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何でもアル牢屋

趣味丸出しの個人コラムです。フラっと立ち寄れる感じの喫茶店的なブログを目指してます。御気軽にどうぞ!

本題に入る前に、ちょっとだけ寄り道を書かせて貰うと、三国志がプチ的なマイブームになっている。
テレビドラマなんか観なくなった私が珍しく時間通りに構えて観てるのが、TVK(テレビ神奈川)で土曜日の深夜12時から放送している「三国志 趙雲伝」。三国志のアイドル的存在と言っても過言ではない趙雲子龍を主役にした物語なんだけど、ハチャメチャぶりが妙に嵌まって面白い。
趙雲と言えば常山(じょうざん)と言う地域の出身で、物語に登場する際も「我こそは常山の趙子龍なり」と言って槍を振り回して活躍するんだけど、このドラマは2015年作の中国ドラマで全59話。日本の大河ドラマよりも9話多い。特徴的なのは、趙雲子龍が三国志の本編に入る以前の物語として構成されていると言う点。つまり、架空の創作によって趙雲の人生が描かれていく。
趙雲が三国志の舞台に上る以前、どんな事があったのか、何をしていたのか。本編以前の趙雲が何をしていたのかなんて誰も知らない訳だから、作り手に寄って自由に創作されていく。趙雲が何故強いのか?と言う点も、70年代のクンフー映画の様な展開で武術の師匠が現れ、修行をし、達人へと成長していく。それと同時に趙雲の恋愛も描かれていく。

 

 

恋愛の相手となるのが、韓国の人気グループ・少女時代のメンバーの一人であるユナが演じている。

最近、ネットを開くとユナの宣伝記事を頻繁に見掛ける様になった。気になって調べてみると、どうやらユナの新作ドラマのキャンペーンらしい。現在ユナは35歳と言う脂の乗った女になっており、この趙雲伝に出ていた頃は10年前なので当時25歳。まだ幼さが残っていた時期で可愛い感じだったが、今現在は、とんでもない美女になった。元々、背も高く、顔も小さく、手足も長く、整った容姿で、そこに加え、彼女はアクションも出来ると言うのが大きな売りの一つとも言える。ワイヤーやCGを使った場面もあるが、基本的に動けるユナと言う人は、韓国の貴重なアクション美女俳優としても機能する。
ハリウッド進出してもおかしくなさそうな貫禄と雰囲気、スター性も十分備えてる逸材だろう。日本にも来て貰いたいけど、日本でのキャンペーンはないのだろうか。
 

趙雲を演じるのはケニー・リンと言う中国の俳優で、これが中々のイイ男。三国志の映像作品は、それなりに一杯観て来たんだけど、見てきた中では一番いい趙雲じゃないかなと思う。見栄えもいいし、アクションの技術も持っている。ケニー・リンの趙雲を見てしまうと、この趙雲じゃないと嫌だとなってしまうほどのハマり役の様な気がする。
ちなみに、この物語は趙雲が死ぬまでの生涯までは描かれず、やがて主君になる劉備玄徳が蜀の地を取って、関羽、張飛、趙雲、馬超、黄忠の五虎将軍が勢揃いする辺りで幕を閉じる。創作場面も多く、本編では描かれない意外な戦いもあったりする。呂布と趙雲が戦ったり、馬超と趙雲が戦うと言う意外過ぎる場面もある。本編への拘りを捨てれば、中々楽しめる作品には仕上がっているなと言うのが私の総体的な感想である。

 

 

チャプター2:諸葛孔明に会った事がある老人の話

 

此処からが本編。
今更ながら吉川英治の三国志を読んだ。新潮文庫から出版された全10巻。三国志関連の読み物は、かなり読んできた筈だが、不思議と大御所・吉川英治の三国志だけは読んでなかった。最近では北方謙三の新しい三国志が受けてるようだが、正直、北方を好きではないので私は読まない事にしている。
吉川・三国志を読んで感じた事は、いわゆる<昔の作家>に有りがちな難しさと言うのが無く、読み易い。こんなに読み易いのかと言う安心感、それでいて容赦の無いグロ描写もあり、柔軟な感性を持った作家だったんだなと感心した。
三国志の吉川英治、関ケ原の司馬遼太郎、武田信玄の新田次郎、ミステリーでは横溝正史、松本清張。彼等レジェンドに共通しているのは、判り易さと、読んで良かったと言う安心感だろうと思う。

最終巻の本編後に篇外余録(へんがいよろく)と言う特別編があり、そこで面白い事が書かれている。
それは三国時代が司馬一族によって統一され、晋(しん)の時代になった時の話。桓温(かんおん)と言う人物が嘗て蜀の首都であった四川省の成都(せいと)を訪れた際、100歳を少し超えた老人と出会った。その老人は若い頃、蜀に文官として仕えていた人物だった。桓温は思いついたように老人に尋ねる。

「お前は100を超える歳だそうだが、それならば諸葛孔明が生きていた頃を知っている訳だ。孔明を見た事があるのか?」

老人は誇るが如く答える

「勿論、御座います。当時私は若造の文官でしたが、よく憶えております」

この桓温と老人のやり取りこそが、正に現代人のニーズと言うやつだろう。伝説となった偉人が、どんな人物だったのかを間近で見て知っているのだと言う。これに勝る質問は無いのではないかとさえ思う。で、桓温は更に畳みかける。

「では聞くが、孔明と言う奴はどんな奴だった?例えれば、どんな人物に似ているか」

老人は少し困った顔で答える

「私の憶えている諸葛丞相は、別に風変りとか変わっていると言う感じの方では御座いませんでした。貴方様の様な立派な御恰好はしておらず、そんなに偉くは見えませんでした。只、あの御方が亡くなった時、何となくですが、あの御方の様な人物は二度と出て来ないのではないか?と言う様な気は致しました」

どうだろう、このリアルさ。このやり取りに関して吉川英治は、こう書いている。

「私は何となく、この老人の言葉の中に在りのままの孔明の姿がある様な気がするのである」

諸葛孔明の死後、神の如く褒め称える学者や詩は沢山あるが、所詮は教祖を崇拝する信者的な過剰表現でしかない。しかし、嘗て蜀に仕えていた100歳の老人の気取りの無い見たまんまの発言に勝るリアルさには、どのヨイショ学者も敵わず霞んで見える。
言葉や文章は便利だが、奇麗過ぎると疑われる。例えれば、伝説の地に実際に行ってきて、どんな匂いがしたとか、地面や木に触れてどんな感触だったかとか、体験に勝るものは無いと言う事なのだろう。

 

 

チャプター3:偉大なる平凡人・諸葛孔明

 

平凡には二種類あると吉川英治は説く。その平凡が大きいか小さいかの違いなのだと言う。諸葛孔明は、どちらかと言えば大きな平凡であり、その平凡さの企画が異常過ぎるから偉大なのだと説く。
孔明は陣を敷く場所で必ず畑を作らせ、カブの種を撒いて次の陣地へと移動した。この行為が食料自給だと言う所までは判りそうなものだが、何故、カブなのか?そこには理由があった。カブと言う食料が野菜であり、日本でも食されている事は判っている。日本では味噌汁や漬物に使うのが一般的だろうか。
孔明はカブと言う野菜が万能である事を知っていた。カブは春夏秋冬いつでも育ち、土の質を択ばずに育つ。根、葉っぱ、茎、全て食べる事が出来て、生でも煮ても食べられる。忙しい軍事用の食料として最高の物だった。
こういう発想は天才には出来ない。平凡な感覚がある人にしか浮かばない発想だと吉川は語る。畑と言えば孔明にはキーワードがある。晴耕雨読(せいこううどく)である。有名な劉備玄徳の三顧の礼を受ける以前、孔明は仕官をせず何処にも勤めたがらない。今で言うニートだった。晴れた日は畑を耕し、雨の日は本を読んで過ごした。この時点で孔明は普通のニートとは違っていた。普通だったら、就職しない奴はバイトをして、暇な日はゲームで遊んで過ごそうと言う発想になるが、孔明には自分の食い物は自分で何とかしようと言う当たり前過ぎる合理的な発想があった。これこそが偉大なる平凡の一旦だろう。
 

蜀に仕えていた100歳の老人が見た<偉い人>には見えなかった孔明の姿が、垣間見える様な気がしてくる。それは、どれだけ金持ちになっても偉くなっても土いじりを辞めない気質である。

例えば、子供の頃に買ってもらった色褪せた豚の貯金箱を億万長者になっても大事にして500円玉を入れて貯め込むとか、どんな豪邸に住んでも清掃員には頼まず、一日かけて片っ端から雑巾掛けするとか、無くなる寸前の歯磨き粉を絞り込むだけでは飽き足らず、わざわざハサミを持ってきて真ん中の辺りを切って歯ブラシを突っ込むとか。
思うに偉大なる平凡とは、買えば済むのにそうしないとか、わざわざギリギリのラインに自分を立たせて苦労を好んで選ぶとか、敢えて遠回りをする所に極意があるのかもしれない。

 

 

 

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90年代の伝説、かとうれいこ。御年56歳になった彼女の写真集が今月発売された。
私の知ってる限り、グラビア・クイーン・かとうれいこは、芸能界史上、最もセクハラを受けた人である。彼女が全盛期だった90年代、民放の深夜番組で共演したチェッカーズの藤井フミヤが、今では信じられない様なセクハラ発言を、かとうれいこにしていた。隣で司会をしていたかとうれいこにフミヤはこう言った。

「そんな大きいの持ってるんだから、一杯出るでしょ」

隣に居たかとうれいこは無言のまま微妙な笑みで場を繕っていた。
説明すると、フミヤが言った<大きいの>と言うのは当然ながら<おっぱい>の事で、<一杯出るでしょ>と言うのは、丁度、ミルクか何かの乳製品の宣伝企画のコーナーだったと思うのだが、母乳が出た時の量の事。これ、今だったら大変な騒ぎで物議を醸す大事になっていた可能性は十分にある。

 

 

卑猥な表現で申し訳ないが、かとうれいこが全盛期だった当時、日本全国でどれほどの精液が飛び散ったのだろうか。初めて彼女を見たのは15歳の中学三年生だった。彼女の話題は同級生の男達の間でも流行っていた位、人気絶頂のセックス・シンボルだった。
当時、かとうれいこが所属していたイエローキャブの野田義治社長いわく「初めて外国人に勝ったボディー」と評されるほど、かとうれいこのボディーは魅力的だった。クラリオンガールと言う、ちょっぴりカッコいい響きの称号を知ったのも、かとれいこが最初だった。クラリオンは民間企業の社名で、その民間企業が主催していたのがクラリオンガールと言うコンテストで、かとうれいこは90年の第16代目・クラリオンガールだった。
 

かとうれいこの魅力は、おっぱいだけでなく顔立ちにもあった。巨乳にありがちな女性のタイプはポッチャリしてズングリムックリな感じの人が多いのだが、かとうれいこの顔は、いわゆる巨乳にありがちなタイプの顔ではなかった。やや面長の端正な顔立ちで、髪はロングで、身長も163センチで、当時としては大柄なタイプのグラドルだった。そんな彼女は、長い黒髪をポニーテールにして、水着を着て、その上に薄めの上着を着て、ニッコリ微笑むだけで、魅力的なオーラを放っていた。
エロさよりもキリっとしたカッコ良さを私は感じた。男に媚びていない色気と言うか、気の強さが滲み出る様な、それで居て圧を感じさせない。今時のグラドルとは明らかに性質が違う。若くて綺麗でエロいボディーの子は沢山出て来るのだが、総じて今時のグラドルは男を心から圧倒する魅力が感じられない。理由は媚びが前面に出てしまっているからだろう。だからポーズや衣装も際どくなってくる。際どくなればなるほど男は白けていく。
積もる所、グラビア業界は人材が全てだと思う。特に90年代初期は人材の宝庫だった。かとうれいこ、細川ふみえ、井上晴美、青木裕子、松田千奈。私が厳選する魅力的なグラドルのレジェンドは、この五人である。

 

 

巨乳が魅力なのに巨乳に悩み続けたグラビア女王・かとうれいこ!

 

不思議と言えば不思議だが、かとうれいこは巨乳をネタにされるのを嫌がっていた。巨乳が話題になった事で確実に売れた筈なのだが、いつしか、その伝家の宝刀である巨乳を否定しだした。
かとうれいこは元々、歌手志望だった。CDも出したが、歌手としての活動が始まったのはグラドルの後だったし、グラドルで売れたと言う経緯が無ければ音楽活動も無かっただろうと思う。芸能界からすれば、かとうれいこは何はともあれ、まずおっぱい。歌だの芝居だのは二の次三の次と言った所だった。使う側も卑猥な目線で、かとうれいこを見ていたのが判る。

イエローキャブと言う巨乳グラドルの聖域出身で大出世を遂げた人物が二人いる。小池栄子MEGUMIである。二人ともグラビア出身で、グラビアとしては、かとうれいこの魅力まで行かなかったが、それ以外の部分でかとうれいこに勝った。逆に言えば、かとうれいこは、小池とMEGUMIの居る領域には行けなかった。
今になって考えてみると、かとうれいこは何処に行きたかったのだろう?本気で歌手の道でやっていきたかったのか、それとも芝居の道でやっていきたかったのか?ひな壇のタレントとしてテレビに出続けたかったのか?結果的に彼女は、そのどれも選ばなかった。

2001年12月15日に、プロゴルファーの横尾要と結婚した。かとうれいこをテレビで見掛けなかった頃の唐突な結婚発表だった。写真週刊誌に乗っていた彼女を暫くぶりに見たら驚いた。あの豊満なおっぱいが見る影もなく小さくなっていた。オッパイが縮んだ彼女の姿を見て、本当にかとうれいこなの?とさえ思った。ファンは、さぞかしビックリしただろう。
嘘か本当か知る由も無いが、かとうれいこは貧乳手術を受けたなんて噂も流れた。その噂もあながち嘘っぽく聞こえなかったのは、彼女が暫くテレビから遠ざかっていた事も要因の一つだろう。時期的に、そう思われても無理はなかった。

 

 

2003年2月20日に女の子を出産し、かとうれいこはママになった。
成人した娘が、たまにネットに登場した際、記事には<ママそっくり>なんて書いてあるが、全然似ていない。れいこママの魅力には到底追いついてないし追いつく事も不可能だろう。親子と言えども別人である。
そして2025年。26年ぶりの撮り下ろしグラビアと言う事で、大手出版社の講談社から発売された。写真活動は24年から週刊誌・FRIDAYで始めたらしい。今時と言うか、この前書いた皆藤愛子の例に漏れず、歳相応に見えない女性にスポットライトを当てるのが流行なのだろう。
写真週刊誌がどう言う狙いにしろ、かとうれいこも流石にオッパイを武器にしようなんて事は思っていないだろう。ボディーよりも、56歳と言う年齢になってクールビューティーになった自分を見てくれと言う意識の方が高いのかもしれない。還暦を過ぎたかもしれない往年のファンは満足なデキなんだろうか。どんな思いで彼女の写真集を見るのだろうか。

 

 

 

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「人は、どうして好きになったり嫌いになったりするんですか?」と言う質問に対し、こう答えた人が居る。

「モノの好き嫌いは、生まれた時から死ぬまでに全て脳に設定されているんだよ」

かの有名な養老孟司・先生がそう言っていたのを想い出した。
これを聞いた時、なるほどなと思った。人は他人が何をやったかで好き嫌いを決めている訳ではなく、好きになるか嫌いになるかは自分の脳が決めている事だと養老先生は仰ってるんだなと、私は解釈した。
そう考えると大体の事は腑に落ちて来る。例えば男女関係の<片想い>。片想いが実ったケースを私は知らない。片想いは一方的な求愛な訳だから、相手側が自分をどう思ってるかなんて事は知りようがない。やがて片想いはエスカレートし、こうあるべきだと思い込むようになる。どう思い込むかは人それぞれで、良い方に転じるか、悪い方に転じるか。無くならないストーカー事件も、この辺りが原点になっている。

 

チャプター1:好きから嫌い。そして山から谷へ!

 

我々人間は、どんな人でもそうだと思うが、好きな有名人と嫌いな有名人を選り分けている。
考えてみると不思議だが、有名人を好きになる場合、歌が上手いから、演技が上手だから、奇麗だから、可愛いから、絵が上手いからとか、見たり読んだり聞いたりする事が規準になって好き嫌いを決めている。所が、当の本人とは会った事も話した事も無い。情報の殆どはネットでの評判だとか、テレビやラジオとかメディアからの発信でしか得られない。つまり我々は、好きな人、嫌いな人の真実の姿を知らないのである。

 

中居正広と言えば庶民の心を理解する国民的アイドルみたいなイメージが付いたが、話題になったフジテレビ問題で人生は大きく変わった。好意から一気に嫌悪へ極端に変わったケースと言える。
事件前の彼の好感度とは、どんなものだったのか振り返ってみる。金は稼ぐが無駄金は使わない、富も名声もあるのに結婚をしない、よく食べて、酒も好む。気さくで話しやすく、芸能人独特の嫌味や毒気も感じられない。こうやって並べていくと、総体的に<庶民的なイメージ>で覆われている事に気付く。

芸能人の人気を取る秘訣とも言えるのがこの辺で、庶民に近づく事で親近感が生まれる。しかしながら此処には落とし穴がある。それは、あくまでもイメージによる親近感であって、彼本人との接触がないので、本当の所どんな人なのか?と言う確定的な信用と信頼が存在しなかった。

 

チャプター2;SNSに散ばる好き嫌い

 

ネットに目を向けてみよう。皆さん一人一人、お気に入りのサイト、ブログ、動画、ツイッター、インスタがあるように、私にもネットに散らばっているお気に入りが当然ある。
例えば、私はキャリア40年以上の筋金入りのゲーマーなので、ゲームを解説したり、攻略動画をやったりしている動画を観に行く。好き嫌いはこんな時に出る。つまり、同じゲームでも誰の動画を観るかが重要になってくる。誰でもいい訳ではない拘りが出る。皆さんも、きっとそうなのだろうと思う。その際、片っ端からまんべんなく観る事はしない。厳選し、この人のじゃなきゃ嫌だとなる。これこそが本能的な好き嫌いではなかろうか。

お恥ずかしながら、私のブログなんかはどうなんだろうか。
ネットでモノを書いて今年で23年目になる。個人サイトの運営からブログに移行し、最初に開設したブログを破棄し、新たにブログ開設をして今現在と言う事なる。2022年の3月が、このブログでの最初の記事なのだが、最初のブログの記事数を合わせると膨大な記事を書いてきた。
管理人によって様々なブログに対する考え方があると思うが、私が立てたブログのコンセプトは<読んで貰う為のブログ>である。今時のネットでは、ブログでモノを書くのは古いなんて考え方の人も居るが、古いも何も、私はモノを書きたくてブログをやっているので、それ以上でもそれ以下でもない。私のブログに<文章>は絶対的な存在なのである。
23年と言うキャリアの中で、何をやると受けるとか、これをやると嫌われるとか、それなりに判っているつもりではいる。不思議な事だが、私の場合、受ける事を敢えてやらないと言うスタイルを取っているので万人向けではないブログである事は想定内。受ける事をやらない理由と言うのは、純粋な気持ちで、自分のやりたい事がソレじゃないからである。書いた記事が反応を取れなかったとしても、そんな事は私にとって問題ではなく、重要なのは本当に書きたい事を書けたか?と言う点に尽きる。
反応を取る為の記事作りがどれだけ辛いかと言うのは身に染みて判っている。人気取りと、本当にやりたい事と言うのは全くの別物で、イコールではないのである。私に言わせれば、人気取りをやってる方ほど、本当にやりたい事を出来ていないのではないか?と思ってしまう。逆に人気度外視で、好きな事だけをやってる人ほど、やりたい事が出来ている。しかし代償として人気取りからは遠ざかる。これは、ブログをやってる人の永遠のテーマとジレンマであると思われる。

私の文章は長く、辛辣な事も書くので、書き手として好きになれないと言う訪問者も居るだろう。だが気にしなくていい。それは多分、今回のテーマである<本能的な好き嫌い>の範疇だからである。
一昔前、このブログの前にやっていたブログで、とても印象的なコメントをくれた方が居た。こんな事を書いてくれた。

「私は長い文章が苦手なんですが、不思議と貴方の書く文章はスラスラと読めます」

私はこのコメントを今持って忘れておらず、最高の誉め言葉だと受け取った。例えれば料理人で、この料理は苦手なんですが、この店の料理なら美味しく頂けますと言われた様なものだろう。

 

チャプター3:初対面から始まる他人の審査

 

本能的な好き嫌いとは言え、初対面も無いのに、いきなり好き嫌いも極端過ぎる。いつか見た昔の映画で、主人公がこんな事を言っていた。

「お前ら判ってないな。俺達はいつだってテストをされてるんだぜ」

このセリフが凄く印象に残った。正にコレである。
人間社会において、我々は何時何処に居ても他人からテストをされている。体型、身だしなみ、声、喋り方、態度、髪型、髪の色、服装、履いている靴、体臭、口臭。女性は更に項目が増える。化粧の仕方、どんな色の口紅を使っているか、胸は大きめか小さめか。
挙げた項目には全て共通点がある。それは、この項目全てが接触する事なく、無言の内に目と耳で確認が可能だと言う点である。他人に対する無言のチェックに関して、私はよく左手薬指をチェックする癖がある。ちなみに、このチェックは男女共通。既婚なのか未婚なのかの確認行為なのだが、何故か凄く気になる。

私は接触をした人間に対して想像を膨らます。既婚の場合、子供は居るのだろうかとか、居たとしたら何人居るのかとか、パートナーは何歳で、どんな容姿で、どんな人柄なんだろうとか。要するに人間関係の深堀りをしたくなる。
 

他人に対するテストの仕方は様々としか言い様が無い。好きになるのは敷居が高いが、嫌いになるのは簡単なのも、人間と言う動物の宿命なんだろうか。

神経質で用意周到なタイプの人間は、これから会う初対面の人物を大まかに知っておこうと情報収集をする。流石に内面までは知り様が無いが、少しでも印象良く外面を見せようと言う訳だ。気の利いた御土産を持って行こうとする場合、例えば、それが酒であったり、甘いモノであったり、渡す相手の好みが判っていないと不安になってくる。だから事前に知っておきたいとなり、あらん限りの各方面から情報を集め出す。

 

チャプター4:嫌われに行く勇敢な人達

 

基本的な基準として、人間は他人に好かれたくて嫌われたくない。だから頑張るのである。
世の中には奇特な人も居る。普通とは逆をやる人達。人気者やスターに態々悪態をついて周囲に嫌われに行く人達。アイドルとの握手会に参加する際、事前にオナニーして手に精液を塗り込んでから握手しようとするファン。どうせ乾いて判らねえだろうとタカを括る訳だ。
電車内で煙草を吸ったクラブのホストを注意した民間人が、そのホストに殴られ、警察にしょっ引かれたなんて事件もあった。この際、ホストは確信犯であったとしか言い様が無い。電車内でそんな事をすれば結末がどうなるか位は子供だって判る。そうなる事を想定して態々嫌われに行った。

何が何でも辞めないメンタルと言うのも流行っている。
自分の名誉と誇りの為に何としてでも辞めない事に拘った結果、他人が迷惑をしたパターン。静岡県伊東市の田久保真紀・市長が話題になっている。学歴詐称疑惑で卒業証書を見せなかった事で、ボヤ騒ぎが大火事に発展したケース。辞めろ辞めないで市の役所内部で大喧嘩が展開されている訳だが、この事件の根本にあるのは、人の上に立つ役人ともあろう御方に嘘があってはならないと言う道義的概念で、大昔の日本から受け継がれている掟である。しきたりに厳しい日本の文化とも言える。
当の田久保市長はロックンローラーだそうで、この事件で初めてテレビで観た時、役人らしからぬ銀髪のヘアースタイルで御披露目し「こんな市長さん、居るんだ・・・」と度肝を抜かれた視聴者も多かっただろう。余りの負のフィーバーぶりに<タクボる>なんて言う新しい流行語まで登場した。使い方は嘘を突く時に使うんだそうで、驚くべきは、この言葉の出所が大人ではなく、伊東市の小学生達だった事で、子供達の恐るべき創作能力を認識せざるを得ない。

芸能界に目を向けると、面白いのが<あのちゃん>。中傷をする世間を相手にキリの無い、果ての無い喧嘩を延々と続ける所が、いじめられっ子のヒロインになっていて、色んな意味で気になってくる。
嫌な事だが、世間との喧嘩が絶えないタレントが自殺をするケースもある。テレビ的には面白くても、当の本人は毎日が辛い筈で、今は元気で闘志満々でも、確実にいつかはペースダウンする。精神の崩壊に年齢は関係ない。しかし若い分だけ感受性が豊かという面もあり、いっその事、歳を取ってた方が喧嘩の回避率も高いと言う利点はある。
あのちゃんに対する心配事と言うのは、若さ故の暴走であり、その暴走が最悪の結果にならない事を祈るのみと言う事になる。

最近、嫌われる事に関する書籍も増えてきた。好きになって貰うのがシンドイなら、いっその事、嫌われてしまえと言う考え方は、新しい発想だろうと思う。
ネットでよく見かける西村博之も、嫌われるメンタルについてこんな事を言っている。

「嫌われるとか、どうでもいいんですよ、そんな事。総体的に日本人って嫌われる事に対する免疫が低い様に思う。テレビやラジオ、メディアで身を晒してる人は、殆ど全員何処かで嫌われてると思ってた方がイイ」

なるほど。一理あると思う。
西村博之は私の一つ年下で、同じ時間軸を生きている訳だが、こんな言葉が出て来る時点で、それなりの苦労をしている人物だろう。私達の世代は就職氷河期に巻き込まれた氷河期世代で、勿論彼も例外ではない。2ちゃんねる掲示板と言うアイデアを実践するに辺り、プログラムを勉強しなければならなかったが、彼は専門学校には行かず独学で学んだ。それは大変な労力だろうと思う。
彼への見方と言うのは、私の様な同世代と、比較的若い世代とでは、見方と解釈が違うと思う。若い子から見れば、今の彼はネットのダークヒーローみたいな存在なのかもしれない。私から見れば、派手な部分よりも苦渋と苦難に満ちた人生を歩み、実業家として成功した同級生みたいな存在とも言える。

 

そんな感じで如何だったであろうか。

私の学歴は高卒で大学には行っていない。なのでレポートと言う類には縁がない人生だが、今回はレポートを書く様な感覚で書いてみた。文章が長いから途中で読むのを止めたと言う人も居るだろうし、頑張って耐えて読んでくれた方も居たかもしれない。

ネットでモノを書いて晒すのは独特な緊張がある。反応はいつだって怖いし不安がある。最初の頃は、そこを突き抜けられるか?と言うのが最初の難関だった。今回、好きと嫌いと言う題材で書いてきたのだが、自分で読み返すと、好きよりも嫌いに関するテーマの方に偏り過ぎた感じもする。

好きはポジティブ、嫌いはネガティブ。私はネガティブを大事にしたいので、そっちよりに視点が行ってしまう。でも、書きたい事が書けたと言う点で、良しとしようと思う。

 

 

 

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私はメジャーリーグが大嫌いである。だからドジャースや大谷がテレビに出て来ると、反射的にテレビのリモコンを手にしてチャンネルを変えるようにしている。そんな自分に気付いて思った。

 

「ああ、これが巷で流行っている大谷アレルギーと言う症状か」
 

日本の報道機関も大いに責任はあるだろう。ホームラン競争と日本人選手の活躍しか報じない事によってテレビ不信に陥っていく人達が居ると言う現実。特に我が国・日本は、ドジャースに御執心と言う流れだが、その影響なのかロサンゼルス(LA)を取り上げる番組が増えた。イチロー松井秀喜がヤンキースに居た頃は得意気にニューヨーク(NY)を取り上げていた。あっちへ行ったらあっち、こっちへ行ったらこっち。まるで金魚の糞みたいだ。

 

チャプター1:ドジャースのバラ撒き戦略。日本のメディアが買収されたと言う説!

 

ウンザリ大谷と言う言葉が流行語に成りつつあるほど、本当に好い加減にしてくれって感じの日本のテレビ事情。どうして日本は、こんなにドジャースと大谷に拘るのか?
仮説として、ドジャースがメディア操作をしているのではないか?と言う説は考えられる。これに関して幾つか根拠があるとすると、テレビ朝日の報道ステーションでドジャースの広報担当が、こんな事を言っていた。

「ドジャースにとって、日本は大変重要なマーケットに成りつつある」

この際、テレビ局も客商売である。貰うモノさえ貰えば仕事はすると言う事で、ドジャースの莫大な資金を運用すれば時間枠を買い取る事も可能だろう。更に好都合なのは、日本の放送事業が何処も赤字経営だと言う事実だろう。御覧の通り、テレビを観てると同じコマーシャルの繰り返しで、多くの企業がテレビからネットへコマーシャル移行をしている状況。つまり日本の放送事業は、喉から手が出るほど金が欲しい。金が入るならドジャースの宣伝は幾らでもやりますよ。ドンドンいらっしゃいって事になる。

実の所、メジャーリーグと大谷の報道は、前回のWBCから延々と続いている。決勝戦で宿敵・アメリカをやっつけて御満悦な日本は、この熱気を捨てたくないのである。鉄は熱いうちに叩けと言う諺どおり、熱い鉄を叩く事を終わらせたくないと言うのが本音だろう。
メジャーや大谷を世間が求めてるのではなく、メディアが一方的にやりたい。やりたいからやってる。世間のニーズなんかどうでもいい。批判も中傷も御好きにどうぞと言う強気な姿勢が見え隠れしている。自分達の事を棚に上げて、関税やら何やらで強引だと叩いているドナルド・トランプをよくぞ扱き下ろせたものだと呆れてくる。

メディア操作と言う事に関し観てて不思議なのは、時期を見合わせた様に一斉にやる時とやらない時がハッキリしてると言う点だろう。今日はやらないでくれ、これは伝えなくていい、これを強調して報道してくれ。見ようによっては、ドジャース側からの要求を、そのままに報道してる風にも見えてくる。そう思われても仕方が無いだろう。
深読みすると、大赤字の日本の放送事業が大枚をはたいて、わざわざ外国のスポーツを積極的に取り上げるなんて事をするだろうか?今や日本のタレント達のギャラは下げられ、番組の予算も削られ、一般車のガソリン代程度のギャラしか払わず、とうとうタレント達はバイトをせざるを得なくなっている状況にも関わらず、犠牲を払ってでもメジャーと大谷を取り上げるなんて事をするんだろうか?
日本のマスコミとドジャースの蜜月は、ビジネスの絡んだ同盟関係とも言える。御互いに得をしようと言う上での関係。テレビ局の放送事業は潤う。ドジャースは宣伝が出来て儲かる。どちらも損をしないと言う思惑が成立する訳だ。

 

チャプター2:よく考えたら変。大谷の二刀流について

 

私は大谷が守備をやらない事に関して、大変なマイナスポイントだと思ってる。
彼は打席に立つのに何故、守備をやらないのか?について考える事は、素朴な疑問であるし、ピッチャーも兼任するから守備はやらなくていいと言う理論は何処か変だ。登板から次の登板までの間隔で調整するのは判るとしても、それが何故、守備をやらなくていい事に繋がるのかがイマイチ謎で、普段はバッターとして出場してるんだから、ピッチングは関係ないでしょ?ってなる。
そもそも守備をやる事が、それほどピッチングの重荷になるのかと問われれば、そんな筈は無いだろう。では、攻撃が終わった後、チームメイトは守備位置に散っていく最中、大谷はベンチで何をやっているのか?アホな話だが、ベンチにいる時間があると言う事は、守備を出来る時間があるって事でしょ?となる。

大谷の登場でDH(指名打者)と言うポジションがスポットライトを浴びる事になった訳だが、再来年からは日本のプロ野球のセ・リーグにも導入される事が決定した。この決定には思惑があって、第二の二刀流の登場を願っての期待も込められている。
大谷がDHの在り方を変えたとかメディアは騒ぐが、DHは何処まで行ってもカッコ悪い。DHは、戦力と言うよりはスタメンに入れないウスノロ選手が御情けで入るポジションと言うのが印象で、守れない、走れない、だけど当たればホームランみたいな力馬鹿、もしくは脳筋みたいな猪武者が入るのが定番で、今だと読売ジャイアンツのリチャードが色んな意味で良いお手本だろう
そんな不名誉なポジションに何故、大谷が入っているのか。この際、頼まれるのではなく自分から志願して守備をやるべきだろう。守備でファインプレーをする大谷の姿を見たくないのか?とファンに問いたくなる。私の世代は、メジャーリーグの凄さは守備にあると大人達に教えて貰ったので、メジャーリーグでバッターなのに守備をやらないのはナンセンス。
こう言う事を書くと、大谷はピッチャーを辞めたら守備をやるよとか言われそうだが、それこそがドジャースの狙い所で、10年1千億円と言う額は二刀流に対して払ってる額なんだから、契約と違う事になるぞ?って事になる。大谷は今になって拙い契約をしたと気付いてる筈で、40過ぎまでホームランを50本以上打ち、投げては先発で15勝以上しろと言われてる様なモノで、正に野球地獄。俺は野球に殺されるの境地!
大谷の逃げ道は1千臆を放棄し、契約の見直しをして他球団に移籍する事となる。そして何よりも、ドジャースと言う球団は飽きて捨てるのも早い。そこを察知して自分から去ると言う構想を持てれば、運命は変えられると思うけどね。

 

 

 

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橋幸夫の葬儀中継を観てて感じた事と言うのは、EXILEのモノマネ芸人の御行儀がどうのこうのではなく、寺と言う場所で、ああ言う葬式イベントをやっていいのか?と言う事が最大の論点の様な気がするのである。
何故ならば寺と言う場所には大抵の場合、墓と言う建造物がある。その墓には亡くなった人間の遺骨と魂が眠っている。その多くの霊に対する礼儀をどう考えるかの問題であって、有名な歌手が死んだから、そこにファンが詰め掛けて、涙の大合唱をして良い事にはならないのではないか?と私は思う。

EXILEのモノマネ芸人が葬儀場に現れ、ポケットに手を突っ込んでいた事が何故悪いのかに関しては、人それぞれだろう。それを言うなら、画面にチラチラ映っていた清水アキラの存在はどうなのか?EXILE芸人以上に世間を騒がせて迷惑を掛けた人物では無かったのだろうか。
要するに叩く人を選んでいると言う話で、こいつは叩いてもイイ、こいつは叩かなくてもいい。好きか嫌いかが判定基準になっている世の中だから、こんな下らない事でネットが炎上する。結論的には、誰が来たってガタガタ抜かすな。個人がそれなりに想いを持って来たんだから、誰に責められる言われも、責める権利も無い。

それで、寺と言う場所で御見送りを装ったファンの集いみたいな事をやる事に関し、これを問題視するに当たって、どうしても御寺さんを責めざるを得なくなる。
寺と言えば御坊さん。御仏の元で修業を積み、亡くなった人の霊を成仏させ、仏教に基づいて、天界へ誘い、あの世への門を開く。しかしながら、坊さんだって金を稼がなければならない。坊さんにも生活があり、生きる為に日々、飯を食わなければならない。だが、どんな聖職者だろうと、金に換えてよいモノと、よくないモノがある。寺でファンに大合唱をさせて見送る事は、おそらく、金に換えて良い事ではないと思われる。
誰にでも許している訳ではないとすれば、どんな人達なら許すのか。少なくとも、地元の近所のオジサンやオバサンが死んでも、そんな事はやってくれない。そのオジサンやオバサンが北島三郎の<与作>を歌うのが好きだったとしても、その与作を寺で大合唱する事は断じて許されない。ならば、北島三郎が天に召された時なら大合唱を許すのかとなれば、これも拙い。何故ならば、同じ人間の死に差別を付けるのか?となってしまう。
じゃあ、どうすればいいのか?と問われれば、寺側にとって一番角が立つのは、「そう言う事は、辞めて貰っていいですか」と主催者側に堂々と断る事ではないのか。人の死や霊魂に有名も無名も無いのですと、仏教を説いてやればいいのである。

寺での葬儀イベントで忘れられないのは、2011年にキャンディーズのスーちゃんこと田中好子が55歳で亡くなった時であった。
当時、ワイドショーがまだ芸能ネタをやっていた時期、テレビ中継までしてお茶の間を騒然とさせた出来事だった。葬儀の席で、キャンディーズの伊藤蘭、藤村美樹、関係者が見守る中で、スーちゃんの最期の言葉が入った録音テープが流された。その内容たるや涙無くして聴けない様なスーちゃんの言葉であった。

「蘭ちゃん、美樹ちゃん大好きです。私はこれから、震災で亡くなった方達を励ましに行きます」

スーちゃんの消え入りそうな弱弱しい声が、これ以上ないリアルさでテレビから伝わってくる様だった。それは演技ではなく、これから間もなく死んでいく一人の人間が発した魔法の様な言葉だった。
スーちゃんこと田中好子は2011年4月21日に、あの世に旅だった。2011年と言えば東北大震災の年で、震災日の3・11から約一か月後のスーちゃんの死であった。
この中継が流れていた時、私は昼飯を食べていた。箸の動きは止まり、テレビに釘付けになった。スーちゃんの魔法の言葉は、私の食欲を完全にストップさせた。
今思い出したが、有名人の死去報道で初めて箸を落したのは、プロレスラーのジャイアント馬場が死んだ時だった。私の記憶では、飯を食う箸を落したのは、この時の一回きりで、それから今に至るまで一度もない。アントニオ猪木が死んでも箸は落とさなかった。

いわゆる<お別れの会>をやる芸能人、有名人が少なくなってきた。時代の流れは何事にも簡略になり、無駄金を使わず、冠婚葬祭も、やるんだか、やらないんだか判らなくなってきた。
話題を最初に戻すと、やはり寺を使った葬儀イベントは時代錯誤なのではないか?そう言う事が良いと感じる時代は確かにあった。それは認める。派手な方だったから派手に楽しく行こうと言う気持ちは判る。でも、それは寺でやる事では無いだろう。<お別れの会>であれば、しかるべき場所で思う存分、酒を飲み、唄い、語り、食うのも良いだろう。
物の分別、時代がどんなに変わっても、人が人らしく生きる為の礼儀であると私は思う。

 

 

 

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