何でもアル牢屋 -18ページ目

何でもアル牢屋

趣味丸出しの個人コラムです。フラっと立ち寄れる感じの喫茶店的なブログを目指してます。御気軽にどうぞ!

虐めっていうのは、必ずしも誹謗中傷に限らず、褒めて褒めて褒めちぎると言う虐めも存在する。例えば、美女に向かって「あなたって奇麗だよね。ホント奇麗だよね。なんでそんなに奇麗なの?」。こんな言い方をされると、嬉しいを通り越して何だか嫌な違和感を感じるのが人の性。
連日、過熱するメジャーリーグの大谷翔平の報道を見てて感じるのは、丁半博打の様に「丁か?半か?さあ張った張った!」みたいなノリで、ホームランを打ったか?打たないか?しか興味がない。こう言う報道をしているニュースキャスターやワイドショーの司会者、コメンテーターは、何の違和感も感じてないんだろうか。やっつけ仕事みたいに「今日の大谷翔平」と言うコーナーを無理やり作って都合のイイ時間稼ぎをしてる風にも見える。
 

先日、アメリカ在住のタレント・野沢直子が日本に帰ってきて、トーク番組で<アメリカでの大谷翔平>について、日本では御法度の爆弾発言を披露した。

「大谷君の人気は本物だけど、実の所、向こうでは野球って盛り上がってないんだよね。向こうではバスケとアメフトが主流で、野球は好きな人しか見てないって感じ」

この発言には信憑性があって、実際、メジャーリーグはホントに盛り上がっていない。

この事実は今に始まってなくて、十数年前から始まっている。その切っ掛けは選手達の薬物依存で、メジャーリーグのホームランバッターの殆どがステロイドによる筋肉増強でホームランを打ちまくっていた事が発覚し、それを知ったアメリカ人が野球に失望してしまった。そして偽りの英雄を演じていたスター選手に愛想をつかし、観客数が激減した。インチキ・ホームランの汚名を払拭させたいメジャーリーグは、低反発ボールと言う<打っても飛び辛いボール>を採用するのだが、これが火に油で、今度はホームランが出なくなって面白くないと野球ファンがナジリ出す始末。これじゃ拙いと言うので結局、<高反発ボール>に変えて、ホームランが出やすいボールを採用するに至る。大谷の打つホームランがボンボン飛んでいくのは高反発ボールだからなのかまでは知らないが、メジャーリーグと言う聖域は決して褒められた媒体ではない事が伺える。お粗末と言うか情けない。
今年の春に盛り上がったWBCだが、開催された時期はメジャーリーグが不景気になった時期と重なるのだと言う。つまり、主催国のアメリカが外国にマーケットを拡げ、商業目的の興行としてアメリカが儲ける為に開催した。こういう発想は四年に一度のオリンピックから得たのだろう。現在のオリンピックも明らかに商業である。

連日のしつこ過ぎる大谷報道の背景には政治が絡んでいて、この情報操作をしているのがスポーツ庁なのではないか?と私は睨んでいる。そのトップは元・ハンマー投げオリンピック選手の室伏広治である。
大谷報道は、かつてのイチローや松井秀喜の頃と違い、何か気持ち悪さを呈している。その気持ち悪さの正体は<政治>であり、経済的に不景気な日本が世界に売れるアイテムとして宣伝してる風にも思える。世界に誇れると言う言い方は建前で、本当の所は<世界に売れる商品>と言うのが本音じゃなかろうか。

前にも書いたが、アンチ大谷が急増している。大谷関連のネット記事もフリーエージェントや移籍金のネタが多く、取材もしない予想屋たちがエスカレートして勝手に書いている。煽られない様に気を付けたい所だ。基本、ネット記事は無視がいいのかもしれない。テレビメディアも悪乗りを始めていて、メットから髪の毛がはみ出していたってだけでニュースにする。それって何の為の誰に向けた報道なの?いい加減にしろと言いたい。

いじめられっ子が、いじめっ子に立ち向かうにはどうしたら良いのだろうか

日本人の発想では、せいぜい知り合いの半グレ集団に頼むとか、ヤクザ者に金を払って依頼するのが定番だが、アメリカって国は一味違う。人間以外のモノに願いを託す。それが悪魔崇拝である。
夏になるとホラー映画を観たくなるのが私の習性で、連日、深夜になるとレトロなホラー映画を観まくっている。殺人鬼、吸血鬼、ゾンビ、たまには息抜きに少林寺映画を観て頭の中を中和すると言うアンバランス。で、最近観て余韻の残るホラー映画だったのが81年アメリカ制作の「デビルスピーク」と言う作品。この映画、知る人ぞ知るカルト・ホラー映画になっていて、メジャーではないのに固定ファンが多く、テレビゲーム業界にも多大な影響を及ぼした映画として伝説になっている。
昭和の時代によく、映画評論家の荻昌弘さんの映画番組「月曜ロードショー」で何回も放送されていた。昭和50年生まれの私の世代は、解説者付きのテレビ映画番組をよく観ていた世代なので、記憶に残っている人も居るだろう。

DVD化された際、私はすぐに買った。子供の頃にブラウン管テレビで観た映画がデジタル・リマスター版の奇麗な映像で観れると言うトキメキ感。そして、あの主人公・スタンリー・クーパースミスに又会えると言う喜び。
クーパースミスと言う響きが少年時代の私の記憶に、こびり付いた。このクーパースミス役のクリント・ハワードが素晴らしい虐められっ子を演じている。もう見た目がいかにもって感じで、背が低く、色白で、小太りで、目がいつも怯えて潤んでいる。設定も気の毒で、両親は事故死し、身寄りのない天涯孤独の境遇に置かれ、陸軍士官学校と言う場所で寮生活を送っている。
このクーパースミスを日々いじめ続ける敵役・ババと言う名の同僚のイケメン青年をドン・スタークと言う俳優が演じている。DVD特典にクリント・ハワードとドン・スタークの撮影秘話が収録されており、実際の二人の関係は良好な様だったのでホッとした。映画の中で二人は敵対する敵役と言う事もあって、ドン・スタークの方からクリントに「撮影中は仲良くするのを辞めよう」と持ち掛けてきた事を明かしている。その甲斐あってかドン・スタークの憎々しさは存分に発揮されており、観ている視聴者も、どうにかして殺してやりたい様な錯覚さえ覚える。クーパースミスを苛めている時の表情、言動、喋り方、どれをとっても素晴らしい憎たらしさで、ドン・スタークのプロ意識を存分に味わう事ができる。以下、映画の概要に少々触れておこう。

クーパースミスは、毎日の様にいじめっ子にいびられ毎日が辛い。訓練は厳しいし、好きでもないラグビーの試合に無理やり出場させられてはしくじり、そのしくじりを咎められ、それをネタに又、苛められる。校内の牧師や教官までもグルになってクーパースミスに辛く当たり散らす。

ある日、しくじりの罰として牧師から礼拝堂の地下の清掃を命じられる。その地下でクーパースミスは、人の立ち入らない謎の一室に入り込み、そこで偶然、16世紀にキリスト教に反逆した背教神父・エステバンと言う男の書き残したラテン語の古書を発見する。

クーパースミスは、その古書を持ち去るとコンピュータを使って解読を開始する。連日、取り付かれた様に解読し、遂にその本の秘密を知る。それはエステバンの呪いの言葉であり、サタンとの契約を実行する為の禁断の書だった。
 

ある日、懲罰で食事の遅れたクーパースミスが食堂へ向かうと、残飯しか残っていなかった。

クーパースミスを気に掛ける親切な強面の料理長は、こっちへ来いと招き、ステーキを一枚焼いてくれた。満面の笑みで美味そうに食べるクーパースミス。料理長は「イイもんを見せてやる」と言って厨房の奥へと招く。そこには一匹の母犬と子犬が数匹飼われていた。その中の一匹の子犬は病弱で弱っていて、それほど寿命が長くないと料理長はクーパースミスに告げる。その子犬を引き取って育てるとクーパースミスは料理長に告げ、料理長は承知する。
やがてクーパースミスと病弱な子犬との密やかな生活が始まった。礼拝堂の地下室が安らぎの場となっていった。しかし、それもつかの間、礼拝堂の地下を寝蔵にしている飲んだくれの軍曹に見つかり、犬の首をへし折ってやるとクーパースミスを恫喝する。その直後、地下のコンピュータが勝手に動き出し、軍曹の首が後方に捻じ曲がった。クーパースミスは既にサタンと契約の半分以上を済まし、残る要求は<人間の生き血>だけと言う段階に来ていた。

陸軍学校でミスコンテストが行われた晩。クーパースミスを苛める不良グループは、礼拝堂の地下へと忍び込む。彼等はクーパースミスが清掃を名目に地下室で何かをしている事を知った。そこで子犬が飼われている事すらも突き止めていた。
地下に置かれたコンピュータ画面には「血を捧げよ」と言う文字が怪しく点滅している。悪魔崇拝を面白がる不良グループのリーダー・ババは、酒の勢いも手伝ってか遂に凶行に走る。病弱な子犬にナイフを突き立てた。だがコンピュータは引き続き人間の血を要求するのだった。
クーパースミスが地下へ戻ると、彼等は既に去った後だった。血塗れの机を発見し、犬小屋を覗くと無残な子犬が横たわって絶命していた。子犬を抱き抱え絶望のどん底に突き落とされたクーパースミスは、教官を殺害し、その血で最後の契約を済ます。クーパースミスの体にエステバンの呪いが憑依し、サタンの弟子となり剛力を得る。その手には、かつてエステバンが使っていた魔剣が握られていた。

この映画が革新的なのは、コンピュータを使った悪魔召喚と言う点だろう。ゲーム好きのゲーマーなら、それだけでピンと来るだろう。RPGゲーム「女神転生」である。女神転生の制作者はハッキリと、このデビルスピークと言う映画が元ネタになったと公言している。ファイナルファンタジーで御馴染みの召喚魔法も、出所は、この映画なのかもしれない。
81年と言う制作時期は、テレビゲームも、それほど発展していなかった。日本でもコンピュータは専門家しか使わなかった道具で、一般家庭に浸透するのに、もう少し時間が掛かった。
デビルスピークっていう作品が日本で知られたのは、圧倒的に昭和の映画番組の御蔭であり、当時、上手に映画解説をしてくれた月曜ロードショーの荻昌弘であり、クーパースミスの吹き替えを担当した声優の塩屋翼であった。塩屋翼は当時20代で、派手さは無いが独特な声のトーンもあって適役だったと思う。60代になった今も現役だし、私の世代だとレジェンド級の声優である。
 

最後にクーパースミスを演じたクリント・ハワードについて書いておこう。

DVD特典の撮影秘話によると、正直、出演をするかどうか悩んだらしい。彼は役者一家の生まれで、芸能にどっぷりと浸かり、子役からスタートしたサラブレットだった。
悩んだ彼は俳優である父に相談を持ち掛けた。出演をするか?しないか?父はこう答えた。

「お前がやらなくても他の誰かがやるだけの事だ。つまり、そう言う事だ」

クリントは、この一言で決心したらしい。
それまで親の庇護下にあって活動していたクリントだったが、この作品こそが初めて俳優として自立できた作品だったと語っている。デビルスピークと言う作品で一躍どころか遠く離れた島国の日本でさえも、彼は有名な俳優として印象を残した。履歴を見れば、その後も誰もが知ってるメジャー級の映画にも出演し、あれ?こんな映画にも出てたんだ!と改めて驚かされる。
しかしながら、我々日本人にとっては、愛すべき永遠の悪魔召喚士・スタンリー・クーパー・スミスである事に間違いはないのだろう。

 

山下達郎のジャニー喜多川・性被害事件・問題発言から一週間。ネット炎上に対し達郎の反撃あるか?と注目されたであろうサンデーソングブックだったが、それを断ち切るかのように達郎は一切無視と言う姿勢で何事もなく番組を進行した。
この一週間で達郎が感じた事は、SNSと言う媒体の異常さであったと思う。辛辣な反応でコメントを残した連中が必ずしも自分のファンとも限らず、これを機に達郎を痛めつけてやろうと機に乗じた輩やアンチも居た筈であり、面白おかしく荒れる事を望んだ輩も居たであろう事は容易に想像がつく。
この一件は、一体何だったのだろうか?客観的視点で見てみると論点が随分ずれている。芸能論、一般論が入り交じり、あれが正解、これが間違いと匿名の大論争が巻き起こった。皆が腹を立てたのは、要するに社会的犯罪を起こした人物と交わりを持っててイイのか?と言う道義的な道徳観念だった。そこで達郎が主張したのは<縁><恩>と言う概念だった。自分の人生で重きを置くのは縁と恩であると達郎は言い切った。その言葉の響きには、例え相手が殺人者や極悪人であっても、縁があり恩を受けた人物であるから粗末には出来ないと言う想いが込められている。こう言う人物を昔から<侠客の人>と言う。

極道社会のヤクザ染みた言葉っぽいが、実の所、芸能界には侠客の人って意外に居たりする。タモリやビートたけし、和田アキ子、黒柳徹子なんかもそうだろう。良い意味では分け隔てなく、どんな人とでも同様の付き合いをするっていう意味で、悪い意味で取ると、どんな悪人とでも一緒に遊んで酒を飲める仲とも言える。東京の下町育ちには、そう言う気質の人が多い様な気がする。いわゆる映画の「男はつらいよ」の世界であり、渥美清が演じる寅さんである。山下達郎と言う人は優しそうな風貌に反して意外なほど任侠肌の人なのだろう。

山下達郎のファンを自負するつもりなら、この辺の事は踏まえておいた方が良いだろう。達郎が変わったのではなく、本来の達郎の姿が任侠の人なのである。

縁と恩と言う言葉が気になり、自分の事に例えてみると達郎の胸中が何となく判る様な気がしてくる。例えば、自分の親友が大事件を引き起こし社会に迷惑を掛けたとして、これまでと同じ付き合いが出来るのかどうか?何があってもアンタの味方だよ!となるのか、あんたとの縁もこれまでだね!となるのか。その選択に迫られるのではないか。
達郎の身近で例えれば、妻の竹内まりやが、どこぞの若いイケメン歌手と情熱的な不倫をしたとしても許せるかどうか?或いは大親友と名高いサザンオールスターズの桑田佳祐が凶悪な事件を起こしたとしても親友でいられるのかどうか?おそらく山下達郎と言う人は、それを許せる側の人間であると思う。
こういう書き方をして、これは誤解しないで貰いたいが、皮肉でも中傷でもない。例えそうであっても、それが出来る人間が悪では無いと言う事であり、一人の人間の一つの生き方でしかないと言う事を強く主張しておきたい。そもそも筋違いであり、それを他者から責められる言われは無いのである。
 

ネットの記事によれば、達郎が残した「言う事が判らねえ奴は俺の音楽を聴くな」と言う発言に多くの人が失望したのだと言う。敢えて書かせて貰うと、達郎のファンには馴れ馴れしい友人面をしている人が多い様な気する。これに関しては実の所、達郎にも責任がある。

普遍性と庶民性に重きを置き過ぎる傾向があり、ファンと接近し過ぎるのである。結果、ファンを甘やかす事になる。するとファンは付け上がる。ファンが付け上がるのは習性であり、どの有名人にも有り得る事なのだが、達郎のファンは特種過ぎる。ファンにもファンとしての礼儀ってモノがあるだろう。そこを踏まえないファンは、自分のお気に入りを所有物だと勘違いする。

ファンが自覚しなければならないのは、相手は人形でもなければペットでもない。細かい神経や精神を持つ生身の人間だって事。匿名のSNSだから何でもやっていいって事にはならないだろう。

全33話で、もうすぐ終わってしまうのだが、現在午後4時に東京MXテレビで放送中の「必殺仕事人・激闘編」が、かなり面白い。これ、シリーズの中でも上位に入るのではないかと思うくらい見所がある。
今更、必殺シリーズとは何か?とか、ああだこうだと語る気は無く、私がここで語りたいのは梅沢冨美男である。このシリーズで仕事人の一人として登場するのだが、素晴らしい演技を披露してくれている。梅沢冨美男と言えば女形の大御所。だけども今は酒のCMやワイドショーのコメンテーターとして、ひょうきんで辛口の面白いオジサンって感じのイメージなのだが、この作品を観てると、やっぱり超一流の役者なのだと圧倒されるのである。

必殺と言えば中村主水の藤田まことであり、組紐屋の竜の京本政樹であり、鍛冶屋の政の村上弘明なのだが、梅沢冨美男が、このメンツの中に入るだけで作品に重みが増す。その存在感は異質であり特殊だ。毎回、その姿を見たいと願うのだが、残念ながら毎回出てくれない。かなり長期に出てくれないと言っても過言ではない。制作された85年と言う時期からすると、梅沢冨美男は舞台公演で相当忙しかったと思う。舞台には絶対と言っていいほど穴を空けないと言う舞台主義もあって、舞台俳優として映像よりも舞台を優先するプロ意識を感じさせる。
梅沢の演技には特徴がある。それは目と口の動きである。暗殺を生業とする女形の仕事人を演じる梅沢が、殺しで見せる目と口元の使い方は絶品で観ててゾクッとする。その姿がどうしても現在の梅沢の姿とリンクしないのである。あのひょうきんなオジサンが、こんな凄い演技をするのかと言うギャップに良い意味での驚きを覚える。梅沢の過去作を今時の若い視聴者に見せてやりたいなと個人的に思ってしまう訳であり、流行りのドラマ俳優ばっかり見て育ってきてしまった気の毒な世代に、いわゆる<本物の役者の演技>を味わって貰いたいとさえ思うのである。
 

必殺仕事人・激闘編で、殺しの前に流れる導入歌を梅沢冨美男が歌っている。「恋曼荼羅(こい まんだら)」と言う歌。

 

これがイイ!

 

サビの部分から痺れる歌声で歌ってくれる。作詞が阿木燿子、作曲が宇崎竜童で、宇崎夫妻が担当している。正直、彼の歌は、もっとも有名な「夢芝居」しか知らなかった世代として「恋曼荼羅」は刺激的で魅力を感じる。歌の上手さにも改めて驚かされる訳で、演技も歌も両方出来る二刀流で、私としては、もっともっと梅沢の演技を映像で観たいと願う視聴者の一人である。
不思議に感じるのは、現在の梅沢冨美男と過去の梅沢冨美男は、かつての藤田まことの中村主水と被る所がある。昼行燈(ひるあんどん)と言う役立たずみたいな悪口を言われる中村主水だが、中村主水の本当の姿は柳生新陰流さえ破るほどの剣豪であり、その姿を家族にも見せないキャラとして成立し、能ある鷹は爪隠すの生き方を自ら選んでいる。
梅沢はどうか?今現在の彼はバラエティーと言う隠れ蓑を被っているが、その真の姿は大俳優である。むやみやたらに映像に出て、その姿を見せる事を拒否している風にも思える。舞台に生きる俳優と、映像で生きる俳優は、同じ演技者であっても志が根本から違うのかもしれない。私の様な凡人には知る由もない。

日本の映像業界は不景気の真っただ中で、真面目に凄いモノを作る気概が欠けている。代わりに何を作ってるかと言えば<笑い><ふざけ>であり、何故そうなのか?を考えてみると、業界はモノ作りから逃げてるのかな?とも感じられる。つまり作品に自信が持てず、貶されても失敗しても言い訳が出来る様な作品にする事で<やり逃げ>して終わらせる事が出来る。自分達で自信の無いモノを作るだけ作ってサヨナラって作品が多過ぎるのである。

 

稀にではあるが、天才的な文章力を持つ医療関係者が居る。その筆頭格は皆さん大好きな養老孟司・先生。専業作家ですら売り上げが敵わないと言う、もはや特殊能力としか言い様がない。精神科と言う業界にも天才的な文章力を持つ人が居る。その一人が春日武彦・先生
この先生の名を初めて知ったのは、作家・平山夢明との対談本で、不定期に展開させている「狂い」をテーマにした本で、これが面白い。面白過ぎるので次回はいつなんだろう?と日々期待してしまう。
最近、読んだ本に「精神科医は腹の底で何を考えているか」と言うのがある。そのまんま今回の記事のタイトルにしてしまいたいほどのネーミング。2009年に幻冬舎新書から発売された本なのだが、今読んでも古さを感じさせない。内容は世間でクリニックを開いている精神科&心療内科にありがちな100通りの「あるある話」をリアル目線で書いておられる。これから精神科医を目指す人にとっても教科書として一見の価値があると思う。ある意味、業界を敵に回す内容とも取れるが、春日先生は孤立を怖がっていない様なので、惜しげもなく堂々と読者に楽しんで貰う書き方をする。文体も不思議で、だからと言って嫌味に書いてる風にも感じられない。経験談と、そこで実際に起きた事実を淡々と書いており、引き込まれいていく。

現在70歳を過ぎ、いわゆる「おじいちゃん先生」と言っても差支えはない。年季が入っている分、経験も豊富で、色んな個性的な患者と接してきたようだ。
精神医療に対する考え方にも共感できる。100パーセントの回復を目指す必要は無い。その患者が何となく以前より体調が良くなり、モノの考え方や視野が拡がり、自分の体調と症状を忖度できるようになる事が一番宜しかろうと言う考え方。何をもって治療なのか?何をもって治ったと取るのか?薬は基本的には毒であり、薬の処方は少なければ少ないほど良い。出来れば飲まずに済めばそれが一番であると春日先生は書く。
 

精神科医と言う人達は他の医師と比べると特殊感が漂っている。何故なんだろうか?

私自身も何度か心療内科に行った事がある。一見、取調室の様な部屋で一対一で問診を行う。どういう経緯でどんな症状に悩まされているのか。他の内科医と比べると、かなり内面やプライベートに突っ込んだ問診もしてくるのが特徴で、その割には精神のレントゲンと言うモノが存在しないので、患者自身も不安で、自分の脳内や体が今どうなってしまってるのか知る事が出来ない。精神科の先生は何か手を施してくれる訳ではないので、症状にあった薬を処方して一週間後、二週間後に又来てくださいと言われて患者は帰っていく。薬師と言った方が早いかもしれない。
医師が患者と信頼関係を構築していくように、患者側も医師と、どう言う関係を望み、どうしていきたいのか。そういう構築していける患者はまだしも、意思の疎通が難しい患者も当然いる。そこで春日先生の「精神科医は腹の底で何を考えているか」って事になる。

問診中、精神科医が愛想笑いをしながら患者の話に耳を傾けていると「真面目に聞いてんのか」と怒り出す患者もいるらしい。あるいは無表情で真面目に聞くふりをしながらも、腹の底では患者の生き様を批判し、心で笑っている医師もいるらしい。春日先生が言うには、精神科医も一人の生身の人間であり、社会に溶け込む生活者であると言う事。オタク気質も居れば変態趣味も普通にいるそうだ。
患者が意思の疎通が余り上手くないと感じると、精神科医は思い通りに支配し、手の平で躍らす事もあるそうだ。無駄な薬を処方し、患者の自慢話や世間話を適当に聞き、又、二週間後に来てくださいって事になる。医師にとって一番楽な患者もいるそうだ。定期的に薬だけ取りに来て帰っていく患者がそうで、この場合、診察時間が大幅に短縮され、回転が良くなり、世間話こみの診察であっても平均約五分で終了する。それって正に私自身の事だとドキッとした

春日先生は80年代から<精神医学>をテーマに本の執筆を始め、今現在も不定期に本を出版されている。テレビによく出てくる様な個性的なタイプではなく、淡々とした感じで遠慮しないタイプなのでテレビでは御見掛けしない。そう言う所も好感度の要素になっているのだろう。ホラー映画や猟奇殺人事件、サイコパスにも造詣が深い人で、そういった関連にも知識が豊富。文体と言うのは人柄が出るので、書き手と読み手の相性がハッキリと判る。なので、一冊読むと、それを切っ掛けに次の本を読みたくなると言う現象が起きる。そんな感じで私は今、春日武彦・愛に目覚めてしまったと言う次第。