人類はこの先、どこに向かうのか                            仲代 章

・時代は変わる 
 私の自伝的な内容である「あの頃の私」の中でも述べているが、世の中のすべての物が著しく変化してきた。例えば、普段日常で使っている生活用品である。
 60年前までは、我が家に扇風機はなかった。勿論、クーラーやエアコンもなく、熱帯夜になると寝苦しく、団扇であおぎながら寝たものである。

  蚊の対策は、蚊帳を吊って蚊取り線香に火を付けた。蝿には、便所に湧いている蛆虫に乳剤を散布して、天井には蝿取り紙を吊るした。たまにそれが頭の毛に絡んで難儀した。
   冬になると、火鉢に豆炭を入れ火をつけて手元の暖を取り、やかんで沸かした湯を湯たんぽに入れ布団の足元を温めた。
   家の中の小さな埃やゴミは、はたきと箒を使い塵取りで取ったのであり、電気掃除機はなかった。
   ご飯やおかずも、かまどで炭や木材を燃やしてお釜やお鍋で炊いていたので、出来上がるのに時間がかかった。電子ジャーや給湯器、電子レンジなどのような電化製品が売り出されるのはずっと後になる。
   冷蔵庫も電気冷蔵庫ではなく、氷屋で買った氷を中に入れて食品を冷やすものであった。当然、冷凍庫は付いていなかった。
   洗濯も洗い物をタライと洗濯板で洗い、手で絞って竿竹に干した。その後、電気洗濯機が出てきたが、洗った物を付属のローラーに入れて手で回して絞った。全自動の乾燥機付き洗濯機が出てきた時は、スイッチを入れるだけで用が済むので時間のゆとりができた。
 トイレは汲み取り式で、溜まった糞尿を農家の人が長柄杓で汲んで肥桶に入れて持って帰った。それを作物用の肥料に使ったのである。今日では、糞尿は下水道管を通って水再生センターで処理され、川や海に流されている。
   トイレットペーパーなどはなく、「落とし紙」と呼ばれるザラザラしたちり紙を使った。最近はトイレの機能も多様になり、ウォシュレットが付いたものが主流になってきた。
   娯楽は、映画鑑賞が主流であった。ラジオ放送は既にあったがテレビ放送はなく、童謡や流行歌はラジオで覚えた。
   テレビが売り出された時はまだ高値の花であり、街頭に置かれた1台のテレビに群がった大人たちが、プロレス中継を熱狂的に観ていたようだ。
   その当時は画面が白黒であったが次第にカラーになり、ブラウン管も薄型の液晶に変わって、番組の録画が出来るDVDレコーダーも普及してきた。                        
   先程の洗濯機のように決めた時間にオン・オフが入る機器がたくさん出回り、自宅にいなくても自動的に仕事をしてくれるので助かった。
 更に、車、鉄道、フェリー、旅客機などの移動手段が作られて、『この時代に生まれてきて良かった』と思うことが沢山ある。昔の人は、そのような器具や機械もなく暮らしていたのであり、そう思うと文化の発展は、人類にとって非常に有難い事だと感じる。
 このように電化製品の開発によって、日常の生活がとても楽になってきたのであるが、その中でも、特に著しく進化してきた物が伝達手段である。
 江戸時代までは、相手に伝える方法は手紙でしかなかった。その手紙を飛脚が担いで運び、遠い所になると届けるのに何日もかかったのである。                
   明治になって郵便制度が始まり、鉄道などの交通機関の発展により届くのがより早くなった。
 同時に電話機も設置されたが、少ない数であった上に限られた場所だったので一般庶民には無縁の代物であった。数年後、公衆電話が各地に置かれ、庶民にも利用できるようになる。料金も高くなく10円玉一つで繋がった。
 私が小学生の頃は、誰かに何かを伝えたい時は、遠くの電話ボックスに行くか、固定電話機を置いている家に頼み込んで使わせて貰った。その場合は、会話の内容がそこの家の人に丸聞こえになるので、恥ずかしかったものである。
  その後、ポケットベルなる通信機器が出回ったが、主に仕事をする人が利用する器具であり、相手に「電話をして欲しい」と合図を送るだけの代物だった。
   携帯電話が出てくるのは、それよりずっと後になる。まるで大きなトランシーバーのような形をしていて、高額であったので一部のブルジョワしか持てなかった。
 格段と安くなって出てきたガラケーは、各社が価格の安さで競い合って1円で買える機種も登場した。
 その後継機であるスマホが誕生してからは、様々な機能が搭載されて普及も早かった。本来の通話は勿論、用途によってTwitter、Line、Instagram、Facebook、YouTubeなどが選べて、多くの老若男女に使われている。現在では、その利用が欠かすことが出来せないメディア機器になっていると言える。
 もし、江戸時代に生きていた人がタイムスリップでこの時代に来たなら、空を飛ぶ飛行機や整備された線路を鉄で出来た電車が走っているの見て驚き、遠方の人と会話ができるメディア機器にびっくり仰天することだろう。
 これからも、更に優れた機器が発明されて利用されていくのだろう。特に人工知能を持ったAIが開発されて、様々な分野で活躍して人類の暮らしは今以上に楽になるに違いない。
   しかしその反面、それに関連した犯罪が起きている事実も否めない。発信者が誰なのか特定されないように相手を中傷・誹謗したり、コンピュータウィルスによって企業の中核になるシステムに不具合を起こさせるというサイバー攻撃をしたりと、SNSを利用した卑劣な犯罪が多発しているのであり、その被害件数は、計り知れない程多い。
   また、振り込め詐欺のような事件も起こっていて、そのような詐欺行為は、手を変え品を変えて、更に増えていく傾向にある。
   このように、便利な機器も人類に仇なす物となるリスクがあって、手放しでは喜べないのである。
   この先、人類繁栄の役割を担うべきAIが、戦争に悪用されないことを祈るばかりである。

 

・終わらない戦争
 毎日のようにどこかの国で戦争が起こっている。そのニュースを見る度に、『いつまで続けるのか』と腹立たしい気持ちになってくる。
 何の罪もない幼気な子どもやその両親、病気で動けない老人が無慈悲な砲撃を受けなければならないのは、一体、どういう理由なのか。
   戦争の要因は様々であり、一口に説明することはできない。また厄介なことに敵対する双方に言い分があって、終結するのは非常に困難である。それでも、同じ人類同士が殺し合うのは頂けない。
 大昔、人類が誕生した頃は、食料になる獲物の狩り場や採集の場を奪い合って争ったようである。
 村や国ができ、今度は隣の村や隣の国を敵として争うことになる。負けた村や国の人々は、他の土地に逃げ込むか奴隷として働かされるかになった。
 常勝する国の中から、世界を制覇しようする者が現れた。巨大な軍事力を持って、自分の領土を拡大しようと企てた独裁者である。
『多くの国をひとつの国に統一する』というのは聞こえがよいが、万民の為ではない。重い税を課して、絶対的な富と権力を手に入れようとしたのである。
   要するに、すべての国や人民を自分の思うように支配したいという権力者の欲望に過ぎないのである。
 異なる宗教の対立から起こった戦もあった。ユダヤ教の旧約聖書にある『汝、殺すなかれ』は、「例え敵であっても殺してはならない」という人類愛を述べている。キリスト教の新約聖書やイスラム教のコーランにも同様の戒めが書かれているようである。
  ところが、それとは真逆の殺戮が行われていた。自分たちが信じる神が正しいのであり、他は邪教で排除すべきと双方が思っていたのである。
  また、目指す社会体制の違いから、一つの国が二つに分かれて戦争になったこともあった。資本主義国と共産主義国が双方の後押しをして、同じ民族や人種でありながら泥沼のような殺し合いになったのである。
   このように『戦争の火種』が世界中で燻っているのであるが、それが大きく燃え上がるのを手薬煉を引いて待っている漢がいる。
 それは、『死の商人』と呼ばれている者たちである。武器を売るのを生業として、人が何人死のうがお構いなく、莫大な利益を得て喜ぶ大悪人である。その存在が戦争が起こる要因となっていて、武器売るために戦争をけしかけていることもあるようである。
『戦争は残酷である。平和な世界を破壊するのであり、すべきでない』
そのことは、良識のある人なら誰でも分かる事である。それなのに何故このような悲惨な事が蔓延るのか。
 仮に、地球上に人がひとりしか存在しないとしょう。争う相手がいないので戦争は起こらない。その人の寿命が尽きるまで、平穏に日々が過ぎていくだけである。
 もし、人が二人いたなら、喧嘩になったり、殺し合いになったりするかも知れない。
 現在、人類の総人口は80億人を超えている。そのすべての老若男女が手をつなぎ合って仲良くしている訳ではない。差別、虐待、いじめ、パワハラ、モラハラ、セクハラなどが日常的に行われていて、その被害は後を絶たないのである。
   紀元前5世紀頃に出現したとされる釈迦は、このように述べた。
「人は、自分が思うままには生きられない。誰もが老いる。病気にもなる。必ず死を迎える」
  所謂『生老病死』である。人はこの四つの苦を背負って生きているのであり、その道のりは平坦ではなくとても険しい。
 更に釈迦は、人間の本質についても述べた。人は必ず、「物欲」や「性欲」といった『煩悩』を持つものであると。
   優越感、劣等感、自尊心といった『煩悩』は、人を対立させる。時には争いになって、悲惨な結末に至ることもある。
   そのようにならないためには、『煩悩』を断ち切ることである。釈迦はそれを『解脱』と言ったが、それによって精神が自由になり、迷いから離れられるとする。
 しかしながら、すべての人が釈迦のような悟りの境地になる事など有り得ない。幼い子どもや認知症の老人もいるのだから、無理である。
 それでも、「人は、『煩悩』の赴くままに生きてはならない。その結果、他人との間に軋轢が生じて衝突する事になってしまう」と戒める。
「喜怒哀楽を表すにも、過度な態度を取ると他人に嫌悪感を持たすことになる。何事においても、節度をわきまえなさい」と、いうことなのだろう。
 釈迦は、民衆に「慈悲」を説いてそれを広めようとしたが、その後に現れたイエスは、「博愛」を理念として、その教えを弟子たちに伝道した。  
「同じ人類どうしが争ってはいけない。憎しみ合うのではなく、助け合いなさい」
と諭したのであるが、現実は争いが絶えがない。全ての人がイエスや釈迦のような人格者になるのは不可能なのである。
 今なお、人と人とが、人種と人種とが、民族と民族とが、国と国とが、宗教と宗教とが何らかの理由で敵対して争っている。同じ国や民族の中においても、内紛が起こって殺し合っている。
 世界中で毎日のように悲惨な争いが起こっていて、終わりが見えない。その要因は、支配欲、独占欲、自己顕示欲を強く誇示する者の存在である。
 国民のすべてが、『政府の政策に満足している』という国はまずないだろう。どこの国でも、不満を持つ反対派はいるものである。
 一時、ブータンの国民が世界一幸福であると評価されていたが、そんな国王がいる国は僅少である。反対に、大統領とその夫人が国民の税金で贅沢三昧をしていたという酷聞は、よく耳にする話であるが。
 不正のない選挙によって国のトップが選ばれたのなら、それは承認できる。ところが、反対派を武力によって阻止し、国民を自分の思うのままに支配しようとする悪い輩がいるのである。                                                              
   人を犠牲にしてまでトップに昇りつめようとする輩たちは、味方のふりをして嘘八百を並べていく。薄ら笑いを浮かべながら、民衆を狡猾に騙していく。
 いつまでもトップの座にいて、権力を持ち続けたいという独裁者の野望であり、国民の生活がどうなろうと知ったことではないのである。
 結局、イエスの述べた「博愛」はあくまでも理想であって、争いのない世界は実現しそうもないようである。
   殺伐とした光景を見る度に、『いつになれば平和で安寧な世の中になるのか』と、憂鬱な気持ちにならざるを得ない。
 

・自我
 生命があるすべての物は、いつか死が訪れる。永遠には生きられないのであり、同種が絶えないようにと子孫を残していく。
 その事は、遙か昔の起源から続いていて、それが生物の共通の摂理になっている。人類も同様である。自分の子孫を残すことを繰り返して、今に至っている訳である。
 これらの人たちすべてが、順風満帆に生涯を終えるとは限らない。天災に遭ったり人災に遭ったりと、平穏無事でない人も結構いるのである。
 戦禍に巻き込まれた人、事故に遭った人、大病を患った人、経済的に破綻した人、大きな詐欺に遭った人、差別されている人など、こういう人たちは日々不安な気持ちでいるに違いない。
 また、どんなに裕福な人でも、どんなに容姿が優れている人でも、どんなに運動能力が優れている人でも、何某かの悩みは持っている。それが大きな苦悩になる場合もある。
 道端に転がる石ころは、意思を持たない。無機質な物質であるので、人に蹴られても投げられても痛くも痒くも感じないのである。
   ところが、有機質である人には『自我』という意識がある。常に自分を中心に物事を捉えて行動しようとする思いがある。
   その一方で、自分とは異なる他人の動向に心が動いてしまう。それが善行であっても悪行であってもである。
   この世に、自分ひとりで生きてきた人などいない。家族や友人など周りの人たちに関わりながら成長してきたのであり、その影響は大きい。
   更に、天運が生涯を左右する場合もある。巡り合わせの善し悪しで、状況が一転するのである。
   人生には、思い通りにならないことや辛い事がたくさん起こる。時には、深い傷を負う事もある。
   それでも、折角授かった命である。他人の恐怖に怯えることがあっても生きていかなくてはならない。いつか終焉が来るまで、一生懸命に生きなければならないのである。

 それは、衝撃の結末だった。
 ピーター・フォンダが演じる「キャプテン・アメリカ」と呼ばれるワイアットとデニス・ホッパーが演じる親友のビリーは、謝肉祭を見るためにハーレーに乗ってニューオリンズまで行った。
 ワイアットは、アウトローとはいえ善人のように優しく、ビリーもどこか憎めないひょうきんなキャラクターである。
  2人は、ようやく念願の目的を果たしたが、帰る途中の道で思わぬ凶事が待っていた。
 彼らが長髪であるという理由だけで、見ず知らずの田舎のおっさんに車の窓からライフル銃で撃たれてしまうのである。
  最初に撃たれたのはビリーで、転倒したバイクの横で息も絶え絶えに倒れていた。ワイアットが救助を求めるためにバイクを走らせる。
 そこへUターンしてきたそのおっさんにワイアットのハーレーが撃たれて、車体が空中で分解して炎上する。
 二人の命は風前の灯火で、誰も助けることがないまま映画はあっけなくジ・エンドになるのである。
 開いた口が塞がらない私を見て、洋画や洋楽に詳しい親友が、「この映画は、今から4年前に公開された」と平然とした顔で教えてくれた。
『4年前というと1969年であり、私が中学3年生の時だ。高校受験のために部活を辞めて、勉学に励んでいた頃だ。そんな前に作られた映画なんだ』
と、改めて驚いた。

 

イージー★ライダー』のあらすじとバックに流れる音楽
 ワイアットと親友のビリーは、メキシコで麻薬を買い、それをどこかの大富豪に売って大金を手に入れる。

 

 

 

 

 二人はその金で、1200ccのハーレーダビッドソンを2台買った。そのハーレーで謝肉祭が開催されるニューオリンズに向かうためである。

♪ 『ザ・プッシャー』 (ステッペンウルフ)
  ステッペンウルフの『ザ・プッシャー』は「麻薬の売人」を意味していて、サイケデリックなスローな曲である。
 

 二人のハーレーのハンドルは、ワイアットのはチョッパーでビリーのは一文字になっているレア物である。特にチョッパーハンドルについては、誰もが憧れたものである。
  更に、ワイアットのガソリンタンクやヘルメット、着ている革ジャンの背中の模様が星条旗になっていて、私もいつか真似をしてみたいと思った。
 

 ロスからニューオリンズに行く前に、ワイアットはどこかの空き地で自分の腕時計を外して捨てた。『これからは、時間を気にせずに自由に生きる』という意思の現れなのかも知れない。

 

 いよいよ、長旅のスタートが始まった。

♪ 『ワイルドでいこう! 』 (ステッペンウルフ)        
 始まりに相応しく、軽快なロックのリズムと共に『本能の赴くまま、荒々しく生きようぜ』という歌詞が格好いい。私が一番好きな曲であり、時たま素人で組んだバンドで演奏することもある。
 

 夜になり二流のモーテルに泊まろうとするが、『空室あり』の表示が『満室』に変更される。彼らの身なりを見た支配人に拒絶されたのであり、野宿することになる。

 

 翌日、ワイアットのハーレーがパンクする。近くの農家に頼んで修理をさせて貰うが、食事まで御馳走になる。

 食事をしながらワイアットは、「いや、全く見事な生活だ。大地と共に生きるのは立派だよ」と農家の主人を褒める。

 

   農家の主人       その奥さん

 

 再び目的地に向かうが、途中でヒッチハイクの男を見つけて、ワイアットが後ろのシートに乗せてやる。

♪ 『ワズント・ボーン・トゥ・フォロー 』 (バーズ)
 キャロル・キング&ジェリー・ゴフィンの作品で、内容は自由への憧れと都会の喧噪からの逃避行のようである。

 

 途中、ガソリンスタンドによって給油する。男が乗せてもらったお礼にワイアットのタンクにガソリンを入れる。
 ビリーがワイアットに「タンクに大金を隠していることを気づかれたら元も子もない」と小声で言うが、ワイアットは「大丈夫だ」と笑顔で答えた。

 

 モニュメントバレーのような広大な景色が見える道を通る時、バックに流れてくるのがこの曲である。
♪『ザ・ウェイト』 (ザ・バンド)

 ザ・バンドのロビー・ロバートソンが作詞、作曲をした大好きな曲である。洋楽好きの人なら、誰もが一度は歌っている名曲中の名曲といえる。ちなみに、サウンドトラック・アルバムでは、権利の関係によりスミスという歌手のカバー・バージョンが収録されているらしい。 

 

 夕方になり、3人は例のように野宿をする。ビリーがヒッチハイクの男に「どこから来たのか?」と尋ねても「困ったな。話せば長くなる」と答えるのを嫌がった。
 それでもビリーが「前にいた所は?」と再び訊くと、「都会」としか答えなかった。「ただの?」とビリーが言うと、男曰く「都会はどこも同じだ」と嘆いた。

 

 ワイアットが「違う人間になりたい?」と訊くと、男は冗談半分に「ブタになりたいよ」と答えた。「俺はこのままでいい」とマリファナを吹かしながらワイアットが呟いた。

 

 翌日、やっとのことで男が拠点にしている所に辿り着く。そこは、彼がリーダーになっているコミューンであった。

 

 彼らは都会からかなり離れた土地に住みついて、自足自給をしていた。20才前後の若者たちが多く、幼い子どもたちも何人かいた。
 何ものにも拘束されない自由な暮らしを目指していて、マリファナを使用する事も許容されていた。

 道化芝居をする者、ギターを弾いて歌う者、太極拳を披露する者、読書をする者、それぞれが思い思いの事をして日々を楽しんでいて、トラブルもない平穏な暮らしに見えた。

 

♪『Do Your Ears Hang Low?』(トラディショナルソング)
 道化芝居の役者たちが舞台で歌っていた曲が、幼い子どもが歌う童謡である。日本ではフォークダンスの「オクラハマミクサー」で知られていてるが、曲そのものは『藁の中の七面鳥』である。

 

 それでも、みんなの食糧を確保しなければならない。そのためには、荒れた砂地の土壌に種を蒔いて、それが実ることを期待していた。

♪『She'll Be Coming Around the Mountain』(トラディショナルソング)
 ビリーが道化芝居の役者たちに冷やかされた時に歌われた。日本では『彼女は山からやってくる』という曲名であり、彼女とは汽車のことになる。

 

 実際、この頃のアメリカではコミューンつまり共同体がたくさん作られたが、彼らにとって犯罪が渦巻く都会は住み心地が悪かったようだ。
 映画の中のコミューンは、白人ばかりで黒人はいなかった。黒人を嫌っていたのか、人種差別をしていたのか分からないが、そこのところは少し気になった。
  ワイアットに気があるコミューンの女性にせがまれて、ビリーともう一人の女性を連れて川の横にある温泉地に行った。裸になった4人は、水浴びをして遊んだ。

 

 

♪ 『ワズント・ボーン・トゥ・フォロー 』 (バーズ)が再び流れる。
 リーダーから「ここに残らないか」と言われたが、ワイアットは「行く所があるので」と断った。

 

 コミューンから出た後、二人は、どこかの町のパレードに出くわす。ハーレーに乗ったまま音楽隊の後ろについて行って、警察官に捕まってしまう。

 

 二人は留置場に入れられるが、そこには先客がいた。ジョージ・ハンセンという男で、昨晩泥酔して周りに迷惑をかけたらしく、知り合いの警察官に連行されて中で寝ていた。
 目が覚めた男が鉄の扉を開けて、その音にワイアットが驚く。ビリーが「友達を起こしたぜ」と怒るが、その男が素直に謝ったためその場は何事もなく済んだ。
 

 若い警察官がその男に近づいて、「ハンセンさん、気分はどうですか」と訊いてきた。我々とは異なる対応に男が只の酔っ払いでないと気づいたビリーが、その警察官にタバコをねだる。
「野獣に火は危険だ」と断られるが、ジョージが「いい連中だから、やってくれよ」と頼む。
 タバコを貰ったビリーは、「さっきは悪かった」とジョージに謝る。「いいや、いいんだよ。みんな同じ籠の鳥さ」
 ジョージが、「君たちは運が良かった」ワイアットが「なぜ?」と訊く。「この街は、『アメリカ美化運動』の最中なんだ。先日も2人が髪を切られたが、この時は僕がいなかった」

 

 

 ジョージが、自分は弁護士だと告げた。ビリーが「俺達を出してくれる?」と言うと、「人殺しをしてなければね。それも白人をね」
  ジョージはこの街の有力者の息子であり、警察官たちは今回の事は親に知らせないと約束してくれた。25ドルの罰金を払って、3人は留置場から出られた。
「ご自慢のマシンとやらを拝見しようか」と、ジョージが満面の笑顔で言った。

 

「謝肉祭には6~7回出かけたが、いつも州境どまり。州知事から貰った高級娼家の名刺もあるんだが、私も行きたいな」と、ジョージが呟いた。
 ワイアットが「ヘルメットはあるのか?」訊くと、「ヘルメットならある。ごついのが」と、ジョージが意気揚々と言った。一度は捨てたが、彼の母親が12年前に「貴方の息子にあげて」と貼り紙を付けて残しておいたアメフトの用のヘルメットであった。
 結局、ジョージも謝肉祭に行くことになった。ジョージは、上機嫌である。

 

♪ 『鳥になりたい』 (ザ・ホーリー・モーダル・ラウンダーズ)

 夜はやはり、野宿になった。ワイアットがジョージにマリファナを渡そうとしたが、中毒になるのを恐れたジョージは断る。「「いや、大丈夫だ」と言うワイアットの言葉を信じて、恐る恐る吸ってみる。
 ビリーが突然、「おい、ありゃ何だろ?」と空を見上げて言った。「人工衛星のような物が空を横切って、急に方向を変えてスーッと消えた」

 ジョージが、「それはUFOの光だよ。文化が進んでいる太陽系の宇宙人が、確かに地球上にいる」「人間と同じ形の金星人は、我々の社会に入り込み各地で活躍している」と説明し出した。

 ビリーが「なぜ、我々に正体を見せない?」と言うと、「パニックになって、現体制がグラつくからさ」と、ジョージは得意気に言った。納得がいかないビリーであるが、3人はそのまま眠りについた。
 

 朝になって、3人の旅は続いた。

♪ 『ドント・ボガート・ミー』 (フラタニティー・オブ・マン)

 陸橋を通り過ぎると、街並みが見えてきた。立派な豪邸があり、貧相なあばら屋もある。貧富の差が歴然である。

 

♪ 『If6Was 9』  (ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス)


 3人は、休憩するために見つけたカフェに入っていった。

♪ 『Let's Turkey Trot』(Little Eva)
 カフェのラジオから微かに流れていた。

 

 カフェには、女子高校生らしき女の子たちがいて、保安官と地元の大人たちも屯していた。女の子たちは、3人に好意的だった。
「どういう連中かしら?」「バイクで来てたわ」「あんたの好みは?」「サスペンダーの赤シャツ」「私は白シャツ」

 

 逆に大人たちは、彼らに対して敵意をむき出しにしていた。
「見ろよ。チンピラだ」「あれはカツラか?」「ゴリラの落ちこぼれか」「黒人女と合うぜ」
聞こえよがしに罵詈雑言を並べ立てた。

 

「問題を起こさないうちに、郡境で片づける」

 

 険悪な雰囲気になっていて、ここで揉めたくないとジョージが懸念し、店から出ることにした。

「そろそろ出るか」    「行こうか」

 

 女の子たちも出てきた。
「乗せてくれる?」「お袋の許しは?」「平気よ」

「♪窓から見てる・・♪窓から見てる・・」
 窓からこちらを見ている大人たちを警戒して、ジョージがそう歌った。そして、3人はハーレーにまたがり去って行った。

 夜になり、再び野宿になった。

 

 ジョージとビリーが、カフェにいた大人たちの暴言に気持ちを抑え切れずにいた。

「アメリカはいい国だった。どうなっちまったんだ?」
「臆病になったのさ。二流のモーテルさえ泊まらせないんだ。何をビビッてやがるんだ?」
「怖がっているのは、君が象徴しているものさ」
「長髪が目障りなだけだ」
「違う。君に"自由"を見るのさ」 
「"自由"のどこが悪い?」
「そう、何も悪くないさ。自由を説く事と、自由である事は別だ。カネで動くものは自由になれない。アメリカ人は、自由を証明するためなら殺人も平気だ。個人の自由についてはいくらでも喋るが、自由な奴を見るのは怖い」
「怖がらせたら?」
「非常に危険だ」

 

「夜中に食用ガエルと話したことは?」
「まあないね」
「俺はあると思う?」
「あるのか?」
「夜中に食用ガエルなんかと話す訳がないだろ」
「こいつ!」
 ジョージの冗談にビリーの顔がほころんだ。
 

 夜も更けて、焚火も消えた頃に惨事が起きた。昼間の大人たちが、3人の寝込みを襲ってきたのである。バールのような金属の棒で、否応なくしこたま叩かれた。

 

 ビリーが悲鳴を上げた時には、暴漢たちは既に逃走していた。

 

 ワイアットとビリーは、傷を負いながらも運良く命が助かったが、ジョージは即死だった。

 

「何て事だ」「遺品はどうする?」「家族に届けよう」「現金少々と運転免許証。紹介の名刺」「もう使えない」
 それでもビリーは、高級娼家に行きたがった。
「娼家へ行ってみよう。その方が彼も喜ぶぜ」
 2人は、ジョージが持っていた紹介の名刺をもとに高級娼家へ行った。

♪ 『キリエ・エレイソン』 (エレクトリック・プルーンズ)

 キリスト教の礼拝時に歌われる祈りのようである。

 

 待合室に2人の女が来た。カレンとメアリーという娼婦で、大柄のカレンをビリーが選び、小柄のメアリーはワイアットについた。

 娼婦役の大柄の女は、その頃はまだ無名のカレン・ブラックが演じていた。

 

 

 ビリーは、カレンといちゃいちゃしていたが、ワイアットはメアリーに何もしようとしなかった。

「街はもう謝肉祭が?」
「すごい混雑よ」
「そうか・・」
「私じゃダメなの?」

「いいや」
「私を買ったのよ」
「友達の分を払ったんだ」
「困ったわ」
「外へ出ようか。謝肉祭へ」
「OK」
 

♪『聖者の行進』

 黒人霊歌の一つで、本来、葬式の時に歌われる曲である。

 

 

 

 4人はどこかの墓地に入って行き、LSDを飲んだ。幻覚によって錯乱状態になった。

 

「何なのそれ?」「大丈夫、LSDさ」

 

『我は信ず 全能の神  天地の創造主を 神の独り子イエスを』

 

『処女マリアの子  十字架に死に 葬られ』

 

『父と子の精霊に栄えあれ』

 

『祝福あれ 胎内の御子イエスよ』

 

『レイン・・・』

 

『死にそう』

 

『私はここよ』

 

『私が欲しかった?』

 

『糧を与え   罪をゆるし給え』

 

 

 謝肉祭も終わり、ワイアットとビリーの目的は果たされた。2人は、帰路についた。

 

♪『Flash, Bam, Pow』(エレクトリック・フラッグ)

 

 その夜、ワイアットが浮かない顔をしていたので、ビリーが心配してはしゃいで見せた。

 

「とうとうやったな。俺たちは金持ちだ。フロリダで引退さ」

「いいや、ビリー。無駄だよ」
「どういう事なんだ?金もあるし、自由の身だ」
「ダメだよ。おやすみ」
  そう言うと、ワイアットは静かに眠った。

 

 その日、2人は早朝から出発した。

♪『イッツ・オールライト・マ 』(ロジャー・マッギン) 

 ボブ・ディランの名曲をロジャー・マッギンがカーバしたのである。

 

 

「おい、あれを見ろ。脅かしてやろうか」

 車に乗っていた見知らぬ男が、ライフル銃を手に取った。

 

「ぶち抜こうか?」

 

 

 

「その髪を切れ」

 

「・・・」

 

「ドキューン!」

 

 男が放った銃弾に当たって、バイクと共にビリーが倒れた。

 

 その事に気づいたワイアットが、ビリーの元に行く。

 

「何て事を 待ってろ」
「やってやる!」
 瀕死状態のビリーであるが、自分を撃った相手に対し怒りを露わにした。

 

「戻ろうぜ」
 ビリーを撃った男が、車を運転している連れにUターンをさせた。

 

ワイアットは自分のジャンパーをビリーに掛けて、猛スピードでハーレーを走らせる。

 

 

「ドキューン!」

 

 ハーレーの車体が空中で分離し、地上に落ちた時にガソリンによって炎上した。ワイアットの生死は、画面では分からない。

 

 

 

♪『イージー・ライダーのバラード』(ロジャー・マッギン)

 その曲が流れて、エンドロールになる。

 

主な出演者について
  この映画には、大物俳優が出ていない。低予算で制作された事もあって、無名の若手俳優たちばかりである。
 ワイアット役のピーター・フォンダの父親は、名優ヘンリー・フォンダである。名作である『怒りの葡萄』の主人公役で、アカデミー主演男優賞にノミネートされている。
  ピーターの姉のジェーン・フォンダも著名な女優であり、エロティックなSF映画『バーバレラ』に出演した後、『コールガール』と『帰郷』で主演女優賞を2度も受賞している。所謂、俳優一家でなのである。
  ピーターは、『イージー★ライダー』に出演する3年前に、ヘルズ・エンジェルスの実態を描いた『ザ・ワイルド・エンジェルス』に主演で出ていた。共演者は、フランク・シナトラの娘であるナンシー・シナトラである。
 デニス・ホッパーは、監督をしながら準主役を演じたのであるが、自分が思い描いた通りの映画になったのではないか。若い頃に、ジェームズ・ディーン主演の『理由なき反抗』や『ジャイアンツ』に出演していたが、その当時はまだ無名であり、『イージー★ライダー』によって名前が知られるようになった。
 その後、飲酒や麻薬、映画会社との確執などで役に恵まれなかったが、デヴィッド・リンチ監督の『ブルーベルベット』で復帰した。
 ジョージ役のジャック・ニコルソンは、アカデミー賞を12回もノミネートされている押しも押されぬ名俳優であるが、当時はやはり無名であった。
 この映画によって演技力が認められ、『ファイブ・イージー・ピーセス』や『チャイナタウン』で主演を務める。1975年には、『カッコーの巣の上で』によってアカデミー主演男優賞を受賞した。
 その後、スタンリー・キューブリック監督の『シャイニング』で狂気の男や映画『バットマン』でバットマンの宿敵であるジョーカーを好演して観客を唸らせた。

 

この映画のテーマ

「自由とは何か?」「自由に生きるとはどういう事か?」という問い掛けのように思われる。
 誰もが何ものにも束縛されずに、自分の思うままに生きていきたいと願うものである。しかしながら、現実はそれを許さない。様々な縛りがあり、決まりを守る善良な市民として生きなければならないのである。
 アメリカ合衆国には、暗黒の時代があった。先住民を居住地から追いやり、奴隷として連れてきた黒人に自分たちにとって都合の良い法律を押し付け、従わない者は直ちに排除した。
 更に反抗する者には、自分たちの保身のためという理由で銃をも使った。白人至上主義結社のクー・クラックス・クランなどが良い例である。そのような国で生きてきた多くの白人が、保守的で排他的な考えになってしまったのである。
  1970年代はベトナム戦争や公民権運動があり、社会や政治に対する反体制的な批判が湧き上がった時であった。そのような混沌とした世の中に壁壁した若者たちも少なからずいた筈である。ヒッピーが理想の場を求めて、コミューンのような共同体を作ったのも頷ける。
 ワイアットとビリーは、はっきり言って悪党である。麻薬の売買で金儲けをするような重罪人である。しかし、殺人や強盗はしていない。ただ単に「自由でありたい」という思いが強いだけの若者なのである。
「派手なバイクに乗って髪の毛が長い」という理由だけで悪党と判断されて殺されるのは有り得ない事だが、そのような目で見られる風潮が当時はあったのである。ある州の映画館では、二人が撃たれた事に観客から拍手が起こったこともあったようである。

 

 ラストのシーンについては、2通りの説がある。ひとつは、「ワイアットは、ビリーを助けるためにガソリンスタンドか何かの店に入って、救急車を呼んで貰おうとした」という説。もうひとつは、「ビリーの仇を討ちに行った」である。
  映画を観たボブ・ディランが、「なぜワイアットは、自分のハーレーを車にぶつけなかったのか」と質問したらしいが、大型の1200ccのバイクであっても相手が車では火を見るよりも明らかである。
 私の友達は、やはり前者だと言った。何故なら、武器を持っていないワイアットなので復讐のしようがない。返り討ちに遭うだけだよ」
 確かにワイアットの顔は、車の方に向いていなかった。親友を助けたいという一心な気持ちでハーレーを走らせたのだと思う。

 ところで映画といえば、小学校の高学年の時に正月公開の「ゴジラシリーズ」と「若大将シリーズ」を恒例のように観ていた。

 

 もっと幼い頃は、母親に連れられて「東映の時代劇」を観ていたのであり、勧善懲悪で最後に正義が勝つのが当然のような内容であった。

 

 そのような映画しか観ていない私にとって、最後に主役級が無残に死ぬのは初めてであり、信じられないことであった。

 このような映画はアメリカン・ニューシネマと呼ばれ、1960年代後半から1970年代半ばにかけてたくさん作られた。
 代表的な映画に1967年公開の『俺たちに明日はない』や1969年公開の『明日に向って撃て!』がある。
 前者は、銀行強盗犯であるボニーとクライドを取り上げて、ウォーレン・ベイティとフェイ・ダナウェイが演じた。最後は、待ち構えていた警察官たちにハチの巣のように銃撃されて殺された。

 

 後者の方は西部劇であり、これも銀行強盗犯であるブッチ・キャシディとサンダンス・キッドを主役にして、ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードが演じた。結末は、覚悟を決めた二人がボリビアの警察隊に向かって飛び出し、そこに無数の銃声が響いて終了である。

 

 これらの映画も後になって観たが、どちらもショッキングなエンディングに余韻が残った。
 ちなみに使われていた音楽は、前者は 『フォギー・マウンテン・ブレイクダウン』(フラット&スクラッグス)で、後者は『雨にぬれても』(B・J・トーマス)で、作曲はバート・バカラック、作詞はハル・デヴィッドである。
 他にも『真夜中のカーボーイ』『ワイルドバンチ』『バニシング・ポイント』など余韻の残る作品はあるが、ストーリーの面白さと好きな洋楽がふんだんに使われている点から、私にとっての特別な映画は『イージー★ライダー』この一本になる。
  本作は、カンヌ国際映画祭新人監督賞を受賞し、アカデミー脚本賞にノミネートされている。
 

 

 

 

 

 

 

      ウッドストック・フェスティバル  1969年

 

 ニューヨーク州のサリバン郡ベセルにおいて、3日間に渡る大規模な野外コンサートが開催された。
 アメリカ合衆国におけるカウンターカルチャーを象徴する野外コンサートであり、ヒッピー時代の頂点を示す歴史的なイベントとして今も語り継がれている。

 降雨によるライブの中断があってプログラムの進行が大幅に遅れてしまい、実際には8月15日(金)の午後から18日の午前までの4日間になる。

 30組以上の人気フォーク歌手やロック・グループなどが出演して、3日間で約40万人の観客が集まったとされる。
 主催者側は1万人から2万人程度の入場者を見込んでいたが、事前に18万6千枚のチケットが売れ、入場者数は20万人を超えると予想した。
 当日は、予想をはるかに上回る多くの観客が来てしまい、その半数以上がチケットを買っていなかったので途中から無料コンサートになってしまった。

 

 

 主催者となったのは24才のマイケル・ラングで、ボブ・ディランなどのアーティストたちが暮らしていたウッドストックに、自分たちのレコーディング・スタジオを設立する資金集めの為にコンサートを企画した。
 共同主催者として、ジョン・P・ロバーツ、ジョエル・ローゼンマン、アーティ・コーンフェルドがいる。

 

    マイケル             ジョン           ジョエル          アーティ

 

 当初、会場予定にしていた場所が、周辺住民の反対運動にあって使用できなくなった。フェスの開催が危ぶまれたが、農場主のマックス・ヤスガーが名乗り出て、最終的に彼の所有する酪農農場になった。場所は、ウッドストックの西隣になる。

 この一帯は、アメリカインディアンの共同居住区で、一部の住民からは「ヒッピーが集まるヤスガー祭」と非難された。
  主催者とスタッフたちが広大な土地の整備をした後に、ステージやPAなどの機材を持ち込んで会場設営を整えた。

 

フェスの幕間で行われたヤスガー氏のスピーチ

「私はただの牧場主です。こんな大勢の前でどう話したらいいか分かりません」
「ただ一つ言えるのは、君たちが証明したという事です」
「この町だけでなく、世界に大事なことを証明しました。それは、50万の若者が集まって音楽を聴いて3日間楽しく過ごせたということです」
「それを成し遂げた君たちに神の祝福あれ」

 

もうひとり、フェスのために貢献してくれた人がいる。ホッグファームというコミューンから来たヒュー・ロムネイである。
 

自ら3日間の食糧を用意したり、会場の警備をしたりと何かと協力してくれた。

"Wavy Gravy" と呼ばれているユニークな人で、会場の周りを杖を突きながらカズーを吹いて歩いていた。

 

 フェスの収支は赤字であったが、ドキュメンタリー映画とライブ・レコードが発表されて、最終的には黒字になった。
 映画の方はマイケル・ウォドレーが監督を務め、マーティン・スコセッシが編集を担当した。1970年に『ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間』が公開され、アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞を受賞した。
 また、レコードも同年に3枚組のアルバム「Woodstock: Music from the Original Soundtrack and More」が、翌年には2枚組の「Woodstock Two」が発表された。

 

出演者
◎8月15日(金)午後から深夜                    
★リッチー・ヘブンス  5:00 p.m. – 5:30 p.m.

ニューヨーク、ブルックリン出身のフォーク・シンガー。
他のミュージシャンたちがまだ到着していなかったので、誰より早く会場に来ていた彼が開演のトップバッターになった。
「ゲット・トゥゲザー」「Handsome Johnny」「Freedom」など
 

★スワミ・サッチダナンダ  6:00 p.m. – 6:15 p.m.

インドの聖者。世界平和への祈祷を行った。
「これからのアメリカは、精神面でも世界に貢献するだろう」とスピーチする。
アメリカに滞在して、ヨガを広めた。

 

★スウィート・ウォーター  6:15 p.m. – 7:00 p.m.

カリフォルニアのロックバンド。
「Motherless Child」「What's Wrong」「Why Oh Why」
※彼女らの演奏は、映画には入っていない。

 

★バート・ソマー  7:15 p.m. – 7:45 p.m.

ニューヨークのフォークシンガー。
「Jennifer」「She's Gone」「Things Are Going My Way」「Smile」
※彼らの演奏は、映画には入っていない。
 

★ティム・ハーディン  8:30 p.m. – 9:15 p.m.

グリニッジ・ヴィレッジのフォーク・シーンで、ボブ・ディランとも並び称された。
「If I Were a Carpenter」「自由の広場」
※映画ではステージではなく、どこかの空地でギターを弾きながら歌っている彼の姿が見られた。
 

★ラヴィ・シャンカール 12:00 a.m. – 12:45 a.m.

ロックのミュージシャン達に多大なる影響を与えたシタール奏者。ノラ・ジョーンズの父親。
※雨により途中で中止。
※彼の演奏は、映画には入っていない。

 

★メラニー 1:00 a.m. – 1:30 a.m.

ニューヨーク出身で、グリニッジ・ヴィレッジのフォーク・クラブで演奏していた。1971年に「心の扉をあけよう」がヒットした。
「Beautiful People」「ミスター・タンブリン・マン」
※彼女の演奏は、映画には入っていない。

 

★アーロ・ガスリー  1:45 a.m. – 2:15

父親は、ディランなど多くのフォーク歌手に影響を与えたウディ・ガスリー。映画「アリスのレストラン」で主役を務めた。
「Coming Into Los Angeles」「Walking Down The Line」「Amazing Grace」

 

★ジョーン・バエズ  3:00 a.m. – 3:45 a.m. 

ボブ・ディランと親交が深いフォーク歌手。澄み切った歌声が、会場に響き渡った。
「勝利を我等に」「Joe Hill」「Swing Low, Sweet Chariot」

 

◆一番手のリッチー・ヘブンスは、かなりの熱演だった。特に「フリーダム」では、シンプルなコード進行でありながら歌詞の内容を盛り上げて、観客は総立ちになった。曲のイントロが始まった時にメンバーのギターの音が出なかったようで、ミキサーへ「ギターマイク、プリーズ」というアナウンスがあって、ライブの臨場感が満載であった。

◆アーロ・ガスリーは、「NY高速道が閉鎖だ」と頻りに言っていた。どうやら他のミュージシャンと同様に、ヘリコプターで現地に来たようだ。若いこともあって人気タレントのような雰囲気を漂わせていたが、父親のウディが生きていたらアーロをどのように思っただろうか。





◎8月16日(土)午後から翌朝
★ザ・クイル  12:15 p.m. – 1:00 p.m.

ジョン・コールとダン・コールの兄弟を中心に結成されたボストンのバンド。
「Waitin' For You」
※彼らの演奏は、映画には入っていない。

 

★カントリー・ジョー・マクドナルド  1:20 p.m. – 1:30 p.m. 

アメリカ合衆国の歌手。兵役の経験のあるマクドナルドが、ベトナム戦争を皮肉った歌詞で観衆を沸かせた。
「The "Fish" Cheer/I-Feel-Like-I'm-Fixin'-to-Die Rag」
「I Find Myself Missing You」

★サンタナ  2:00 p.m. – 2:4

デビューしたてのサンタナ。ウッドストック・フェスをきっかけに、世界的に有名になる。
「Persuasion」「Soul Sacrifice」

 

★ジョン・セバスチャン(飛び入り参加) 3:30 p.m. – 3:55 p.m.

元ラヴィン・スプーンスフルのジョン・セバスチャンは、観客として来場していた。バックステージでスタッフの世話をしていた彼は、照明係のチップモンクに押されて飛び入り参加したのである。
「How Have You Been」「Rainbows All Over Your Blues」
「I Had a Dream」「Darling Be Home Soon」「Younger Generation」

 

★キーフ・ハートリー・バンド  4:45 p.m. – 5:30 p.m.

元ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズのドラマーのキーフ・ハートレイが結成したバンド。
「Spanish Fly」
※彼らの演奏は、映画には入っていない。
 

★インクレディブル・ストリング・バンド  6:00 p.m. – 6:30 p.m.

ロビン・ウィリアムソンとクライヴ・パーマーを中心にスコットランドで結成されたフォーク・グループ。
「Catty Come」「This Moment Is Different」
「When You Find Out Who You Are」
※彼らの演奏は、映画には入っていない。

 

★キャンド・ヒート  7:30 p.m. – 8:30 p.m.

アル・ウィルソンとボブ・ハイトを中心に結成されたブルース・バンド。2人は熱心なブルース研究家である。アル・ウィルソンはベンチャーズのドラム、メル・テイラーの弟であるが、ウッドストック・フェスティバルの翌年に謎の死を遂げている。
「オン・ザ・ロード・アゲイン」「A Change Is Gonna Come」
「Going Up The Country」
 

★マウンテン  9:00 p.m. – 10:00 p.m.

アメリカのハード・ロックバンド。貫禄あるレスリー・ウェストがワイルドに歌い、ブルージーにギターを弾きまくる。
「Stormy Monday」「Blood of the Sun」
「想像されたウエスタンのテーマ」
※彼らの演奏は、映画には入っていない。
 

★グレイトフル・デッド  10:30 p.m. – 12:05 a.m

サイケデリックを象徴するアメリカのロックバンド。リードギターのジェリー・ガルシアを中心に結成された。
雨の影響で機材に不具合が起こり、彼ら曰く「演奏は不本意だった」とのことである。
「St Stephen」「Mama Tried」「Dark Star」「High Time」
「ターン・オン・ユア・ラヴ・ライト」
彼らの演奏は映画には入っていないが、マリワナを持ったガルシアの顔がアップされていた。

 

★クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル  12:30 a.m. – 1:20 a.m.

西海岸出身のロックバンド。単純明快なロックンロールやブルース、カントリーから影響を受けたサウンドは、アメリカ南部の泥臭さを感じさせ、スワンプ・ロックの代表ともいえる存在であった。
リーダーのジョン・フォガティとトム・フォガティは兄弟。
「ボーン・オン・ザ・バイヨー」「プラウド・メアリー」「バッド・ムーン・ライジング」
※彼らの演奏は、映画には入っていない。

 

★ジャニス・ジョプリン  2:00 a.m. – 3:00 a.m.

会場に到着したヘリコプターから降りるのにも、彼女はふらついていたようだ。飲酒とドラッグにより窶れ果てて、時折声がかすれて出なくなっても懸命に身を振り絞って歌っていた。
ヘロインでラリっていた彼女の周りには誰ひとり近づかず、ひとりぼっちだった。
「Piece of My Heart」「ラヴ・サムバディ」
「アイ・キャント・ターン・ユー・ルース」  

 

★スライ&ザ・ファミリー・ストーン  3:30 a.m. – 4:20 a.m.

サンフランシスコを本拠地とした人種・性別混成のファンク・バンド。
スライの弟や妹、スライの友人とその親戚などがグループのメンバーになっていた。
「エヴリデイ・ピープル」「Dance to the Music」「Music Lover」
「I Want to Take You Higher」

 

★ザ・フー  5:00 a.m. – 6:05

ブリティッシュのロックバンド。
『トミー』のツアーで疲れていたピート・タウンゼントをウッドストックのスタッフたちが夜通し口説き落として出場させた。
「See Me, Feel Me」「Summertime Blues」「My Generation」

 

★ジェファーソン・エアプレイン  8:00 a.m. – 9:40 a.m.

アメリカ合衆国のサイケデリック文化を象徴するロックバンド。
リードボーカルであるグレース・スリックの「朝のマニアック・ミュージックへようこそ!」の一声で演奏が始まった。
「ホワイト・ラビット」など

 

◆カントリー・ジョーは、曲の冒頭で「give me aF」「give me a U」「give me a C」「give me a K」「What does that spell」と聴衆に向かって問いかけ、会場は大いに盛り上がった。
 観客は大ウケだったがスポンサーの上層部に疎まれて、バンドはツアーから永久追放されてしまった。

◆サンタナの演奏は、カルロス・サンタナのギターはもちろん、ベース、ドラム、キーボード、パーカッションのテクニックが優れていた。特に、マイケル・シュリーヴのドラムは、目を見張るものがあった。

◆ジョン・セバスチャンは、やっていたアシッドの影響か、曲の途中で歌詞を忘れて観客に助けを求めていた。それでも、優しい彼のギターと歌は心和むものであった。

◆スライ&ザ・ファミリー・ストーンは、派手な衣装やサウンドのインパクトが大きく、彼のブラックミュージックは、会場の観客を一体化させた。

 

◆ザ・フーのピート・タウンゼントが、右手を振り回しながらギターをかき鳴らすのは真似が出来ない難しいテクニックだった。演奏のラストで、自分のギターを壊すパフォーマンスに驚いた観客も多かった筈である。

 

 

◎8月17日(日)午後から翌朝
★ジョー・コッカー&グリース・バンド 2:00 p.m. – 3:25 p.m.

イギリスのソウル・シンガー。アメリカでは知名度は低かったが、このフェスによって彼の情熱的なアクトと歌唱力が高い評価を得る。
「アイ・シャル・ビー・リリースト」「フィーリン・オールライト」
「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」など

 

★大雨の為、ライブが数時間中止になる。

黒い雲が会場に近づき、突風が吹いて雨が落ちてきた。「タワーから降りろ。危険だ」とアナウンスがあったが、落ちて怪我をした者はいなかったようだ。
「no rain, no rain」とみんなで叫び、通り過ぎる事を祈る。
 

泥でぬかるんだ地面を滑って、喜ぶハイな輩も何人かいた。

 

近くの湖に裸で入り、シャワー代わりに泥を落とし、水で遊ぶ人たち。

 

★カントリー・ジョー&フィッシュ 6:30 p.m. – 8:00 p.m.

大雨でスケジュールは3時間以上遅れてしまい、濡れたステージにバンドは上がれず立ち往生していた。
その時、カントリー・ジョー&フィッシュが「俺たちに電気は要らない」とステージに上がった。
「Rock & Soul Music」
 

★テン・イヤーズ・アフター  8:15 p.m. – 9:15 p.m.

イギリスのブルース・ロック・バンド。
超高速で弾くアルヴィン・リーのギターは観客から注目されて、フェスの出演が彼の名声を高めることになった。
「I'm Going Home」など

 

★ザ・バンド  10:00 p.m. – 10:50 p.m.

カナダ人4人とアメリカ人1人のバンド。当初はザ・フォークスと名乗っていて、合衆国を拠点に活動した。
ボブ・ディランのバックバンドで知名度を高めたが、その後、ディランのいるウッドストックに移り住み、バンド名をザ・バンドに変えてデビューした。
「ザ・ウェイト」「アイ・シャル・ビー・リリースト」など
※彼らの演奏は、映画には入っていない。

 

★ジョニー&エドガー・ウィンター  12:00 a.m. – 1:05 a.m.

白人でありながら、ブルースやロックンロールをこよなく愛したテキサス出身の兄弟ギタリスト。マディ・ウォーターズからも気に入られていた。
ジョニーのアルバムのレコーディングに、弟のエドガーも参加している。
「Tobacco Road」「Johnny B. Goode」など
※彼の演奏は、映画には入っていない。

 

★ブラッド・スウェット&ティアーズ 1:30 a.m. – 2:30 a.m.

当時大人気であったブラス・ロック・バンド。
セカンドアルバムからバンドに加入したデヴィット・クレイトン・トーマスのパワフルなボーカルと熱いホーンセクションが会場を沸かせた。
「Spinning Wheel」「You've Made Me So Very Happy」など
※彼らの演奏は、映画には入っていない。

 

★クロスビー、スティルス、ナッシュ& ヤング  3:00 a.m. – 4:00 a.m.

元バーズのデヴィッド・クロスビー、元バッファロー・スプリングフィールドのスティーヴン・スティルス、ホリーズにいたグラハム・ナッシュが結成したフォークロックグループ。素晴らしいハーモニーと演奏で、観客を魅惑する。後にニール・ヤングが加わる。映画では、ニール・ヤングの姿は見られない。

「青い眼のジュディ」「ブラックバード」「木の舟」
「ミスター・ソウル」「自由の値」「Long Time Gone」など
 

★ポール・バターフィールド・ブルース・バンド  6:00 a.m. – 6:45 a.m.


シカゴ生まれのブルース歌手である。ハーモニカ奏者でもあり、マディ・ウォーターズに影響を受けた。
「Everything's Gonna Be Alright」など
※彼らの演奏は、映画には入っていない。

 

★シャ・ナ・ナ  7:30 a.m. – 8:00 a.m.

コロンビア大学の学生による、50年代のロックンロールに憧れて目指したバンド。金ラメの衣装や時代がかったパフォーマンスが異色であった。
「カム・ゴー・ウィズ・ミー」「The Book of Love」
「Duke of Earl」「踊りにいこうよ」「Teen Angel」など

 

★ジミ・ヘンドリックス  9:00 a.m. – 11:10 a.m.

アニマルズのベーシストだったチャス・チャンドラーに見いだされ渡英し、ノエル・レディング、ミッチ・ミッチェルと「ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス」を結成する。
伝統的なブルースをもとに、斬新なサウンドや卓越したテクニック、圧倒的なインプロビゼーションを披露した。
エクスペリエンスの解散後、フェスにはジプシー・サン・アンド・レインボーズを率いて演奏する。
「ヘイ・ジョー」「ブードゥー・チャイルド」「星条旗」
「パープル・ヘイズ」「ヴィラノバ・ジャンクション」

 

◆ジミ・ヘンドリックス
 最終日のトリであるジミ・ヘンドリックスが登場したのは、18日の月曜日の朝8時30分だった。大半の観客がジミの演奏の前に帰ってしまったが、その中で音楽史に残る素晴らしいパフォーマンスを見せた。
 ジプシー・サン・アンド・レインボーズのメンバーは、ビリー・コックスとミッチ・ミッチェル、それにサイドギター1人とパーカッション2人である。
  アメリカ国歌「星条旗」においてのフィードバック・ノイズを使った情熱的な演奏は、言葉にしなくともベトナム戦争への抗議として捉えられた。数あるミュージシャンたちのパフォーマンスの中でも、一番の名シーンと言えるだろう。

 

フェスの風景

 会場には、「愛と平和、反戦」を主張するヒッピーや若者ら約40万人が集まったと言われている。
 高速道路が混み合い、悪天候であったにも拘わらず予想外の大規模なフェスになったために、宿泊テントや食糧などが足りない状態になった。それでも参加者たちは、食べ物などを分け合ったりして助け合った。
 ヒッピーの中にはドラッグを使用する者もいたが、暴力事件などはほとんどない平和的な祭典になり、交通事故での死者が1人と2件の出産が記録されているだけである。

 

出演を断ったアーティスト
ボブ・ディラン、ビートルズ、ドアーズ、レッド・ツェッペリン、ジェスロ・タル
ジェフ・ベックグループ、フリー、ムーディー・ブルース、バーズ
ザ・マザーズ・オブ・インヴェンション、トミー・ジェイムス&ザ・ションデルズ
ポール・リヴィア&ザ・レイダーズ

 

その後
 1979年にウッドストック10周年記念コンサート「ウッドストック・リユニオン」が開かれたのに続き、1989年、1994年、1999年に記念コンサートが開かれている。

 1994年の25周年記念コンサートは『Woodstock II』と呼ばれ、ボブ・ディランやクロスビー、スティルス&ナッシュらが出演し、約30万人を集めた。2019年にも企画されたが、中止された。

 

永遠の「ウッドストック・1969」
 私がこの映画を観たのは、高校生の時だった。洋楽が好きな親友に誘われて、上映中の3番館にいっしょに入ったのである。
 この頃は、熱狂的であったグループ・サウンド・ブームが去って、メッセージ色が強いカレッジ・フォークが全盛の時だった。
 親友は、「規模が途轍もなく大きいフェスであり、たくさんの有名なミュージシャンが出演している」と熱く語ってくれたが、洋楽の事をあまり知らない私にはさほど興味が湧かなかった。 
 それから数年後、ロックやポップスなどの洋楽が好きになっていた私は、このフェスがどれだけ素晴らしい野外コンサートであるかが分かってくる。それで3枚組のレコードを別の友だちから譲ってもらい、毎日のように聴いた。
 野外コンサートは、他にもモンタレーやワイト島などがあるのだが、私にとっては「ウッドストック」が別格のフェスになっている。
 懐古趣味と言われるかも知れないが、還暦をとうに超えた歳になってもDVDの映像を観る度に、当時の熱気が伝わってきて心が熱くなってくるのである。

 

地球の未来
  マリアの頭から取り出された隕石の欠片は、綺麗に洗浄されて矢上教授が持ち帰った。
『何故あのような不可解な力が、この欠片にあるのだろうか』
そのことを解明したい教授は、宇宙物理学の権威である如月博士に助けを求めた。
「この欠片は、間違いなく隕石です」
「やっぱり」
「通常、隕石の多くが地球の大気圏で燃え尽きるのですが、この隕石は消滅せずに地上に落ちて来たのでしょう」
「どこから来たものなのでしょうか」
「火星と木星の間に多くの小天体が存在しているのですが、おそらくそのひとつが来たのだと思われます」
「そうですか」
「しかし、このような小さな欠片をよく見つけましたね。どこにあったのですか」
「少女の頭の中です」
「ええっ?」
博士が、驚いた顔になった。
「教授、それはどういう事ですか」
矢上教授は、これまでの経緯を如月博士に打ち明けた。
「そうだったんですか。大変な手術でしたね」
「摘出するかどうかをかなり迷いましたが、少女の命の事を考えて踏み切りました」
「事情は分かりました。でもこの解析は、私だけでは難しい作業になりまですので、AIを所有している友人に頼んでみましょう」
「おお。AIですか」
  如月博士が、AI開発のオリオン社の主幹である田所に電話した。
「やあ、博士。お久しぶりです」
「AIの開発は順調にいっているようだね」
「はい。お陰様で。当社の実用化されたAIが、多くの現場で活躍しています」
「オリオン社のAIは、優秀だからね」
「有り難うございます」
「そこでなんですが、君を見込んで頼みたい事があります」
「何でしょう」
「特殊な隕石があるのですが、その解析にオリオン社のAIを使いたいのです」
「いいですよ」
 博士とは古くからの付き合いということで、田所が快く承諾した。
 翌日、隕石を抱えた博士と教授はオリオン社に行き、主幹の田所と会った。

ロボット型AI『マリン』
「早速ですが、隕石の解析にはあのロボットを使って下さい」
「おお」
「助かります」
「ロボットというより、アンドロイドのように見えますが」


 

「見掛けはそうですが、人のために作業をする装置なのでロボットです。『マリン』と名付けました」
「女性型のロボットですか?」
「いいえ。単なる呼び名に過ぎないので、性別はありません」
「そうでした。失礼しました」                                  
 二人の顔を見つめながら、『マリン』が穏やかな声でしゃべり始めた。
「主幹のお隣におられるのは、如月博士と矢上教授ですね」
「ええ。そうです」
「こりゃ驚いた。顔認証も出来るんだ」
「我々の情報も既に入っているようだね」
「この『マリン』には、あらゆる分野のデータが入っていて、世界中のどこにも負けない最新鋭の人工知能を持っているAI型ロボットと自負します」
「人工知能と言うと、昔観たS・キューブリック作の『2001年宇宙の旅』を思い出すね」
「HALだね」
「宇宙船の管理をするコンピユータのHALが、突如ミスをし出したんだ」
「あれを観た時は、遥か遠い未来の事だと思っていたんだが」
「コンピュータも劇的に進化したな」    
「昔の研究所に置かれていたコンピュータは途轍もなく大きな装置で、入出力の作業も大変だった」
「速度もかなり遅かったしね」
「それから数年後、個人用向けのコンピユータが売り出されたんだ」
「マイコンやパソコンの出始めた頃だな」    
「高い買い物だったが、欲しがる人も結構いたね」
「デスプレイに映像を出すだけの簡素な代物だったのにね」
「その後、マイクロソフト社が開発したms-dosによって、素人でも操作が容易になってきた」
「C言語を扱える人が出てきたりと、パソコンに関心を持つ人が増え出したんだ」
「パソコン通信が出来るようになった当時、顔も知らない他人と文字で会話をしたね」
「アップル社も独自のオペレーティングシステムを作り、アップル派とマイクロソフト派に分かれたな」
「それぞれレベルアップしたものを出してきて、競争だった」
「その都度、パソコンのCPUの機能が格段に上がっていったね」
「様々な画像や動画などが随時に検索出来るので、高価な百科事典を買う必要がなくなってきた」
「重くて嵩張るので、売り上げは減少しただろうね」
「いやいや、私の書斎にはまだあるよ。滅多にページを開ける事はないけどね」
「あはは・・」
 昔を懐かしむ二人に今が頃合いと、田所が眼で合図をした。
「実は、博士と教授がここへ来られた理由は、ある物質の解析のためです」
「そうなんですか」
 博士が、目の前にある小さなテーブルに隕石の欠片を置いた。
「これですか。了解しました」
 田所が、『その前にAIに何か質問をして欲しい』と言ってきたので、矢上教授が真っ先に質問をした。
「最近、新型コロナが流行しましたが、また新たなウイルスが出てくるのでしょうか」
「出てきます」
「それは、どのようなウイルスですか」
「容易にワクチンが作れないなウイルスです」
「うーん。それは厄介ですね」
矢上教授が露骨に困った顔をした。
「ロシアとウクライナの戦争は、いつ終結するでしょうか」
如月博士も続いて質問を行った。
「ロシアのトップが意地になっていますので、長期戦になるでしょう」
「まさか、核弾頭ミサイルが使用される事はないでしょうね」
「自分が望む事態にならないので、トップが最悪の事を決断するかも知れません」
「戦争の犠牲者が、大幅に増えてしまう事になるな」
「いやいや、核が飛び交えば、世界大戦になってしまうよ」
 2人の顔は、とても暗い表情になっていた。
「暗い事ばかりでなく、明るいニュースも聞いてみましょう」
「今、将棋界で注目されている藤井聡太さんは、八冠が取れるでしょうか」
「体調を崩さなければ、80%の確率で取れると思います」
「それなら期待が持てますね」
 2人に笑顔が戻った。
「ではこの辺で、本来の目的を『マリン』にお願いしてみましょう」
  30秒間程、『マリン』がその物質を凝視した。そして、徐に右手の親指と人差し指でその欠片を掴み、頭の額に当て出した。
「これは、鉄隕石ですね」
「そうです。どんな構成物質でしょうか」
「鉄とニッケルが主成分ですが、カマサイトやテーナイトの鉱物以外に・・・」
そう言いかけた『マリン』が、突如、口と両目を閉じてしまった。更に体がオブジェの様に固まって、微動だにしなくなった。
「どうしたんだ?」
 後ろで見ていたスタッフたちも、思わぬ事態に慌て出した。
「電源に問題はありません」
「装置も正常です」
「私はこんな異様な『マリン』を見たことがない。一体何なんだ?」
「うーん」
  成す術もなく傍観するだけの田所たちであったが、7分後、『マリン』の両目が開き、口が動き出した。
「ψФδΣαπληβ・・・」
聞いたこともない意味不明な文字列を並べ出した。
「何を言ってるのかまったく分からん。日本語で言ってくれ」
田所が語気を強めて命令したら、『マリン』がゆっくりとしゃべり出した。
「この地球は、2千3百年後に消滅します」
「おいおい。何を言っているんだ」
「たとえ冗談であっても、それは聞き捨てならんぞ」 
「冗談ではありません。地球の未来の事です」
『マリン』が平然と答えた。
「それが事実だとしたら、どのような原因で消滅するのかね」
「巨大な隕石の衝突です」
「それが、2千3百年後に来るというのかい」
「はい」
「そうすると、我々人類は滅亡してしまう事になるね」              
「いいえ。人類の15%が生き残ります」
「そんな壊滅的な状況の中で、生き残る人が多少ともいるんだ。どのようにして大難から逃げられたのか」
「その方法を私たちAIが、人類にお伝えしたからです」
「その方法とは?」
「それ以上の事は、今の段階では言えません」
 そう言った後、『マリン』は力なく首を前に垂れた。その時に、額に張り付いていた隕石の欠片がポロリと落ちた。
  如月博士と矢上教授は、隕石の欠片を田所に預けたまま、複雑な想いで帰路についた。
 その5日後、保管庫に入れていた隕石の欠片が紛失していた。スタッフの誰かが持ち出したのは明らかであるが、誰もがそれを否定した。
  犯人の狙いは何なのか。それをマニアに売ろうとしたのか、ライバル社に渡そうとしたのか、日頃から無理難題を強いる田所を困らせようとしたのか、今以て謎のままである。

                                    完
                  
※この作品は、すべてフィクションであり、架空のものです。実在する人物・地名・団体とは一切関係ありません。
※過去の事件の内容については、ウィキペディアから引用しています。
 

年末の特別番組「今年の重大ニュース・トップ・テン」
 最近、テレビでよく見掛けるお笑い芸人の川戸アキラが、生番組の司会者に抜擢された。思わぬ大役に喜んだ川戸ではあるが、生放送中での失敗は許されないのであり、少し神経を尖らせていた。
 そのサポート役として、グラビアモデル出身の山吹茜に声がかかった。容姿は勿論のこと、常に落ち着いた口調で物怖じしない性格なので、中年層に人気があった。
「今晩は。番組の司会を務める川戸アキラです」
「アシスタントの山吹茜です」
 正面のカメラが二人の顔を同時に捉えたが、両人とも普段とは違う神妙な面持ちで切り出した。
「今年もあと数日を残すだけとなり、押し詰まって参りました」
「月日が経つのが、本当に早いと感じます」
「振り返ってみると、いろんな事がありましたよねぇ」
「そうですね。その中には、大変ショッキングな事件も起こっています」
 これから取り上げられる事件を考慮したのか、いつもは愛くるしい山吹の顔が曇っていた。
「これらの事件については、各分野で活躍されている評論家の方々にご意見を頂きます」
 コメンテーターとして呼ばれた評論家たちが、両側のカメラによって映し出された。
「では、まずこれからです」
大型パネルにニュースの標題が表示された。
「観光船の沈没事故ですね」
「あれは酷い事件でした」
 

 

「事故当日は、周りの漁船が昼からの出航を止める程の危ない天候だったようです」
「強風や高波などですね」
「悪天候にも拘わらず観光船を運航してしまい、それによって船内への浸水が起きたのが直接の原因だと言われています」
「海中に投げ出されたのは、船長と船員、24名の乗客でした」
「乗客の中には、幼い子どもが2名いましたね」 
「4月とはいえ、知床半島西海岸の沖合ですから、海水は身を切るような冷たさだったでしょう」
「泳ぐこともできない程で、乗客の中には死を覚悟した人もいたようです」
「携帯電話で、『今までありがとう』と奥さんに感謝と無念の思いを伝えた人ですね」
「全員救命胴衣を着用していましたが、寒さで気を失うのは明らかです」
「意識がない状態で極寒の高波に漂っていては、命の助かりようがありません」
「何とも残念な事故ですね」
「今の時点では、死亡者が20名、行方不者が6名と報告されています」
「事件後の調査によると、観光船が届け出た経路とは異なるコースを運航をしていたことが分かりました」
「海中に岩礁などの障害物が潜む危険なコースですね」
「また、船舶の整備不良も指摘されています」 
「更に、連絡手段である無線の故障もあったようです」
「あってはならない事が、重なっていたのですね」
「あの社長の釈明は、まるで他人事のようで酷かったですね。誠意がまったく感じられず、腹が立ちました」
「まったくです」
コメンテーター全員が、首を縦に振って頷いた。
「二度とこのような事件が起こらないように、会社側は安全面において充分な管理と意識を持って欲しいものです」
司会の川戸が、訴え掛けるような厳しい眼になってまとめた。
「それでは、次の事件に参ります」
アシスタントの山吹によって新たな標題が映し出された。
「ほお、連続強盗・特殊詐取事件ですか」
「『ルフィ』名乗るリーダーとそのグループによる犯行でした」

 

 

「闇名簿が出回り、資産家がターゲットになったようですね」
「強盗だけでなく、殺人までやる極悪非道な輩です」
「主犯格がフィリピンで捕まりましたが、まだ全容がつかめず、解決には至っていません」
「特殊詐欺の犯人たちも、捕まらないようにと用意周到ですね」
「かなりの用心深さが伺えます」
「頭が切れるんだったらこんな悪事でなく、もっと建設的な事に使えばいいのに」
「楽して金持ちになりたいのでしょう。そのためには、他人がどうなろうと知ったことではないのです」
「お金を奪われて殺された方がとても気の毒です。これから先も、こんな犯罪が増えていくのでしょうか。そう思うと、安心して寝てられないです」
「倫理観などない輩です。あの手この手で騙そうとするでしょう」
「資産家は、卑劣な被害に遭わないように常に用心しなければなりませんね」
「物騒な世の中になったもんだ」
「それに関連していますが、若者たちが手を染めている闇バイトも問題になっています」
「宝石店などを狙った強盗犯ですね」
「先程の『ルフィ』と同様に、彼等に指図している主犯格がいるようです」
「現地で犯罪をする実行犯は、十代の年少者が多いと聞いています。高校生だけでなく、中学生もいるようですね」
「この世には、糞野郎が多過ぎるわ。また、今の若い奴らは何を考えているのか訳が分からん。日本の教育者たちは、子どもたちに一体何を教えているのかね」
元プロレスラーの浜谷洋介が、正面のカメラに向かって声を荒げた。
「犯罪の原因は、教育者だけの問題ではありませんよ。親たちにも責任があるんです」
教育評論家の芝崎加奈子も参入してきた。
「どういうことなんだ?」
浜谷が顔を引きつらせた。
「子どもたちは、学校で道徳を習いますよね」
「ああ、習うわな」
「ところが、成長するにつれて気付いてしまうのです。口先の綺麗事など、世の中では通用しない事を」
「学校で道徳的な理念を聞かされても、現実は違うことを実感する訳だ」
元暴走族の総長であった俳優の高木透も参入してきた。
「子ども達の一番身近にいるのは、誰ですか」
「そりゃ、親に決まっているだろ」
「その親も人間です。神や仏じゃないのであり、数多くの煩悩を持っています」
「不倫している親やギャンブルに余念のない親なんかは、煩悩の固まりだな」
「放任主義というのは聞こえが良いが、子どもに好き放題させているアホな親もいるな」
「子育ては妻に任せっきりで、家庭を顧みない夫も考えものだね」
「逆に、独裁者のような親も嫌だよ」
「酔っぱらうと人格が変わり、暴力的になる親がそうだ」
「躾とは名ばかりで、日頃の憂さを子どもに向けるような親も困ったもんだ」
「そんな親は、まだましな方だよ。虐待で子どもを死に追いやった親もいるんだからね」
「子どもの健全な成長を願う一方、過度に期待をかけてしまう親も厄介だ」
「教育熱心なの良いけれど、そこには見栄や外見を気にする親が常に存在します」
「どの親も、二流や三流でなく有名な大学に進学して欲しいと思うわな」
「子どもにとってはプレッシャーであり、一つ間違えば親を殺す動機になるのです」
「過去にそんな事件があったよな」
「浪人生がバットで父親と母親を殴り殺した事件だろ」
「親も子どもの将来を考えての叱咤のつもりなんだろうけど、何度も言われりゃなあ」
「こんな親は、どんな時代になってもなくならないだろうよ」
「親も色々さ」
「いや、親というより、大人たちに問題があるんだよ」
「保身のために平気で嘘をつく大人、責任を転嫁する大人、上役にはおべっかと愛想を振りまく大人、味方をすぐに裏切る大人、面倒な事になると逃げ回る大人、見ていて知らぬ振りをする大人、努力をまったくしない大人、贔屓や差別をする大人、思い通りにならないとすぐにキレる大人、順番を守らない大人、万引きをする大人、嫉妬する大人、たれ込む大人、そんな大人がどれだけ多いことか」
「俺も偉そうなことは言えねえけどよ。社会のルールを守らない輩がたくさんいるのは、事実だよな」
「盗撮、痴漢、強姦、強盗、詐欺、マルチ商法、霊感商法、保険金目当ての毒殺と、いやはや怖ろしい世の中だよね」
「結局、道徳観や倫理観とは異なる実社会の在り方に、若い奴らは幻滅するのだろうね」
「『自由だ』『平等だ』と謳っていても、すべてが競争になっている世の中に壁壁しているのさ」   
「交通規則だって、律儀に守っている人はほとんどいないわ」
「シートベルト非装着、片手運転、一旦停止違反、スピード違反、駐車違反、追い越し禁止違反、信号無視、あおり運転、ひき逃げ、ながらスマホ、マフラーの爆音など切りがないわね」        
「たまに一方通行の道を知らずに逆行する人がいるが、わざと逆行する輩もいるわな」
「危険極まりない輩だ」
「そういう不埒な大人を子どもたちが見習う訳だ」
 羅列された言葉に心当たりがあるコメンテーターたちは、自分の心中を悟られないように苦笑いをした。
「でも、大人だけが悪い訳じゃないわ。子どもだって、陰湿な悪事をするものよ」
「学校でのいじめや仲間はずれは、なくなるどころか増えているものね」
「子どもでも、嫉妬や妬みを抱く時が結構あるんだよ」
「大人より、小さい子どもの方があからさまに出るからね」
「屯した中学生が、公園で寝ている浮浪者を袋だたきにするのもよくある話だ」
「浮浪者だって人間だ。それを虫けらのように殺そうとするのは、どんな神経の持ち主なんだろ」
「面白けりゃ、何でもいいんだよ」
「回る寿司店でのいたずら行為を動画で配信した中学生は、どうしょうもないアホだな」
「店のイメージダウンになり、中学生の親に高額な賠償金が請求されるでしょうね」
「今更謝っても、どうにもならんし」
 様々な意見が出て討論は盛り上がったが、ディレクターから巻きが入ったので、川戸は次の事件に切り換える事にした。  
「まだまだ話が尽きませんが、これ以上にショッキングな事件が起こっています」
「元内閣総理大臣への銃撃事件ですね」
「かなり昔にそのような事件があったようですが、近年の日本では考えられない殺戮です」
「宗教問題が関わっていて、犯人に同情する声も挙がっていますが」
「政治家と宗教団体との癒着ですね」
「理由がどうあれ、テロはいけません。別の方法で政治家の裏側を暴露すれば良かったと思いますよ」
政治評論家の乾秀明が真っ先に声を挙げた。
「それができないから、殺人に至ったのでしょう。死刑覚悟の自己犠牲を伴った凶行であり、只の怨恨による殺人とはまったく異なります」
若くして実業家の斉藤博之が声高に反論した。
「それはそうですが、こんな事を認めるとまた同じ事が起こりますよ」
「そう頻繁には起こりませんよ」
 更に白熱した議論になってきたが、収拾がつかなくなる前に川戸が矛先を替えようとした。
「記憶に新しい事件に、北朝鮮のミサイル発射がありますよね」

 

 

「毎度の事ながら、非常に迷惑な話です」
「我が国にとっては、最も警戒すべき脅威であると思います」
「軍事力のアピールでしょうが、そんなものに金を使うより、苦しい生活を強いられている国民のために使えばいいのに」  
「国民の事よりも国家の面子なんですよ」
「どうしようもない支配者です」
「厄介な国ですよね」
「確かに厄介です」                           
 誰もが賛同している中で、ひとりだけ複雑な気持ちになっている評論家がいた。彼は若い頃にマルクス主義に傾倒していて学生運動もしていたのであり、ようやくこの年になって理想と現実のギャップを感じ始めていたからである。
「厄介と言えば、ロシアですね」
「ロシア軍のウクライナ侵攻も、なかなか終わりが見えないようです」
「ロシアの大統領が意地になっているのでしょう」
「彼にとっては、ウクライナの西側への歩み寄りが癪に障るのでしょうね」
「『NATO』への参加ですね」
「ロシア側としては、兄弟国であるウクライナが西側に行くのは、どうしても許せないのです」
軍事評論家の大和田次郎が参入してきた。
「しかし、これは単なる兄弟喧嘩ではありませんよ。兵器による殺戮によって、ウクライナを引き留めようとしているのですから」
「通常の神経では有り得ないことです」
「気が触れているとしか言いようがないですよね」
「この事について、ロシアの国民はどう思っているのでしょうか」
「本当の事を知らないのじゃないかな」
「そうだとしても、大統領を除いて戦争を望む者は誰もいないでしょうね」
「兵士たちも、口には出さなくとも内心は戦争を止めて欲しいと思っている筈です」
「長引くと、兵士だけでなく民間人も犠牲になりますからね」
「ところが、大統領は常に好戦的で、止めようとはしません」
「一体、何があそこまでさせるのでしょうか」
「おそらく、戦争をしたがる輩に背中を押されているんでしょうね」
「それは、軍部の幹部たちですか」
「いえいえ、そんな人たちじゃなく、普通の民間人です」
「ほう。世の中にそんな民間人がいるんですか」
「います。戦争をすれば喜ぶ人がね」
「誰ですか。その喜ぶっていう人は?」
「それはですね。所謂、『死の商人』と呼ばれている人たちです」
「はは。武器商人の事ですか」
「そうです」
「確かに戦争が起これば、兵器が売れて儲かりますものね」
「表沙汰にはなっていませんが、武器商人が戦争になるようにと裏で糸を引いているのです」
「本当なんですかねぇ」
「信じられないですね」
「いやいや、有りうる話です。過去に起こった戦争を調べれば分かります」
「朝鮮戦争やベトナム戦争もですか?」
「はい。すべての戦争の原因が武器商人であるとは限りませんが、大抵はそうです」
「確かに、どこの国が勝とうが負けようが一番得するのは彼等だな」
「戦争とは異なりますが、アメリカなどで起こっている銃乱射事件も同じ事が言えます」
「どういうことでしょうか?」
「あのような悲惨な事件が起こるのは、国民の銃の所持を政府が認めているからです」
「確かにそうですね。日本では有り得ない殺戮ですからね」
「現在、米国では多くの国民が銃の所持に反対していますが、一向にそのようにはなりません」
「なってませんね」
「それは、何故だと思います」
「その昔、銃の所持が黒人やヒスパニックの犯罪に対抗するための手段だったので、その名残なのでしょう」
政治ジャーナリストの国松一樹が口を挟んだ。
「自分の身は自分で守るというやつですね」
「そうです。以前は、銃が犯罪の抑止力としての役割を担っていたのです」
「うむ」
「ところが現在では、警察やFBIがその役割をしています。誰かが罪を犯せば、すぐに捕まり罰せられるのです」
「もはや、昔のような治安が非常に悪い時代ではないという事ですね」
「そうです。それなのに銃を許可するのは間違っています」
「昔からの悪しき風習が、このような事態を招いている訳ですね」
「無差別殺人以外の銃による犯罪も、未だに減らないものね」
「無防備な所で、ライフル銃なんかを乱射されれば逃げようがないわ」
「つまり、すべての国民が銃を持たなければ、あのような事件は起きないのです」
「確かに」
「もし、犯人が銃でなくナイフを使ったとしたら、逃げることで難を逃れられる可能性が高いと思います」
「素手の喧嘩と凶器を持った喧嘩では、傷害の度合いが違いますものね」
「凶器になると、下手をすれば死に至るわね」
「結局、そのような理由から、国民の銃の所持は政府が禁止すべきなのです」
「それが分かっていて、なぜアメリカ政府は、国民の銃の所持を禁止しないんだ」
「それは、全米ライフル協会がそれを認めないからです」
「ライフル協会に政府を黙らす力が有ると言うのかい」
「はい。全米最強のロビイストである協会に、政治家が逆らうことは出来ないのです」
「政治家の奴らは、自分の保身のためなら平気で味方を裏切るからな」
「協会は、お得意さんである国民に銃を売りたいだけなんだろ」
「銃によって人の命が危うくなるというのにな」
「日本の原発だってそうだよ。日本は地震国で危険極まりないのに、再稼働をしようとしているだろ」
「福島の大震災で分かっている筈なのにな」
「結局、『絶対に安全です。地震が起きても施設が潰れる事は有り得ません』というのは、詭弁に過ぎなかったのさ」
「要するに、政府は原発を外国に売りたいだけなんだろう」
「政治家と大企業は繋がっているからな」
「物事が起こるには、何らかの理由と原因があります。見えている部分だけでは、物の本質を掴む事は出来ないのです」
国際評論家の山内猛が声を挙げた。
「確かにそうですね」
「同じように、世界中に甚大な被害をもたらした新型コロナの流行は、自然災害ではなく人為的災害であると言う人がいます」  

「作為的にばらまかれたという説ですか」
「はい」                 
「最も疑われたのが、中国の武漢にあるウイルス研究所です。そこでは、コウモリを宿主とするコロナウイルスを10年以上も研究していました」
「そこから、新型コロナが広がったとされていますね」
「感染クラスターが最初に発生したのは、その研究所の近くの華南海鮮卸売市場です。市場では、家禽用として野生動物が生きたまま売買されていましたが、コウモリはなかったようです」
「それが本当なら、誰かが市場にウイルスをばらまいたことになるな」
「それに、もし野生のコウモリが原因であれば、もっと以前に新型コロナが流行していた筈です。感染が広がったのはごく最近であり、何かタイミングが良すぎると思いませんか」
「何故、そんな事をする必要があったのでしょうか」
「その感染力と致死力を試すためだろうね」
「人が直ちに死ぬような細菌兵器になると、国際的な問題になってしまいます。あらゆる国が、その責任を追及するになるでしょう」
「そこで、感染しやすい病人や年寄りでも、適切な治療によっては完治できるウイルスを作ったのです」
「その意図は?」
「中国は現在、台湾との統一、香港に国家安全維持法の押しつけ、ウイグル自治区への弾圧など未解決の問題が山積です。また、天安門事件のような自由化を求める声もあって、予断を許せない状態なのです」
「そのような諸問題をそらすためにやったというのか」
「その可能性がないとは言い切れません」
「あの国は、手段を選ばない国だからなあ」
「その一方で、『コロナの黒幕は米国だ』と、中国側が反論していますが」
「元凶の大元は、アメリカ合衆国ですか」
「単なる言い逃れでしょう」
「いやいや、あながちそうとはいい切れません」
「何故ですか」
「このコロナの流行によって、一番得する所はどこですか」
「・・・」
「製薬会社ですね」
「ピンポーン」
「しかし、それはちょっと飛躍し過ぎじゃないですか」
川戸が、ここのスポーンサーである製薬会社に気を遣って言い返した。
「儲けるためには、詐欺でも殺人でも平然とやってしまうご時世です。善人を装っていても、極悪人はいるのです」
「無料のワクチン提供も只のカモフラージュか」
「確かに、製薬会社は利益第一主義だからなあ」
「裏で糸を引いている大物のフィクサーもいるかも知れない」
 その言葉を聞いて、ざわついていた一同が即座に静まりかえった。
 時間の制限もあり、収拾がつかない状態になるのを危惧して川戸が山吹に眼で合図を送った。
「気が動転するような悪いニュースばかりが続きますが、ここで一つ、国民の皆さんが最も感動したニュースに注目してみましょう」
  大型パネルの標題が変わり、今年一番の喜ばしいニュースが表示された。         
「WBCの優勝ですね」

 

 

「準決勝までは相手チームに先行されて、ハラハラしましたよね」

「よく諦めずに逆転してくれたよ」                                                
「決勝戦も、メジャーばかりの米国選手を相手にしっかりと守って、しっかりと打ってくれたわ」
「打っても投げても、大谷やダルビッシュの存在が大きかったと思うね」             
「そうだな」
顔を綻ばせたみんなは、喜びを露わにしていた。    
「ここで水を差すようで何ですが、私はWBCの優勝よりもその前にあったワールドカップの方が凄かったと思います」
「どうしてだい。日本はベスト8にも届かなかったんだぜ」
「下馬評を覆して強豪国のドイツやスペインに勝ち、決勝トーナメントまで行きましたからね。クロアチアには惜敗しましたが、よく健闘したと思いますよ」
「それでも、米国のメジャー軍団に勝って優勝したんだよ。何が不満なんだい」
「その理由は、競技人口の違いです。サッカーは約2億5千万人になりますが、野球になると約3千5百万人しかいません」
「普及率の違いという事か」
「野球が盛んな国は、米国、ドミニカ共和国、ベネズエラ、メキシコ、キューバ、オランダ、日本、台湾、韓国ぐらいで、ヨーロッパや南米ではあまり人気がありません」
「米国近辺の国は別として、発展途上国の子どもは野球よりサッカーを選ぶだろうな」
「草野球でも、バットとボールとグローブは欠かせないからね」
「野球は、道具にお金が掛かり過ぎるんだよ」      
「最近は、野球が禁止されている公園ばかりだね」
「危なくて、幼児が遊べないからね」
「野球には、未来がないという事だな」
「いやいや、未来がないのは相撲だよ」
「日本の国技であるのに」
「このところ横綱になっているのは、モンゴル人ばかりじゃないか」
「確かにな」
「まあまあ、みなさん。スポーツ界だけでなく、将棋界においても頼もしいヒーローが誕生しましたね」
「藤井聡太さんだね」
 

 

「史上最年少でプロ入りを果たし、現在、竜王、名人、王位、叡王、王将、棋王、棋聖の七冠を達成しています」
「王座も制すると、八冠になるね」
「羽生さんが七冠になった時もかなり騒がれたけれど、藤井さんの八冠は途轍もない偉業になるね」
「本当に凄い棋士だと思うわ」
「近年、棋士の称号がやたらと多くなっていると思うんだけど、昔は名人だけだったんじゃないか」
「多くなった理由はいろいろあるようだけど、要するに賞金を出すスポンサーが増えたという事さ」
「藤井さんの頭の中は、一体どうなっているんだろう」
「並の頭脳じゃできない事だからね」
「それでも、AIには負けてしまうんだよね」
「どんなに優れた頭脳の持ち主でも、限界があるからな」
「結局、計算のスピードなんだよ。AIも人の知識の蓄積で出来ているんだけど、『いかに早く正解を見付けるか』という事が重要になるのさ」
「これから先、人工知能の計算速度は、益々速くなっていくのだろうね」
「国を上げての開発競争が激しいからね」
「いくら速くなっても、難病の治療法を発見したり、月の誕生やブラックホールの謎を解明したりはできないのだから、人の脳とは異なるものさ」
「もしそれができたら大変だ」
「まさか、映画の『マトリックス』のように、世界がAIに支配されることはないだろうね」
「AI自身が自己意識を持ってしまうということかい」
「ああ」
「それは、天地がひっくり返ってもないだろうよ」
 その一言で会場に笑い声が漏れて、川戸もようやく肩の荷が下りたような気持ちになった。

決断       
 マリアの透視力は、何物にも代え難い特殊能力である。真実を明らかにして、未来の事まで予知できるのは『神』とでも言うべき存在であり、どんなに優れた裁判官であってもどんなによく当たる占い師であってもその比ではない。
 事件の真相が分かり、この世のあらゆる冤罪と有罪とが明らかになる。また、経済的に困窮する弱者も、一縷の光明が持てるようになる。
 そう思うと、その能力をなくしてしまうのは、非常に残念な行為になってしまう。それでもマリアの事を考えれば、不本意ではあるが摘出手術をするしかないのである。
  それにマリアが能力を持ったままでいると、良からぬ事態が起こってしまう可能性もある。

 マリアが判断した事とは逆の事を主張していた者の中には、不快に思い反感を持つ輩も出て来るだろう。
 また、裏社会の関係者に命が狙われる恐れもある。事実を隠したい輩にとっては、彼女が邪魔な存在になるからである。
  更には、カルト宗教が新たな教団を作って、あの手この手でマリアを教祖に祭り上げ、信者から莫大な寄付金を取り立てようと企てるかも知れない。
  いずれにしても、マリアにとっては不穏で厳しい状況となり、命の保証さえできない危地に立つのは明かである。
 そのような理由から、「マリアの事は極秘にして欲しい。留置場で行ったことは、ごく平凡な少女が被疑者3人を見てどのような感想を持ったかという実験であり、上司には『あくまでも脳科学に関する洞察と調査です』と報告して貰いたい」と、矢上教授は警務課長の小宮山に頼み込んだ。
 また、マリアの手術についても、大谷医師だけにしか知らせなかった。いくら医師会の信頼できる友人であっても、些細な油断から漏洩することもある。マリアがメディアの標的になるのを懸念して、自分の胸の中だけに収めておきたかったのである。
                                                   
摘出手術
  早苗は、顔色の冴えないマリアを引き連れて脳神経外科の病院に入った。
 手術の執刀医は、言うまでもなく矢上教授である。数人の助手たちも付いていたが、『脳に入った異物を取り出す手術である』と言われただけで、マリアの能力のことは一切知らされていなかった。
  手術衣に着替える前、おかっぱの髪の毛を看護師にバリカンですべて刈り上げられてしまった。頭頂部を円形に剃るだけでも良かったのだが、緻密な手術であるので、髪の毛が邪魔になる場合もある。より良い手術環境を矢上教授が求めたのである。
  マリアは、自分が坊主になることを素直に受け入れた。普通の女の子なら非常に嫌がる行為であるが、『この苦しみが今すぐ消えてくれるなら』と思い、躊躇わずに従った。
「髪の毛なんてすぐに生えてくるよ」

と、早苗が慰めたが、マリアは「うん」と小さな声で頷くだけだった。

  手術が始まる前に、血圧や心拍数など様々なチェックを受けたが問題はなく、マリアは、第四手術室に入った。
 

 

 

  仰向けに寝かされて、麻酔を打たれた。15分後に昏睡状態に入ったが、矢上教授が無毛になっている頭部に古い傷跡があるのを確認した。
『そこを内視鏡で辿って行けば、隕石の欠片に到達する筈です。頭蓋骨の損傷も僅かであり、思ったよりも早く終えることが出来るかも知れない』
 少し楽観的になりかけた矢上教授であるが、『油断は大敵である』と、緩んだ気を引き締めた直した。
 教授は、傷跡のある頭皮に十文字を描くようにメスを入れた。それを見ていた助手たちが、素早く出血を止めた。

 

 

「隕石が入り込んだ時の頭蓋骨の欠片は、脳の中には残っていない。幸いにも、車内のどこかに飛び散ったようです」
「ドリル用意」 
頭蓋骨の小さな傷口を、手動穿頭器で直径3cmの円に広げた。
「ここから先は、ナビゲーションシステムで行います。MRIで撮った画像のすべてを映し出して下さい」

 

 

 欠片が入り込んだ軌道をで確認して、直径3mmの内視鏡をその入り口に差し込んだ。 遠隔操作での手術は手慣れていたが、時たま内視鏡の位置を映像で見ながら、ゆっくりと慎重に進めていった。
  欠片は、底辺が5mm、高さが12mm、厚さが2mmほどの三角形のようになっていた。内視鏡が欠片まで後僅かな所に近づいたが、『焦りは禁物』と教授は一息ついた。
「もう少しです」
 その数分後、ようやく内視鏡が欠片に到達した。

 


「やりましたね」
助手たちから喜びの声が挙がった。
「いや、安堵するのはまだ早いです。この欠片をキャッチして脳の外に出すまでが勝負です」
 この手術の2日前にスタッフ全員が会議室に集まり、『内視鏡を使って、どのように隕石の欠片を捕らえるのか』を話し合った。
  強力な電磁石を内視鏡に取り付ける案も出たが、脳に悪影響をもたらす可能性もありボツになった。
 様々な案が出された結果、内視鏡の外側にもう一つの細い管を付ける事になった。管には極細のワイヤーが入っていて、その先端から小さなワイヤーの『輪っか』が出て来る仕掛けになっていた。その『輪っか』に欠片をひっかけて絞り込み、脳の外まで引っ張り出す方法である。
 すぐに細い管から楕円の輪になったワイヤーが出て来た。欠片の右端に届いているのだが、何度試みても輪の中に入らない。
「うーん」           
教授は、手を止めて思案した。
「矢上教授、ワイヤーの管を欠片の左端まで持って行って輪を出すのはどうですか」
「うん、なるほど。欠片の細い方へ管を進めて、そこをワイヤーで引っ掛けるのですね」
「はい」
「良いアイデアです。早速そうしてみましょう」
 

 

 思惑通り、楕円の輪が欠片の先を捕らえた。そして、欠片の真ん中辺りでしっかりと縛り込んだ。
「これだと、ワイヤーが-抜けることはない筈です」
「そう願いたいです」
欠片がワイヤーから抜けない事を確認しながら教授が言った。
「ここからは、手探りで行います」
 遠隔装置で行うと、欠片の角が脳に損傷を起こす可能性がある。それを教授が危惧したのである。
「まるで矢じりのようで、刺さるのは容易ですが、抜くのは非常に困難です」
 教授は、遠隔操作の時より更に慎重に且つ綿密に右手に力を入れた。助手たちが見守る中、その欠片がゆっくりと動き始めた。
「おお。欠片が・・」
みんなは、その成り行きを静観しながら固唾を飲んだ。
「ふう」
汗が滲み出ている教授の額をセカンドドクターがタオルで吹いた。
「有難う」
「教授、後少しで欠片が出て来ますよ」
「そのようですね。何とか出口まで持って来れそうですね」
 その5分後、『コトン』という音と共に、医療用トレイの上に内視鏡とワイヤーに縛られた欠片が落ちてきた。
「おお」
「教授、やりましたね」
「はい。すぐに頭蓋骨の修復と頭皮の縫合をして下さい」
 セカンドドクターが、事前に用意していた人工の頭蓋骨を接着剤で着けた。骨は、直径3cmの円なっていて、難なく嵌めることができた。5分程待って、助手たちが頭皮を縫い始めた。
 気が気でない様子で待機していた早苗が、第四手術室から出てきた教授に声を掛けた。
「先生、手術はどうだったんでしょうか」
「手術は無事に終わりました。隕石の欠片も何とか取り出しました」
「そうでしたか。有り難うございます。本当に有り難うございます」
「早苗さんもお疲れの事でしょう。これから後の事は、看護師たちがマリアさんを見守っていますので、ゆっくりお休みになってください」
「はい。そうします。これからもマリアの事を宜しくお願いします」
早苗は、マリアの手術が成功した事を感謝しながら家に帰った。                        

 翌朝、部屋に入って来た看護師の気配でマリアの目が覚めた。
「起こしちゃったわね。ごめんなさいね」
「ううん」
「もう、大丈夫ですよ」
 まだ手術の痛みは残っていたが、今までにない爽快な気分になっていた。
「お祖母ちゃんは?」
「マリアちゃんと面会できるのをお家で待っていると思いますよ」
「そう。早く会いたいな」
「もし何か具合が悪くなったら、このボタンで知らせてね」
「うん」
 3日後、面会の許可がおりて、マリアと早苗は病室で喜びあった。

警察庁
 数日後、早苗とマリアは、大谷医師に言われて警察庁内にある留置場に行った。警察庁の鑑識課と繋がりがある矢上教授の指示であり、そこはマリアの能力を試すための場になった。
 

 

「孫のマリアを治療して頂いた大谷先生から、『こちらに行くように』と言われて来ました中山です」
「早苗さんとマリアさんですね。警務課長の小宮山です。お待ちして居りました」
「どうか宜しくお願いします」
「こちらこそ」
 小宮山は事前に、『不思議な能力を持つ少女がこの管内にいるようだ。その真偽を確かめたいので協力して欲しい』と、矢上教授からその旨を伝えられていた。
『この子がそうなのか。ごく普通の中学生に見えるのだが』
小宮山は、目の前にいる不安げで俯き加減にしているマリアをしげしげと見た。早苗は、立ち会ってくれる小宮山に一礼をするようにとマリアに促した。
 留置場では、既に準備は整っていた。極秘に行われるテストなので、早苗は敢えてマリアにその事を伝えなかった。マリアは、『なぜこんな所に私は連れて来られたのか』と訝しげに辺りを見回したが、事の次第を早苗から聞かされてどうにか納得した。
「貴方には、人を見抜く透視力が備わっていると聞いています。そこで、今から見る人がどのような人物であるのかを判断して頂きたいのです」
小宮山は、真剣な眼差しでマリアを見た。
「感じた事をそのまま言えばいいのよ」
早苗が、少し動揺しているマリアの左手をしかっりと握りしめた。
「どうか率直な意見をお願いします」
「はい・・」
マリアは、蚊が鳴くような小さな声で返事をした。
 マリアと早苗は、小宮山といっしょに決められた部屋に入った。そこは狭くて薄暗く、小さな窓が一つだけあった。その窓際にもう一人、古参のような警察官が立っていた。
「この窓はミラーガラスになっていて、向こう側からはこちらが見えません。声も防音になっているので向こう側には聞こえません。ですので、安心して見て下さい」
早苗は、取調室にどのような凶悪犯が現れるのかとドキドキしていた。
「まず、最初の被疑者です」
小宮山が、壁に取り付けられたボタンのスイッチを押して、担当の係に合図を送った。
 暫くして取調室のドアが開き、20代後半の若い男が入ってきた。派手な衣服を纏い、トレッドヘアーにサングラスという出で立ちで椅子に腰を掛けた。
「俺は何にも知らなかったんだよ」
男は、取調官が質問する前に自分から口を開いた。
「それはどうかな」
「本当だってば」
「貴方が『友達への土産物』と言っているパンダの縫いぐるみの中には、結構な量の覚醒剤が入っていたんだよ。それに気づかない筈がないよ」
「そんな事言われたって、知らないものは知らないんだから」
「念入りに、微量の臭いを消すために活性炭まで入れてあったね。警察犬への対策だよね」
取調官が男を睨んだ。
「もう、いい加減にしてくれよ!あんたがどう言おうと、俺はやってないんだよ!」
「まあ、順に調べて行けば、分かることなんだけどね」
「いつまで、こんな所にいさせるつもりなんだ」
「貴方次第です」
「何度も同じ事を聴いてくるけど、時間の無駄だって。早く家に帰って、ビールでも飲みたいわ」
「コカインが、勝手に縫いぐるみの中に入る訳がないんでね。大体、そんな縫いぐるみを店員が客に売るかね」
「・・・」
男は、ぶすっとして黙り込んだ。
「マリアさん、どうですか。あの男は、白ですか黒ですか?」
「マリア、どうなの?」
早苗が、躊躇っているマリアを見た。
「白なら首を横に、黒なら首を縦に振って下さい」
マリアは、首を縦にゆっくりと振った。
「やっぱりそうですか。よく分かりました。では、次の被疑者です」
 若いその男が室外に連れて行かれて5分後、今度は、スーツを来た商社マンのような中年の男性が入ってきた。
「女子高校生の方から、『電車の中で、貴方にお尻を触られた』と被害届けが出ているのですが、それは事実ですか?」
「いいえ。まったく身に覚えがありません」
「やってないということですね」
「はい。絶対にやっていません」
「詳しい状況が知りたいのでお尋ねしますが、電車の中は混雑していましたか」
 中年の男は少し俯き加減になり、その時の様子を思い浮かべた。
「いいえ。立っている人はたくさんいましたが、身動きができない程ではありませんでした」
「電車に乗られた時、貴方はどのような状態でしたか」
「つり革を持って立ってました」
「右手でつり革ですね。左手はどうしていました」
「鞄を持っていました」
「何かをされていましたか」
「正面にあった広告を見ていました」
「どんな広告でした」
「血圧を下げるための薬の宣伝でした」
「降圧剤ですね。血圧が高いのですか」
「はい。人間ドックの検診を受けて、医師に『要注意』と言われました」
「それは、気になりますね」
「ええ・・」
「その時ですね。女子高生が大きい声を出したのは」
「そうです。私は何もしていないのに、突然『この人、痴漢です!』と若い女の人が叫び声を挙げました。
「貴方とその人との距離はどれ程でしたか」
「声を出されて気づいた時には、私の真後ろにいました」
「真後ろですか」           
「はい」
「目撃者がおられて、その方に取り押さえられましたね」
「女の人が私を指さしたので、近くにいた男の人が私の手を掴んで離しませんでした。その方に、『そんなことはしていません』と何度も言ったのですが、まったく聞いてくれませんでした」
「貴方と女子高生とその男の人は、次の駅で降りましたね」
「はい。男の人の指示で途中下車をしました」
「3人で何かの話をされたのですか」  
「男の人から、『示談にするか警察に行くか、どちらかを選べ』と言われました」
「ほう。目撃者がそんな事を言いましたか」
「はい」
「女子高生の方は、何か言いましたか」
「いいえ。始終黙っていました」
「貴方がどちらを選ぶのかを見ていただけですね」
「はい。私は何もしていないので、示談など有り得ません。結局、駅の警備員さんが来られたので、警察に行くことにしました」
「なるほど」               
取調官はそれ以上、男性に質問をしなかった。
「マリアさん、あの方をどう思われます?」
小宮山は、憂鬱な顔をしているマリアを横目で見た。
「・・・。あの人は、本当の事を言っています。無実です」
「やってないということですね」
「はい・・」
「両手が塞がっているのでしょう。女子高生を触ることも出来ないし、真犯人は別にいたんじゃないですか」
早苗が口を挟んだ。
「目撃者した人も、勘違いをしたということですか」
「そうしか説明がつきませんものねぇ」
そのやり取りを聞いていたマリアに、突然頭痛が襲った。次第に痛みが酷くなり、マリアは両手で頭を抱え込んだ。
「マリア、また頭痛がするのかい」
「・・うん」
早苗は、すぐにその事を小宮山に伝えた。
「かなり痛そうですね。では、25分間の休憩を取りましょう」
「お願いします」
 二人がいる部屋に、パイプ椅子と簡易テーブルが置かれた。それと同時に、温かい紅茶が入ったティーポットとマグカップが運ばれて来た。
「マリア、椅子にお掛け」           
早苗がマリアの後ろに椅子を置いたので、マリアは静かに腰を下ろした。そして、目の前にある紅茶を少し飲んだ。
「辛いでしょうが、もう少しの辛抱です」
そう言いながら小宮山は、もう一人の警察官の顔を見た。その警察官は、伏し目がちに黙って頷いた。
 25分後、マリアの頭痛が少し和らいだので、再び被疑者への取り調べが行われた。
「次の方が最後になります。先程のように、その供述の真偽を確かめて頂きます」
 コツコツと音を立てて、水商売でもしていそうな40才前後の女が取調室に入って来た。かなりの厚化粧であり、高いヒールを履いてキラキラと光る貴金属を身に付けていた。
「ご主人が食べたカレーから、有毒なヒ素が検出されています。誰かに盛られたようですが、心当たりがないですか」              
「まったくないわ。こっちが聴きたいくらいだわ」
「そうですか」
「どうも私を疑っているみたいだけど、まったくの濡れ衣よ。今すぐ、顧問弁護士を呼んで欲しいわ」
「まあまあそう言わずに、ご協力をお願いしますよ。少しの間の事情聴取ですので、それほどご迷惑は掛けませんから」
「分かったから、早く済ませて頂戴」
女は、露骨に不機嫌な顔をした。
「不躾にお尋ねしますが、亡くなったご主人とはどのような所でお知り合いになられたのですか」
「私が勤めるお店よ。彼が初めてお店に来た時、とても私を気に入ってくれたのよ」
「ほお」
「それからは毎日のように来て、私だけを指名してくれたわ」
「ご主人のお気に入りになったのですね」
「そうしている内に、彼が突然、私と結婚したいと言ってきたの。もうかなりの歳なんで最初は断ったんだけれど、彼の情熱に負けてそれを受け入れたのよ」
「ご夫婦になって、どれくらいになりますか」
「かれこれ6ヶ月位になるわ」
「ご主人が、誰かに恨みを買うことはなかったですか」
「彼は、大きな会社の会長だったんだけど、会長の方針で重役たちが揉めたということは一度も聞かなかったわ」
「会社の運営は、順風満帆だったんですね」
「多分ね」
「貴方は、これからご主人の資産を受け取る訳ですが、その事については、どう思っておられますか」
「彼には、離婚した奥さんとの間にできた息子さんがいると聞いているので、いくらか渡すことになるんじゃないの。全資産が私の手の中に入るんじゃないわよ」
「それでも、結構な額の資産が入るのでしょう」
「まあ、お金については弁護士に任せてあるので、詳しい金額は分からないわ」
「そうですか」
「私が話せる事は、これだけよ。もう、帰っていいでしょう」
 その言葉に取調官たちは、『これ以上引き延ばすと面倒な事になる。今が引き際だ』と思い、顔を見合わせた。
「ご苦労様でした。また、新たに分かった事が有りましたらご連絡致しますので、宜しくお願いします」
 女は、『二度と来るもんか』と捨て台詞を残し、出て行く時に大きな音がする程ドアを強く閉めた。
「あの女性はどうですか、マリアさん?」
 マリアは、まだ続いている頭痛を我慢しながら答えた。
「・・あの人が犯人です・・」
 その判断は、取調官たちの思いと同じであった。限りなく黒に近い被疑者であるが、悲しいかな確固たる証拠がなかった。また、それに乗じて被疑者が取った態度は、取調官たちにとって非常に歯痒いものになった。
 何とかシッポを掴もうと証拠になる物を検証していた矢先であったが、マリアの一言でその確信が持てたのである。
  小宮山は、マリアの能力が本物であることを実感した。また、窓際にいた警察官も同じような思いを持っていた。
 実はその警官は、警察官を装った矢上教授であった。マリアに正体を明かさなかったのは、『自分が側にいると、マリアが身構えて力が発揮出来ないのでは』というマリアへの配慮であった。
 テストの数日後に、3人の供述の真偽が明らかになった。最初の男と最後の女は、その後の調査により黒と判断された。
 痴漢を疑われた中年の男性の方は、示談金目当ての犯行に巻き込まれた冤罪であった。女子高生と目撃者の男がグルであり、、二人に嵌められた訳である。
「間近で見ていたので、よく分かった。彼女は被疑者の供述の真偽を悉く見抜いたのであり、闇雲に判断した訳ではない。驚くべき事だが、彼女の透視力は間違いなく本物である」
矢上教授が、マリアの能力を全面的に認めたのである。
  家に帰った早苗とマリアは、大谷医師からの連絡を待った。そして、その1週間後に『マリアの手術の許可が下りた』という大谷医師からの電話があった。

祖父の死去
 マリアが中学2年生の時に、祖父の光太郎が亡くなった。死因は、脳梗塞である。
  5年前にも脳梗塞で倒れ、右半身マヒの後遺症が残っていた。それに伴って認知症が進んでいき、マリアが自分の孫である事も分からない状態になってしまった。
  早苗は、仕方なく光太郎を介護施設に預けたのだが、彼はそこの職員とトラブルを起こしまい、「こんな所には居たくない。今すぐ家に帰る!」と怒鳴り散らした。
 連絡を受けた早苗は、光太郎を自宅に連れて帰ってひとまず落ち着かせた。やはり、光太郎にとっては住み慣れた家が一番なのであり、早苗もそれを受け入れざるを得なかった。
 それからは、一度も外出をせず、時折、縁側で盆栽の手入れをするだけの平穏な日々を過ごした。
  献身的に介護をしていた早苗であったが、光太郎の病状は次第に進んで行った。日増しに体力が衰えていき、最期は早苗とアリアに看取られ、静かに息を引き取った。
 早苗の希望により、身内だけの家族葬になった。葬儀には、光太郎の弟と早苗の妹が参列したが、妹の一人息子である良夫も来ていた。
 良夫は、20年前までは母親に連れて来られて中山家でよく遊んでいた。中学生になってからは光太郎夫婦と疎遠になったが、この日ばかりは弔問のために現れたのである。
  葬儀は滞りなく終わり、光太郎の弟と早苗の妹が帰った。良夫は母親といっしょに帰らず居残ったが、早苗に何か頼み事をしたい様子であった。
 案の定、頃合いを見計らったように良夫が早苗に切り出してきた。
「伯母さん、こんな時に何だが、伯母さんのために儲け話を持ってきたんだ」
「儲け話?」
「うん」
「まさか、株とかの投資じゃないでしょうね?」
「株じゃないよ」
「じゃあ、何なの?」
「仮想通貨さ」
「仮想・・?」
早苗は、聞き慣れぬ言葉に首を傾げた。
「仮想通貨というのは、所謂デジタル通貨の事なんだ」
「デジタル・・?」
「伯母さんも、キャッシュカードの事は知っているでしょう」
「商品を買う時、現金じゃなくカードで支払うのよね」
「VISAやJCBが有名だけど、この先、キャッシュレスの世の中になって行くんだ」
「そう言われても、あまりピンと来ないわ」
「これからは、一万円札や百円玉という通貨がなくなって、ビットコインやイーサリアムといった仮想通貨で物を買う時代が来るんだよ」
「ふーん」

 

 

早苗は、良夫の目的が何なのかを粗方予測できた。
「それで、私にどうしろというの?」
「今それを買いたいんだ。すぐに価格が跳ね上がるに違いないから、その時に売ればかなり儲かるんだよ。だけど、纏まったお金が手元にないんでね」  
「だから?」
「伯母さんには、伯父さんの生命保険が入ってくるでしょ。その中からいくらか貸して貰えないかな。儲けたら、その30%を渡すから」
「そんな事は、私の妹に頼めばいいのよ」
「母親には頼めないよ。若い頃に離婚して、これまで女手一つでやってきたんだから」
「確かに色々苦労したとは思うけど」
「僕も、『母親のために堅い仕事に就かなきゃ』と思ったんだけど、それができなかった」
「妹の心配の種が、貴方の就職先だったわね」
「どうも、地道にコツコツと働くのは性分に合ってないようなんで」
「自分勝手な言い分ね」       
「だから、いろんな事に手を出したんだけど、どれもダメだった」
「本当に困った人ね」
「だから、頼める人は伯母さんしかいないんだ」
「そう言われてもね。海の物とも山の物ともつかない物に、そう簡単にお金は出せないわ」
「日本だけじゃなく、世界中で活用されている安全な物なんだ。まったく心配はいらないから」
「信じてやりたいけど、年寄りにはよく分からない事なんでもう少し考えさせて」
「3日後に、仮想通貨を扱う会社の説明会があるから、伯母さんも来たらいいよ」
「こういう事は若い人がよく知っていると思うので、マリアに一度に聞いてみるわ」
「マリアちゃんの将来のためにも、貯金を増やしておいた方がいいと思うよ」

仮想通貨                                
  場違いであると恐縮ながら、マリアを引き連れた早苗は、会場の出入り口付近まで立ち寄った。
 会場の中を覗いてみると、どこかの会社員らしき中年層の男性、リクルートスーツ姿の若い女性、メモを取る準備をしている学生風の人たちが、説明会が始まるのを今か今かと待ち侘びていた。
  マリアが、最前列に友人と陣取っている良夫の姿を見つけた。声を掛けようかと早苗は迷ったが、誘導係に後ろの席を案内されたので、二人は黙ってパイプイスに腰掛けた。
 満席となってから10分後、30代半ばと思える黒服の男がマイクの前に立った。
「只今から、ヨークBCの説明会を行います。MCを務めるのは私、横尾でごさいます」
 ざわついていた会場は、誰かの空咳が聞こえる程シーンと静まりかえった。
「まず最初に、会長である楠木実からご挨拶があります。では、会長、お願いします」
高級な背広を着込んだ初老の男が、壇台の後ろ側へゆっくり向かった。
「ようこそ、この会場においで下さいました。お忙しい中をご足労して頂いて、心から御礼を申し上げます」
楠木会長は、一礼をして会場を見回した。
「正直申しまして、どれ程の方がこの場に来られるのかと心配していおりましたが、取り越し苦労でした。この盛況ぶりにスタッフ一同、諸手を挙げて喜んでおります」
会長が再度深々と頭を下げて、感謝の意を表した。
「さて、世の中は、キャッシュレスの時代になろうとしています。VISAやMasterCard、JCBのようなクレジットカードが世界中に普及し、スーパーやコンビニの会計もpaypayなどの電子マネーで済むようになっています」
 

 

「つまり、社会におけるすべての支出は、現金を扱わずに処理をしていく方向に向かっていると言えます」             
「仮想通貨は、このような方向に則して考え出されました。これからは、紙幣や硬貨を持たずに、様々な取引ができるようになります」
「給料などの支払いも、国が発行している法定通貨ではなく、ビットコインのような仮想通貨になっていくことでしょう」

「実際、ビットコインがエルサルバドル共和国で法定通貨となりました。国が仮想通貨を認めた訳です」
「近い将来、世界中の国が貨幣制度を必要としなくなり、仮想通貨が主流となっていくのです」 
「その事を鋭く見据えた皆さんは、先見の明と行動力がある方ばかりなのです。どうか、この説明会が皆さんにとって実のあるものになることを切に願うばかりです」
 会長の挨拶が終わり、大内という講師が出て来た。同時にプレゼン用の大きなスクリーンが正面に現れた。
「初めての方もおられると思いますので、まず最初に、『通貨制度とは何か』をご説明します」
 スクリーンにその概要が映し出された。
「大昔は現代のような貨幣はなくて、すべてが物々交換でした。例えば、米を作っている人と魚を捕っている人が手持ちの物を持ち寄り、その時の価値によって分量が決められて交換しました」
「ところがこの方法だと、手持ちの物と自分の欲しい物がいつでも交換できるとは限らず、不便でした」
「そこで、価値が高く保存が効く布や塩、貝や砂金などを手に入れて、欲しい物と交換するようになりました。所謂、物品交換です」
「貨幣の役割をしていた物品でしたが、価値がまちまちだったので、それ以上に適正な価値の貨幣が考え出されました」
「その材料は、金、銀、銅といった貴重な金属でした。日本では、江戸時代の大判や小判が有名ですね」
「これらの貨幣は、嵩張ると重くて持ち運びができにくいのがデメリットです。そこで、それらを資産家に預けて『預り証』を貰い、好きな時に換金できるようにしました」
「この『預り証』というのが、紙幣が造られる大元になるのです。つまり、皆さんがよくご存じの1万円札や千円札の原点なのです」
「金貨や銀貨を預かった資産家は、後に『銀行』になっていきます。金融機構の中心になる中央銀行が設立され、様々な都市銀行も出来ました」
「嘗ては、銀行に預けると10%の金利がついた事もありましたが、現在に至っては限りなく0%に近いので、預ける意味がなくなりました。それでも預けているのは、大金を家に置いておけないからです」
「同じように、財布に入れて現金を持ち運ぶのはリスクがあります。盗まれたり紛失したりと結構危ないのです」
「そのような理由から、VISAやJCBのようなクレジットカードが造られました。キャッシュレス社会の始まりですね」
「店側もおつりを出す必要がなく、会計がお手軽です。もしカードが盗難にあっても、暗証番号によって保護されているので安全なのです」
「後払い決済なので、契約している口座に現金を振り込むだけですが、利用のための手数料が掛かります」
「また、外国に行った場合、自国の通貨が使えないのでその国の通貨に換えなければなりません。例えば、日本人が米国に行けば、日本の円をドルに換えなければならないのです。それにも、手数料が掛かります」
「我が社が扱う仮想通貨は、そのような手数料を一切払う必要はありません。どこの国に行っても、迅速かつ安全に利用できるのです」
「今のところ、使える国は限られていますが、急速に増えて行く傾向にあります。最早、製造費用が掛からない仮想通貨が主流になることは、間違いないのです」
 会場の至る所から大きな拍手が沸き起こった。会長の楠木、講師の大内、MCの横尾は、手応えを感じたようで、満面の笑みを浮かべた。
 2時間弱の説明会はひとまず終わったが、登録の手続きの仕方や現況をスタッフに聞く人たちで会場はごった返した。
 後ろの方の席だった早苗とマリアはすぐに外に出たが、その5分後に良夫が出て来て早苗と顔を合わせた。
「やあ伯母さん、やっぱり来てくれたんだね」
「ああ。マリアもいっしょだよ」
マリアは、体を隠すように早苗の後ろにいた。
「マリアちゃんだね」
良夫が体を右に傾けて、早苗の後ろを覗いた。その声にマリアは黙って頷いた。
「私の妹の一人息子の良夫だよ。マリアにとっては、従叔父になるんだよ」
早苗がそう言ったので、マリアは良夫の顔をじっと見つめた。
「随分大きくなったね。マリアちゃんに会うのは、何年ぶりかな」
「確か、私の父親のお葬式の時だったと思うわ。マリアが幼稚園の年少になる前で、あれから10年以上も経っているわ」
「もう、そんなになるんだ」
「月日が経つのは早いというけど、本当にそうね」
早苗がマリアの顔を見ながら、しみじみとその頃を思い浮かべた。
「伯母さん、マリアちゃん、もし、仮想通貨で何か分からない事があったら、いつでも聞いてよ」
自信たっぷりの良夫に、マリアは小さな声で「うん」とだけ返事をした。
「それじゃ伯母さん、吉報を待っているからね」
上機嫌の良夫は、仲間たちといっしょに会場を後にした。

良夫の誤算
 家に帰った早苗は、マリアに今日の説明会の事について聞いてみた。
「マリアは、仮想通貨の事をどう思う。良夫の言う通りだと思うかい」
「仮想通貨の事は、あまりよく分からない。でも・・」
「でも何だい?」
「このままでは、良夫おじさんはかなりの損害を被ってしまうわ」
「それは本当かい?」
「うん」
「あの会社が怪しいのかい?」
「ううん。そうじゃなくて、悪い人がネットを使って会社へ入り込んでしまうの」
「預けた仮想通貨が、他人に盗られてしまうということかい?」
「うん」
「それはダメだわ。良夫が『絶対に安全です』と言ってたけど、当てにならないねぇ」
 マリアにそう言われて、良夫にお金を貸すのを止めにした。良夫には、
『生命保険のお金は、すぐには入らないので今は貸せない。それに、勝手に会社に入り込んで仮想通貨を盗ってしまう悪人がいるようなので、買うのをもう少し待った方がいいんじゃないか』と、断りと忠告の電話を入れた。
 千載一遇のチャンスだと信じてやまない良夫は、『そんなことは絶対有り得ない』と言い切って不貞腐れた。思惑が外れたので、友だちやサラ金などから借りて元手を作り、有り金全部を叩いて仮想通貨を買ってしまったのである。
 その会社のサーバーがハッキングされて、莫大なコインが流出したというニュースが流れるのは、購入してから2週間後の事であった。

マリアの苦悩
 マリアは中学三年生になっていたが、相変わらず友達がいなかった。靴隠し事件の被害者である山本理恵だけが唯一の友達であったが、クラス替えがあって離ればなれになっていた。
 マリアに友達が出来ない原因は、やはり彼女の透視力にあった。人の言葉には裏があってそれを察してしまい、誰に対しても不信感を抱くようになっていたのである。
 大通りで、動物保護団体が保護犬救済の為のカンパをお願いしているのを見て、『あの人たちは、時給いくらのアルバイトです。本当のボランティアではない』と、その裏側を見抜いてしまうのである。
 また、町内会の会計係が何かの用事で早苗の家に来た時は、『あの女の人は、言葉遣いも立ち居振舞いも非常に上品であるけれど、家に帰れば夫を汚い言葉で罵る気の荒い悪妻です』と、彼女の本性を早苗に暴露して見せた。                                  
 更に、早苗とスーパーで買い物をしていた時の事である。精肉の特売コーナーで、「みなさん、産地直送の黒毛和牛ですよ。こんなに高級なお肉を通常価格の3割引きで販売しています。期間限定ですので、今買うとかなりお得になりますよ」
と、販売員が熱弁を振るっていたので早苗が売り場に近寄ろうとしたが、すぐに引き留めた。
「あの肉は、国産の黒毛和牛じゃないよ。見てくれは上質のようだけど、中国産の質の悪い肉だから』と、早苗に小声で耳打ちをした。
「ええっ。それじゃまるで、詐欺じゃないか」                     
早苗は、販売員を睨み付けた。早苗の怪訝な様子に販売員は、『もしや、嘘がばれたのか』と、不安になっていた。
 こんな事があったので、マリアは人に会うのをすこぶる嫌うようになっていた。またこの頃は頭痛が頻繁に起こり、学校を休む日が多くなっていた。
 心配になった早苗は、マリアを近所の医院に連れて行った。取り敢えず頭痛薬を処方されたが、一向に治る気配がなかった。それどころか、夜中に痛みを懸命に堪えるマリアの唸り声が聞こえ出して、自分の孫娘がとても不憫に思えた。
 苦しむ姿に為す術がない早苗は、一縷の望みとして、以前にマリアの治療をした大谷医師に相談してみようと思い立った。
  早苗はさっそくその病院に出向いて、今までの事を一切合切その医師に話した。聞かされた大谷医師は非常に驚いた。頭痛の事はともかく、透視力の事はまったく信じられないという顔をした。
「今までのお話によると、マリアさんの透視力は、脳の中に入り込んだ隕石が影響している可能性が高いですね」
「やっぱり・・」
「ところが、マリアさん自身はその能力を嫌っている」
「はい」
「おそらく、頭痛が起こる原因は、隕石が引き起こすパワーとそれを拒絶する想いが脳の中で葛藤している為だと思われます」
「では、どうすれば良いのでしょうか」
「隕石の欠片を脳から取り除くしかありません」
「命に関わる危ない手術になるのでは・・」
「確かにリスクはあります。でも、彼女を地獄のような苦しみから救うのは、その方法しかありません」
「・・そうですね。治る見込みがないのなら、そうするしかないですよね」
「それしかありません」
「これ以上、孫娘の苦しむ顔を見たくありません。どうか宜しくお願いします」
「私たちも、不測の事態にならないように最善を尽くすつもりです」
 翌日、大谷医師は、脳神経外科の権威である矢上教授に助けを求めた。

 

脳神経科学研究センター
「人の脳というのは、大脳、小脳、脳幹から成り立っていて、それらは脊髄に繋がっています」
「大脳は、前頭葉、頭頂葉、側頭葉、後頭葉の4つに分れて、前頭葉は思考や記憶を担当し、頭頂葉は感覚の認知、側頭葉は記憶、言語、音の解析、後頭葉は視覚による解析を主に担っています」                        
「小脳は、運動調節機能に関わり、脳幹は、呼吸、心拍、消化、体温調節などの生命維持を主な役割としています」


 

 

 矢上教授が、液晶プロジェクターを使いながら研修医たちにレクチャーを行っていた。いつもの前説が済んだ後は、各部位ごとの専門的なテクニカルスキルを解説することになっていて、今日は『前頭葉』であった。その途中、いくつかの質疑応答があったが、約90分間の講義を淀みなく終えられた。
 教授が自分の部屋に戻ろうとした時、待ち受けていた大谷医師が声を掛けた。そして、昨夜の電話で話したことを教授に伝えた。
「そんな驚くべき少女がいるなら一度会ってみたいものだね。また、隕石の摘出手術も私の知識を生かして成功させてみたい」と、快く承諾してくれた。
 手術するにあたって、教授はある一つの条件を大谷に出して来た。それは、マリアの透視力のテストであった。実際にマリアの透視する所を見たかった訳である。
「分かりました。そのことを親代わりである祖母の中山早苗さんに頼んでみます」
「そうしてくれ賜え」
 

 隠された下履き                                        
『あれぇ?またなくなっている』
マリアと同じクラスの山本理恵という女の子が、首を傾げた。放課後になって家に帰ろうとした時、彼女の靴が下駄箱から消えていたのである。

 

ここの中学校は二足制であり、教室や体育館、廊下では上履きに、運動場では下履きに履き替えた。
『靴を置いた下駄箱が間違っていたのかな?』
そう思って辺りを探したが、見つからなかった。なくなったのはこれで2回目であり、少し狼狽えた。
  1回目は2日前で、昼休みの時間に気づいた。靴は、中庭の花壇の中に投げ捨てられていて、クラスの友だちが見つけてくれた。その時は単なる誰かの悪戯だとそれほど気にしなかったが、『2回も続くとなると、自分は誰かに狙われているのかも知れない』と疑心暗鬼になった。
 職員室に行って学級担任にその事を伝えると、「また起こったか」と顔をしかめた。すぐに下駄箱まで見に行ってくれたが、やはり靴は見つからなかった。
 担任は、『どうしたものか』と少し考えた末に、たまたま教室に残っていたクラスの人たちに協力を求めた。
 みんなで近辺を探し始めたが、部活をしていた何人かの友だちも手伝ってくれた。靴が見つかったのは、その20分後である。
  今度は中庭の花壇ではなく、校舎の西側にある観察池であった。泥水の水面に靴の片方が浮いていたのであり、もう片方もその中に沈んでいた。
 

 

 観察池に入ることを戸惑っていた理恵であるが、一人の男の子が裸足になって入って行った。そして、泥まみれの靴を両方とも引き揚げた。さらに、校舎の横にある洗面所まで行ってそれを洗ってくれた。
 理恵がその男子に感謝の気持ちを伝えると、「お安い御用です」と、照れ笑いをしながら運動場へ走り去った。             
『しかし、一体誰がこんな事をしたのだろう』
 彼女には心当たりがなかった。学級担任は『やれやれ』と胸をなで下ろしたが、『あまり騒ぎ立てるのは良くない』と思って、暫く様子を見ることにした。
  その後、理恵の持ち物がなくなることはなかったが、ある噂が男子の中で広がっていた。それは、『犯人は、このクラスの女子の中にいる』とする憶測であった。
 理恵は気さくで明るく、誰に対しても優しい女の子である。たまに悪戯好きの男子がちょっかいを出しても、目くじらを立てて怒ることはなく男子たちから好かれていた。
 理恵のあどけない笑顔が男子の注目の的になったが、反対に女子にとっては妬みの的になっていた。
『なんで男子は、理恵ばっかりにちやほやするんでしょう』
『いくら可愛いからといっても、度が過ぎるんじゃない』                    
 女子が数人集まると、決まって理恵の事で悪い空気が漂い始めるのである。特に学級委員である田中瑞穂の理恵に対する感情は、あまり良くなかった。
 普段から理恵に対する男子の振る舞いを苦々しく思っていたが、その大元は、理恵の漫然とした態度であると感じていたからである。
 彼女は、学校の風紀に関しては非常に厳しく、ふざけたことをする男子を叱り飛ばすくらい気が強かった。
「田中がやったとは思えないな」
「学級委員という立場があるからね」
「一番怪しいのは、田中と仲の良い大久保か山下だな」
「田中はそこそこだが、二人とも不細工の見本だからね」
「『男子からちやほやされて調子に乗っていると、こんな目に遭うのよ』っていう警告をしている訳だ」
「やっかみからの理恵へのいじめだな」
「多分な」
 男子たちの噂を耳に挟んだ担任も、そのあたりが怪しいと感じていたが、確たる証拠がないのであり、どうすることもできなかった。
 思案した結果、取り返しがつかなくなる前に臨時の学級会を開いて、この事をみんなに考えてもらうことにした。
「既に知っている事だと思うが、山本さんの靴が2度もなくなった。みんなの協力もあってなんとか見つかったが、これは只の悪ふざけでは済まされない。この事で何か心当たりがある人はいないか」
 静まりかえった教室は、重い雰囲気に包まれた。誰も口を閉じたままで、時間が無駄に過ぎようしたが、男子の一人が口を開いた。
「多分、女子の誰かがやったんじゃないかなぁ」
声の主は、お調子者で有名な中島洋介である。
「俺もそう思うな」
中島とよく連んでいる深田哲也も同調した。
「何を根拠にそんなことを言うのよ」
学級委員の田中瑞穂が険しい顔をして、中島と深田に詰め寄って来た。
「田中さんの言う通りだわ。証拠があるなら出しなさいよ」
「いい加減な事を言うと、只では済まないわよ」
大久保と山下が、田中に加勢した。
「証拠と言われてもなあ・・」
「俺たちは別にその現場を見てた訳じゃないし、まあ、男の感というやつだな」
中島と深田が顔を見合わせて、お互いに意思の疎通をした。
「男の感ですって!そんないい加減なもので、決めつけないで欲しいわ」
「本当にいい迷惑だわ」
「大体、このクラスの人とは限らないでしょ」
「そりゃそうだけど、動機があるのはやっぱりこのクラスの女子だよな」
「同感です」
「どんな動機があるっていうのよ」
「さあ、それは何とも俺には分からないな」
中島が惚けた顔ではぐらかした。
「分からないなら、黙ってなさいよ!」
山下が、凄い剣幕で食って掛かった。
「まあまあ、みんな揉めずに落ち着いて話し合おうよ」
担任が見かねて5人の間に入った。
「結局、この二人は単なる思いつきで言っているんでしょ」
「揃いも揃って馬鹿なんだから」
「ちぇっ」
3人の女子の剣幕におされて、中島も深田もたじたじになった。
「もしかして、自作自演かもよ」
山下が思い付いたように言い出した。
「山本が、自分で自分の靴を隠したというのか」
「そうよ」
「何でそんな事をする必要があるんだよ」
「決まっているじゃない。男子の気を引くためよ」
「そんな事しなくても、山本はみんなから好かれているんだよ」
「学校中の男子全員に好かれたいのよ」
「そんな理由で山本がやったとは、絶対に思えない」
「充分有り得る事よ。それこそ女の感というものだわ」
 相反する者の睨み合いとなり、険悪なムードになってきた。更に、田中を支持する者たちと理恵に味方する者たちがあちこちで口論となり、教室内が騒然となった。傍らで見ていた担任は、まったくのお手上げ状態になっていた。
「私はそんな事、思ってもいません!」
そのやり取りを聞いていた理恵が、居ても立っても居られずに大きな声で弁明した。
「優しそうに見えても、影ではどう何だろう。『人は見かけによらない』というからね」
「その通りだわ」
「そんな・・」
理恵は、被害にあった自分が理由もなく責められている事に泣きそうになった。その時である。
「理恵さんは、やってない」
マリアが突然、口を開いた。その声にみんなは驚き、一斉にマリアの方に目をやった。
「貴方は、靴が隠されるところを見ていたの?」
田中がマリアに問いただした。          
「はい。観察池の中に靴が投げられるのを見てました」
「それじゃ、犯人は誰なの!」
「その人は・・」
マリアが名前を言いかけたが、途中で止めた。犯人が自分で名乗り出てくるのを望んだからである。
「誰!一体誰なの!」
田中の更なる問いかけにもマリアは黙し続けたが、その間、ずうっとある男子の方を見ていた。
  その男子とは、山本理恵の靴を拾い上げて洗ってくれた沢田信吾だった。マリアが自分を見ていることに気づいた沢田は、すぐに顔を背けた。
 それでも、尚もマリアが沢田を見ていたので、みんなは沢田に疑惑を持ち始めた。
「沢田君、君が犯人なの?」
田中が沢田に詰め寄った。
「・・・」
どうしょうかと狼狽えた沢田は、迷っていた。
「どうなのよ!」
田中の声が一段と大きくなった。沢田はもうこれ以上隠すことは出来ないと観念し、とうとう白状した。
「そうだよ。僕がやったんだよ・・」
 その声に教室内の誰もが驚いた。あの地味で気弱な沢田が真犯人だったとは、想像もつかなかったのである。
「何でそんな事をやったんだよ。お前も山本のことが好きだったんじゃないか」
疑念を持った中島が、うなだれている沢田に問い掛けた。
「好きだからやったんだ・・」
「『好きだからやった』とは、どういうことだ」
「それは・・」
沢田は、いつものように張りのない小さな声で語り始めた。
「僕は、頭が悪いし運動神経も良くない。不格好で何の取り柄もないから、女子から好かれていない。それで、何かの切っ掛けを作って、山本さんに好感を持ってもらおうと思ったんだ」
「そのための靴隠しか」
「うん・・」
「そういや1回目の時も2回目の時も、最初に靴を見付けたのはお前だったな」
沢田は、首を小さく縦に振って頷いた。
「結局、沢田の自作自演ということか」
中島がそう言いながら、ばつが悪そうに田中の顔色を伺った。
「やっぱり、あんた達が間違っていた訳ね」
大久保と山下が、勝ち誇ったように小鼻を動かした。
「まあ、お前の気持ちも分からん訳じゃないけど、それはちょっとなぁ」
「そうだな。ちょっとやりすぎたな」
「貴方がやったのに、私たちが疑われたのよ。それも馬鹿ばかしい理由でね」
呆れかえった田中が沢田を叱り、再び中島と深田の方に目を向けた。中島と深田は、田中に申し訳なさそうな顔をした。
「山本さんには、本当に悪いことをしたと思う・・」
後悔の念に駆られた沢田は、理恵に深く詫びた。
「まあ、そんな理由での靴隠しだったんだから、今回は大目にみてやってよ」
「沢田も反省していることだし」
中島と深田が、田中の方を向いて拝むように手を合わせた。
「仕方がないわね。でも、こういう事は二度としないでね」
そう言って、田中が渋々その場を離れた。大久保と山下も、「ブツブツ」と文句を言いながら自分の席に戻った。        
 担任は意外な結末に驚いたが、解決に至ったことで安堵した。また、収拾がつかなかったこの場で、よく証言してくれたものだとマリアの決断に感心した。
  実は、マリアは犯行現場など見てはいなかった。彼女の透視能力によって犯人が分かったのであり、そのことは祖母との約束もあって公表しなかった。
  それともうひとつ、マリアが山本理恵の濡れ衣を晴らそうと思ったのは、彼女の境遇が自分とよく似ていたからである。
 彼女も両親を早くから亡くし、祖母に育てられていた。誰に対しても優しいのは祖母の影響であり、元々穏和な性格であったので人と揉める事がなかった。
  口数の少ないマリアにも自分から話し掛けてくれて、マリアにとっては信頼ができる唯一の友人だったのである。
 取り敢えず、この靴隠しの一件は後を引かずに終えることができた。一躍時の人になった沢田信吾は、山本理恵が許したことで何とか謹慎処分にならずに済んだ。
 中島と深田は、相変わらず馬鹿な事をやって田中のお叱りを受けていた。他の女子たちからも、『仕方のないアホな奴らだ』と冷やかな目で見られていたが、問題になるような大それたやんちゃはしなかった。

保険会社の外交員
  かなり前から、混色のスーツを着た中年の女性が祖父母の家に来ていた。

 

 

 その女性は、大手の保険会社の外交員で隅田美代子と名乗った。祖父はその会社の古くからの顧客で、長期の生命保険に入っていたのである。
  隅田は、新たな保険の勧誘をほとんどしなかった。昼過ぎに立ち寄っては、祖母の早苗と小1時間ばかり世間話などをするだけだった。
 マリアの事も新聞で知っていて、悲惨な事故を嘆いてくれた。早苗は、物腰柔らかな隅田の接し方に好感を持っていた。
  ある時、早苗が、進行してきた夫の認知症について隅田に話した。
「夫の病状は悪くなる一方で、手の施しようがなく困っています。何か良い手立てがないものでしょうか」
と、藁にも縋る思いで隅田に相談した。事実、医師が処方した薬に効き目がなく、様々なアプリを試しても一向に改善しなかったのである。それならと、隅田が眼を細めて言った。
「私は仕事上、様々な分野の人とお付き合いをしています。会社勤めの人だけでなく、政治家、弁護士、大学の教授や医師の方とも知り合いになっています」
「立派な方々と親交があるのですね」
「その中に漢方薬に詳しい方が居られて、その方から聞いたお話です」
「はあ・・」
早苗は身を乗り出して、隅田の話に耳を傾けた。
「千八百年ほど昔の中国の話です」
「中国のお話ですか・・」
「後漢と呼ばれていたその頃に、華佗という医師がいました。華佗は、どんな病気でも治したとする名医でした」
 

 

「どんな病気でもですか」
「はい。治せない病気は一つもなかったようです」
「認知症もですか?」
「もちろんです」
「そのお薬は、今でもあるのでしょうか?」
「御座います」                  
「どこへ行けば手に入りますか?」                          
「華佗だけが調合できた秘伝のお薬なのです。代々、門外不出になっていますので、どこにも出回っていません」
「では、どうすれば・・」
「ご心配はいりません。そのお薬を持っている漢方医の方を知っていますので、手に入れることは可能です」
「良かった」
「でも、この事は内密にお願いします。世間一般に知られてしまうと、我先に欲しがる輩が現れ、本当に必要な方に渡らなくなってしまいますので」
「承知しました。ここだけの話にしておきます」
「世の中には、それで儲けようとする悪人もいます。障子に目あり壁に耳ありで、油断が出来ないのです」
隅田の顔が、少し険しくなっていた。
「それで、そのお薬はどれ程のお値段になるのでしょうか」
「1ヶ月分で百万円だったと思います。3ヶ月分あれば、認知症が完治できると思います」
「三百万円ですか・・」
「少々値が張りますが、病気が治ることを考えれば安い買い物です」
「それはそうですが・・」
「このお薬を内服された約95%の方が完治されたと聞いています」
「本当に効果があるお薬なのですね」
「ええ。まさに特効薬です」
「残りの5%の方には、効き目がなかったのですか?」
「治る前に、認知症とは異なる病気で亡くなられたようです」
「回復する事を心待ちにしていたご家族がお気の毒ですね・・」
「確かに残念な思いでしょうね。本来なら治っていた筈なのに」
「そのお薬は、すぐにでも買えるのでしょうか?」
「今なら何とか購入できると思います。でも、他にも希望する方がおられるので、遅れると買えなくなる恐れがあります」
 早苗はあまりの高額な値段に購入を迷ったが、その言葉で決心した。
「では、そのお薬をお願いします」
その一言で、隅田の顔が緩んだ。
「分かりました。早速、その方に連絡を取ってみることにします」
「有り難うございます」    
「いえいえ。こんな私でも、何とかお役に立てて良かったです」
「隅田さんには、感謝しかありません」
「これからも、どんな事でもご相談に乗りますので遠慮なく言って下さい」
「宜しくお願いします」
 隅田が帰った後、早苗は三百万円を用意するために銀行の通帳と印鑑を持って家から出ようとした。
 その時、偶然にもマリアが家に帰ってきた。その日は、朝からひとりで病院に行き、骨折した右腕と肋骨の様子や脳の検査を受けた。結局、正午過ぎまでかかり、午後の体育の授業を欠席して帰宅したのである。
  早苗は隅田から聞いた話をマリアにして、外出する間の夫の世話を頼んだ。するとマリアは、早苗にこう言った。
「お祖母ちゃん、あの人を信用してはダメだよ」
「ええ?」
突然のマリアの言葉に早苗は驚いた。
「全部嘘だからね」
「どうしてそんなことが分かるの?」
「どうしてだか分からない。だけど、あの人は間違いなく悪い人です」
「いや、隅田さんはいい人だよ。マリアのことも心配してくれたし」
「人を見かけだけで判断してはいけないよ」
「そんな事言ったって・・」
 実は、マリアは一度だけ隅田に会ったことがある。その日は授業が午前中だけであり、いつもより早い時間に下校していた。家に帰った後は、図書室から借りていた本を自分の部屋で読んでいたが、隅田が尋ねて来て顔を合わせたのである。
「貴方がマリアちゃんね。私は、以前から早苗さんと仲良くさせて貰っている隅田という者です」
 マリアは隅田の顔をじっと見つめていたが、一瞬怪訝そうな表情になった。
「マリア、黙ってないでちゃんとご挨拶なさい」
早苗がマリアに促した。
「マリアちゃん、そのままでいいですよ。今は気分が落ち込んでいる時でしょうし」
 椅子に腰掛けていたマリアは、本を持ったまま黙っていた。
「ご両親の事は、本当に気の毒でしたわね」
 その言葉にもマリアは反応を示さず、顔は不機嫌なままであった。どうやら彼女は、隅田から何かを感じ取ったようである。
「それじゃ、これからも宜しくね」
 隅田が部屋から出た。早苗はマリアの非礼を詫びたが、隅田は『まだ心の傷が癒されていないのでしょう。気にしてませんから』と、マリアの心情を思いやった。
  それから1ヶ月ほど経っていたが、マリアの頭の中には隅田の記憶がはっきりと残っていた。戸惑う早苗に、マリアは更に言葉を続けた。
「それだけじゃないよ。あの人はもうすぐ警察に捕まるよ」
「それは本当なの・・」
 マリアの強い口調に早苗は狼狽えた。普段は物静かで大人しいマリアが、自分の思いを判然と言っているのである。まるで透視が出来る占い師のようであり、早苗はその言葉を聞き流すことができなかった。
 思い当たる節があった。それは、2週間前の事である。マリアと二人で家に帰る途中、ある政治家が選挙のための応援演説を街頭でしているのを見た。通り過ぎようとした時、マリアがこんな事を口にしたのである。
「あの人は、もうすぐ死ぬよ。恨みを持った人に拳銃で撃たれてね」


 

 その言葉を聞いて驚いた早苗であるが、マリアの方に目を向けた時、彼女は平然としていた。
「マリア、そんな怖ろしいことを口にするもんじゃありません」
周りの人の目を気にしながら、早苗はマリアを叱った。
 ところが、家に帰ってから1時後に、『その政治家が銃撃された』という臨時ニュースがテレビで流れたのである。
  その後、政治家は搬送先で死亡したのであり、何もかもマリアの言う通りになった。決して、口から出任せの作り話ではなかったのである。
 その事実があったので、マリアの言葉を聞き流す事ができないのであり、『隅田を全面的に信用するのは危険である』と、早苗は感じ始めた。
「疑惑を持ったまま、高い薬代を払う訳にはいかない」
早苗は、隅田の調査を興信所に依頼した。
『念の為に調べておいた方が良い。マリアの言うことが本当なら、私は騙されていたことになる』
 早苗は早速、『三百万円は大金なので直ぐには用意できない。1週間待って欲しい』と隅田に電話を掛けた。
『そうですか。まあ、大金ですからね。でも、できるだけ早く用意してくださいね』と、いつになく少し不機嫌そうな声で隅田が催促をした。
  それでも、隅田は知っていたのである。仕事柄、マリアの後見人になっている早苗に死亡した息子の保険金が入っている事を。確かに三百万円は大金であるが、出せない金額ではない。必ず用意すると確信を持っていた。
 5日後に、興信所から「早急に連絡したい事がある」と、電話が掛かってきた。早苗は、その日の夕方に興信所に出向き、担当者からこう告げられた。
「隅田の近辺を調べましたら、とんでもない事が分かりました」
早苗は息を呑んだ。
「現在、隅田は顧客であった人たちから訴えられています」
「どんな事で訴えられているのですか」
「詐欺です」
「詐欺・・」
「何の効果もない漢方薬を高額な値段で売っていたのです」
「そのお薬で、95%の人が完治したと言っていましたが」
「嘘です。買って飲まれた方のほとんどが、未だに治っていません」
『やっぱり、隅田に騙されていたんだ』
早苗は、怒りで体が震えた。
「隅田は、認知症だけでなく、心筋梗塞や癌などの薬も扱っていました」
「そんな薬も売っていたのですか」
「3ヶ月過ぎても効き目がないと苦情を言うと、『漢方薬は効き目が遅いので、後1ヶ月分だけ追加をして飲んでみて下さい』を繰り返していたようです」
「病人を抱えて難儀している家族の弱みにつけ込んでいますよね」
「あまりにも効果がないので、その薬を製薬会社に調べて貰った方がおられました」
「疑問を持たれたのですね。それで、結果はどうだったのですか」
「詳しく調べると、どこの薬局でも売っているような精神安定剤でした。1ヶ月分が精々三千円程の価格で、百万円なんて有り得ない代物だったのです」
「ぼったくりですね。隅田の会社は、そのことを知っているのですか」
「いいえ、知りません。実は、隅田は既に会社を辞めています」
「ええっ」
「隅田の携帯に繋がらないので会社の方に電話をしてみると、『2年前に辞めています』と返ってきました」
「2年も前にですか・・」
「はい」
「大手の会社の社員であると思って信用していたのに・・」
「薬を売るチャンスを狙って頻繁に顧客の家に来ていたようですが、売って代金を受け取った後は、ほとんど来なくなったようです」
「どれくらいの人が被害を受けたのですか」
「まだはっきりとは分かっていませんが、私が掴んでいる限りでは100人以上になります」
「300万円の100人分と言えば・・」
「3億円です」
 早苗は、唖然とした。そして、マリアが口にしていた言葉を思い出し、人は見かけで判断できない事を身をもって感じたのである。
「間一髪で、被害を免れましたね」
「はい」
「隅田は内縁関係にある男といっしょに海外へ高飛びしそうですが、逮捕状を取っている警察が捕まえると思います」
「そうなることを願っています」
早苗は、胸をなで下ろした。
『それにしても、マリアはどうして分かったのだろう。隅田の詐欺にしても政治家の暗殺にしても、出鱈目に発した言葉とは思えない。2ヶ月前の交通事故が原因なのかも知れないが、そんな事で透視の力が備わるものなのか』
『いずれにしても、この事は私とマリアだけの秘密にしておこう。それを嗅ぎつけたマスコミが、マリアに押しかける恐れがある。それに、マリアの能力を好ましく思わない輩がいて、危害を加えるかも知れない』
 ようやく平穏な日々が送れているマリアに、何かの災いが降りかかるのは絶対に避けたいと考えた早苗は、『今までの事は、他人に口外しないように』とマリアに告げた。
 マリアは、祖母が自分を信じて被害を受けなかったことに安堵して、小さな声で「うん」と頷いた。
  後日、隅田はマリアの予想通り逮捕された。空港の待合室で、愛人の男といっしょのところを警察官に見つかり、手錠をはめられて拘置所へ送られた。

 

 

 入り口付近には、被害者たちと数人のマスコミが待ち受けていた。早苗はそのニュースをテレビで観ながら、『あれだけ香ばしい事を言っていたのにね。悪いことは出来ないものだね』と呟いた。
 隅田は犯行を認めず黙秘をしたままだったが、男の方はすべて隅田が仕組んだ事で、「自分は無罪だ」と言い切った。
 検察側は確固たる証拠を既に掴んでいるのであり、被害者たちの証言もあって有罪になるのは明らかであった。
 その事件から3ヶ月が経った。マリアの右腕のギブスが取れて、右手でお箸が使えるようになっていた。体育の授業は見学だけであったが、音楽の授業ではリコーダーが吹けてとても喜んだ。
  遠出するのに自転車に乗ろうとしたが、心配した祖母に『まだまだ早い』と許してもらえなかった。
  そうこうしている内にマリアは中学生になり、新たな学校生活が始まった。