マリア                        仲代 章

 

他人の人生
 穏やかな陽が差し込む日曜日の午後である。小春日和のこの日は、晩秋の公園に多くの人が訪れた。
 

 

  公園の東側に位置する広場では、集った若者たちがスポーツや野外ゲームなどで賑わっている。その反対側にある西の園では、散歩がてらに愛犬と戯れる長い髪の女性、イヤホンを付けたままジョギングをする髭面の男性、道路の傍らに咲く花の名を学者のように教えてくれる植物通の人、車椅子の老人に「気分は如何ですか」と囁く若い介助士、時間を忘れて遊びに夢中になっている子どもたちなど、様々な人たちが見受けられた。

 公園の中央には大きな噴水があり、その前で小さな女の子と母親と思われるご婦人が、色とりどりの落ち葉を拾って嬉しそうに並べている。
  ベンチに座りながらそれを見ていた隆夫は、隣にいる晴美にこう話しかけた。
「君は、『ナッシュビル』という映画を観たことがあるかい」
「えっ、何、ナッシュビル?」
「ああ。45年程前に作られたアメリカの映画で、アカデミー歌曲賞など数々の賞を受賞している作品だ」
「ないわ。どんな映画なの?」
「ロバート・アルトマンという監督が作ったブラック・コメディさ」
「ふーん」
「映画の主な舞台は、テネシー州のナッシュビルのコンサート会場になる」

 

 

「音楽ライブの映画なの?」        
「いいや、そうじゃない。勿論音楽もふんだんに使われているんだけど、テーマはそこに集まった人たちの生き様さ」
「つまり、群集劇の映画ね」
「そういうことだ」
「群集劇だから、色んな人が出て来るわね」
「ああ。カントリー&ゴスペルの歌手たち、そのマネジャーやスタッフが登場して、それぞれの思惑や葛藤が交差してスリリングだ」
「何だか面白そうね」
「ストーリーの展開がいいから、観ていて飽きないよ」
「アカデミー賞を取っているくらいだから、名作なのね」
「登場人物の過去のスキャンダルまで織り込んでいて、そこに辿り着くまでの様子が鮮明に描かれているから結構見応えがある」
「一度、どこかの映画館で観たいわね」
「DVDになっているから、レンタルビデオ店で借りられると思うよ」
「そう。じゃあ、さっそく借りて観ようかな」
「そうしろよ」
隆夫は、一呼吸おいて晴美にこう話し出した。
「人の人生というのは、その人だけの物だよね」
「何よ突然、藪から棒に」
晴美が、驚きながら隆夫の顔を見た。
「他人の人生に自分が入ることは出来ないし、自分の人生に他人が入ることも出来ないということを言いたいのさ」
「それはまあ、そうだけど」
「そこで俺は思うんだ。他人の人生も自分の物にできれば、どんなに面白いかってね」
「それってどういうことよ?他人の人生は、他人の物でしかないでしょ」
「確かにそうなんだけど。でも、もしそれが出来たら、興味深いことになるんじゃないか」
「そんなこと出来る訳がないじゃん」
「たとえば、噴水の前にいる親子の人生が手に取るように分かれば、楽しいと思わないかい」
「そりゃ、母親に『貴方の半生はどんなものでしたか』とインタビューでもすれば、大まかな事は分かるでしょうけど、まず無理ね。見ず知らずの人に突然声を掛けられて、怪しまない人はいないでしょうから」
「いや、そうじゃなくて、母親がこれまでに経験したことを自分の頭の中で実感したいんだよ」
「貴方、一体何を考えているのよ」
「これは、あくまでも自分勝手な願望に過ぎないんだけどね」
「変な願望」
「隣のベンチに腰掛けている老人、芝生に寝そべっている中年の男、ゴムのボールを走って追いかけている小学生など、それぞれの人生が実感できれば、映画を観るより楽しいぞ」
「それが出来ればね・・」
晴美は、呆れた顔で隆夫を見つめた。

隕石
 照明灯がつき始めた国道を1台のワゴン車が走っていた。
 

 

「マリア、さっきの遊園地はどうだった」
「いろんな乗り物があって、結構楽しかったよ」
「何が一番楽しかった?」
「断然、トルネードのジェットコースター。ぐるぐる回転しながら進んで行き、急に落下するような動きはスリル満点よ」
「あれかぁ。あれは父さんは苦手だな。母さんは平気のようだけど」
「父さんは、若い頃からジェットコースターが嫌いだったわね。だから、乗ったことは一度もない筈よ」
「二人とも、あんな怖ろしいものによく乗れるなぁ。父さんは、ゆっくりと優雅に動くメリーゴーランドの方がいいよ」

 

 

「メリーゴーランドなんて子どもが乗るものよ。本当に怖がりなんだから」
「こんな歳になっても、怖いものは怖いんだよ・・」
「うふふっ」
マリアと母親が同時に含み笑いをした。
「でも、また行きたいね」
「そうだな。今度は、マリアの友だちも誘ってあげたらいいよ」
「本当に?」
「ああ」
「約束だからね」
「うん」
「やったー」
 両親と久々に遊園地で遊んだ小学6年生のマリアは、とても満足気であった。
 その帰り道である。父親が運転する車が緩やかなカーブに入ろうとした時、小石のような物が凄まじい勢いで車の真正面に飛んできた。


 

 それはゴルフボールと同じくらいの大きさで、フロントガラスを突き破り父親を直撃した。父親は意識を失い、車はセンターラインを越えて対向車の大型トラックにぶつかった。
  劈くような大きな音と共に凄まじい衝撃が3人を襲った。父親は即死、母親は瀕死の重体、マリアは意識を失ってしまった。
 3人は、救急車で救急病院に運ばれたが、母親は手の施しようがない状態で40分後に死亡した。奇跡的にも一命を取り留めたマリアであるが、右腕と肋骨を骨折する重傷を負っていた。
 治療に当たった医師は、マリアの頭部に出血があるのに気付いた。つむじの付近に小さな傷口があって、そこから少量の血が流れ出ていたのである。
  気になってMRIで検査してみると、右脳と左脳の間に小さな物質があるのが確認できた。どうやらマリアの頭蓋骨を貫き破り、その隙間に入り込んだらしい。
  更に調べていくとその物質は、地球外から来た隕石の欠片であることが分かった。脳に大きな損傷は認められなかったが、取り出すにはかなりのリスクがあり、残ったままになった。
 傷口の出血はすぐに止まり痛みもなくなっていたが、それ以来、マリアに通常では考えられない能力が身に付くことになる。
 その能力とは、他人の心が読み取れる事である。誰かと顔を合わせれば、瞬時に相手の気持ちが頭に浮かぶらしい。
 いや、それだけではない。その人がどのような経緯で生きてきたのか、またこの先、どうなるのかも分かってしまうのである。
  有り得ないことだが、実際、人に遭う度にマリアの脳裏にインプットされた。これは、今の科学では説明できない能力であり、ある意味、怪訝な透視力と言わざるを得ないのである。
 その能力が、脳に残った隕石の欠片が原因なのかは不明であるが、事故に遭遇してから備わったのは明らかである。
 マリアが両親の死亡を知ったのは、事故が起こってから2日後のことであった。病院に運ばれてから意識を取り戻したマリアは、真っ先に両親の安否を医師や看護師に尋ねるが、曖昧な言葉ではぐらかされた。
 しかし、看病に駆け付けた祖母が突然泣き崩れたり、見舞いに訪れた小学校の担任の険しい顔を見て気付いてしまうのである。

 

 

 両親の葬儀は、マリア不在の中で執り行われた。喪主は亡くなった父親の実弟が務め、母親方の親族も参列した。
  悲しみに暮れる中、事故から4週間が経った。右腕にギブスをしたままであるが、肋骨の痛みが取れたのでマリアは退院した。
  マリアは、母方にあたる祖父母の中山家の元に引き取られた。祖父は脳梗塞による後遺症と軽い認知症を患っていたが、祖父も祖母も肉親を失った孫娘を愛情を持って可愛がった。
 小学校の方は、それまでの所から転学を余儀なくされ、退院した翌日からそこに通学した。
 マリアは、何故かその学校に馴染めなかった。学級担任が、マリアの境遇をクラスのみんなに説明して仲良くするようにと気遣ってくれたが、マリアが自分から同級生と会話をしたり遊んだりすることはほとんどなかった。
  最愛の両親の死去、友だちとの別れ、住み慣れない土地、右腕や肋骨の骨折、それらが原因で笑顔になれないのは無理もないが、以前のような素直で明るいマリアではなくなっていた。                            

「過去にそんな事件が結構ありましたね」
「今、問題になっている『いじめ』についても同様です」
「生徒指導に関して問題なしと評価されている学校であっても、水面下ではありますものね」
「教育の現場で、『いじめは悪いことなのでしてはいけない』とあれほど教師が教えているのに一向になくなりません」
「自分より弱い者をいじめて、憂さ晴らしをしているのでしょうか」
「標的になるのは常に弱者です。自分より強い者には、報復を怖れてしませんからね」
「日常的に集団でいじめを受けて、あまりの仕打ちに自殺をする人もいますね」
「いじめをする側は、自分の所為で他人が自殺しても自分が悪いとは思っていません」
「反省するどころか、『死んでくれて清々した』と、喜んでいる人もいるかも知れませんね」
「中にはそういう人もいるでしょうね」
「まったくの屑ですね」
「逆に、過去にいじめられたことを根に持って、復讐する人もいました」
「米国では、銃の乱射事件が起こっていますね」
「結局、それも煩悩が原因なのです」
「そのような煩悩は、消すことができないのでしょうか」
「簡単には消せません」
「厄介ですね、煩悩というのは」
「厄介なものです。それでも分別のある人は、それを最小限に抑えることができるのです」
「理性によって邪悪な煩悩を押さえつけるのですね」
「人は、絶えずその努力をすべきなのです」
「今の宗教家は、そのことが分かっていないですね。特にトップにいる方たちは、威張り散らしているだけですね」
「そもそも、頂点にいる大司教や大僧正というのは、権威の象徴以外の何ものでもありません」
「誰もが平等であるべきなのに、特別扱いされているのは何かおかしいですよね」
「その通りです。あの人たちも普通の人間なのに、まるで神や仏のように扱われるのは間違っています」
「どんな修行をされたのか分かりませんが、威張っているだけでは人を救うことはできませんよね。『それが自分の特権だ』とでも思っているのでしょうか」
「奈良時代の行基や江戸時代の良寛は、慈愛に溢れた僧でした。社会事業に貢献した行基は、困窮する農民たちを救済しました。子ども達に好かれた良寛は、庶民にも愛されました。そのような僧であれば良いのですが、ほとんどが口先ばかりの傍観者です」
「嘆かわしいですよね」

 

 

「もはや宗教は、神や仏の名を騙ったエセ宗教家だけのものになっているのです」
「やっぱり、こんな宗教はなくなって欲しいですね」
「私もそう願いますが、宗教の終焉が訪れるのは遥か遠い未来になります」
「遠い未来ですか」
「国境がなくなり言語も一つになり、人類がすべての民族や人種といった垣根を越えた時にそれが可能になると思います」
「その未来では、宗教に代わる何かが世界中に普及しているのでしょうか」
「誰彼を崇めるのではなく、礼拝も偶像も聖書もなく、人間としてどう生きるべきかを諭してくれるマニュアルのようなものが出来上がっていると思います」
「それを元に、カウセラーになる人が相談者の悩みや不安を解決してくれるのですね」
「そうです」
「その時が来るまで、私たちの子孫が絶えることなく平穏無事であって欲しいですね」
「血筋がどこかで途切れてしまうことも有りうるからね」 
「訪れる人もいない寂れた墓の中で、淋しく眠っているのかも知れないね」
「いやいや、核戦争があちこちで起こって、墓なんかとっくに壊されているんじゃないか」
「人類の滅亡ですか。最悪の結末ですね」   
「そんな悍ましく愚かな事は、絶対に起こらないで欲しいです」
普段は穏やかな口調の寺田が、毅然とした態度で示した。
「まあまあ、今のは冗談です。只のジョークですよ」
「いずれにしても、それまでに争いのない平和な世界が続くことを祈るばかりです」
山名のその言葉に、学生達は深く頷いた。

心に秘めた復讐                         
 坂上壮一の家族は、ある宗教団体によって破壊されたと言っても過言でない。
 キリスト系の新興宗教であるその団体は、『人類一家族』を謳いながら、実際は詐欺紛いの勧誘で信者を集め、霊感商法などの悪質な方法で資金を手に入れるという悪徳教団であった。
 壮一の母親もそこの信者になったのだが、言葉巧みに騙され多額の献金をしてしまう。そのために一家が破産状態になり、その日の暮らしにも困ることになる。
  坂上家は、元々は裕福な家庭であった。父、母、兄、壮一、妹の家族構成で、父親は京大卒の秀才であり、大手建設会社に長年勤めて最終的には代表取締役になっていた。
  大黒柱の父親が、アルコール依存症と鬱でノイローゼになり自殺をする。母親が宗教にのめり込んだのはその時からである。彼女は、壮一らが反対するにも拘わらず、総額1億円ともいわれる献金をしていた。
  当然、壮一だけでなく兄や妹も生活苦になっていて、『自分が自殺して、その保険金で彼等を助けよう』と考えたこともあったようである。結局、未遂に終わるが、その兄も大病を患ったまま自殺してしまう。
『本来なら希望校に進学できて、有意義な日々を送っていた筈である。ところが、この有り様である。どの道、自分に明るい未来はない。何もかも、この強欲なエセ宗教団体の所為である。自分の家族を奈落に落とした奴らを絶対に許せない!』
激しい怒りが肩が震えるほどに込み上げて、彼等への復讐を誓った訳である。
  この教団と日本が最初に関わったのは、政財界に影響力を持つ大物フィクサーと内閣総理大臣を務めたこともある著名な政治家であった。
  その当時は、反共産主義を掲げていた教団と彼等の利害が一致したのであり、それ以降も関係が途切れることなく続いた。その繋がりから、選挙の度に莫大な裏金が流れていたという噂もある。
  この教団の発祥の地は韓国であり、開祖も韓国人であった。その理念は『世界平和』であるが、そうような活動を本当に行っていたかどうかは疑わしい。                  
 数年後、日本にも拠点を作り、手始めに合同結婚式なるものを行う。この婚礼は、教祖によってカップリングされた男女が、出会ったその日に夫婦になるという異様な結婚式であった。


 

  大勢のカップルの中に有名な歌手やスポーツ選手がいたこともあって、メディアに取り上げられ話題になった。
  何を基準に教祖が決めたのかは明らかではないが、年令や学歴など不釣り合いなカップルも結構あったと聞く。
  それでも式場に集まった人たちは、教団の「必ず幸福になれる」という言葉を信じて、相手の事を充分に知らないままそれを受け入れたのである。
  それが妥当な組み合わせであるかどうかは別として、悪徳極まりない教祖の思惑によって伴侶が決められたのである。幸せな人生を描いていたカップルの中には、理想と現実の大きなギャップに後悔をした人もたくさんいたに違いない。 
  同様に、坂上壮一の母親も被害者の一人である。悪質な手口に引っかかって、幹部から『教団に献金をすれば幸せになれる』と言われてそれを信じた。
 実際は、家族が路頭に迷うほど身ぐるみを剥がされていて、それに気がつかないほど洗脳されていたのである。
 そのような被害者は日本中に存在していたが、教団に訴えても無駄だった。教祖や幹部の頭の中は、信者から資産を取る事しかないのであり、信者が悲しもうと苦しもうとどこ吹く風であった。
 結局、『いかに金脈と人脈を手に入れるか』が最優先であって、信者より教団のための宗教だったのである。
  尽きることのない悪行の数々。そのような理不尽な教団への怒りが、坂上を殺意へと駆り立たせた。
 当初は、『韓国の教祖に天罰を下そう』と思っていたが、悲しいかなそこへ行くまでの旅費がなかった。そこで、問題の発端となった日本の著名な政治家の末裔を抹殺しようと考えたのである。
 その癒着した関係は、祖父、父、孫と3代に渡っていたのであり、坂上にとっては諸悪の根源と言える家系だった。
 特に孫にあたる政治家は、長期に渡って総理大臣を務めたが、国有地の不当な売却、そのことに関わる公文書改ざんなどの不正が表沙汰になり、決して立派で偉大な政治家とは言い難かった。
『この暗殺は、確かに間違った手段ではある。しかしながら、このような悪の連鎖はいつか断ち切らなければならない。死罪になるのを覚悟の上で、それを世に知らしめよう』
  彼は、標的になる政治家の動向を毎日のように追っていた。そしてある日、偶然にも『選挙の応援のために自分の地元にやって来る』という情報を手に入れた。心に秘めていた復讐をついに実行できる時が来たのである。
  その日の昼前、警備員に守られた標的が街頭に現れた。遠くからではあるが、なんとか彼を確認することができた。
『紛れもないあの男だ』     
坂上の眼が鈍く光った。
『殺るならこの時しかない』
そう判断した坂上壮一は、演説会に集まっていた聴衆の中に紛れ込んだ。
  狙うはひとりの大物政治家である。演壇に立っているその政治家は、選挙に出馬した同じ派閥の候補者のために熱弁を振るっていた。
 準備は既に整っていた。後は、千載一遇の好機を逃さないようにするだけである。坂上はその背後に回り、ゆっくりとした足取りで近づいた。
 傍らで警護に当たっていた警備員と警察官たちは前方に目が向いていて、彼の不審な行動に気づかなかった。
 政治家の後ろ側にいた選挙スタッフが、カメラ撮影のために右脇へ移動した。   
『今だ!』                
大きな黒のバックから自作銃を取り出し、咄嗟に引き金を引いた。
 

 

『ドーン』
と大きな爆発音がしたが、銃弾は誰にも当たらなかった。その音に驚いた政治家と警備員たちは、それが銃の発射音とは知らずに左後方へ振り返った。
『ドーン』                                                      
2発目が発射され、政治家が倒れ込んだ。予期せぬ緊急事態に警備員たちが慌てふためいた。すぐに彼の介抱に当たったが、彼は意識を失い心肺停止の状態となっていた。
 驚きの悲鳴と怒号が飛び交う中、警察官たちが坂上を取り押さえる。拘束されて身動き出来ない坂上は、誰に言うのでもなくこう呟いた。
「俺は悪くない。悪いのは・・」                                
と言いかけて、倒れている政治家の方に眼を向けた。
 蒼白なその顔には悲しいほどの憂いが漂っていて、まるで人生の儚さを自分自身に問いかけているようであった。

 

                 完

 

あとがき
 飢餓によって、今にも息が絶えてしまいそうな人がいる。そんな人に、宗教家がどんなに立派な言葉を述べても無駄である。空腹に絶えられず、目の前の他人のパンに手を出してしまうのは、必然である。
  最愛の妻と子どもを変質者にレイプされ殺害された夫がいる。そんな夫に「復讐心を持ってはいけない」と言っても無駄である。夫は、その変質者を探しだし、自分の手にかけたいと思うに違いない。
 莫大な借金を抱えて、どうにもならない会社の経営者がいる。そんな経営者に「神に祈れば、必ず乗り越えられる」と諭しても無駄である。彼の脳裏には、高いビルの屋上から飛び降りて、この世から消え去ることしかないのである。
  いつの時代でも、似たような境遇の人がいる。稀ではあるが、事実、存在している。
 本来、宗教の役割というのは、このような悲惨な状況を作り出さないことに他ならないのであるが、現実にはそうなっていない。慈悲や博愛を説いていても、実際、宗教とは無力である事を改めて思い知らされるのである。
 もう、神や仏に頼っても、無駄になることは分かってきた。それでも信心を続けようとする人は、私利私欲に走る宗教家に利用されてしまうのがオチである。
 では、どうすればよいのか。それをもう一度考える必要があるが、今の私には宗教の悪い点ばかり眼について思いつかない。いや、それどころか、毛嫌いしているのが本心である。
 とはいえ、民衆のために如来や菩薩などの仏像を作った人の想いは、尊敬に値する。
 疫病や災害から人々を守る為に、また、何らかの理由で苦しむ人々を救う為に尽力したのであり、その純粋な心は大切にしたいと思う。
 

 

「そして最後に挙げられるのが、インドのヒンドゥー教の前身であるバラモン教です」
「シヴァ神、ブラフマー神、ヴィシュヌ神ですね」
 

 

「天・地・太陽・風・火などの自然神を崇拝し、カースト制の司祭階級が中心になっていました」
「教義はどのようなものだったのですか」
「あらゆる生物が、六道輪廻によって生まれ変わるとします」
「地獄道や餓鬼道とかいうものですね」
「そうです。人も死んでしまうとそれで終わりではなく、何かに生まれ変わるとされています。何になるのかは、現世の行いによって決まるようです」
「当時の僧侶たちが、そのような事を考え出したのでしょうか」
「そうだと思います。誰もが死に対する恐怖心を持っていたので、『死後、何かに生まれ変われるのであるから死を畏れるな』という慰めになったのでしょう」
「でも、その教義の真偽は、かなり疑わしいものですね。今までに『私の前世は何々だった』と言う人は、誰一人としていませんから」
「確かにその通りです。たとえ生まれ変わりがあるとしても、前世とは異なる意識を持った存在になるので、まったく意味がないことになります」
「そうですよね」                                         
「それよりも、過酷な境遇であった奴隷階級が罪を犯さないようにするための戒めであったに違いありません」
「司祭階級や王族階級にとっては、都合の良い教義だったのですね」
「いや、上流階級だけだはなく、庶民階級にとっても有り難い教えであった筈です」
「平穏な庶民にとっても、悪人から危害を被るのは嫌ですものね」
「守るべきものがある人々は、混乱を嫌い秩序を求めます。また、運悪く病気になったり事故に遭ったりすることも畏れます。逆に、財を蓄えたり出世したりすることを望むものです」
「誰もがそう願いますよね」
「僧侶たちは、『神を信じればそれが叶う』と説法したのです。特に無学な庶民や奴隷は、何の疑いも持たなかったと思われます」
「後に『慈悲』を唱えた釈迦も、出家して僧侶になったようですが」
「王族であった釈迦は、29歳の時に人生の無常や苦脳を痛感して出家しますが、カースト制とバラモンの教義に疑問を抱いていたので、独自の教理を展開します」
「断食のような苦行の末に悟るのですね」



 

「『人には、免れない生・老・病・死という四苦がある。また、様々な煩悩があり、それに縛られるものである。それから解脱すれば真の安らぎを得る事が出来る』というのが釈迦の教えなのです」
「十大弟子の舎利弗なども釈迦に帰依しましたね」
「弟子たちは、悟りの境地に入った釈迦に対して強い信頼感を持っていたのでしょう」
「確かに教義は素晴らしいと思いますが、『釈迦は、母親の右脇から生まれ出て7歩あゆみ、右手を上に左手を下に向けて、「天上天下唯我独尊」と言った』というのは有り得ない話ですよね」
「おそらく弟子の誰かが、釈迦を神聖化するために作った逸話だと思いますよ」
「イエスも、『神によってマリアが身籠もったので神の子とされ、磔刑にされても三日で復活して大勢の人の前に現れた』という逸話がありますが、釈迦と同様に弟子達によって作られたものですか」
「そうだと思います。信者を増やすために考え出されたのでしょう」
「教義を普及させるためには、あの手この手ですね」
「どの宗教も似たような事をしていますが、世界中に広がった団体程それが顕著です」
「草場の陰で、苦虫を噛み潰している釈迦やイエスの顔が浮かんでくるようです」
「仏教においては、釈迦の死後、弟子達によって原始仏典や大乗仏典のような経典が編纂されています」
「口伝から写本になったのですね」
「経典はインドから中国に渡りましたが、その際に漢訳されました」
「鳩摩羅什や三蔵法師が尽力しましたね」
「中国本土への布教は、茨の道でした」
「迫害があったのですか」
「元来、中国には神仙思想の道教がありました」


 

「確か老子が始祖だったと思いますが、その信者たちに仕打ちを受けたのですね」
「はい。他国の宗教など認められないというのが理由でした。それでも、教義が優れていたので各地に普及します」
「仏教が国教になった時代もありましたものね」
「真言密教や禅宗も独自に発展して行き、中国における仏教は益々盛んになります」
「中国の庶民に仏教が浸透していったのですね」
「日本への伝来は538年もしくは552年とされていますが、仏教について見聞できたのは皇族や豪族の限られた人たちだけでした」
「中国と同じように異国の宗教ということで、すぐには認められなかったのでしょうか」
「仏教派の蘇我氏と神道派の物部氏の対立がありました」
「新しい宗教と既存の宗教の衝突ですね」         
「その後、聖徳太子が各地に寺院を立てて仏教を広め、それぞれの時代の中で民衆に浸透していき、今に至っている訳です」

 

 

「仏教も様々な宗派が出て来て、どの教義が釈迦の本意なのか分からないですね」
小倉のその言葉に、山名が一瞬顔を曇らせた。
「実は、そこが問題なのです。どこも、『我が宗派が正当であり、他は不当である』と言い張ります」
「啀み合っているのですね」
「元は釈迦が悟った教義なのに、勝手な解釈をしてそれを吹聴しています」
「世に中には、釈迦の本意ではない教義が蔓延っているのですね」
「釈迦は、人間の本質を捉えました。人は、常に煩悩と闘いながら生きなければならないのだと諭しました。そして、どのようにすれば争いのない平和な世界にできるのかを唱えました」
「でも、ほとんどの宗教家がそれとは逆のことをしていますよね」
「エセ宗教家ばかりです」
「自分の思う通りにならないと、激高するタイプの坊さんもいるようですね」
「坊さんも様々です。色事や金品を好む罰当たりな売僧もいて、大きな社会問題になっています」
「その昔、京都の有名な寺の住職が、祇園界隈の芸妓を愛人にしていたようですね」
「檀家やお弟子さんたちも黙認していました」
「そんなことが罷り通る程、儲かっていたのですね」
「宗教法人が非課税になっていることも要因の一つです」
「一般企業と比べると優遇されていますね」
「お布施や入場料も同様で、その収益は仏さんではなく坊さんの懐に行くのです」
「それで、酒池肉林なのですね」
「放蕩の度が過ぎて、寺の土地を檀家に相談なく売りさばいたという事件もありました」
「煩悩の赴くままに、やりたい放題ですね」
「このような不祥事は、仏教界だけでなくキリスト教やイスラム教にもありました」
「聖職者が迷える子羊を毒牙にかけたという破廉恥な事件なんかもそうですよね」
「稀に表沙汰になった事件ですが、氷山の一角だと思いますよ」
「まるで羊の皮を被った狼ですね」
「聖職者としての信用がガタ落ちです」
「内部では、利害が絡んだトラブルもあったのでしょうね」
「総本山と対立し、それが原因で分裂した宗派もありました」
「聖典の解釈の相違で、複数の宗派に枝分かれた団体もありますものね」
「キリスト教では、正教会、カトリック、プロテスタントに分かれ、イスラム教では、スンナ派とシーア派に分離しました」
「イスラム教では、後継者争いから暗殺まで起こっていますね」
「考えられないことですが、事実です。残念ながら、このような殺戮は異なる宗教の対立にも見られます」
「キリスト教とイスラム教の争いですね」
「過去に、キリスト教徒による聖地エルサレム奪還のための十字軍遠征がありました」


 

「たくさんの人が、その戦争で亡くなったようですね」
「敵対心を剥き出しにして、『自分が信じる宗教が正教で、それ以外はすべて邪教である』と、お互いに言い合っていました」
「どちらも同じ旧約聖書を原点としているのに、なぜこんなことになったのでしょうか」
「それは、民族の違いが原因です。宗教というのは民族の繁栄のために存在するのであって、利益が相反すれば仇同士になってしまうのです」
「それぞれの利害関係によって、袂を分けるのですね」
「その通りです」
「世の中には、このような争い事が多いですね」
「更には、歴史上、キリスト教にとっては最大の汚点である『魔女狩り』がありました」
「一般市民を巻き込んだリンチですね」
 

 

「当時は、異端とされた宗教の信者だけでなく、呪術的な占い師たちも処刑の対象になっています」
「自分も殺されるのではないかと、疑心暗鬼になった人もいたでしょうね」
「直接手を下したのはカトリックの信者たちですが、上層部の思惑によって実行していたように思います」
「私的な恨みで魔女とされた人は、災難ですよね」
「どれもこれも、神の名の下に行われた悪事です」
「結果として、イエスの説く『博愛』に背いていますね」
「そうなります」
「イエスの教えより、邪悪な欲望の方を選ぶのですね」
「この世では、釈迦やイエスのような人は稀な存在です。みんな、それぞれの煩悩を持って生きています」
「煩悩を持ってはいけない宗教家でも、煩悩を剥き出しにしていますものね」
「宗教家とは名ばかりの独善的な人も結構います」
「今でも、信者を騙し続けている宗教団体がありますものね」
「一応宗教の看板は掲げていますが、その実態は営利目的だけの詐欺集団です」
「更に、宗教を政治に利用している団体もありますね」
「政権を取るために信者を増やすことしか頭にない団体です」
「信者からの寄付金で大きな会館をあちこちに建てているのに、信者が経済的に困窮しても自力で解決しろと突っぱねて、助けてくれませんね」
「『お題目をひたすら唱えれば、未来は自ずと開ける』としか言いません」
「勤行によって誰もが順風満帆になるなんて有り得ないことですね」
「大震災で亡くなった方の中には、布教活動に熱心な幹部もおられた筈です」
「そんな人は、決して良い人生とは言えませんね」
「その通りです。必ず使う常套の言葉に反しています」
「信者の幸福より、団体の発展の方が重要なのでしょうか」
「そうだと思いますよ。いずれ内部で揉めて、分裂していくに違いありません」
「誰が主導権を取るかという争いによってですね」
「そこには、海千山千の駆け引きがあるのです」
「もう、やることが無茶苦茶で、宗教家本来の姿ではありませんよね」
「でも、このような宗教団体はまだましな方です。背筋が凍るような過激な教祖がいましたね」
「何の罪もない人たちが、ばらまかれた毒ガスによって犠牲者になったあの事件の首謀者ですね」
「自ら解脱したと嘯き、マインド・コントロールによって信者を自在に操った極悪人です」
「酷い教祖でしたね」
「最悪の教祖です」
「捕まったとき、『弟子達が勝手にやったことであり、自分は一切関係ない』と言って、逃げようとしましたね」
「それを聞いた弟子達は、どのように思ったことでしょう」
「それでも、教祖を疑わずに信じようとした馬鹿な弟子もいたようですね」
「自分が選んだ宗教なので、その過ちを認めたくなかったのでしょう」
「まったくどうしようもない奴らですね」
小倉は、呆れかえった顔で遠くをぼんやりと見つめた。
「さて、ここでみなさんに考えて欲しいことが一つあります」
山名が、万を期したかのようにみんなに向けて質問をした。
「何でしょうか」                                
「皆さんは、我々人類にとって宗教は必要だと思いますか」
「まったく必要ないです。こんな争いの原因になる厄介なものは、なくなって欲しいです」
「いくら憲法が『信教の自由』を保障しようと、人を食い物にする宗教はいりません」
「私も同感です。クリスマスや初詣のような宗教的な行事は仕方がないですが、宗教そのものはいらないです」
「私も同じ考えです。山名先生はどう思われますか」
「これは非常に難しい問題であって、簡単に結論は出せません」
「宗教による禍が山ほどあってもですか」       
「確かに『宗教は禍の元』と言っても過言ではありません。共産主義国や社会主義国などでは、『根本的な問題解決から逃避するための阿片のようなもの』としていて、認めてはいません」
「そうですよね」
「そのような考えの国々があるにも関わらず、神や仏に救いを求める人が後を絶たないのはどうしてでしょうか」
 その事実に、3人の学生は言葉に詰まってしまった。
「世界を見渡すと、キリスト教は約20億人、イスラム教は約12億、ヒンドゥー教は約8億、仏教は約3億の信者がいると言われています」
「結構な数になりますね」
「日本では、元旦は神道、お盆は仏教、クリスマスはキリスト教と宗教に対してあまりこだわりを持たない人が多いようです」
「日本人より外国の人の方が、より強い信仰心を持っているのでしょうか」
「そうとも限りません。君たちは、年老いた女の人が祠に安置された地蔵菩薩に手を合わすのを見たことがありますか」

                
     


「地蔵さんですか。私はないです」
「私もないです」
「私は、祖父母が住んでいた田舎で一度見かけたことがあります」
普段は寡黙で大人しい印象の田中が、口を開いた。
「君は、田中君でしたね」
「はい」
「元来、地蔵菩薩というのは子どもの守り神であります。道祖神としても祀られていますが、何故、老婆が地蔵菩薩に手を合わせていたのかその理由が分かりますか」
「うーん。そうですね。『長生きしたい』という願いからですかね」
「いや、『大きな病気にかからないように』だと思うな」     
田中の友人である木村が、自分の考えを述べてきた。
「『自分の子どもたちや孫たちが、無事でありますように』という思いかも」 
田中や木村の女友だちである寺田も参加してきた。
「なるほど。そういう思いもあるのかも知れませんね。でも、私はこのように感じ取りました。それは、『いつか自分にお迎えが来た時、その先はどうなるのか不安で一杯です。もしあの世があるのなら、地獄ではなく極楽浄土をお願いします』という気持ちだったのではないでしょうか」
「老婆は、死に対する怖れと未知なる世界の不安感から菩薩を拝んでいたのですね」
田中が静かに呟いた。     
「かなり老齢になった人は、間もなく死を迎えることを切実に感じますものね」
木村も田中と同じように頷いた。
「どんなに素晴らしい社会になっても、人は何某かの悩みを持ちます」
「失恋や何かに挫折した時には、死にたい程の苦しみがありますものね」
「また、不治の病になった人やその家族もそうです」
「老婆のように神や仏に縋ろうとするでしょうね」
「人生には、人の力ではどうすることもできない事があるのです」
「確かにそうですね」
「今、世界の人口は78億人を越えていますが、老若男女のすべてが強靱なメンタルを持っている訳ではありません」
「気の弱い人もたくさんいるでしょうね」
「そのような人が頼ってしまうのは、結局、宗教になってしまうのです」
「心の拠り所となる場所を求めてしまうのですね」
「同じ信仰をする者が集う所では、仲間がいるという安心感で心が休まるのでしょうね」
「平和を愛し、苦しむ人々に献身的な宗教なら良いのですが」
「汝の敵を愛さない宗教家ばかりで、貶されると執拗に攻撃します」
「心の隙間につけ込んで、知らぬ間に騙しています」
「詐欺紛いの悪事をして、暴利をむさぼるような宗教がほとんどです」
「そんな厄介な宗教なのに、結局はなくならないのですか」
「いや、今のような形の宗教は、いづれなくなると思いますよ」
「キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教がですか?」
「はい。いつか人類は、これら宗教の根本的な誤りに気づくことになるでしょう」
「神や仏を拝んだところで、自分の身に降りかかった災難がどうにもならないことにですね」
「そうです。そのことは、過去を振り返れば明白に分かります」
「固く信じていたのに、神や仏に見放された人々の事ですね」
「江戸時代に起こった島原の乱では、たくさんの犠牲者が出ました。改宗を拒み続け藩主の悪政に抗議していた領民たちが、無慈悲にも皆殺しになったのです」
「3万人を越えた殺戮でしたね。結局、領民たちの祈りが神に届かなかった訳ですね」



「仏の加護を願って起きた一向一揆も、酷い有り様でした。そんな悲惨な結果になった仏教絡みの事件が、山ほどあります」
「洗脳された信者が、自滅的な行動に出てしまった結果ですね」
「記憶に新しい9・11テロ事件も、洗脳されたハイジャック犯によるものです」
「過激派イスラームの信者でしたね。聖戦と称して、自らの命と共にたくさんの関わりのない人たちを犠牲にしています」
「今思っても、残虐な行為だったとしか言いようがありません」
「そうですね」
「元来、宗教とは、『人はどのような生き方をすればよいのか』を示唆してくれるものなのです。決して、神や仏を崇めて頼み事をするためのものではない筈です」
「実態のない神や仏に祈っても、救ってはくれないですからね」
「それでもどうにもならない場合は、神や仏の存在を信じて頼ってしまうものなのです」
「『信じる者は救われる』ですか」
「確かに、信仰によって改心したり救われたりした人がいるのは否定できません」
「それが宗教本来の存在意義ですね」
「奴隷になって非人間的な扱いをされた人たちも、心の拠り所にしたのはやはり信仰だったと思います」
「どうにもならない苦しみを聖職者に打ち明けて、気を紛らわせたのですね」
「聖職者の中には、その声を親身に聞いてくれる人もいた筈です。特に無学な人たちにとっては頼れる先生であり、人生の良き理解者だったのです」
「今ではその役割をあまり果たしていませんね」
「ほとんどの人が最低限度の教育を受けているので、その必要がなくなったからです」
「宗教家が尊ばれるのは、教会やお寺で聖書や経典の解説を聞く時ぐらいですかね」
「一般の人よりは、教義についての知識が豊富ですからね」                
「旧約聖書や新約聖書の内容を理解するのは、生半可な気持ちでは無理ですね」
「原書はヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語なので難しいです」
「英語に訳されていても、何を意味しているのか分からない教義が多いですね」
「その教義の中には、到底実行不可能であろうと思われるものもあります」
「それはどのようなことですか」
「博愛を説いたイエスは、『もし右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい』としました。その真意は、『やられてもやりかえしてはいけない』ということです。しかしながら、世の中は物の道理が分かる人ばかりではないのです」
「敵を愛するどころか、平気で味方を殺す人もいますからね」
「もし治安を守る警察がいなかったら、やりたい放題の世の中になっている筈です」
「イエスの言葉はあくまでも理想であって、現実的ではないということですね」
「仮に老若男女、すべての人がイエスのようになったとしても、命には限りがあります。次に生まれてくる人たちが同じであるとは断言できないのです」
「確かにそうですね」
「同様に、イスラム教の教義の中にも改めなければならない点がいくつかあります」
「女性に対する差別ですね」                               
「女性への人権侵害は、世界中で非難されています」
「一夫多妻や教育問題などは、女性にとって不利な教義と言えますね」
「イスラム教徒は、『女性に学問は必要なく、子どもを生んで家事だけをすればよい』と思っているのです」
「まるで、封建時代の日本のようですね」
「権力者は、自分にとって都合の良いルールを作ります。イスラムでは、昔の日本の皇族や大名のようにたくさんの側室を持っているのです」
「自分の子孫を残すためだけでなく、女性を取っ替え引っ替えする好色な権力者もいるでしょうね」
「男にそのような特権があっても、女性がそうすることは許されませんでした」
「理不尽ですね」
「どんな理由があるにしても、差別はいけません」
「そんな不条理な教義が、現代でも認められているのは納得できませんね」
「そういう意味では、釈迦の方がまだ理にかなっています」
「人は必ず煩悩を持つということですね」
「そうです。どのような人でも、必ず煩悩を持ちます」
「それが人の本能なのですね」
「他人と比較されて、優越感や劣等感、妬みや嫉妬を感じない人などいません。それが原因で、時には醜い争いも起こります」

宗教の起源
「山名先生、世界中に様々な宗教が存在しますが、その成り立ちというのはどのようなものだったのでしょうか」
ゼミに参加している学生たちの中でも、特に研究熱心な小倉が質問をした。
「そうですね。宗教の始まりというのは、それぞれの国や地域によって多少異なりますが、共通している部分があります」
「それは、どのようなことですか」
「アニミズムです。所謂、自然崇拝です」
「山の神や海の神の類ですね」


 

「自然は我々人類に恵みを与えるだけでなく、時には脅威をもたらす存在となります。山の神が怒れば噴火になって、海の神が怒れば津波になるのです」
「自然にも意識があると思われたのですね」
「人々は、大雨が降る時は洪水にならないように、干ばつの時は雨が降るようにと、天の神に祈りました」
「只々祈った訳ですね」
「災害などの原因が科学的に分かっていない時代でしたので、そうするしか手立てがなかったのです」
「『畏敬の念を持たないと、神々がお怒りになって天罰が下る』と、誰かが言い出したのでしょうか」
「それは、シャーマンと呼ばれた人たちです。自然の神と交信して、啓示を伝える役割を担っていました」

 

 

「実際に、そんな能力を持つ人がいたのですか」
「人もそれぞれです。容姿だけでなく、潜在能力も異なります。特殊な能力を持ち、『明日は地震が来る』と簡単に言い当ててしまうような霊感を持った人もいたようです」
「動物的な第六感ですか」
「文明が未発展な時代においては、そのような人が重宝されました。特に顕著な能力の持ち主の人が、シャーマンになったのです」
「今で言うと、霊媒師ですか」
「そうです。神のお告げを伝えるだけでなく、祈祷もしていたので特別な地位であったと思われます」
「民衆はその言葉を疑わずに、ひたすら信じたのですね」
「はい。聖なる神からの言葉ですからね。それでも、実際には胡散臭いシャーマンがほとんどであったと思いますよ」
「インチキな占い師は、予想が外れた時には自分の都合の良いように言い訳をするでのしょうね」
「自分の間違いを一切認めず、狡猾に弁明したと思います」
「『私の判断は正しい。それとは逆のことが起こったのは神の怒りに触れたからであり、不届き者の所為である』とかですかね」
「自分の保身しか頭にない厄介な人たちばかりです」
「それでも、『神からの啓示』という一言で、誰も逆らえなかったのですね」
「逆らえません。逆らえば自分に天罰が下ると思っているのですから」
「渋々、従った事もあったのでしょうね」
「15世紀頃に栄えた北米中央部のアステカでは、こともあろうに、『神の怒りを沈めるために生け贄を捧げよ』と、宣ったシャーマンもいたようです」     
 

 

「昔は、人身御供という非人道的な行為が神の名の下で罷り通っていたのですね」
「すべては、人だけではどうすることもできない事への畏れです。そこから、眼に見えない神の存在が出来上がったのです」
「結局、神とは、『人が作った物以外の何ものでもない』と断言できますね」
「そういうことになります」
「自分にとって都合の良い神も造られたのでしょうね」
「絶対的な権力者のための神ですか」
「そうです」
「エジプト神話における死の神や冥界の神などがそうですね。王だけが成り得た死後の神であり、自身の復活のためのものでした」
 

 

「冥土に行って現世に戻ってきた後も、王でありたいと願った訳ですね」
「尽きることのない権力者の欲望です」
「まさに際限がないですね」
「世界各国に目を向けると、『これが神になるのか』と思うような物まで祀られています」
「猫や蛇ならまだしも、びっくりするような神もありますよね」
「古代エジプトの宗教においては、サソリやスカラベといった想像も付かないような物が神の使いになっています」
 

 

「サソリなどは人に害をもたらす有毒生物なのに、神の使いになるとは何ともはやですね」
「何を根拠に選んだのか分かりませんが、そのような有毒生物が結構います」
「神の使いであっても、迂闊に触れると危ないですね」
「危ないです」
「それでいて殺せないというのは、厄介な存在ですね」
「その他にも、神と関連づけられた珍異な物が色々とあります」
「まるで神の使いの大売り出しですね」
「盛り沢山で賑やかです」
「はは」
薄ら笑いを浮かべた小倉を見ながら、山名は言葉を続けた。
「そのように数多に造られた神々ですが、それらのすべてを統括して大宇宙を支配する神が現れました」 

                                               
「全知全能の神ですか」
「はい」
「その神が、どのようにしてキリスト教や仏教に繋がっていくのですか」
「それを知るにはまず、民族宗教に眼を向けなければなりません」
「先進国から発展途上国まで含めると、数え切れない程でしょうね」
「その中でもいち早く発展したのが、メソポタミアの神々です」


 

「チグリス川とユーフラテス川の流域で広まった宗教ですね」
「今のイラク近辺になりますが、紀元前40世紀頃に存在したようです」
「随分昔ですね」
「多神教でシュメール人やアッシリア人などが信仰しましたが、新たな宗教が台頭したこともあって紀元3世紀頃に衰退しています」
「栄枯盛衰ですね」
「その次に挙げられるのが、先ほど触れた古代エジプトの神々です。発祥は紀元前30世紀に遡り、紀元前1世紀まで続きます」
「メソポタミアの神々と同様に長く続いたのですね」
「ナイル川の恩恵を受けて繁栄し、代々のファラオが君臨しました」
「砂漠に立つ巨大なピラミッドやスフィンクスの存在理由がまだ解明されていませんね」


 

「以前は、『ピラミッドは王の墓』とされていましたが、最近では宗教的な儀式のための神殿が有力な説になっています」
「さしずめスフィンクスは、神殿の守り神でしょうか」
「日本の神社の入り口に鎮座する狛犬のような存在になりますね」
「どの建造物も謎が多いですね」
「特に建築技術については、謎だらけです」
「メソポタミアの信仰と同様に多神教と聞いていますが」
「それぞれの時代によって信仰の対象が変わりますが、太陽神であるアメン・ラーが主神になります」


 

「絶世の美女とされているクレオパトラは、いつ頃の人ですか」
「プトレマイオス朝の末期です」
「カエサルやアントニウスとのロマンスは有名な逸話になっていますね」
「自分の王朝を守るための女王の策略だとも言われています。最後は失意の中、ローマ軍のオクタウィアヌスに反抗して自殺しました」        
「自分の腕をコブラに噛ませたのですね」
「あくまでも伝承ですので、実際はどうだったのかは不明です。いずれにしても、悲劇の女王として映画や舞台に取り上げられています」 

 

 

「女王を題材にした映画の中でも、エリザベス・テーラー主演の『クレオパトラ』が話題になりましたね」
「著名な俳優が多数出演していて、大々的に宣伝されました。上映当時は、私がまだ幼かったので映画館では観ていません」
「私も数年前にDVDをレンタルして観ましたが、あまり印象に残りませんでした」
「女王のラブロマンスがテーマになっているので、テンポが早い歴史物や動きが多い戦争物が好きな人にとっては、少し物足りなさを感じるのかも知れませんね」
「いくら映像が絢爛豪華といっても、4時間の上映は長すぎです。後半に至っては、退屈でした」
「製作会社が社運を賭けて作ったのですが、興行的には失敗だったようです」
「巨額の製作費を投じた超大作であっても、誰もが認める名作とは言い難いですね」
「そう言われても仕方がない映画でした」
「低予算であっても、観客がたくさん入った名画が数多くありますものね」
「洋画ではクエンティン・タランティーノ監督の『パルプ・フィクション』、邦画では中川信夫監督の『東海道四谷怪談』が、良い例だと思います」
 

 

「最近では、上田慎一郎監督の『カメラを止めるな』が注目されましたね」
「低予算でありながら、国内外でたくさんの賞を取ったという映画ですね」
「人気が高く、インディーズの中ではずば抜けた作品だと思います」
「フランスではリメイク版まで作られたようですね」
「先生は、まだご覧になってないのですか」
「はい。残念ながらまだ観ておりません」
「斬新な手法と展開は、観る人を飽きさせません。至ってお勧めの映画です」
「時間が許せば、ゆっくりと鑑賞したいですね」
「是非とも」
山名は、小倉の熱い口調に少し微笑んだ。
「まあ、映画の論評についてはこれくらいにしておいて、話を本題に戻しましょう」
「そうでした」
「次に挙げられるのは、古代ギリシアの神々です」
「全能の神であるゼウスが登場しますね」
「オリンポス十二神の主神です」

 

 

「神話ですので、実際には存在しなかったのでしょうね」
「それは何とも言えません。当時の王族や豪族を称えるために作った可能性もあって、モデルになる人はいたのかも知れません」
「いつ頃に出来たのものですか」   

「紀元前15世紀頃です」
「メソポタミアやエジプトの少し後ですね」
「日本では、弥生時代になる前のことです。人々はまだ文字を持たず、口伝によって語り継がれました」
「どのような宗教だったのですか」
「多神教であり、神々には序列がありました。教典や教会はなく、神からの啓示もなかったようです」
「今でも、ゼウスを信仰するというような宗教が存在するのですか」
「ゼウスが唯一神であるヤハウェとする信仰はもちろん存在していますが、ギリシャ神話のゼウスはほとんど聞きませんね。そこが荒唐無稽な神話である所以なのでしょう」
「なるほど」
「次に挙げられるのが、紀元前13世紀頃に成立したユダヤ教です」
「古代イスラエルの宗教ですね」
「ユダヤ人のための宗教であり、この世における唯一の神であるとする『ヤハウェ』を崇拝していました」
「6日間で万物を創造したという神様ですね」
「ユダヤ教徒にとっては絶対的な存在であり、『エホバ』とも呼ばれていました」
 

 

「『エホバの証人』という宗教団体は、そこから来ているのですか」
「そうです。1870年代に造られた団体で、主に聖書の研究を行っていました」
「新興宗教だったのですね」
「ご存じのようにユダヤ教の聖典は『旧約聖書』ですが、ユダヤ教徒は『7つの戒め』を守って救世主の出現を固く信じていました」
「救世主というのは、後のイエスのことですか」
 

 

「残念ながら、ユダヤ教徒はそのように思いませんでした。それどころか、イエスを嫌っていました」
「それはどうしてですか。私はイエスが救世主であっても構わないと思うのですが」
「確かにイエスもユダヤ人でユダヤ教徒でしたが、勝手にユダヤ教の規律を変えようとしたので疎んじられました」

「どのように変えようとしたのですか」
「イエスはユダヤ人だけではなく、全世界の人々を救おうと考えたのです」
「そちらの方がより良い考えだと思うのですが、頑ななユダヤ教徒にとっては、イエスが謀反者に見えたのかも知れませんね」
「あくまでも、ユダヤ教がユダヤ人のための宗教であって欲しかったのでしょう」
「イエスは、弟子であるユダの裏切りがあって、ローマ帝国の総督によって処刑されますね」
「程なくして、イエスの弟子たちが『旧約聖書』と『新約聖書』を聖典にしてキリスト教を確立します」
「中心人物のイエスがいないにも関わらず、西欧ではキリスト教を支持する人が増えていったのでしたね」
「キリスト教は多くの国で国教になりましたが、逆にそのことでユダヤ教徒から敵視されてしまいます」
「イエスを救世主とは認めなかったのは、そういう理由もあったのですね」
「その後、ローマ帝国によって母国を追われたユダヤ人たちは、ちりぢりになります」
「それぞれの土地で、科学者や芸術家、大企業の創業者になって活躍しますね」
「様々な分野でユダヤ人が貢献して、称賛されます」
「最近では、アインシュタインやスピルバーグが有名ですね」
 

 

「しかしその一方で、キリスト教徒の多い西欧諸国においては反ユダヤ主義が生まれて、ホロコーストのような悲劇も起こりました」
「受難の時代ですね」
「現在、キリスト教とユダヤ教の対立は表面的には無いように見えますが、実際はそのような事情で根が深いのです」
「ルーツは同じであるのに、ボタンの掛け違いで反目し合うのですね」
「どんなに立派な宗教であっても、暗黒の歴史があるということです」
「対岸の火事ではありませんが、我々日本人にとってはどうすることもできない難しい問題と言えますね」
「残念ながら、今の状況ではそう言わざるを得ません」 
山名は、一息ついて言葉を続けた。

ああ、神も仏もないものか                                     仲代 章

輸血
 午後16時47分、都内の救急病院に一人の少女が運び込まれてきた。
  少女は、学校から帰る途中の交差点で、急な左折をしてきたダンプカーに体を巻き込まれたのであり、無謀な運転者による被害者であった。
  小学2年生の華奢な体から大量の血液が流れ出ていて、このままでは生命がなくなるという予断の許さない状態になっていた。
  娘の事故の連絡を受けた母親が、蒼白な顔で病院に駆け込んできた。窓口で真っ先に娘の安否を尋ねたが、傍に居合わせた看護師がなんとか宥め賺した。
  担当することになった医師は、直ちに手術の準備に取りかかるが、何よりも大量の輸血が必要であった。

 

 

 血液検査で少女の血液型が分かり、母親の血液が輸血に適しているかどうかを聞いてみた。すると、母親は涙ながらに訴えてきた。
「どうか、あの子に輸血するのはやめて下さい・・」                   
その言葉に医師は驚いた。 
「お母さん、今、輸血をしないと娘さんは助かりませんよ!」  
「それでも、輸血だけは絶対にダメなんです」
「何故ですか!」
「私たちの信じる主の教えでは、それが禁止されているからです」
「どのような教えなのか知りませんが、私は医師として娘さんを救いたいのです。このままでは、命をなくすことになってしまいますよ!」
「たとえ死ぬことになっても、それはあの子の運命なので仕方がありません。私たちは、主がお決めになった事に背くことは出来ないのです」
「そんな・・」
「どうか、輸血なしで娘を助けてやって下さい。お願いします!」
「・・・」
 困惑した医師は、これ以上言い返すこともできずに手術室の前で立ち尽くした。
『どんな理由があろうと、医師としての良心に従って輸血を行うべきなのではないのか』
少女が横たわる手術室のドアを見つめながら自問自答を繰り返したが、
『このままでは無駄に時間が過ぎて行くだけである。少女の体から血液が流れていくのだけは、止めなければない』
我に返った医師は、手術室に入って即座に傷口の縫合を始めた。
 しかし、その甲斐もなく、2時間後に少女は出血多量で息を引き取った。

世紀末
「ダッダ、ダッダ、ダッダ、ダッダ、ダッダ、ダッ」  
「グワッ」「ギャー」
 連続した発射音が、辺りに響き渡った。その銃弾によって2人の男が倒れた。
 閑静な教会で起こった狂気の殺戮である。教祖から逃げようとした信者が、自動小銃のようなもので撃たれてしまったのである。

 

 

  教祖は、以前から「この年の9月9日にこの世の終わりが来ます。でも、心配はいりません。私と共に旅立てば天国に行けるのです」と公言していた。
  信者たちは、彼の言葉を信じて教会の祭壇で祈り続けた。そしてその日が、遂に来てしまったのである。教祖を信じたほとんどの信者が、服毒自殺を図った。
 信者の中には、教祖に疑念を持ち始める者もいた。その中の2人が逃亡しようと試みたのだが見つかってしまい、撃ち殺された訳である。
 その後、教祖は自ら銃で頭を撃ち抜き自殺した。結局、教祖の予言が外れて、その日が過ぎても世界は終わらなかった。

サイ・ババ
 サティヤ・ラージュという14歳の少年は、インドの貧しい農村の出身であった。
 彼には不治の病を治す霊能力があるとされ、聖者シルディ・サイ・ババの生まれ変わりと自称していた。


 

 悩みを抱える人々に説法をして周り、次第に彼の信者が増えていった。信者から『シヴァ神とシャクティ神の化身』と崇められ、一時は数百万人を越えるものとなる。
  また、病院や学校の無償化や水道設備の設置などの奉仕活動もしていて、各国の要人たちから高い評価を受けて称賛された。
  そのようなこともあって、世界中にその名が知れ渡るが、マスコミから『サイ・ババの霊能力は、只の手品である』という批判を浴びることになる。何もない手から灰や貴金属を出すのは、すべてインチキであるとバッシングされたのである。      
  更に、サイ・ババが同性愛者で青少年に性的虐待をしていたことや、サイ・ババの病院では臓器売買が行われていたとも噂された。
  実際、布教活動を熱心にしていた弟子の一人が、サイ・ババから性的虐待を受けていたようで、彼によって『サイ・ババの叔父はプロの奇術師で、サイ・ババ自身も子供の頃から奇術の訓練を受けていた』ということを暴露される。
 これらの批判は、他の霊能力者の妬みや嫉妬からではなく、複数の側近や信者から出た言葉なので信憑性が高いと思われた。
 今となっては、それが事実であるかどうかは確かめようもないが、いずれにしても、霊能力で病気を治したり、何もない所から物質を出したりするのは、胡散臭さが拭えないのである。
 社会的な奉仕活動も純粋な慈善心からではなく、己の欲望の隠れ蓑にしていたのかも知れない。

自己啓発セミナー
 自己啓発を事業の看板にしている『ライフスペース』という団体があった。
 そこの代表になっていたのが高橋弘二という初老の男で、インドの霊能力者であるサティヤ・サイ・ババの後継者と自称していた。
  彼は、患者の頭部を手で軽く叩く「シャクティパット」と呼ぶ方法で病気が治せると公言していて、シャクティパット・グルとも呼ばれていた。


 

  その霊能力によって会員を集めていたのだが、胡散臭い霊能力者はすぐに馬脚を現すことになる。 
 事件は起こるべくして起きた。ある会員が、病気の家族の治療を高橋に頼んだのであり、それが事の始まりであった。
 高橋は、入院してる高齢の家族を病院から連れ出して、例のような治療を行った。結局、病気は治らず死んでしまうが、それでも高橋は「まだ生きている」と言い張り、その会員もその言葉を信じ続けた。
 警察の捜査によって、この事件の真相と高橋の欺瞞が明るみになるが、記者会見においても高橋の荒唐無稽な発言が飛び出し、失笑を買うことになる。

ある宗教団体のイベント  
「皆さんこんにちは。この会場によくおいで下さいました。私は司会を務める太田ことゴーシャルナです」
 作務衣のような白い服を着た男が、ステージのマイクの前に立った。髪は肩まで伸びていて、丸い黒眼鏡を掛けていた。胸元には、プルシャという教祖の側近にしか与えられないバッチが付いている。
「ではまず最初に、私たちの主な活動をビデオでご覧頂きます」
 太田の後ろのカーテンが両側に開かれ、巨大なスクリーンが現れた。会場の照明が落とされ、即座にその映像が映し出される。内容は、彼等が毎日行っているヨーガと瞑想の手法、そして教団の根幹になっている教義の説明である。
 約40分程の長さであったが、見終わった者のほとんどが興味津々になっていた。
「最後に、私たちを聖なる楽園に導いてくれる尊師のお言葉をお聞き下さい」
 先ほどの映像とは異なる神々しい音楽が流れて、スクリーンに教祖の姿が現れた。太田と同じような出で立ちで、両眼を閉じて座禅を組んでいた。どこかの山岳の麓で撮影されたらしく、周りには撮影者以外に誰もいなかった。




「私は、皆さんのことを良く知っています。どうしてここへ来られたのかも分かっています。もう何も心配する必要はありません。この教団に身を預けなさい。そうすれば、あらゆる苦悩から解放され、幸福に満ちた未来が訪れるでしょう」
そう言うや否や、教祖は閉じていた眼をかっと開き、徐に座禅を組んだまま宙に浮いた。
「おお!」    
会場にいるすべての者が感嘆の声を上げ、奇跡のような光景に眼が釘付けになった。
「尊師は、数々の難行を積まれて解脱されました。このように浮遊できるのも、その結果なのです」
 太田が、教祖の偉大さを畏敬の念を持って讃えた。教祖は体を一度地面に下ろして両足で立ち、両手で印を結んだ。そして、その腕を空高く上げて、弧を描くように回し始めた。
「これは、尊師が宇宙の摂理と交信をしているところです」
 シーンと静まりかえった会場にどよめきの声が起こった。それはいつしか大きな歓声に変わり、同時に割れんばかりの拍手が鳴り響いた。

同時多発テロ
 9月11日の朝、カリフォルニア州に向かっていた4機の旅客機が、突然コースの変更を行った。
 その理由は、4機ともほぼ同時にアルカイダのテロリストたちにハイジャックされたからである。      
 アメリカン航空の11便とユナイテッド航空の175便は、ニューヨークのマンハッタンへ、アメリカン航空の77便とユナイテッド航空93便は、ワシントンD.C.へと向かった。
 午前8時46分、ワールドトレードセンター北棟の高層階に11便が突っ込んだ。
 大きな衝撃と共に炎が上がり、割れた窓から黒煙と白煙が吹き出した。11便のジェット燃料が漏れて、爆発的な火災も起こり始めた。
『何事が起きたのか』『制御できなかった旅客機の事故か』と、ビジネスマンたちが騒然とする中、今度は175便が南棟に突っ込んだ。
  ツインタワーの近辺にいた人たちは、信じられないに有り様に「オーマイゴット」と叫ぶしかなかった。


 

  通報を受けて、多くの救急車、消防車、パトカー、マスコミの中継車がビルの入り口まで来ていた。けたたましいサイレンが飛び交う中、人集りが次第に増えていく。
 ツインタワーに勤務する家族や友人たちに連絡が取れない人々は、この惨状に苛立ちながら彼等の無事を祈った。この後に無慈悲な大惨事が起こることも知らずに、携帯電話の着信音が鳴るのをひたすら待ち詫びていたのである。
  南棟にハイジャック機が突っ込んで、57分後のことである。
「ゴゴゴゴゴ」            
不気味な地鳴りと共に、南棟が突如として崩壊した。巻き起こった黒煙の中で、まるで地面に吸い込まれるように消えていった。
 その中には、避難を急いでいた多くのビジネスマンとその救助にあたっていた消防士や警察官がいた筈である。南棟を見守っていた人たちは、噴煙が立ちこめるその光景に絶句した。
 いや、それだけではない。この凄惨な出来事が、隣の北棟にも起こり得るのである。北棟に残っていた人たちは、身に迫る命の危機に怯えながら脱出を急いだ。
 そしてその最中、危惧していた事が現実のものとなってしまう。南棟の倒壊から約30分後に、北棟も同じように崩壊したのである。

桃陽学園                                    
 小学3年生の時に虫垂炎になったのだが、行きつけの町医者に「只の風邪」と誤診されて、危うく命を落としかけた。
  それから2年後、私が小学5年生になって間もない頃である。微熱がなかなか引かずに、寝込んでしまった時があった。体の調子がすこぶる悪く、一週間ほど家にじっとしていたが、大きな病院で見てもらった結果、肋膜炎であることが分かった。
  親は、「もうあの医者は信用できん」と怒ったが、これからどうしたら良いものかと途方に暮れた。
 小学校の先生の中にそのことに詳しい方がおられて、担任を通じてその学園に入院することを勧められた。
 最初に園長先生を紹介されたが、顔もろくに見ずに挨拶した。高い熱があって苦しく、それどころではなかったのである。直ちにベッドに寝かされて、その日は泣きそうであった。
 学園では、規則正しい生活が強いられた。栄養満点な美味しい食事、定期検診、それとプトレストマイシンという抗生物質によって日増しに体は良くなっていった。
 実はここでの闘病生活は、私の生涯の中でも最も貴重な経験をもたらしてくれたと思っている。 
 ここは、小学生だけでなく中学生もいて、頼りになるような人がたくさんいた。分からない事は丁寧に教えてくれたり、いっしょに考えてくれたりもした。
  あまり激しい運動は出来なかったが、卓球やカロム(手作りの玉突き)などのゲームや遊びでコミュニケーションを深めることもできた。
 夕食後に反省会というミーティングがあって、それぞれが自分の1日の行動を振り返った。子ども達が主導で行い、全員が真面目に病気の回復に取り組んでいたのである。

ビートルズの日本公演
 夜は消灯時間が早いので、就寝の前までは園内のスピーカーから流れるラジオ放送を聴いていた。それまでの歌謡番組とは違い、ここでは邦楽と洋楽が流れる地方局の番組が流れた。
 私が洋楽を知ることができたのは、このラジオのお陰である。言葉がまったく分からないフォークやポップス、シャンソン、カンツォーネではあったが、そのメロディをよく聴いていた。今でもその時のポップスを耳にすると、とても懐かしく思う。
 ある日、音楽好きの上級生が、ビートルズの日本公演がテレビで放映されることを知り、「一生のお願い」と、看護婦長に頼み込んだ。それで、特別に許可されることになって、みんなでいっしょに観ることになった。
 


 

 しかしその時は、ビートルズの素晴らしさが私には分からず、正直、喧しいだけの音楽だと感じた。途轍もなく凄いミュージシャンたちだと分かったのは、自分も同じ軽音楽をやり出してからである。
 何れにしても、その映像を観ることが出来たのはとてもラッキーであり、その上級生に感謝して止まない。

小説
  もうひとつ、影響を受けたのが読書である。近くの部屋に読書好きの中学生がいて、いろんな書物を教えてくれた。
 初めての長編推理小説である「高校殺人事件」は、難しい漢字や言葉があったが、根気強く諦めずに読んだ。その本の作者が松本清張であるというのは、大人になってから気付くことになる。
 

 

 

 芥川龍之介や太宰治の作品も、この頃に読み始めていた。今でも好きな作家であり、私の書架には著名な作品が数冊並んでいる。

昆虫採集
 学校は病院からかなり近い所にあって、毎日歩いて通学した。担任は、一度退職して嘱託として来ているような結構年配の優しい男の先生だった。
 高学年は一クラスしかなく、人数が5、6人なのでマンツーマンのような授業になって分かりやすかった。
 学校に行く途中に回遊路と呼ばれる自然に囲まれた所があって、よく友だちと散策した。昆虫好きな子ども達は、手に網とカゴを持って出かけたものである。
  これは先生方には内緒であるが、太陽がまだ出てない頃に起き出して、カブトムシやクワガタを捕りに行ったことがある。上級生の誰かが、クヌギの木が密集している場所を目聡く見つけていたのである。

  

 

 懐中電灯を頼りに山に入ったが、昆虫が集まりそうな樹液が流れ出ている木は、臭いで分かった。昆虫が居そうなクヌギを見つけて、傘を開いて逆さに置き、その木を思い切り蹴るのである。
 バタバタと何かが木から落ちる音がして懐中電灯を照らしてみると、たくさん蠢いているのが見えた。たまにムカデが落ちてきて、ドキッとさせられることもあった。

ヤモリ
  昆虫も好きであったが、爬虫類のカナヘビも好きであった。普通のトカゲは気持ちの悪い虹色の模様であるが、カナヘビは地味な薄茶色で可愛らしかった。
  更に、ヤモリをペットとして飼っていたこともある。夜中に窓ガラスにへばり付き、白い腹を見せてじっとしているあの姿は、何とも愛おしかった。
 

 

 

「よくまあ、そんなゲテモノを」と悪趣味を怒られそうであるが、トカゲより動きの遅いヤモリが何となく自分の相性に合っていたように思う。
  そんなヤモリを固い紙のお菓子箱に入れて飼っていたのであるが、ある日、蓋が開いていて、ヤモリがいなくなっていた。自力で箱を開けられる筈もなく、誰かの仕業としか考えられない。『私に何か恨みでもあるのか』と、そう思いながらヤモリを探した。
 その最中に、同じ学年の友だちが看護婦長を連れてやって来た。そして泣きながら文句を言った。
「僕の嫌いなヤモリを箱に入れて、わざと僕を驚かした」
ヤモリの入った箱は、私のベットに付いている細長い棚に置いていた。
「そちらが無断で蓋を開けたのであり、ヤモリが好きか嫌いかは私の知らぬ事だ。それより、逃げたヤモリをどうしてくれるんだ」と言ってやった。
 看護婦長は困った顔をして、彼を宥めた。『言い掛かりもいいとこだ』と思ったが、何やら笑けてきた。彼が蓋を開けた時、どんな顔でびっくりしたのかを想像すると笑いが込み上げてきて、それを堪えるのに苦労した。
 一応断っておくが、それを見越した悪巧みではない。彼が人のものを勝手に開けてしまった事への天罰に他ならないのである。

隠語
 夕方、素行があまり良くない上級生と下級生が、コソコソと小声で何やら話していた。会話の中で、オ○ソという言葉が出ていたので、それは何かと上級生に聞いた。
 上級生は、オは女で、○は素朴で、ソは率直であると私に答えた。私はその言葉の意味が分からず、更に聞いてみた。
「女の子が詳しいさかい、誰かの部屋に行って尋ねてみ」と、真面目な顔で言った。 
 早速、女の子の部屋に行って何人かに聞いてみた。誰も「知らない」としか言わなかったが、年長の中学生のお姉さんが、ちょっと呆れたように本当のことを答えてくれた。
 そして、「あんたはあの上級生に騙されたんや。後でちゃんと怒っておくさかい」と、慰めてくれた。それを聞いてすぐに上級生のところに走って行ったが、彼は悪びれずにケラケラと笑っているだけだった。 

スキヤキ・パーティ
 年令が異なる小中学生の共同生活は、毎日いろいろな出来事があって楽しかった。その中でも一番心待ちにしていたのは、「スキヤキ・パーティ」だった。
 おそらく園長先生が考え出した事だと思うが、みんなはとても喜んだ。今回は自分が参加出来る番であると知らされると、ウキウキしたものである。鍋には牛肉はもちろん、スライスされた松茸が入っていた。

 

 

 その当時は、学園の近くに松茸山がありそこから調達したのであるが、私も何本か採ったことを覚えている。今では考えられない豪華なスキヤキであった。

共同生活
 今思うと、いろんなことを経験し、たくさんのことを教わった。もちろん、拗ねたり、喧嘩もしたのであり、決して良い思いでばかりではない。
 それでも、楽しかった。退院するのを遅めてもらうほど、友だちとの共同生活が良かったのである。
  病気になったことは最悪だったが、ここに入ることが出来て本当に良かったと思うし、紹介して頂いた小学校の先生に心から感謝している。

有線放送
 中学生の頃から様々なアルバイトをしていた。
 新聞配達、百貨店の商品配達、寿司屋の出前、喫茶店のウェイター、旅館の皿洗い、犬猫フードのカタログ配り、蒟蒻屋、居酒屋の店員、電気マッサージ機の販売、交通量調査など、そこそこの数を経験した。
  その中でも有線放送のレコード係は、有意義なアルバイトだった。毎日、9時から12時までの3時間の業務であり、学生としては夜間での仕事は都合が良かった。
 時間給が安く短時間なので充分な手当にはならなかったが、たくさんの邦楽や洋楽を知ることができた。そのことは、今の音楽活動にも生かされている。
  放送設備のあるスタジオには、8人程の社会人や学生たちがいて、レコードをかけたり、電話での曲のリクエストに対応したりした。リクエストがないときは、自分の好みの曲をかけて楽しんだ。
 今では誰でも知っているカラオケという言葉を、その時に初めて知った。カラオケは、『歌の入っていない空のオーケストラ』という意味のレコードであり、まだ、世の中には普及していなかった。
  それを知っているのは会社と契約している店だけであり、そこの店の客から好きな曲のリクエストが来くることもあった。客は、そのチャンネルから流れるカラオケに合わせて歌を歌ったのである。
  当然、レコードであるので曲のキーは変えられないが、それでも客は喜んだ。雨後の筍のようにカラオケBOX店が出来るのは、それから数年後である。
  たまに有名な歌手が、「宜しくお願いします」と新曲のレコードの宣伝に来たことがあった。その方とソファーに座り、面と向かっておしゃべりをした経験もある。
 また、プロのフォーク歌手が来て、ブルースハープとギター一本で私の好きな曲を歌ってくれたこともあった。マイクなしの生のライブは、声が良く通っていて感動ものであった。
 

 

 仕事が終わる頃には電車がないので、会社がタクシーチケットをくれた。それでいつでも帰れるので、みんなで安い居酒屋に行って3時頃まで飲んでいた。

「ガロ」
 その本の存在を知ったのは、大学生の時だった。 
 近所にある大きな書店に入って、音楽雑誌やコミック雑誌などを何気なく見ていたのだが、何やら表紙に変わったイラストが描かれている本が目に付いた。
 手にとってみると、「ガロ」という名の漫画雑誌だった。ページを捲ると、見たこともないような不思議な漫画が出て来た。
 

 

 

 大まかに最後まで読んでみたが、『これは上手いのか下手なのか』と、疑問を抱かせるものばかりであった。それでも、何かしら人を引きつける作風だったので、迷った末に買ってしまった。
 家に帰ってからゆっくり読んでみたが、子ども向けというより大人向けの雑誌であり、まだ世間に知られていない名前の漫画家の作品が主流になっていた。
 当時の編集者の意向で、有る程度の力量があれば自由に作品を掲載してくれたのであり、新人の漫画家にとっては有り難い存在であったのである。
 月刊誌「ガロ」の創立者は、『カムイ伝』で有名な白土三平であるらしいが、私が読んでいた頃にはその作品は載っていなかった。
 また、水木しげるのアシスタントをしていたという池上遼一の作品も見た記憶がない。おそらく、私が知らない昔のバックナンバーには、載っていたのだろう。
  毎月、期待して買い続けたが、馬鹿馬鹿しく支離滅裂な作品だけでなく、本当に素晴らしいと感じる作品もたくさんあった。
 何年の何月号だったか忘れたが、フォーク歌手の泉谷しげるの作品が載っていたのには驚いた。結構、几帳面に描いていて、そのような才能もあったのだと笑ってしまった。
  さらに、写真家の荒木経惟のエログロ写真があったり、糸井重里、上野昂志、赤瀬川原平、呉智英、末井昭といったコラムニストの投稿も読めて、毎回楽しませてくれた。
 今まで読んだ作品の中で、私の感性に訴えた作家の名前を挙げると次のようになる。
 つげ義春、つげ忠男、鈴木翁二、林静一、安部慎一、永島慎二、池上純司、菅野修、古川益三、三橋乙揶、水木しげる、久住昌之、花輪和一、丸尾末広、山野一、平口広美、川崎ゆきお、蛭子能収、ひさうちみちお、秋竜山、佐々木マキ、ますむらひろし、まどのかずや、滝田ゆう、高信太郎、村野守美、つりたくにこ、杉浦日向子、やまだ紫、内田春菊、辰巳ヨシヒロ、みうらじゅん、鴨沢祐仁、湯村輝彦、山田花子、森下裕美、安西水丸、渡辺和博、根本敬、勝又進、谷弘兒、楠勝平、泉昌之、近藤ようこ、みぎわパン、松尾ひろし、吉田光彦、南伸坊など個性豊かな人たちの名が連なる。
 この中の何人かが、つげ義春や水木しげるのようにその名を世間に知らしめることができたが、手塚治虫や藤子不二雄のような国民的な存在にはならなかった。
 確かにマイナーのままで終えた人が多いが、メジャーになることを望んで「ガロ」に投稿したのではないのに違いない。自分の描きたいものを自分の手法で表現して、理解してくれる人がいればそれだけで満足していた筈である。
 結構溜まったバックナンバーを一時は処分しようとしたが、思い止まった。読み返してみるとこれがまた面白いのであり、当時の熱い思いが蘇って来るようである。          
  学生の頃のバンド仲間に「ガロ」の愛読者がいて、いろいろと教えてもらったことを思い出す。『我々はガロ系であり、「COM」とは一線を画す』という意味のことを述べていて、あくまでもアングラ指向であることを強調していた。
 いずれにしても、このような作家や作品に出会えたことは有り難いことであった。漫画というメディアによってたくさんの作家の思いに触れることができたから。
  編集者が次々と変わっていき、以前のような「ガロ」ではなくなったのでもう買わなくなってしまった。
 それでも、大げさに言えば『人がこの世に生きている理由が何であるのか』ということをこれまでの作品からヒントを貰ったような気がするのである。

 

あとがき                               
 以上が、私が幼かった頃や学生であった頃の思い出である。今より不便な時代ではあったが、それなりに楽しい事がたくさんあったと思う。
 保育園の時は、未知なる物との出会いであり、すべてにおいて興味津々であった。
 小学校の時は、友だちといっしょに何かに夢中になって日が暮れるまで遊んだ。
  中学生時代で印象に残った出来事といえば、先ほど述べた喧嘩ぐらいであり、あまり多くない。同級生の中には、野良猫の首を絞めながら、「この猫、3歩で死ぬ」と嘯く奇人や、学校の廊下で訳もなく「○メコ~ォオ~ォオ~ォオ」と、ターザンのように絶叫する変人がいるにはいたが、ただそれだけの毒にも薬にもならない人たちばかりであった。
 3年生の後半は、休み時間も遊ばずに机にしがみついて問題集を解いていた。高校受験に備えていて、勉強一筋だったのである。
 その甲斐あって希望校に入学できたのだが、開放感からタガが外れたのか遅刻の常習犯だった。昼前まで寝ていて、目が覚めて登校しても教室に入らず、学食で安い中華そばを食べるといったことを繰り返していた。
 また、興味のない教科はまったく出席せずにサボりまくり、物理では赤点をとって追試も受けたこともあった。
  そういう自堕落な生活を毎日のように送っていたが、友だちには恵まれた。同じクラスの中に洋楽や洋画に詳しい奴がいて、彼とは気があって何をするのもいっしょだった。
  三番館で「イージーライダー」や「真夜中のカウボーイ」のようなニューシネマをみたり、バイクで琵琶湖をツーリングしたり、大きな旅館のアルバイトを泊まりがけでしたりと、常に行動を共にしていたのである。
  ウッドストックのことを知ったのも彼のお陰である。映画館で観た時は、『こんな大きなコンサートがアメリカで行われていたんや』と規模の大きさに驚いた。憧れと共に、本気でロックをやりたいという気持ちが湧き出てきて、バンドを作る決心をする。
 

 

 

 卒業まであと数ヶ月になったが、ほとんどの同級生が大学受験を目指して勉学に励んでいるというのに、私ときたら軽音のボックスに入り浸りで、修学旅行にも行かずにまるでドロップアウトしたヒッピーのようであった。
 それでも、一丁前に大学への進学を希望していたのであり、緊迫感を持たない脳天気な極楽トンボのようでもあった。
 関西では有名な私立大学を3つ受けたが、結果は火を見るよりも明らかであった。それで1年間予備校に通ったが、またもや不合格になった。結局、2浪の末に、何とか第二希望の大学に滑り込んだのである。
 ようやく念願の大学に入ったが、軽音楽のバンドの練習ばかりしていて、必要なゼミもろくに出なかった。本気で音楽で生計を立てようと思っていたのである。
 3回生になって尻に火がついていることに気が付き、真面目に出席し出した。4回生でも少し頑張って、卒業に必要な単位数はギリギリで取れた。
  卒論などは3日間徹夜をして書き上げたが、口頭試問では「付け焼き刃」がバレて叱られた。担当官が、『こんな奴は、さっさと大学からいなくなれ』と思ったのか、なんとか「可」で通してくれた。今思えば、よく落第せずに卒業できたものだと我ながら感心している。
 さて、卒業したからには自立しなければならない。収入を得るために、音楽をキッパリと諦めて定職に就かねばならない。
 迷いに迷ったが、日頃からお世話になっていた先輩の勧めによって教職の道を選んだ。教員免許がないので通信の大学に入り、その1年後に資格が取れて、運良く教員に採用された。
  社会人になってからは、良くも悪しくも仕事に追われた日が続き、気が付けば『あっという間に月日が過ぎてしまった』という思いだけが残っている。
  職場で子ども達と遊んだり、同僚と海外旅行をしたりと楽しい時間を過ごす機会が結構あったのだが、その反面、苦労も多かった。
  学級経営に関しては、子どもたちが反抗的になって学級崩壊になることは一度もなかったが、いじめや不登校、万引きなどの生徒指導上の問題に直面したのは少なからずである。
  保護者もいろいろで、協力的な親もいれば学校の方針とは真逆の反社会的な親もいて、かなりしんどい思いをさせられた。
  さらに、子どもを教えるだけでなく、細々とした職務が山積みになっていて、それに時間がかかった。夕飯時になっても家に帰らず、空腹のまま仕事をする人はざらで、毎日が重労働であると言っても過言ではないと思う。
  それなりの給料を貰っているので愚痴を言うのはお門違いかも知れないが、ひとつ間違えば長期休業を取らざる得ないような過酷な仕事であるのは確かである。
 仕事に関しても遊びに関しても、転勤先で親しくなった同僚に教えてもらった事がたくさんある。水泳、鉄棒、スキー、スケート、軟式テニス、ゴルフ、海釣り(チヌ)、競馬(馬券購入)などであるが、水泳、鉄棒、スキー、スケートについてはできないと子どもに教えられないので頑張って練習した。お陰で、ある程度まで出来るようになった。
 自分で努力して出来るようになったのは、ミシン縫い、一輪車、パソコン、英会話である。
 ミシンについては、新採の夏休み中に覚えた。機械の内部構造も分かって、簡単な故障なら治せるまでになった。ついでに、手縫いの様々なステッチや用具の使い方も覚えて、針仕事が苦にならなくなった。
  一輪車は、最初はまったく出来なかった。子どもたちが難なくやっているのを見て、大人の私ができないのは恥ずかしいと嘆いていた。それでも、必死に頑張ってバック走行がなんとか出来るまでになった。
 


 

 パソコンは、教育委員会主催の研修によく行った。その頃はまだパソコンが普及していない時代であり、低機能な上に価格が高く、手を付ける人はあまりいなかったが、私自身は興味を持っていた。

 当初は、パソコンというものが何であるのか分からなかった。それに関連した書物を何度も読み返すことで自分なりに理解出来たのであり、それは大きな収穫であった。ワープロが職場に入り、活用するようになるのはそれから数年後である。
 英会話については、まだまだ修行中である。米国の子どものように普段から使っていれば直ぐに身に付くのであるが、残念ながら片言しか話せない。流暢に話せる人が羨ましいのであり、そういう人は隠れて努力しているのだと思う。
  出来るようになった事を臆面もなく羅列すると、『まるで自慢話を述べているようだ』と非難されそうであるが、そういうつもりはまったくない。

 決して『先見の明があった』とかではなく、『教員になったからには、苦手なものをなくしていきたい。将来的に普及しそうなものを習得したい』と、自分なりに考えて実践したのであり、結果的に職務の上でプラスになったのである。

 体の不調により早期に退職をしたが、それまでは一日も休まずに勤めて、私なりに責任を果たしたと自負する。
 仕事を辞めてからは、知り合いの紹介によって修学旅行生向けのシルバーガイドになった。得意分野ではないので、京都や奈良の社寺仏閣を一から勉強し直すという新たな挑戦であった。
 桜や紅葉のシーズンになと、大人の団体を対象としたガイドも勤めた。おかげで、様々な人気スポットを知ることができて、自分の視野が広がった。
 そんなこんなで数年が経ち、気が付けば還暦を迎えていた。更にそれから7年経ち、70歳に手が届く年になってしまった。バスや地下鉄に乗った時にたまに若者から席を譲られるが、正直、不本意であまり嬉しくない。                                      
 この年令になってくると、誕生日を迎える度に『歳は取りたくないものだ』と感じるのであり、友だちから祝いの言葉を掛けられても、素直には喜べないのである。
 自分では、『この歳になってもまだまだ体を動かせる』と思ってはいるが、スポーツジムなどで激しい運動をすると、すぐに息切れをしてしまうのが現状である。また、風邪を引くとなかなか治らないのであり、自分の体力が劣っていることを痛感せざる得ない。
 子どもの頃は何をするにも全力であり、まったく疲れを知らなかった。今はそんな気力は希薄になっていて、どうしてもおっくうになってしまう。
  唯一、活力の源になっているのがライブ会場で歌うことである。そこで音楽仲間と出会い、楽しい時間を過ごすことが生き甲斐となっている。
 この先、どのあたりで寿命が尽きるのか分からないが、それまではやるべき事をしっかりやっておきたい。残り僅かな人生を、精一杯、悔いのないように送っていけることを願うばかりである。

深泥ヶ池
 子どもの頃の釣り場といえば、金閣寺の近くにあった氷室池である。魚よりもザリガニが目当てで、凧糸にスルメを括り付けるだけの簡単な仕掛けで捕まえることができた。
 本格的に魚釣りを始めたのは宝ヶ池であったが、あまり釣れなかった。どちらかというと、その近くにあった深泥ヶ池の方がよく釣れた。鮒、鯉の他に雷魚がいて、中学生辺りがカエルを餌にして大物を釣り上げていた。

 

 

  池の中には小島があって、地元の漁師さんが小舟でそこまで行き、料理に使うための鮒をヤスで射止めていた。その技は、まるで名人芸であった。
 今は、ここの水生植物群が国の天然記念物に指定されていることもあって、魚釣りはできない。何でも氷河期からの貴重な植物群であるらしい。               
 中学生になった頃、友だち二人から夜釣りに深泥ヶ池へ行こうと誘われた。残念ながらその日は何かの用事があって、渋々断ってしまった。結局、友だち二人だけで行ったのだが、後から聞いた話によると、ど偉い騒ぎになっていて、釣りどころではなかったのである。
 二人は、仕掛けを付けた竿を持って、漁師さんが使う小舟で小島まで行こうとした。辺りは真っ暗で、懐中電灯だけが頼りである。
 途中、友だちの一人が、湖面にマネキンが浮いているのを見つけた。櫂を使って進んで行き、そのマネキンまで小舟を寄せたときに気づいた。
『おい、これ、マネキンとちゃうぞ!』
『何やて!』        
 それは、髪の毛が長い女性の俯せになっている土左衛門であった。慌てた二人は、岸まで必死で戻った。そして、近くの交番まで走って行った。
 交番の中は誰もいなかったが、数分後に自転車に乗った警察官が帰って来た。土左衛門のことを告げると、警察官はすぐに深泥ヶ池へ向かった。
 どうやら、身投げらしい。この湖岸の近くに大きな病院があって、そこの患者さんということである。
  翌日、彼等から詳しい事情を聞かされた時は、前の船岡山公園の首つり事件と同様に『もし行っていれば』と、ぞっとした。土左衛門など見たくもないのであり、行かなくて正解だったのである。
                        
女の幽霊
 この深泥ヶ池については、以前から妙な噂があった。それは、『この近くで、若い女の幽霊が出た』という不気味な話である。
 

  

 

 数年前に、地元の新聞紙にこのような記事が載っていたのを目にしている。
 小雨がしとしと降る夜のことである。1台のタクシーが、深泥ヶ池の横の道路を通りかかろうとしていた。その近くの歩道に、傘も差さずに立ち竦む若い女の人がいた。
 女の人は、タクシーを見つけるとすぐさま右手を挙げた。運転手が気づいて止まり、後ろのドアを開けると、物静かに乗り込んだ。
「どちらまでですか?」
運転手が尋ねた。
「幡枝町の八幡宮まで・・」
女の人が、かぼそい声で行き先を告げた。
「分かりました」
ルームミラーで後ろを確認しながら、運転手はタクシーを出した。女の人は、下を向いたままじっとしている。何かを話せるような雰囲気ではなく、運転手も黙っていた。
 目的地は目と鼻の先であり、沈黙が少し続いた後にすぐに着いた。
「お客さん、八幡宮に着きましたよ」                        
そう言ってルームミラーを見たとき、後ろには誰もいなかった。慌てて振り返るも、女の人は消えていた。後ろのドアが閉まったままなのに、影も形もないのである。
  運転手は、後部座席を確かめた。座っていた所が少し濡れている。  
『乗せたのは間違いない。料金を貰っていないのであり、捕まえなければ』
 闇夜の中、タクシーを置いて辺りを探してみた。暫くすると、向こうの方に何やら灯りか見えた。周辺の家が消灯している中で、一軒だけが明るいのである。
『そこに潜んでいるかも知れない』
そう思って、取り敢えず行ってみることした。
 そこは、お通夜をしている喪中の家であった。線香の臭いが漂う中、ご遺族が悲しみに暮れていた。
「すみません。今し方、女のお客をこの家の近くまで乗せて来たのですが、料金をまだ貰っていません。どこにいるのか探しているのですが、誰かここを通りませんでしたか」
「いいえ。誰も見かけませんでしたが・・」   
ご遺族の方が、顔を見合わせながら答えた。
「そうですか・・」
そう言いながら、タクシーの運転手が何気なく祭壇に目をやったとき、
「あ!」                                  
思わず大きな声を出した。祭壇にある遺影の顔が、さっきの女の人だったのである。
「こ、この人です!」
「ええ?」                        
「間違いありません!」
運転手は、確信を持って言い切った。
「あの写真は、私の娘です。深泥ヶ池の近くの病院で、昨日、亡くなりました。重い病であった娘は、日頃から口癖のように『家に帰りたい』と言っていました・・」
目に涙をためながら、ご遺族が娘の心情を語った。
 運転手は、それを聞いて体が震え出した。顔も蒼白になり、逃げるようにタクシーまで走った。
  その後、運転手は会社には戻らず、自分の家に籠もってしまった。頭から布団をかぶったまま、『恐ろしい。恐ろしい』と譫言のように言いながら。
 心配した同僚が、彼の様子を見に家まで行った。震えている彼から『何があったのか』を聞き出して、ようやく事情が分かったのである。
  結構有名な話であるが、京都の人なら一度は聞いたことがあるに違いない。語り手によって多少異なる部分もあるが、概ねこのような話になる。
 この記事の真贋を判断するのは、非常に難しい。地方紙とはいえ、ゴシップやガセネタを売り物にするような新聞社ではなく、作り話を記事に載せることは有り得ないからである。
 運転手の勘違いや見間違いの可能性もあるが、『深泥ヶ池近くの病院』『消えた女の人』『濡れていた座席』『お通夜』『遺影の写真』などの偶然が重なり過ぎて、単なる作り話とは思えない。
 只の都市伝説と笑われそうであるが、深泥ヶ池近辺には、人知では計れない何かがあるのかも知れない。 

 

春の風物詩                                    
花見                                  
 まだ肌寒いこの時期であるが、酒好きの大人たちは、ここぞとばかりたくさん飲んで酔っぱらった。大抵が家族連れの団体であり、子どもたちは、母親が作ったお弁当を食べて喜んだ。
 

 

 

 桜が見れる穴場は近くの船岡山公園であるが、そこで花見をしたという思い出はない。記憶に残っているのは、小学校の卒業式にみんなで写真を撮った校庭の桜ぐらいである。
 これは、小学校の友だちから聞いた話である。
 宴もたけなわ、盛り上がった花見の最中に、ある酩酊状態の紳士が近くの木の陰で立ちションをした。終わってから千鳥足になって地面に倒れ込み、仰向けになって寝出した。 突然、女の人が「きゃっ」と悲鳴を挙げた。彼は、自分の逸物をズボンにしまい忘れていたのである。
  男衆も気づき、その人のチャックを何とか閉じたが、既にみんなに見られてしまった後だった。
  普段は真面目で実直であり、そんな不埒なことを決してするような人ではないのだが、酒がもたらした失態であった。
 起きてからその事を聞かされた彼は、血が引くように顔が青ざめたということである。

端午の節句
 家に鯉のぼりや武者人形はなかったが、5月5日の祭日は朝から心を躍らせた。
 地元の神社の祭礼の日であり、地域の大人たちが御輿を担いで町内を威勢良く歩いた。その中には彫り物をしたおっさんもいて、意外な協調性と並々ならぬバイタリティに驚かされた。
 この神社には1キロ程離れた所に御旅所があって、そこにもそのような屋台がたくさん並んでいた。小遣いを持って友だちを誘い、わざわざその御旅所まで出向いて行ったのである。
 屋台が連なるその奥の方に、一際目を引く建物があった。見せ物小屋である。そこの一番の出し物は、顔が人間で体が蛇という所謂「蛇女」であり、その姿が看板に大きく描かれていた。

 

 

  時たま、入り口の横にある窓から蛇女が姿を現した。但し、見られたのは胸から上の顔と蛇のシッポだけであり、客寄せのためのパフォーマンスであった。
  入場料は少し高く、入るには勇気と決断が必要であった。『本当に蛇女なんかがいるのだろうか。インチキじゃないのか』 そう思いながら、小屋の前で暫く迷っていた。
 結局、大枚をはたいて入ったのだが、予想した通りだった。蛇女の肝心の部分は隠されていて見えなかった。その代わりに、蛇女は鼻の穴に小さい蛇を通したり、蛇をひきちぎって、流れ出るその血を飲んだりしたのである。              
 

 

 もし、本当に蛇女であれば、同類の蛇を殺してその血を飲むことなどしない筈である。それなのに、彼女は蛇を殺している。
 そのことからも、それがインチキであることは明白であった。もう2度と入らないと思ったが、同時に蛇女になっていた彼女のことが気になってしまった。
 まだ若く結構整った顔立ちであったが、客を騙して見物料を取る仕事に抵抗はなかったのだろうか。『もっとましな仕事に就けば良かったのに』と、彼女の境遇が哀れに思ったのである。
                                                 
夏の風物詩
 真夏のうだるような暑い日は、誰もがパタパタと団扇を仰いで涼を取った。熱帯夜の時も、寝ながら団扇を動かして眠りに入った。
  家庭用のクーラーはまだ普及しておらず、扇風機も結構な値段で売られていた。それが我が家に来た時は、家族全員で喜んだものである。
 


 

 昼に、木製の大きなタライで行水をしたことを覚えている。ホースの水を頭に掛けられて、「きゃあ、きゃあ」と騒いだり、水鉄砲で水の掛け合いなどもした。
 タライの設置場所は家の前の路上であるが、車もバイクも通らない地道だったので安全だった。男の子も女の子も全裸であるが、好奇な眼で見る人もなくそれが普通の光景であった。
 

  

 

 夕方になると、玄関先に打ち水をして暑さを和らげる家も結構あった。水は、洗濯か何かで使った残り水である。縁側に吊していた風鈴も、風が吹く度に涼しげな音を響かせた。




  衛生害虫である蠅の対策として、蛆虫駆除の乳剤を撒いたり、蠅取り紙を天井から吊したりした。それが髪の毛に絡みついてなかなか取れず、難儀をした事もある。


 

 夜になると、蚊帳を吊って蚊取り線香に火を付けた。中に入る時や外に出る時は、蚊が入らないように素早く潜った。

 



 この頃は、暖房対策より冷房対策の方が困難だった。寒ければ、火を起こすかたくさん着込めば良いのであるが、冷房のための装置は皆無だったのである。。
  大金持ちは避暑地に出かけたが、貧乏人はそれもできずに我慢するしかなかった。生け垣によって直射日光を遮るくらいしかなく、暑さは手の施しようがなかったのである。


 夕立になると、雲の合間から雷が落ちて来るのをよく見る。遠くに落ちた雷は、稲光の後に落雷音が遅れてやってくる。光と音の速度の差であり、近くに落ちるほど、早く落雷音が聞こえるのである。
 

 

 

 落雷音がだんだん早くなってきた。黒い雲がこっちに向かっていて、雷がどこに落ちるのか心配になってきた。
 その時、辺りが「ピカッ」と真っ白に光った。同時にもの凄い落雷音が耳をつんざいた。目の前の電信柱の上に、雷が落ちたのである。
  火柱が上がり、電線が燃えだした。これからどうなることかと心配したが、幸いにも雨によって火が消えて、停電にはならなかった。
 雷の威力というものは、恐ろしいものである。あんなものが人を直撃すれば、えらいことになるのは必然である。
 毎年、落雷による死者が出るのは、あれを見て分かるような気がした。

五山送り火
 毎年、様々な花火大会が開かれていたが、まだ高層のビルが少ない頃だったので、家の縁側からも見ることが出来た。
 また、五山の送り火も、近くの公園からよく見えた。特に左大文字の「大」の字は、迫力満点だった。
 

  

 

京都四大行事の一つである五山の送り火は、海外の観光客も魅了するような幻想的なセレモニーである。その起源は諸説あって、定かではない。
  それはどうあれ、『先祖の精霊を迎えて送る』という仏教の盂蘭盆会に起因するのは、間違いなさそうである。
 この日が来ると、『いよいよ、夏も終わりに近づいて来たなあ』と、つくづく思った。既に海水浴の時期も過ぎて、夏休みも残りが3分の1になったのであり、何かしら寂しさがどことなく漂った。
 私が高校生であった頃、『京都の学生達が夜中に右大文字に登って、懐中電灯で「大」の字を浮かび上がらせた』という記事が新聞の片隅に載っていた。
 当時は、『面白い事をする人たちもいるもんだ』と思ったが、大人になった今では、その行動に対して批判的な思いに変わっている。
『目的が何かは知らないが、伝統文化を壊すような真似はしない方がよい。行事に関わる人たちの願いを踏みにじることになる』と、気づいたからである。
『人が驚く事をやってみたい』と思うのは勝手であるが、面白ければ何でも有りというのは如何なものであろうか。

地蔵盆
  地蔵盆は、主に関西で盛んであるが、元々は地蔵菩薩の縁日に関わる行事であった。
 


 

 地蔵菩薩は子どもを守る仏様であって、あちこちの路傍に造られ、今も祀られている。
  私の町内でも毎年地蔵盆が行われ、子ども達が心待ちにしていた。輪になってする「数珠まわし」はなかったが、『お地蔵さんを清めてご住職に来てもらう』といった一連の行事は行われた。
  子ども達には、お菓子や飲み物が振る舞われた。私も、『地蔵盆、はくせんこう』と歌いながら町内を徘徊し、「白雪糕」を食べた。中に餡が入っている落雁であるが、卍の模様があっていかにも宗教的なお菓子といえる。

 


 

 スイカ割りや流しソーメンなどいろんな催し物がある中で、子ども達が一番待ち遠しくしていたのは福引きであった。『何が当たるのだろうか』と期待しながら、ひな壇に置かれている景品を眺めた。
 

 

  フラフープ、ダッコちゃん、百獣の王など、毎年のように一等の景品が変わっていたが、その中でも百獣の王は人気だった。コルク玉をライフルに詰め、キリンやゾウを撃つのである。まるで、ハンターのようでスリルがあった。



  この時期は町内会の会計が大変であり、忙しかった。お菓子もおもちゃもできるだけ安いものを買い求めたが、おもちゃ問屋はどこも満員でごった返していた。
  地蔵盆でかかった費用は、町内会費から賄っていた。子どもがいない世帯からも同じ様に徴収をしていたが、不公平がないようにと配慮はしていた。
  そんな大人の苦労も知らずに子ども達は無邪気に喜んだのであり、それが功徳になると信じて地蔵菩薩に無事を願ったのである。
 
盆踊り
 毎年、保育園の運動会で使った公園で行われた。やぐらを組み立てて、そこから四方八方にロープ張って提灯を吊した。
 

 

 

 プロの歌い手は呼ばないで、町内にいる喉や腕に覚えのある人が歌い、和太鼓を叩いた。曲は「江州音頭」であり、大人も子どもも浴衣を着て一心に踊った。
 平易で誰でもすぐにできる音頭だったが、年配の人はゆっくりとした動作で踊り、若い人は独特のリズム感を持って踊った。
 それはまるでシンクロ集団のようで、通常の合いの手も卑猥な言葉に変えてタイミング良く発していた。その度に、周りから笑いが起こった。
 結構な賑わいで深夜遅くまで続いたが、近所の住民から苦情が出たことは一度もない。地域を挙げての一大イベントなので、『この日ばかりは仕方がない』と周辺の人たちも許していたようである。

 

秋の風物詩
台風
 古い家屋に住んでいたので、毎年台風の脅威に怯えた。
 記憶に残っているのが、昭和34年の伊勢湾台風とその2年後の第2室戸台風である。両方とも巨大な規模で日本列島を通過し、大変な被害をもたらした。京都市内でも暴風雨による家屋の倒壊や死者を出している
 

 

 

 台風が発生して『近畿エリアに接近する』と聞くと、小学校の講堂に家族全員で避難した。親たちは迫り来る台風の状況をラジオで確認しながら、通り過ぎるのをじっと待った。
 あまりの風の激しさに樹木が大きく揺れて、子どもたちもこの先どうなるのかと不安になった。
 暴風雨のピークが過ぎた頃になると、講堂にいる人たち全員が安堵したが、被害がどれだけものかは分からなかった。 
  帰宅の際にはご近所を含めて自宅の状態が気がかりだったが、無事であることが分かると心底喜んだものである。

将棋
 気候の良いシーズンになると、町内での縁台将棋が盛んになってくる。

 


 

 将棋は、仕事から帰ってきた大人達の唯一の娯楽であって、駒と将棋盤と対戦相手がいればすぐにできるゲームである。縁台の周りには人が群がり、岡目八目で横やりを入れる人もいて結構熱が入った。
 その昔、関西に坂田三吉という有名な棋士がいた。無学でありながら名人と呼ばれるまでになった人であり、憧れてその姿を盤上に投影した素人棋士も少なからずである。
 


 

  将棋は、大人だけではなく子どもも楽しめた。本将棋はもちろん、はさみ将棋やひょこ周り、将棋崩し、金銀などバリエーションがあって初心者でも駒に親しむ事が出来たのである。
 将棋のルーツは、西洋のチャスや中国のシャンシーと同じで、古代インドのチャトランガが起源とされている。日本に入ってきた時期は明らかではないが、平安時代にはその原型があったあったようである。
 様々な変遷を経て現在のルールに落ち着いたのであるが、日本独自の持ち駒の使用などは策略が複雑になり、戦術に大きな影響を及ぼしている。
 将棋は短絡的なテレビゲームとは異なり、思考が必要とされるゲームである。いつの時代になっても親から子へ、子から孫へと受け継がれていく日本の伝統的な遊びといえるだろう。

月見
 春先の花見と違って、秋の満月をしみじみと眺めることはなかった。
 夜に「中秋の名月」のイベントをやっていた府立植物園の中で一度だけ見たが、唯一それだけである。
 

 

 

 満月は、新月から始まって約30日間の周期で出て来る。曇りや雨の時以外は必ず現れるので、あまり興味を示さなかった。
  ところがよくよく調べてみると、満月に関する事柄が日本中に結構あった。
 昔の人は、満月を見ながら自分の心情を句に詠んでいた。平安時代の時の権力者は、「この世をば、わが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思えば」と詠み、江戸時代の著名な俳人は「菜の花や、月は東に日は西に」と詠んだのである。
  それぞれの詠み手が「満月」を特別なものとして感じていたのであり、興味深いものがある。またそのことは、日本だけでなく世界中でみられるのであり、「何かの象徴」としての「満月」は「太陽」と同様に重要な存在であった。
  アポロ11号の乗組員が、月面に降り立ったのはもう50年も前のことになる。それまでは、地球に一番近い未知数ばかりの天体であったが、分析によって「月」の物理的な特徴が分かってきた。また、成り立ちについても、「地球のマグマが噴射して固まって出来た」とされるのが有力になっている。
  地球の周りを回る衛星に過ぎないという正体が明らかになった今、もはや「月」は神秘的な存在ではなくなった。
 しかしながら、それでも月は「月」なのである。そこにうさぎが住まなくとも、成人したかぐや姫が帰らなくとも、ギリシャ神話に出て来る女神がいなくても、我々に何かしらのロマンを感じさせてくれる身近なアイテムといえるのである。

冬の風物詩
どんと
  12月に入ると、町内の道端で「どんと」が行われた。火祭りの「どんど焼き」とは異なる只のたき火であり、燃やせるものは何でも燃やしたのである。
  日雇い労務者のための「暖」であり、朝が早い人にとっては有り難い「ごちそう」であった。幼い私も、大人に紛れて「火の柱」に手を差し出したものである。
  冬の暖房器具は、電気こたつがメインであった。下半身だけしか暖まらないが、テーブルの上でミカンを食べたりお茶を飲んだりとくつろぐことができだ。中で猫が寝ていることもあった。
 練炭を燃やす陶器製のストーブも使用したが、一酸化炭素中毒で倒れる恐れがあったので、換気をするなどの注意が必要だった。その上に金網を置いて餅やスルメを焼いたが、焼けるまで少し時間かかるので待ち遠しかった。
 湯沸かし器などはなく、お茶の湯はヤカンで湧かすしか方法がなかった。魔法瓶のようなポットに入れて保存するのは、後になってからである。 
 夜は、布団に湯たんぽを入れて寝た。陶器の炬燵の時もあったが、寝ぼけて炬燵を蹴ったりすると火事の原因になるので、すぐに変えた。


 

  最近は温暖化のためか、スキー場や温泉街に雪が少ないように思うが、この頃は市内でも結構雪が積もって、雪合戦をしたり雪だるまを造ったりしたものである。

ホットドッグ
 岡崎公園の近くにキョート・アリーナというスケート場があった。
 小学校の校外活動で初めてそこで滑ったように記憶しているが、その時は転けないようにとリンクの手すりに掴まってばかりであった。
 窮屈で慣れないスケート靴が痛かったし、恐怖感で体が固まってしまい、あたふたと後ろ向きに転けては尻餅をついていた。
 中学生になってから、数人の同級生とアリーナに行ったことがある。その中に上手い人がいて、スケートの基本を教えて貰った。お陰でバックやクロスが出来るようになった。
 その帰り、平安神宮の応天門前でホットドッグを売っている軽トラを見かけた。カレーの良い香りがしていたので、腹を空かしていたみんなは、すぐに車まで行った。
 店のお兄さんは、縦に切り込みが入ったコッペパンにカレー味を付けたキャベツを乗せ、ソーセージを挟んだ。手際よく作ってくれたが、みんなの分をオーブンで焼くので少し時間がかかった。
 

 

 

 それでも『また食べたい』と思う程美味しかったので、車のドアにあった屋号を改めて見たら、「風月堂」となっていた。
 社会人になってから40年後、ドアに「風月堂」と書いてある軽トラを目にした。店の駐車場に停めてあったのだが、その店に入ってホットドッグを注文することにした。
 何気なく、「その昔、平安神宮の前で売っていたホットドッグを食べたことがある。それは、とても美味しかった」と、ご主人に話すと「それは私です」と目を細めて答えてくれた。
  あれから40年以上も経った今、あの時の味にまた出会えたのである。もう高齢になっているご主人ではあるが、昔ながらの変わらぬ味を今も守り続けていることに敬意を払った。

クリスマス
  雪のちらつくある日、友だちに誘われて教会に行ったことがある。
 



『クリスマス・イブには、ケーキやお菓子が食べ放題』と聞かされたので、信心もないのについて行った。
 礼拝堂でシスターに会ってから、まったく知らない賛美歌を覚えさせられ、ぎこちなく歌った。キリストや聖書のことも神妙な態度で聞いた。
 結局、イブの日は、文房具は貰えたがケーキやお菓子はまったく出てこなかった。なので、次の日にお寺に行ってお坊さんから和菓子を頂いた。
 教会であろうが寺院であろうが、貰えるお菓子は頂きたいのであり、安易に誘惑に負けてしまう罰当たりな子どもだったのである。

大晦
 大晦日は、家族で大掃除をして1年分の埃を払った。畳を裏返す時に小銭を見つけることもあり、手にしたときは大喜びをした。
 夜は、NHKの「紅白歌合戦」を観て、年越し番組の「ゆく年くる年」で今年を締めくくった。この日ばかりは遅くまで起きていたが、除夜の鐘が終わるまでにはもう寝ていたと思われる。

 

 

 

 中学生になってから、友だちと八坂神社の「をけら詣り」に出かけたことがある。家から神社までの結構な道のりを歩き、帰りも歩いた。
 真夜中というのに、境内とその近辺は凄い人集りだった。ほとんどの参拝者が、無病息災の御利益があるという火縄を振り回しながら歩いていた。

正月
  元旦は寝正月で、父親も母親もゆっくり過ごした。私も新しい服を着て、友だちと双六で遊ぶくらいで、ほとんど何もしなかった。
 おせち料理は、尾頭付きの鯛、海老、数の子、黒豆、紅白蒲鉾、酢牛蒡、ごまめ、昆布巻き、蒟蒻などがあったが、白味噌とすましの2種類の雑煮を好んで食べた。餅は、裏庭に置いてあった臼と杵でついたものである。  
 

 

 

 神社への初詣は2日に行うのが通例であり、家族3人で出かけた。地域の神社なので顔見知りも多く、行き帰りに親が挨拶をすることもよくあった。
  夜になると、親類や友だちから来ていた年賀状を父親と母親が数え出した。母親は友だちが多かったので父親とそう変わらず、毎年どちらが多いのかを競い合ったこともあった。
  当時のお年玉付年賀はがきは、切手以外に自転車や魔法瓶があって、夢を持たせてくれたものである。もし欲しい景品が当たっていたら、大騒ぎになっていたに違いない。
  最近は、年賀はがきを親類にしか出さないので、枚数が極端に少なくなった。友だちや知り合いには、フェイスブックで新年の挨拶をしているので、面倒な作業をしなくて済んでいる。
 ちなみに、年賀状の習慣が庶民に普及したのは、郵便制度が確立した明治時代の頃である。当時は商人などが、遠くにいるお得意さんへの挨拶を文書にして出していたのであり、それが年賀状として世間一般に広がったと言われている。
 起源は平安時代に遡るが、年始回りに代わるものとして挨拶文を送ったのであり、限られた身分の人たちだけの風習であった。
 
昔のおかず   
 正月のおせち料理を三日間とも飽きずに食べる人は、そうはいない。大抵は、ハム、ウインナー、唐揚げ、目玉焼きといったものに目が向く筈である。
 おせちを作った母親は、『捨てるのはもったいない』といって、毎年処分に困っていた。いい加減、分かりそうなものであるが、性分なのであろう。
 私が普段好んでいたのは、和食では刺身、若竹煮、自然薯、卵かけご飯であったが、洋食では断トツ、カレーライスであった。あまり手の込んだものではなく、市販の固形のルーを使ったジャガイモとニンジンと牛肉が入っているだけの普通のカレーライスである。
 もうひとつ好きだったのは、おにぎりである。遠足の弁当箱にそれがあると喜んだ。海苔がきれいに巻いてあって、ウインナーと卵焼きが入っていれば顔が更に綻んだ。
  母親と市場へ行く途中、肉屋さんでコロッケを1つだけ買ってもらった。香ばしく本当に美味しかったでのあり、今でも忘れられない味である。
 

 

 

 最近は、子どもの頃はあまり好きでなかった漬け物や筑前煮を食べるようになった。タラコやしらず干しもよく買っておかずにしている。
  年のせいであるのか、あっさりとした昔のおかずをいつの間にか選ぶようになっているのである。

凧上げ
 竹ひご飛行機のように自分で作れないのが、凧である。竹ひごを組み立てて和紙を張って作るのは、素人ではかなり面倒なことになる。
  仕方なくおもちゃ屋で凧を買って、それを上げることにした。最初は町内を走るだけの天井凧であったが、それでは満足せずに空へ高く上げるための工夫をし出した。

 

 

 そのままでは、くるくる回って上がらない。それで、左右に足をつけることを誰かから教わった。新聞紙を細く切ってそれを継ぎ足して、足になるように糊付けをした。凧糸もかなりの長さのものを用意した。
 場所は、例の盲学校のグランドである。ここは誰が来ても怒られなかったし、恰好の場所であった。
 風向きを調べ、凧が逆風に向くように友だちに持って貰った。「せえの!」という掛け声と共に凧が放たれ、ある程度の高さに上昇するまで走った。
 1度目は失敗だった。風を掴めなかったのが原因だった。2度目は何とか成功した。風にも上手く乗り、邪魔な電線にも引っかからず、順調に上がっていった。
  ここまでくると、もう一安心である。冬の寒さも忘れ、凧上げに結構な時間を費やしていても、充分に満足できた。
 向こうの方にも2つの凧が見える。1つは点のように小さくなっていて、まるで雲に届きそうな程高く上がっていた。

節分
 豆まきは、家族一同で毎年のようにやっていた。母親が家の中で「福は内、鬼は外」と、大きな声を張り上げていたのを覚えている。
 

 

 

 父親が鬼の役を一度もしなかったが、それは面を被ったりパンツ一丁の裸になったりするのが嫌だったからに違いない。
 更に母親から「家の貯蓄を食い潰す疫病神」と罵られていたので、「これ以上、鬼になって責められるのは御免被る」と思っていたようである。
 畳の上に撒かれた豆は、全部拾って食べた。あまり衛生的とはいえないが、そんなことは誰も気にかけなかった。
 巻き寿司といわしも食べたが、子どもの頃の私にとっては好物ではなく、そんなに喜ばなかった。
 節分祭をしていた壬生寺に一度だけ家族で出かけたことがある。たくさん出ていた夜店の方に気がいっていて、厄払い・開運などの御利益を願うのは二の次であった。
 社会人になってからは、パトロールという名目で吉田神社へ同僚と数回出かけた。夜店が並び大勢の人でごった返したが、その中に傷痍軍人がいたのは驚きだった。
 終戦の年から既に40年が経っているのであり、もう還暦を超えている筈である。気の毒に思ったが、『足の不自由なのは嘘であり、普通に歩いているところを見た』ということを誰かに聞かされた。
 その真意はともかく、同情を買ってまでお金を乞うのは見るに堪えない。生活のためとはいえ、何か切なく物悲しくなってくる。
  山頂までの見回りを終えて、パトロールの時間が過ぎた後は自由である。炙ったスルメをアテに升酒を飲んで、金棒を持った鬼が出て来る前に家に帰った。

 

 

 

 

映画のポスター
 私が小学3年生ぐらいの時であったと思う。毎日通る通学路の途中に大きな掲示板があって、そこに貼ってある映画の宣伝用ポスターをよく見ていた。
  ある日の夕方、友だちといっしょにその前を通り過ぎようとした時、えげつないポスターが眼に入った。
 それは成人映画のポスターであり、全裸の女性が艶めかしい乳房を露わにしているというショッキングものだった。
 

  

 

 その頃の私はというと、そういうことに少し興味を持ち始めていたので、びっくりすると共に非常にドキドキしたのを覚えている。
 それをあまり凝視してしまうと、友だちから「アイツはド助兵衛やで」と陰口を言われそうなので、「何やこんなもの」と強がって、たまたま持っていた傘の先でポスターの女優の胸を突いた。
 友だちは笑っていたが、その友だちも私と同じような気持ちであった筈である。本当はその裸体をじっくりと見たいのであり、『夜中にここに来て、誰もいないことを確かめてからそのポスターを剥がして持って帰りたい』と、思ったくらい刺激的なものであった。
 次の朝、掲示板の前を通りかかった時には、そのポスターは既になくなっていた。貼られていたのが昨日の夕方のことなので、撤去されたにしては早すぎる。『もしかして、友だちが剥がして持ち帰ったのではないか』と、勘ぐってしまった。
 それにしても、学童が通る掲示板によくもまあ、あんなポスターを貼り付けたものである。子どもへの配慮がない呆れかえった所業といえるが、同時に『よくぞ貼ってくれた』と褒めてやりたい気持ちにもなった。
 当時は、エロ・グロ・ナンセンスの時代ではなく取り締まりも厳しかったが、エロに関しては少し大らかだった。今なら、教育上宜しくないということで、映画会社の関係者に苦情が殺到するに違いない。
 まさに寝た子を起こすようなポスターではあったが、更にもうひとつ、衝撃的なポスターを同じ頃に同じ掲示板で見ている。  
 それは、「地獄」という映画のポスターである。文字が真っ赤に燃えているというおぞましいタイトルで、その周りには三途の川と亡者をいたぶる実写の鬼たちがレイアウトされていた。
 

 

『生前に悪いことをすると、死んでから地獄に行くことになる。罪の重さによって刑罰が決まり、針の山、血の池、釜ゆでなどの責め苦を限りなく受けなければならない』
ということを誰かから聞いていたので、興味津々の眼差しになった。
 それでそのポスターをしげしげと眺めていると、友だちが「こんなん嘘やで。地獄なんかあらへん。人は死んだらそれで終わりや」と言った。
 確かに地獄に行った人が生き返って、その様子を現世の人に伝えたという記録はないのであるから、その通りかも知れない。
 それでも、何か心に引っかかるものがあって、『いつかはこの映画を観たいものだ』と思った。
 それから数年後、私が中学生になった時にその映画がテレビで放送されると知り、釘付けになって観た。
  冒頭は柩に入った遺体が焼却されるという場面で、この映画に相応しいシーンだと思ったが、次にエロチックな女体を織り込んだ出演者やスタッフのクレジットになり、肩すかしを食らったような気分になった。
 前半部分は、どろどろした人間関係による醜い殺戮であり、中学生の私にとっては退屈な展開であった。
  後半になってからようやく地獄界における阿鼻叫喚の場面が出てくるが、何か物足りない感じがした。
 私としては、鬼たちが亡者たちの頭を斧で叩き割ったり、首を鋸で切断したりするような露骨なシーンを期待していたのであるが、スプラッターを見せない間接的な表現だったので少しがっかりしてしまった。
  更にストーリーの展開が全体的にこじつけられたような感じで、時折入るナレーションも狂言回しのようで、リアルさに欠けるものだった。
 結局、『期待はずれの映画』となってしまったのだが、それは決して作品の出来が悪かったからではない。若すぎた私の所為である。その映画のテーマを理解するには、中学生では到底無理だったのである。
  成人になってから再度観てみたが、『こんな凄い映画はない』と、改めてその作品の良さが分かった。
  今ならCGによって様々な場面が作れるが、当時はそのような装置がなかったのである。アイデアと工夫だけで「地獄」を再現して見せた訳だが、それがかえって生々しい雰囲気を醸し出したように思える。
 煩悩から生じる妄念と欲望。そして、それに纏わる争い。修羅場の中にもドラマがあり、人間の本質を見事に描いた秀作である。スプラッターだけを売り物にした単なるキワモノ映画ではなかった訳である。
  この映画を作ったのは中川信夫という人であり、低予算の新東宝に所属していたにも拘わらず、数々の素晴らしい作品を作られた名監督である。
 その中でも、前年に公開していた「東海道四谷怪談」は、特筆すべき作品である。『監督の映画制作におけるこだわり方は半端ではなく、小道具ひとつにしても決して疎かにしない』と、映画に関するコラムにおいて評価されていた。
 

 

 

 莫大な費用をかけて作ったにも拘わらず、閑古鳥が啼いた映画はたくさんある。逆にこのような映画は稀であり、映画監督の優れた才能によって成り立った映画であると言える。
  この「東海道四谷怪談」のポスターも「地獄」と同様に非常に不気味なものであったが、これ以外にも深く印象に残ったポスターがある。
 大映の「大江山酒天童子」と東宝の「マタンゴ」のポスターがそうである。幼い私に得も言われぬ恐怖心を植え付けたのであり、それは夢に出て来る程であった。ちなみに、化け猫の「怪猫岡崎騒動」のポスターは、私が生まれた年の映画なので見ていない。
 

 

 

 言うまでもないが、映画のポスターというものは集客のために作られている。客を引き寄せる力を持たねばならないのであり、かなりの手間暇をかけて作られている筈である。映画の内容を凝縮したものと言っても過言ではないだろう。
  このようなポスターの中には、額縁に入れて家の中に飾っておきたいと思わす程、芸術性の高い作品もある。
 洋画では、「ローマの休日」「ウエストサイド物語」「イージーライダー」などがそうであるが、邦画であれば、「神々の深き欲望」「日本昆虫記」「東京物語」といった名作のポスターが挙げられる。

 

 

 

 

最近では、そのようなポスターを街角で見かけなくなった。テレビやネットで予告編が見られるので、その必要性がなくなったということである。
 もし、どこかの掲示板に映画のポスターを貼ってもらえるなら、成人映画や怪奇映画ではなく、微笑んでいるオードリー・ヘップバーン、又は、セクシーなマリリン・モンローのポスターをお願いしたいものである。

東京オリンピック 
 昭和39年の10月10日に開会式が開催された。
 夜半の雨から一転して快晴になった土曜日、国立競技場では開会式の準備に関係者たちが大わらわになったに違いない。
 昼過ぎに観客席が埋まり、昭和天皇と皇后が着席された。そして、2時ジャストに古関裕而のマーチが流れ、各国の選手たちの入場行進が始まった。
  アジア地域での初めての大会であるが、選手団たちは欧米の会場に引けを取らない日本の整った設備に正直驚いた筈である。
 最後尾は日本の選手団で、93カ国のすべての国が揃う。昭和天皇の開会宣言の後、今井光也のファンファーレが鳴り響く。最終ランナーである阪井義則さんが長い階段を駆け上り、聖火台に点火をする。
 


 

 小野喬の選手宣誓の後、たくさんの鳩が飛びまわり、「君が代」の斉唱になる。雲一つない青空には、五輪のマークがブルーインパルスによって描かれていた。


 

 その当時、私は小学4年生であり、家のテレビは勿論、学校の家庭科室のテレビでも観ることができた。先生方も、この一大イベントを授業の一環として児童に観て欲しかったのだと思う。
 大人になってから再度この開会式の模様をビデオで見たが、感慨深いものがあった。子どもの時には無関心であったことに、改めて興味を持つようになったのである。
 その中でも、古関裕而のマーチが素晴らしいと感じた。関係者から日本風のマーチを要望されていたが、自分の思いを貫いてあのような軽快な曲に仕上げた。それでも、関係者に気を遣ったのか、曲の途中と終わりのワンフレーズだけが陰旋法になっていた。
 


 

 ちなみに、全国高等学校野球選手権大会の大会歌の「栄冠は君に輝く」、阪神タイガースの球団歌の「六甲おろし」、読売ジャイアンツの球団歌の「闘魂こめて」はすべて、古関裕而の作曲である。
 他にも流行歌において、「高原列車は行く」「君の名は」などの大ヒット曲を数多く世に出していて、その群を抜いた才能は素晴らしいものであった。
 


 更にもうひとつ、開会式において取り上げておきたいものがある。それは、今井光也のファンファーレである。あれを聞くと、またオリンピックが始まるのかと錯覚するほど印象が深いのである。軽快なメロディであり、ここでも日本の非凡な才能が発揮されていたのである。
 マーチにしろファンファーレにしろ、それを仕上げるまでの苦労は並大抵ではなかったと思われる。今では故人となった人たちの遺品となってしまったが、後世にまで語り継がれる努力の結晶といえるに違いない。
  競技については、男子百ートル走のボブ・ヘイズ、重量挙げの三宅義信、柔道無差別級のアントン・ヘーシング、体操の遠藤幸雄、バレーボールの東洋の魔女たち、マラソンのアベベ・ビキラが話題になったが、その人たち以外に心に残った選手がいる。 
 例えば、ハードル八十メートル走の依田郁子である。日本の女子陸上競技史上初の決勝進出者であり、5位に入賞した実力者である。



 

 彼女は、スタート前になると後転倒立をする、口笛を吹く、唾を手に吐き全身に塗る、こめかみにサロメチールを塗るといった行動を常に取っていた。奇行が目立ちまさに男勝りの人と思われたのだが、実はそうではなかった。
 4年前のローマオリンピックの代表選考に漏れた時に、彼女は睡眠薬で自殺を図っているのである。つまり、素顔はとてもナイーブで、これらの行動は集中力を高めるための彼女独自の方法であったのである。
 もうひとり、取り上げたいのがマラソンの円谷幸吉である。「常日頃から礼儀正しく、真面目で責任感が強い」と、誰もが口を揃えて言うような見た通りの人であった。
 競技本番では、1位のアベベに次いで2位で国立競技場のトラックに入ったが、途中、英国のベイジル・ヒートリーに抜かれて3位でゴールした。
 

 

 係員に抱きかかえられた円谷は身も心も疲れ切った表情であったが、これはオリンピックの陸上競技において日本が獲得した唯一のメダルであった。
 一躍注目の人となったが、その後、縁談の破談、体の故障、ライバルのプレッシャーなどによって自殺を図り、帰らぬ人となった。
  誰もが彼の死を悔やんだ。遺書が公開されたが、その文面は衝撃的であった。世話になった人たちへの感謝が綴られていたのだが、同時に自分の不甲斐なさを責めている内容であった。
  周囲の重圧に耐えきれない自分、ひとりで苦悩を抱えるしかない自分、この先、もうどのようにも生きてはいけない自分、様々な苦悩が重くのしかかり、この世と決別するしか道がなかったのである。
 国民の期待に翻弄された人であり、志半ばの生涯であった。それでも彼の銅メダルは、色褪せずに永遠に輝き続けるのである。

正月映画
 毎年、正月になると、りょうちゃんと私より2つ年上の友だちと3人で映画に行った。観たのは、「ゴジラ」と「若大将」が同時上映になっている定番のシリーズ物であった。
 

 

 

  最初は、「ゴジラ」が目当てであった。しかし、ゴジラが漫画の「おそ松くん」に出て来るイヤミの「シェー」をしたあたりから、気持ちが冷めてきだした。
 反対に、スポーツマンで飾らない主人公の「若大将」の方に比重が重くなっていくのである。映画の中で、エレキギターを持って歌う姿はとても格好良く、本当に憧れた。
 歌もヒットして益々ファンになり、出す曲すべての歌詞を覚えるまでになっていた。エレキギターが欲しくなったのはその頃であり、我が永遠の若大将の影響である。
 昭和40年代の初めは、ベンチャーズが先駆けとなりエレキブームが起こった。また、ビートルズやストーンズがデビューしたこともあり、あちこちでバンドが組まれてグループサウンズへと発展していく。
 これまでの歌手とは違って熱狂的なファン層を掴んだのであるが、早くもその2年後に衰退してしまう。
 その後は、ボブ・ディランやPPMの影響を受けた学生たちの間で、フォークソングがブームとなる。京都でも、反戦・平和をメッセージとした野外イベントが企画され、たくさんのプロテストソングが歌われた。
  

  

 

  私も同級生が弾くアコギに合わせて反戦歌を歌ったが、自然と連帯感が湧き出て来て、清々しく充実した気持ちになったものである。
  私の脳裏に音楽を意識し出したのはこの頃であり、『いつかは自分が企画する野外ライブを仲間といっしょにやってみたい』と願ったのである。

神社の境内
 映画を観た次の日は、決まって地元の神社に行った。表向きは初詣であるが、様々な屋台が立ち並ぶ境内の中を練り歩くのが目的だった。
  境内の隣には、あぶり餅で有名な二軒の老舗が向かい合って並んでいた。とても美味しいと評判であったが、子どもの小遣いではそうは買えない値段であった。
 

 

 

  また、その辺りは風情のある佇まいなので、貧乏臭い薄汚れた悪ガキなどは立ち寄れない雰囲気もあって、近づかなかった。
  境内は、射的、輪投げ、金魚すくい、金魚釣り、風船釣り、ダート、スマートボール、パチンコ、型抜き、たこ焼き、綿菓子、今川焼き、水飴、リンゴ飴にミカン飴と、どれもこれも子どもが喜ぶような屋台が連なっていた。


    

 

 お面の屋台では、定番の「ひょっとこ」や「おかめ」、「般若」や「狐」はもちろん、その当時流行ったキャラクターのお面もあった。
  おもちゃ屋の屋台では、竹で作ったクネクネ蛇やゴム製のぴょんぴょん蛙、羽子板や凧、拳銃に刀、剣玉、達磨落としなどを売っていた。

  
 

  お年玉を貰って懐が暖かいので、色んな事をしたり買ったりした。それでも、全部使うと親が怒るので、いくらかは貯金をした。                  
 正月も3日目になると、手元にあるお金は心細くなって、友だちと屋台を見ているだけになった。

裸が見える眼鏡(随筆の「悪と善」から抜粋)
 その日は、境内から少し離れた所で、不思議な物を売っている露天商のおっさんを見た。売っている物は、なんでも「裸が見える眼鏡」であるらしい。
 おっさんは、棒切れで地面に半円を描きながら、居並ぶ中学生や小学生に向かってこう言った。
「ええか。この線から中に入ってきたらあかんで」
「今から見せるモンは、警察に知られると危ないモンなんで、ここだけの秘密にしといてや」
 そう言って、おっさんが薄汚い鞄から取り出したのは、厚紙で作ったようなチャチな眼鏡だった。
 

 

「これはなあ。何でも透き通って見える眼鏡や。この眼鏡をかけると、裸が見える。服を着てても透き通って見えるんや」
 おっさんがおもむろにその眼鏡をかけて、ギャラリーみんなの股ぐら辺りをじっと見た。
「ほーれ、見えるわ、見えるわ。みんなの裸がよう見えるわ」
 ギャラリーは一斉に自分の股間を手で隠し出したが、それぞれの目は、その眼鏡から離れられなくなっていた。                                                     
「どや、欲しいやろ。七百円や。ちょっと高いけど、どこにでもあるモンやないしな。今やったら特別に五百円にしといたるわ。早よ買わんと売り切れるで」
  ギャラリーの中の何人かがポケットから金を出した。手持ちがなかった私の友人は、家に走って帰り、貯金箱をたたき割って戻ってきた。
  おっさんは、お金を払った友人に紙袋に入った眼鏡を手渡しながらこう言った。
「今ここで、袋から眼鏡を取り出さんといて。家に帰ってからにしてんか。もしここで裸を見たことが警察に知れると、わしが捕まってしまうから絶対やめてや」
 そう言われた友人は、その場で袋から眼鏡をとり出さず、心をドキドキさせながら急ぎ足で家に帰っていった。    
  翌日、その友人に「あの眼鏡は本当に裸が見えるのか」と聞いたら、半分ふくれたような顔でこう答えた。
「見えた。どこを向いても同じ女の裸が見えた」
 インチキだったのである。騙されて大金をはたいてしまったのである。
 数日後、友だちに現物を見せてもらったが、呆れるほど粗悪な物だった。その眼鏡は、レンズの代わりに赤色のセロハン紙が貼ってあり、そのセロハン紙に小さなヌード写真が貼ってあるだけのものであった。そのヌード写真も、外国の女性の色あせた古臭い物であった。
  当時の五百円は、子どもにとって大金である。たぶん、長い月日をかけて貯めた虎の子のお金か、お年玉としてもらったお金に違いない。それを大人に騙し取られたのであるが、どこにも文句の持って行きようがないのである。
 おっさんはとっくに逃げているだろうし、親にも警察にも言えない。偽物とはいえ、そんな不謹慎な物を買った自分が責められる。周りに知られたら恥ずかしい。結局、泣き寝入りするしかないのである。
 裏物を手に入れようとした故の天罰なのかも知れないが、その友だちがそれを欲しがった気持ちも分かる。もしその時、自分のポケットにも五百円があったとしたら、すぐに買っていたに違いない。
  それにしても、上手いことを考えたものである。人間の欲望を見透かして、それを利用するとはなかなか賢いおっさんである。

屋台
 母親の友だちに、屋台でたこ焼きを売っているおばさんがいた。買いに行くと、友だちの子どもということで、いつも何個かまけてくれた。
 そのおばさんには家族がなく、結婚もしないでひとりで暮らしていた。もし生きていればかなりの年になっている筈であるが、今はどうしているのだろうか。
 この頃は、いろんな屋台があった。たこ焼き以外に、カルメ焼き、飴細工、わらび餅、石焼き芋などを売りに来ていて、飴細工などは職人技を見せてくれた。
 

  

 

  屋台ではないが、ぽん菓子を売る人もいた。出来立ては香ばしく美味しかったので、人気があった。
 

  

 

  紙芝居屋もよく来ていた。出し物は、独自の創作が多かったが、永松健夫の作といわれる『黄金バット』や山川惣治の『少年王者』を模倣した作品もあった。
 

 

 

  同時にアイスクリンやべっこう飴を売っていて、買わないと紙芝居を見せて貰えなかった。
 



  夜になると、中華そばの屋台に人が集まった。その当時は、日本のそばと区別するのにラーメンとは言わず、中華そば、支那そば、南京そばと呼んでいたようである。

 

 

 

  ある晩、同級生の友だち2人と映画を観た帰りのことである。通りに中華そばの屋台が出ているのを見た。その前を通りかかろうとした時、屋台のおばさんが顔を出して私たちにこう言ってきた。
「あんた達、お腹が減ったやろ。ここの中華そば食べていき」
 その声を聞いた私たちは、『何と親切なおばさんや。見知らぬ子どもに、只で中華そばを食べさせてくれるなんて』と顔を見合わせて驚き、ごちそうになることにした。 
 数分後、3人分の中華そばが出て来て、それぞれが神妙に頂いた。「美味しい中華そばやな」「ほんまやな」と子どもながらにお愛想を言って、おばさんを喜ばせた。
 それぞれが食べ終えて、「おばさん、有り難う」と御礼を言いながら帰ろうとした時である。おばはんはこう言ってきた。
「あんた達、お金は?」
『ええ!この中華そば、只とちごたんかい』と、みんなは目を剥いた。
「紛らわしい言い方やったな」「勘違いするわ」「わざととちゃうか」
 ブツブツと文句を言いながら、渋々お代を支払った。手持ちがない者は、友だちから借りてその場を凌いだ。
 家に帰ってからも、「何やあのおばはん、えげつない商売をするもんやな」と大人の狡さをしみじみ感じたものである。

 

船岡山公園
 森に覆われた京都市内が見渡せる小高い公園である。近くには織田信長の霊地として建勲神社がある。

 

 

 古くは、応仁の乱の戦場であり、『西陣』という知名もそこから来ている。この近辺を掘り起こせば髑髏が出て来るとされ、事実、私が通っていた近くの小学校では、プール造成工事の際に数体出て来た。調査をする人も来て、工事がかなり遅れてしまったことを覚えている。
  この公園が完成したのは昭和10年であり、結構古い。同時期にラジオ塔というものが作られ、そこからスポーツやニュースなどのラジオ放送を広場に向かって流していたようである。朝のラジオ体操も放送されて、近辺の住民たちがそれに合わせて行ったという記録も残っている。

 

 

 船岡山の山頂はかなり低く、子どもでも簡単に登れた。銅板で作られた京都市内の古い地図があったり、戦時中に空襲警報を知らせるためのサイレン塔なるものもあった。
 

 

 更には猿の檻もあって、以前は数匹飼われていたようである。その檻もいつの間にか撤去されていた。
 ここからの見晴らしはとても良く、五山送り火の時は、『左大文字』『右大文字』はもちろん、『妙法』『舟形』も見えた。特に『左大文字』は間近であり、とても迫力があった。
 

 

 小学3年生の頃に、この公園の広場で草野球をよくやったものだ。友だちが2チームに分かれて、『今のはアウトだ』『いいやセーフだ』と、ひたむきに遊んだ。喜んだり悔しんだり、たくさんの思い出が詰まっている懐かしい所である。
 今は、ところどころに木が植えられ、危険な球技はできなくなってしまった。園児などの幼い子どもへの配慮である。
 小学4年生の頃には野外ステージの音楽堂が出来て、様々なライブ活動も行われた。私も高校生の時にバンドを組んで、そのステージでよく演奏したものである。
 

 

 

  あれから五十年たった今、あの当時のことを思い出して、音楽堂でのライブ活動を再びやり出した。高くて買えなかったPAなどの機材を設置して、音楽仲間といっしょに歌ったり演奏したりと心を躍らせた。まるで高校生の頃に戻ったような気分である。

かくれんぼ
 まだ、私が小学2年生の時に、『船岡山の公園でかくれんぼをしよう』と、たけっちゃんのお兄さんや町内の友だちから誘われたことがある。
 木々がたくさんあって隠れるのに持ってこいの場所であり、上の学年の友だちがよく遊びに行っていたのである。
  ところがその時、隣のりょうちゃんと約束をしていたので公園には行かなかった。本当は、みんなといっしょにかくれんぼをしたかったのであるが、渋々諦めたのである。
 その後、帰ってきた友だちから、恐ろしい話を聞いてしまった。
 友だちの一人が、鬼に見つからないように木造のトイレの裏に隠れた。体を低くしてそこから鬼の動向を見ていたのだが、自分の頭上に人の足があるのに気づいた。
 すぐに見上げて、びっくりした。後ろの大きな木に、首つりの死体がぶら下がっていたのである。
 もんぺ姿のお婆さんであり、白目を剥き、唇は真っ青で失禁していた。友だちは近くにいた大人に知らせ、数分後に警察が来た。状況からして、自殺のようであった。
 偶発的とはいえ、子どもがこのような衝撃的な遺体を見るのは忍びない。もし私だったら、心にどのような傷を負っていたのか想像もできないくらいである。行かなくて本当に良かったのである。
  それにしても、何故こんな所で首を括ったのだろうか。世を儚んで生きる意欲がなくなったとしても、子どもには到底見せたくない死に様である。できるなら、畳の上で往生することを願いたいものである。
 この事件より12年後、私が20歳の時に大きな殺人事件がこの公園で起こっている。
  巡警中の警察官が、元警察官にナイフで刺されて殺された事件である。犯人は、警官の拳銃を奪って逃走し、大阪で消費者金融の店員を強盗目的で射殺している。
 春は桜祭り、夏は五山送り火と盆踊り、秋は野外音楽堂でのライブなど、たくさんの人が集うための公園であるのに、このような良くないことが起こっているのである。
 この公園には、何か事件が起こるような因縁めいたことがあるのではないかと疑惑を持つのは、私だけだろうか。
 
喧嘩
 私が小学校の低中学年の頃は、口数が少なく非常に大人しい性格だったので、よくいじめにあったり喧嘩を売られたりした。
  ある日、1つ上のやんちゃくれに絡まれた時があった。その男は私が無抵抗であることを良いことに調子に乗って、頭を拳骨でグリグリするなど段々エスカレートしてきた。
 なかなか止めてくれないので難儀していたが、偶然、私の父親が前を通りかかった。私は声を出せずに目で訴えたが、父親は助けてくれなかった。私たちの様子をじっと見て、「そんな奴に負けるな」と一言いって家に帰ってしまった。
 薄情な父親だと恨んだが、今では父親の言ったことが『正しかった』と思っている。
  人に頼ってばかりでは、自分では何も出来ない人間になってしまう。喧嘩でも、負けると分かっていても抵抗して意地を見せる時があるのである。
  常に誰かが助けてくれる訳ではない。結局は、自分の事は自分で解決しなければならないということに気が付いたのである。
 周りの者に「こいつを怒らせたらまずい」と思わせたのは、5年生の時である。同級生のやんちゃくれの態度に怒って、鉄拳で顔を殴ってしまった。その時から、みんなの私を見る目が変わったしまった。
 中学生の時も、舐められたのでよく喧嘩をした。同級生はもちろん、1つ下、1つ上、2つ上のやんちゃくれとやったが、どちらかというと、勝った時よりも負けた時の記憶の方が鮮明に残っている。
 友だち数人と船岡山公園で野球をしていた時、一つ下のやんちゃくれに出会った。
 仲間を引き連れていた彼は、私を一目見るなり喧嘩をふっかけてきた。以前に仲間の前で私が彼に逆らったことがあって、それが気に入らないのである。私も充分やる気になっていて、一触即発の状態になった。
  小柄な私と大柄なやんちゃくれでは、明らかに私が不利であるがもう後には引けない。友だちが見守る中で暫く睨み合いが続いたが、決闘のような喧嘩が始まった。
 先に顔面に鉄拳を一発、カウンターで見舞ったが、もみ合っている内に倒され、腹部と背中を思い切り蹴られた。
  数回蹴られた後、2つ上のやんちゃくれに止められて、それで終わりになった。結果は惨敗である。散々な負け方であったが、すぐに止めてくれたので大怪我には至らなかった。
  その晩は、怒りと悔しさで落ち込んだが、数年後には彼と仲良くなっていた。
 再び会った時に、彼の方から「元気やったか」と声を掛けてきたので少し驚いた。私も彼の言葉に笑顔で答えた。
  どうやら、たくさんいた仲間たちが彼の元から離れて、ひとり孤独な日々を送っていたようである。
  親友と呼べる者が、周りに誰もいない。唯一心を許せるのは、彼に反抗した私だけであったのである。
 性格は負けず嫌いであっても、お互いに殴り合ったもの同志である。我々の間柄は、「喧嘩友達」というのが相応しいのかも知れない。

危険な遊び
 カンポックリというおもちゃを作ったことがある。大きな空き缶を2つ用意して穴を開け、紐を通してそれを持ち、高下駄のようにカッポカッポと歩くのである。
 


  

  それを履いて逃げたり追いかけたりするのだが、下手をすると捻挫をする恐れがあって、結構危ない。それでも、いざその遊びが始まると、逃げる方も追いかける方も危険性を忘れて必死に走ったものである。
 同じような遊び道具に竹馬があるが、どういう訳かそれで遊んだという記憶がない。竹や木ぎれを調達するのが難しかったのか、メンテナンスが面倒だったのか、町内では誰もしなかった。


 

 

  竹馬作りは、現職を退いて学童の指導員になった時に経験した。竹と木ぎれを縄で縛っただけのものはすぐにダメになったが、ドリルで穴を開けてボルトを通したものは充分持ち堪えた。昔は、そんな道具はなかったのであり、縄が緩むごとに縛り直していたのである。
 人がたくさんいれば、「さざえ」という遊びをよくやった。地面に棒で大きな「さざえ」の模様を描いて、AとBの2チームに分かれてする遊びである。


  

 

 ルールは簡単である。Aチーム全員がBチームを掻い潜りながら自陣に戻ればAチームの勝ちになり、全員が倒されればBチームの勝ちになる。
  Bチームは、押し出しや引き込みによってAチームを倒していくが、力の弱い子でもチームに貢献できる要素があった。
  この遊びは「にくだん」に似ているが、誰もが入れる共通の島があったり、捕虜を助ける事が出来たりと、バリエーションがあった。
 男の子ばかりが集まると、「どうま」という激しい遊びをしたものである。しかし、首の骨が折れる可能性があったので、学校では禁止になった。
 

 

  今では、そのような体を使った遊びは、ほとんどしなくなっている。賭博性のある遊びや危険性のある遊びは敬遠されて、オンラインゲームやテレビゲームばかりがもてはやされるのは時代の流れなのか。

タバコ屋のおじさん
 町内に醤油や砂糖を売っている食品雑貨のような店があった。そこはタバコも置いていて、父親と母親が愛用していた「いこい」と「新生」をよく買いに行かされた。
 

 

 

  店は若い旦那さんと奥さんの二人で経営していたが、どちらかというと奥さんの方が取り仕切っていた。日頃、旦那さんはあまり表には出て来ず接客もそこそこであり、身を入れて商売をしているようには見えなかった。
  ある日、何かのお使いでその店に入ったのだが、おじさんが私の持っているものに偶然気づいた。そして、目を輝かせた。それは、駄菓子屋で買った竹ひご飛行機の紙袋であった。
 

 

 

  おじさんは、竹ひご飛行機を作るのを得意としていて、商売そっちのけで熱心に語り出した。自分は以前に大きな大会に出て2位になったこともあり、竹ひご飛行機については誰にも負けないと自負したのである。
  その話を聞いて、早速私も飛ばしてみたいと思った。設計図と葛藤しながら自力で作ってみたが、非常に雑な作りになってしまった。
  実際、私の飛行機は、あまり飛ばなかった。張ってある紙に皺があり、竹とパイプの接続も適当だったので歪な形になっていた。重心の調整もせずに無理矢理飛ばしたので、瞬く間に墜落したのである。
 その飛行機をおじさんに見せに行ったが、「こういうものは、時間を掛けて丁寧に作らんと飛ばんよ」と、親身にアドバイスをしてくれた。
 後日、おじさんは、自分で作ったものを私に見せてくれた。それは寸分の狂いもない完璧な飛行機だった。プロペラは何のブレもなくきれいに回り、主翼も尾翼も均等に出来ていて、私たちのものとはまったく異なる出来具合であった。
 この日の夕方、近くにある盲学校のグランドでの初飛行となった。おじさんは風向きを調べ、飛行機を地面に置いた。滑走させてからの離陸である。
  それは、一瞬だった。飛行機は『ブーン』と唸りを上げながら地面から離れ、見事に上空へ飛んで行った。
「あっ」おじさんが声をあげた。2階建ての校舎の屋根に、飛行機が当たったのである。予想以上に旋回がずれて、その衝撃で飛行機は墜落してしまった。
 紙が張ってある主翼の片側に穴が開き、おじさんは「今日はこれで終わりやね」と、笑いながら言った。そして、飛行機を大事そうに抱えて、家に帰って行ったのである。

家出
 原因は何だったのか忘れたが、小学3年生の時に母親と言い争いになったことがある。母親は自分の非を認めない時があって、その理不尽さに反抗した訳である。
 怒った母親から「あんたみたいな子はもういらん。言うこと聞かんのやったら、この家から出ていき」と言われて、渋々出ていった。夕方の6時頃である。
 当然、行く所がないので、近くの電信柱の影に身を隠していた。そこには小さな街灯が一つあるだけで、周りは薄暗かった。



 

  腹が減ってきて何かを買って食べたいが、お金がない。心細く不安な中、母親に対して『僕は悪くない』と意地を張っていたので、このままずっとここに朝まで居ようと思った。
  そうこうしている内に、父親が麻雀から帰ってきた。私が8時過ぎになってもひとりで外にいるので、『なぜ家に入らないのか』と不思議な顔をして聞いてきた。訳を話したら、「分かったさかい、もう帰ろ」と言ってくれた。
 いっしょに家の中に入ったが、母親がまだ怒っていた。「もう許したれ」と父親が言ったが、母親は頑として態度を変えなかった。
 父親が少しムッとして、「ええ加減にせえよ。ほんまは、お前の方が悪いんと違うんかい」と母親に言った。憤慨した母親は、「大体、あんたが麻雀ばっかりしてるさかい、こんな子どもになるんや」と切り返した。それで今度は、父親と母親の言い争いになった。
 私は、『何や知らんけど、僕は関係ないし』と二人の喧嘩を尻目に、遅い晩ご飯を食べたのである。

テレビ
 テレビの開局は、1953年になる。NHKがその先駆けであるが、日本テレビやTBSなどもほどなく放送を始めた。
 


 当時は生放送であり、放送事故も多かったようである。実際に、喜劇の舞台で役者が取り返しのつかない大きなミスをするのを私は観ている。客は思わぬ出来事に大笑いであった。
 テレビがあれば、わざわざ映画館に行かずともドラマや映画が観られる。掛かるのは電気代だけであり、私の両親はいち早くテレビを購入して毎日のように観ていた。両親と同様に幼い私もテレビに釘付けになった。
 主に歌謡番組やスポーツ、ドラマを好んだが、日本のドラマでは「番頭はんと丁稚どん」、外国のドラマでは「ララミー牧場」を欠かさず観ていたのであり、今でもはっきりとその映像が浮かび上がる。
 

  

 

  その事については、私の随筆である「証」の中の「記憶の宝箱」において詳しく述べているので、ここでは書かないでおく。
 夏休みに入ると、昔の日本の映画を毎日のように放映していて、友だちといっしょによく観た。
 小学校の低学年では内容が理解できないものも確かにあったが、名作と呼ばれる映画をたくさん観ることができた。
「二十四の瞳」のような反戦がテーマになる映画や「私は嘘は申しません」などのようなコミカルな映画もあって、今日は何の映画になるのか心待ちしていた。
 

  
 

 世の中にはテレビを毛嫌いして観ない人もいるが、私にとっては必需品である。日本のニュースはもちろん、世界各国で起こっている出来事をいち早く知ることができて、何よりの情報源になっている。
 スポンサーのCMも生活の情報として役立っているのであり、気に入らない番組ならリモコンで違う局にするか電源を落とせば良いのである。
 最近は、歌番組やドラマをまったく観なくなった。興味を持って観ているのは、ドキュメンタリーかバラエティ番組ぐらいである。

ペコちゃん
 昭和34年に、カルピスのように水で薄めて飲む「ハイカップ」という乳酸菌飲料が販売された。
 


 

 その当時、米国アニメの「ポパイ」のスポンサーであった不二家がその人気に乗じて出したものと思われるが、販売を上げるためのキャンペーンも行っていた。



  それは、その王冠を1つ会社に送れば、ペコちゃん若しくはポコちゃんのTシャツが当たるかも知れないというものであった。
 3万名にプレゼントされるということで母親に頼んで送ってもらったが、運良くペコちゃんのTシャツが当たった。


 

 しかし、私が望んだのはポコちゃんの方であったので、仕方なく妹にやった。その後、王冠を数回送ったが、結局、ポコちゃんのTシャツが来ることはなかった。
  グリコのチョコボールの景品に「おしゃべり九官鳥」というのもあった。プラスチックの九官鳥に「しゃべる」機能が付いていて、目新しいこともあり本当に欲しいと思った。箱に付いているハートマークを5枚集めて送ったが、結局当たらなかった。
 

  

 

  もうひとつ同じように応募したものが、森永の「コーラス」という乳酸菌飲料の景品である。回転しながら下で停止するというマジックヨーヨーで、これも残念ながら当たらなかった。
 


 

 同級生の中に運良く当たった人がいて、これ見よがしに実物を学校に持って来て自慢していた。少し悔しかった。