やせ我慢という美学

やせ我慢という美学

夢はきっと叶う ひとつだけきっと叶う
そのために何もかも失ってかまわない
それほどまでの夢なら叶う
一生にひとつだけ
夢はきっと叶う 命も力も愛も
明日でさえも引き換えにして きっと叶う

差別主義者が大勢国会に送り込まれた。考え及ばないような差別を繰り返す奴らが今,大手を振ってのし歩いている。在日朝鮮韓国人、中国人をあからさまに差別し、性的マイノリティを差別し、障碍者を差別し、当然部落差別も平気だ。同性婚を認めず、認める人々を共産主義者というレッテルを貼る。もううんこ以下の連中。すべての少数派を僕の創造のはるか彼方を行く暴言、暴論のうんこをまき散らすようにこの世を汚していき、少なくない人がそのうんこ好き好き大好きときた。考えられないような露骨極まりない差別国家になった。どこまで人は落ちるんだろう、というぐらい下劣になった。絶句するしかない。冗談抜きでそういう差別大好き人間とは絶交する。近寄るな。特に「参政党に入れました」という奴は50M以内に近寄るな。本気だ。

これだけ下劣なことを言いながらこれだけの支持を得る国、日本。

この国の民は差別が大好きなんだ。三度の飯より差別が好きに違いない。

そういう一番人間のカルマのような部分をくすぐって票を集めようとする姑息な連中。もうつける薬などない。

こういう連中は放逐するしかないのだ。ハヤクシンデクレ、心底願っている。

おととい、日中から降り始めた雪は夕方過ぎて勢いを増し、深夜には道路が凍結していた。

昨日朝早くから雪かき。15cmくらい積もったか。車道、駐車場、車体など。

「雪かき」・・・村上春樹がよく比喩として使用する言葉。「誰かが書かなければならない。だから書く。文化的雪かきだ・・・」

そう、好きかどうかではなく、社会のため、周りの人のために「誰かがやらなければならない仕事」が「雪かき」だ。

よりよく生きるってことは雪かきを厭わずにやる、ってことだ。

本来のボランティア活動の姿もそういうことなのに、今や大きな災害の時だけ「目立つ行動」しかできない人も少なくない。

派手ではないし、社会的に評価されることも少ないけれど、すごく大事な活動。もっと言えばこれなくして社会は成り立たないというほど地味に社会を下支えしているのが「雪かき」。

誰にも褒められないけど、誰かがしなければ社会はうまく回らない。今や「誰かしてくれるやろ」が多くなってきた。「誰かがやるなら自分もやる」という人が一定数いないと世の中成り立たない。

この世の中を確実に動かしているのはそういう名もなき人々の日々の雪かきだ、と言って間違いない。それを淡々とやる。褒めてくれ、という下心は下衆だ。

 

大事なことはその雪かきを飽きることなく長く続けること。毎日同じことを続ける持久力。心折れずに続けること。忍耐力。

褒められたい、という邪心を捨て去って淡々と長距離を走り続けることだ。そこに愛想笑いや誇張という虚の部分はいらない。

雪かきはしんどい仕事です。実の部分です。それを壊れずに長く、同じことを繰り返し続けること。大事なことは強いことでも早いことでも才能があることでもなく、死ぬまで雪かきを続けることだ。

昨日衆議院選挙があった。結果は見ていない。

高市党が勝った勝ったと言っているそうだ。ということはこの国も滅びの行程に突入したということ。国民全体の大敗北であることに間違いない。この国はどこへ行くんだろう。平和は人権や民主主義の旗を高く掲げて戦ってきた幾万の先人たちはきっと草葉の陰で鬼哭啾々・・・その絶望が耳に付く。

自民や維新や参政や・・・そんな贋物を見抜けない多くの民にほぼ絶望している。

そう、ほぼ絶望している。

こんな風潮はどんどん強まっていくんだろうなあ。

 

トランプを持ち出すまでもなく、世の中、権力を持った狂人に対してもうほぼ無抵抗状態だから世の中悪くなる一方だ。抗わないんだ。特に若者が反抗しない。おまえら年寄りか。権力に従順に尻尾を振って付いていきます状態だ。安倍の頃からますます酷くなってきたこの傾向。なにを言っても無駄。抵抗しても世の中変わらない。変わらないなら一層権力者の側に味方しておこぼれの甘い蜜でもおすそ分けいただこう、というなんとも生気のない人間で溢れかえっている。特に若い奴らがバカになってしまったからどうしようもない。奴らから思考することを奪ったのがまさに学校教育の基本を決める中教審路線。

タカイチなんていう馬鹿は顔見たらそのバカさ指数ぐらいわかろうと言うものだが、世の中の市井の民はどこ見ているんだ。早晩その正体は白日の下に晒され、見向きもされなくなる。奴の言動が無茶苦茶だ。

もう権力には抗うな。長い物には巻かれろ。口応えするな。感謝を忘れるな。強いものに歯向かうな、そんなことしたら出世できないぞ。・・・この国を亡ぼすような愚民教育が蔓延して、その教え通りに育ってきた奴らがはびこってこの国は無茶苦茶になるんだ、きっと。今も憲法や平和を守ろう、っていうと馬鹿にされる時代だ。

 

不当なものに抗うのが正しい人間の姿だ。

権力者にペコペコして、自分の権利も主張せず、言いたいこともやりたいこともせずに死んでいくんだ。

抗えよ。暴れろよ。従順な去勢されたような奴のどこに魅力を感じろというんだ。

おまえら死体と変わらんがな。

「会いたい人」はたくさんいる。

ただその会いたい人がぼくに会いたくない、と思っているなら断然「会いたくない人」に一変する。

「会いたくない人」もたくさんいる。

ただその会いたくない人がなんの打算もなくぼくに会いたい、思っているならそれは「会いたい人」に一変する。

どちらにしても相手次第だ。僕が決めることではない。会いたいも会いたくないもない。

会って話しがしたいと思っていても相手にその意思がないのに無理に会うならこれほどの無様で恥辱で苦痛なことはない。

会いたい人は会いたいと思ってくれる人。話しがしたいと思ってくれる人に限る。

それぐらい顔見りゃわかるよね。ちょっと会話したらもっとわかるよね。

 

中島みゆきに会いたいか・・・会いたくない。

あの人に会いたいか・・・会いたくない。

話すことがない人に会ってもうれしくもない。ぼくがどれだけあなたのファンなのかわかってきださいって言うのか。恥ずかしい限りだ。晩節を一層汚すだけだ。

いろんなことがわかりきっている。

僕の苦痛はそのジレンマだ。

ぼくは職員に言う。「素」の部分で仕事をしてはいけない、と。

特にその日の感情を隠さずに現場に立つことはよくないことだ。たとえいろんな感情を揺るがすことがあったとしても、だ。そんなことをいつも言う。

ここは障がい者福祉の現場という舞台だ、その舞台に求められるのは支援員という役柄であって素を晒す「ド素人の私」ではない。

それはいつも自分自身に言っている、暗示みたいなもので、他人に言いながら自分に言っているようなものだ。

最近「役を演じる」を超えて「役になりきる」「役と一体化する」「役が乗り移る」「役自身が私自身である」・・・要するにどこまでが「本当」の自分でどこからが「役」なのかの区別がつかなくなるって大事なことだと思うようになった。役作りをしていていつの間にかその役の世界に憑依してしまって抜け出せないでいる・・・そこまでしないと本物ではないのではないか、と思っている。目指すのは自閉症スぺクトラムの人に多いミラーリング。他人が叩かれるのを見て実際叩かれたように同じように痛いと感じる、その一体感。

きっと演ずるだけでは弱いんだ。その人になりきらないと。

ここにいる障がいをもった人が自分だと思って想像しよう。その人は私だから気分よくしてあげたいし、人間の誇りや尊厳、命に対して最大限の敬意を払ってあげないと、と思うだろう。

支援している私は誰を支援しているかと言えば、その対象は私なんだ。そこにいて暴れているのは私なんだ。見知らぬ人ではない。そこまでラジカルに考えよう。

生まれてきた命に対して失礼のないように敬意をもって愛したい。

その命は自分だから。

今年から心を入れ替えて(遅いけど)猛烈な勢いでたくさん本を読むことにした。

今までなぜ読書を意識的にしてこなかったんだろうと後悔している。

年初から「カマラーゾフの兄弟」に取り掛かる。2000ページ近い、何度も挫折した難敵。これは今月いっぱいかかる。その合間に障害福祉の在庫の未読専門書を片っ端から読んでいく。とにかく、「徹底的に読む人」になるのが今年の自分のやること。

夏川草介は「他人を思いやることを教えてくれる。共感・・・それが本の力だ」とどこかで書いていた。

もっと昔、星新一は「本を読むと他人に優しくなれる」と言う趣旨の事を書いていた。その言葉が忘れられなくて、長男が小さい頃からどんどん本を買い与えていた。全然優しくなってないが。とにかく彼は高校時代から読書にハマり、大学を文芸学部、大量に読む人になった。今も仕事をしながらシナリオの勉強をし、「朝ドラ」のシナリオライターを目指している。

 

物書きになろうとなるまいととにかく本を読んだ、読んでいる人間は読まない人間よりも共感能力は高いと思う。

そんなこんなで幼稚な衆議院議員候補者の演説を聞きながら、勉強しない奴は本当にダメだ、と思う気持ちが加速している。

 

 

 

たとえば原発問題。「原発を無くそう」の対極には「必要だ」という意見がある。中道のいう「真ん中」の意見は果たして何だろう。「何も考えていません」か?この二つの異なる意見の真ん中には何があるんだ。高いところから他人事として傍観する、しかない。民主主義の国家の主権者ともある者が闘いの現場に降りてこずに観客席から眺めているだけというのはいかにも不誠実だ。旗色を鮮明にしないと卑怯である。

♪闘う君の歌を闘わない奴らが笑うだろう♪の世界である。

中道や中立こそが正しい位置取りだ、と主張する考えは意見をはっきり言う行為そのものを攻撃することにならないだろうか。傷つかないところに身を置いて異なる意見がぶつかる場に降りてこないのは間違いなく卑怯だ。自分の意見を表明せずして民主主義の一員で御座い、という政治家が何の役に立つのか。民主主義の基本は「異なった意見や感覚や習慣を持った人たちが一つの場所で一緒にやっていくシステムだ」と高橋源一郎氏は言う。

政治家なら異なった意見に対して自分の立場を主張しなければならないはずなのに「中道」と称して「自分たちはいつも真ん中だから意見表明しない」は通じない。

観客席から降りてこい。意見を表明しろ。無傷でいようなんてムシがよすぎるぞ。意見を表明し傷だらけになるのが民主主義的な人間の取るべき立ち位置だ。伸びないはずだ。

怒りの感情を表に出すかどうかは別にして、まっとうな怒りも感じない人がまともな感性を有しているとは思えないし、まともな仕事ができるとは思えないし、まともに生きているとも思えない。

受け止めなければならないまっとうな怒りを感じないその感覚の鈍麻は人間としてさすがにヤバイ。何事も穏便に、ってそれは違う。全く違う。

ここはいくら敵を作ってでも言うべきことは言わないといけないし、機を見るに敏、なんていう生き方は恥だ。許されない。

人間としての最低のマナーとして義憤は消してはいけない。

 

タカイチなんていう低能かつ幼稚かつ好戦的な政治家に人気があることにぼくはおののく。今日も仮病使って討論会から逃げて、その後飄々と表に出てくる厚顔無恥さ。

あの気色悪い「笑顔」にゲロが出そうだ。

あんなに頑張っている人を批判するとは何事だ、とバカが言っていたが、ほんまに幼稚、おままごと。

世の中には政治的な人間と非政治的な人間がいるのは知っているが、頼むからもっと本を読もう。新聞を読もう。国会を見よう。政治を見よう。政治家のことを知ろう。無知ほど罪なことはない。

ハンナ・アーレントはありふれた凡人の小心さを「悪の凡庸」と名付け「本当の悪は平凡な人間の行う悪です」と喝破している

そして何も知らない無知な人を騙そうとしている政治家の多いこと多いこと。そんなことしてどうする。

 

神谷ソウヘイもタカイチも玉木もみんなみんなバカを騙そうと必死である。

これは本当の事。

 

自閉症スペクトラムの配偶者や社会不適合者と一緒に暮らしている人などに起こる鬱状態などのことをカサンドラ症候群と称する。自己肯定感がどんどん希薄になっていくし、生きることそのものがしんどくて仕方ない人も多くいる。

なかなか他人には理解しづらいが明らかに壊れてしまう人もいる。

今日、その症状としか言えない人と話していた。配偶者と息子がそういう気がある。もう手に負えない。片付けできないし、衝動的に行動する、嫌なことや困難から逃げる、反省しない、他人の責任にする・・・そういう人たとと対等に関わるのは体を壊す。悶々と毎日を過ごしているという。

どんな人も孤独だと思った。僕も孤独だし、これを見ているあなたも孤独。けど、地味にみんな頑張っている。そのことを確認した今日。

 

「がんばっている市民をご紹介」という姫路市のホームページに高校の同級生が登場していた。独特な表札などを作っている。その記事内容になんの文句もない。ただ。その「がんばっている・・・」という文言何とかならんか。そこには対の存在として「がんばっていない」市民を思い浮かべさせる。一体だれが頑張っているとか頑張っていないと決めるんだ。大向う受けすることだけやっている人を取り上げるならもっと別の表題にしてほしい。(こんな場所にこんな意見書いても届かないから直接伝えるが・・・)

世間からは何の評価もされず、まったくのバックヤードで踏ん張っている多くの人の味方で居よう・・・そんなことを思った今日。