土俵入り、琴桜のぶちかまし・・・そんな時代の個性あふれる大相撲が大好きだった。きっと八百長も多かったんだろうけど。

芸能界でも大物と言われる人はたくさんいるがビートたけしとか松本人志とか堺正章とか木村拓哉とか談志さんもそうだった…まあ、誰でもいい。野球界にも政界にも経済界にもどんな分野に「大物」はいる。彼らを取り巻く人たちが言う言葉が「オーラがある」「近寄りがたい」とか抜かしてテレビにそういう大物が登場するとヨイショの嵐で見ていて気持ち悪いぐらい持ち上げる。バカ丁寧に対応するし、心にもないおべんちゃらを使わずにはいられないし、すべて受容する。同じ人間なのに何をそんなに持ち上げる必要があるのか、と思うぐらいに持ち上げる。絶対にそんなこと思っていないだろうというようなヨイショして・・・こんな理不尽はないだろう、というぐらいの揚げようだ。楽屋でやれよ。気持ち悪い。人間のクズ、と思う。

理不尽を構成し継続している要素って(不条理でもいい)「恐怖」なんでしょうね。

北朝鮮やナチスやポルポトや安部晋三なんかが端的にそれを表明しているけれど「理不尽」を「それ理不尽ですよ」と言えない状況こそ、その本質そのものなんでしょうね。

 

なぜ言えないか・・それが「恐怖支配」で成り立っているから。自分の身に不利益が生じるから。10年以上前の「オールスター感謝祭」で本番中に司会の紳助が楽屋に」あいさつに来なかった東京03を殴りに行ったという事があったけど、東京03は何の抵抗もせず、恐怖におののいていたという。あの時なぜ後先考えずに」やり返さなかったんだ、と心底思う。何なら紳助を引きずり回してやったらよかったのに、と本気で今も思っている。あんな超一級の理不尽をそのまま放置することはなかったんだ。「こんなとこおれるか」と啖呵切って帰ったらよかったんだ。そうしたら僕bは東京03を死ぬまで応援する。そんなことを思った人も多かったと思う。

 

『それって変ですよね。みんなの意見を聞きましょうよ。法と条理に基づいてやりましょうよ』という労力は膨大なエネルギーを消耗し、人をクタクタにする。そんなにクタクタになるぐらいなら何も言わずに諦めよう、その方が楽だ、となる。これが理不尽の温床というが長い歴史が証明している実体なんだ。理不尽な要求を拒み続けるよりも受け入れる方が「心身ともに楽」と感じた瞬間に人は堕落し、屈服する。

 

小さな組織(家庭内、職場内、自治会内、趣味のサークル内など)お理不尽も同じ。「恐怖支配」を堕落し、容認してしまう事なんだろうね。その方が生きやすいのよ。

理不尽とどう向き合うか。

僕は少なくともそういうものは後先考えずに納得するまでたたかうべきとずっと思って20代30代を過ごしてきた。当然、家庭内にも存在した「理不尽」な事柄はすっきりしたいから納得したいと躍起になって家人と言い争ってきた歴史がある。

けど、今はちょっと違う。そういう小さいことの考え方の相違は「保留」することが一番だという結論に至った。曖昧にしておくのだ。ズルいけど、それが基本姿勢。

それに僕の感じている「理不尽さ」は他の誰もがそう感じていることなんだろうか、と問われると若干自信がない。

家父長制の時代「女は家のことをしろ」という状況を女性全員が「理不尽」だと思っていたとは言い難い。状況が理不尽であったかどうかはその人の感性以外のところに委ねるしかない。

村上春樹の「ねじまき鳥と火曜日の女たち」の中の女が配偶者に「ネコを見殺しにしたのはあなたよ」と言ってその男を(僕も含めて)ドキッとさせたけれど、その言葉は「理不尽」かどうかは言われた男ではなく第三者が判断しないといけないことってある。それを感じた本人の感性が一番正しいとは言い切れないのだ。

家庭内のことには何事にも無関心で興味を持てず、ましてや飼っていたネコの存在などその男には無きに等しい存在だったのかもしれないし・・・。

 

何が言いたいのか・・・人間って弱い存在だ。他者と迎合しながら生きていく道をすぐ選びたがる生き物だ。正義や正論を携えて生きるよりも楽な生き方がしたい。

恐怖を伴う強者の「理不尽」にはそれを正すことよりも受け入れて自分の身の安全を守ろうとする生物的本能が働いている。きっとそうだ。

そういった理不尽の本質である「恐怖支配の容認」に風穴を開けるところから我々は動いて行かないといけない。

理不尽だと思ったらまず、「変だ」と声を上げる。

相手はひるむだろう。なんせ、恐怖支配の前提は無抵抗で従順な「奴隷」のような奴だ、と見くびっているところから派生しているから。

殴られるのを承知で、現世的な出世とか金儲けとか安穏とした生き方とは決別する覚悟を持って「恐怖」の相手に「お前らええ加減にせいよ」と一声かけるところから「理不尽」の撃退は始まる。芸能界の大物に媚び売りまくる「芸人」のどこに魅力を感じろと言うのだ。

生き方の基本に理不尽、不条理を容認する奴のどこに魅力など感じることができようか。

捨て身の覚悟を持った人間の中にしかいい仕事は生まれてこない。

自分の生き方そのものが厳しく問われている。

とにかく、「変だ」という感性を大事に生きる。

権力に「いい人笑い」する奴にそういう姿勢は望むのが無理。諦めよう。

 

考察ノートだから中味は無茶苦茶な殴り書き状態。

ううううん、唸る。

あまりの理不尽に唸るしかない。

23日、そう一昨日、我々の事業体は念願の新しい建物の地鎮祭を行った。それはそれは感無量の一日だった。

その同じ日に一つの情報があり、ぼくを苛立たせた。懇意にしている事業所、当然我々よりも後発(先発などこの辺りにはない)の事業所が同じように新しい施設建設を予定していて、それは当然僕もよく知っていたことで・・・なんとその法人が建設する予定の建物に国庫補助が出る見通しが立ったという。総額の75%補助って。驚いた。この差は何だ。

ううううううううううん、と唸ってしまった。どういうことだ。なぜ我々にそういうものが出なくて、そこに国庫補助が出るのか・・・もう言わずと知れたこと。力のある方々が背後に控えているかどうかの違いである。「保守系の大物」・・・もうこれには敵わない。いくらまじめに日々まっとうに仕事に励んだところで「保守・反動勢力」とは一線を置く僕が主導する事業所に「いい話し」などやってこない。もう明らかに差別だ。もう何度も何度もそんな冷や飯を食ってきたからいいんだけれど・・・心の中はひそかに過激派が居座っている。うううううん、どういう差別だ。我々には一向にそんな話しなかった。

その事業所に何の恨みもない。むしろ好意を抱いている事業所だ。頑張って欲しいと思っている。このシステムの不条理を嘆いているだけだ。もう慣れてはいるけれど・・・。

 

不条理が限界を超えると人間はその不条理を見ることを止めて、世の中そういうものだ、という諦めと無力感に基づいてモノを見るようになる。

あまりに不条理な状況に直面した時、ぼくたちはその不条理さにまっすぐ向き合って「筋が通らないぞ」と抗議し続けることにだんだん疲れてきて、そこに加齢が加わってくるとすべてのことが「もうどうでもええわ」と屈服してしまう。その理不尽さを受け入れてしまう。そうすると、だんだん「理不尽に抵抗する事の重荷」から解放されて、心がなんとなく軽くなるような錯覚を覚える。本当は悔しくてたまらないのに・・・そんなことにエネルギーを使うのは止めて体力を温存して次の手を打とうと思う。

こういう思考回路は人間の堕落ではないのか、とずっとずっと思ってきた30代の頃、敢えてしんどい道を選んでいた。役所に出かけて事業所への不当な差別にずっと「変だ」「改善してくれ」と詰め寄っていた。もうそんなことしない。けど、あの時の未熟な蒼かった自分の方が人間として少なくとも理不尽を認めない、という事において今よりも正しかったような気がする。

本当にこのままでいいんだろうか、そういう葛藤さえなくなったら人間としてやっぱり駄目だと思う。

抵抗力を失った去勢されたような人間のやる仕事など何にも、どこにも魅力などないんだ。

不条理を速やかに諦めることが大人の態度ではないと思う。いろんな方法はある。それをここに表明することはあまりに無防備すぎるので秘す。

 

☆ 仕事に感情を優先して持ち込まれるとまとまらない。何事もまとまらない。「あの人の言っている事は正しいけど、感情的についていけない」「昔、あの人にどれだけイヤなことをされたか・・・腹立って仕方ない」という言い方をする人が結構いる。そうなると仕事ではなくなる。個人的私恨の腹いせ行為が最優先で仕事は二の次。まともな仕事など到底できない。それを仕事とは言わない。

理性的判断よりも喜怒哀楽、怨念、恨みや憎しみ、を優先させる自分の気持ちが理解できないのか、と反論してくる。できる、出来ないという問題ではなく、そういうことは一切、そう一切持ち込んではいけない。ここは冷静に障がい者の支援に没頭する現場である。私恨を最優先に考えて仕事する奴は辞めてもらうしかない。

頼むから働きやすい職場を作ろうよ、という呼びかけにどれだけの人が答えてくれるのやら。

・・・・そんな話しを今日も会議で言っていた・・・だれが?・・・あれは自分の口を通して誰かが言っていたような気がした。

戦争でもそうよ。国民感情だとか被害者感情だとかいろいろ言うから、理路が整然と通らない。そういうことは言ったん棚に上げて、今何が我々の任務なのかひたすら冷静に考えることって何より大事。

最近、自分の中にも「怨念」がおんねん、ということが何とはなくわかった。それは本当にいけないことだ。

感情的にならずにひたすら冷静に条理を尽くして感情を持っていないかの如く冷徹に振舞わないといけない。それでいて機嫌よく、明るく、素直で、正直で、親切で・・・それがぼくが思う理想形。

 

☆ 昨日、職場の地鎮祭。やっとこさ、ここまでこぎつけた。設立時を思い出して思わず落涙しそうなのを「雅子」を思い出して、止めた。ここまでの33年と半年の歳月をどう表現してよいやらわからない。感慨無量。そしてまだまだ先は長いと思う。

ぼくにはやるべき仕事がまだまだある。それを確認した地鎮祭。

その準備も大変だったし、これからの金銭的な算段も楽観を許すものではない。

 

☆ 嘗て、ぼくたちの若い頃は・・・そう、こういう表現が嫌われる。知っているが言う・・・上司からの頼まれごとは四の五の言わずにすぐ実行に移した。それがいいとか悪いとか言っていない。主義主張の相違を争う事でもない、そんなちょっとした用事を頼まれたら「はい、わかりました」しかなかった。師弟関係ってそういうもんだ。最近の不満は「ちょっとだけ早く出てきてあれ手伝ってくれる?」と聞いたら「えっ、明日ですか?」と明らかに不満を含んだ返答が返ってくる。二拍おいて「はい」と言う返事。そんな時は、ぼくはその相手への頼みごとをキャンセルする。気持ちよくないのだ。そんな些細な頼み事さえ即答できないなら、しかも嫌悪の表出を隠さないなら頼まない。仕事の準備の際、そういう事があった。いやあ~な気しかしなかった。きっとそういう人は自分の都合が先に来て全体のことは考えられない人なんだ。

頼まれごとは試されごとだ。もうきっと修復するには深すぎる溝ができてしまった。

たった5秒ほどのことだけれど、信頼感ってそういうことで築かれるし、この直観は間違っていない。

 

しかし、まあ、どうよ雅子。山水館のマサ子ちゃうで。皇室の‥ちゃうで。

雅子や、雅子。桐野夏生の「OUT」の主人公の雅子や。800ページを二日で読んでしまった。まあ、参ったとしか言いようがない。雅子の闇がもうえぐいわ。キリキリと後頭部に何か鋭い痛みが走る、そんな読後感。

しかし、魅力的な女性。人間性としてはこうありたいと思う部分がいくらでもあって

それがかえって「闇」の部分が大きくてその落差にほとんど戸惑うしかない。読みながら自分も奈落へ落ちていくようないやーな共感をしながら、もう読むのを辞めようかと思わせるに十分な「暗黒小説」

こういったミステリーや推理小説は多くはストーリーテラーでグイグイ読むものをその世界に引き込んでいくものだが桐野さんのは登場人物の輪郭を膨らませて心象風景にもかなりの枚数を割いて描写する。それがまたえぐさにつながる。

結構、こういう人が存在するなら自分の人生なんてまだまだ大丈夫やん、と安心すらする。こう言う事を思ってもいいんや、結構多くの人が人間の破壊性や衝動性などを内包している。こういう表現してもいいんや、と安心すらする。

しかし、雅子には参った。熱出そうや。そのくせ惚れた。どういう奴やねん。

最近のぼくのキーワードは「理不尽」を置いて他にない。

論理的に破綻したロジックを浴びせられて人生「降りようか」と思うぐらい嫌なことが蓄積する。その魔が差す瞬間6秒。その間に急いであっちへ行くことを決断しないこと。その間の数秒の葛藤が僕を正気の世界に引き戻してくれる。

家庭内の葛藤とか、まったく僕の責任でもないことの愚痴をゴミ箱のように僕に向かって吐き出すように汚物のような言葉を浴びせる人もいる。このことって耐えるに値する事なのか、と思う。

職場に行けば、先日も「障がい者」と称される子を持つ親が「居場所」探しのために我々のところに足を運んできた。どこへ行っても「すみません」のワンフレーズを携えていれば済んでしまう。その他の言葉は不要。そんな障がい者の子を抱える母親の世の中への理不尽という感情はいかばかりか。自分がこの人の立場ならきっと暴れるに違いない。生ぬるい仕事しかしていないような「障がい者支援」の専門家たちに「自分が産んだ子だから責任もって」エラそうに言われたら、ぼくなら暴れる。間違いなく。

もうそんなアホ言葉を聞くもの嫌になる。

「Aさんが職員の髪の毛を引っ張りました」「我々の言う事は何一つ聞いてくれません」「こんなに一生懸命やっているのになぜこういうひどい目に遭わないといけないのか」事業所の職員は普通にそんなことを言う。それに対する保護者の言葉は「すみません」ではなく、本来は「おまえらプロと名乗る以上、つべこべ言わずにしっかりやらんかい」でいいはずなのだ。

プライベートでもパブリックでもいろんな理不尽が心を閉ざす原因になる。生きるんはしんどいわ、と思う。同時にそれは心の炎のガソリンにもなる。ほのかな殺意を感じるぐらい怒りが湧くことってある。奥歯をかみしめて、ふざけんなよ、と笑顔を見せながら思う。そして決意する。「お前らができひんと言うことをやったろ」と。

そんな思いの昨今だ。

 

そういえばジョン・レノンも「理不尽」っていう歌を歌っていたような気がする・・・

 

♫リフジン オール ザ ピポーオオ リビン ライフ イン ピッイース 

ユウーウウウウウウウ ♬

 

 

 

よく聞く言葉・・・「大好きな自分でいよう」とか「まず自分が楽しまないと相手も楽しめない」なんて言葉をよく聞く。なんの上げ足とるところもない言葉だ。ぼくも激しく同意する。

ただ、問題なのは「大好きな自分」の「大好き」ってどういう状況の自分なのか、だけが問題。

怠惰で刹那的で、わがままで気性が荒くて、世間に拗ねていて、法律を守らなくて、時間にルーズで、いつも不機嫌でイライラしている、そんな自分が「大好き」って言われて、そんな自分を全面的に肯定し、好きって言われても困るんだ。迷惑なだけだ。

もう一つ。「相手を楽しませる」という目的のための手段として「自分も楽しむ」という論法にならないといけないけれど、とにかくまず自分が楽しんでしまう、その後に付随して放っておいても「他人も楽しくなるだろう」から勝手について来い的な人をよく見かける。

この二つに共通していることは人間としても向上心がないこと。現状を無条件に肯定している事。これはいただけない。

「大好きな自分」はそんなに人間的レベルの低い人間だったのか。人のことは放っておいて、自分の今さえよければあとはどうなってもいい、と考えるような人間でいいのか。人助けや社会的正義を愛し、他人や世の中のために滅私奉公する気概など「大好きな自分」を構成する要素の中に入っていないのか・・・そんな自問する事があってもいい。

 

最近、小さかった頃のことを思う。

家族や親せきや友人に囲まれて楽しかった時の事、疎外感を感じることもなく過ごしていた貧乏な子ども時代。

最近、若かった頃のことも思う。

バドミントンの強烈な思い出、異性にドキドキしていた頃の事、学園祭や新入生歓迎祭や学生総会で大役をやり切った後のエクスタシーのような脱力感・・・さあ、これからやるぞってまだ見たこともない大人の世界に突入していた頃の高揚感。

同じくこの仕事をやり出した頃のことも思う。

大勢の人から「大したもんや」と言われ「誰もしたことない世界に飛び込んでいくお前を尊敬する」と言われ。ウソでもいいからうれしかったこと。どこへたどり着くのかわからずにとにかく駆け抜けようとした頃の事・・・思い出すのは「大好きだった自分」

損得など一切考える術もなくやってきたそんな頃の自分が今考えると大好きだった。

大好きだった頃の自分に立ち返ろう。機嫌よく、明るく、素直で正直に生きていたそんな頃の自分が年老いた自分を励ましてくれるんだ。

私有財産に固執しすぎる人が多すぎる。

塀を築き、門戸を閉ざし、他者をブロックし、他者に会おうともしない。いかに自分が築いてきた財産を守るかだけに汲々している「年とった子ども」に何を言っても無駄だ。いずれそういう人は世の中のことを何もわからないまま死んでいく。

ぼくは暖かな血の通った哺乳類として、そして暖かな眼差しをもった大人の人間として生きていきたい。そして人間の名に値するものになりたい。

この世に何のために生まれてきたのか理由があらかじめ用意されていたとは思えないから、自分の存在理由は自力で構築していくしかない。

たった一度の人生だから楽しく生きないと、という人に良く出会う。その論拠は明らかに正しい。ただ、自分だけが楽しくって無理だ。多くの悲しみや苦しみが渦巻いている社会を見知らぬ顔をして門戸を閉ざしているなんて決して大人のすることではない。それは楽しくはない状況だろう。社会が善で満たされていないんだから。

 

他者と向き合うということは一宿一飯のもてなしを施すことなんだ、と思う。そしてその程度のことなら自分にでもできる、と思うようなささやかなことから実際にやっていくこと。それが次につながっていく。

ホームレス支援の先頭に立つ奥田知志さんは困窮者に「いつでも助けたるから遠慮はいらんよ」と何度も何度も声をかける。一度言うのと百回言うのとでは全く意味が違ってくる。「助けなんかいらん」という人も、会うたびにしつこく言われると心がほどけてくる。それが大事だという。程度の問題が一番の根本にある。

ぼくも仕事柄、軽い調子で「何かできる事あればいつでも言うてよ」という言葉を何気ない日常の中でかけられることはよくある。けど、いつも違和感があった。そんなこと言われて「先日あんなふうに言ってもらったので早速お願いしたい事があります・・・」なんて切り出せる人はほぼほぼいない。真に受けてはいけない言葉だ。「こんにちは」「また今度ね」というあいさつ程度の言葉だからそこになんの重みもない。そんな言葉を信じるのは害になる場合が多い。ただ、それを毎日言われると全く意味が違ってくる。それが外からの光だ、という。それが一番大事なことだ、と奥田さんは言う。

 

世の中、みんな孤独だ。あなたも、当然僕も。

強がっている人がいるだけで誰一人強い人なんかいない…そういう前提でぼくは他者と向き合う。

中島みゆきの「エレーン」を思い出す。

♪生きていてもいいですかと誰も問いたいエレーン その答えを誰もが知ってるからだれも問えない♬・・と泣きながら歌うみゆきさん。

もし、他者が我々の事業所や僕を頼りにして門の前に佇んでいるなら喜んで歓待しようと思う。全く知らない人であろうとも。それが他者と向き合う際の大人を自称するマツモトの流儀だと思っている。

『あなた方の事業所がなくなっても誰も困らないし、すぐ代替えの場所が見つかる』と軽く言われる仕事ならしたくはない。自分が存在することのかけがえのなさ、唯一無二性が見いだせない仕事に誇りや、やりがい、存在価値が見いだせるとは思えない。

我々の仕事は誰も受け入れ場所のない人が困り果てている時に「はい、どうぞ、こちらへ」と手招きし、家の中へ入れることに他ならない。山小屋なんだ。

「利用価値がある」とか「人間お互い様だから」とか「自分もいつか人様のお世話になるかわからないから」といった動機ではない。短期は言うに及ばず、長期の見返りもなにもかも一切の打算を排して、目の前に佇んでいる人の生を支える、という発想こそが私たちには必要なんだ。見返りなど一切考えないこと、目の前の命を救う、そのことに専念する事。世間からの誉め言葉など期待するでない。この仕事は見せかけのパフォーマンス、特に意味のない「いい人笑い」を嫌う。

我々がそこから得られる褒美は自らのうちにいる「神の称賛」のみである。

 

他者と向き合う時(この時の他者は一切の関係性のない、得体の知れない異邦人と称してもいい)

我々が「善行を施す側」の人間として上から目線で他者を見ずに、その他者になり切って“もし、いま自分が目の前にいるこの人の立場ならどうしてほしいだろうか”だけを考える。

そう、その時自分は他者に向き合いながら、その他者を自分だと思って乗り移る。そこには自分の分身と生身の自分がいる。自分を助けるためにそれを実行する。

それだけのことだ。

そしてきっぱりと言うんだ。

『あなたが探しているその場所は、そして人間は・・・ここにいますよ。』