何でもアル牢屋 -20ページ目

何でもアル牢屋

趣味丸出しの個人コラムです。フラっと立ち寄れる感じの喫茶店的なブログを目指してます。御気軽にどうぞ!

個人的な見解だけど、内科と心療内科は仲が悪いんじゃないか?と言う気がする。
過去、数回ほど心療内科に通った事がある。三十代前半の頃、訳の分からない心臓の動悸と唐突な呼吸困難が繰り返し起こり、同時に強い不安に襲われる症状が一カ月ほど続いた。怖くなって内科に飛び込んで心肺の検査をしたのだが、おかしな数値は出てこない。だけども症状だけは残っている。この時点で内科には二つの選択肢がある。

1:大病院を紹介して、より詳しい検査を進める。

2:器質的に問題が無い事を前提に心因性を示唆して心療内科の受診を進める。


私の経験則から書かせて貰うと、殆どの内科クリニックは心療内科への受診を薦めてこない。これに関して内科の観点からすれば、クリニックでの検査結果が全てではないし、隠れた病があるかもしれないから詳しく検査した方がイイとなるんだけど、問題なのは<今、困っている症状に対して何の施しもしてくれない>と言う点。そこで私は内科クリニックの先生に言った事がある。

「何か薬とか頂けないんですか?」

こう聞いたら、こんな答えが返ってきた。

「原因が何か判らないんだから薬の出しようがないでしょ?」

検査の重要性は判るが、私の場合、器質的に問題が無く、動悸と呼吸困難と強い不安と言う材料がある訳だし、この時点で心因性を疑わなければいけない筈だと思うのだが、それをしない。

そもそも心療内科の歴史は浅く、心療内科が創設される以前はザックリと<精神科>しか無かった。そこで頻繁に扱われた病気は<ノイローゼ>と言われる症状で、今では<欝病(うつびょう)>と変えられた。昭和の時代から自律神経失調症と言う古典的な症状もあって、平成になってから<不安神経症><パニック障害>と言う診断名も頻繁に世間に知られる様になった。現在は不安神経症と言う診断名は使われず、精神医学で<不安障害>と言う診断名が正式に使われている。要するに繰り返すから障害になる訳だ。
医療業界ってインテリ&マウント気質なので、心療内科の様な歴史の浅い科目は下っ端扱いされて肩身が狭いのが実情なのかもしれない。だから気位の高い内科は、心療内科への受診を積極的に薦めたがらないのではないか?

それで困るのは患者の方で、症状は寝ても覚めても治らない。それでいて検査には振り回されると言う悪循環な訳で救われ様が無い。私の場合、結局、大病院へ行かされ、一カ月にも及ぶ検査をさせられた。結果報告には更に時間を要する。もう待ってられない私は思い切って大病院に電話した。

「症状が辛いんですけど、何とかならないんですか?」

すると、こう返ってきた。

「心療内科へ行った方が良いんじゃないでしょうか?」

この段階でようやく心療内科への示唆が出て来た。

私はすぐに最寄りの心療内科クリニックへ電話し、予約を取り、診察に漕ぎ着けた。事の事情を話すと「軽度のパニック障害ですね」と診断された。症状に適した抗不安薬を処方され、それを飲み続けると日に日に良くなって改善していった。この経過を辿るまで随分遠回りをした様な気分に陥った。と同時に内科への不信感も湧いてきた。
元を正せば、医療の基本は内科である。今現在ある多くの科目は内科から枝分かれして、より詳しい専門的な治療が出来る様に創設されていった。それ自体は良い事だ。だが内科は、もう少し総合的に頑張るべきであると思う。体調不良が必ずしも器質的な要因ではなく、心因から来る事もあると言う事実を、もう少し受け止める姿勢を持って頂きたい。私自身、検査は重要だと思うし、その検査結果から、どう診断を導き出すかが医師の腕の見せ所な訳だから。

嫌な言葉だが、医者の当たり外れなんて言葉がある。こんな中傷が出て来るのは、残念ながら粗末な診断をする医者が何処かに居たから出てきてしまう。検査の結果、よく判らんから大病院へ行ってこいと言うのであれば、最初から大病院へ行けばイイだけの事だし、何の為のクリニックなのか判らないではないか。それでいて大病院は、いきなりこっちに来ないで先にクリニックで診て貰ってこいと言う。いきなり来て診ない訳ではないが、余分に診察料を頂くと言うやり方をしている。
私が訴えたいのは、柔軟な連携を医療現場はすべきだと言う事で、検査を理由に患者を振り回してはならない。心臓や肺の不調を訴えて、いきなり心療内科へ飛び込む患者はまず居ない。まず専門の科へ飛び込むのが常識だし、そこで異常が無いのならば、行くか行かないかは別にして、速やかに心療への道標を作っておくべきだと私は思う。特に内科と心療内科は良いタッグパートナーとして積極的な連携をすべきである。そう願って止まない今日この頃。

ロストボーイと言うタイトルから吸血鬼を連想する人は殆ど居ないだろう。

日本語で訳すと<失われた少年>。この映画が制作された80年代、アメリカで少年少女の失踪事件が続発していた。戻ってこない、帰って来ない少年少女達。消えた場所の殆どが盛り場、ヒッチハイク、行楽地などで、いわゆるシリアルキラー(連続殺人者)によって殺され、人の寄り付かない場所にバラ撒かれたのだろうと言うのが定説になっていた。そこに着想を得て作られたのが87年作のロストボーイだった。つまり少年少女は吸血鬼によって葬られたのだと言うファンタジーな設定。
 

物語の舞台はサンタカーラと言う街。ルーシー、マイケル、サムの母子家庭は、この街にやって来た。母親のルーシーは夫と別れ、二人の子を連れて父の住むサンタカーラに帰って来た訳だ。ルーシーの父は変り者で、妻に先立たれ、動物の剝製や、何処からか集めてきた趣味だかゴミだか判らないガラクタや木材を部屋に飾り、新しい恋人を作って悠々自適な生活をエンジョイしていた。

実家に帰ってきた三人は、それぞれが動きだす。ルーシーは仕事を求め、夜のサンタカーラの遊園地に来ていた。サンタカーラは他所とは変わった街だった。昼間は賑やかで明るいが、夜になると不気味な霧が立ち込め、昼間の賑わいが嘘の様な街に変わる。この街で困った事が起きていた。アッチコッチに張り出されている<尋ね人>の張り紙と、行方不明の少年少女達の顔写真。それを見たルーシーは憂鬱になってきた。

夜の遊園地を歩いているとビデオ屋の前で子供が迷子になっていた。母性本能をくすぐられたルーシーは子供を介抱し、目の前のビデオ屋に飛び込む。

「すいません。この子が迷子みたいで・・・」

そこまで言うと丁度、子供の母親がビデオ屋に入って来て、礼を言うとスッと出て行ってしまった。ビデオ屋の店主は迷子の子供に「はい、これ」と言って飴を渡す。直後、四人の不良グループが店内に入ってくると、「此処には来るなと言った筈だ」と一言。不良のリーダーは不敵な笑みを浮かべて無言で去って行く。

「困った奴等だ。今時の若い子たちは」

「私も若い頃はそうだったわ。でも今の人達は御洒落」

「優しいんですね。私はマックス」

「ルーシーよ」

「此処はビデオ屋です。古い物から最新の物まで何でも揃ってますよ。どうぞ見ていって下さい」

「実は探しているのはビデオじゃなくて・・・」

「仕事?」


マックスは眼鏡を掛けた長身の中年紳士で、二人はロストボーイに成りかけた子供を切っ掛けに仲良くなっていった。

 

 

一方のルーシーの長男・マイケルは愛車のバイクに乗って、母と同じく夜のサンタカーラでバイトを探していた。街を歩くマイケルは弟のサムと合流し、通り掛かったコンサート会場で足を止める。そこでマイケルは不思議な魅力を持った17~18歳くらいの女に目を止める。女はマイケルの視線に気付いた様だった。コンサートを出てサムと別れ、帰宅する際中、遊園地の道端でピアスの穴を開ける少女を眺めていると後ろから声を掛けられた。

「ボラれるわよ。穴開けたきゃ私がやってあげる」

その女は、先ほどマイケルが魅了された女だった。名前はスター。切っ掛けを掴んだマイケルはスターをデートに誘おうとするが、直後、四人の暴走族に行く手を阻まれる。

「何処へ行くんだ、スター」

穏やかな口調だが、奇妙な威圧感があった。言い放った男は四人のリーダー格・デビット。マイケルは無視して行こうとするが、デビットが再びスターの名を呼ぶと、スターはマイケルのバイクを降り、デビットのバイクへと向かう。デビットは勝ち誇るでもなく、マイケルに言う。


「海に突き出たハドソン岬を知ってるか?」

「このバイクじゃ追い付けないよ」

「競争しようってんじゃねえ。いいから後から付いて来い」


デビット達とマイケルのバイクは唸りを上げ、海岸の砂浜を疾走し、霧の立ち込める森を突っ切って行く。岬まで来るとマイケルとデビットのチキンレースが始まった。両者はバイクのスロットルを全開。スピードを緩める気配を見せない。横並びになる両者。マイケルはチラチラとデビットの表情を伺うが、デビットの表情は冷静だった。何故か判らないが、まるで自分の負けは無い事を確信しているかの様な余裕に満ちていた。遂に岬の先端まで迫ってきた両者。だが霧が濃くて前が見えない。余裕の急ブレーキで止まるデビット。マイケルは横倒れで何とか落下を防いだ。危うく崖から死のダイブ寸前だったマイケル。キレたマイケルはデビットの頬に一発の拳を浴びせる。

「掛かってこい!」

殴られたデビットは笑みを浮かべて言う。「カッカするな。まだ先がある」

デビットに連れられて来た場所は85年前、サンフランシスコ大地震で陥没して廃墟と化したリゾートホテルだった。そこは丁度、崖の真下で廃墟の入り口には海の波が荒々しく波打ち際にぶつかっている。<危険!立ち入り禁止>の札と禁止線が引かれていた。平たく言えば洞窟の中にホテルがある。そんな奇妙な内装の中で、デビット、ポール、ドゥウェイン、マルコの四人、スターとスターの弟の様な少年・ウィザーの六人が生活しているのだと言う。デビットは奇妙な事を言う。

「イイ所だろ、マイケル。言えば何でも出て来る」

そう言って夕食を振舞おうと出してきたのは東洋の中華だった。渡された容器の焼き飯を口に入れるマイケル。直後、デビットは言う。

「ウジ虫は美味いか?」

「???」

「ウジ虫だよ。ウジ虫の味はどうだ?」


マイケルは焼き飯の箱の中を覗いた。見ると米がウジ虫の群れに変わっていた。箱を地面に投げ捨て吐き出すマイケル。だが不思議だった。地面に落ちたウジ虫は又、米に変わっていた。どうなってるんだ?とばかりにデビットを見つめるマイケル。

「すまなかった。ちょっとふざけただけだ。怒るなよな」

「ああ・・・」

「お詫びにヌードルだ」


デビットの持つヌードルの容器には大量のミミズがビチョビチョと不潔な音を立てて、のたくっている。

「おい、寄せよ。ミミズだ・・・」

「ミミズ?何言ってんだよ」


デビットはフォークでヌードルを一口。ミミズはヌードルに戻っていた。
何やら釈然としないマイケルだったが、仲間のマルコが赤い液体の入った瓶を持ってきてデビットに渡した。デビットは瓶の液体を一口飲むとマイケルに瓶を渡し、こう言った。

「これを飲めば、君も仲間だ」

何を言ってるのか戸惑うマイケル。横からスターが阻止する。

「マイケル止めて!血なのよ」

「そんな馬鹿な・・・」


マイケルは瓶の液体をグッと勢いよく飲む。一口、二口、三口・・・デビット達は拍手喝采で喜ぶ。「いいぞ!マイケル」

 

 

マイケルがデビット達と怪しい儀式をしている頃、次男のサムはサンタカーラの本屋に居た。
滅茶苦茶に並べられた漫画雑誌。店内をローラースケートで走り抜ける不良少年。サムは、この本屋に呆れていた。スーパーマンの漫画を物色していると、同い歳位の二人の少年が寄ってきた。二人は本屋の店員で兄のエドガー・フロッグ、弟のアラン・フロッグと言って、二人そろってフロッグ兄弟だと名乗る。何故か兄のエドガーがサムに関心を持つ。

「何処から来た。クリプトンか?」

初対面でブラックジョークを飛ばすエドガーは、一冊の本をサムに渡そうとする。タイトルは<吸血鬼の全て>

「俺、ホラーは嫌いなの」

「生き残る為の術だ。為になる。読んでおきな」

アランはサムに言う。「この街は、他所とは違う事に気付いたか?」

「全然。明るくてイイ街だよ」

「俺達は真実と正義と平和の為に動いている。本屋の店員は隠れ蓑だ」

「そりゃあ、御立派だね」


ルーシー、マイケル、サムの三人は、それぞれがサンタカーラと言う箱庭で、新たな出会いを果たした。三人の物語は、やがて一つの一本道へと繋がって行く。

吸血鬼には選択肢がある。血を吸って仲間にするか?只の栄養として葬るか?殆どの吸血鬼映画で両方のパターンがある。このロストボーイの吸血鬼は一味違う。御丁寧に首筋に噛みつきに行くなんて事はしない。頭に牙を立て、喉仏を喰いちぎり、首をへし折って血肉を貪る。残虐なシリアルキラーとして描かれている。

オープニングからして幻想的で、闇夜の海面を何かが飛行している。その飛行する何かはサンタカーラの遊園地に向かい、次のシーンでメリーゴーランドに四人の若者が現れる。この時点で視聴者は、この四人の若者が普通の人間ではない事を感じる。
吸血鬼と言うモンスターに飛行能力がある事は大体の人が判っている訳だが、この映画の吸血鬼はバイクを乗り回しロックに興じる。吸血鬼と乗り物の関係も中々興味深い。吸血鬼の元祖・ドラキュラ伯爵は元々、貴族出身だから馬車に鞭打って自ら運転したりする。変わった所では、スティーブンキングの短編小説「ナイトフライヤー」と言う吸血鬼モノでは、顔を見せない黒マントの吸血鬼が、夜な夜なセスナ機を運転して人間の生き血を吸いに出かけて行く。セスナ機を運転する吸血鬼・・・想像するだけでシュールな光景が浮かんでくる。やはりホラーの帝王・スティーブンキングの発想は並じゃない。
長年、吸血鬼映画を観てきたが、おそらく、この映画でしか見られない演出があって、見所の一つになっているので紹介したい。中盤、フロッグ兄弟とサムが吸血鬼の巣窟へ探索を始めるのだが、隅々まで行っても吸血鬼の棺が見つからない。そこでサムがボヤく。

「吸血鬼の棺は何処にあるんだよ」

洞窟の奥深くまで行くと行き止まりになっている。何処にも棺らしき物は見当たらない。だが鼻を突く嫌な匂いだけはしている。何処だ何処だと懐中電灯を照らすフロッグ兄弟とサム。

「畜生!上だ!」

照らした天井に吸血鬼が蝙蝠の様にぶら下がっている。

「棺で眠るんじゃなかったのかよ」

「この洞窟全体が大きな一つの棺なんだ!」


この後、フロッグ兄弟とサムがどんな行動を起こすのか?この後に展開されていくシーンは観てのお楽しみって事にして置きたい。

マイケル役のジェーソン・パトリックはメジャー級に有名なので敢えて語らないが、見所の人と言えば、圧倒的な存在感を放つデビット役のキーファー・サザーランド。日本でもジェットコースター・ムービーと話題になった<24>のジャックバウアー役で、やっと多くの日本人に認知された俳優だが、私自身は随分前から知っていて、この俳優を初めて知ったのがロストボーイだった。

9歳から子役デビューした彼だが、本当にどの役でも器用にこなし、存在感を放つ。このロストボーイの前年には有名な<スタンドバイミー>が公開され、主人公達と対立する不良グループのリーダー・エース役を演じているが、それを知っているとロストボーイは、まるで延長線上で作られた様な錯覚と偶然を感じてしまう。要するにキーファーには不良のリーダー役がハマっている。器用な彼は、このロストボーイの翌年の88年に<ヤングガン>と言うビリーザキッドと仲間達を描いた西部劇で、ドク・スカーロックと言う心優しきインテリ・ガンマンを演じている。
もう一人、この映画には当時無名だった俳優が出演している。アレックス・ウィンターと言う俳優。キーファー演じるデビットの仲間の一人・マルコ役で登場。二言、三言喋るだけで台詞は殆ど無いが、パーマのかかった金髪ロン毛を後ろに結び、バイクで疾走するシーンは中々カッコ良かった。そんな彼が、奇跡とも言える作品で一躍知られる事になる89年制作の「ビルとテッドの大冒険」

キアヌ・リーヴスの相棒を務めたビル役と言えば判る。個人的に残念なのは、日本人はキアヌ・リーヴスにしか興味を持たない事で、相棒のアレックスを取り挙げない。私なんからすれば、もう「ミスター・ロストボーイ、アレックス・ウィンター!」ってノリになってしまう。
驚いたのはサム役のコリー・ハイムの死去で、ロストボーイから23年後の2010年3月10日、肺炎で38歳の若さで世を去ってしまった。フロッグ兄弟・エドガー役のコリー・フェルドマンとは気が合うのか、ロストボーイの後も共演をしている。いっその事、フロッグ兄弟を二人がやれば良かったのにと思う。それでも違和感は無かったと思う。
 

幻の地上波放送について

地上波初放送は89年の8月26日で、フジテレビの「土曜ゴールデン洋画劇場」で放送。関東地方だけで言えば、その日を境に再放送は一切されていない。と言うか私自身も初回放送以降、一度も他の映画番組で観た事が無い。私は、この初回放送をVHSのビデオデッキで録画し、劣化を防ぐ為にDVDに焼いて保存して今でも持っている。かなりレアな物になったんだなと実感。
地上波どころかBSでもケーブルでも放送されない。おそらく劇中の音楽の権利問題がクリア出来ないからだと思われる。観ていると、かなり有名どころの楽曲が使われていて、パターン的には角川版・悪霊島のビートルズ問題と似ているかもしれない。

何故か作られた続編について?

コリー・ハイムが死ぬ前年の2009年。何を思ったのかロストボーイの続編を名乗る作品が映画ではなく、オリジナルビデオとして制作された。「ロストボーイ:ニューブラッド」「ロストボーイ サースト 欲望」という二本で、ロストボーイ大好きの私は当然観た。信じられないほどの駄作で、何故、作ったんだ?と思わざるを得なかった。

ロストボーイは、そもそも続編の必要性は無い作品だと思うし、オリジナルの終わり方を見れば十分満足。劇中に流れる音楽もカッコ良くて好きで、好き過ぎてサントラまで買った。音楽の使い方が凄く上手なのは85年の「フライトナイト」もそうで、フライトナイト&ロストボーイの二本は、80年代中期の最高峰の吸血鬼映画であり、ドラキュラ映画が終わって下火になった吸血鬼映画に息を吹き込み、その後の吸血鬼映画に大きな影響を与えた双璧だと私は思う。

 

前作から3年後、フライトナイト2(88)が日本の映画館で公開された。物語の設定も3年後。5年や10年ではなく、何故、3年後なのかと言えば、公開されたのが3年後だから物語も3年後になった。
この作品、公開された事すら知らなかった人も多かったかもしれない。何故なら殆ど宣伝もされてなかった。私は前作が大好きだったので目敏く察知して「え?フライトナイトの続編やるんだ!」と子供ながらに興奮し舞い上がった。宣伝は全くされなかったのではなく、深夜枠の映画番組の中で、今年の新作映画としてチョロッと宣伝された程度だった記憶がある。

それに比べれば、前作はメジャー番組でも宣伝されていた。80年代、水の江瀧子が司会をしていた「独占!女の60分」と言う土曜日の昼番組で、フライトナイトが取り挙げられていたのを観た事がある。フライトナイト2は、ファンからすれば気の毒なほど取り上げて貰えなかった。今思えば、88年と言う年はフライトナイトの地上波放送が初めてされた年で、その放送番組がテレビ朝日の「日曜洋画劇場」だった事は前回書いたが、同年に2作目が公開と言う理由もあったのだろう。

もう一つの理由は、同年にフライトナイトの監督をしたトム・ホランド監督の新作「チャイルドプレイ」が公開予定だった事で、テレビ朝日が随分と熱心に取り上げていた。トム・ホランドは、フライトナイトで起用したクリス・サランドンを偉く気に入ったらしい。ジェリー・ダンドリッジと言うイカした吸血鬼を見事に演じた彼に、チャイルドプレイでは悪と戦う刑事役を与えた。映画の魔力とは凄いもので、刑事に扮したクリス・サランドンを、どうしても吸血鬼として見てしまう。それだけフライトナイトのダンドリッジが強烈なインパクトとして残った訳だ。
 

興行的には失敗で駄作扱いされがちなフライトナイト2なのだが、私の様にフライトナイト愛が強い奴からすると駄作ではない。駄目な所よりも良い所を探して評価してあげたい想いが強い。作品の救いとなったのは前作の顔でもあるチャーリー役のウィリアム・ラグズデールピーター・ビンセント役のロディー・マクドウォールが揃って同じ役で登場してくれたのは嬉しい。この二人が出るとフライトナイトを観ていると言う実感がある。吸血鬼になった友人のエドは前作で死んだから出ないのは判るけど、チャーリーの彼女だったエイミーが居ない。何処に行ってしまったのか?その下りが語られる事はない。シレっと居なくなっているのである。

チャーリーは高校を卒業して大学に入学し、寮に入って大学生活を満喫していた。同時に精神治療に専念していた。三年前の事件が夢の様であり現実の様でもある。チャーリーは事件を忘れたかった。あれは「吸血鬼が居る」と言う妄想だった事にしたかった。ダンドリッジを倒す為に使った小道具をドサリとゴミ置き場に捨て、新しい彼女のアレックスと楽しい日々を送っていた。

チャーリーはアレックスに紹介したい人が居ると告げる。共に戦った吸血ハンターのピーター・ビンセントだった。ピーターは芸能界に復帰し、復活したオカルト番組・フライトナイトのホストとして活躍していた。ピーターとチャーリーは三年前に起きた出来事を酒の肴に、嘘みたいな話をアレックスに語る。

ほろ酔いになったチャーリーは、ふと窓の外に視線を向ける。奇妙な光景だった。ピーターの住む高級マンション前に一台の高級車が止まり、ボディガードに守られながら女がマンションに入ってくる。チャーリーの頭の中で三年前がオーバーラップする。

「あの時と同じだ・・・」

3年前、近所の空き家にやって来たダンドリッジも、そんな風だった。それが惨劇の始まりだった。「まさかな・・・」とチャーリーは想いに耽る。こんな感じで物語は始まっていく。
 

前作の良さは、作風が何処かハイスクール物語っぽく、そこに吸血鬼と言う不自然な異物を放り込んだ。結果、ハイスクール・ホラー映画になった。続編のフライトナイト2はアダルトチックな雰囲気で、観てて恥ずかしい位の濃厚なキスシーンも多い。

ラスボスの女吸血鬼・レジーンを演じたジュリー・カーメンが、とにかく色っぽい。錯覚してしまうのは、前作でダンドリッジ役を演じたクリス・サランドンとよく似ている。唇と目元の辺りなんかは特にそう感じる。設定でレジーンとダンドリッジは兄弟で、妹のレジーンが1000歳の兄・ダンドリッジを殺したチャーリーとビンセントを殺しに来た訳だ。
レジーンは三人の従者を連れてきた。フランケンシュタインの怪物を彷彿させる虫食いの大男・ボズワース、飄々とした狼男のルイ、沈黙の吸血鬼のベル。後の吸血鬼映画を観れば、吸血鬼が単体ではなく群れを成して行動すると言う走りが、もしかしたら、この映画だったかもしれない。

今作は吸血鬼退治のアイテムも充実している。特徴的なのは、十字架の様に<見せる>よりも<物理的に触れさせる>撃退法が重視されており、聖水も御馴染みの小瓶ではなく、噴射式の高威力のタンクに変えられ、心臓にブチ込む木の杭もボウガン式になって格好良くなった。変わったアイテムと言えば、教会に設置してある<旗の様な織物>を駆使して、突進してくる吸血鬼を包み込んで溶かす。これは新しくって観た事が無いなと思った。ナイスな発想である。
 

見所の人と言えば、まず従者のルイ役を演じたジョナサン・グリース。この映画では昔の志村けんの様な風貌で登場するのだが、キャラ的に印象に残った。で、最近、この人をアル映画で見掛けた。リーアム・ニーソン主演のシリーズ「96時間」で、リーアムの仲間としてスキンヘッドになって登場した。それを見て私は「あ、フライトナイト2のルイだ!」と思わず飛び上がった。63歳になった現在、業界でちょっとした偉い存在になったらしい。顔つきも昔より男前になっている。

もう一人注目なのは、ボズワース役のブライアン・トンプソン。この人は一番有名なのはシルベスター・スタローン主演の「コブラ」で、いかついスラッシャーを演じ、最後に工場でスタローンと戦った男。個人的に好きだったのは90年作の「地獄の女囚コマンド」で、女囚たちの隊長役を演じていた。この映画、今はやらなくなったけど、関東地方ではテレ朝の深夜映画で度々放送していたのを憶えている。それにしてもアーノルド・シュワルツェネッガーと、これほど似ている男を見た事が無い。どうしてこんなに似てるんだろう?と、昔から思っている。63歳の今も現役で活動中なのは、ブライアン・トンプソン好きとして嬉しくなる。
 

所で、2011年にフライトナイトのリメイクが出た後、同名のフライトナイト2と言う吸血鬼映画が出た。AMAZONなんかで検索すると出て来るけど、興味のある方は要注意。観たから書くけど、タイトルだけ借りた全く別物の話で、全然、オリジナル版と関連が無い。

今回書いた88年版の方は、アメリカの方ではDVD化されているのだが、日本版が発売されない。更に吹き替えの地上波放送も一度も無い。筋からすれば、最初にフライトナイトを放送したテレビ朝日が手掛けるべきだが、全くスルーされて今日に至っている。これは吹き替え版を是非、観たかった作品である。

 

子供の頃からドラキュラが好きで吸血鬼映画は沢山観てきた訳だが、記憶が正しければ、十字架が効かない吸血鬼映画って、これが最初じゃなかったか?と思う。それがフライトナイト(85)。リメイクもされたが、断然、オリジナル版の85年版の方が面白い。
正しくは十字架が効かないのではなく、使う者によって効果が違うと言う事らしい。フライトナイトと言うタイトルは劇中のオカルト番組の名前で、その番組のホストを演じているのがロディー・マクドウォール演じる自称・吸血鬼ハンターのピーター・ビンセントと言う芸能人で、滑稽な事に彼自身が吸血鬼の存在を信じていない。そんな彼の元に「隣に吸血鬼が居るから殺してくれ!」と訴えるチャーリーと言う高校生が現れる。イカレタ小僧がやってきたと、その場を逃げる様に去って行くビンセントだが、チャーリーを心配する友人のエドとエイミーに「助けてくれ」と懇願され、渋々と重い腰を上げる事になった。

頼みのビンセントを加えたチャーリー達は、問題の吸血鬼の住む家に出向き、その家主が吸血鬼ではない事を証明させる為に、教会から持ってきた聖水を目の前で飲んで貰う事になった。家主は小瓶に入った聖水をゴクリと一飲み。実は聖水は偽物で、ビンセントと家主のジェリー・ダンドリッジの間で事前に仕組まれた芝居だった。

呆気にとられるチャーリーは「嘘だ・・・聖水じゃないんだ」と一言呟くと、ダンドリッジに向けて「吸血鬼じゃないなら、これに触ってみろよ」と信念を込めて十字架を前に出す。するとダンドリッジは表情を変え一歩後ろへ後退する。この場面は、この映画の見所の場面の一つで、信仰心を持つ者のみが十字架で吸血鬼を怯ます事が出来ると言う手本を示す。
 

吸血鬼映画は、ドラキュラの大御所俳優・クリストファー・リーが「新・ドラキュラ 悪魔の儀式」(73)と言う作品を最後に、一旦低迷期に入る事になる。

その後も吸血鬼映画は作られていくが、どれも駄作の域を出ない。80年代に入るまで長い氷河期に入ってしまった。85年、吸血鬼映画のタブーを破る作品が登場する。それがフライトナイトなのである。二年後の87年には、もう一本の優秀な吸血鬼映画が登場する。それが「ロストボーイ」と言う作品。

今から思うに、この両作品は、その後の吸血鬼映画に革命を起こしたと言っても過言ではない。それまで吸血鬼映画はドラキュラ伯爵の様なオールバックに黒マントと言う貴族的なイメージが定着していたが、フライトナイトは舞台を普遍的な日常に移し、近所の空き家に、女にモテそうな魅力的な男がやって来たと言う設定に変えた。この映画の吸血鬼はジョークも飛ばし、ダンスも踊る。そうかと思えばガブリと嚙みついてくる。設定を変えながらも、しっかりと吸血鬼映画の決まりごとは守っている訳だ。

90年代に入ってから、納得のいかない吸血鬼映画が続々と登場する。コッポラ監督の「ドラキュラ」(92)は、十字架をいとも簡単に燃やし尽くす。同じ事を「バン・ヘルシング」(04)でもやっていた。極めつけは、ウェズリー・スナイプス主演の「ブレイド」(98)で、吸血鬼が太陽の下を平気で歩いている。劇中で、どう言う細工なのか聞かれると、体に蝋を塗っているから太陽光線を防げているんだと言う。全く説得力が無い。フライトナイトの吸血鬼・ジェリー・ダンドリッジの方が理路整然としている。十字架は見せるだけでは効果が無い。信仰して無ければ只のオモチャだと凄む。観る側からすれば「なるほど!」って感じになる。
そこで、ちょっとした吸血鬼の豆知識を書くと、こんな感じになる。

1:怪力になる

吸血鬼は怪力である。どんなデカイ人間も片手で軽々と投げ飛ばす事が可能。人や物を投げる遠投力だけでなく、「物体を握り潰す」、「閉じてある窓を無理やりコジ開ける」なんて事も可能である。

2:鏡に映らない

吸血鬼は元々「死んでいる存在」からなんだと考えられる。この現象は他の吸血鬼映画でも頻繁に見られた。もはや定番である。フライトナイトでも、ジェリー・ダンドリッジがバンパイアであるかどうかの実験結果に安心したビンセントが、手鏡で髪をセットしようとした所、ダンドリッジだけが映らないという場面がある。

3:変身について

吸血鬼にはランクがある。何に変身できるかは階級によって違う。蝙蝠、人間、狼、霧など。同じ吸血鬼でも階級があるらしく、ダンドリッジの様な上級は様々な形態に変化させる事が可能で、噛まれて吸血鬼になったエドの様に、下級バンパイアは一旦変身すると容易に元には戻れないらしく、ビンセントに返り討ちにあって以降は醜い姿のままで再登場する。ちなみにエドは狼に変身した。

4:ボディーガードが必ずいる

日中の間、活動できない吸血鬼は、危険防止の為に何者かに守らせる必要がある。レトロな吸血鬼映画で殆ど確認できている。ドラキュラ映画では背虫男のような小男が番人で、他には番犬のケースもある。フライトナイトでは同居人のビリーの存在がソレに当たる。吸血鬼を昼間殺すには、まず番人を倒さなくてはならない。

5:吸血鬼の進入経路

吸血鬼は勝手に人間の部屋に進入してくると思われているが実は違う。最初に家人に何らかの形で招かれない限り、その家に侵入する事が出来ない。フライトナイトの場合、ダンドリッジはチャーリーの家に侵入する為に引越しの挨拶と偽って侵入し握手をしている。これで準備が整った訳である。

6:冷水が苦手

これは「ドラキュラ72」と言う映画で確認出来たのだが、冷たい水を浴びせられると吸血鬼は死んでしまうらしい。吸血鬼と水の因果関係がよく解らないのだが、とにかく冷水に弱いらしい。そう言えば、フライトナイトでダンドリッジは、聖水を飲む前に暖炉で温めていたのだが、ひょっとして聖水も温めると効果が無効になるのかもしれない。

7:銀に弱い

銀に弱いと言えば狼男が典型だが、吸血鬼も銀に弱い事をピーター・カッシング演じるヘルシング教授が語っていた。銀の弾丸に限らず銀のナイフと言うのも効くらしい。裏技として、銀がすぐに入手できない場合、銀製の十字架を溶かして弾丸を作ると言う方法もある。

8:薔薇に弱い

これは以外だった。続編となったフライトナイト2では、口のなかに薔薇の花を突っ込んで撃退する場面が見られた。目新しい弱点発見と言った所だが、実の所、薔薇による撃退は73年作の「新ドラキュラ 悪魔の儀式」で既に披露されている。何故、薔薇なのか?キリストが磔にされた時に被っていたのが薔薇の冠で、聖なる象徴の関連アイテムとして悪魔が苦手にしていると言う理屈かも知れない。

9:親・吸血鬼を倒す

要するに吸血ウィルスを撒き散らした元を叩けば良い訳だ。親玉を倒せば呪いが解ける。この「親・吸血鬼」と言う言葉は、ロストボーイで始めて耳にした。又、なり掛けているのを「半・吸血鬼」と言う呼び方をするらしい。アメリカの有名作家・スティーブンキングの原作「呪われた町」では、親玉を殺しても噛まれた者は元には戻れないと言う反逆のルールを採用した。キングも吸血鬼が大好きらしく、解説によれば、親を倒せば元通りと言うシステムに納得がいかなかったそうだ。結果、秀作になったから、それで良し。
 

フライトナイトは人気があるんだか無いんだか、度々、仕様を変えてDVD化されたりブルーレイ化されたりするのだが、これだけ発売されても<吹き替え版>が、どれも入っていない。初回放送は淀川さんが解説していた日曜洋画劇場で、それ以降は、放映権がTBS、テレビ東京へと移っていった。

この吹き替え版は当時、VHSで録画し、それをDVDに焼いて保存して手元に置いてあるのだが、声優陣が豪華で面白い。主人公のチャーリーには大塚芳忠、ジェリー・ダンドリッジには安原義人、ピーター・ビンセントには羽佐間道夫、エドには三ツ矢雄二。今となっては中々揃わない豪華声優陣だろう。この吹替バージョンが何故、市販で使えないんだろう。やっぱり金が掛かるのかな。
2011年に、この映画のリメイクが公開された。「フライトナイト 恐怖の夜」と言うタイトル。当然、観た訳だが、ジェリー・ダンドリッジを演じたコリン・ファレルは悪くは無かったが、オリジナルのクリス・サランドンと比べると、やはり品格は落ちる。全体的に乱暴な雰囲気で、オリジナルの様なドラマ性が無い。とは言え、映像技術も80年代とは比べ物にならないほど進化したので、その辺の<見て楽しむ面白さ>は、あったとは思う。

所で、このリメイク版。特別出演でクリス・サランドンが出ている。通りすがりの男で、コリン・ファレル演じるダンドリッジに襲われ死んでしまう役で登場。こう言う所でファンを喜ばせている。

カルト映画になったフライトナイトは、今でもアメリカで大人気で、ファン主催のイベントも行われる。当時の出演者も招かれ、懐かしい撮影秘話なんかを披露している。私の様なファンには堪らない催しである。クリス・サランドンについて興味ある方は、このブログのカテゴリーに別枠で書いてるので、宜しければ読んで頂きたい。

 

金田一映画にピリオドを打った角川版・悪霊島(81)から一年後の82年。限りなく金田一っぽい映画が公開された。それが「この子の七つのお祝いに(82)」と言う作品。
この映画、角川が単独で制作した作品かと長年思っていたが、調べてみると配給が松竹で、制作が松竹と角川事務所となっているので、共同作品だったのかと今更ながらに知った。金田一っぽく感じるのは当然で、この作品は同年、新たに創設された新人賞「横溝正史ミステリー大賞」の第一回受賞作品との事で、箔をつける為に相当入れ込んで制作した背景が伺える。

一言で評価すると、救いようの無い絶望的な物語。不思議なのは、陰惨な殺人事件にも拘わらず、その捜査をしてるのが警察と言うよりは外部の人間で、ルポライターと新聞記者が事件の真相に迫ると言う内容。観る側からすれば、それって誰が主人公で、誰に感情移入したらいいの?って感じになる。金田一の様な名探偵が居なくてもいいから、せめて警察関係者が事件の真相を追っていくべきなのではなかろうか。
原作を書いた斎藤澪(さいとうみお)と言う作家を調べてみると、81年に「この子の七つのお祝いに」でデビューし、97年を最後に作品が途切れている。作家活動をしていないと言う事は、現在、作家を引退したんだろうか。

作家の立場になって考えてみれば、敢えて名探偵や腕利きの刑事を登場させず、マスコミ関係者に事件の真相を迫らせる手法が斬新だったのかもしれないが、結果、物語はどうなったのかと言えば、誰も救われない結末となってしまった。謎が解かれ、真犯人が判っても、傍に刑事が居ないので逮捕のしようもない。追い詰めた記者も犯人も呆然としながら終わると言うのも如何がなものなのか。視聴者は「その後、どうなった?」が知りたい訳で、話のオチが無い。

例えば横溝の金田一作品であれば、どんな陰惨な殺人事件の話でも、最後は大団円となって爽やかに終わっていく。それは要するに、作者が見る側に対し「ホッと出来る逃げ場」を提供する配慮であり、それがあるから観終わった後に「面白かったね~」と言う気分になって満足し、語られていく作品となる。
 

前年公開の悪霊島から引き続き岩下志麻が狂女を演じる本作だが、どう考えても意図的な起用で、この80年前後と言う時代は、岩下志麻が<怖い女>を積極的に演じた時期でもある。角川春樹も著書で当時の岩下志麻を語っており、「悪魔と言ったら岩下志麻だろう」と感想を述べている。そういう背景を経て、御存じの傑作「極道の妻たち」の姉さん役へと繋がっていく訳だ。

「この子の七つのお祝いに」においては、岩下志麻ですら凌駕してしまった存在が岸田今日子で、いわゆる妖怪的なキャラを演じている。多分、岸田今日子と言う女優は子供が見て怖がるタイプで、私自身が正にそうだった。

 

当時、小学生だった私は岸田今日子を心底恐れたのである!

 

あの表情、あの声、それを彩るかの様に唐突に映し出される無表情の日本人形。更に<通りゃんせ>の歌。子供心に強烈なトラウマとなった。

だが、大人になって、この映画を普通に観れる様になった。すると岸田今日子と言う女優の事を知りたくなった。俳優養成所の名門・文学座の出身であり、相当な技量を持った役者である事が判った。あの山崎努が文学座で食えなかった時期、疲れ果てて落ち込んでいる山崎に、2000円をそっと握らせてくれたのは岸田今日子だった事を著書で明かしている。
90年代、岸田今日子は役者活動の他にバラエティー番組に顔を出す様になった。仲の良かった富士眞奈美、吉行和子と三人で、旅番組や、食べ歩き番組で、楽しそうな表情をしていたのを見て、氷が解けるかの様にホッとするものがあった。2006年に76歳で死去。後にも先にも居ないタイプの女優であった。