やせ我慢が必要だ

やせ我慢が必要だ

夢はきっと叶う ひとつだけきっと叶う
そのために何もかも失ってかまわない
それほどまでの夢なら叶う
一生にひとつだけ
夢はきっと叶う 命も力も愛も
明日でさえも引き換えにして きっと叶う

いつも元気な人、いつも強い人、いつも心和む人、いつも居心地のいい人、いつも気持ちのいい時間、空間、自然、建物、空気…あって当然だと思っている人やモノや存在がある日を境に気配さえなくなったら動揺するだろうなあ。生きていくのが辛いだろうなあ、とふと思う。
玲子さんのブログがなくなったときも動揺したし、小ちゃんのブログが見られなくなった時も、どうしたんだ、と心配になった。気配さえ感じられなくなったら生きる気さえしなくなることって確かにある。自分以外の人の頑張りに励まされていたことに今更ながら気づき、呆然とする。これじゃあ、生きていけないじゃないかって思うんよ。
その人が元気に生きていればいいんだけれど、いつもある風景はいつまでも続くに違いないと根拠もなく思っていた心が一気に悲鳴をあげることもある。
そんなに好きでなくてもラジオから道上洋三の声が聴こえるだけで安心した。
中島さんがマスメディアに、そんなに出なくても頑張っている気配さえ感じられたらファンは安心する。
同じ風景って決定的にものすごく大事なこと。
疲れた時に帰ってこれる場所があるから人は旅に出られるんだ。
そんな大したことではないと思っている日常の同じことも繰り返しごっこが生きる上で一番大事なことなのかもしれない。
毎日繰り返されること、大江健三郎が言うところの「人生のハビット」この(習慣)が人の心を穏やかにさせてくれる。
ただ、それってなくなってからしか存在の重大さがわからないことがある。
きっと繰り返し毎日綴られる「パオパオだより」もそれがなくなってぼくはそのまま存在の大きさを実感するはずだ。
共通して言えることは、現在進行形の「ハビット」はそんなにありがたみを感じさせないモノなんだ。人間はバカだからなくなって初めて感じる偉大さってかなりある。ほとんどのことがなくならないと分からないことがばかりだ。

最近何も考えていない。

漠然と人生も、もうすぐ終わりつつある・・・そんなことばっかり考えている。

同級生も第一線から遠ざかり、会社勤めしていた者は退職したり、嘱託として安い賃金で働いたり・・・。いいことなどどこを探してもない。今から新しい福祉の勉強をして何になる・・・ふとそういう自分の声が脳裏を走る。

何をしているんだろう。

そんなことを考えていたら生きるのがやたらしんどくなってきた。

最近のお気に入りはYOU TUBEの「貴闘力の部屋」。これがいい。

相撲界の闇を一気に語ってくれる。

 

昨日、今日と本を二冊。今しがたのことだ。

談志さんの対談集と「昭和プロレスを語ろう」ときた。

談志さんの頭の良さは今更ながら特筆もんだ。こんなふうになりたかったなあ。もう遅い。

近くにいたら誰かと語りたいわ。談志さんのことと昭和のプロレス。ノスタルジジイにはそんなことしか楽しみがなくなってきた。

小佐野さんの情報量の多さに脱帽した。

今や世の中ガチの格闘技が幅を利かせているが、ぼくは断然プロレスが好き。

スポーツと言っていいのかエンターテイメントといっていいのかわからないグレーの部分が大好きなんだ。馬場さんがまた大好きになった今夜。

それを確認して寝よう。

 

 

統一教会とのしがらみの話題がかしましい。

彼らの言い訳が人間の品性のなさを無慈悲に暴き出すところがなんとも滑稽でもある。

「知らなかった」「挨拶しただけ」「名前を貸しただけ」・・・この言い訳で世間に通用すると思っているところがなんとも恥ずかしい。

我々の身の回りを見渡してもウソとすぐわかる言い訳はごろごろと転がっている。

「親戚のオジサンが亡くなりました」「弟が急に様態悪くて病院へ行ったので」・・・休む理由でこういうことを言う人がいる。ほんまかいな、と思いながらも調べるようなことはしない。世の中はそういう虚実入り混じって成り立っている。ぼくがそれが嘘と思うのか本当と思うのかは日頃の姿勢いかんにかかっている。

障碍の重さゆえに入所を断りたいと思う場合も、本当のことは言わずにそれらしい理由をつけることが多い。「定員オーバーで」「うちには合っていない」「気持ちはあるんですが体制が整わない」・・・そういう理由は全部後付けで本当は「根性がない」「しんどいことはしたくない」と言うところがほとんどと思って間違いない。なぜそう言い切れるのか・・・ぼくも同じように思っていた時期があったから。そんな「もっともらしい」言い訳ばかり考えていた。

何も手のかかる障がい者を無理して招き入れなくても手のかからないそれなりの障がい者はたくさんいる。そういう高を括ったような振る舞いができる大きな法人の場合はなんとも言い難いが「根性」なんかが要らないんだ。

ところがそういう了見の事業所、施設が人を唸らせる仕事ができるかというとできない。これは言い切れる。なぜか?やる気がないからだ。

本当に障がい者福祉に関わりたいのか、と問い詰めたらさてそこで「やりたいです」という言葉が返ってくるとは思えない。楽がしたい、が上位に来る人や事業所に何の期待もできないのは昔からの当たり前のこと。

行先がなく困っている人がいる・・・と言う状況を目の当たりにしても「うちは無理です」とシラーッと言える感性を持ち合わせているところはこの仕事には向いてないね。

甘い時代です。

それなりの「やっている感」を出していれば結構な収入になる。

問題はそこから先。この恵まれた環境の中で安住せずに障がい者福祉の本質・・・「困っている人の側に立つ」「問題を共に解決していく」・・・そこへどうアプローチしていくか。

そこそこの仕事ができて、そつなく記録も掛けて、知識も実践もそれなりにできるのは当たり前のこと。恥ずかしげもなく「頑張っている感」を漂わせながら仕事しているを多く見かけるけれど、プロがその道のことで努力するなんてことは当たり前のこと。そういうプロセスを見せること自体が恥ずかしい。当たり前の努力は陰でやれ。

結果が出ない時にはすぐに「頑張っているんですけどねえ」なんて言い訳をする。そう言う事を恥ずかしいとも思わないから、「楽したい」時の言い訳もすらすらとウソを言えるんだ。

この仕事を続けたいんなら言い訳なんかせずに一番しんどい現場へ飛び込め。

 

これ全部自分に言っている。

介護疲れとか人間関係の疲れとか仕事の悩みとか病気の悩みとか、それはそれで一人ひとりなんかある。そんなものをもちながら何とか前を向こうと頑張っているのがぼくが思う人間の日常。

 

朝早くから「母の徘徊する」動画がLINEで送られてきた。映した人のコメントが凄い。「人生の貴重な時間が無駄になっていく」って。

嫌味でしかない。頑張っている自分。それに対して呑気にしている「おまえたち」へのいたたまれない怒気を100%含んだLINEにぼくはたじろいだ。ほぼ毎日こういう「嫌がらせ」に、(そうだ、明確なハラスメント)遭遇して気分穏やかでない。

なら「頑張っている自分たち」を解放してやるしかない。

こんな不遇な邪魔者扱いされては母が可哀そうでもあるし「呑気にしている自分たち」も心落ち着かない。

弟と連絡して母親の入所先を探すことで動くことにした。

事態はどうあろうと『自分の心さえ優しければきっといい事がある』太宰教の信者である僕は一心にこの呪文を唱える。

 

拗ねるな、拗ねるな、どうあろうと素直な心に勝るものはないのだから。

自分の置かれた「悲劇性」「憐れみ」「運のなさ」「過酷な日常」「常軌を逸した認知症の世話」「ああ、人生の無駄」・・・を殊更主張して、自分以外がいかに恵まれた状況下にいるかを他人に吹聴するその行為にどれだけの人が共感してくれる事やら・・・。

「疲れた」「もうたまらんわ」・・・それを聞かされる身にもなれ。どうしろと言うのか。

朝からずっとそんなことを思っていた。

 

かつてぼくは子どもが小さかった頃、PTA会長、子ども会会長、野球部保護者会代表、補導委員・・・関われる役は全部引き受けた。無理やりではない。自分から「やります」と言って引き受けた。

身近な人は「そんなもん、好きな人にやらせとったらええんや。家のことも仕事も大変やのに」とグチグチ。それに対して「うん、ありがとう、“好きな人”やからやるわ」と相手にしなかった。僕は世の中で「好きな人がやれば・・・」というような、そういう考え方が一番嫌い。大嫌いなんだ。「誰かがやるやろ」と思っている人が多すぎる。そういう人間が人生の来し方に「正論」吐くのを聞くのも嫌。

 

この介護の問題も「だれか好きな人がやったらええねん」みたいな発想がどこかにないかい?「自分はこんなこと大嫌いなんやからしたくない」「困った人の世話するのが好きな人が身近にいるやん。その人がやったらええんや」って思われているように思えて腹に虫のようなものが湧いている。

 

グチグチグチグチグチグチ・・・一切の優しさがないんだ。

頭の中には自分のことばっかり。それも「悲劇的な状況下にいる可哀そうな自分」のことばっかり。

ぼくは死んでもそういうものに共感も理解も示さない。

人間としての厳しさが一切ないんだ。ガキのまま死んでいくんだろうな。

堀ちゃんが富士登山競争を制限時間内で完登した。

100キロのウルトラレースよりも六甲縦走よりも過酷だ、と当人が言っていた

。麓の富士宮市から3776メートルを駆け上がる過酷なレース。

こういうレースに挑み、制限時間内にゴールするってのは普通の人には出来ないことだ、と確信している。素晴らしいの一言。忍耐の賜物。

この堀ちゃん、ずっと「敬語」を使って生きている。「皆さんの応援でゴールさせていただきました・・・」何とも謙虚。客商売をしているからだろう、と思われる節もあるがそうではない。人間の問題だ。言葉だけでなく生き方が敬語的だ。

心の中でどんな葛藤が渦巻こうが表出する言葉や態度が敬語って尊敬する。

相手が乱暴な言動を吐こうが敬語で受け答えする。その距離感がぼくの了見に合う。

いつもこうありたいと思うんだ。

いくら親しくなっても敬語や丁寧語で通したい。

ジャニーズが先輩であろうと「○○クン」と言うのにいつも違和感感じている。

萩本欽一が後輩であろうと「欽ちゃん」と呼ぶように無理強いしていることに嫌悪している。

表層の言葉という「型」だけが敬語ではなく、心から敬語を使いたいもんだ。

ふっとした瞬間、中島義道が入り込んでくる。

 

「人生はいずれどうあがいても終わりが来る」

嘗て東京の大学の教鞭をとっていた彼は新入生歓迎の席でこう述べた「何をどうがんばってもいずれ死ぬんですが、今を精いっぱい頑張ってください・・・」

ニヒリズム。一生懸命とか前向きとか夢を持つとか、役に立つ生き方とかを全否定していた。

何をしたって虚しいと感じることが人生において何度か襲う。何のために生き、幸せって何だろうとか、よく生きるとは何だろうとか考えることがある。そういう時は精神的にけっこう追い詰められていることが多い。最近もそんな瞬間があった。何のために毎日生きているんだろうって、思いながら、年をとるにつれて楽しくない時間が増えているようで毎日がちょっと辛くなる・・・・そんなとき、そっと中島義道が忍び寄ってくる。

くよくよ考えたっていずれそう遠くない時期に人は死ぬ。その重大な事実を触れようとしない,触れると不謹慎な・・・と嫌がられる。

けど、もうそんなに遠くない時期にぼくもあなたも死ぬんだ。その前にもし生きていたとしても80歳の僕は毎日元気で生きていられるかなど、全く分かったものではない。あと10年だ。そんなふうに思う。それを過ぎたら楽しいことなどもうないんだろうなあ。若いものに疎ましがられて、邪魔者扱いされて死んでいく準備をしていくんだろうなあ。「人生って楽しくないよね」なんて思いながら最期の後始末に取り掛かっている80歳の僕。

今日、家庭内でごじゃごじゃと気の滅入る話をする人がいた。どう考えたってぼくに非はないことなのにじぶんの「正義」を殊更主張する人がいた。気が滅入った。ぼくはいつものように黙って話を聞きながら「シンデクレ」と心の中で藁人形にくぎを打ち付けていた。

しかし、ここまでやるか、というほど大谷への過剰な報道を目にすると吠えないわけにはいかなくなる。

いまやスポーツニュースは「大谷翔平」一本だ。視聴率が稼げるんだろうけど、あまりにも度が過ぎる。怒りが湧いてくる。報道に、だ。もうええわ。大谷に関する取扱いが20分でタイガースの試合結果が30秒で終わるって、おかしいでしょう。「さて、今日のエンジェルスはどうなったでしょう」って知るか、そんなもん。だいたいアメリカの野球の順位に誰が興味あんねん。なめられたもんだ。アメリカ人に熱烈に歓迎されている大谷の映像を見て日本人として誇りに思うって、もうそこにはアメリカ国の植民地意識しかない。日本人に喜んでもらうよりも米国のアナハイムと言う一地方都市の人々からの歓声を浴びる方が価値がある、と言うふうな報道の仕方って何?何がうれしいの?。アナハイムってどこやねん。日本人に直に喜んでもらえよ。

家人も大谷が出てくるとチャンネルを変える。僕も大谷は見ない。大谷しか取り上げない、そのことが当たり前だという風潮。大谷批判などもってのほかだ、そういうヤツは非国民だ・・・そんな流れが間違いなく作られようとしている。

ダルも前田も筒香もどこにもいないように、報道しない。心が荒む。無言の公然とした差別がそこにはある。スターこそが大事で、視聴率が計算できる話にしか飛びつかない報道関係者。そういう報道の姿勢を我々が容認する事こそ世の中を間違った方向へ導いているような気がする。

断固としてこういうものには反対する。オジサンは大山や佐藤の活躍が見たいのじゃ。外つ国の野球など興味がないし、扱うな。

大谷ごときの活躍を『全国民が関心持って見守っています』てな口調であおり、囃し立て、マッチポンプのようなことをして喜ぶように仕向ける演出をするのはもうたくさんだ。止めようぜ。

母親の介護に明け暮れた。いっときも目を離せない。

夜、実家に送っていった際、兄とその息子(甥っ子)が壮絶なバトルを始めた。

些細なことだがお互い、日頃からうっぷんが溜まっていたんだろう。本当に些細なことだが、お互いに主張を譲らなかった。最初穏やかに言い合っていたのが途中からヒートアップ。正しい主張をぶつけ合う。「もうそんなこと言うて人をだましたらあかんで」という甥っ子。兄は自分の信じる品を全否定されて怒りが収まらない。大声をあげてその発言を制止する。「いつ洗脳されたんか知らんけど、そんなこどもだましみたいなこと言うたらあかん」と穏やかに、心臓をえぐるような発言を容赦なくする甥っ子。もう手に負えない状況だった。

 

正しさと正しさがぶつかる場面によく出会う。自分の主張のまっとうさを相手にわからそうとしても無理。理解と納得を通してわからせることを最初から放棄して一方的に自分の正しさを主張しだした時点で迷走すること100%だ。

正しさなんてどっちでもよくて、自分の正しさが相手を打ち負かせればそれでいい、と思っている人・・・苦手だね。

 

今話題の統一教会についても思うことがある。

関係を報じられた自民党の議員のほとんどが関係性を否定するんだ。稲田直美においては「何の団体の何の会合か知らずに行っ」て挨拶までしている、って。もう笑うしかない。お世話になった団体ならいくら批判されていようがその主張に共感し正しいと思っているなら「日頃からお世話になっています」と言うのが筋だろう。統一教会の非道と下劣さと同じレベルでお世話になった団体をも無関係を主張するその浅ましさ、クズさ、人間として最低ランクだ。

 

たとえば、ぼくが大好きな人が犯罪を犯したとしてもその関係性を聞かれて、否定などしない。大好きでした、としっかりいうし、心から尊敬できる人でしたとも言うよ。

人として最適のマナーさえ知らずに友好団体を単に利用していただけなんて、その性根のなさの方が罪深い。利用するだけ利用して形勢が悪くなったら手のひらを反すなんて人間として最低だ。こういう人って信念とか正しさと共に生きていくという人間としての幹がないんだろうなあ。

桜田淳子もきっとこの間のバッシング以上に大いに親交のあった自民党議員共のくそ対応にイラついているんだろうなあ。

コロナがまた増えてきた。

心が萎える。僕にとって今年の夏はいつもの夏とは違う。

感染が拡大しないことだけを毎日朝から晩まで願っている。

 

☆昨日、姫路赤十字病院診察。二度目の24時間心電図の結果を聞きに行った。

結果、若干の不安なところはあるが現状のまま生活できると言ってもらった。実はこの日が来るまで心の中では3割くらいはペースメーカー装着かな、と思っていた。ドキドキしていた。そうなったら、もう、人生終わりやん、と思っていたんだ。

助かった。

ただ、夜中に30秒間だけ鼓動が3秒ほどなかったのが数回あったらしい。1分間の脈拍が33回というのが1回ほどあったらしい。

それぐらいならいい。

もう死ぬ時は寝ている間にポックリ行きたい。真剣にそう思った。

 

☆この仕事は「かさばらないこと」「テキパキ動くこと」「率先して一番ハードな前線に行くこと」「文句言わないこと」がなにより優先的に試される。そんなことを身軽に動く10代のアルバイト君を見ていて思っていた。

歳いって動きが鈍くなるとほんと使い勝手が悪くなる。切れのある動き。そこにこだわろう。「ああしんど」って言いながらドテッと椅子に座って動こうとしなかったり、しんどい顔して周りをうっとうしがらせたり・・・やめようね、そんな年寄り臭いこと。「暑っ」を連発する御仁もいる。一々口にして涼しくなるならいいが、そんなこと言っても何の解決にもならないなら、強がって「気持ちいい」と叫んでほしい。

とにかく、しんどい時に誰よりも早くフロントラインに立って勝負したい。それができないようなら、引退も考えよう。

ということで、先月9日に倅がひげを生やして、肩を揺らせて「凱旋帰国」(と本人が言っていた)していた。今月4日にまた「本国へ帰る」(と、本人が言っていた)といって江州、元へ豪州へ行っちまった。帰ってなぜかホッとした。

約ひと月日本にいたけど、家にいたのは数えるほどだった。あちこちへ飛び回っていた。その方がこっちもよかった。なんせかさばる。生意気なこと言うし、態度が横柄だ。競馬に夢中になっていた。30手前でまだ自分探しの途上にいる。定職など就く気があるのかどうか疑わしい。この親にしてあの息子。何の期待もしていない。たった一つ、犯罪だけ犯さないように生きて欲しい。ささやかすぎる希望。

オーストラリアは時間を守れ、など誰一人言わない。おおらかだ。

オーストラリアは自動車の運転もゆったりしている。煽りなどない。

オーストラリアは狭い道がない。

オーストラリアはやたら子どもが多い。

オーストラリアは夜になると公衆便所だけでなく、店(マクドナルドなど)のトイレも施錠する。

オーストラリアは自動販売機などない。

オーストラリアは遊ぶところがない。

オーストラリアは時給がウソみたいにいい。

オーストラリア人は休日は働かない。穴埋めを外国人がする。

オーストラリア人は何を言っているのかわからない。短縮した言葉がわからない。

オーストラリア人は日本語を知らない。

オーストラリア人は漢字を知らない。当たり前じゃ。

オーストラリア人は背が高い。なんのことや。

 

だいたい、そんなことを言っていた。

倅に自分の仕事の「跡継ぎ」を考えたことがない。彼もそう言う事を一切思っていない。一緒に暮らせないオーラが漂った。もし彼が結婚してその配偶者に老後の世話を・・・など考える余地がない。

「孫の顔が見たい」って・・・・・うちはきっと無理だ。それで全然構わない。