橋幸夫の葬儀中継を観てて感じた事と言うのは、EXILEのモノマネ芸人の御行儀がどうのこうのではなく、寺と言う場所で、ああ言う葬式イベントをやっていいのか?と言う事が最大の論点の様な気がするのである。
何故ならば寺と言う場所には大抵の場合、墓と言う建造物がある。その墓には亡くなった人間の遺骨と魂が眠っている。その多くの霊に対する礼儀をどう考えるかの問題であって、有名な歌手が死んだから、そこにファンが詰め掛けて、涙の大合唱をして良い事にはならないのではないか?と私は思う。
EXILEのモノマネ芸人が葬儀場に現れ、ポケットに手を突っ込んでいた事が何故悪いのかに関しては、人それぞれだろう。それを言うなら、画面にチラチラ映っていた清水アキラの存在はどうなのか?EXILE芸人以上に世間を騒がせて迷惑を掛けた人物では無かったのだろうか。
要するに叩く人を選んでいると言う話で、こいつは叩いてもイイ、こいつは叩かなくてもいい。好きか嫌いかが判定基準になっている世の中だから、こんな下らない事でネットが炎上する。結論的には、誰が来たってガタガタ抜かすな。個人がそれなりに想いを持って来たんだから、誰に責められる言われも、責める権利も無い。
それで、寺と言う場所で御見送りを装ったファンの集いみたいな事をやる事に関し、これを問題視するに当たって、どうしても御寺さんを責めざるを得なくなる。
寺と言えば御坊さん。御仏の元で修業を積み、亡くなった人の霊を成仏させ、仏教に基づいて、天界へ誘い、あの世への門を開く。しかしながら、坊さんだって金を稼がなければならない。坊さんにも生活があり、生きる為に日々、飯を食わなければならない。だが、どんな聖職者だろうと、金に換えてよいモノと、よくないモノがある。寺でファンに大合唱をさせて見送る事は、おそらく、金に換えて良い事ではないと思われる。
誰にでも許している訳ではないとすれば、どんな人達なら許すのか。少なくとも、地元の近所のオジサンやオバサンが死んでも、そんな事はやってくれない。そのオジサンやオバサンが北島三郎の<与作>を歌うのが好きだったとしても、その与作を寺で大合唱する事は断じて許されない。ならば、北島三郎が天に召された時なら大合唱を許すのかとなれば、これも拙い。何故ならば、同じ人間の死に差別を付けるのか?となってしまう。
じゃあ、どうすればいいのか?と問われれば、寺側にとって一番角が立つのは、「そう言う事は、辞めて貰っていいですか」と主催者側に堂々と断る事ではないのか。人の死や霊魂に有名も無名も無いのですと、仏教を説いてやればいいのである。
寺での葬儀イベントで忘れられないのは、2011年にキャンディーズのスーちゃんこと田中好子が55歳で亡くなった時であった。
当時、ワイドショーがまだ芸能ネタをやっていた時期、テレビ中継までしてお茶の間を騒然とさせた出来事だった。葬儀の席で、キャンディーズの伊藤蘭、藤村美樹、関係者が見守る中で、スーちゃんの最期の言葉が入った録音テープが流された。その内容たるや涙無くして聴けない様なスーちゃんの言葉であった。
「蘭ちゃん、美樹ちゃん大好きです。私はこれから、震災で亡くなった方達を励ましに行きます」
スーちゃんの消え入りそうな弱弱しい声が、これ以上ないリアルさでテレビから伝わってくる様だった。それは演技ではなく、これから間もなく死んでいく一人の人間が発した魔法の様な言葉だった。
スーちゃんこと田中好子は2011年4月21日に、あの世に旅だった。2011年と言えば東北大震災の年で、震災日の3・11から約一か月後のスーちゃんの死であった。
この中継が流れていた時、私は昼飯を食べていた。箸の動きは止まり、テレビに釘付けになった。スーちゃんの魔法の言葉は、私の食欲を完全にストップさせた。
今思い出したが、有名人の死去報道で初めて箸を落したのは、プロレスラーのジャイアント馬場が死んだ時だった。私の記憶では、飯を食う箸を落したのは、この時の一回きりで、それから今に至るまで一度もない。アントニオ猪木が死んでも箸は落とさなかった。
いわゆる<お別れの会>をやる芸能人、有名人が少なくなってきた。時代の流れは何事にも簡略になり、無駄金を使わず、冠婚葬祭も、やるんだか、やらないんだか判らなくなってきた。
話題を最初に戻すと、やはり寺を使った葬儀イベントは時代錯誤なのではないか?そう言う事が良いと感じる時代は確かにあった。それは認める。派手な方だったから派手に楽しく行こうと言う気持ちは判る。でも、それは寺でやる事では無いだろう。<お別れの会>であれば、しかるべき場所で思う存分、酒を飲み、唄い、語り、食うのも良いだろう。
物の分別、時代がどんなに変わっても、人が人らしく生きる為の礼儀であると私は思う。







