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何でもアル牢屋

趣味丸出しの個人コラムです。フラっと立ち寄れる感じの喫茶店的なブログを目指してます。御気軽にどうぞ!

究極の処女探しとは何か?どうやって星の数ほど居る女達から処女を探し出すか?その答えが、この映画にあった。87年作のホラー映画<ドラキュリアン>

タイトルがドラキュラとエイリアンを混ぜた感じだが、現代に蘇ったドラキュラ伯爵がモンスター軍団を引き連れて地球侵略をたくらむ。タイトルの由来に<地球外生命体>と言う意味もあるのかもしれない。
冒頭シーンからドラキュラ映画好きは興奮する。ドラキュラの宿敵・バン・ヘルシングが仲間を引き連れてドラキュラ城へと乗り込む。城門をぶち破るとドラキュラの花嫁が登場し、地中からゾンビが這い上がる。本作のドラキュラ伯爵は警戒心が強い。御丁寧に棺で眠るなんて危ない事はしない。蝙蝠に姿を変え天井から連中の様子を窺うのである。この辺に新しさを感じる。
ヘルシングの目的は討伐は勿論、他にも目的があった。善と悪のバランスを保つと言う秘石を使い、ドラキュラを空間の狭間へと封じ込める事だった。この空間を開くには処女による呪文の詠唱が必要であり、ヘルシングは一人の処女を連れて三分以内に詠唱をさせるのだが、この処女の詠唱が間に合わず空間が暴走し、ブラックホールの如く辺り構わず吸い込み出す。
この映画には新しい試みが盛り沢山で、ドラキュラが車を運転すると言うシーンがある。しかも車は魔界製であり、車体には髑髏の飾りが付けられ、人間の運転する車をすり抜けて通っていく。これがカッコいい。バットマンにもバットカーと言うハイテクの車が登場しバットマンが操るが、両者の共通点は蝙蝠。これはオマージュなんだろうか。
 

DVDの映像特典が1時間16分もあり、ドラキュラを演じた俳優がダンカン・レガーと言う人なのだが、正直、馴染みがない。カナダ出身の俳優らしい。彼のインタビューによると、本作のドラキュラ役は元々彼ではなかったらしい。最初、制作側がオファーを出したのは、あの<96時間>のリーアム・ニーソンだったのだと言う。だが断られた。なるほど、想像してみると面白い。80年代当時のリーアム・ニーソンがドラキュラ伯爵に扮する姿を想像すると中々イケてるのではないか?
しかし、ダンカン・レガーのドラキュラも素晴らしい。品格、ラスボス感、ルックス、どれをとってもマイナスが無い。おもむろに「食事をしてくる」と手下のフランケンシュタインの怪物に言うと、カンテラと鍵を持って物置部屋に向かう。物置の中には怯える十代の女子学生が三人入っている。何でも課外授業でうろついていた女子をさらってきたのだそうだ。この三人の女子を吸血し、三人は吸血鬼と化し、現代のドラキュラの花嫁になってしまう。この辺がドラキュラ映画を心得た作り方になっていて、観てて嬉しい。
 

現代にやってきたドラキュラの最初の目的は秘石を探す事だった。石はどうやら巡り巡って少年が持っているらしい事を突き止める。少年は伝説のモンスターが大好きで、オカルトやホラーの本を読み漁っていた。

ある日、少年の家に謎の手紙が来る。君の持っている秘石を郊外にある廃墟で取引したいと言う内容だった。差出人の名はキュラドラと言う。反対から読むとドラキュラ、少年は嘘みたいな現実に惑う。これを切っ掛けに少年は仲間を集めてモンスター討伐隊を結成し、ドラキュラの率いるモンスター軍団と対決していく。
少年VS吸血鬼で思い出されるのは、同年に公開された吸血鬼映画「ロストボーイ」で、ハッキリ影響を受けているのが伺える。作中の少年達のアジトに、ロストボーイのポスターが何気に貼ってあると言う演出がある。これには思わず唸ってしまった。考えてみると、85年作の「フライトナイト」も高校生が吸血鬼に立ち向かう物語だった。この80年代と言う時代は、グーニーズ、スタンドバイミーも公開されたし、少年の冒険活劇が流行っていた。この少年活劇にホラーの要素を放り込む事が当時のアイデアの一つだったのだろう。
 

この映画が切っ掛けだったかは確かではないが、ドラキュラと言うキャラがモンスター軍団の王の様な扱いをされていったのも、80年代だった。特に日本ではファミコンのディスクシステムで、コナミから発売された「悪魔城ドラキュラ」と言うゲームの世界観は、このドラキュリアンとよく似ている。ドラキュラ、狼男、ミイラ男、半魚人、フランケンシュタインの怪物。いわゆる世界の超有名な五大モンスターと呼ばれ、それぞれがモンスターの筆頭格の存在として認識されている。中でもドラキュラの存在は別格で、悪の華であり、魅力に満ちている。
人は何故、吸血鬼ドラキュラを愛するのか?

このテーマに今の所、答えがなく、誰も答えを出せていない。人間に近い様でもあり、魔法使いの様でもあり、将軍様の様でもある。知性と品格と言う点では他のモンスターの追随を許さない圧倒的な魅力がある。

驚くべき事に、とある海外の俳優に生まれ変わったら何になりたい?と質問すると、吸血鬼になりたいと言う答えが返ってきた。その動機は、どんな相手でもブチのめせる圧倒的な物理的パワーと、狙いを付けた異性を虜にする魔力なのだと言う。正に人間の持っている負の欲望である。現実を生きる人間が現実で出来ない事を実行してしまう存在が吸血鬼なんだと考えれば、吸血鬼になりたがる動機も判る様な気もしてくる。

映画の話に戻るが、この映画、本編の尺が1時間22分と言う短さにも関わらずテンポが良い。ネタバレはしないが、終盤、泣けるシーンもある。そうくるか!って感じの流れで余韻が残る。単なるキャラ映画で終わってない所が本作の良さなのだろう。

 

 

 

上岡龍太郎と言う人は、私の様な関東人にとっては余り馴染みのない人で、同じく関西大阪の雄・やしきたかじん氏と同類と言うイメージでしかない。関東人にとっては、顔と名前は知ってても名声や活躍は存じ上げないと言う人が多いかもしれない。関西の天才が必ずしも関東で天才扱いされる決りはない。全国区と言うよりは大阪と言う局地的な英雄だったのが上岡龍太郎と言う人だったと思う。
上岡龍太郎は、ある種の予知者だった。その予知とは、自分の芸風が間違いなく受けなくなる事と、近い将来、芸能とテレビは駄目な方向へと向かっていくだろうと言う事だった。引退と言うよりは隠居に近い。2000年と言う時代を振り返ってみると、演出や表現に様々な規制が掛かって芸能人たちの活動が狭まっていった事に気付く。
上岡龍太郎は自分の芸風に毒がある事を知っている人だった。その毒は、これから先、受け入れられる事は無いだろうという、ある種の直感と予知だった。予知者は大抵のケースで引退と言う手段を取る。戦国時代にも似た様な例は見られる。天下取りに大活躍した功労者が、ある時期を境に厄介者扱いされ、殺される羽目になる。今時、日本の芸能界でそんな事は起きないと思うが、上岡龍太郎と言う人が紛れもない芸能界の功労者である事は事実。

だが、その芸風ゆえに厄介者扱いされだしたとしたらどうか?

メディアは自分達の状況が拙くなると、すぐに手の平を返す。上岡龍太郎は、そんな気配を何処かで感じたのかもしれない。そもそも芸能界はヤクザな世界であり、嘘と騙しで金を叩き出す商売。綺麗ごとを言ってる奴から真っ先に消える。目の前の仕事を人様に「どうぞ」と譲ってしまう御人好しも引き摺り下ろされる。芸能とは何か?それは嘘を売る商売だと言った人が居た。芸能の根本が嘘なんだとすると、その嘘にムキになって「ああだ、こうだ」と得意げに評論する連中は何なのか?

人を騙す事に躊躇がある人は芸能界に入ってはいけない。躊躇がある事が正常なのであり、境界線を越えて馬鹿が出来るって事が、どれだけ特殊なのかを世間は意外に知ろうとしない。
 

引退後は徹底して一般人を貫いた。コネを使う事もなく、自腹で銭を払って劇場や会場に足を運んだと言う。昭和が最も栄え、平成にピークと衰退を迎え、令和になって、いよいよテレビと芸能は坂から転げ落ち始めた。上岡龍太郎の眼力には何が見えていたんだろうか。何も言わず、上岡龍太郎は黙って、この世とオサラバした。何も語らない事が彼の最後の意地だったかもしれない。

昭和50年生まれは今年で48歳になる。話題の市川猿之助と私は同い年の同級生である。誤解の無い様に書いておくと、同級生と言う表現は<同じ時間軸を生きた同い年>と言う意味。
猿之助がそうであったかは判らないが、48歳という歳は年寄りでもなく若者でもない微妙な年齢であり、人生を考えさせられる時期だ。過去を振り返り、先の事を考え、金は大丈夫かとか、人間関係は良好かとか、病気になったら怖いなとか、死んだ後の事は自分では判らないからどうなっちゃうのかなとか。色んな事が頭をよぎってくる。

実際に歳を取ってみて判った事は、若い頃には関心の無かった事に対して関心を持つ様になった。死生観なんて考えもしなかった。これを考える様になる切っ掛けは、近親者や親しい人達が次々と世を去っていく現実を目の当たりにするからだ。私は若ければ何でも出来るみたいな考え方は嫌いで、若くても出来ない事は沢山あるだろうと思う。例えば死に関しても、若い頃は歳を取った者が順番に死んでいくと思っていた。現実は違う。若くても人は死ぬのである。病気でなくても健康な小学生が人生に悩んで飛び降り自殺を図る現実がある。死は必ずしも年寄りの特権では無いと悟った時、死生観は確実に変わる。
48歳を生きる人達は、少しづつ、ゆっくりと欠けていく自分の身の回りの背景に戸惑いを感じ始める。マラソンに例えれば折り返し地点である。自分の事で言えば30歳に到達した時、大人になったな思った。所が45歳になると30歳って意外とガキだったなと振り返る。だからテレビなんか観てて30歳になった芸能人が「もう30になりましたよ」とか黄昏ながら喋ってるのを聞いてると鼻で笑う時がある。そんな時に「こいつが40になる時に30なんてガキだったな」と感じる時が来るんだなとか思う。

ぼーっとしながら、たまに50年後の事を考える時がある。50年後、世界は2073年になっている。
芸能界に目を向ければ、色んな人が居なくなっている。今、50代以上の芸能人は殆どが世を去っているだろう。話題の大谷翔平も50年後は引退して何をしているのか?乃木坂46の様な大所帯アイドル達も70代になり、どんな余生を送っているのか?
サブカルで有名なみうらじゅん氏は、リリー・フランキーとの対談の中でこんな事を言った。

「人間の脳が進化した事で一つ困った事が起きたのは、見えない先の事を考える様になった事だ」

正にそこで、見えない先を頭の中で構築して、ああなる、こうなると想定しだす。結果、当たって思い通りにいった人がどのくらい居るのか?阿部・元首相が暗殺されて死ぬ事を誰が予想できたのか?或いは、市川猿之助の家庭で起きた事件を想定できた奴がいたのか?コロナウィルスと言う疫病が世界中に蔓延して大混乱が起きる事を誰が予知できたか?
日本は100歳の老人が増えた事に気を良くして<人生100年時代>なんて唱えだしたが、真に受けない方がイイ。だって人が100年も生きてる事自体がファンタジーなんだから。それは希望を無くすって事じゃなくて、結局の所、今を生きるしか我々には何も出来ないって事になる。人生設計の当てが外れた人達は、かなりの確率で自分探しの旅へと出発する羽目になる。思うに、誰もが自分探しの旅は出来れば避けたい訳であり、大抵の場合、その旅が無駄足に終わる事を感覚的に予知している。
 

最も素晴らしい例はメジャーリーグの大谷翔平で、彼の場合、二刀流と言う過酷な道を選ぶ事によって、先の事など考えていない。何故、二刀流なのかと問われれば、二刀流をやりたいからやるだけですと言うシンプルな答えが返ってくる。要は<今出来る事を懸命にやるだけ>と言う確固たる固定観念があって揺るがない。彼の放つ強烈なメッセージとは何かと言うと、人生、やりたい事があるなら今やっとけ!って事なんだろうと思うよ。

実家の押し入れを漁ってたら、偶然に司馬遼太郎の「関ケ原」を発見。詳細を見たら出版は新潮社からで、初版が昭和41年。押し入れに入っていたのは48年の28版。昭和50年生まれの私は生まれていないと言う衝撃。本は単行本の上中下巻で凄く状態が良い。半世紀近い年代物なので若干のくすみはあるが、汚れも落丁もなくしっかりしている。私の親父が結婚前の25歳くらいの頃に購入したものなんだろうと思う。その本を息子の私が読むという展開。
本はよく読む方だが、司馬遼太郎と言う作家とは縁がなかった。日本を代表する大作家と言う肩書が偉そうで気に喰わなかったからなのか、この作家の本を読むのを心理的に避けていたのかもしれない。今も語られる名作との事で読む前から奇妙な重苦しさを感じる。そしてページをめくる。

「今、思い出している」

書き出しがまず、自分の思い出話から始まると言う意外さで、面を食らった。更に続いていく文章に、いつの間にか夢中になっている。どんどんページを捲っていく。どうやら司馬遼太郎の魔法に掛かった様だ。
戦国小説は大好きで、切っ掛けはゲーム会社・光栄から今もシリーズ化されているシミュレーションゲーム「信長の野望」だった。同時期に三国志も好きになった。三国志が好きになると水滸伝項羽と劉邦なんかも自然と好きになる。私の世代は漫画やゲームで歴史を覚えていく人が多い。そういう流れは今の若い子たちにも共通している。
 

司馬遼太郎・作品の初心者である私がまず驚いたのは、文体の柔らかさで、ありがちな昔の人が書いた様な感じがしない。要するに凄く読み易い。先入観で、読む前からいわゆる<お堅い文章>を想像していたのだが、良い意味で外れた。なるほどって感じで、多くの読者が司馬遼太郎に魅了されていくのが判った気がする。

司馬遼太郎の関ケ原は、三人の主人公で物語が進行していく。徳川家康、石田三成、島左近の三人で、描写に臨場感と存在感がある。まるで司馬遼太郎が彼等にインタビューしてきたのかと思わせるほどの人物描写で生々しい。有名な実話なので結末は読む前から知っている訳だが、そこに至る物語の持っていき方が素晴らしい。

文体の柔らかさ意外に、もう一つ驚いたのは、死体描写や性描写で、こんなに遠慮なくやるタイプの作家だとは思ってなかったので、その意外性が好きになった。武将の描き方も面白い。特にボロクソに描かれているのが福島正則で、まるでアル中のサイコパス。

「戦の勝敗は、このキチガイが握っている」

なんて事を家康が想う辺りで、思わず笑った。
福島正則って言う武将は太閤・豊臣秀吉が可愛がっていた男で、漫画やアニメ、ゲームなんかでも面白おかしく描かれている。どのジャンルの福島正則も<イッテル武将>扱いで、三国志に例えると劉備玄徳の配下だった魏延と言う武将と似ている。反抗的で乱暴者、なんだけど戦場では大活躍と言うタイプ。この関ケ原の福島正則像は、後世のクリエイターに多大な影響を与えたっぽい気がする。その先駆けになった司馬遼太郎は凄い。
ネタバレは避けるけど、最後の方は余韻が残る結末で、黒田如水(黒田官兵衛の事)が、ちょっとしたナビゲーターとして物語に華を添えている。処刑される石田三成の最後も素晴らしい描写。
 

で、関ケ原を読み終わって次が読みたくなった訳だが、司馬遼太郎は関ケ原の前後の物語も書いている。前は関ケ原の切っ掛けになった男・豊臣秀吉を描いた<太閤記>、後は関ケ原のその後、真田幸村の大坂の陣を描いた<城塞>。どちらにしようか悩む。悩んだ結果、太閤記を選んだ。司馬遼太郎がどんな秀吉を描いたのか興味があるので、そっちにした。どの道、両方読む事に変わりはない。どちらが先かの問題。素敵な悩みってやつか。

前回の延長線上の話題なんだけど、最近の関心事の一つに<自律神経>と言うキーワードがあって、自律神経は何故、乱れるのか?どう言う時に乱れるのか?そんな事が気になって、本屋で一冊の本に出会った。<自律神経が整う期待しない健康法>と言う本。著者は順天堂大学・医学部教授で、日本スポーツ協会公認スポーツドクター・小林弘幸先生。前書きによると、小林先生は30年以上に渡り、自律神経の研究をしているのだそうだ。
キャッチフレーズの<期待をしない事>と自律神経が、どう密接な関係があるのかを理論的に解いている。なるほどな!と思わせる説得力があった。そもそも期待とは何か?と言う点で、期待の正体は<自分の身の回りは、こうあって欲しいと願う他力本願の事>らしい。そして期待が裏切られた時に自律神経が乱れ、体調は悪化する方向に向かうのだと言う。例えば他人に対するムカつきやイラつきは何処から来てるのかと考えると、自分とは違う考え方や生き方をしている事に対する<期待外れ>から来ている。この理屈で行くと、SNSで毎日の様に有名人を叩きまくってる人達は、絶えず怒りで交感神経が興奮してて体調不良の奴等が多いのかもしれない。そのくせ、何故、体調不良が起こったのか自己分析もしないで心療内科へ飛び込んで「自分でも原因が特定出来ません」とか言い出す。で、振り返ってみれば毎日の様に怒りを爆発させて、ネットで中傷の書き込みをすると言う悪循環。


怒りは本能的な感情なので排除する事は出来ない。しかし意識的にコントロールする事は出来ると小林氏は説く。怒りを感じ始めた時に最優先にすべき事は<口を閉じる事>。怒りを言葉に変えた瞬間から交感神経は過剰に興奮するらしい。

怒りのコントロールとは黙る事であり、怒りを言葉に乗せない意識を持つ事によって怒りの感情は半減され、やがて消失していく。怒りは瞬発的なものなので、一定時間、耐え凌げれば交感神経の興奮を鎮める事が可能なのだそうだ。怒りの沈め方についてテレビメディアでも特集していたが、数を数えるとか、30秒動かずじっとするとか、他にも色々あるようだが、言葉を発しない事による怒りの鎮静法は、この本で初めて知った。しかも自律神経と怒りの感情が密接な関係であった事も今まで知らなかった。

自律神経失調症には二つのタイプがあるらしい。一つは心因性からくるもので、怒りの状態が長く続く事によって交感神経の暴走が習慣になって起きるタイプで、二つ目は生活環境が乱れがちな人。

一般的には二つ目のタイプがオーソドックスな感じなのだが、近年の自律神経失調症は類が違ってて現代病の様に蔓延しているのだと言う。日本の都市化も要因の一つだろうなとは思う。都市化すれば人も変わらざるを得なくなる。より細かく神経質に動かなくてはならない。他者から要求され期待される。期待に応えられなければ自信を無くし、最悪、死ぬ道を選択する人も居る。世界と言う言葉がやたら好きな日本は、遅れてはならない意識でハイテクを追い求め、反面、人は置いてけぼりにする。
ネットでおかしくなっている人達も居るらしい。私の好きな作家・平山夢明は、ネット・サディストと言う言葉を使っていた。その該当者は日々のネット記事に一々、得意気にコメントをしに行く人達で、へまをやらかした有名人に正義の鉄槌を下すかの様な意識で御叱りコメントをして悦に入っているのだと言う。それって、今日も一仕事終えたって感じなんだろうか。
 

所で、本の著書の小林先生は気になる事を書いている。怒らない人の下には人が集まる。つまり人気の事だろうか。なるほど、そう言えばそんな様な気もする。

人の悪口を言わない有名人は不思議と徳が高いのかもしれない。そして、そんな有名人は他者からも中傷をされない。思い当たる有名人が頭に浮かんでくるが、此処で書いてるとキリが無い。一つ例を出せばメジャーリーグの大谷翔平だろうか。まるで毒気がない。人がムカッと来る事も言わないから叩く所も無い。あの若さで達観しており、あれだけの雑音の中で、どうすればあんなに穏やかに居られるんだろうと秘訣を聞いてみたい。大谷翔平の自律神経は最高の健康状態なんだなと思うしかないだろうね。