やせ我慢という美学

やせ我慢という美学

夢はきっと叶う ひとつだけきっと叶う
そのために何もかも失ってかまわない
それほどまでの夢なら叶う
一生にひとつだけ
夢はきっと叶う 命も力も愛も
明日でさえも引き換えにして きっと叶う

1月は近来まれにみる多忙なつきだった。職員の入院、その職員の母親の死亡を喪主となるべき入院中の職員に代わって仕切った。親友宅が全焼した。発表会の準備に多くの時間を割いた。

 

今月12日に自分史を振り返りながらの経営発表会がある。

約40名が参加すると聞く。どうしても予測を上回りたい。

かっこつけるのではなく、今までやってきたことの率直な振り返りをやってあいまいで、ちょっとでたらめで、あやふやで、どっちつかずで、優柔不断で、けれどこの世に自分だけしかやってこれなかった事実を話したい。

その準備に追われている。けれど、体がついていかない。もう二週間前から風邪の症状が出てそれが治らない。

体がきつい。

走っている場合ではない。そんなことしていたら本当に阿保と言われる。

今、思考停止したまま、いろんな矛盾を放置したまま、毎日の業務に忙殺されている。

先日64になった。老化現象にかなり憂鬱だ。

 

 

https://x.com/ritsumon5151119/status/1858639357189779863?s=46&t=5PWNcbY3AGcXpSi0JhXRIQ

 

年末からずっとずっと心穏やかでない。

とどめは信頼していた竹内県議の自死。

心が痛い。ちょっと前へ進めずにいる。

この落とし前をどうつけるのかだけ考えている。

今年の目標を考えていた。

1も2もなくdecentな生き方に徹すること

「見苦しくない」「ちゃんとした」「礼儀正しい」「きちんとした」「正直な」

そんな生き方に徹すること。

大江健三郎も村上春樹もほぼ同じことを言っている。

見知らぬ人々、見知らぬ土地の中で生き延びようとする際に一番大事なことはdecenntな生き方だ、と両人が奇しくも言っていた。

この二人が言うことに嘘はない。

外見の服装とかの格好だけではなく、生き方そのものがdecentであることが我々大人が生き延びようとする際に取りうる最良の手段である。

外見や服装なんか関係ない、要は中身だ、と言う人もいるけれど、そしてそれが「正しい」という人もいるけれど、やっぱり人は見た目が9割、という言葉もあるとおり、見た目(服装や清潔感)も大事。そこをおろそかにして「中味で勝負」しようとしてもちょっと難しい。

decentにいこう。

身だしなみってとっても大事。それを60歳過ぎてわかるなんて恥ずかしい。

生き方も謙虚に礼儀正しくいこう。

非生産的な人の非難はやめよう。

そういう風に生きるんだ。

 

 

なんせ卑しい。

落ち着いて食事ができない。

家人からは結婚当初から呆れられていた。

食事が早いんだ。ほぼ飲み込んでいるように食べる。

小さい頃から味わって食べるという習慣がなかった。

とにかく早い。

昨日も息子に言われた。「落ち着いて食べてくれ」って。

腹立ったけど正論だ。

来年の目標は「落ち着いて食べる」

小学生か。

 

ぼくは一流の施設職員になる大きな資質は「早食い」だと確信していた。

もう仕事中に利用者を介助しながら自分が「味わいながら食べる」なんて論外だった。5分で終えて仕事にかかれ、と自分の中で号令を出し、次の仕事にとりかかっていったんだ。なんでもパッパッパッと手際よくやることしか考えなかった。

今の時代、そういうことを言うと完全にアウト。そういう風に思っているだけでアウト。顔に出すだけでアウト。

自分の卑しさに気づくのは難しい。

なかなかそういうことを面と向かって言ってくれる人が少なく(いや皆無に)なってきたから息子の存在がありがたいと思うことにしよう。

 

「今の自分に満足したらもう成長はない」なんてね。知ったようなことを抜かす奴が「知性がある」と他人から評価されたり、向上心がある、と褒められたりする今の世の中。

「満足すること」は悪だ。「今の自分に満足しているのか」とお説教モードで言い寄ってくる。

向上心は大事に違いないが、現状に満足できない、してはいけない、と教わった人間は自分のことが好きになれないし、嫌いになるに違いない。自己評価の低い大人になる。

自分が嫌いな人間が他人を好きになれるとは思わない。

好きな人から「あなたの生き方が好きです」という類のことを言われて「このままではいけない。性格を変えよう」などと思う人はいないような気がする。しかし、好きな人から「嫌いだ」と言われたら生き方を」何とか変えたいと思うだろう」

自己肯定感が低すぎる人生って、他者からの評価が低い故ではないだろうか…そんなことを考えていた今日。

 

先週、いきなり大学の同級生(一緒に活動していたマドンナ)がクリスチャンになっていたのを知る。その彼女が「あんたもどう?」という動画を送ってきた。

無神論者の僕も彼女に言われれば見ないわけにはいかない。「あなたの隣人を愛するように、あなた自身を愛しなさい」・・・そんな説教の動画。

どうしたら自分を愛せるんだろう。そんな方法を知らない。唯一知っていることは「他人からの承認や尊敬の念」を持たれるとこでしか自分を好きにはなれない。他力本願だ。そういうものがなくても「自分が好きでいられる方法」がキリスト教の中にあるのか。それはわからない。

多くの人間は自分を愛する方法を知らないんじゃないのか、と真剣に思うし、ゆえに自己肯定感が希薄にならざるを得ない。

今の今まで「向上心」を僕は生きる最大の目標として掲げてきたけれど、なんとなく違うような気がした今日。

向上心を持つことは今の自分を否定して「大好きな自分」を自分から遠ざける要素になっているんじゃないのか。

思い切ってクリスチャンになろうか・・・ハードルは高い。

もうどうしようもなくこの時期、傷口が疼く。

29歳で独立してから、僕たちは貧乏にさいなまれてきた。毎月の給与もまともに支払われるような余裕もなかった。ということは当然ボーナスなど厳しいどころか出処がなかった。

当初から僕たちは年末に自分たちにいくらかでも「ボーナス」が得られるように事業活動に精を出した。セカンドワーク、サードワークもずっとしながら、恥も外聞もなく、脇目も振らず、髪の毛振り乱して、生きるために休むことなく、がむしゃらに働いた。人並とは言わなくても多少は人間らしい正月を迎えたかった。ささやかなものだった。自分で選んだ道だから誰に文句を言うものでもなく、淡々とそう言うものだと割り切ろうと思った。

あああ、何が言いたいのか。何も言いたくはない。言えば人間の品性が下がるだけ。

ただ、ごめん。一言だけ言わせてもらえるなら、「ボーナスなんてもらえて当たり前だと思わないでほしい。仮に少ないと思うなら自分で働いて稼いでほしい」その行為を妨害するシステムは何もない。

もう一言言わせてほしい。僕は30代、40代のころ、少なくともあなた方の3倍は働いていた。それだけ働いても事業所を維持するお金を差し引いたら手許に残る収入は微々たるものだった。家庭よりも仕事、事業所の運営を最優先した。

 

な、人品卑しく落ちぶれた本性が見えたろう。

もはやなんでもかんでも「〇〇資格」とやらがいる社会に我々も棲んでいる。落ちぶれてしまった。

アホでも品性下劣でもなんでもいい、二日ほど話をおとなしく話を聞いていればもらえる紙切れ一枚の「資格」を有する者がこの世界では必要とされ重宝される。そんなくだらないものが大事なんだ。必要悪なんだ。」

くだらないがそういう世界なんだ。一定の基準を満たしているかどうかを可視化するためにはそういうくだらないものも必要となる。

ただ、そういうものを錦の御旗のように振りかざして自慢する奴は間違いなくアホです。間違いなく仕事ができないし、すぐ放逐される。

なぜか?アホだからですよ。この仕事は生身の「人間の品性」そのものがすべてさらけ出される世界だから「紙切れ」だけに頼る奴はいる場所がなくなる。そういうもんです。

ぼくはほとんど資格らしきものがない。就職したころにはそんなものはなかった。国家資格でもないし、そんな重みもない。

資格を自慢する奴が大嫌いだ。

なぜか?アホだからです。

そう、ぼくはほぼほぼ家に居ない。居たくない。

それでうまくいっていないかと言われれば(誰からも聞かれないが)そうでもないような気がする。

朝と夜の短時間でも顔を合わせれば普通に(気を遣いながら)たあいのない話をするし、「おはよう」「行ってくるわ」「ただいま」「おやすみ」「ありがとう」「あいしてるよ」(これはない)ぐらいの挨拶は義務として忘れない。先方は機嫌の悪い時はしないことがあっても僕が挨拶や会話、儀礼的なマナーをおろそかにすることはない。とくに「ありがとう」は必ず言う。偉そうに言うことでもないが、お互いにこの魔法の言葉さえ欠かさなければ夫婦や家庭生活、親子関係なんて結構すんなりいくような気がする。「無視」は一番いけない。関係が冷え込む。

あとは適度に距離を置くこと。べたべたしないこと。あれこれ干渉しないこと。相手を理解しようとか共感しようとか思わないこと。隠し事を詮索しないこと。自分が相手や子どもになにができるか考えて喧嘩しないように共生しようとする意志を持つこと。

「自分のことを全く理解してくれない」「どれだけ足をひっぱるんや」と思うことがあった若かりし頃、本当に自分中心にしか考えようとしなかった。こんな生活、こんなパートナーでなかったら僕はもっと大きく世の中に羽ばたいて行けた・・・って空虚なことをいつも思っていた。きっとそう思いたかっただけだったんだ。

 

家族ってずっと重い言葉だった。

過度に期待するから重たかったんだ・・・歳いってそう思う。

弱い者どうし生き延びようとすると一人では心もとない。安全保障上、誰かと一緒がいい。

何年後かに寝たきりになって下の世話をしてもらうことになった時のことを想像する。誰にしてもらうんだろう、と考える。

息子も娘も、ましてや息子の嫁も無理だ。消去法で行くと家人になる。その時に「若い頃よくも嫌味なこと毎日言うてくれたなあ」とか言われながらうんちの後始末をしてもらっても生きた心地がしない。そういう風景は我慢できない。死んだほうがいい。今、なんとなくその時のために備えて「やさしく」接しているような気がしないでもないが・・・。

何はともあれ、家族なんてものは好きとか嫌いとかではなく、儀礼的に挨拶ができて、うわべだけでもいいので快く接してくれればそれでいい。刹那的なものは全くいらない。

快適に暮らすためには普通の顔で普通の挨拶ができて普通の何の意味もない会話がちょこっとできればそれ以上は何も求めない。

世の中には「これはいったい誰がするんだろう」という類の仕事ってある。「私の仕事」「あなたの仕事」の範疇にも入っていない、ぼんやりとした仕事。「気が付いた人が適当にやってくれたら・・・」と言われるような仕事。トイレ掃除や後片付け、ゴミ拾い、整理整頓、自治会の世話人、その他もろもろの雑多な雑用。

そんな「雑用」は組織から言われたマニュアルには載っていないし、間違いなく自分の仕事ではない・・・だから余計な仕事は増やしたくない。

うううううん、ここが分水嶺なんだろうなあ。

「誰の仕事でもない仕事」を自分の仕事としてさりげなく、嫌味なくやってしまう。

「仕事ができる人」というのは間違いなくそういうことができる人。

仕事の本質は「おせっかい」と「余計なこと」と「一番しんどいこと」を見つけて飄々とできるか否か。この意気の高さが何より必要だ。

書いてあることだけやっていても仕事や生きることのモチベーションは上がらない。

「誰かがやってくれる」とか「誰か暇な人に任せたらええんや」と口にする人はきっと仕事そのものができないし、人生が味気ないし、第一、人間の魅力を感じようがない。

社会に対する向き合い方も同じ。頑張っている人を無視しないで応援しよう。困っている人を自分事のように思い、力になろう。不正している人たちには鬼のような気迫で改心させよう。

「自分の仕事」という決められた範疇からどれだけはみ出して活動していけるか・・・仕事ができる人ってほぼほぼおせっかいな生き方を旨とする人のことだ。

生きていると辛いこと、悲しいこと、苦しいこと、みじめなこと、恥ずかしいこと、寂しいことの連続で、そういうことが9割5分以上を占める。そう思う。

楽しいことやうれしいことなんかほぼない。

みんなそんな心象風景の中でなにもなかったように生きているけれど、なんでこんなにしんどいんだろう。もっとみんながみんなにやさしい社会で自分の幸せだけ考えずにそこにいる身近な人の幸せや、社会全体の幸せや地球環境の未来のことなんかを真剣に考えながら生きていけたらどれほどこの生はうれしがるだろう。

「たった一回の人生だから好きなように生きていきます」は正しい、とは思わないが否定もしない。ただ僕はそんな生き方ができないし、したいとも思わない。

他人に無関心で社会と無関係だなんて振舞う生き方を尊敬はできない。

社会や困難に陥っている人を何とかしたい、よくしていきたいという一員でいる、という自覚が生きていくためには必要だ。

自分とその周りの関係者のことが第一で、半径5m以内のことしか関心や興味がありません、という考えが蔓延すると、きっと世の中崩壊する。

 

大人になろう。

自分のことと同じくらいの比重で世の中のことや他者のことを考えたい。

苦しんでいる人と一緒に苦しみたい、悲しみたい、右往左往したい。

年だけとってガキのままの人間だけにはなりたくはない。

 

❝私たちの知っている葉ちゃんは・・・神様みたいないい子でした❞

『人間失格』のラストのこのセリフがジーンと胸を打つ。

恥の多い生涯を送ってきました…と自己否定しかない主人公の印象を聞かれてそう回想するバーのマダムの言葉。

そんな言葉をシャワーのように浴びせて欲しい。他者にも自分にも。

そんな言葉がきっと人を前に向かわせるし、人を人たらしめる。