2026年7月23日、作家・東野圭吾・死去。突然の訃報に驚かれた人達も多かったのだろう。
東野圭吾と言う作家に全く興味が無い私は、彼の作品を一冊も読んだ事が無い。映像も興味が無い。手を出さなかった大きな理由は、彼が売れている人気作家だったからだろうと思う。これは嫌っているのではなく、私自身が人気者の輪の中に入る事を拒絶したからだろう。皆が読むなら私は読まないと言う捻くれ具合が意地の張り所だった。
ファンでもアンチでも無い私から見た東野圭吾と言う作家の印象は、大ヒット作連発のブランドネームにも拘らず、とにかく露出嫌いの捻くれ作家で、作品は商売がら御披露するが、本人は一切メディア出演しない。文豪業界の山下達郎の様なイメージを持っていた訳だ。
これほどのブランドネームにテレビやラジオからのオファーが無い筈はなく、あっても出演は一切お断りと言う初志貫徹は、私からすれば尊敬すべき姿勢であった。
一昔前、石田由良と言う作家がテレビでこんな事を言っていた。
「この御時勢、作品よりも作家が目立たないと売れない時代になってきた」
長らく作家稼業と言う商売は、作品より作家が目立つのはNGだと言う風潮があったのだが、日本の売れっ子作家たちは、こぞってテレビ出演を好んでワチャワチャと目立っていた。真逆の思考を持つ東野圭吾からすれば、同業者の馬鹿さ加減にウンザリしていたのかもしれない。より一層、自分自身はメディアから遠ざかろうと言う決意を固めたのかもしれない。
やがて活字離れがやってきた。日本人が読書を嫌う現象について東野圭吾は、どう見ていたのだろうか?
本人が亡くなった事で肖像権が緩んだのか知らないが、訃報に合わせて<動いて喋っている東野圭吾>の姿がVTRで解禁された。流石に勝手に放送した訳ではなく、遺族からの許可と言う形でVTR解禁となったのだろう。若いファンは、東野圭吾と言う作家の存在は知っていても、顔は知らないと言う人も居たのではないか?
それで思い出したのだが、村上春樹と言う作家にも不思議な現象が纏わりついていた。ハルキストと呼ばれる村上春樹ファンの中にも、村上春樹の姿を知らないと言う若者が意外に多かった。村上春樹が毎年の様にノーベル文学賞候補だと騒いでいた時期、あるテレビ番組が都内の本屋に張り込んで、どんな人が村上の本を買っていくのか検証する企画をやっていた。暫く張り込んでいると、一人の20代男性が村上の本を平台から取った。待ってましたとばかりにインタビュアーが若者に接近する。インタビュアーが若者に、こう聞いた。
「村上春樹のファンでしょうか?」
「そういう訳じゃないけど、流行ってるから買いに来ました」
「村上春樹って何歳くらいの方かご存じですか?」
「さあ知らないです。30代くらいじゃないですか」
驚くと言うか呆れると言うか、そんなVTRだった。村上春樹は、その当時で既に60歳を超えていた。流行だから買っていった若者の認識では、彼の年齢は30代だった。こんなズレ現象が起きるのも、全ては<流行>と言う魔法が成せる技としかいいようがないだろう。
書いてる作家などどうでもいい。要は作品が手に入れば万々歳と言う感覚は、木を見て森を見ずの例えとピッタリ合うと同時に、作家と読者の関係性についても考えさせられる。余計な無駄話のようだが、実の所、活字離れと密接な関係がある様な気がするのは私だけだろうか。
世の中には、売れっ子作家の本を読んではいけないと言う、ある種の縛りを自ら課している人達が一定数、存在する。
その理由としては、長い物に巻かれたくない、世間と融合したら負けみたいな直感的な危機感がある訳で、自然と輪の中から離脱をしたがる。窮屈そうな生き方なのかもしれないが、個人的には人間っぽくてイイなと思っている。何を隠そう私自身がそうだからである。
東野圭吾が書く本は必ず売れる。本を出すと同時に映画も公開される。メディアに出なくても引き籠って好きな事をしてるだけで印税がボコボコ入ってくる。作家の苦労を抜きに、そこだけを表面化すれば、売れっ子と言う人達は、嫉妬の的になっても何の不思議もない。売れっ子をチヤホヤする事の虚しさをファンは感じてないのだろうか?勇気や希望をくれるからと、よく聞くけれども、そもそも勇気や希望は自分の歩む人生で勝ち得ていくものなんじゃないのか?誰かがクレるもんじゃないよと説教染みた事を書いてしまった。
活字離れは風潮ではない。理由は簡単で作家レベルの低下と、出版社の新人作家・量産の二つが大きな原因だと前にも書いたのだが、今でもそれは変わらない。
まず作家のレベル低下と言うのは<時代の背景>が関係していて、これは流行とは関係が無い。日本を題材にして何かを書こうと思った時、意外な程、ネタが無い。せいぜい出て来るのは、人間の精神に関わる事ばかりで、誰かが好きだ、嫌いだ程度の話しか出て来ない。混沌や破壊、カオスを売りにする作家が日本に多いのはそのせいだろうと私は思っている。
戦争や内乱も起きない。野球選手のホームランが出たか出ないかばかりを気にしている今の日本は平和過ぎて引き出しが無い。本を売り物として出せる程の土台が無い。確固たる頑丈な土台が無いから丈夫な家を作れない。出来上がるのは泥の上に建てたフラフラの家と言うのが、今の出版業界の惨状だろう。
もう一つは出版社のイイ加減さにある。出版社は定期的に出版賞を設けて、その受賞者をプロデビューさせると言う手法を取っている。そこまではいいとしても、その後の彼等のケアはどうしているのか?デビューさせたんだから売れるモノをサッサと書けでは作家は成長しないだろう。
これを裏付ける証拠として、プロ作家の書いた自伝本を読むと、やはりと言うか編集者への苦言が必ず書いてある。その多くの理由が二つで、一つは情熱が感じられない。二つ目が勝負をする気が無い。無難を優先して守りに入り過ぎと言う、殆どのプロが指摘をしている。出版社や編集者は、この辺をどう思ってるのか?
興味深いのは、年間にどのくらいの新人作家がデビューをするのかと言う点で、何処を調べればそう言う事が判るのか知らないが、この量産型のデビューも無理が来ていると言う事だろう。デビューはしたけど誰も本を手に取ってくれないのは悲劇としか言い様が無い。こうなってしまうと、その作家は受賞者ではあるけどプロ作家ではない事になる。何故なら書いた本が売れないんだから。
そこで電子書籍の出番となる訳だが、紙の本と違って量産が利くのがメリットで、要らないならボタン一発で削除もでき、わざわざゴミとして捨てに行く手間も無くなる。所が、ユーザーに便利でも作家にとっては有難迷惑で、紙の本よりも安く買い叩かれると言う現状がある。
この辺をテレビを通じて喚いているのが今村省吾と言う作家で、具体的に言わないが、言わんとしてる所は、ちゃんと紙の本を売って印税をくれと主張している風に聞こえてくる。今村も大人だから、ハッキリと愚痴は言わず、ボヤかす程度に抑えてるのが伝わってくる。彼がメディアを使って、しきりに街の本屋を保護する取り組みをするのも、無駄だと分かってもジッとしてられない、ささやかな抵抗なんだろうなと思う。
2026年現在、小説家と言う稼業が、それほど魅力的な職業ではなくなってきた。それもその筈、活字離れと言う痛い現実の真っただ中で、作家達が命を削って作品に注ぎ込まなければならない理由が曖昧になったからだ。
1985年の27歳にプロデビューした東野圭吾。まず27歳と言う年齢は作家として若年なのかについて考えてみると、やはり早熟であると言えるだろう。どれほどの文才でも所詮は27年しか生きていない人生の引き出しから物語を紡ぎ出す事は大変な苦労であったと思う。私が思うに、物を書く苦労よりも資料集めと知識不足を補う為の勉強の方に比重が置かれた人だったのではないかと思う。
その苦労とストレスは次第に体を蝕んでいく。胃が痛い、頭が痛いを通り過ぎ、精神不安定にも襲われる。プロとアマの大きな違いは、自分の書く作品がビジネスになる事で、多くの人と金が動いていく。そこには責任が付きまとう。この責任は一種の悪魔の様な存在で、アマからプロとして一線を踏み越えた者に自動的に纏わりつく。何の世界でもプロは悪魔と共存しなければならない宿命にある。
責任と言う名の悪魔が求めるのは数字である。数字を出せないプロに対し、悪魔は荒れ狂って大暴れし、破滅に追い込んでいく。
日本の大スター作家・東野圭吾は41年と言う月日を悪魔と過ごし、68歳で息絶えるまで命を削り続けた。本音では、タイミングを見て作家を引退したいと思っていたかもしれない。そんな事は無いだろうと言うファンの反撃が来そうだが、そんな事は無いと言う根拠もない。実際の所は判らない。
思うに、何を書いてもチヤホヤされ、持ち上げられ、売れてしまう事が、やる気を無くす切っ掛けにも為り兼ねない。東野圭吾は、売れなかった頃の時の方が書く楽しさを感じていたのではないか。プロになって誰かの為に書く事が詰まらなくなってきた。何故書くのかと自問自答すれば、全ては金を稼いで生活をする為と言う不動の答えが言霊の様に響いてくる。
プロの作家なんて、そんなモンかもしれないね・・・なんて事を東野圭吾は言うのかもしれない。


