侠客に生きる事は善か?悪か?山下達郎の人生! | 何でもアル牢屋

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山下達郎のジャニー喜多川・性被害事件・問題発言から一週間。ネット炎上に対し達郎の反撃あるか?と注目されたであろうサンデーソングブックだったが、それを断ち切るかのように達郎は一切無視と言う姿勢で何事もなく番組を進行した。
この一週間で達郎が感じた事は、SNSと言う媒体の異常さであったと思う。辛辣な反応でコメントを残した連中が必ずしも自分のファンとも限らず、これを機に達郎を痛めつけてやろうと機に乗じた輩やアンチも居た筈であり、面白おかしく荒れる事を望んだ輩も居たであろう事は容易に想像がつく。
この一件は、一体何だったのだろうか?客観的視点で見てみると論点が随分ずれている。芸能論、一般論が入り交じり、あれが正解、これが間違いと匿名の大論争が巻き起こった。皆が腹を立てたのは、要するに社会的犯罪を起こした人物と交わりを持っててイイのか?と言う道義的な道徳観念だった。そこで達郎が主張したのは<縁><恩>と言う概念だった。自分の人生で重きを置くのは縁と恩であると達郎は言い切った。その言葉の響きには、例え相手が殺人者や極悪人であっても、縁があり恩を受けた人物であるから粗末には出来ないと言う想いが込められている。こう言う人物を昔から<侠客の人>と言う。

極道社会のヤクザ染みた言葉っぽいが、実の所、芸能界には侠客の人って意外に居たりする。タモリやビートたけし、和田アキ子、黒柳徹子なんかもそうだろう。良い意味では分け隔てなく、どんな人とでも同様の付き合いをするっていう意味で、悪い意味で取ると、どんな悪人とでも一緒に遊んで酒を飲める仲とも言える。東京の下町育ちには、そう言う気質の人が多い様な気がする。いわゆる映画の「男はつらいよ」の世界であり、渥美清が演じる寅さんである。山下達郎と言う人は優しそうな風貌に反して意外なほど任侠肌の人なのだろう。

山下達郎のファンを自負するつもりなら、この辺の事は踏まえておいた方が良いだろう。達郎が変わったのではなく、本来の達郎の姿が任侠の人なのである。

縁と恩と言う言葉が気になり、自分の事に例えてみると達郎の胸中が何となく判る様な気がしてくる。例えば、自分の親友が大事件を引き起こし社会に迷惑を掛けたとして、これまでと同じ付き合いが出来るのかどうか?何があってもアンタの味方だよ!となるのか、あんたとの縁もこれまでだね!となるのか。その選択に迫られるのではないか。
達郎の身近で例えれば、妻の竹内まりやが、どこぞの若いイケメン歌手と情熱的な不倫をしたとしても許せるかどうか?或いは大親友と名高いサザンオールスターズの桑田佳祐が凶悪な事件を起こしたとしても親友でいられるのかどうか?おそらく山下達郎と言う人は、それを許せる側の人間であると思う。
こういう書き方をして、これは誤解しないで貰いたいが、皮肉でも中傷でもない。例えそうであっても、それが出来る人間が悪では無いと言う事であり、一人の人間の一つの生き方でしかないと言う事を強く主張しておきたい。そもそも筋違いであり、それを他者から責められる言われは無いのである。
 

ネットの記事によれば、達郎が残した「言う事が判らねえ奴は俺の音楽を聴くな」と言う発言に多くの人が失望したのだと言う。敢えて書かせて貰うと、達郎のファンには馴れ馴れしい友人面をしている人が多い様な気する。これに関しては実の所、達郎にも責任がある。

普遍性と庶民性に重きを置き過ぎる傾向があり、ファンと接近し過ぎるのである。結果、ファンを甘やかす事になる。するとファンは付け上がる。ファンが付け上がるのは習性であり、どの有名人にも有り得る事なのだが、達郎のファンは特種過ぎる。ファンにもファンとしての礼儀ってモノがあるだろう。そこを踏まえないファンは、自分のお気に入りを所有物だと勘違いする。

ファンが自覚しなければならないのは、相手は人形でもなければペットでもない。細かい神経や精神を持つ生身の人間だって事。匿名のSNSだから何でもやっていいって事にはならないだろう。