本題に入る前に、ちょっとだけ寄り道を書かせて貰うと、三国志がプチ的なマイブームになっている。
テレビドラマなんか観なくなった私が珍しく時間通りに構えて観てるのが、TVK(テレビ神奈川)で土曜日の深夜12時から放送している「三国志 趙雲伝」。三国志のアイドル的存在と言っても過言ではない趙雲子龍を主役にした物語なんだけど、ハチャメチャぶりが妙に嵌まって面白い。
趙雲と言えば常山(じょうざん)と言う地域の出身で、物語に登場する際も「我こそは常山の趙子龍なり」と言って槍を振り回して活躍するんだけど、このドラマは2015年作の中国ドラマで全59話。日本の大河ドラマよりも9話多い。特徴的なのは、趙雲子龍が三国志の本編に入る以前の物語として構成されていると言う点。つまり、架空の創作によって趙雲の人生が描かれていく。
趙雲が三国志の舞台に上る以前、どんな事があったのか、何をしていたのか。本編以前の趙雲が何をしていたのかなんて誰も知らない訳だから、作り手に寄って自由に創作されていく。趙雲が何故強いのか?と言う点も、70年代のクンフー映画の様な展開で武術の師匠が現れ、修行をし、達人へと成長していく。それと同時に趙雲の恋愛も描かれていく。
恋愛の相手となるのが、韓国の人気グループ・少女時代のメンバーの一人であるユナが演じている。
最近、ネットを開くとユナの宣伝記事を頻繁に見掛ける様になった。気になって調べてみると、どうやらユナの新作ドラマのキャンペーンらしい。現在ユナは35歳と言う脂の乗った女になっており、この趙雲伝に出ていた頃は10年前なので当時25歳。まだ幼さが残っていた時期で可愛い感じだったが、今現在は、とんでもない美女になった。元々、背も高く、顔も小さく、手足も長く、整った容姿で、そこに加え、彼女はアクションも出来ると言うのが大きな売りの一つとも言える。ワイヤーやCGを使った場面もあるが、基本的に動けるユナと言う人は、韓国の貴重なアクション美女俳優としても機能する。
ハリウッド進出してもおかしくなさそうな貫禄と雰囲気、スター性も十分備えてる逸材だろう。日本にも来て貰いたいけど、日本でのキャンペーンはないのだろうか。
趙雲を演じるのはケニー・リンと言う中国の俳優で、これが中々のイイ男。三国志の映像作品は、それなりに一杯観て来たんだけど、見てきた中では一番いい趙雲じゃないかなと思う。見栄えもいいし、アクションの技術も持っている。ケニー・リンの趙雲を見てしまうと、この趙雲じゃないと嫌だとなってしまうほどのハマり役の様な気がする。
ちなみに、この物語は趙雲が死ぬまでの生涯までは描かれず、やがて主君になる劉備玄徳が蜀の地を取って、関羽、張飛、趙雲、馬超、黄忠の五虎将軍が勢揃いする辺りで幕を閉じる。創作場面も多く、本編では描かれない意外な戦いもあったりする。呂布と趙雲が戦ったり、馬超と趙雲が戦うと言う意外過ぎる場面もある。本編への拘りを捨てれば、中々楽しめる作品には仕上がっているなと言うのが私の総体的な感想である。
チャプター2:諸葛孔明に会った事がある老人の話
此処からが本編。
今更ながら吉川英治の三国志を読んだ。新潮文庫から出版された全10巻。三国志関連の読み物は、かなり読んできた筈だが、不思議と大御所・吉川英治の三国志だけは読んでなかった。最近では北方謙三の新しい三国志が受けてるようだが、正直、北方を好きではないので私は読まない事にしている。
吉川・三国志を読んで感じた事は、いわゆる<昔の作家>に有りがちな難しさと言うのが無く、読み易い。こんなに読み易いのかと言う安心感、それでいて容赦の無いグロ描写もあり、柔軟な感性を持った作家だったんだなと感心した。
三国志の吉川英治、関ケ原の司馬遼太郎、武田信玄の新田次郎、ミステリーでは横溝正史、松本清張。彼等レジェンドに共通しているのは、判り易さと、読んで良かったと言う安心感だろうと思う。
最終巻の本編後に篇外余録(へんがいよろく)と言う特別編があり、そこで面白い事が書かれている。
それは三国時代が司馬一族によって統一され、晋(しん)の時代になった時の話。桓温(かんおん)と言う人物が嘗て蜀の首都であった四川省の成都(せいと)を訪れた際、100歳を少し超えた老人と出会った。その老人は若い頃、蜀に文官として仕えていた人物だった。桓温は思いついたように老人に尋ねる。
「お前は100を超える歳だそうだが、それならば諸葛孔明が生きていた頃を知っている訳だ。孔明を見た事があるのか?」
老人は誇るが如く答える
「勿論、御座います。当時私は若造の文官でしたが、よく憶えております」
この桓温と老人のやり取りこそが、正に現代人のニーズと言うやつだろう。伝説となった偉人が、どんな人物だったのかを間近で見て知っているのだと言う。これに勝る質問は無いのではないかとさえ思う。で、桓温は更に畳みかける。
「では聞くが、孔明と言う奴はどんな奴だった?例えれば、どんな人物に似ているか」
老人は少し困った顔で答える
「私の憶えている諸葛丞相は、別に風変りとか変わっていると言う感じの方では御座いませんでした。貴方様の様な立派な御恰好はしておらず、そんなに偉くは見えませんでした。只、あの御方が亡くなった時、何となくですが、あの御方の様な人物は二度と出て来ないのではないか?と言う様な気は致しました」
どうだろう、このリアルさ。このやり取りに関して吉川英治は、こう書いている。
「私は何となく、この老人の言葉の中に在りのままの孔明の姿がある様な気がするのである」
諸葛孔明の死後、神の如く褒め称える学者や詩は沢山あるが、所詮は教祖を崇拝する信者的な過剰表現でしかない。しかし、嘗て蜀に仕えていた100歳の老人の気取りの無い見たまんまの発言に勝るリアルさには、どのヨイショ学者も敵わず霞んで見える。
言葉や文章は便利だが、奇麗過ぎると疑われる。例えれば、伝説の地に実際に行ってきて、どんな匂いがしたとか、地面や木に触れてどんな感触だったかとか、体験に勝るものは無いと言う事なのだろう。
チャプター3:偉大なる平凡人・諸葛孔明
平凡には二種類あると吉川英治は説く。その平凡が大きいか小さいかの違いなのだと言う。諸葛孔明は、どちらかと言えば大きな平凡であり、その平凡さの企画が異常過ぎるから偉大なのだと説く。
孔明は陣を敷く場所で必ず畑を作らせ、カブの種を撒いて次の陣地へと移動した。この行為が食料自給だと言う所までは判りそうなものだが、何故、カブなのか?そこには理由があった。カブと言う食料が野菜であり、日本でも食されている事は判っている。日本では味噌汁や漬物に使うのが一般的だろうか。
孔明はカブと言う野菜が万能である事を知っていた。カブは春夏秋冬いつでも育ち、土の質を択ばずに育つ。根、葉っぱ、茎、全て食べる事が出来て、生でも煮ても食べられる。忙しい軍事用の食料として最高の物だった。
こういう発想は天才には出来ない。平凡な感覚がある人にしか浮かばない発想だと吉川は語る。畑と言えば孔明にはキーワードがある。晴耕雨読(せいこううどく)である。有名な劉備玄徳の三顧の礼を受ける以前、孔明は仕官をせず何処にも勤めたがらない。今で言うニートだった。晴れた日は畑を耕し、雨の日は本を読んで過ごした。この時点で孔明は普通のニートとは違っていた。普通だったら、就職しない奴はバイトをして、暇な日はゲームで遊んで過ごそうと言う発想になるが、孔明には自分の食い物は自分で何とかしようと言う当たり前過ぎる合理的な発想があった。これこそが偉大なる平凡の一旦だろう。
蜀に仕えていた100歳の老人が見た<偉い人>には見えなかった孔明の姿が、垣間見える様な気がしてくる。それは、どれだけ金持ちになっても偉くなっても土いじりを辞めない気質である。
例えば、子供の頃に買ってもらった色褪せた豚の貯金箱を億万長者になっても大事にして500円玉を入れて貯め込むとか、どんな豪邸に住んでも清掃員には頼まず、一日かけて片っ端から雑巾掛けするとか、無くなる寸前の歯磨き粉を絞り込むだけでは飽き足らず、わざわざハサミを持ってきて真ん中の辺りを切って歯ブラシを突っ込むとか。
思うに偉大なる平凡とは、買えば済むのにそうしないとか、わざわざギリギリのラインに自分を立たせて苦労を好んで選ぶとか、敢えて遠回りをする所に極意があるのかもしれない。










