何でもアル牢屋 -18ページ目

何でもアル牢屋

誠に勝手ながらフォロワー申請を御断りさせて頂きます。商売目的の方からの申請が多い事が理由の一つですが、フォロワー数で優劣を競い合う風潮が嫌いなので無い方が良いのかなと。御理解頂きますようお願いします

「生き辛さ」って言葉の響きが妙に気に入ってて、私のテーマになっている。
実の所、今年の1月から体調が悪くて病院のはしごを繰り返した。身体検査、血液検査、どれも異常がない。なんだけど具合が悪い。落ち着かない。「そんな筈はない。何処か悪い筈だ」と思ってる内に不安症まで出てきた。

不安と恐怖はどちらが怖いのか?恐怖とは対象があるから、その恐怖から遠ざかれば良い。だが、不安は漠然として形が無いので具体的な正体が一向に掴めない。一つの不安が解決すると、次の不安が待っている。

強迫神経症と言う精神疾患がある。我々は日々の生活に、必ずと言っていいほどルーティンを持っている。飯を食べる時も箸はこの位置で、おかずの皿はこの位置でないと落ち着かないとか、歯を磨く時は必ず右下の奥歯から手前へ磨いていかなければならないとか、起きて顔を洗う回数は最低でも20回とか、うんこした時は必ず三回拭き、四回目を更に念入りに拭かなければ気が済まないとか。
性行為においてもルーティンは機能する。特徴的なのは男の方で、特に射精時における拘りは強い。その際、女性の体の、どの部位に発射させるかが重要らしく、腹の上や顔射は珍しい時代ではないが、脇に発射しないと気が済まないと言う男も居るらしい。その男によれば、代々、自分の彼女になった女性の脇に発射させてきたのだそうだ。もはや儀式と言うしかない。
 

不安症はどうか。不安神経症を患う人は、毎日の様に病院に行こうか行くまいか思案している。手持ちの抗・不安薬が残り一週間を切った所で、予約の電話をしようかするまいか悩み抜いている。これも一つの生き辛さだろう。不安症にとって最大の優先順位は常に病院と残りの薬の数なのである。

心療内科や精神科は予約制なので、行きたいタイミングに限って予約が一杯で、二週間、三週間待ちと言う状況もあり得る。いざ自律神経の発作に襲われ薬が無いなんて状況を想像するだけで恐ろしくなる。何処まで心の準備をしなければならないのか途方に暮れると言う日々の繰り返し。
コロナ化の生き辛さで発症する神経症もある。特に手洗い。消毒だけでは気が済まない。100回手を擦り合わせないと奇麗になった気がしない。その100回の途中、何らかの邪魔が入った時点で回数はリセットされ、1からやり直しになる。不思議な事に、人の脳は何らかの刺激とショックで同じ事を繰り返すように出来ているらしい。
 

不安とは、些細な出来事や偶然性を笑って済ませられない状態なのだそうだ。解決の手段は考え方で変わる。人から見たら風変りなルーティンも、味わいと捉えれば人生にワビサビが出来て生きてる実感を得られるのではないか?そう考える事で豊かさと余裕が生まれてくる。そうする事で、いつの間にか<生き辛さ>を感じなくなってきたと言うパターン。これが最高のハッピーエンドな気がする。

いつも思っている事。ネットでモノを書き始めて21年経つが、「ウマいやり方」や「人気の取り方」が未だに判らない。それに対し、勉強するとか研究するとか一切しようと思わない。ブログで何をしたいんだろう?と自分に問いかけると、必ず返ってくる答えは「書きたいからやってるんだろう?」となる。カメラとマイクを準備して動画をやりたい訳でもないし、大好きなゲームで実況しようとも思わない。

只、書く事に関しては多少の勉強はした。いわゆる<文法>というやつ。初歩的な所では、文章は最初の三行で決まる。説明文よりも動きのある文章を書く。ブレない文章にする為のタイトルの重要性。この三点を意識するだけで文章は変わる。どう変わるのかは自分でも何となく感じる。後は読み手の反応次第って所で運が絡む。
私の文章は、いつも長い。長い文章は好まれないと言われるが、そんな事、お構いなしに長文を書く。行間を空ける書き方は嫌いなので、ギッシリと書く。ギッシリ書いた後、微調整し、余計な文を削除し、テンポを重視する。不思議なもので20年も書いてると、他人に読まれる感覚や緊張を感じなくなってくる。21年前、私は27歳だった。年齢や経験以上のモノを書く事は出来ない。当時、夢中になって書いていたのは映画のレビューだった。観た映画の事を書くので、嘘を書く訳ではない。だから伸び伸びと書けた。飽きもせず数時間かけて書きまくった。27歳の頃の体力は、今の私には無い。
 

テレビゲームの世界には、縛りプレイと言うのがある。敢えて自分にプレイ制限を掛け、あるアイテムを使ってはいけない。強い装備を使ってはならない。格ゲーで言えば、対空や連続技が豊富な強キャラを使ってはいけない。ドラクエで例えれば、最も弱い竹ヤリやヒノキの棒でドラゴンに向かっていく行為で、要は絶対的不利の条件下での鬼畜プレイを敢えてする。それが縛りプレイの本質である。
私は自分のブログに、ある制限を掛けている。それは宣伝をしない事。書き込み掲示板にアドレスを張り付けるのも禁止。ヤフコメにコメントを書き残すと見せかけて、実の所、自分のブログ宣伝をするのが目的とかも禁止。同じくアマゾンでのレビューついでに宣伝するのも禁止。但し、他人様が私のブログを宣伝する事は私の意志ではないので、この場合は放置。不可抗力と言うパターン。
何故、そんな事をしてるのかと問われれば、こう答える。

「何処の誰が、どうやって、このブログの存在を知ったのかに関心があるから」

自分で宣伝をしてしまってはスリルが無い。何か納得がいかない。自分に負けた様な気がする。釈然としない自分が嫌になってくる。その際、アクセスがどうとかコメントがどうとか関係ないのである。
その辺の拘りで言うと、私が動画やツイッター、インスタをやらない理由が見えてくる。なるほど、そもそも、それらの行動が私の縛りに反しているからだろう。どうやら私の目的は、呼び込んで知り合う出会いではなく、ある日、突然出会う偶然性の様である。

傍若無人だった主君が死に、死んだ主君の遺体に向かって罵詈雑言、唾を吐きかけ、踏みつける家来達。先日のジャニーズ事務所の会見には、そんなニュアンスが感じられた。
自分達が信じていた象徴的存在に裏切られ、踏み絵の如く扱われる主君。そんな事件が過去の日本の政治にあった。元・総理大臣の田中角栄である。ジャニー喜多川と田中角栄の姿が妙に重なってしまった。田中角栄の踏み絵は、VTRとして記録され、何度かテレビで放送されてきた。報道番組で、そのVTRを観た元・側近とやらが嗚咽しながら「可哀想に・・・」と言ってマジ泣きしていたのを想い出す。先日の会見を観たジャニー喜多川の元・側近も、同じ様に「可哀想に・・・」と涙した者は居たんだろうか。
歴史的な会見であったと思う。この会見はジャニーズ事務所と世間と言う図式に収まらず、様々な媒体に余波が行くのではないか?それを扱う日本のメディアは「当時、報道しなくて御免なさい」の嵐。私に言わせれば、本当にそう思うなら、今現在、報道番組を担当している司会者、出演者は全員まとめて首にしたらどうか?或いは自分達で辞表を提出したらどうか?責任や覚悟を語るなら口だけでなく行動すべきだろう。
忖度って言う言葉が、とにかく浮き上がる。一体、何処から何処までが忖度なのか?いつまで遡るのか?途方も無い忖度があり、その忖度とメディアがグルになっている。多難な時代を迎えている日本のテレビ業界にとって拍車の掛かる事件であり、更に国民のテレビ離れが深刻になるのではないか。テレビ局の一局、二局、潰れるのではないか?とさえ思う。

少し話題がずれるが、最近ふと思うのは、今年の冬、山下達郎の「クリスマス・イブ」は流れるのかどうか。
先頃、彼はネット上でジャニー喜多川の性加害事件の事で世間と悶着を起こした。それによると山下達郎はジャニー喜多川を庇ったらしい事になっている。

 

<山下達郎とジャニー喜多川は信頼すべき同盟者>

 

細かい事情はさて置き、世間の多くでは、そう捉えている。そう認識した。クリスマスソングは数あれど、毎年の様に山下達郎のクリスマスイブが流れると言う事を忖度とは言わないんだろうか?こう言う所でも、忖度が渦巻いている。もしかすると、今年から山下達郎のクリスマスイブが大人の事情で流れなくなるのかもしれない。流す方も聞く方も違和感を感じる訳だから、スポンサーも、どうしようか困惑してしまう。
山下達郎とテレビ局の関係は深い。双方の関係は70年代まで遡る。テレビに出演しない事でも有名な山下達郎だが、彼の新曲の殆どがCMで流されてきた。テレビには出ない。だけども歌だけは流れてくる。そんな奇妙な関係を双方は築いてきた。これも立派な忖度の一つだろう。利害関係の一致とも言える。テレビに出ないのではなく、出たくないと言うのが彼の本音であり、どのミュージシャンも新曲や興行のキャンペーンは無視できず、責任として嫌でも出るのが主流だが、山下達郎は徹底して出ない。一種の<わがまま>とも言える。
嫌な事はやらない。好きな事だけをやる。彼はラジオの中でリスナーに対しても、そう訴えている。それは能力と環境があればの条件付きで、凡人のリスナー達はマネ出来る筈もない。前にも書いた事があるのだが、山下達郎と言う人は、能力と人間性が乖離しているタイプで、<一級品のオタク>であると私は評価したのである。

スポーツ界にを向ければ、プロ野球はどうであろうか?特に渡辺恒雄が牛耳ってきた読売巨人は大丈夫なのか?
12球団ある日本のプロ野球界の中で、読売巨人軍ほど特別な球団は無いだろう。金、淫欲、暴力、嘘、負の要素が渦巻いている巨人の歴史は、ジャニーズよりも巨大かもしれない。だが渡辺恒雄ことナベツネは生きている。往年の支配力は無くとも、現在、彼は大病院のVIPルームで不自由の無い生活を送り、巨人の頭脳として君臨している。メディアやファンから「辞めろ、辞めろ」と大合唱され批判され続ける原辰徳が、何故、監督を辞めないのか?と言う謎も、ナベツネが全容を知っていると、多くの専門家が口を揃える。
ナベツネが死んだら、ジャニーズと同じ事が巨人に起きるのではないか?度重なるメディアの「御免なさい」は、ジャニーズだけでは無いだろう。スポーツ、芸能、政治、過去のツケの清算がやってきそうな予感がしてならない今日この頃。

最近、若いユーチューバーの死亡記事を頻繁に見掛ける様になった。報告義務は無いので死因の殆どは非公開なのだが、直感的な感覚で、それは自殺なのだろうと判る。
最近読んだ本の中で、現代病とも言えるのが<承認欲求>で、何かをアピールし、反応を得られない事が大変なストレスになり、精神病へと発展する。メディアが避けている話題なのかは不明だが、日本全国で精神科、心療内科の受診者が急増しているのだと言う。場所によっては予約に一か月待ちなんて状況もあるそうで、大変な混雑ぶりなんだそうだ。
診察をする精神科医の話によると、承認欲求によって精神を壊す受診者の殆どがスケールの小さなチープな悩みらしい。幾つか例を挙げてみよう。

1:自慢の動画の再生回数が伸びない事によって、あらゆる<やる気>を無くす

2:これはイケると信じた自信満々の記事なのに<いいね>を貰えなかった事に絶望する

3:知人にメールを送ったが返信が無い事に不信感を持ち、その知人との関係に終わりが来た事を勝手に妄想する

4:ブログ、ツイッター、インスタ、あらゆる手段を講じて人気取りに奔走するも、どれも不発に終わり、人生の拠り所を失う

5:勇気を持って炎上覚悟の爆弾ネタを披露するも、驚くほど反応が無く、自分の存在意義を確認しようとする


こんな感じで、殆どがSNS関連で起こりえる事であり、その全てが数字を基準に左右される<承認欲求>である事が判る。
彼等からすると、SNSと言う空間は成り上がる為の手段であるらしく、誰よりも早く出し抜きたいと言う感覚が強い。それ故にSNSから誕生する著名人に対し、辛辣な反応を示す。出し抜かれた感と言うか、敗北感と言うか、例えるならば芋掘りで、自分のエリア内の芋を、目の前の奴に掘り起こされて持っていかれたって感じなんだろうか。

個人的な憧れがあって、ネットを必要としていない人達を羨ましく思う。ネットの情報にイラつくこともない。アクセス数や<いいね>の数も気にならない日々。

テレビゲームも私の少年時代は、おもちゃ屋で買うのが主流だった。今はネットで買える時代だが、おもちゃ屋で買ったファミコンソフトは格別の喜びだった。店を出て、包装紙に包まれたソフトを手に取り、匂いを嗅ぐ。新鮮な紙の匂いがする。家路までの道のりが楽しかった。この感覚は、ネットで買い物をしてると味わえない。少年時代の癖があるのか、今の私は、なるべくネットで買わず、わざわざ店に行って買うと言う面倒臭さを楽しんでいる。店に行く際、出来れば車ではなく、自転車で行ける様な絶妙な距離がイイ。そんな店を私は選ぶ。
80年代に普及したVHSのレンタルビデオ店も私の青春だった。毎週土曜になると千円札と会員証を握りしめて、一本330円のビデオを三本借りる。すると10円おつりが来る。当時、まだ消費税と言うシステムが無かったので、そう言う緻密な金の使い方が出来た。今は消費税も絡んで値段もややっこしい。
アダルトビデオを初めて借りたのは15歳だったが、あの時の緊張感も格別だった。少しばかり大人びた服装をしてアダルトコーナーに一歩足を踏み入れると、体が自然と引き締まった。平静な振りをしなければならない。この時ばかりは役者染みた自分を意識する。だが体が熱い。額からは汗が流れ落ちる。店員に見られている様な錯覚に陥る。店員が不意に近づいてきて「ねえ、ちょっと」と声を掛けられそうな気がしてくる。実際には、そんな事は起きない。身分証明も曖昧な時代だったので、ガキだろうが大人だろうが確認されるなんて事もない。そうやって何とか借りる事が出来た巨乳モノのビデオは大収穫だった。今はどうか、アマゾンでポチッと押して終わり。感動が無さ過ぎる。

ネットが人を焦らすと言うか、ネット社会が日本全体を生き急がしている感じがする。生き急ぐって言葉も何だか変で、そのゴール地点は何処なのか?この世に生まれて死ぬまでの中間において、自分が生きたと言う何らかの証を残したい。それが現代病である承認欲求なのかもしれない。

虐めっていうのは、必ずしも誹謗中傷に限らず、褒めて褒めて褒めちぎると言う虐めも存在する。例えば、美女に向かって「あなたって奇麗だよね。ホント奇麗だよね。なんでそんなに奇麗なの?」。こんな言い方をされると、嬉しいを通り越して何だか嫌な違和感を感じるのが人の性。
連日、過熱するメジャーリーグの大谷翔平の報道を見てて感じるのは、丁半博打の様に「丁か?半か?さあ張った張った!」みたいなノリで、ホームランを打ったか?打たないか?しか興味がない。こう言う報道をしているニュースキャスターやワイドショーの司会者、コメンテーターは、何の違和感も感じてないんだろうか。やっつけ仕事みたいに「今日の大谷翔平」と言うコーナーを無理やり作って都合のイイ時間稼ぎをしてる風にも見える。
 

先日、アメリカ在住のタレント・野沢直子が日本に帰ってきて、トーク番組で<アメリカでの大谷翔平>について、日本では御法度の爆弾発言を披露した。

「大谷君の人気は本物だけど、実の所、向こうでは野球って盛り上がってないんだよね。向こうではバスケとアメフトが主流で、野球は好きな人しか見てないって感じ」

この発言には信憑性があって、実際、メジャーリーグはホントに盛り上がっていない。

この事実は今に始まってなくて、十数年前から始まっている。その切っ掛けは選手達の薬物依存で、メジャーリーグのホームランバッターの殆どがステロイドによる筋肉増強でホームランを打ちまくっていた事が発覚し、それを知ったアメリカ人が野球に失望してしまった。そして偽りの英雄を演じていたスター選手に愛想をつかし、観客数が激減した。インチキ・ホームランの汚名を払拭させたいメジャーリーグは、低反発ボールと言う<打っても飛び辛いボール>を採用するのだが、これが火に油で、今度はホームランが出なくなって面白くないと野球ファンがナジリ出す始末。これじゃ拙いと言うので結局、<高反発ボール>に変えて、ホームランが出やすいボールを採用するに至る。大谷の打つホームランがボンボン飛んでいくのは高反発ボールだからなのかまでは知らないが、メジャーリーグと言う聖域は決して褒められた媒体ではない事が伺える。お粗末と言うか情けない。
今年の春に盛り上がったWBCだが、開催された時期はメジャーリーグが不景気になった時期と重なるのだと言う。つまり、主催国のアメリカが外国にマーケットを拡げ、商業目的の興行としてアメリカが儲ける為に開催した。こういう発想は四年に一度のオリンピックから得たのだろう。現在のオリンピックも明らかに商業である。

連日のしつこ過ぎる大谷報道の背景には政治が絡んでいて、この情報操作をしているのがスポーツ庁なのではないか?と私は睨んでいる。そのトップは元・ハンマー投げオリンピック選手の室伏広治である。
大谷報道は、かつてのイチローや松井秀喜の頃と違い、何か気持ち悪さを呈している。その気持ち悪さの正体は<政治>であり、経済的に不景気な日本が世界に売れるアイテムとして宣伝してる風にも思える。世界に誇れると言う言い方は建前で、本当の所は<世界に売れる商品>と言うのが本音じゃなかろうか。

前にも書いたが、アンチ大谷が急増している。大谷関連のネット記事もフリーエージェントや移籍金のネタが多く、取材もしない予想屋たちがエスカレートして勝手に書いている。煽られない様に気を付けたい所だ。基本、ネット記事は無視がいいのかもしれない。テレビメディアも悪乗りを始めていて、メットから髪の毛がはみ出していたってだけでニュースにする。それって何の為の誰に向けた報道なの?いい加減にしろと言いたい。