「人は、どうして好きになったり嫌いになったりするんですか?」と言う質問に対し、こう答えた人が居る。
「モノの好き嫌いは、生まれた時から死ぬまでに全て脳に設定されているんだよ」
かの有名な養老孟司・先生がそう言っていたのを想い出した。
これを聞いた時、なるほどなと思った。人は他人が何をやったかで好き嫌いを決めている訳ではなく、好きになるか嫌いになるかは自分の脳が決めている事だと養老先生は仰ってるんだなと、私は解釈した。
そう考えると大体の事は腑に落ちて来る。例えば男女関係の<片想い>。片想いが実ったケースを私は知らない。片想いは一方的な求愛な訳だから、相手側が自分をどう思ってるかなんて事は知りようがない。やがて片想いはエスカレートし、こうあるべきだと思い込むようになる。どう思い込むかは人それぞれで、良い方に転じるか、悪い方に転じるか。無くならないストーカー事件も、この辺りが原点になっている。
チャプター1:好きから嫌い。そして山から谷へ!
我々人間は、どんな人でもそうだと思うが、好きな有名人と嫌いな有名人を選り分けている。
考えてみると不思議だが、有名人を好きになる場合、歌が上手いから、演技が上手だから、奇麗だから、可愛いから、絵が上手いからとか、見たり読んだり聞いたりする事が規準になって好き嫌いを決めている。所が、当の本人とは会った事も話した事も無い。情報の殆どはネットでの評判だとか、テレビやラジオとかメディアからの発信でしか得られない。つまり我々は、好きな人、嫌いな人の真実の姿を知らないのである。
中居正広と言えば庶民の心を理解する国民的アイドルみたいなイメージが付いたが、話題になったフジテレビ問題で人生は大きく変わった。好意から一気に嫌悪へ極端に変わったケースと言える。
事件前の彼の好感度とは、どんなものだったのか振り返ってみる。金は稼ぐが無駄金は使わない、富も名声もあるのに結婚をしない、よく食べて、酒も好む。気さくで話しやすく、芸能人独特の嫌味や毒気も感じられない。こうやって並べていくと、総体的に<庶民的なイメージ>で覆われている事に気付く。
芸能人の人気を取る秘訣とも言えるのがこの辺で、庶民に近づく事で親近感が生まれる。しかしながら此処には落とし穴がある。それは、あくまでもイメージによる親近感であって、彼本人との接触がないので、本当の所どんな人なのか?と言う確定的な信用と信頼が存在しなかった。
チャプター2;SNSに散ばる好き嫌い
ネットに目を向けてみよう。皆さん一人一人、お気に入りのサイト、ブログ、動画、ツイッター、インスタがあるように、私にもネットに散らばっているお気に入りが当然ある。
例えば、私はキャリア40年以上の筋金入りのゲーマーなので、ゲームを解説したり、攻略動画をやったりしている動画を観に行く。好き嫌いはこんな時に出る。つまり、同じゲームでも誰の動画を観るかが重要になってくる。誰でもいい訳ではない拘りが出る。皆さんも、きっとそうなのだろうと思う。その際、片っ端からまんべんなく観る事はしない。厳選し、この人のじゃなきゃ嫌だとなる。これこそが本能的な好き嫌いではなかろうか。
お恥ずかしながら、私のブログなんかはどうなんだろうか。
ネットでモノを書いて今年で23年目になる。個人サイトの運営からブログに移行し、最初に開設したブログを破棄し、新たにブログ開設をして今現在と言う事なる。2022年の3月が、このブログでの最初の記事なのだが、最初のブログの記事数を合わせると膨大な記事を書いてきた。
管理人によって様々なブログに対する考え方があると思うが、私が立てたブログのコンセプトは<読んで貰う為のブログ>である。今時のネットでは、ブログでモノを書くのは古いなんて考え方の人も居るが、古いも何も、私はモノを書きたくてブログをやっているので、それ以上でもそれ以下でもない。私のブログに<文章>は絶対的な存在なのである。
23年と言うキャリアの中で、何をやると受けるとか、これをやると嫌われるとか、それなりに判っているつもりではいる。不思議な事だが、私の場合、受ける事を敢えてやらないと言うスタイルを取っているので万人向けではないブログである事は想定内。受ける事をやらない理由と言うのは、純粋な気持ちで、自分のやりたい事がソレじゃないからである。書いた記事が反応を取れなかったとしても、そんな事は私にとって問題ではなく、重要なのは本当に書きたい事を書けたか?と言う点に尽きる。
反応を取る為の記事作りがどれだけ辛いかと言うのは身に染みて判っている。人気取りと、本当にやりたい事と言うのは全くの別物で、イコールではないのである。私に言わせれば、人気取りをやってる方ほど、本当にやりたい事を出来ていないのではないか?と思ってしまう。逆に人気度外視で、好きな事だけをやってる人ほど、やりたい事が出来ている。しかし代償として人気取りからは遠ざかる。これは、ブログをやってる人の永遠のテーマとジレンマであると思われる。
私の文章は長く、辛辣な事も書くので、書き手として好きになれないと言う訪問者も居るだろう。だが気にしなくていい。それは多分、今回のテーマである<本能的な好き嫌い>の範疇だからである。
一昔前、このブログの前にやっていたブログで、とても印象的なコメントをくれた方が居た。こんな事を書いてくれた。
「私は長い文章が苦手なんですが、不思議と貴方の書く文章はスラスラと読めます」
私はこのコメントを今持って忘れておらず、最高の誉め言葉だと受け取った。例えれば料理人で、この料理は苦手なんですが、この店の料理なら美味しく頂けますと言われた様なものだろう。
チャプター3:初対面から始まる他人の審査
本能的な好き嫌いとは言え、初対面も無いのに、いきなり好き嫌いも極端過ぎる。いつか見た昔の映画で、主人公がこんな事を言っていた。
「お前ら判ってないな。俺達はいつだってテストをされてるんだぜ」
このセリフが凄く印象に残った。正にコレである。
人間社会において、我々は何時何処に居ても他人からテストをされている。体型、身だしなみ、声、喋り方、態度、髪型、髪の色、服装、履いている靴、体臭、口臭。女性は更に項目が増える。化粧の仕方、どんな色の口紅を使っているか、胸は大きめか小さめか。
挙げた項目には全て共通点がある。それは、この項目全てが接触する事なく、無言の内に目と耳で確認が可能だと言う点である。他人に対する無言のチェックに関して、私はよく左手薬指をチェックする癖がある。ちなみに、このチェックは男女共通。既婚なのか未婚なのかの確認行為なのだが、何故か凄く気になる。
私は接触をした人間に対して想像を膨らます。既婚の場合、子供は居るのだろうかとか、居たとしたら何人居るのかとか、パートナーは何歳で、どんな容姿で、どんな人柄なんだろうとか。要するに人間関係の深堀りをしたくなる。
他人に対するテストの仕方は様々としか言い様が無い。好きになるのは敷居が高いが、嫌いになるのは簡単なのも、人間と言う動物の宿命なんだろうか。
神経質で用意周到なタイプの人間は、これから会う初対面の人物を大まかに知っておこうと情報収集をする。流石に内面までは知り様が無いが、少しでも印象良く外面を見せようと言う訳だ。気の利いた御土産を持って行こうとする場合、例えば、それが酒であったり、甘いモノであったり、渡す相手の好みが判っていないと不安になってくる。だから事前に知っておきたいとなり、あらん限りの各方面から情報を集め出す。
チャプター4:嫌われに行く勇敢な人達
基本的な基準として、人間は他人に好かれたくて嫌われたくない。だから頑張るのである。
世の中には奇特な人も居る。普通とは逆をやる人達。人気者やスターに態々悪態をついて周囲に嫌われに行く人達。アイドルとの握手会に参加する際、事前にオナニーして手に精液を塗り込んでから握手しようとするファン。どうせ乾いて判らねえだろうとタカを括る訳だ。
電車内で煙草を吸ったクラブのホストを注意した民間人が、そのホストに殴られ、警察にしょっ引かれたなんて事件もあった。この際、ホストは確信犯であったとしか言い様が無い。電車内でそんな事をすれば結末がどうなるか位は子供だって判る。そうなる事を想定して態々嫌われに行った。
何が何でも辞めないメンタルと言うのも流行っている。
自分の名誉と誇りの為に何としてでも辞めない事に拘った結果、他人が迷惑をしたパターン。静岡県伊東市の田久保真紀・市長が話題になっている。学歴詐称疑惑で卒業証書を見せなかった事で、ボヤ騒ぎが大火事に発展したケース。辞めろ辞めないで市の役所内部で大喧嘩が展開されている訳だが、この事件の根本にあるのは、人の上に立つ役人ともあろう御方に嘘があってはならないと言う道義的概念で、大昔の日本から受け継がれている掟である。しきたりに厳しい日本の文化とも言える。
当の田久保市長はロックンローラーだそうで、この事件で初めてテレビで観た時、役人らしからぬ銀髪のヘアースタイルで御披露目し「こんな市長さん、居るんだ・・・」と度肝を抜かれた視聴者も多かっただろう。余りの負のフィーバーぶりに<タクボる>なんて言う新しい流行語まで登場した。使い方は嘘を突く時に使うんだそうで、驚くべきは、この言葉の出所が大人ではなく、伊東市の小学生達だった事で、子供達の恐るべき創作能力を認識せざるを得ない。
芸能界に目を向けると、面白いのが<あのちゃん>。中傷をする世間を相手にキリの無い、果ての無い喧嘩を延々と続ける所が、いじめられっ子のヒロインになっていて、色んな意味で気になってくる。
嫌な事だが、世間との喧嘩が絶えないタレントが自殺をするケースもある。テレビ的には面白くても、当の本人は毎日が辛い筈で、今は元気で闘志満々でも、確実にいつかはペースダウンする。精神の崩壊に年齢は関係ない。しかし若い分だけ感受性が豊かという面もあり、いっその事、歳を取ってた方が喧嘩の回避率も高いと言う利点はある。
あのちゃんに対する心配事と言うのは、若さ故の暴走であり、その暴走が最悪の結果にならない事を祈るのみと言う事になる。
最近、嫌われる事に関する書籍も増えてきた。好きになって貰うのがシンドイなら、いっその事、嫌われてしまえと言う考え方は、新しい発想だろうと思う。
ネットでよく見かける西村博之も、嫌われるメンタルについてこんな事を言っている。
「嫌われるとか、どうでもいいんですよ、そんな事。総体的に日本人って嫌われる事に対する免疫が低い様に思う。テレビやラジオ、メディアで身を晒してる人は、殆ど全員何処かで嫌われてると思ってた方がイイ」
なるほど。一理あると思う。
西村博之は私の一つ年下で、同じ時間軸を生きている訳だが、こんな言葉が出て来る時点で、それなりの苦労をしている人物だろう。私達の世代は就職氷河期に巻き込まれた氷河期世代で、勿論彼も例外ではない。2ちゃんねる掲示板と言うアイデアを実践するに辺り、プログラムを勉強しなければならなかったが、彼は専門学校には行かず独学で学んだ。それは大変な労力だろうと思う。
彼への見方と言うのは、私の様な同世代と、比較的若い世代とでは、見方と解釈が違うと思う。若い子から見れば、今の彼はネットのダークヒーローみたいな存在なのかもしれない。私から見れば、派手な部分よりも苦渋と苦難に満ちた人生を歩み、実業家として成功した同級生みたいな存在とも言える。
そんな感じで如何だったであろうか。
私の学歴は高卒で大学には行っていない。なのでレポートと言う類には縁がない人生だが、今回はレポートを書く様な感覚で書いてみた。文章が長いから途中で読むのを止めたと言う人も居るだろうし、頑張って耐えて読んでくれた方も居たかもしれない。
ネットでモノを書いて晒すのは独特な緊張がある。反応はいつだって怖いし不安がある。最初の頃は、そこを突き抜けられるか?と言うのが最初の難関だった。今回、好きと嫌いと言う題材で書いてきたのだが、自分で読み返すと、好きよりも嫌いに関するテーマの方に偏り過ぎた感じもする。
好きはポジティブ、嫌いはネガティブ。私はネガティブを大事にしたいので、そっちよりに視点が行ってしまう。でも、書きたい事が書けたと言う点で、良しとしようと思う。

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